はてなキーワード: 通信制とは
『早生まれの不利は大人になっても続く』という見出しの記事が最近話題になっていた。
高校入試の偏差値や所得にも影響しているという記事で、統計的に3月と4月で偏差値が約4.5違うというものだった。
6歳になりたて、小学1年生の入学時には身長が109センチ。趣味はスーパーファミコンとドラゴンボールZのビデオ視聴。
好きな食べ物は近所のかっぱ寿司で食べるお寿司。おじいちゃんが大好き。
すでに当時、幼稚園に置いてあったひらがなの書き取りが苦手で、勉強するために行く学校に不安を持っていた。
ひらがなの書き取りより一人でスーファミをするか、読めないゲームの取扱説明書を眺めることのほうが好きだった。
小学校へ入学するにあたって、家で何かドリルをやらされたりということはなかった。3つ下の妹が1人。
小学校1年生の2学期後半、もしかしたら自分はやっぱり勉強が嫌いなのかもしれない。と初めてハッキリ感じた。(当時は苦手、というより自分は勉強が嫌いかも。という感覚だった。)
そう感じたのは1年生が使う「さんすうセット」から卒業した時だった。
今まで視覚的にすうじを追っていたのに急に文字になった途端混乱した。1~5までの数字の計算なら頭の中におはじきを思い浮かべその数を数えた。
5以上が出てくると考えるのもしんどくなり、鉛筆が止まるようになった。隣の席の子を気にしながら指折り数えた。
しかし学校の授業は進む。どんどん進んでいく。そのうち先生がクラス内の学力差に気づき、わからない人が居たら遠慮なく声かけてねと言ってくれるようになったが
職員室は入りづらく、先生も大抵居ない。2度ほど先生からクラスの勉強についていけない子達に声をかけて補習が行われたが、自分から声をかけることはほとんどなかった。
当時にしてみれば、先生は忙しそうに見えたので時間を取らせるのもなんだか悪い。とも思っていた。
そんなことを考えるものだから、授業中にわかりません。と言うことはまず無かった。授業中、自分だけわからないことが怖かった。
体育。一番小さいサイズの体操服を着て走り回り、1年生になって初めての健康診断が行われた後、背の順で並ぶと一番前になり、前へならえでは小学校6年間一番前で手を腰に当ててふんぞり返っていた。
夏のプールでは一番浅瀬で泳ぎ、先生達には常について回っていてもらっていた。
学校行事に「持久走大会」というものがあった。1年生は校庭を3周。
今でも当時の録画を見ているかのように覚えてる。150人ほどいる学年でビリだった。
ビリから2番めからも相当離され、残り半周を学年みんなが、そして親御さん達が全力の声援を送る中。
顔と耳を真っ赤にしながら腕をめちゃくちゃに振って走った。親と仲がいいA君のお母さんなんか名前まで叫んじゃって。
恥ずかしかったし悔しかったし辛かった。達成感はほんのちょっぴりで、もう2度とこんなことしたくないと汗まみれになりながら思った。
得意と言える科目も特になく、ぼんやりと授業を受けるようになった。
もうすでに躓いてわからない科目は聞いているだけだったし、授業の後半に配られたプリントは授業中に解き切ることができず提出しそこね、隠すように机の中に仕舞った。
そのうち授業中に提出できないなら無理やりにでも提出すればいいのでは?と
割り算プリントにデタラメな数字を並べて、クラスの賢い子たちと同じくらいのタイミングで先生に見せにいくも怪訝な顔をされ、突き返された。
考えて答えを割り出すことよりも、提出することに拘った結果だった。
小学5年生の頃には科目すべてが苦手に感じて自分は不出来な人なんだなと自覚していた。
国語は漢字の覚えが悪く、社会科も47都道府県がいつまでも覚えられなくて居残りをした。
音楽も練習したつもりだったリコーダーのドレミの歌はクラスで下から数えた方が早かった順位だったし、美術も風景画や人を描くのはまぁまぁできたつもりだが、立体物はからきし苦手だった。
4年生から始めたスイミングスクールの甲斐あって、高学年になったら持久走はなんとかビリから抜け出した。
中学はもうすでに小学校の時点でついていけなくなった学習状況に拍車がかかり、赤点スレスレか、がっつり赤点を取るかだった。
中学には水泳部に所属したが、3年生にもなると後輩にどんどんタイムを抜かされ、結局水泳部の中で一番遅い状態にもなった。
(書くか悩んだが案外いろんな所でやっているようなので)
中学の運動会が自分の生まれた月によって割り振られる、「春夏秋冬組み分け運動会」だった。
1年生の時に割り振られ、中学生活3年間自分は春組として運動会を迎える。
夏組・春組が強く、冬組はここ数年4位から脱却せずにいた。秋組に至っては万年3位だった。
毎年夏組と春組が接戦を繰り返し、最終的に毎年夏組が優勝をさらっていく。
夏組に割り振られた6月生まれはガッツポーズをして喜び、その学年の生まれの割合から冬組に割り振られた10月生まれは先生に詰め寄り、春組に割り振られた人たち同士で3月生まれか4月生まれかの確認しあいっこが始まる。
秋組に割り振られた人たちは特段リアクションは薄かった。
秋組以外は今年こそ妥当夏組・秋組を狙い奮闘し、夏組は連続首位を逃すまいと躍起になっていた。
運動会を開催してみると、やはり夏組が優勝し、春組が悔し涙の2位。涼しい顔で3位を秋組が握り、終わるころにはあきらめムードの冬組がうなだれていた。
中学1年生の運動会を終えて初めて、早生まれや冬組が体力的に劣っていると体感した。
ぼんやりしがちな性格のせいで単に学習についていけないだけかと思っていたが、なるほど、早生まれはこうして遅生まれ、夏生まれとの差ができるのか。と納得したシーンだった。
今から5年前の運動会、実に30年ぶりくらいに冬組が優勝したと聞いたときはもう知っている後輩も居ないようなこの年の運動会の結果を喜んだ。
きっと当時の学生たちはそれはもう喜んだことだと思う(最下位になってしまった秋組には来年がんばれ、と手を合わせた。)
高校は公立高校へ行ったが、やはり勉強についていけなかったのと家計を助けるためアルバイトしつつ、通信制の高校でマイペースにプリントを進め、コツコツとDTPデザインの勉強をした。
高校生にもなるとインターネットはかなり身近になり、勉強がすごく苦手というと、家庭教師を志望しているネットの友人が声をかけて勉強をSkypeしながら見てくれたりと、本当にちょっとづつ勉強を再開したりした。
通信制の高校へ通いだしてからはかなりストレスなく勉強できるようになり、自分の進行度で確実に学ぶことができたのが嬉しかった。
正直今でも変わらないが、答えを導き出すために考えるということがすでに苦手で放棄するようになってしまったのが今となってはもったいないなと思う。
もちろん、小学生当時の私に考え続けるという根性がなかったことも問題の一つだったのかもしれないが、早生まれがどうして不利を背負い続けてしまうのかという話に関しては
適切な学習環境が必要なのではないか、と当事者の自分は思った。
ちなみに、小学校1年、2年生を担当してくれた先生は自分と同じ誕生日の美しい先生だった。
聡明で明るく、朗らかな先生が大好きだったし幼いながらも尊敬していた。
・仮にも「銃で人を撃てる」ゲームなのに
自分が小学生の子を持つ親だったとして、そういう類のゲームは(特に低学年なら)一律禁止したくなっちゃうが...そうでなくてもコンソール版にはCERO Cがついているわけだし。
毎月数GBはあるんじゃないか。固定回線持ってない家庭も増えてるんじゃない? もし通信制限にかかったりしたら一晩放置してもアップデートは終わらないかも。
自分が小学生のころのゲームスキルを考えると、はっきり言ってソロでの勝利は無理。(スクワッドでたまたま強いプレイヤーと組むことができれば不可能ではないと思う)そうやって毎回毎回負けてそのたびに長い長いローディングを経て...というのを考えると、ゲーム起動時間に対するローディング時間の比が多すぎてまともにゲームやってる感覚にはならなそう。
三ギガ以上勝手にバックグラウンドで通信されました。 問い合わせして二週間経ちますが問題解決していません。
このアプリだけで7月3日から7月16日までに4ギガも消費され,通信制限になりました。まだ,月の半ばなのにどうしてくれるんですか。弁償してください。
6末ぐらいから、毎日1GB以上容量使う異常アプリ。電源減るの速いし、通信容量アラートでると思ったら、原因はこのアプリだった。容量追加でカネかかるんだ、弁償しろ。
7月1日から発生していたチェックインサービス不具合の対応完了の周知が7月3日になったのだから、対応は「2スタンプ追加」ではなく「3スタンプ追加」にすべき。7月3日は周知把握後にお店に行けませんでした。ましてや今回の不具合は、 対応端末を Android 5 以上と明記しているにもかかわらず、Android 7 以下でテストしていなかったことがバレバレの恥ずかしいバグなのですから。あと、もしかしたらアプリからの問い合わせはできない仕様に変えましたか? 以前はできたように思いますが、当評価のような意見を伝える方法が見当たりませんでしたので、こちらに書かざるを得ないと判断しました。問い合わせ機能を削除したのでしたら復活して頂くことも要望します。
録音の権限が必要とか意味不明です。危険な匂いがプンプンする。更にチェックインできないしまじムカつく。アホが組んでるアプリぽい。
バックグラウンドで2ギガ近く通信します。07/01の月初に通信制限かかりました。(アプリの不具合らしいですが) 大迷惑です!
https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.daiei.app&showAllReviews=true
すごい
まだ直ってない
大したことは書いてないけど「へーこういう女もいるんだな」って思ってください。
休職中ずっと増田読み漁って色々な考えに触れたので、この記事も誰かの役に立てばいいな、と思います。
クソ長い自語り、家庭環境諸々から書いてみる。ちょっとフェイク入れてるし人名は全部仮名です。
私について
北海道から上京してきた20代前半、上京してきて多分4年。学歴は専門卒、高校は工業出身。今年始めて彼氏が出来た陰キャ。
きしょいオタク、文章書くのは割と好き。漫画とアニメとソシャゲ全部好き。乙女系コンテンツに入り浸る典型的な女ヲタ。
母(7人兄弟の次女:中卒)、弟2人の母子家庭。弟は今21(医療系の大学)、20(専門学校)。父親は小5の時に離婚した。
記憶にないけど死んだ妹がいる(私の1つ下だと思う、親に未だに聞けてない)
両親も親戚もみんなオタク。父親はラムちゃんとアイマス、プロレス。母親は最近イケメンシリーズ、ボイフレ、アンジェと遥か、アトラスゲー。
弟2人はFPSとかモンハン。兄弟二人ともゲーマーガチ。世界ランク上位に入るレベル。一番下は格ゲーとボドゲに目覚めた。
実家は村に近い山奥のドドドドド田舎。同級生に農家と酪農やってる子がいっぱいいる。
育ての親は母親の妹(3女:以下さっちゃん)。母親は働きに出てた。多分パートだったのかな?分からん。
保育園に入ったのが5歳くらいだったんでそれまでは母方の祖母の家に預けられて育った。
イマジナリーフレンドが4人いた(らしい)、よく見えないお友達と遊んで親戚をビビらせた。ごめん。
ちなみにお婆ちゃんは私の見えないお友達を存在しているもの扱いしてたらしい。とんでもねえばあちゃんだ……
物心ついたときには父方の祖母と両親、弟2人と一軒家に引っ越してた。
保育園に入った時にはもう住んでた。この頃から父方のおばあちゃんは長男の弟かわいいで私に対して興味なかった。つーか嫌いだったのかも。
母親は土日関係ないサービス業なので、土日の食事は祖母。弟たちの分はあっても私の分は無いとかザラだった。今思えば普通に虐待。
ただご飯が無くてもゲームと本があれば全然平気だったのでお母さんは私がご飯を食べてないのを知らなかった。
後に私がさっちゃんに「お母さん(これは父方の祖母を指す、実母はママ)がごはんくれない」と遊びに来た時に漏らしたらしい。
当然ながら怒り狂う母とさっちゃん。父方の祖母は「お腹へったって言わないからいらないと思った」としれっとした顔で言ったのを見て目眩がしたらしい。そらそう……。
あとはさっちゃんが当時、父方の祖母の作ったご飯を食べてあまりの味の薄さに「これを毎日食べてて、ごはんも用意してもらえない日がある、食べた気しないんじゃ……」って思ったら私が不憫すぎて車で泣いたと聞いた。
確かに味は薄かった。天ぷらだけはめちゃくちゃ美味しかったな。今狂ったように辛いものとしょっぱいものを食べてるのはその時も反動かもしれない。
全学年2クラス、2年ごとにクラス替えだった。2クラスしかないんで全員顔見知り状態。
入学してからは超絶人見知りを発揮。保育園の頃に仲良くしてくれた子たちとだけ交流してた。毎日連絡帳に口数が少ないとか書かれてた。
家が近所のゆみちゃんと一緒に登下校してた。お互い何も言わなくても一緒に帰る仲だった。今は看護師やってるらしい。
教室でずっと本読んでた。徐々に色んな子と喋れるようになる。ぼっちに話しかけてくれたみほちゃん、ありがとう……
あとは算数が出来なくて宿題解けない……って泣いた記憶がある。ちなみに時計が読めなかった。
3年生ぐらいから普通に社交的になったと思う。クラスの委員長とか誰もやらないなら…でやり始める。この時ちゃお読んでた。
この頃、休み時間は教室以外にも図書室で本を読む女になってた。
同時期ぐらいに父親が仕事をクビになってニートで引きこもりになった。今で言うFXかな?やってたらしい。けど、あんま才能無かったのかも。
ただ、父親なりに色々と私も含めてかわいがってくれてたと思う。漫画とか全部父親が買ってくれてた。
高学年に上がってからは弟2人も一緒に学校に行くようになってたので、周りの親からの評価がめっちゃ高かった。
勉強ができて、運動もできて(足が速いだけ)、面倒見もいい女の子。
実際、3年からは毎回クラスで委員長だったし、同じクラスになったことない子も下の兄弟が同級生同士で仲良し~とかあった。
ちなみにこの頃はちゃおと少年A、ジャンプ、母方の祖母の家でガンガンとGファンタジー読んでた。
ただ両親がしょっちゅう家で喧嘩してた。祖母の部屋は1階、私達の部屋は2階。
多分祖母は病んでたのか、深夜に父親の部屋の前で名前を呼んでいるのを見た。めちゃくちゃ怖くて夜中トイレ行けなくなった。
祖母の私と弟への差別は益々酷くなっていて、私の家で友達と遊んでる時に「ごはんの準備しろ」「洗濯干してこい」とか言うようになる。
弟がなにか手伝おうものなら「あんたは長男だからしなくていい」って言ったの聞いてなんで?と思ったけど、弟に手伝わせるのも可哀想だなと思って大丈夫って言ってた。
小5の夏、庭で土いじりしてる祖母に「倉庫からスコップ持ってきて(でかいやつ)」と言われてめんどくさいな~って思いながら取りに行った。
祖母に渡すために後ろに立った時、(あ、これ今殴れるな……殺してもいいんじゃない?)って思った。今思えばこの時には既に私ももう心を病んでいたのかもしれん。
その後、親が離婚して一軒家から団地に引っ越した。離婚後父親には一度も会ったことない。ただ、車で事故って半身不随になったのは聞いた。
これは高校に入ってから母親に聞いたけど、あの頃の祖母は枕の下に包丁を入れて寝てたらしい。こえーよ。病むっていうかキチだと思う。
母親はいつ祖母に殺されるか分からなくて毎日不眠の状態で仕事に行ってたらしい。それでも授業参観も運動会も学芸会も絶対全部来てくれた。
田舎あるある。小学校から生徒が全員持ち上がりなので知らない子はいない。お母さんがパソコン買ってくれたのもこの時じゃなかろうか。
半年間は平和だった。でも、中1の秋頃から毎日登下校をともにした仲良しのゆみちゃんがいじめを受け始める。
ゆみちゃんが堀北真希に似てる超絶美少女で、当時仲の良い男の子に数合わせでいいから、という理由で野球部に所属していた。私はゆみちゃんに「1人じゃ不安だから……」と頼まれて野球部に入った。
まあよくある、男の集団に女がいるの気に入らないムキーッみたいなのが原因だったんだと思う。いじめてたのは女バスと女バドの5、6人。
私はゆみちゃんがいじめを受けてるのも知ってた上で普通に仲良くしてた。ゆみちゃんの家も母子家庭で、当時は母親が家に彼氏を連れ込んで家に居にくいからってよく私の家で過ごしてた。
彼女の凄いところは毎日学校に行ってたところだと思う。私に泣きながら「リスカが止まらない」と相談してくれたこと、リスカ跡は今でも忘れない。
結局、ゆみちゃんは2年に上がるタイミングで転校した。その結果どうなったか。
私がいじめを受け始める。いやなんでだよ。私は当時160cm80kgのデブだぞ。何が気に食わねえんだよ。と思ったけどいじめる相手が居なくなったから仲良かった私になった。
ただ、いじめられてることに気付いたのがゆみちゃんが転校してから2ヶ月後くらいだった。私は超鈍かった。周りは気付いてるけど自分だけ気付いてなかった。
なんでか自分のノートがないとか、教科書がないとか、下駄箱の上靴がないとか。そういう事が起こってから気付いた。
当時から仲良かった子に「あの頃めっちゃ陰口言われてたし、あんたと話したら次お前をいじめるとか言われたことあるで」って言われた。
そういえば当時はいじめを題材にしたドラマ流行ってたし、あれはいじめのお手本になってたなと思う。本当によくない。
中2の夏ぐらいだったかな。衣替えするかしないか、とかだった気もするから9月ぐらいかも。半年くらい我慢して学校に通ってた。
私は学校に行くのやめた。というか、行けなくなった、のほうが正しいかもしれない。制服を見ると気持ち悪くなって泣きそうになった。
休みたかったけど、母親は私が生理痛で辛い、と言えば痛み止め飲んででも学校に行け、サボるなと言う人だった。休むことはサボりだと言う人だった。
それでも母親には迷惑かけたくない、という一心で吐きそうになりながら学校に行くフリをしながらおばあちゃんの家に行った。
おばあちゃんは何も言わなかったし、おばあちゃんちの犬と遊ぶのが好きだった。おばあちゃんの膝が悪いから代わりに散歩に行ったのも覚えてる。
ただ、学校の担任から「1週間ほど無断欠席が続いてるが大丈夫か」という連絡が家に入りバレてめちゃくちゃ怒られる。怒られた時に初めていじめられてると言えた。
母親はその日のうちに学校に電話をして、学校側もいじめを知ってたけど本人が言わないから、とかそういう理由で何もしてなかったらしい。
後日、私は学校に行っていじめてきた女たちから「形だけのごめんなさい」を受ける。クソ無意味。謝られたからと言って事実は消えないわけだし。
どのみち私は学校に行っても教室に入れなかったし、教室に入れないなら授業も受けられない。だったら行く意味が無いな、と思って家に引きこもるようになる。
家に引きこもってる間も勉強は出来た。そう、みんな大好きTwitterです。当時高校生だったり大学生だったフォロワーたちが勉強を教えてくれた。スカイプ使って。
ネットが私の居場所だった。勉強ってどこでも出来るんだ、って思った。
そのフォロワーたちもいじめを経験した人たちで、私の学校に行けない、けど勉強はしたい、という気持ちに寄り添ってくれて教えてくれた。本当に頭が上がらない。
なので、テストがある日だけ学校に行った。テストは出席番号順で座るし、いじめっ子たちと真逆の席なのでその時だけは制服着て教室に入った。
クラスメイトたちは「久しぶり!」とか「テスト範囲大丈夫?」とか声かけてくれる子も結構居た。あの子達の勇気は今思うと凄い。
修学旅行は行ってない。何されるかわからないし。代わりに学校で先生とマンツーマンで勉強した。凄い有意義な時間の使い方だったなと思う。
卒業までテスト期間だけ登校する生徒をやった。家の近い子がテスト範囲のプリントを持ってきてくれたし、フォロワーたちが勉強を教えてくれる日々が続いた。
高校は女で嫌な思いをしたので男子の比率が高いし、比較的家から近い方(といってもバスで1時間)の工業を選んだ。仮に落ちたら通信制の高校へ行く気でいた。
卒業式も出ていない。式が終わった次の日が高校の合格発表で、無事に工業に受かったという報告と卒業証書とアルバムをそこでもらった。アルバムはその日のうちに捨てたけどな。
ぶっちゃけ担任がクソゴミだった。生徒の机を蹴って見せしめみたいに怒鳴り散らすタイプ。体罰も普通にあったし、クラスメイトの男子は教室内でデカデカと万引を自慢するようなクラスだった。
担任はそれに対してもっとバレないようにやれとか、スリのほうが良いとか、教育者としてありえんことを言ってるのにドン引きして学校に行く気が失せた。
ラッキーなことに全日制の単位制だったので単位さえあれば進級できた。単位の計算をして、単位分だけ出席した。常にギリギリ単位の女で普通科の先生に「お前は出席点が足りない」と言われまくった。
後々、クラスの男子に教科の単位を聞かれた。私と同じように単位分しか出席しない人が増えたらしい。毎日の出席率は最悪だったと思う。まあ工業だしな。
担任は露骨にわたしを毛嫌いしてたし、私も嫌いだったのでお互い様だろと思ってた。高校でちゃんと授業に出たのは専門科目だけ。これだけは教科書読んでもどうにもならん。あとは実習。
他は中学の時と同じようにフォロワーを頼ったり、ネットで検索したら大体答えの出し方があったので家で勉強してた。親は私が家に居ても何も言わなくなった。
学祭とか体育祭は出たことがない。強いて言うなら修学旅行が東京だったので行った。お世話になったフォロワーたちに会いに行くという理由で。クラスの女子は私含め7人で、うち1人は中学が一緒。
その子と出席番号が前後だったジャニヲタのまなみちゃんと仲が良かった。ちなみにまなみちゃんは「まなみね、山田涼介くんのお嫁さんになるの!」と平然と教室でも言ってた強い女である。マジで強い。
ここまで書いてて思うけど本当に協調性のきの字もない女だな……。ちなみに進路相談も凄い適当で、適当にAOで専門行くわ、と一方的に言って終わり。AO入試なんて軽い面談と書類審査のみ。私は高3の夏休み中に進路が決まった。
この頃にハマってたのは黒子のバスケで私はほぼ毎日夢小説を書いて過ごしてた。あと支部でBLも書いてた。当時黄黒を読んでた人はもしかしたら私の黄黒も読んだかもしれない。読んでくれた人が居たらありがとう。
適当に単位取って適当に卒業した。これが私の高校時代の思い出である。
専門学校は今までと比べたら楽しかった。ここでいろんな資格も取ったし、クラスメイトも普通に接してくれてた。唯一毎日学校に行けた時期だったと思う。ただ行事だけはゴミ。
ここで就活頑張っとけばよかったんだよな~~~と思う。就活サボって適当に警備会社に入社した。そしてこの後、地獄を見る。
前置きすると私より辛い人もいるとかそういうのはどうでもいい。私は私の辛いを話してるので。
上京してから半年、横浜で警備員をやってた。この半年はまだ良かった。残りの1年半は川崎で地獄を見る。
警備は万年人手不足で月の休みは多くて4日、私が限界を迎える頃は3日だった。勤務時間は朝6時半~16時半の早番と13時半~23時半の遅番。あとは9時~22時までの中番。
入社時の条件は月8休みと言われてたのにマジで騙されたと思ってる。入社して半年は確かに8日間の休みがあった。でもその後から毎月3、4日の休み。
休みの前日は絶対に夜間警備が入るため、帰宅は朝5時。当然、遅番か中番が終わった後に続勤。休みは実質半日しかない。寝て起きたら仕事に行く。
休めるわけねーだろバーーーーーーーーーーーーカ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
そりゃあ毎日寝ても寝ても眠いし、突然気分が落ち込むし、情緒があまりにも不安定にもなる。思えばもうこの時にはうつだったんじゃなかろうか。
心がしんどい……となり始めた頃、母親に「しごとつらい」といえば「社会なんてそんなもんだよ笑」と返ってきた。そして根拠のない「大丈夫!」「なんとかなるよ!」という返事。
私もそうだよね、なんとかなるよね、頑張るね、って返してた。これは絶対に良くなかったと思う。
そしてある日、体のほうが出社を拒否した。会社に行こうと思うのに涙が止まらない。手が震える。こりゃ今日出勤出来ねーわ、と思って職場に電話を掛ければ「いや来てもらわなきゃ困る」。あっはい……。
無理に決まってんだろ、そう思いながら電話を切って母親に電話した。泣きながら電話した母は、「偉い人に電話しなさい」と教えてくれて、私は本社に連絡を入れた。
元々寮で暮らしてたこともあり、総務のとよく話をする事があったのでまずは総務に事情を説明、そのまま直で警務部長から「休んで下さい」と言われた。
その時に初めてメンタル系の医者に行ったけど、まるで私がメンタル系にかかるの常習みたいな態度を取られるしいかに自分が凄い医者なのかを言われた。あのクソジジイ一生許さねえ。
通信制だが時には通学も必要で、地方から東京にわざわざ数日間通った。
当時ホテルの相場や東京の地理がわからなかった僕は、五反田の安ホテルに泊まった。
これはダウンタウンの松ちゃんが結婚した時の浜ちゃんのコメントで知っていた。
そしてこう思った。
せっかく一人で風俗街に泊まっているんだ。
直接店に行くのは怖かった。
王将でご飯を食べ、普段あまり飲まないビールを飲み、景気をつける。
思っていたよりずっと丁寧な対応。
思っていたよりずっと親身な対応。
確か指名なしでお願いをした。
今泊まってるホテルは門限ありの上、密会厳禁らしく、わざわざラブホテルを利用する。
お金が足りなかった。
焦ってコンビニへ走る。
幸いATMはまだやっていた。
本当にありがたい。
無敵感が凄かった。
そして、AVでしかみたことのないバスタブとガラス張りの浴室(後にこのホテルの設備がやたら良かったことを知る)、豪華なアメニティ。
ラブホテルってすげえ。
20分くらい待っただろうか。
嬢がやってきた。
だから僕は期待していなかった。
どんな太ったおばさんが来ても受け入れるつもりだった。
それくらいムラムラしていた。
でも、そこに現れたのは。
顔が地元で出会ったどんな人より綺麗。茶髪ボブが良く似合う。パーツが小さい。
背は160cmとドストライクで最高。
目が合うと笑ってしまう。
いっしょにシャワーを浴びた。
こんな綺麗な女性の手が僕の身体を、あそこを泡をつけて触っている。
そんな事実が信じられなかった。
そして身体を拭き拭きしてもらい、ベッドへ。
お姉さんはベビードールとトップレス、どっちが良いか聞いてくれた。
僕は半分遠慮してベビードールにした。
この店は今も贔屓にしてるが、この時以外ベビードールなんて提案されたことがない。
今思えばGJであった。
いよいよマッサージ。
それだけで僕はビクビク感じてしまう。
擦れるお姉さんの髪の毛もくすぐったくてたまらない。
お姉さんの細くて白くて綺麗な太腿に顔を埋めマッサージを受けたり、四つん這いにされ秘部をいじられたり。
それが終わって仰向け。
頭の中がはじけた。
こんな気持ち良いことがこの世にあるのか。
そう思った。
そして乳首舐め手コキで締め。
おさわりもキスもしなかったけど、それでも僕は幸福感で満たされていた。
帰りのエレベーター、遠慮してお姉さんと距離をとっていると、お姉さんから強引に手を繋いでくれた。
あぁ…こんなん彼女やん…お姉さん大好き。
多分ギリ年下かもしれないけど。
こうして初めての風俗は大満足の結果で終わり、ホテルの門限ギリギリになった僕は、急いで五反田を駆け抜けた。
泊まったホテルの受付の怖いあんちゃん店員も、この時だけは可愛い子供に見えた。
その一月後。
デリヘルに味をしめた僕は地元の繁華街に宿泊した際、デリヘルを呼ぶことにした。
そして部屋に現れたのは…
風俗は都会で遊ぼう。
ちゃんと高い店行こう。
ずっと三浦春馬さんを応援してきた一人のファンとして、三浦さんが亡くなったショックは本当に大きい。
私は三浦さんと同い年で、初めて『キャッチアウェーブ』という映画で三浦さんを知った時からずっと応援していた。
熱烈なファンの方からすれば、かなりゆるい分類のファンになると思うけれど、私の可能な範囲で応援をしていた。
なかなか気持ちの整理がつかず、やめておこうとは思いつつも、無意識に幾つかの関連記事とはてブでの他の方のコメントなどを読んでいた。
そんな中、
https://news.yahoo.co.jp/articles/08dbce09c714f156828b07f2257e89fa170ae2c8?page=1
上記の記事に対してaceraceaeさんという方が下記のコメントをし星も沢山ついていたけれど、
https://b.hatena.ne.jp/entry/4688706332008341410/comment/aceraceae
私はツイッターもフォローしていたのでその時もリアルタイムで見ていたが、あの炎上は元々「国力」に反応した人よりも三浦さんが東出さんを擁護していると考えた人によるリプによる炎上が圧倒的だった。
確かに「国力」に反応し酷いリプを飛ばしていた人もいたが、寧ろ「国力」に関しては、それをピックアップしタイトルなどで煽り焚き付けたサイトなどの影響が大きかった。
このコメントに違和感を感じaceraceaeさんの事はよく知らなかったので氏の過去のブコメとタグを拝見した。
などのタグは大量にあり、「はてサ」に関しては300近いタグ付けしたコメントをしている。
勿論、内容は批判や罵倒する内容、党に関するコメントも批判ばかりだった。
その反面
などのタグは皆無。「自民党」はタグがあったが10数個の関連付けのみで、内容も擁護や自民を批判する側を批判する内容ばかりだった。
その上で再度、氏の「ちょっとした言葉遣いひとつですぐにネトウヨ認定する人達って存在するしそういう人達ってやたら攻撃的だからね。ちょっとした言葉遣いひとつですぐにネトウヨ認定する人達って存在するしそういう人達ってやたら攻撃的だからね」というコメントを三浦さんの死に絡めている姿は本当に残念でならない。
前述したようにあの炎上はどちらかというと東出さん擁護への批判や疑問からであったし、記事の内容も「国力」に関して分量は極わずかだ。
それにもかかわらず、aceraceaeさんはそこのみを取り上げ、自分の主義主張のため、「ネトウヨ認定する人(サヨク)」を叩くために三浦さんの死を利用する事に深い憤りを感じる。
少し前の木村花さんの死もあり、芸能人へのいわれなき誹謗中傷への警鐘として一見するとまともな意見のように読めるし、それは正しい。
しかし、その裏に見える自分は他の人へ同じことをやっているのに無自覚、または自覚していても、棚に上げて人を攻撃する姿勢は酷い。
aceraceaeさんは他のコメントで三浦さんの死を悼んでいるし、それ自体は嘘ではないと思う。
しかし、「ちょっとした言葉遣いひとつですぐにネトウヨ認定する人達って存在するしそういう人達ってやたら攻撃的だからね。ちょっとした言葉遣いひとつですぐにネトウヨ認定する人達って存在するしそういう人達ってやたら攻撃的だからね」は明らかに三浦さんの死を利用した。
aceraceaeさんの過去のコメントからはちょっとした言葉遣いで、簡単にサヨクやはてサ認定し攻撃しているがそれは良いのだろうか?
もしSNSなどでの過激な言葉での攻撃が彼の死に少しでも関係していると思ってい(思っていなければわざわざそのようなコメントはしないと思う)、彼の死を悼むのならばaceraceaeさんは自分の過去のコメントをもう一度読み返し、自分の攻撃性に自覚的になるべきだろう。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4688706332008341410/comment/lady_joker
には本当にその通りだと思うと共に、休校が解除されたあと学生の方が拳銃で自ら命を絶った事を思い出す。
その際に、名前を忘れてしまったがブコメで多くの星を獲得していた方のコメントがあった。
みたいな内容だったと思う。
休校明け、元々彼が不登校で今は不登校の子向けの通信制学校い通ってる事からそう考えたのかもしれないけれど、あまりにも安易に人の死の理由を決めつける人たちにはおかしいとさえ感じた。
それがどの程度彼の死に関わっていたかは分からないし、他のあまたある要因や複合的な要素の結果、本当に学校が嫌という理由だけで亡くなったのかもしれない。
ただ、それを学校へ行く事が嫌で亡くなったと決めつけるコメントと星をつける人の多さに落胆する。
lady_jokerさんのコメントの通り、わかりやすいストーリーに落とし込むのは良くないと思う。
だが、lady_jokerさんのコメントにも星をつける反面、「死を選ぶくらいなら、無理に学校行く必要はないよ」へにも星をつけたり同じような決めつけをしている見覚えのあるブッマーカーが何人かいて、なんとも言えない気持ちになる。
しかし私自身も無意識に関連記事を読み、心のどこかで彼の死の理由を知りたいと考え、ストーリーを組みあげ彼の死を納得できるものにしたいと考えている自分にも気づく。
30代半ばちょい過ぎの会社員です。
今朝もそうだったんだけど、もう20年近くずっと前から同じような夢を見続けています。
もう20年ぐらい前なんだけど、家庭の経済的事情により大学へ進学したものの、すぐに中退をせざるを得ない状況でした。
結局、大学に進学したものの3ヶ月だけ通って夏季休暇のタイミングから休学して一人で就職活動をしたり、公務員試験を受けてみたりで、冬になって正社員としてIT関係の会社に入社しました。
もう20年ぐらい不定期に「大学に行きたかった」という夢を見て、その度に夢の中で泣いてる。
色んな事情が重なって大学に行くことが出来なくて、通信も考えたけど継続できるかどうかという点で不安であったり、悶々としてたら20年経ったいまでも未だにそんな夢を見る。
今、通信制の大学の学費ぐらい払えるようにはなったけど、きっと違うんだろうなと思う。
18歳で周りと同じように大学に行って、そういう青春であったり、時間を過ごしたかったんだろうなと。
でもそれはもうどうしようもないし、取り返しがつかないものだと思うので、時々通信制の大学の募集要項を見たりしてる。
通信制の大学で勉強してみて、何年かかかっても卒業出来たとしたら、今朝のような「大学に行きたかった」と涙を流す夢は見なくなるのだろうか。
仲の良い家族。ドラマやアニメなんかではよく見るし、私の友人にもいる。
お互いを尊重して、助け合う家族とか。何かがあった時、真っ先に頼ってしまう両親、兄、姉、とか。趣味を共有し合えるとか。
「親に心配かけたくない」、「お母さん/お父さんのために」、とかの言葉とか。
全部羨ましい。
尊重なんてしたことないし、家族の誰かを助けようと思ったこともない。家族は一番頼りたくない存在だし、親孝行も一生しない。私の趣味はきっと一生好きになってもらえない。
ひどい子どもだな、と思う。
でも仕方ないじゃん。姉と兄はともかく、両親のことはどうしたって好きになれない。特に、母。
父も好きではない。傲慢すぎるし、人を見下してるし。でも、母はよりはマシ。
母。
私や兄に対して、絶対に嫌な思いをする言葉を言ってくる。言ってくるというか、他の人と話してる中で混ぜてくる。本人が聞いている前で悪口みたいな感じ。
兄には、第一志望に受かったことがないこと、浪人したこととか。
私には、私の趣味を気持ち悪いと言ったり、私の友人を侮辱したり、姉や兄と比較した言葉を言ったりする。
私はアニメや漫画が好きだし、それなりにグッズを買ったりもする。ミュージカルなどの舞台作品もよく見に行く。いわゆるオタクだ。
でも、母はオタクという存在が嫌いで、私がオタクであることを変とか、あり得ないとか言う。
アニメや漫画も変、グッズも変、変な劇、変な俳優、変、変……。「変なものにばっかりお金使って」、よく言われる。
勝手に捨てたり買うなと制限したりはしないものの、かなり否定的だ。
母曰く、「私はあんたの趣味を否定してはないでしょ。否定したみたいに言うのやめてくれる?」
自分の好きなものを変とか気持ち悪いって言われるの、けっこう辛い。
私の友人には、偏差値が高くない学校に通う人、高卒の人、鬱病で通信制の学校に通う人、学校をやめてしまった人など、母にとって『素敵じゃない』人がたくさんいる。
母は学歴主義で、中卒や高卒は論外、偏差値が低い学校に通う人は見下し、鬱などの精神的な病にかかった人のことは理解できない。
だから、私の友人の一人の、「偏差値の違う複数の大学に受かっていたが、学びたいことを学ぶのに最適な環境を考えて、結果的に偏差値が低い学校を選んだ」人のことを、あり得ないと言う。高学歴じゃなきゃ社会で戦えない、らしい。
「鬱病になり、学校に通えなくなってしまった」人のことを、本人も家族も甘いのよ、と言う。
目つむってても受かると思っていた大学に受からなかったというコンプレックスがそう思わせているのかもしれない。本人が精神的に病んだことがないからそう言うのかもしれない。
でも、私の友人なんですけど。
私は広い交友関係は作れない。でも、少ない友人たちと長く付き合っていて、保育園の頃からの人だっている。
尊敬できるところが必ず一つはある、大好きな人しかいない。見た目や、学歴、病気で変わってしまうような好意は抱いていない。
もし大学名を言ったら、大好きな友人は、母によってけなされるかもしれないから。
持病を抱えた人のことも言いたくない。
私の友人の話をしたくない。
母と会話したくないから、お腹いっぱいじゃなくても夕飯の席から逃げている。
「姉/兄/私(母自身のこと)はこんなことしなかったよ。」
「私が若い頃はこんなこと当たり前のようにやってたよ。」
私は母でも、姉でも、兄でもない。
頭ごなしにあんたには無理、とかもよく言われる。
母は自身のことを偏見はないし差別もしない、って言うけど、偏見だらけ。
だから、何か言われても戦えなくなった。
戦おうとしたら、たぶん泣いてしまうし。否定的な言葉を吐くのはすごく苦手で、心がぐっと重くなるから、あんまりしたくないし。
友人たちに申し訳ないな。
母の嫌いなところは、いくらでも出てくる。
好きなところは……思いつかない。
最近母が、父のことで私を逃げ場にしている。
それが、本当に嫌で仕方がない。
父との喧嘩は増えたし、リビングから泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
私に優しい言葉をかけてほしいのか、ただ父から離れたいのか、わからないけど。
私は母にどうしたって優しい言葉はかけられない。
私の趣味も、友人も否定して、私を否定するような言葉を幼い頃から何度も言ってきた人のこと、どうやったら慰めようと思えますか?
客観的に見れば私が悪いところはたくさんある。それは理解してる。
昨晩ダイエーアプリを更新したら1日で0.5GBも通信してて呆れた
バックグラウンドで2ギガ近く通信します。07/01の月初に通信制限かかりました。(アプリの不具合らしいですが) 大迷惑です!
期待を裏切らず、ゴミアプリのままです。 チェックインの最終段階でエラー再起動のループ。 軽量化すべき。
https://play.google.com/store/apps/details?id=jp.co.daiei.app&hl=ja&showAllReviews=true
一日なのに通信制限通知が来た。
ダイエーのアプリが1.7ギガ通信して、もうすぐ通信制限かかってしまう。どーすんのこれ?— はっぱ (@leaf4852) July 1, 2020
ダイエーのアプリ、アンインストールした。何にアクセスしていたのか超不安だし、今月のギガどうしよう、、まだ一日だぞ。
今日一日熱いなとは思っていたけど、そりゃないよ— はっぱ (@leaf4852) July 1, 2020
自分が0.5GBのパケ死で済んだのはクソ重いLINEモバイル回線だったからですね
よかった
振り返ると安定して早いネット環境がある場所に定住していた記憶がほとんどない。
10年ほど前、実家に住んでいたときにネットはあり、初めてパソコンを買ったがバナナマンのPodcastを聞きながらひたすらマインスイーパーをやるくらいしかパソコンを使っていなかった。
この時が唯一速めのネットがあった時かもしれない。
実家を出て地元でひとり暮らしを始めたが、ポケットWi-Fiを使っていた。
田舎なので遅かった。(色々な理由で家にネットを引けなかった)
上京して住み始めたシェアハウスはネットは引いてあるがとてもスピードが遅かった。
そのシェアハウスを出て友人宅に泊めてもらったことはあるが、彼の家もポケットWi-Fiだった。
それから東京でひとり暮らしを始めたが、またポケットWi-Fiを選んでしまった。
Nuro光に憧れたが、工事に2ヶ月ほどかかるといわれ我慢できずにポケットWi-Fiを契約してしまった。
毎日のように通信制限がかかり、契約してから今日まで、ポケットWi-Fiにしてよかった。と思った日はほとんどない。
外にも持ち出したりしないし、ポケットWi-Fiである必要がない。
この3年の間に何度も家にネットを引こうかと思ったが、いつも引っ越しをしたいと思っていたので結局行動に移せなかった。
ずっと早いネットに憧れている。
どうせすぐ通信制限かかって使い物にならなくなるんだろ。
俺はそもそもが通信制高校で働きながら卒業したから、テレワークというか自宅で学習するのが当たり前だった訳よ。
そんな俺からすると学校休みで遠隔授業だ、いやできない、とかそんな感覚に違和感覚えるんだよね。
特に違和感があるのが、私立の学校はWeb教育とか出来るけど、公立の底辺学校では無理、みたいな言説。
それを言ったら通信制なんて底辺も底辺、そもそも受験なんて無いし、中退したような奴がゴロゴロいたんだぜ。金もないから働きながらなんてのは普通。
いや、その基準に合わせろとか言うんじゃねえんだよ。そっちのノウハウ使えば良いんじゃ無いのって思うんだよ。
俺の時代の通信制だとレポートって言う紙の問題プリントがあって、年初にそれを丸ごと渡されて1枚ずつ解いていく。
教科書の他に、普通の学校なら先生が話をする部分をフォローした「学習書」って専用の補助教材が配られてそれも見ながらやるの。
で、週一で登校日があって、スクーリングやるの。登校日は日曜日と月曜日で全く同じ時間割、同じ授業が行われるので、こちらの都合でどちらを選んでもOK。
これを今の状況に当てはめるなら、学習書をそのまま流用して配っちゃだめなの?
当時(もう10年以上前)は完全に郵送でやりとりしてたけど、今時だったらWebでもフォローできるだろうし、そういうことやっちゃだめなん?
これらの教材は通信制高校の先生たちがワークグループ作って共同で作ってるらしいんだけど、他の学校も参加して似たような枠組み作ってやればいいじゃない。なんで全部自前で用意するような話になってるのかなあ。
授業もさ、登校日を半分とか1/3とかにして、複数日同じ授業やればいいじゃん。
後は私立の通信制は他にも色々やってるらしいんで、そういう所から教育システム買ってもいいと思うよ。
とにかくさ、そういう風にできないのかな。
まぁ小学校とかがつらいのはわかる。
先着300万人1年無料だとか、通信制限なしで2980円/国内通話無料とか、異常に安くて、なんで安いのとかでググったけど、
アフィサイト(MNPのやり方教えてる系)のサイトばっかり出てきて、なんか技術情報全然出てこなくてうざいな〜って思ったので、ここにヒントを書いておく。
Google様が馬鹿じゃなければ、安い理由とかでぐぐるとこのページがヒットするだろう。
結局は「完全仮想化新世代ネットワーク」とやらを使ってるらしい。だからなんで安いねんって理由はまぁわからんけども。
汎用ハードウェアってのがよくわからんけど。というか既存の通信回線機器がどういったものかも知らん。
その辺りのPCで動くってことでいいんすかね。
https://network.mobile.rakuten.co.jp/area/cloud-network/
この仮想化ネットワークが、一時期総務省に怒られたりしていた例、通信基地局ってやつだと思われる。
https://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/1908/26/news122.html
ソフト対策だけで5G対応するって言ってるけど、そんなこと可能なのなのかね。5Gは指向性の高い高周波使ってたから既存のアンテナとかの設備じゃ動かないって認識なんだけど。
詳しい人教えて
一昨年親から逃げた。
大学を中退して大阪へ引越し、住所を隠し、アルバイトをして生活した。
親もきょうだいも親戚も、みーんな連絡先は消した。
去年体を壊した。
仕事をやめて2ヶ月かけて貯金を食いつぶしながら次の仕事を見つけた。
平々凡々な人生ではあるけど人並みに苦労をしてきたと思う。
ただ、この頃やりたいと思っていたこと、達成したかったことが少しずつできるようになった。
大好きな友達が結婚して、ささやかながらお祝いをすることができた。
実名を変える手続きをして呪われた(と自分が感じている)名前を捨てることができた。
正社員になれた。
でもなんでかわかんないけど手放しで喜べない。
幸せなんて一瞬で崩れる。喜んで気を緩めるとすぐまた転落する。
昔は頑丈だった体が20代とは思えないくらい弱っちくなって、他の人が窮地に陥ったときに頼れるような家族もいない。
大阪では人間関係に恵まれたおかげで喜びを共有出来る人はたくさんできた。
とても幸せだ。
ただ、それを手放しで喜ぶことは許されない。
高校で県内随一の進学校入れたけどドロップアウトしてひきこもった。でも通信制の高3の春から勉強ガチって早稲田に合格出来た。今は東大で研究者の卵だ(孵るかは知らない)。
少なくとも、中学受験までに積み上げてきたことは絶対に生きるから、まずは1年間死ぬ気で勉強してみよう。独学じゃなくて、ちゃんとチュータリングしてくれる人をつけよう。自己陶酔ではない勉強をしよう。スマホがなくても、増田がなくても勉強はできる。
研究者を目指すなら、できれば学部から自分のやりたい分野のトップを走ってる国立大学に行くことが望ましい(学修環境や教員の配置的に)けど、別に外部からの修士入学も普通にあるから安心しろ。特に東大は文理を問わずにその傾向がある。
私はお前を知らないけど、すっげえ応援してる。理由は私にもよくわからん。でも、大学受験までの挫折なんか、きっと乗り越えればどうってことなくなるから(この言い方は受験を終えたばかりの現役生には辛いと思うけど)、頑張れ。とにかく頑張れ。
具体的なアドバイスが出来なくてごめんな。