はてなキーワード: 歴史的とは
先進国ってのは、たまたま歴史的な理由、経済的な理由その他で先進国とやらの地位にいるというだけの話だからな。
出羽守系ネトふぇみが「欧米先進国では決して許されない!」みたいな想像上の欧米先進国像を棍棒にしてぶん殴ってただけで、実際そんな夢の国は無かったんだよ。
海運の現場において重要な役割を果たすスキルに専門性をお持ちの方にとって法や政策の問題が専門外なのは仕方ないけど、ちょっと問題が多すぎる。
検査を強制することはできないという結論は正しいものの、legally-binding とはいえ、IHR(とその国内法化)に直接根拠を求めるのは不適。陸で強制的な検査ができないのと同じこと。
自発的な協力を引き出すことに加え、間接強制も、事前の法整備があればおそらくは可能。
旗国主義は歴史的な経緯に基づくもので、かつては実際に「海に浮かぶ領土」として解されたが、現在ではむしろ運航の便宜のための制度として位置づけるのが通説。
内水 internal waters とは、領土の基準線以内にある水域のことで、港の工作物も領土とみなす。すなわち、港は内水となる。
UNCLOS では内水は旗国主義の例外であり、旗国 Flag States ではなく沿岸国 Coastal States の法的管轄に属す。
ただし、船員 crew については、内水においても旗国の法的管轄となる。その意味で「治外法権」と表現されることはある。
入港拒否を基礎づける法的根拠はない(むしろ、相互主義のもと、救助についてはすべての国の義務とされている)。
ただし、現実的な理由から受け入れを拒否することはありえる。グアムのような飛び地であったり、自国の医療も整備されていない発展途上国では、受け入れたところで医療リソースが足りない蓋然性が高いことから、拒否が乗員乗客の利益になりうる。
ダイヤモンド・プリンセス号の旗国はイギリス、母港はロンドンであり、そこへ行くことも不可能。
主権の発動として任意に入港を拒否することは依然として可能ながら、海事であれそれ以外であれ相互主義の上に立つものであることを忘れていはいけない。
ましてやダイヤモンド・プリンセス号は横浜を発って横浜へ戻るはずの船だった。中国を除けばアジア最大の先進国である日本が入港を拒否すれば、対日世論に与える影響は計り知れない。
ちなみにウェステルダム号は香港発であり、おそらく(当時陽性反応が出ていなかった)船の側の判断で香港へ引き返すことを避けたものと思われる。日本政府はウェステルダムが香港に戻ることを前提としていたと報じられている。ダイヤモンド・プリンセスの受入とウェステルダムの拒否という二つの判断は矛盾しておらず、むしろ一貫している。
「水際」というのは単に日本特有の慣用表現・言い回しであって、なにか「水」の「際」であることを必要とする根拠があるわけではない。
「水際」を border の意味としても、どれだけ対策を強化しても感染症をそこで止めることは不可能というのが常識であって、市中へ拡散した後の抑え込みと一体的に取り組む必要があるというのが専門家が述べているところである。
https://anond.hatelabo.jp/20200217175118
読んでいて言っている事も理解できるけど、歴史的に言えば、右も左も規制を進めていたシーソーゲームな部分はあるので、左翼のイシューと言うのは少し違うと思うね。
それこそここで左翼が反対派だった当時の児童ポルノ禁止法辺りの時代を見ても民主にも小宮山元議員等の規制を推進する側の議員もいたわけだしね。
逆に当時、与党で規制を進める側だった自民でも早川元議員の様な慎重派もいたわけだしね。
だからこそ昨今ではオタクは政党で見ずに議員や候補単位で投票するか否か見る様になった経緯があるのだけど。
ただ児童ポルノ禁止法に創作物を盛り込む事を反対しておきながら、赤旗に金尻カズナ氏を出して規制を推進する記事を出したり、同党の候補が児童ポルノを理由に創作物規制を主張したりした例から共産党自体の信用性が完全になくなった事例もあるわけだけどね。
今回のJAの一件に関しても立憲は大河原まさこ議員が同党の規制に反対する地方議員に一方的な発言で圧力をかけたり、別の映画の件で石川大我議員が公開を止めさせる様な行動に出た事を問題視され始め出したので、対応を間違えると今後共産党に様にこの表現や言論の自由の問題については政党単位で信用自体を無くす事に繋がりかねない所まで来ているとは見ていて思う所。
何にしても当時言われていたオタクが票にならないと言う話をしばき隊以降の野党の対応や昨今の騒動を見ていて、与党のみならず野党側もその様な意識だったのだろうと言うのは如実に感じ取れるし、その経緯から多くのオタクや表現規制に懸念をする人が山田太郎議員に流れたのも事実なので、野党に関していえば、その一件では一切同情の余地もないと思うし、事実オタク側は当時の経緯から裏切りを受けたも同然なので、憎んでいる方すらいるのも当然ではあると考えるよ。
ただそのオタクと一緒に後から山田太郎議員を担いだ漫画家共が著作権において増長し、全く関係ない第三者であるインターネットユーザーまで規制をしだしたのはある意味フェミニストと同じ過ちを繰り返しているとしか思えないので皮肉だなと思う。
どんな人物や団体であろうとどんなに耳障りが良い言葉でも詭弁による規制はそのうち世間からの反発を招く事になるよ。
何せフェミニストが女性の権利以外にも当初利用していたのは著作権よりも遥かに反論しにくかった子供の権利であったのだから。
それでフェミニストが何をしても許されると増長した結果、今回の行動まで招き世間の反発が起きた。
この事は反面教師にすべきだよ。
まぁ、それは置いといてただ何にしても野党支持者の方からすれば、赤十字の一件にしろJAの一件にしろ、今回のフェミニストや先鋭化した支持者の行動には本当に頭を抱えているだろうね。
ラブライブや宇崎ちゃんがオタク以外にも女性層や家族層や子供にも関係し、多くの人に喧嘩を売っている件もだけど、この一件は純粋に医療従事者や農家にも真っ向から喧嘩を売る行為そのものに繋がる事だからね。
想像するだけでさぞ血の気が引く事になるでしょう。
それに限らず、昨今のフェミニスト及びそれに同調したリベラル政党の支持者の問題行動こそ一番の問題で、彼等の行動の結果、今までのリベラル支持層や中間層の反発を招き、低投票率の結果、野党が一切勝てなくなった大きな一因を招いたのは事実だしね。
まずマニフェストをそれぞれ読んでWikipediaを読んで後は適当にブログを読んだ。
自民党 : マニフェストは経済成長に主眼を置いて書かれている印象を受ける。(特に経済について)他の野党が酷いから投票するという層がネットでは目立つ。
実際それほど保守に寄っているわけでもないようにも見えるけど杉田水脈とか荻生田とか本当にヤバい(平気で差別発言をするなど)レベルの保守層が一定数いるのでかなり悪感情を持ってしまう。
立憲民主党 : 左派最強という感じだが民主党時代と違い弱体化が著しい印象。自民党と同じく層は厚く保守寄りからかなり左派の議員までいる。どうにもまとまりがない。ネット上では穏やかなリベラル層から支持されている様子。
しかし、個人的には急に革新的なことを言ってみれば、あまりに保守寄りだったりで主張がブレブレであるように見えることが多い。
公明党 : ネットでの人気は皆無に等しい。自民支持者からはボロクソに言われ、野党支持者からは自民の補完勢力と言われる。歴史的には自民党の暴走を防ぐべく中道左派としてバランスを取るのが役割とみなされた時期もあったと聞いたことがある。 憲法改正には賛成してるし増税にも賛成してる。やっぱり自民党寄りなんじゃないかなあ。創価学会も弱体化しているし向こう10年で急速に弱体化するだろう。
国民民主党 : ネットでの人気はほぼない。民主党時代に田舎に票田を持っていた人たちが残っている印象。老人ばかり支持しているんじゃないのと思っていたがデータを見るとそうでもない。とにかくよくわからない。
共産党 : ネット上で支持者は運動家っぽい人しか見ない。マニフェストは自民党と対照的。資料なども真面目で勉強していることがよくわかる。議員も高学歴。ネトウヨなどがいうような共産党への批判(陰謀論や何にでも怒っているだけ)は全然共感しないが、問題はマッチョ気質と本来の意味での保守的すぎるところであると思う。努力家で頭が良い人の考える政治という感じで、多数弱者は守られるが枠にはまらない弱者は切り捨てられそうだ。後中国共産党とはずっと敵対関係にあるがネット上ではあまり指摘されない。
維新の党 : 大阪出身なだけに思い入れがある。個人的に一番嫌な政党。投票する人の心理に共感してしまうからだ。学費無償化などとにかくお金のことを数字入りで大きく書くポスターと大阪の愛郷心を誘う手法で上り詰めた。思うことが多すぎてここではかけない。吉本とかと同じく大阪文化というものを大きく弱体化させている。大阪愛があるからといって市民は大阪文化を詳しく知るわけではない。自らが大阪文化なのであってそれを言語化できているわけでもない。それをうまく悪用されている感じがしてとても不快だ。私の知っている大阪文化というものは吉本の語るそれでも維新の語るそれでもなかった。上品な上方文化もあれば商人文化もある多様なものだった。大阪と言われて上品なものや知的なものを想像するステロタイプがどれだけ残っただろうか。また学費無償化などの裏で多くのコストカットが行われた。貧困層はより貧困になった。
れいわ新撰組 : 維新と名前がややこしい。しかも山本太郎が関西弁。割と好きだがよくわからない。他の野党が保守的で改革を口にしなくなったので革新的なのが好きな人はこっちに着くんじゃないのと思う。
N国党 : 特に書くことはない。(どうせ消えるので)
野口武彦『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』(中公新書、2010年)読了。あとがき以外は面白いね。
あとがきの「閉ざされてしまった回路」(=あったかも知れないイフ)は興味深いが、この書名や慶喜に負わせる問題じゃない。そして一つ目の公議政体はともかく、二つ目の「天皇制ぬきの近代日本」は荒唐無稽。このような反論に著者は「こう考えることを妄想だとする向きは、話があまり大きすぎて歴史的な想像力がついてゆけないからである」と予防線を張るが、それはそうじゃない。
歴史にはたくさんのイフがあり、それぞれの実現可能性にとってプラスに働く因子とマイナスに働く因子とがある。それら諸因子の大小強弱は定量的に計測できるようなものではないが、ある程度の序列はつけれられる(というよりつけなければならない)。野口さんの言ってるのは、「マイナス因子をすべて無視すれば別のイフもあり得た」というに過ぎない。
彼は慶喜よりもはるかに大きな他の因子、例えば思想史的要因を全く無視している。列強ひしめく国際社会へ出て行ったときに、来たるべき「日本人」のアイデンティティはどこに求められるのか。それは「皇国」以外にないだろう。それは鳥羽伏見のずっと以前から使われている言葉で、すでに相当な浸透力をもっていた(松陰を想起せよ)。たとえ慶喜が逃亡せず新政府の首班に座る(=徳川勢力が温存される)としても、天皇の権威を前面に押し出さなければ新たな公議政体での意思統一はできなかっただろう。となれば、それが天皇の神格化・神聖性付与へ向かうのは自然な流れ。(来たるべき憲法の条文がどうなるかはともかく)
天皇制を32テーゼではなく著者のように定義するなら、慶喜が逃亡しようとしまいと、かなりそれに近い状態に達したと考えられる。
要するに「天皇制ぬきの近代日本」というイフにとって、慶喜逃亡はきわめて小さい因子に過ぎない。他にもっと強力なマイナス因子があるのに、それらを全部無視してイフを手柄顔で語られてもねえ…。
「天皇制ぬきの近代日本はあり得ただろうか?」という問題提起は興味深いし意味があるが、慶喜逃亡が決定的な因子であったという主張は愚かしい。その意味で「この書名や慶喜に負わせる問題じゃない」と書いた。アルキメデス的支点に立ってるように見えるのは、著者が戊辰戦争ばかり見てるだけのことじゃないの。
だから、ここに至って、なんでこの著者と気が合わないのかもはっきりする。この人の本は面白いけど、同時に「面白い話を一発吹いて目立ってやろう」という助平根性も感じるんだよね。勿論この人はれっきとした学者であって、歴史作家のくせに歴史学者のふりして商売してる人種とは違う。だから猶更その根性が気になる。我々はワトソンより寧ろロザリンド・フランクリンであるべき。ワトソンを剽窃者として謗りたいのでははなく、帰納的に考えることをおろそかにしてはならないということだ。
この記事読んでへぇーって思ってる人、はあちゅう腐す権利ないからね。
え、はあちゅうはニセ医療で、これはタイの最先端医療じゃん。全然違うだろ?
はい、そうじゃないんですよ。
医学的知識と医学的判断能力がない人が書いた医療記事はどちらも同じなんです。
仮に、はあちゅうがこの記事書いたら、みんな「へぇ〜タイ行こうかな?」って思った?
この記事の間違いは大量にあるけど、はてなにわかりやすく言えば、
めちゃくちゃ良いプログラミング教室見つけた!っていう「増田プログラミング教室」の紹介記事が以下の感じだとどうでしょうか?
最先端JAVASCRIPTを用いた画期的なホームページの作り方を教える教室です(JAVASCRIPTは世界の30億のデバイスで走る言語です)
また、最近流行りのAIの土台である機会学習を、MNISTというデータを使って、勉強できるんです。
これは、AIに知能があり、自動的に猫とおばあさん細胞が発見できるというので、
ぜひこの増田プログラミング教室で、プログラムを習いましょう。
ね、頭痛くなる記事でしょ?上記の記事のレベルはこんなもんよ。
キーワードとして、「根管治療」(英語名:Root Canal Treatment、以下“RCT”と表記)
「ラバーダム」、「マイクロスコープ」などを散りばめているだけで、上記の文章と同レベルの知識だから。
まず、日本の保険適用の根っこの治療なんて、毎回200円くらいにしかならないから数千円なんて絶対に適当。
なぜ日本の保険治療のことも理解していない人が、タイの治療については正しい記述ができると思えるのか不明。
それは国がCOBOL縛りでプログラミング書けって縛ってくるのに、
患者がグーグルマップみたいなサービス作りたいって言ってきて、
なんでも言語が使える自費診療すすめても、いや、保険きくから、COBOLでお願いします。って言ってくるからだろうが!
せめて日本の学会関係者にでも取材して、なんでこういう状況になってるのかくらい聞けよ。
そもそも日本は歴史的に総合医(ジェネラリストのまち医者)を増やすという医療政策をとってきたわけよ。
それは個人の資質うんぬんじゃないの。出羽守がすぐにアメリカでは〜っていうけど、アメリカの歯医者、全員医者だからね。
医学部卒業して、そのあとで歯の勉強した人たちでエリート中のエリート。1日に3人患者みたら、生活できるから。
15分おきに患者きて、インカムつけて仕事してる銀座の歯医者なんかと比べちゃダメよ。
日本は国民が歯医者に通いやすいように、歯学部というものをつくった経緯があるのよ。
最近は新専門医制度をつくって、分化していこうという話もあるけど、
患者側の意識が変わらないとなんでも屋を求めるから日本だとミスマッチしそうね。いろいろ面白いので調べてみてください。
あと、やぶが多いという話。うん、多いね。
じゃあ、どこの歯医者いけばいいのか?
まず、クライアントであるあなたが自分の歯をどうしたいのか、知識をつけること、
その症状に対して、得意な専門医がどこにいるのか調べること(歯学系学会で調べられる)
ここらへんでやぶはだいぶ弾ける。
え、めんどくさい?それなら、増田プログラミング教室行きですので、どうぞ。
クライアントが要件定義する能力もないのに、SIerの能力判断なんかできるかよっ!
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200205-00000030-mai-soci
水戸徳川家の居城だった水戸城の大手門(水戸市三の丸2)の復元工事が完了し、4日から通行できるようになった。市は旧水戸藩の藩校「弘道館」を含め、地区一帯の歴史的景観を活用し、観光振興を目指す。
良いと思う。
直近だと献血ポスターの宇崎ちゃんが炎上したように、ネット上ではオタクとフェミの争いというものがたびたび起きている。が、そこでのやり取りを見ているといつも議論は噛み合わず、ただただ不毛な対立が盛り上がるばかり。なぜこのようにオタクとフェミは不毛な対立をしてしまうのか。
それについて論じる前に、まず自分の立場を表明しておく。例の宇崎ちゃんポスターについて自分は「即座に撤去する必要があるほど問題のあるものではない」「が、今後において避けるのが無難と言える程度の問題は確かにある」という見解を持っている。なんともどっち付かずで玉虫色な見解だ。ただ、このような歯切れの悪さこそが大事だと確信している。というのも白黒はっきりさせるような歯切れのいい議論ばかりがなされているのがオタクとフェミの不毛な対立の大きな原因であると考えているからだ。
例の宇崎ちゃんポスターの批判者が主張する理屈は「公共性の高い場所で女性の性的側面をことさらに強調しそれをアイキャッチャーとして利用するのは女性差別的である」というものだ。この主張に向き合う上で確認しておきたいのは、この主張には程度問題、グラデーションが内包されているということだ。まず第一に公共性の高さというのがグラデーションを含む概念だが、相対的に重要性が低いのでとりあえずスルーする。より重要なのは性的な強調というのがグラデーションを含む概念だということだ。ここを意識しないとどうしても議論は不毛となる。
例のポスターにおいて宇崎ちゃんは巨乳を突き出し、煽るような表情でポスターを見る者に視線を向けている。これを性的な強調が無いとするのは難しい。というか不可能だろう。一方で露出は少なく、あからさまなエロというわけではない。この「性的な強調はあるがあからさまなエロではない」という半端さこそが騒動が拡大した大きな要因だ。もしもポスターの内容が対魔忍のアヘ顔といったような言い訳の余地のないエロだったらオタク達も批判の対象とされることに反発しないだろう。一方でポスターの内容が特殊な嗜好の持ち主以外誰も性的に感じないようなものであれば批判者が1人いても誰も追随しないので大きな騒ぎにはならない。性的な強調があると言ってもその程度には濃淡があり、薄ければ問題とならないし濃ければ問題となる。例の宇崎ちゃんポスターはちょうど問題があると思う人も多くいれば問題ないと思う人も多くいるグレーゾーンのものだったのだ。
そしてこのグラデーションへの意識をポスターを批判するフェミ側もそれに反発するオタク側も欠いていたのが不毛な対立の最大の原因だ。
SNS上ではより強い表現を使った方がウケる。フェミ側はこの件で強い糾弾調の表現を用いてしまった。世の中には本当に一切の寛容さを示さず強く非難すべき女性差別というものが存在する。例えば医学部入試での得点操作がそれに該当する。一方で女性差別的と言えるがあくまで不適切レベルでありそこまで強く糾弾しなくても良いものも存在する。宇崎ちゃんポスターはこちらだろう。グレーのはずのものを真っ黒であるかのように扱ってしまったためにグラデーションを意識した議論が成立しづらくなってしまった。
一方のオタク側の問題として大きいのがオタク達が滑り坂論法に陥ってしまったことだ。滑り坂論法とはひとつを認めるとどんどんエスカレートしていき最終的には破滅的な結果を招くので最初の一歩も認めるべきでないという論法のことで、どんどんエスカレートしていくはずであるという認識が単なる不安感情の表れでしかなく根拠を欠くため誤った議論の典型として扱われる。オタク達がこの誤った議論に陥ってしまったことにより何が起きたかというと、フェミ側の主張を完全否定してしまわなければならなくなってしまった。例の宇崎ちゃんのポスターは先に述べたように性的強調があることを否定するのはおよそ不可能な代物だが、それすらもオタク達は否定しなければならなくなってしまったのだ。そうしてオタク達はフェミ側の「女性をアイキャッチャーにするな」という主張を「結局オタクが嫌いなだけ」「フェミは巨乳を差別している」といった明らかに元の主張と異なるものに捻じ曲げ、フェミ達を悪魔化することによって「オタク=フェミに不当に攻撃される被害者」と位置付け団結する戦略に流れてしまった。もしもオタク達にグラデーションへの意識があれば、「女性をアイキャッチャーにすべきでない」や「宇崎ちゃんポスターは性的強調表現がある」といった否定しようとすると無理が生じるラインまでは受け入れつつ、とはいえその度合いは著しく不適切と言えるまでのものではないという形で反論することができただろう。しかし、滑り坂論法に囚われたオタク達の防衛ラインはフェミの主張の完全否定まで引きあがってしまい、宇崎ちゃんポスターには少しも黒い要素はない、真っ白であるというグラデーションを意識した議論を受け入れられない立場を取ることとなってしまった。これでは議論は不毛となるより他にない。
とにかく大事なのは白か黒か、0か100か、ではなく、物事にはグラデーションがあるということを意識しなければならないということだ。
ここで注意しておきたいことがある。グラデーションの存在は詭弁によって攻撃しやすい穴にもなる。その攻撃とは「基準を示せ。基準を示せないならそれはただのお前の主観でしかない」というものだ。残念なことにネット上では「それってあなたの主観ですよね?」と煽るひろゆきの画像が出回っているようにこの手の詭弁が論破テクニックとして重宝されがちだ。
しかし、基準を示せないものがすなわち主観にすぎないということは決してないし、基準を示せないならその論点は無効ということもない。
このことを考える上でハゲ頭のパラドックスを取り上げたい。髪の毛が一本も生えていないハゲ頭があるとする。ここに髪の毛を一本生やしてもその程度ではハゲはハゲのままだ。では2本目を生やしたら? やっぱりハゲだ。3本目なら? まだまだ全然ハゲのままだ。髪の毛を一本増やした程度でハゲがハゲでなくなることはない。しかし、このように一本ずつ髪の毛を増やしていけばいずれその頭はフッサフサになりハゲではなくなるはずだ。では、ハゲはどこでハゲでなくなるのだろうか?
この問題についてはっきりとした基準を示すことはできない。一応頭皮のうち髪の生えていない範囲が5割に満たなければハゲとみなすというように基準を作ることは可能だが、その基準は日常語としてのハゲの使われ方とは距離がある。頭皮のうち髪の生えている範囲が50パーセントならハゲではないが49%ならハゲというのは明らかにおかしい。
では基準を示せないならハゲという概念自体存在しないのだろうか? そんなはずはない。明らかに頭髪の薄い人がいて、それをハゲと呼ぶのはただの主観に過ぎないのだろうか? もちろん大半の人はそれをハゲとみなすだろう。ただの主観に過ぎないとは言えない。
グラデーションのあるものについてはっきりとした基準を示すことはできない。しかし、そのことは即座に客観性を欠くことを意味はしないのだ。
最後に余談となるがなぜオタクはフェミをオタクの敵とみなすのかについて自分の見解を述べる。
宇崎ちゃん騒動の発端となった太田弁護士のツイッターアカウントを見てみると、だいたいいつも自身のツイートやRTで何事かに対し怒りの表明や批判をしている。別にオタクだけが狙い撃ちで批判されているわけではない。
しかし、そういった普段の振る舞いはオタク達に広く拡散されることはない。オタクが叩かれているわけでなければオタク達は特に気にしない。例えばテレビで東大女子を排除した東大のウェイサークルが取り上げられ、それを受けてフェミ達がサークルに批判的なツイートをしたとしても、「【悲報】フェミさん、ウェイの敵だった」というようにオタク達に拡散はされない。広くオタク達がフェミ達の主張を見るのはフェミ達がオタクに関係あるものに言及しているときに限られる。こうして、オタク達の中にフェミはオタクばかり叩いているという認識が出来上がる。これはちょうどデータを見ると実際には治安が良くなっているのに、テレビで凄惨な事件がよく取り上げられるので物騒な世の中になっているように錯覚しがちというのに似ている。
かつてはビールのポスターといえばグラビアアイドルの水着だった。しかしそういったポスターは今となってはほぼ絶滅した。
今の時代、それこそ献血のような公共性の高いところでのポスターを作る場合、そこに起用されたのがグラビアアイドルであってもわざわざ批判を招くことが容易に予想できる水着ポスターにはしないだろう。普通に作れば炎上を招くようなものは避けることになる。
そんな中、唯一炎上を招くようなものが通ってしまうルートがオタクコンテンツとのコラボだ。
例えば鉄道オタクのように「〇〇オタク」というのではなく単に「オタク」という場合、現在ではこれは二次元美少女コンテンツの熱心な消費者のことを指す場合が多い。近年(というほど最近に限らないが)のオタク文化は二次元美少女と共にあり、更に言うとエロと共に発展してきた。
これは「まどマギの脚本の虚淵玄はエロゲーのシナリオライター」とか「エロさえあればなんでも許されるところでクリエイターが育った」とかそういう話ではなく、もっと直接的な話だ。ラノベを読めばなにかしらラッキースケベ的展開が用意されている場合が多いとか、異種族レビュアーズが地上波でアニメ化されてるとか、彼氏のもとに彼女とチャラ男からビデオレターが届くが実は彼氏のためを思ってのもので寝取られたわけではなかったというエロ同人ネタを前提にした漫画がツイッターでバズるとか、そんな具合にオタク文化はエロと共にある。
なのでオタクコンテンツの作り手は性的な要素を強調することでキャラクターを魅力的に見せるテクニックに長けているし、それは手癖レベルで染みついている。よって、公共性の高い団体がオタク作品とコラボしたときにオタクコンテンツの作り手が普段と同じノリで仕事をすると公共性の高さに対して相応しくないとみなされるほど強い性的強調を含んだものが世に出てしまう場合がある。もちろん悪意などなく無意識に。
また、宇崎ちゃんのように単行本の表紙がそのまま流用された結果……というパターンもある。宇崎ちゃんの場合作者が心身の不調やスケジュール上の都合のために献血コラボで描き下ろしを用意することができず最新単行本の表紙がポスターに流用された結果炎上を招く事態となってしまった。単行本の表紙は献血ポスターのように公共性の高いものとみなされないため性的強調を含んだイラストで「この作品にはエッチで可愛い女の子が出てきますよ~」と訴えて手に取ってもらいやすくするのは当然の戦略と認められるものだろう。が、それがそのまま別文脈に置かれてしまうと炎上を招くこととなってしまう。正直宇崎ちゃんの作者は運が悪かったと思う。描き下ろしを用意する余裕があれば炎上騒動に巻き込まれることはなかっただろう。かつてののうりんの炎上の件もこのパターンだ。
このように通常ではまず炎上するような表現が表に出てくることはないのに対し、オタクコンテンツとのコラボにおいては……という事情があるため、公共性の高いところでの性的強調表現がフェミに批判される事態はオタクコンテンツ絡みに偏ることになる。このことが「フェミはオタクを敵視している」という印象をオタク達に与えているのではないだろうか。
IMSLPという、無料で使用できる楽譜などの電子図書館を目指すプロジェクトがある。
これができたお陰で、楽譜の入手コストが劇的に下がり、演奏可能になった楽曲は非常に多い。
ただ、それでも気になることがある。
こういう、汚くてとてもじゃないが演奏不可能な楽譜を平気で上げているケースが散見されるのだ。
作曲家の手書きによる「貴重な歴史的資料」ではなく、上の例のように演奏用のパート譜がこれって、ふざけるにも程があるというか、一体どういうつもりで上げているんだと思う。
使えないもの上げても意味ないじゃん。だったら上げないほうがマシ。
何よりこういうのがあるせいで、中身の可読性関係なく「演奏できるじゃん、大丈夫だよ」などとほざくクソな輩に言いくるめられるのがすげー不愉快。
そりゃお前が耳コピで弾いてるから大丈夫ってだけだろ。音符きっちり読まないと弾けない奴に喧嘩売ってんのか。
そんなに文句があるならお前が書いてアップしろって?そういう問題じゃねーんだよ。
こっちは「読むのにストレスを感じない楽譜」が入手できる曲だけ弾きたいんであって、汚い楽譜を書き直すために音楽やってるわけじゃねーから。
あと買えって意見がトラバにあったけど、こういう曲に限って日本で楽譜買えるかどうか全く分からない曲だったりするんだよなあ。
国民が戦争の悲惨さを認識した上での選択が必要だってことだろ。
ギリギリまで戦争回避の努力を続けるべきだってのは、戦争を経験したどの国の兵士も語ってる。
しかし、中には例外的に報道されていないけれども、存在しないこともある。
今年は暖冬なので、スキー場など観光地に雪がなくて経済的損失がある。
考えてみたのだが、雪がないということは、雪降ろしで足を滑られて落ちて死んだ人がいないということではないだろうか。確かに報道されていない。
報道されていないので分からないけれど、雪がなければ雪下ろしはしないだろう。そして雪下ろしをしなければ、足を滑らせて落ちることもないだろう。これはあくまでも頭の中で考えたことであって、現実と一致するとは限らないのだが、雪降ろしで足を滑られて落ちて死んだ人がいない冬というのは歴史的な出来事ではないだろうか。
・咳をするときに口や鼻を覆わない
・くしゃみをした人に対して「健康を!」とか言わなきゃいけない(=くしゃみが細菌・ウイルスをまき散らす迷惑行為だといまいち認識されていない)
・公衆トイレが極度に少なく、高級住宅街ですら道端で排泄してる人を見かける(!)
・公園にもトイレがないので茂みから変な臭いがしたり、拭いたティッシュらしきものが落ちている
・マスクを着ける=感染症患者と見なされるため誰もマスクを着けない
・ティッシュがしっかりしているので一度鼻をかんだらまたポケットにしまってまた使う!!!
14歳のころに50歳の男性作家と性的関係にあり、ミューズみたいにされていた少女が大人になってから自分の視点で一連の出来事を語り直した小説を書いて出版したという、フランスで今とても話題になっている #MeToo 案件について記事を書きました。
検察も動き出しています。https://t.co/JefvJwPGTp— Chihiro King Kong (@Chichisoze) 2020年1月24日
予想通り突っ込み入っていて草。
これで思い出したけど、確かにピカソとかもだけど、芸術家に限らず、みんな大好きルーデルも15歳の嫁貰っていたんだよな。
何にしろこいつら退廃芸術まで足を突っ込みだしたから以下に綺麗事言っていても順調にフェミ自身が嫌われ出しているのが皮肉。
それこそフェミに対して、日本に限らず、逆風吹き始めたのに今だこうして図に乗りまくっているから、この辺もそれ以前より退行するかもね。
しかし今や古臭いと他人に言いまくっていた連中の戯言であるフェミニズムやグローバル化とやらが今では逆に世間では古臭いものと化しているのだから面白いね。
「#MeToo」はクリアできない:歴史的大物5人のセクハラその他
https://jp.rbth.com/arts/82951-metoo-ha-kuria-dekinai-rekishiteki-oomono-gonin-no-sekuhara-sono-ta
ハンス・ルーデル
http://gikoheiki.web.fc2.com/hito/001.html
はてなのネット界隈でも年に数度道徳の教科書の問題が俎上となる。最近も子供が持ち帰ってきた道徳の教科書が「変なこと」を吹き込んでいるというtwitterの投稿がブックマークを集めていた。
私はこれから、原文やブックマークのおおよその論とは逆さに「こういう道徳も必要ではないか」という観点から考えてみたいと思う。
大きな論点は二つある。
私たちブックマークする人間は十分に教育を経てクリティカルな思考が(ある程度には)できるから、あの教科書に対して批判ができる。
ところが初めからそうではないだろう。小学校二年生の時を思い出して欲しい。
まずは周囲の仕事に気づき、それにより身の回りが成立している感覚を基礎的に学ぶことは重要だ。
まずそうする。そうしないと、子供に基礎的な社会性すら涵養されないのではないだろうか。
私たちは徹底的に(あるいは歴史的に)これを体験し修学してきた。
だからここは批判的になりがちだしなるべきだが、全く愛校心や「軍隊っぽさ」がないと、それはそれでバラバラになり立ち行かなくなると考えられているのではないか。
バランスを見極めていくべきて、少なくとも私はこれくらいは十分に必要と思う。
小学校二年生の時を思い出して欲しいのだけれど、教科書が世界の全てではない。
例えば校長の話は意味がわからなかったりたまにしか会わないから会話や指示にぎこちなさがあったりする。
保健の先生はトイレを濡らした犯人を俺だと決めつけて掃除をさせた。
小学二年生は、友人関係を含めて人間関係のるつぼの中にいよいよ参画していく時期だ。
改めて小学二年生を思い出して欲しい。テレビや教科書の「お題目」と現実との折り合いに、わずかでも気がつき始める。
ここで重要なことは「お題目」を知り、かつ「実態」を生きると言うことだろう。
「社会の規範や常識」とそれが必ずしも通用しない、それできっちり割り切れない「実態」の二重の感性。
「社会の規範や常識」が「お題目」とは言え重要だと言う話をしてきた。
とはいえ私たち大人は「社会の規範や常識」をどこに定めるか、不断の努力で議論し構築していかなくてはならない。
家庭でも地域でも普段の子供とのやりとりでも。そう言う視点からの批判ならばあの道徳の教科書への批判になりうるだろう。
https://www.cnn.co.jp/world/35148169.html
(CNN) ハリス駐韓米大使の口ひげを巡り、韓国のソーシャルメディアユーザーや匿名のネット市民から激しい批判が上がっている。
ハリス氏は16日、外国人記者団に対し、自身の口ひげが「ある理由である種の強い興味の的になっている」と説明。ソーシャルメディアを見れば至る所に口ひげへの言及があると指摘した。
それだけを見れば、ほとんどばかばかしい批判だ。ただの小さな一区画の毛に過ぎない。
だが、ハリス氏の口ひげは大使自身を越えた話へと発展している。背景にあるのは、日本による植民地統治の歴史に対していまだ残る生々しい感情、同質的な韓国社会に根付く人種差別的な見方、従来の4倍を要求される在韓米軍駐留経費の交渉で米韓同盟の将来に亀裂が入りつつあることだ。
批判の主な点は、口ひげを生やしたハリス氏が朝鮮半島統治に当たった占領期の日本人指導者に似ているというもの。日本では戦時中、東条英機や昭和天皇をはじめ口ひげをたくわえる指導者が何人かいた。
統治下で非人道的な扱いを受けた市民も多く、高齢者にとっては当時の記憶はまだ生きている。また近年は慰安婦や徴用工への対応を巡る問題でも日韓両国の間で主張が繰り返されている。
ハリス氏は日本人の母親と海軍士官だった米国人の父親の間に生まれた。ネットユーザーの中には、口ひげと合わせハリス氏の出自に言及する人もいる。
ただ、ハリス氏は日本人ではなく米国人だ。日系であることを理由に非難すれば、米国ではほぼ確実に人種差別主義者とみなされるだろう。
中央情報局(CIA)の各国データ集によると、韓国は米国のような人種の多様性がない均質な社会だ。異なる人種から成る家庭はまれで、外国人嫌いの感情は驚くほど普通に残っている。
ハリス氏は記者団に「両国の間に歴史的な敵対感情が存在することは理解しているが、私は駐韓日系米国人大使ではなく、駐韓米国大使だ」と説明。「偶然日本人の母親に生まれたからといって、そうした歴史を持ち出して私に重ねるのは誤りだと思う」と指摘した。
ハリス氏はまた、日本の戦時期の指導者に似ているという議論は歴史のえり好みをしているとも主張。韓国の独立運動家の安重根や安昌浩も口ひげを生やしていたと言及した。
「私が口ひげを伸ばしたのは、私の日本人のルーツでも、韓国の独立運動でも、父親の影響でもない。伸ばすことができ、自分で伸ばそうと思い、実際伸ばしたから伸びたのだ」(ハリス氏)
口ひげをたくわえた理由については、太平洋艦隊司令官を退いて外交官の職務を開始した後、人生の新たな局面を記念するために生やしたとしている。
「もう背も高くならないし、頭髪も増えないが、頭部の前面の毛は伸ばせる。それ以上の悪だくみはなく、ただ変化が欲しかっただけだ」
韓国の英字紙コリアタイムズで、外交関係を円滑化するために口ひげをそるかと聞かれると、ひげをそることが米韓関係の利益になると納得させてくれる人がいればと答えた。
「私は私だ。私に言えることは、私が下す全ての決断は、駐韓日系米国人大使ではなく、駐韓米国大使として行っているということだ」