2020-01-21

道徳の授業

はてなネット界隈でも年に数度道徳教科書問題俎上となる。最近子供が持ち帰ってきた道徳教科書が「変なこと」を吹き込んでいるというtwitter投稿ブックマークを集めていた。

私はこれから、原文やブックマークのおおよその論とは逆さに「こういう道徳必要ではないか」という観点から考えてみたいと思う。

大きな論点は二つある。

さな子供には、まずこういうのは大切なのではないか

私たちブックマークする人間は十分に教育を経てクリティカル思考が(ある程度には)できるから、あの教科書に対して批判ができる。

ところが初めからそうではないだろう。小学校二年生の時を思い出して欲しい。

まずは周囲の仕事気づき、それにより身の回りが成立している感覚を基礎的に学ぶことは重要だ。

まずそうする。そうしないと、子供に基礎的な社会性すら涵養されないのではないだろうか。

そう言うのをしないでいると端的に言えば学級崩壊しかねない。

愛校心やある種の「軍隊っぽさ」は危険ものだ。

私たちは徹底的に(あるいは歴史的に)これを体験し修学してきた。

からここは批判的になりがちだしなるべきだが、全く愛校心や「軍隊っぽさ」がないと、それはそれでバラバラになり立ち行かなくなると考えられているのではないか

当然これは、行きすぎると日本会議世界になっていく。

バランスを見極めていくべきて、少なくとも私はこれくらいは十分に必要と思う。

そうであっても、子供なめるな、と言う話

上記観点がある一方で、子供批判性をなめるな、とも思う。

小学校二年生の時を思い出して欲しいのだけれど、教科書世界の全てではない。

例えば校長の話は意味がわからなかったりたまにしか会わないから会話や指示にぎこちなさがあったりする。

担任給料日札束をばらまいたりしていた。

用務員はすぐ怒鳴るし事務職員には会ったことがない。

保健の先生トイレを濡らした犯人を俺だと決めつけて掃除をさせた。

小学二年生は、友人関係を含めて人間関係のるつぼの中にいよいよ参画していく時期だ。

教科書教科書現実は違うことに気がつき始める。

改めて小学二年生を思い出して欲しい。テレビ教科書の「お題目」と現実との折り合いに、わずかでも気がつき始める。

ここで重要なことは「お題目」を知り、かつ「実態」を生きると言うことだろう。

社会規範常識」とそれが必ずしも通用しない、それできっちり割り切れない「実態」の二重の感性

あん文章洗脳はされないのである

終わりに

社会規範常識」が「お題目」とは言え重要だと言う話をしてきた。

とはいえ私たち大人は「社会規範常識」をどこに定めるか、不断努力議論し構築していかなくてはならない。

家庭でも地域でも普段の子供とのやりとりでも。そう言う視点から批判ならばあの道徳教科書への批判になりうるだろう。

ただ、「教科書おかしい」「洗脳している」ではダメなのだ。書いてきた通り、ある程度は子供には必要な要素なのだ

ではどうするか? 教科書以外で何ができるか? こういうことを思考するのが肝要ではないだろうか。

  • うんち

  • あれがテストになってて考えても無駄な構造になってるのがおかしいのだろう

    • 算数・数学とか将来使わねえだろ…と思いながらもテスト受けるのとおんなじなのではないか。

      • 内発的動機付けと外発的動機付けはその後の行動が違う。 外発的動機付けで道徳を教えれば、点や金がないならその行為をしなくなる。 まぁ子供舐めるなって言うのが反論かもしれない...

  • ちょっと駆け足すぎていまいちなに言ってっかわからんとこもあるけど 道徳は道徳で一塊じゃなくて基礎編中級編応用編と分けることもできる、だから発達段階に合わせて分けて教えま...

    • とてもいいと思います。 実際そうなっていて欲しい。

      • 実際は頭からケツまで犬の調教でいいというホシュ系と、下地もなしにじゆうにかんがえましょうだけのニホンリベラル系との宗教的綱引きって感じかしら。 どっちも決定版の「道徳の...

記事への反応(ブックマークコメント)

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