はてなのネット界隈でも年に数度道徳の教科書の問題が俎上となる。最近も子供が持ち帰ってきた道徳の教科書が「変なこと」を吹き込んでいるというtwitterの投稿がブックマークを集めていた。
私はこれから、原文やブックマークのおおよその論とは逆さに「こういう道徳も必要ではないか」という観点から考えてみたいと思う。
大きな論点は二つある。
私たちブックマークする人間は十分に教育を経てクリティカルな思考が(ある程度には)できるから、あの教科書に対して批判ができる。
ところが初めからそうではないだろう。小学校二年生の時を思い出して欲しい。
まずは周囲の仕事に気づき、それにより身の回りが成立している感覚を基礎的に学ぶことは重要だ。
まずそうする。そうしないと、子供に基礎的な社会性すら涵養されないのではないだろうか。
私たちは徹底的に(あるいは歴史的に)これを体験し修学してきた。
だからここは批判的になりがちだしなるべきだが、全く愛校心や「軍隊っぽさ」がないと、それはそれでバラバラになり立ち行かなくなると考えられているのではないか。
バランスを見極めていくべきて、少なくとも私はこれくらいは十分に必要と思う。
小学校二年生の時を思い出して欲しいのだけれど、教科書が世界の全てではない。
例えば校長の話は意味がわからなかったりたまにしか会わないから会話や指示にぎこちなさがあったりする。
保健の先生はトイレを濡らした犯人を俺だと決めつけて掃除をさせた。
小学二年生は、友人関係を含めて人間関係のるつぼの中にいよいよ参画していく時期だ。
改めて小学二年生を思い出して欲しい。テレビや教科書の「お題目」と現実との折り合いに、わずかでも気がつき始める。
ここで重要なことは「お題目」を知り、かつ「実態」を生きると言うことだろう。
「社会の規範や常識」とそれが必ずしも通用しない、それできっちり割り切れない「実態」の二重の感性。
「社会の規範や常識」が「お題目」とは言え重要だと言う話をしてきた。
とはいえ私たち大人は「社会の規範や常識」をどこに定めるか、不断の努力で議論し構築していかなくてはならない。
家庭でも地域でも普段の子供とのやりとりでも。そう言う視点からの批判ならばあの道徳の教科書への批判になりうるだろう。
うんち
あれがテストになってて考えても無駄な構造になってるのがおかしいのだろう
算数・数学とか将来使わねえだろ…と思いながらもテスト受けるのとおんなじなのではないか。
内発的動機付けと外発的動機付けはその後の行動が違う。 外発的動機付けで道徳を教えれば、点や金がないならその行為をしなくなる。 まぁ子供舐めるなって言うのが反論かもしれない...
ちょっと駆け足すぎていまいちなに言ってっかわからんとこもあるけど 道徳は道徳で一塊じゃなくて基礎編中級編応用編と分けることもできる、だから発達段階に合わせて分けて教えま...
とてもいいと思います。 実際そうなっていて欲しい。
実際は頭からケツまで犬の調教でいいというホシュ系と、下地もなしにじゆうにかんがえましょうだけのニホンリベラル系との宗教的綱引きって感じかしら。 どっちも決定版の「道徳の...