はてなキーワード: 歴史上の人物とは
俺、受験のとき、東大模試で物理と国語で5番くらいだったんだけど。数学も理3通るやつらの平均くらい。英語は受験者の上位30%くらい。みたいなのだったんだけど。
「ある時期猛勉強したから、勉強できるようになりました」ってのはかなり疑問を感じる。
猛勉強ってどの程度の話なんだろうって聞いてみると、寝る時間いがいは一日中ということらしい。
それって、だから、どの程度の話なんだ?時間じゃなくて、量的には?
たとえば、数学なら青チャート全部覚えましたとか、英語なら速読英単語を音読で全部読みましたとかイロイロあると思うんだけど。
じゃあ、それを猛勉強しましたって言うかなあ。それって、「普通」だよね。
普通のこと普通にやってたら、途方も無い時間かかるわけで、それをやるから受かるんだけどさあ。
それってじゃあ、猛勉強っていうほどのものなの?機械的にやるのと、情熱的にやるので何か違いあるんだろうか。
つまり。猛勉強もクソも、受験やってる人が普通に勉強してるってのを、ある一定期間やっただけでしょ。そこに精神論無いよね。
あれだよ。漫画とかで効果線とか、効果音とか入るけど、別にそんな盛り上げる必要なくね?っていうのに近い。
中二病の子供が、パンチするときに、口で「ズドオオオオオオオ」とか叫びだすのに近い滑稽さを感じる。
はじめしゃちょー当たりの、猛勉強して東大目指したけど静岡大学(?)みたいな話にも通じる。静岡大って猛勉強って話にすらならないじゃん。
バスケをガチでやってたやってたってのもセイゼイその程度なんじゃねーの的な。地区予選1回戦負けとからしいじゃん話聞くと。
いや~。寒いよねえ。
普通にやるべきことやっただけなのを、勝手に盛ってるだけじゃん。
就活で、1を100に盛って話すみたいなのが当たり前にやられてるけど、それに似てる。ワタミだかのありがとうを集めるのが仕事説みたいっていうか。
じゃあ、はじめしゃちょーの『頑張り(?)』がすごいなら、俺の頑張りはもっとすげーのかよっていう。別にすごくもねえじゃん。ただやっただけだし。理系の才能があったから努力対効果もよかっただけだし。
なんていうか。歴史上の人物を伝記とかはやたら盛り上げて書くけど、やってる本人からすれば別にそんな盛り上がり感じてないだろーって感じるのに近いかも。
歴史ドラマじゃねえんだから。『猛勉強』とかではやし立てるのって寒いわ~。
でも、ドラゴン桜はアレはガチwあの苦しみ前面に押し出した感じがほぼリアルw猛勉強とかじゃねーよなあああいうのがそのものだよなあって感じる。
先週の水曜日ごろ、多くの腐女子のツイッターのタイムラインに、とあるask.fm回答のリンクが貼り付けられたツイートがリツイート、された、のではないだろうか。
それは「刀剣乱舞がお嫌いなんですか?」という質問への回答だった。質問された方は「刀剣乱舞が嫌いです」と述べた上で、その理由をかなりの長文で説明していた。
これは多くの腐女子のなかで賛否両論を巻き起こした。とはいえ、「賛」はともかくとして、「否」を訴えたのは刀剣乱舞ファンだっただろうが。
そして数日後、結局この回答をした方は、そのask.fmもツイッターアカウントを削除した。
私は刀剣乱舞をプレイしたことがない。腐女子ではあるので、周囲にプレイしている人は多かったけれど。一月にサービスが開始されてすぐ、タイムラインには刀剣乱舞というゲームの萌え語りや、キャラクターをドロップした際の喜びのスクリーンショットが並ぶようになった。ただし、これはよくあることだ。現に今、私のタイムラインは血界○線の萌え語りとあんさん○るスターズのスクリーンショットで溢れかえっているし、刀剣乱舞の前はうた○リや黒子の○スケ、ハ○キューや弱虫○ダルで埋め尽くされていた。だから、それについてはなんとも思わない。
また、刀剣乱舞ファンはマナーが悪いとも言われているが、それも流行ジャンルにはよくあることだろう。これまでだって、好きなキャラのキーホルダーをつけたバッグを持って歩いていたら、アニメイトの前で同じキャラのファンに引きちぎられたとか、キャラのポスターが掲出された場所で土下座したファンがいたとか、作者に自分のカップリングについて質問したとか、イベントで盗難があったとか、グッズ取引で詐欺にあったとか、歴史上の人物のお墓に妙なものが備えられたとか、流行したジャンルにはそういう逸話がつきものだ。本当かどうかはさておき。なにも刀剣乱舞だけの話ではない。
だから私は、これらのことについてはなんとも思っていない。
ただし、刀剣乱舞のことは「うさんくさいゲームだな」と思っていた。流行するスピードが尋常でなかったのに、プレイしている友達から聞く刀剣乱舞の話はまったく魅力的に聞こえなかったからだ。「声優は豪華だけど話らしい話はない」「正直クリックしているだけ」「艦これと同じシステムだけどもっと簡単」。じゃあなんでお前そんなもんプレイしてるんだよ、って話である。そんな話を聞かされたところでもちろんプレイする気が起きるはずもなく、私は刀剣乱舞が大流行した今年の一月から二月、まったく別のアニメを見たりまんがを読んだりして過ごしていた。楽しかった。
そして六月、刀剣乱舞はゲーム内の画像の多くを盗用していることが明らかになった。
私はそのとき、「うさんくさいゲームだと思っていたけれど、ガチでうさんくさいゲームだったwwwww」と思った。そして、その次に、これで刀剣乱舞のブームは終わるだろうな、と思った。何しろ腐女子というものは、なかなかトレパクに厳しい風潮がある、と私は感じていたからだ。一次にせよ二次にせよ、自分の頭で物語を作り、イラスト、まんが、小説で表現するような人間が多い以上、著作物が勝手に金を稼ぐためのアイテムにされているなんて事案、許せない人が多いだろう。となれば刀剣乱舞のブームは終わる。あのゲームはファンから手のひらを返され、あっという間に廃れていくに違いない。そう確信していた。
しかし、刀剣乱舞がうさんくさいゲームであることは見抜けていた私は、腐女子でありながら腐女子のことをまったく理解していなかった。
刀剣乱舞というコンテンツを見放したのは、ごく一部の審神者だけだった。刀剣乱舞をプレイしていない私ですら読んだ盗用についてのWikiを多くの審神者だって目にしていたはずなのに、彼女たちは相変わらず刀剣乱舞のキャラに萌え、ゲームをプレイし、絵を描き小説を書き続けた。
私は少なからずその状況にぞっとした。仲の良かった審神者フォロワーにも失望した。
せめて一言でも、ゲームに苦言を呈してくれれば、まだよかった。触れずに萌え語りをしているということは、この状況を肯定していることなのだろうか。いや、もしかしたらこの件についてまだ知らないかも。そんなわけがないのに、審神者を務めているフォロワーのツイートに対して逐一もやもやしていた。
そんな折、先述のask.fmの回答がツイートされてきた。その大半に同意して、私もRTした。審神者はやはりこの件には触れず、萌え萌えプレイ記録をツイートしている。いつか声高に無断転載を糾弾していたあの人でさえ。ツイッターやピクシブのプロフィールに「無断転載しないでください」と書いている人でさえ。
なるほど、私も腐女子だから、自分の好きなキャラがいるゲームがほとんどまるごと盗用でできていたと知ったところで、一気にそのキャラが嫌いになれるかは疑問だ。そんな事態になったこともないし、そもそも普通ないから、想像するのは難しいけれど。けれど、盗用を見て見ぬふりして萌えツイートをしたりは、できなくなると思う。
オタクというものは、自分の好きなコンテンツには金を惜しまない。「声優は豪華だけど話らしい話はない」「正直クリックしているだけ」の上に「素材を多く盗用している」ゲームに金をつぎ込むのも、その人の勝手だろう。萌えているのなら、仕方がない、かもしれない。だけど、この程度のものでこれだけの金が入るとわかれば、今後この程度のコンテンツが乱立していく可能性は多いにありえるだろう。
もちろん、すべての商業作品は「金を稼ぐ」ためのコンテンツだ。だけど私は、製作者がそのコンテンツを愛して、考えぬいたような作品にこそ金を支払いたい。そこに愛もプライドもなく「金を稼ぐ」ために作られたコンテンツなんて勘弁だ。極論かもしれないけれど、刀剣乱舞のヒットによって、今後そういうコンテンツが増える可能性は、決してゼロじゃない。それに、このようなものがヒットしていることは、多くの罪を犯していない作品に、この上なく失礼なことであると思う。
まんがでもアニメでもゲームでも小説でもなんでもいい。私はオタクとして腐女子として、常に自分が楽しめるコンテンツに触れたいと思っている。刀剣乱舞の盗用を無視し、プレイし、金を使うひとたちによって、その楽しみが潰される可能性があることが、私はどうしても許せない。
簡単にRTされるツイッター上に公開したわけではないのでこの文章が拡散されるかどうかはわからないけれど、もし万が一そんなことになったら、きっと先述のask.fmの回答のように賛否両論様々な意見が出ると思う。これはあくまで、ひとりの「刀剣乱舞嫌い」腐女子の感情論だ。だから私はこの件について、色んな人の意見が読んでみたいと思っている。刀剣乱舞の盗用乱舞を容認している人も、許せない人も、その理由をできるだけ詳しく教えて欲しい。
そういうやりとりがあれば、もしかしたら、刀剣乱舞のような不幸なコンテンツが今後うまれるのを阻止できるかもしれない。
大人気ゲーム「刀剣乱舞」に「トレパク」疑惑が続々浮上――どんな問題があるのか?|弁護士ドットコムニュース
http://www.bengo4.com/houmu/17/1263/n_3282/
弁護士ドットコム -[犯罪・刑事事件]トレパク容疑のあるグッズをプレイヤーが購入したり課金したりすると罪に問われるのかどうかについて。 http://www.bengo4.com/c_1009/b_361973/
最後に、審神者(笑)の方が「今は公式が調査中だから白か黒かなんてわからないから事態を静観しているだけ」などと言われる前に、法の専門家である弁護士の意見へのリンクを貼っておきますね。
上の記事によると、弁護士の見解では刀剣乱舞は「著作権侵害」をしているとみなされるそうです。また、刀剣乱舞のグッズを購入したりゲームに課金したりすると、「幇助犯となる可能性」があるそうです。ご確認ください。
俺の先祖は、実は歴史の教科書(俺の中高生時代)に名前がちょろっと出る程度の「歴史上の人物」だったりする。
とはいえ百年以上前の話なので、身内の間ですら「へぇボタン」2回分程度のトリビアでしかなかった。
ふとした事でそれをネタにした。
「増田さんの名前って○○時代の××に似てますけど、やっぱりご両親が××にあやかって付けたんですか?」
「らしいね」
「××とか、結構マニアックですね。普通その時代なら□□とか△△とかがメジャーですよね」
「え、本当に?」
という感じのやりとりをした。その時は「言っちゃあなんですけど、名前負けしてますよね(笑)」「しばくぞコラ」程度には盛り上がったのだが、それからしばらくして、母親から「あんたいつの間に婚活とかしてたの?」といきなり電話がかかってきた。
何故か遠く離れた実家に、立て続けに俺への見合いの話が何件も来ていた。
あまりにも突然なので、悪質な業者に俺の個人情報でも流れたのかといぶかしんだが、話を持ちかけてきた世話焼きな人達が口を揃えて「増田さんってあの××の家柄なんですって?」と言うので情報の出所を辿っていくと、前述のネタの件を周囲がfbとかTwitterとかで話題にし(××の子孫が知り合いに居る程度の表現で、もちろん俺の個人名などは伏せてはいたし、その程度ならネットでネタにしてもいいと俺も事前に承諾はしていた)、××の出身地(でもあり俺の実家のある町)に住んでいる彼らのフレンドやフォロワーが食いつき…といった感じで情報が流れたらしい。
見合いの話は全て断った。
※冒頭のお詫びとお断り:検索対策のために、略字を多用することになりました。読みづらくて申し訳ありません。
お勧めいただいた『R』、読了しました。小説を読むこと自体が、わたしには滅多にないことなので、読み出し当初は困惑しつつも、広大な小説世界に潜り浸るという新鮮な体験を楽しむことができました。作者NAの文体も、読み慣れてチューニングが合うようになると、とても心地よく感じました。そんな読書の幸いを少しだけ、感謝を込めて共有させていただけたらと、拙い感想をお届けいたします。ご笑覧いただければ嬉しいです。(わたしには本当に文才がないので、つぶやきの投稿のように、思いついた順番で書き散らかしまうことを、どうかご容赦ください。いわゆる「感想文」を期待されませんように…。)
『R』のなかに見出した、タイトルとなった人物RRと、修史を完成させたSS、そしておそらく、作者であるNAの、幾重にも折り重なった宿命との葛藤が、深く胸に響きました。読書中は熱い臨場感をもって読み進めていたのが、いま、こうして彼らについて語ろうとすると、静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ちになるのは、なぜだかわかりません。書きながら、自分の感情を文字にして確認してみたいと思います。
RRが、内に抱えた矛盾を少しずつ自覚し、揺れていく様は、わたし自身も覚えがあり、とても身につまされました。B帝に誤解され、国に残した愛する老母も妻も子供も弟も、みな殺されてしまう。RRは、大いに怒り、忠誠を誓ったはずの国とのつながりを見失う。思い返せば、これまでR家の忠誠に国は報いてくれたことがあったかと疑い、むしろ辱しめを受けただけだと失望する。そして、首を取って戻るという目的を喪失したものの、よく似た身の上で、誰にも認められなくとも、国への愛情と忠誠を抱き続けたSBに、尊敬の念と敗北感を抱く…。
家族を殺された怒りの大きさのあまり、B帝に誤解させたであろう同姓のR将軍の「存在」を怒りの矛先として、即座に彼を殺害したRR。けれど、B帝の誤解の原因が本当にそうであるか、定かでないはず。B帝と同様に、RR自らの誤解の可能性が、R将軍の命を奪い、彼を愛した皇太后を悲しませたかもしれないことに思いは至らなかった。ただ怒りに身を震わせて、衝動的に行動してしまった。おそらくは、B帝がRRの裏切りだと誤解して、衝動的に一族皆殺しを命じたように。
たしかに、身分の違いによる命の重さの違いを当然とする価値観が、受け入れられていた時代だったかもしれません。それゆえ、別の場面では、砂漠の中、戦局が厳しく、少しでも確実に部隊を生き延びさせるために、RR自ら、部隊に男装して混じっていた妻たちを殺害する命令を、冷静に下したこともあった。同様に、愛する妻を殺された部下は、敵に寝返って、RRの部隊の勝機を完全に奪った…。
RRは、自分がされて苦しんだことを、他人に対して無自覚にしてきたということ。それゆえ、RRが直面した苦しみの本質は、因果応報で自業自得というメカニズム、…などでは「決して」ないと、わたしは思います。そもそも、RRの行動は、彼なりに状況に応じて最善と思われる選択をした結果でした。作者も、そんなRRを「悪」として描いてはいません(むしろ、宿命との格闘を活き活きと描写する姿勢には、愛情を感じます)。状況に追い立てられ、もがきながら生き延びてきた選択の愚かさを、もしも誰かが(分析好きのわたし自身が)指摘するなら、それは一生懸命さに対する揚げ足取りにすぎず、そもそも人間はそういう愚かな存在だし、渦中にあったら、わたしもそうしたはずだと(ましてや、さらに低きに流れていた可能性のほうが大きいと)、反論せずにはいられません。
SBと邂逅後のRRは、自らの抱える矛盾や二面性に気がついて、苦しみを深めます。B帝の死後、かつて望んだように、国から彼が認められ招聘が掛かるのですが、それを断る弱々しい(元気のない)声のRRが印象的です。RRは、ここでもまた無自覚で、言葉を結んでいないものの、自らを通じて、人間存在の内にある矛盾や二面性に、また国(人間社会)の内にある矛盾や二面性に直面して、途方に暮れているのではないかと、わたしには感じられました。さらにいえば、SBのように国への想いを貫ける強さも持ち合わせず、そのSBを羨望する弱い自分を恥ずかしく思うRRは、それゆえ人間の矛盾と二面性を丸ごと生きているのでしょう。RRの覚悟が悲壮であるとすれば、そのような自分に気づきつつも、両極に引き裂かれてどちらへも動けない苦しさゆえと感じました。正しい道はあまりに険しくて進めず、かといって居直ってダークサイドに落ちることもできないと自覚した以上、どっちつかずのまま生きながらえます(B帝の死後、7年目に没)。おそらくはRRも、自殺による幕引きを自らに封じた一人でした(文中では、現地での恩義や家族などのつながりをRRはあげていますが、対して、RRの祖父は、親のいない孫を残して、義憤から自死を選んでいます)。
ところで、RRは、自らとSBとを「隔てる根本的なもの」に直面し、自らへの「暗い懐疑」を自覚するに至るのですが、SSとの関係もまた非常に興味深いです。
SSは、RRの名誉を守ろうとしてB帝らに反駁し、結果、死よりも恥ずかしむべき宮刑を受けます。ところが、このことを伝え聞いたRRは、自らの沈む絶望が深く、SSに対して何の特別な感情も抱きません(し、そのようなクールなRRの反応を、SSは伝聞することもありません:そこに作者NAの優しさを感じます)。対してRRは、B帝のため国のために信義を尽くそうとするも、相手から誤解され、罰せられて一族が殺されたことを知り、大いに絶望して反転します。しかし、自らが、為を思って働いた相手に無碍にされることが、どれほど当人を傷つけうるかに、思い至りません(し、それも尤もだと説明を書き添える作者NAには、RRへの深い愛情を感じます)。
そんなSSですが、42歳にしてようやく父の遺言を継ぎ、修史の編纂に取り組むことが叶います。現代の人々に知らせるために記録するにとどまらず、人間の叡智として後世へ伝え残すための歴史、なにより自分自身が書き残したい歴史には、「人間についての探求」が不可欠だと考え、「述べる」と「作る」との違いを熟考する。しかし、真摯に取り組めば取り組むほど、歴史上の人物と自分自身とが渾然一体となるような文章、まるで描き出す歴史上の人物の中に自分が生きているような表現、憑依し憑依される活き活きとした文体が流れ出る。そうした箇所を削除すれば、たちまち修史はいくつもの死人に関する記録に成り下がる。削った字句を戻して、ようやく歴史上の人物たちが「安心してそれぞれの場所に」落ち着くように思われる。
このSSの創作風景に、作者NA自身の創作風景を重ねて見るのは、自然でしょう。わたしは、NAについてほとんど何も知らないけれど、この『R』やその他の彼の短編小説なども、歴史書を下敷きにして創作されたと(文庫巻末の解説に)目にしました。憑依し憑依される関係性のなかで、自らの書く小説の中に(のみ)活き活きとした自由を感じられたのは、SSだけでなく、NAもそうであったと想像します。
先を急ぐ前に、もうひとつSSについて。時代的・文化的な特徴と思われますが、宮刑を受けて「男」でなくなった自分の身体は、「完全な悪」に落ちたと苦しみます。心の傷は癒えても、醜悪な身体は、死ぬまで自分を苦しめる。それは、自分という存在そのものが、悪である証しであり、生きる限り続く恥辱だ、と。これが、「盲目的な獣」としての苦しみの段階です。(が、作者NAの有名な短編『S』では、狼へと変身して初めて思い至った気づきを、数日で通り過ぎてしまうあたり、作者NAが、SSに託した気持ちの大きさを思います。)
その後、SSは、我が身に降りかかった苦悩・人生への懐疑とは別の、意義を疑えない「畢生の事業」である修史に「無意識の関心」が向いており、それゆえ自ら死を選ぶことができないでいるとハッキリと自覚します。ここから、「より意識的な・人間」としての苦しみが始まります。この、獣から人間への飛躍が、とても深いことに感嘆しました!
「獣」と書いていますが、つまりは世俗の社会的価値観のなかで「盲目的に」生きている段階のことです。ここでは、「身体=身」と「心」という対比が支配しています(「身/心」という二元論で捉えられています)。舞台となった漢の時代的・文化的な特徴として、名誉や忠誠といった「心」を守り通すためには、人々は死を恐れず、むしろ喜んで「身体」を自ら差し出します。SSも、死刑を恐れてはいませんでした。しかし、醜悪な「身体」となったSSは、その恥辱から「心」を解放すべく死を願うも、それを押しとどめるものの存在を予感します。自宅に戻ると、それは父に託された修史編纂の完成であることを理解します。自らに刻み込まれた「宿命的な因縁」として、「肉体的な」仕事とのつながりを放棄できないことに改めて気づかされます。ここから、「より意識的な・人間の苦しみ」へと飛躍するわけです。
ところで、世俗の社会的価値観(=知覚や意識)は、SSの「心」=「我」と、「身体=身」とを形成してきたものです。しかし、託された使命への自覚は、既存の価値観にとって、おめおめと生き恥をさらすような人生を続けることを求めます。SSの抱く既存の価値観(=知覚や意識)にとっては、耐え難く、非情な要請です。そのため、「知覚も意識も」持たない、修史編纂のための「機械」に過ぎないと、(既存の価値観=知覚や意識で)自分を定義しなければ、自らに言い聞かせなければ、生き続けられなかったのだろうと思います。SSがSSであるという意識の土台となる「心」=「我」も、そのために捧げる「身体=身」も、当時の社会的解釈の上に成立してきました。この解釈にいつまでも安住できたら、まだSSの苦悩は浅かったかもしれません。「宿命的な因縁」、すなわち、いにしえから脈々と受け継がれて自分に生命(魂)を与えた血統のように、時代を超越した「肉体的な」つながり=使命(魂)への自覚は、SSに当然視してきた当時の社会的解釈に安住し続けることからの飛躍を求めたわけですから。「心/身」という二元論を越えて、使命を抱く「魂=肉体」として自らの存在そのものを捉え直すことは、当時の社会的解釈から、漢の時代的・文化的制約から、身を引き剥がすことでもあります。それは、昭和の時代から当時を見つめる、超越的な作者NAの視点でもあります。
ここで描かれたSSの姿は、作者NAの解釈したSSの苦悩であり、おそらくは、昭和の現実を生きて苦悩したNA自身の苦悩の姿であるのかと思います。作者NAもまた、病床のなか不遇のなかで「心」も「身体」も傷つきつつ、作家として生きる使命によって、自らの小説の中に「魂=肉体」を解き放したのかなと思いました。(ちなみに、「魂」という単語は、作者NAは使っていません。でも、明らかに、「身体」=「身」と、「肉体」というのを使い分けています。その差を強調するために、わたしが勝手に補ってみました。)
そういうわけで、困難な戦場を生き延び、また自らに暗く懐疑するRRも、自らの信じる正義を貫き、恥辱に苦悩しながら使命に生きるSSも、その抱えた宿命の重さにも関わらず、活き活きと自由に躍動する姿には、作者NAが重ねられているのだと思います。NAにとって、小説を書くことというのは、憑依し憑依されてその世界を生きることなのだろうと感じました。事実、『R』のなかで、RRとSSの二人について「だけ」、歴史上の人物としての事実の描写だけでなく、その場にあって思い感じたこと、彼らの知覚と意識まで作者は思い描き、詳細に語っています。(わたしは、新潮文庫を購入したのですが、その文末の解説に、『R』はRRとSSとSBの三人の物語だと紹介されていて、そりゃちょっと違くないか?と違和感を覚えました。それもあって、今回の読書では、基本的に予備知識なく、勝手に読んでいます。)
だからこそ、冒頭に書いたような「静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ち」を抱いてしまうのかなと思います。RRやSSが抱えた宿命の重さも悲壮な覚悟も、作り物としてのフィクションではなく、また単に歴史を題材にした半分史実・半分フィクションといったものでもなく、作者NAが抱えたであろう実体験を(ノンフィクション、と片仮名で書くには軽すぎる経験を)、わたしはそこに感じたからだと思います。
作品は、読者の能力に応じて・読者がそこから読み取れるものしか、読むことができないのだろうと思います。(それゆえ、例えば同じ聖書であっても、子供が、若者が、大人が、死を前にした老人が、それぞれが自分に必要なものを、そこから読み取ることができるのだと思います。) だから、わたしが読むことができた『R』は、私の興味・関心に限定された、豊穣な作品全体のごくごく小さな断片に過ぎないと自覚しています。きっと、H.H.さんからしてみれば、幼い読み方だと笑ってしまわれるような感想だったかもしれません。それでも、この作品に出会えて、とても嬉しいです。作品を作ることに込める覚悟のようなものを、改めて考えるキッカケをもらえました。ありがとうございます。
最後に、『R』を読みながら、H.H.さんがそこに読み取ったであろう痕跡をいくつか感じました(例えば、存在することが悪であること、それでも書写機械として生きる覚悟をしたSSの中に)。そんな大切な小説を、紹介してくださって、本当にありがとうございます。とても光栄です。でも、もしかしたら上述した私の感想は、そんなH.H.さんの想いを、まるで現国の試験問題に答えるかのように切り刻み、分析し、曲解した失礼なものと映ったかもしれません。もし、不快な気持ちにさせてしまいましたら、本当に申し訳ありません。(あなたの真摯さに敬服するファンとしては、自分の正直で素直な感想を真摯に伝えるべきで、あなたのご機嫌を取るために媚びを売るような接し方こそ失礼なのでは、と勝手に考えてしまいました。決して、あなたを否定するものではありませんこと、ご理解ください。)
自分について思索する道を、Kさん=H.H.さんに教え導いてもらえたように感じています。あなたの魂=肉体の存在に、感謝します。(勝手なファンの願いであり、余計なお世話かと思いますが、だからこそ、どうかご無理をされず、くれぐれも心と身体を大切にしてください。) あなたの幸いを心からお祈りしています。
h_s
いじめは受けていなかったけど、いじわるはされていた。
下校の時に靴を隠されたりしていた。
彼女は気にせず裸足で家に帰っていたが。
(しばらく裸足で登校していた)
いわゆる、本物の天然だったのだろう。
ぶりっ子してる性悪は、それが鼻につくようだった。
だけどいじめではなかった。
私は、そんな彼女に世話を焼いたり、焼き切れずに放置したりしていた。
仲は良い方だったと思う。
高校を卒業して、私は地元の国立大学へ、彼女は東京の誰も知らない私大へ行った。
はじめこそ連絡を撮り合ったりしていたが、距離が離れてしまったら交流もなくなった。
彼女は晴れの舞台だというのに、しまむらで買ったようなニット一枚で来て、寒い寒い言っていた。
こいつは本当にバカなんだなと思った。
それなりに幸せで、それなりに忙しく、グチと不満と喧嘩に満ちた、充足した日々。
彼女は欠席だったはずだが、当日になるとひょっこり顔を出した。
10年ぶりに顔をあわせる彼女は、相変わらず垢抜けない格好で、顔つきも変わってなくて一目で彼女だと分かった。
懐かしい再会の嬉しさもあったが、来るのに参加の連絡をしない非常識さにいらついた。
そういう所も相変わらずだった。
彼女にいじわるしていたグループも、勝手にいい思い出に変換しているようで、なんだか親しみを感じているようだった。
よっぽどお腹が空いてたらしい。
彼女の生活が本当に苦しいらしくて、ろくに食べるのも難しいとか。
さもありなん。
全員がそう思って、女社会のシビアな格付けが決定されたかに思えた。
「こんなに儲からないって知ってたら、学者になんてなろうと思わなかったのに」
詳しく話を聞くと、あの後彼女は数学の方面で才能を開花させ、今では東京大学で数学の研究をしているらしい。
今日も、たまたま地元で開かれた学会に出ていて、その帰りによったのだとか。
大学で先生をしているなら、たくさん給料が出ているのではないのかと思うが、給料は出ているがまだ学生らしい。
それに、彼氏の面倒も見ないといけないから全然足りないらしい。
「医者になればすぐお金持ちになれるっていうのも、嘘なんだよー」
彼は苦学生で、その援助のために海外の研究所が1億円の賞金をかけた数学の問題を解こうとしたのがきっかけで数学にのめり込んだとか。
その問題は解けなかったらしいけど、似た問題を解いたらあれよあれよと出世したそうだ。
海外の大学にも何年も国費で留学したり、世界中に友達がいるらしい。
彼女はそんな私達の気も知らずに、会の出席者の人数を聞いて会場の広さを計算して言い当てる一発芸を披露していた。
今思えば、確かに片鱗らしきものはあった。
あと、教科書を隠されたり破られたりして、ちゃんと勉強できなかったはずなのに、理系の教科はいい点を取っていた。
それと、教科書に出てくる歴史上の人物の誕生日を全部覚えていた。
最近では生まれた日だけじゃなくて、死んだ日も暗記していると言っていた。
なんでそんなことを覚えているのか聞いたら、
とわかったようなわからないようなことを言っていた。
彼女とは、やっぱりそれっきり会っていないけど、それからというもの、自分の人生がいかにも平凡な物に思えて、どうしようもない。
なんなんだろうね、この気持ち。
胸の奥の苦しさが収まらない。
ここで全部の回を無料で視聴できる。http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/index.html
高校の頃に世界史を履修しなかったことを後悔していて、何回か受験用の参考書とか見てみたんだけどいっつもフェニキア人あたりのややこしさでわけわかんなくて挫折してた。
で、今ちょうど会社辞めて暇だしみてみるかーって視聴したら、案外すんなりみれて、スッカスカだけど自分の中で骨組みみたいなのができた。この状態で参考書読んだら前より全然読めた。これから参考書だけじゃなくて本とか読んで肉付けしていくつもり。
「世界史、全然知りません」って感じの初心者の人。習ったことある人には全然物足りないと思う。1テーマ20分だし、かなり粗い(多少なりとも知ってる現代史は、物足りなかった)。けど、後に間を埋めていく楽しみもできるし、初学者には向いてる。
ちょいちょい「その頃日本はxx時代で〜」とガイドしてくれるのもいい。
司会、小日向えり嬢の「歴史の部屋」にゲストがその回で扱う歴史に関するお土産とともにやってきて、歴史上の人物をナビゲーターという名の語り手として紹介してくれる(最後の方は歴史上の人物ではなく単にナレーション)。たまに「プラスワン」というコーナーでトリビアを扱う。
先生はルーフバルコニーにずっと引きこもっていて、司会とゲストがキャッキャしていると唐突に音楽を鳴らして司会をルーバルに呼びつけ解説をはじめる。ゲストは先生と会うことがなく、解説中は部屋に放置されている。どういう設定なんだ。司会が席を外すときに、ゲストの人がちょっと「えっ?」って感じになるときがあって、若干いたたまれない。先生の後ろにあるギターが毎回気になる。最終回だけルーバルから出てきた。
最後に1分程度でその回のまとめがある。スライド3-4枚のコンパクトなもので、振り返るのに便利。
声優さんにあんまり詳しくないんだけど、それでも名前を知っている人がいるので豪華なんじゃないかと勝手に思っている。
あと、あんまり見やすくないけど「文字と画像で見る」でサクッと振り返ることもできる。放送内容を綺麗にまとめてくれた「学習メモ」っていうPDFもあるよ(押さえるべきポイント付き)。絵はないけど「学習メモ」のほうが好きかな。至れり尽くせり。
こう書くと誤解されそうだけど、尊敬できる人とは褒めてくれる人なんだと唐突に気付いた。
もうちょい幅を広げると、自分を肯定してくれる人か。
たとえば会ったことないけど尊敬できる人というのは、自分の考え方やスタイルを遂行して成功してくれた人なので、後者に含まれる。
ところで、この尊敬できる人というのは入学試験や入社試験では定番のようである。
となると、これはかなり強烈な質問だ。
暗に「あんた、他人から褒められたことある?」と訊かれているのだ。そこまで意識して問うてるかは不明だけど。
「尊敬する人は親です」という返答「そうじゃねーよ」と受け止められるのも然りである。親は褒めてくれるだろ。そうでない場合も多くあるけど、これは後に繋がることなので保留。
歴史上の人物など会ったことのない人を挙げる場合は、その根拠で受験者がどういうの人物か計られることになる。
なんとなく坂本龍馬とか織田信長とか挙げると「お前の人格はそんなありふれた回答で表現できるのか」となる。
そうなると、この質問、答えるのにけっこう苦労する人も多いんじゃないかと思う。
おそらく今の日本人はそういう人に出会えない場合がほとんどだ。
親すら褒めてくれない、だからどいつもこいつも自己肯定感が低い。
褒めてくれる人を尊敬するというのは、怒らない人が好きとかいう甘えた話ではない。
単なるお世辞やおべっかを超えた、「褒められた!」という実感を与えてくれる人、そういう人と関係を構築できた経験はとても有意義であると思う。
偉人の基準に「男の見方」が入っていることには同意するが、女性の偉人に関しては完全に穿ち過ぎ。
ナイチンゲールなどの美化については、んなもん男の偉人だって美化されてる、で終わり。
あれは「偉人には高潔な人物であってもらいたい」という普遍的な感情による。
ちなみに男の人で「ナイチンゲールみたいな人と結婚したい」なんて言う人はひとりも見たことない。
さらにジャンヌ・ダルクだが、彼女はつまり民族の英雄なんだよ。
試しにフランス人に「ジャンヌって女性が調子に乗らないための反面教師として持ち上げられてるんだよね?」って訊いてみろよ。
つか、「ジャンヌ・ダルクってどんな『話』だっけ」と言うあたり、
もったいねえ。
■はじめに
就活だるいよね。俺も超だるかった。でも俺は内定を3つもらった。
数年前、家庭の事情もあって、とにかく内定が必要だった。だからFランでも、とにかく頑張って内定を取らなきゃいけなかったわけだ。
普通にやってりゃ内定とれるでしょ、とか言ってる奴は、俺の頃はいなかった。本当に無い内定が多かった。中堅以上の大学のことはわからんが、俺の周りのFランではいなかった。
そうなると、マニュアルが需要を持ってくる。面接はこうしろ、とか、ESはこう書け!とか。生来捻くれもので、受験勉強もしなかった俺にはこれが全く合わなかった。でも内定が必要だったから、仕方なく色々研究して、俺独自の内定の取り方を編み出した。
というわけで、俺なりの「内定の取り方」を記述する。たぶん、就活本には載ってないというか、載せたら企業がブチ切れるだろうから。
■対象者
ポイントは、「どこでもいいから」ということ。志望してる業界があって、どうしてもそこが良くて……という奴は知らん。そういう奴は、ESだって頑張れば書けるはずだ。だって、そこに至るバックグラウンドがあるわけだから。
「なんとなくマスコミに行きたい」「食べるのが好きだから食品関係がいい」くらいの奴が、眩しく見えるようなダメ人間向けだ。
ちなみに俺は何にもなかったよ。学生時代は遊んでもいないくせに、留年しそうになって、彼女とセックスするかWiiしかやってなかったよ。大学では寝てた。たまに数少ない友達と飲んでた。楽しい学生時代だったとは思うが、人に自慢できるようなことは何も積み上げなかった。就職先もよくわからなかった。どこもつまらなそうなんじゃなくて、どこもまあまあ楽しいんじゃない?って思ってた。どうせキツくてあぶく銭ってのは変わらんだろ、という発想やね。会社に期待も失望もなかったよ。フリーターと何が違うのかな、とか思ってた。
■ES編
前置きが長くなった。まずはES。基本は、とにかく嘘をつけ。
サークルに入ってない?
そうか、じゃあ入ったことにしろ。学祭の実行委員とかにしとけ。役職は、どうせ学祭実行委員のブログとか出てくるからそこで調べて、自分にとって「スゴイ!」って思う人の役職にしとけ。
部長とか副部長でもいいけど、小心者にはオススメしない。どうしても強い役職になりたいなら、架空のサークルつくっとけ。実在しないサークルの部長なら、誰にもバレないから。
学生時代に学んだこと?そんなもんないだろ。遊び方かサボり方か、自分なんて大した人間じゃないって知ったくらいだろ。
ググれ。どんな人間にお前はなりたかった?お前が人事部ならどういう人間を採りたい?テニサー?本当に?俺ならテニサーの日焼けしたハキハキ野郎なんて絶対嫌だけどなあ。その辺は人によるか。とにかく「理想の自分」をつくれ。見た目以外は何でもアリだ。
俺は確か、ジャズ研でピアノを弾いてて経理を担当し、自分が目立つことよりも他人をサポートすることが大切だと学んだ。授業では主に人と人とのコミュニケーションについてや、歴史上の人物の行動理念などについて見識を深めることで、あらゆる立場・あらゆる人の価値を生かす方法についてよく学んだ、それは主に「相手の話に耳を傾け、相手が何をしたいか察すること」だ、御社にてこの傾聴力を生かし、懸命に頑張ることで、自分のみならず多くの人が心地よく働けるクッションのような役割を担いたい、とかそんなことを書いていたよ。全部嘘な。俺、専攻は詩を書くことだったから。サークル入ってないから。
あとはそんな理想の自分の理想の回答を書けばいい。自分にはセールスポイントが無い?そうだろうね。セールスポイントがある人間なんていないよ。でも、書かなきゃいけないから、じゃあつくればいいじゃない?どんどん嘘を吐こう!
そんで、1枚書いたらそれを使いまわすのが基本な。会社に合わせる必要なんかないから。そんなの疲れるだけだよ。どうせパラパラ見るだけさ。だから、「完璧な嘘」を1枚つくればいい。あとはそれをバンバン送れ。週に2社くらい送れ。たぶん最低でも月に2社は面接までいくぞ。
■面接編
変なことをしろ。変なことを言え。正確に言うなら、笑いを取れ。就活の面接で100点を取る必要なんてない。ぎりぎり合格ならいい。ぎりぎり、「うーん、もう1回くらい話聞きたいかな、ここで落とすのはやめとこう」って思わせればいい。それを繰り返して最終面接まで行くんだ。これ、コミュ障じゃなければ、もうES編の内容暗記して、質問の練習して数撃てばたぶんいけるけど、コミュ障だとキツいよね。目、泳ぐし、声はうわずるし、貧乏ゆすりしそうになるし。
だから、とにかく印象に残れ。あだ名がつけば勝ちだ。俺はメンヘラの彼女と付き合ってて家から2カ月出してもらえなかったときに人と人との関わり方に興味を持ったという嘘をついた。もちろん嘘でいいからな。お前が人事だったらどうだ?どういう話が来たら笑う?あだ名から逆算するのもありだ。「カップ麺」ってあだ名をつけてもらうために、カップ麺だけで生活するとどうなるかを実践して入院したとかそういう嘘ついてもいい。
印象に残れ。面接まで行った時点で、60点取れば受かる状況に来てるんだ。落ちても59点だよ。へこむことはないんだ。パーフェクトにこなす必要なんかない、とにかく練り上げた1つのエピソードだけ、家で声出して練習しとけ。鏡を見ながら目をできるだけ泳がせないように頑張れ。お前の持つ最大のパワーでいい、他人から見たらヘタクソでも、そのエピソードだけは語れるようにしとけ。
俺はメンヘラ彼女のエピソード以外はたどたどしかったけど、この戦略が割と有効で、2次への通過率は凄まじかった。そりゃただのコミュ障より、面白いコミュ障のほうがマシだからな。
捨てろ。いや、まじで。
コツは司会者になること、とにかく自分を前に出すことなんだけど、まあムリでしょ?俺もムリだったよ。ボロボロだったわ。
資料を作って持ち込むとか、そういうタイプの奴なら努力のしようがあるけど。
唯一誰でもできるコツは、「ディスカッションの答えを用意しておく」というもの。だいたい会社関係か、くだらないワークショップなんだ。前者なら、「会社とは何か」「働くとは何か」あたりの理想的な答えをググっとけ。あとはそれを1回筋道立てて喋ればオッケーだ。健闘を祈るわ。とにかく、基本はコミュ障に優しくないのがこのグループディスカッションだ。だって、コミュ力見るためにやってるんだもの。俺は10回くらいやって、2回くらいしか通らなかった。ES通過率はトータル8割くらいまで最終的に数字が伸びたから、それ考えると俺はもう最悪にコミュ障だな。通ったときは、事前に資料をつくるタイプのディスカッションだったかな。そういうものは非常にきっちり作り込みました。それは大事かもな。
60点って話をしたけど、普通の奴はこれを加算式で取っていくのね。コミュ力15点、内容20点、見た目20点、学歴10点……みたいな。詳しくはわからんけど、色んな要素を足していく。それでなんとか合格点を目指すわけだ。
でもさ、俺にはそれが厳しかった。厳しい人俺以外にもいると思う。コミュ障だし、顔も悪い。声も汚い。学歴もない。じゃあ大学で何をしたかって、これも特にない。
そこで唯一の「詰み回避」が、嘘をつくというギャンブルなの。だから、どうせなら大胆に、変な嘘ついて欲しい。どこの会社でも60点を取れる嘘じゃないかもしれない、けど、自分だったら100点つけちゃう!みたいな嘘のつき方をしてほしい。そうすれば、数撃てば、どこかにヒットする。どこか1社以外はヒットしないかもしれない。でも、別にいいだろ?「どこでもいいからとにかく内定が欲しい」わけだからな。
■最後に
俺は新卒で入った会社を、半年も経たずにやめた。どこでもいい、なんてのはたぶん嘘だったんだ。会社で働いて、ああ、クソだなと思ったよ。俺も会社もクソだわと。嘘をついて入れる会社なんてそんなもんだ。やりたいことに関わってるわけじゃないから、働くのカケラも楽しくないしな。
でも、ゼニが必要だし、親もいるし、どこでもいいから!本当に!って人はいると思う。俺はたまたま半年で辞められたけど、それまでは働かなきゃいけない事情があった。そういう人は、このように嘘をついて狡くなって、最低限の生きる金を確保してほしい。罪悪感なんて感じるな。そんな人は本当にごくごくごくごく僅かだ。
逆に、そうじゃない奴は、甘ったれんな。自己PR、本当に無いか?本当にやりたいこと、無いか?よく考えてほしい。就職したくなくて、しなきゃいけない事情がないなら、しないって選択もアリだ。就活ごときに鬱になる必要はない。嘘だけ吐いた俺が内定を取れたんだ。人事に嘘なんて分からない。分かる、って言ってる奴はそれこそが嘘だ。騙し合いでしかない。正々堂々勝負するか、嘘を吐くか、就職しない道を探すか。悩んでるなら是非まず、そのスタートから悩んでほしい。悩めるってのは、幸せなことでもあるのだ。
関東在住の人なら、電車内でみすず学苑の広告を見たことがあるだろう。「怒涛の英語」とか書いてあるアレだ。動物や歴史上の人物に扮したコスプレと、必ず決まって「ヤマトタケル」のコスプレ写真。いったい大学受験と何の関係があるのか、と疑問に思ったはずだ。
みすずの社長は半田晴久。深見東州という別名をもつ。神道系の新興宗教であるワールドメイトの代表を兼ねており、実質的に社長=教祖と言える。みすずの独特の広告は、半田の発案によるもので、なんか深いユーモアが込められているのだという。わかりたくもないが。
ワールドメイトは内部で信徒へのセクハラなど不祥事をたびたび起こしている。この情報が外部に漏れることに神経を尖らせており、Wikipediaの記事は削除だらけだ。
こうした方がいい。ああしたほうがいい。
具体的だったり、簡単で簡潔だったり、他人からけっこうアドバイスを貰う。
自分から聞く方が多いけど、聞いてもないのにされることもある。
自分は結構なプライド高い人間だから素直に受け入れられない事が多々あって、明確な事を提示されても「NO」を示してしまう。
信頼しているからだろうと思う。
じゃあ、他人は信頼していないのか?と言う話になるけれどそうでもない。
ただ、ごく少数の友人や知り合いからの言葉で傷つく事があって、それで一気に信頼が自分の中で低下してしまう。
回復はするんだけど、低下すると少し長い。
その人の言葉にやたらと敏感になって、余計に連絡をとってしまったり会おうとしたり。
何がどうして、そんな言葉を浴びせられたのか確認したくなる。
そんなこんなで自分に自信が無さ過ぎるんだと思い、セラピーやらヒーリングに手を出したりした。
結果、ごちゃごちゃになって余計混乱した。
歴史上の人物が自分に語りかけたとか、本当の自分は辛いと言っているとか言われたり。
気付きもあったけどさ。
精神的に疲れて、それに通わなくなった途端に
セラピストやその類の先生に態度を変えられたのでまた自信がなくなった。
そこで気付いた。
結局は何に頼っていたって、それを信じるも信じないも自分だってこと。
何でもやってみないと分からないってこと。
自分はセラピーやヒーリングは、今はあまり肌に合わなかったと言うのも今回知った。
それで良いんだと思った。
誰かに嫉妬するのだって、自分の気持ちや意志を無視したり、自分に起きる物事に感謝していないから起こるんだと思った。
人生は日々選択をしていかなくてはならない毎日なのに、自分に自信が無いなんてウソだとも思った。
無かったら生きてい無いんじゃないかってね。(これは少し大雑把だけど)
自信が無い無いってくよくよするよりも、やっていて楽しい事、わくわくする事に集中した方が遥かに効率の良い幸せな人生をおくれる。
そう思えるようになった。
facebookってなんなの!?
ごごごごごっ
湧き上がる嫉妬心
あー
モフッモフッ どぴゅっ
おまいらの夢、叶えちゃいなよ。っと
おまいらの夢
計量学習を用いた画像検索エンジンとアニメ顔類似検索v3について
http://ultraist.hatenablog.com/entry/2013/01/09/215045
【これはスゴイ】誰もが知ってる歴史上の人物の肖像画をカラーに加工!!やたらと身近に感じられるようになった件
http://irorio.jp/asteroid-b-612/20121221/40981/
http://anond.hatelabo.jp/20130120190550
本職の僕が負ける訳にはいかないぜww
libpuzzle
http://www.pureftpd.org/project/libpuzzle
本当はもっとしっかりとした face.com とかの
顔認識システム(Facial Recognition System)に特化したライブラリを使いたかったのですが
実験してみたところそれなりの精度で結果が返ってきたので
とりあえずはこれで良いかな。
って感じです。
cakePHP, twitter bootstrap, jquery など今回使った開発環境のほとんどを網羅しています。
本当、このサイトはこれからWEBサービスを作る方は要チェックです。
これ超いいよ。最初覚えるのは大変だけどフレームワークは絶対に覚えるべき。
最近はRubyが流行っているみたいですが、PHPの方が環境構築が楽な気がします。
これも超いいよ。
これもドットインストールを見ればすぐに使えるようになります。
今は、某企業でソーシャルゲームを影から支えるお仕事をしているサラリーマンの僕ですが
学生時代は監視カメラの画像から人間の動きを追跡する研究なんかをやっていました。
その時はC,C+ とか 画像処理ソフトHALCONなんかを使ってゴリゴリとコード書いていたんですけど
最近になってふと調べてみたら
やるっきゃない!と作ってみました。
時間出来たらもっと精度高く顔検出出来るように改善していきます。
楽しみにしていてくださいねー
『おまいらの夢』をよろしくおねがいします
※第三者の写真のアップロードをする時には、必ず本人の許可を貰うようにして下さい
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1/24追記
公開後に感じた事を別記事にまとめました
http://anond.hatelabo.jp/20110803032726 を書いた増田なんだけど、下に続いている議論をいろいろ見ていて思ったことをつらつら書く。
まず一つはオタ文化はすでに弱者ではないのに、本人は弱者と思いこんでいること。そもそもこの不景気の中にビックサイトっていう日本の最大級の展示会場を年二回3日間フルで貸し切って即売会をやる文化のどこが弱い文化だ、と思う。現代美術よりももはや文化の強度としては全然強いと思うんだけどそれでもなぜか自分のことを(無理やりにでも)弱者だと思い込んでいるように見える。
そして、こっちが本題なんだけど、元々の http://anond.hatelabo.jp/20110802212441 に関して、なぜ現代美術をオタク文化は還元できなかったんだろうか。極論だけど、歴史上の人物から衛星までなんでもキャラクター化、すなわちオタク文化の形に変形してきたわけだし、現代美術も勝手に還元しちゃえばよかったのに。なんか現代美術だけきれいに避けられている感じがする。
"悪い場所"という言葉を使うなら、炎上方向じゃなくて二次創作のソースとしてこれまで同様"悪い場所"に取り込んでしまえばいいじゃないか、同じ絵なんだし、そして適当にすみ分けておけばよかったのにと読んで思っていた。ただそれすら拒んでいるような感じというか。
多分コミュニティ論はある程度的を射ていると思うけど、それがすべてではないと思う。そしてコミュニティ論が取りこぼした問題の一つってこんなところがあるんじゃないの、というところで各位どう思います?