はてなキーワード: 必然とは
生きるのは辛いし月曜のことを考えるとみんな胸がキュッってなってるだろうけど、今は忘れてビールでも飲みながらTVでも見てガハハって笑おうぜ。
増田でキツイ事言ってる他の奴らもきっとみんな生きるの辛いんだ。
適当にじゃれ合いながら「こいつ、きついな~wっw」って笑いながら酒でも飲んでりゃいいんだよ。
資本主義は完全に失敗だよ。
お陰で文明はかつてない速度で進歩しているんだろうし無駄ではなかったかも知れないけど、多分きっとこれは失敗だ。
なんでこれだけ進歩した進歩したって言ってるのにこんなにもたくさんの人が孤独や辛さを抱えながら毎週月曜を呪うような日々を過ごしてるんだ。
食うに困らず病気でも簡単には死なず、そんな日常に死ぬ必然もないのに死にたいって思ってしまう人がこんなにもたくさんいる時点でそんな社会は歪んでる。
失敗だ。
これは求めていた答えではなかった。
でもまぁそんな難しいことよくわかんないしせっかくの週末なんだからビールでも飲んでTVでも観て寝よう。
酔っ払うとなんか気分いいし布団は暖かくて柔らかくて気持ちいい。
月曜の事なんて考えなくていいよ。
小学校の時の夢でも観て寝よう。
伊藤@ichi_plus
で、根拠として海外の事情(ノルウェーのシンママ支援?とか)を紹介すると支援を打ち切れって事か!みたいになるのも良く判らない。両方救済される道を模索するんじゃダメなの?まあ使えるお金には限界があるから取捨選択はどうしても必要だろうけど、妥協点を見出す事も可能だと思うんだけどなー
≫ichi_plus その点は、女性が自由意思によって主夫を養う選択をする、ということで両方が救済され丸く収まるということはまとめられている人たちの合意ではあるですよ。逆に言うとそれ以外に全員が救済される道が無いというか。
≫ichi_plus その海外の事情を「支援が貧困を促進させてる!!」っていう風に持ち出して来てるんだから、「支援を打ち切れ」と主張してるという風に取られるのは必然かと。むしろ、そうじゃなかったらどんだけ説明が下手なんだって話である
≫oldschool1933 私も「男女平等、少子化対策、格差対策を鼎立する方法は女性が男性を自主的に養う以外知らない」と書いている通り、それ以外は男女不平等にするか、少子化するか、格差拡大するかの3択になってしまう、と書いているわけです。
≫kyslog だから、「不平等になるから子育てに関する支援を打ち切れ」ってことでしょ?シングルマザー支援をはじめとする子育て支援を否定的文脈・文言で持ち出しておいて、存続には口を濁すのはちょっとどうかと。
≫oldschool1933 私は、どの選択をするかは判断しない立場ですね。ただ、男女平等、格差対策、少子化対策はそれぞれ求められているものであって、できれば全部なんとかしたいわけだから、知らずのうちに良かれと思って良くないことをしている可能性は検討しておかないと危険だね、と呼びかける立場です。
伊藤@ichi_plus
≫oldschool1933 うーん、そうかなあ?「支援が貧困を促進させてる」というのは弱者男性が発生するロジックの説明だと思うんすよね。状況把握の為に現状出ている問題点のピックアップみたいな。KYの雑記氏はそこで提示された問題点をどう対処するかはについては語ってないと思うので支援を打ち切れって言ってる、というのはちょっと違う気がしてます
≫ichi_plus 否定的文脈かつ否定的文言で持ち出されたけど存続の有無について言及してない、「僕は否定していない、忠告しただけ」とか言われると、「シングルマザーに支援すべきでない」ともいってないことになるし「支援を打ち切れ」も一緒だから、どう受け取るかになる。でも、「恩恵を受けれない公的扶助のための徴税によって貧困に!!」って言う論調は生活保護しばき主義とかで見られたロジックなんで、やっぱりもにょる
≫oldschool1933 前者は全方位に対して批判しているので、その批判は受け入れます。後者はちょっと違いますね。結果的に貧しい男から税を取って豊かな男に再分配する逆進性が強いと言っているのであって、中流から下流への再分配は中流を痛めつけるから不要だ、と言うタイプの生活保護しばき主義とは違うものです。
http://anond.hatelabo.jp/20150523131716
大元の増田とあわさってどこから突っ込んでいいのか分からないくらいひどいこと言ってるなと思います。
「女性の富や政治権力の増大」は日本全体の拡大というより、男性から女性への移転という形で
富と政治権力を握中に収めた強者女性=フェミという構図からして謎です。
すごくせまくフェミニズムに限定しても、そもそも「男性による女性の支配構造」を問題として告発してきたという大前提がまずあって。
このフェミニズムの最大の発見/功績を否定するというならまずそこからしっかり立論して頂きたいのだけれど。修辞的な話ではなく。
きわめて極一部の女性を例に挙げて、「オンナはもはや富と権力を手に入れた、だから世の中は男女平等だ」といかいう認識でいるならそれは間違ってます。
男女間賃金格差というのは常に存在し続けてきたけど無視されてきました。日本の場合それはとくに女性の非正規雇用という形で現れてきています。
いまだなお非正規雇用の問題の中心は女性であり、労働市場から排除され続けています。M字型カーブは必然とか、パート問題を矮小化しないでくださいね。
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000002k8ag-att/2r9852000002k8f7.pdf
http://www.stat.go.jp/data/roudou/pdf/point16.pdf
「権力」という多義的な言葉をこれだという形に当てはめるのはちょっと抵抗があります。富も権力の源泉だったりしますしね、でもとりあえず政治権力とみなしそのもっとも中心的なアクターの議員に限ってみても、
確認するまでも泣く議員の男女人数比は女性のほうが少ないですね。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/s60_shiryou/giinsuu_danjo.htm
いやそれでも一部の「強者女性」がいて、そいつらには「弱者男性」を救う(少なくとも道義的な)義務があるとか言うんでしょう。
「強者女性」「弱者男性」とかっこをつけてみました。どちらも内実が曖昧で誰のことを指してるのか分かりませんね。
フェミニストは強者女性なんでしょうか。確かに戦う意志と言葉を持っているという点では「強い」ですね。
でも彼女ら、あえて彼女「ら」と集団として想定するならばですが、一体そのうちどれだけが富を手にしているんですか。
白人中産階級女性フェミニストへの有色人種フェミニストや労働者階級フェミニストからの批判というのはフェミニズム内部での「健全」な批判であって
「フェミニスト」がふんぞり返っているという像の証左ではないですよ。
あるいはそのうちどれだけが「権力」を手にしているというのですか。先ほど議席数を例に出してみました。
最新の数字だと女性議員数は五分の一以下です。これは権力を手にしてる状態なんですか。しかもこの女性議員のなかにフェミニストがどれだけいるんですか。
「男性による女性の支配構造」の話をしました。強者のフェミニストであってもこの構造の被害からは逃れられません。
さて、ブログの方に移ってみましょう
議論を先取りしてしまうと、フェミニズムには、「自分が強者になった後」の理論が弱い。そして弱者男性がフェミニズムに向けて、何らかのケアを要求するのは、将に「それがかって彼女たちがやったから」だ。
「強者」になるってどういう状態ですか。「何らかのケアを要求するのは、将に『それがかって彼女たちがやったから』だ」ってどういうことですか。
先ほども書いたとおり、非正規雇用とは数的にも歴史的にも女性の問題でした。これを男性非正規雇用が、たかだかこの15年で増えたということを殊更に問題視するかのような言説が
女性の置かれてきた位置、状況への配慮のなさ傲慢さが反発を生んでるんじゃないんですか?
「男」が「男」というだけで得られていた特権的地位から転げ落ち、「弱者」になって、それを「女」に向かって救えと要求する構図がまさしく非難/批判の対象なのですよ。
多くの場合において女性は経済的弱者であり、(政治)権力的弱者であり、ジェンダー関係における弱者なのにもかかわらず。
その根本的認識を欠いて「お前らは最早強者だ」というのはすごく控えめに言って、間違ってます。
ここまで書いて力尽きたので本丸の「男性による女性の(象徴的)支配構造」やジェンダー関係の非対称さ、その権力関係についてはそのうち書きたいと思います。
id:mizu2014 : 第一波フェミニズムからカウントすれば100年近い歴史と蓄積のある運動ですが、これって長続きしてる部類には入らないんですか?
b:id:vanillayeti キモくて金のないオッサンを社会的弱者に押しやったのは権力と金を持った男。てかオッサンて、男の年長者ってだけで若い女にはダブルの脅威だから。どこが弱者やねん
b:id:AKIMOTO 弱いオッサンが弱いオバサン以上に弱者であるとは思えないけどなあ。歳を取った女性に対するこれまでのひどい態度が、歳を取った男性にも広がってきたということでは
b:id:shea キモくて金のないおっさんが迫害されるのは女のせいじゃないし、女は賃金低く基本金がなかった状況からマシになりつつあるだけ。この既得権益者どもが被害者ヅラしやがって。
という論法。これ書いてるの小学生じゃないからな。いい大人、いい大人が責任ある立場を放棄して
○○が××なのは△△の責任だから私には関係ないんだ!と駄々をこねてる。
もうね、最強だよな。富も政治権力もある集団が弱者を自称して最底辺の人々への支援を拒否する。
でも、普通はこんな最強の立場には立てないんだよ。弱者を自分のリソースを使って支援したくない人というのは、
男性にもたくさんいるが、社会は強者には責任を求め続けるからね。それに押し切られて支援せざるを得ない。
じゃあ、なんで女性によるこんな暴論がなりたつのかというと、それはフェミが存在するからだよね。
フェミが「男性を強者、女性を弱者」と規定するから、いつまでたっても、女性は救われる側で、
それゆえに責任から逃れ続けることが可能になる。真の弱者からすれば、まさにこれは脅威だ。
男女が平等になり、それにともない女性の持つ富や政治権力が急速に増大しているにも関わらず
また「女性の富や政治権力の増大」は日本全体の拡大というより、男性から女性への移転という形で
なりたっている。これはつまり旧来の強者であり、弱者への責任を負わされていた層が縮小している
ということを意味している。この現状では、弱者の側からフェミ叩きが出てくるのは必然だろう。
社会の構造が変化していくなかで、弱者を支援していた勢力が衰退し、新たに台頭してきた勢力は弱者の支援を拒否する。
これが今の日本で起きていることであって、弱者にとっては生きづらい時代が続くだろうね。
追記
id:inumashさんが挙げている資料から分かることは、大卒女性はすでに中卒男性より豊かだということですよね。
で、高卒男性の下げ幅が大きいので、数年以内に(あるいは2016年現在すでに)高卒男性をも上回るということです。
女性の大学進学率が1990年ごろから急激に上昇していることを考えれば、大卒女性の平均年齢は中卒や高卒男性のそれよりも
低いはずで、つまり若くて高学歴な女性が低学歴(中卒や高卒)のオッサンより稼ぐ時代がすでに来ているということです。
だから、本来ならばこのような女性は大卒や短大卒の男性と一緒に弱者を救済する役目を積極的に負う必要がり、
社会からも当然そのような圧力を強くかけられるべきなんです。変なこと言ってますか?
まず、「既得権益」という単語を適当に使うから藁人形に見える。
そんな難しいもんでも無えよ。
例えば、海底資源権益って言う言い方をすると、海底に埋まってる資源を掘り出して、利益を得る権利ってことだ。
既に得ていることだな。
例えば、既得知識なんて言えば、既に持っている知識のことだ。
組み合わせなんだから当然、「既に持っている、権利と利益」だな。
ポイントは「既得」の部分。
例えば、戦国時代に敵将の首をうちとって褒章として土地をもらいました。権益だな。
結果、400年後の現代日本においても、地主として駅前の土地を大量に持ったままです。既得権益だな。
日本だとおおむねGHQのお陰で解体されてるけど、ヨーロッパの貴族様なんか、マンマだな。
さっきちょっと露悪的な書き方をしたが、既得権益には勝ち取ってきた良いモノもある。
まあ、ワケワカラン貧民を総動員して変な連中が選ばれても困るから、あの時代において一定の合理性はあった。
が、ちゃんと知識層の底上げがなされ、さらに「既得権益打倒」を掲げ頑張った結果、財産に関係なく男子全員に選挙権が与えられた。
そして、「戦後」にやっと、20歳以上の男女と定められ、女性も選挙権をゲットできた。
歴史的な経緯で、現在の人は何もしなくても最初から持っている権益だからだ。
時代は移り変わる。
ある時代には合理性があったものでも、現代において不合理なものもある。
例えば「女性の選挙権は、既得権益だ!剥奪しろ!」なんてのは、現代においても不合理だろう。
じゃあ(炎上しやすい)「20歳以上のみが選挙権を持つのは既得権益だ!18歳に引き下げろ!」というのはどうだ?
さっきチョロっと書いたが、個人的には「ワケワカラン連中を扇動して」状態になりそうだから、俺は日本においては時期尚早だと思ってる。
ただ、ワリと有名だろうが、オーストリアは選挙権を持つのは16歳からだし、米国でも18歳からだ。
これはちゃんと底上げがなされて、理解が進み、結果としてそうなっている面がある。
「俺達にも政治に参加させろ!」の結果の、権益としての選挙権だ。
ただ、何でもかんでもそうではなくて、例えば米国の大抵の場所では酒が飲めるのは21歳からだし、公共の場所では飲めない。
だれでも飲める時代、禁酒時代、一定の節度を持って飲む時代と、米国の飲酒権益は、減ったり増えたりしている。
米国の禁酒時代を続けようとマフィアが頑張っちゃってたら、どうなってたかは想像するだに恐ろしい。
煽り方が悪い。
「既得権益打破!」というと、なんだか全部良いように聞こえる。
(バカもいないとは言わないが)バカばっかりじゃないんだから、ちゃんとして欲しい。
さっき言ったように、良い既得権益と、悪い既得権益がある。つまり、時流に合わないものだ。
炭酸飲料メーカーやギャングが、「オレらの稼ぎが減るから禁酒法廃止絶対反対!」とか言うのは、悪い既得権益だ。
でも、「財政難なんで、生活保護費は打ち切る方向で!既得権益打破!」とか言うのは、良い既得権益の破壊だ。
結局同じで、それが時流にそって妥当かどうかという面が一番重要だ。
例えば、大阪市の敬老優待乗車証(いわゆる敬老パス)は、年間3000円で乗り放題のパスだ。
これは紛れも無く「既得権益」なんだが、じゃあコレって、良い既得権益なの?悪い既得権益なの?
大阪市の70歳以上はおよそ50万人。市営バスだの地下鉄だのに、タダノリする20%の市民。
今後は1回50円負担になるって事は、ソコソコ負担になってたんだろう。
でもこれ全面廃止になったら、利用者ガッツリ減りそうでもある。
本質的な意味で「既得権益の無い社会」というのは、その時代に最も沿った仕組みで在り続ける社会だろう。
例えば、コメ農家の保護と、新規参入が、常に適切に調整され続ける社会。
新規参入は容易だが、壊滅するほどは開放されない。
生活保護費はうなぎ登りでも打ち切られず女性の参政権も確保されるが、成人の定義は変更し続ける。
「既得」ではなく「その時に最も適切」な「権益」が確保される社会が、「既得権益の無い社会」だろう。
ただ、大抵の場合は「政府」だとか「団体」っていうのは、都合良く権利を制限したがるし、好き勝手する。
(文字通りの意味で)血と汗で獲得した権利は、守らなければ簡単に蔑ろにされる。
第三のビールへの課税だとかね。企業努力はワリとあっさり蹴散らされる。
その意味で、「そう簡単には変えられないようにガッチリしてやる!」と権利を確保する方向性は、残念ながら正しい。
で、アファーマティブ・アクション(弱者にゲタを履かせる)なんかは、時代とともに強力な利権になったりもする。
そういう歴史的な経緯で過去権利をガッチリ固めたが、時流に合わない、みたいなのを特に「既得権益」って言ってたりするな。
雑に「既得権益は打破」だの「既得権益は必然」だの言わないこと。
酒の話ばっかりになるが、酒販を巡って酒屋がコンビニになったり、コンビニへ免許を卸す仲介業者まで跋扈した。
コレだって、酒屋がまだまだ強ければ「酒販自由化反対!」と「既得権益にしがみつくな!」みたいな論争になってただろう。
(そういう風になっとる業界もあるが、本論とは関係ないので割愛)
まあだから、「既得権益」だけだと良いものも悪いものもあるから、単語だけで反応せずにそれぞれ個別にちゃんと話そうぜってことだあな。
因みに俺は、市営系の敬老パスは経済的なメリットの方が多いと思ってる。
http://suminotiger.hatenadiary.jp/entry/2015/05/13/162046
運動系の教育現場における連帯責任の話題を見かけ思い出したことがあった。
私の通った中学では体育教師が毎年四月の授業プログラムとして基礎体力トレーニングなるものを行っていた。一度の授業に参加するのは2クラスの男子それぞれ15名前後ずつの計30名程度。主な内容は短距離ダッシュ、中距離走、腕立て、背筋、空気椅子、手押し車、アヒル歩き、馬跳び、カエル跳び、アザラシなどなど全身の筋肉を万遍なくいじめてやるメニューを45分の授業時間いっぱいかけて行う。
特に下半身への負荷が非常に高く、体育の授業があった翌日などはホームルームの起立着席時に男子の動きが緩慢でずいぶん時間がかかっていたことをよく覚えている。非常にキツイ授業ではあったが今考えてもそのメニュー内容はシゴキというレベルではなく指導の範囲内であったろうことは先に明言しておこう。
さて、この授業には掲題にあるとおり連帯責任のルールが取り入れられていた。
2クラス合同で行われているところが味噌で各メニューを何本か連続でこなす最後の一本になるとクラス対抗の対決要素が加えられるのだ。
勝利条件はメニューによって様々で馬跳びのように団体競技で先にゴールしたクラスが勝利となるシンプルな場合もあれば、個人がそれぞれにメニューをこなし「ノルマを達成した者が多くいたクラスの勝利」「ノルマ未達成者を多く出したクラスの敗北」という場合もあれば「最も優秀な成績を出した一人が所属するクラスが勝利」「最も悪い成績を出した一人が所属するクラスが敗北」という場合もあった。
敗北したクラスには連帯責任で都度ペナルティが科せられる。足上げ腹筋30秒。一人でも脱落者が出た場合、もう一度全員でやり直しとなる。ただし二回目以降は有志の人間が脚にボールを挟んでやり遂げれば、未達成者が出た場合でもペナルティ完了となる救済措置が用意されていた。
ところで、ここまで他人事のように書いてきたが、私は昔からからっきし運動が苦手で、この授業でもクラスで一番足を引っ張る役どころとなっていた。その立場から言わせてもらうと、この授業には結果的には大変救われていたと今では感謝している。
この一学期初めの一ヶ月の授業を通して、新たに顔を会わせたクラスメイトたちは互いの運動能力の差を否が応でも理解していくこととなる。そしてそれは運動能力の高いものが自ずと中心になり作り上げていく無言のヒエラルキー的な理解ではなく、各々の能力に応じてクラスの中での役割分担を作っていく形での理解だ。私にはこれがとてもありがたかった。
もちろん運動がダメであることには違いないので、クラスメイトからのそのような認識が変わることはない。しかしそれは明らかな足手まとい、空気のように扱うべき存在としてではなく、フォローが必要な存在としての認識だ。他に助けられた時、必然私は彼らに感謝の言葉を伝える必要があったし、クラスメイトは互いに声援を送りあう必要があったし、誰かが今まで出来なかったことを達成した時には素直に賞賛し合った。それだけペナルティから遠ざかったのだから当然だ。
そうして四月を終える頃に出来上がっていたその空気というのは一年継続することとなり、私は小学生の頃に比べて運動に携わる学校の時間を格段に過ごしやすくなった。
もちろん他クラスからの嘲笑を浴びて嫌な思いをすることもままあったが、中学に入る以前はそもそも団体球技をしている時に同じクラスメイトの運動ができる存在に話しかけることなど出来もしなかったのだ。それに比べれば、できないなりにチームに参加し励まし合うという体験ができたのはこのうえなくありがたいことだったのだ。
私がそのようにクラスに受け入れられ、自身も前向きに取り組むことができたのは、あの四月の連帯責任ルールのお陰であったことを私は今でも疑わない。
わかる。どうやら男性とはそういうものらしい。旦那に聞き取り調査した所、これはもう男性として仕方がない事らしい。
ただ、それを言うなら、谷間を見てくる男性を、話をしているのに目が合わずに胸元を見ている相手を、おっぱいのサイズで格差を作る世の中を、気持ち悪い、最低だと嫌悪するのだって女性の性質なのだ。
それを喜んだりはできない。必然だ。
だから女性から言わせれば、胸ばかり見る男性を「気持ち悪い」「怖い」「最低」と思うのは許して欲しい。
と、いう事になるわけだけど。
あなたは、目の前の男性が自分の胸を注視していると感じたことがあるだろうか。
嫌悪しているどころか、好意を持った異性からのそれを感じた時にも貴方は嫌な気分になったかもしれない。
こいつは私の身体が目当てなのか、と。
冬はニットのセーターという強力な触媒を得てその魔法は強化される。
そして夏は重ね着という枷を外されることによってその魔法の威力は増すばかりだ。
つまり、男性が貴方の胸を見てしまうのは性的欲求によるものではない。
その証拠として、男性は年齢や見た目などの要因によってストライクゾーン外の人の胸にも、目がいってしまう。
落としたものを拾ったり、柔らかい二の腕でその双丘を挟んでみたり、そんな仕草を目の前でやられてしまったらその魔法から逃れることはできない。
男は性欲に駆られて胸を見るのではなく、胸を見てしまった後に(それが魅力的なものであった場合)性欲に駆られるのだ
どうぞ許して欲しい。
http://anond.hatelabo.jp/20150429005010
アニメーターが貧乏なのはアニメ市場に金が入り込まないから。その理由は機械との競争が現実化しつつあるから。
言うまでもなくこの機械とはインターネットとモバイルのことだ。AIではない。
インターネット上には、表現したい欲求を持つ誰かによる無償のコンテンツで常に溢れかえっているし、
モバイルにはフリーミアムな見かけ上は無償のコンテンツが溢れかえっている。
アニメの市場が拡大しないのは、こうした無償のコンテンツと競い合うはめになっているから。
そしてアニメーターの低賃金は、無償のコンテンツの供給過多によるデフレーションによるものだから。追い打ちとしてグローバル化にともなう賃金の均衡化もある。
これはインターネットの性質からすると必然であり、対岸の火事と思っているおまえらの食い扶持だっていつこうなるかわからない。
これにやがてAIによって自動生成されたコンテンツが加わる事になる。
そしてそれらはコピーされフォークされ低コストにあるいは自動的に改変され情報生産コストは限りなくゼロコストに近づいていく。
kawangoはコンテンツは出し惜しみしろと言ったが、人間の欲求(消費したい/表現したい)がこれを許さない。
コピーや改変によって無償の富が溢れかえるのはインターネットの本質なので、アニメ業界を潰せみたいな考えを推し進めると
やがて情報に関わる全ての市場は無償の富か自動化されたシステムに代替されていくんだろうし、CGMをうながす機械やコンテンツを生成する機械を専有する資本家や事業者が富を独占するんだろう。
というか市場というもの自体が一種の人工的なシステム(機械)なので、我々はもうシステムを制御しきれず支配されて駆逐されつつあるといっても良いんではないだろうか。
その胎動みたいなのが、アニメーターみたいなコンテンツ生産者の貧困なんだと思う。
言えるのは、労働法のようなルールは、テクノロジ由来のこの動きに比べ動作が遅すぎるので無力だし、ナイーブに市場原理に任せて潰せはディストピアまっしぐらなので間抜けだということ。
やるべきことは、自動化されすぎた世界における富の分配というグランドデザインを早急に議論し検証し実装することなんだと思う。
そうしないと強いAIなんかが現れるよりずっと前に、世界は貧乏人で溢れかえるだろうし(すでにニートは6億人くらいいる)、貧乏人の中から出現するinsaneな人々が暴れまわる暴力の時代が出現すんだろうね。
例えば「日本のどこそこで震災があった時、在日朝鮮人が事態に便乗して女性をレイプした!」ていうネット上の噂があったとするじゃん。
「そんな事件、嫌だな」
「そんなことがあったなんて信じたくない」
「そんなことがなければいいのに」
そしてその上で、噂が事実として認定されたとき「許せない」と思う。普通こうでしょ?
ところが「ネトウヨ」達にとっては真逆なんだよ。彼らはそんな噂を見た時、こう思う。
「なんて嬉しい事件なんだ」
「こんな楽しいことがあるなんて」
「できれば本当であってほしい」
……なぜなら「ネトウヨ」はリアルに根付いた人たちの痛みなり哀しみなりに寄り添うわけではなく、ネットで「敵」として認定された相手をみなで叩くゲームを楽しんでるに過ぎないんだから。そんなゲームの格好の材料となる「在日がレイプした!」て美味しい話、嬉しくて楽しくて本当であってほしくないわけがない。
そう、彼らが「敵」の失点となる情報を得たとき感じるのは、いちおう表面上は見せる怒りや憤りや失望じゃない、紛れもない快楽なんだ。
やったーまた在日どもが不快な行動をしてくれたぞ、と(噂や未確定の段階で)喜んでるんだよ、彼らは。
そしてこの「嬉しくて楽しい情報が本当であって欲しい!」から、「いや本当じゃなくてもとにかく本当にしたい!」まで発展するのは必然と言ってもいい。だってさ、それら「敵」の失点となる情報=噂はあればあるだけ、「敵」を叩く格好の武器となるんだから。ゲームを楽しむなら、そっちにそっちにって感じになるじゃん。
こうやって単純な快楽原則にのっとったシステムとして、デマは信じられるし広まるんだ。
また「ネトウヨ」諸氏に聞いてみたい。あなたは相手がとにかく悪魔的であること、巨悪であることを、むしろ望んでいませんか?と。あなたが例えばTwitterで「朝鮮人がまたこんな行為を!」という未確定な情報をリツイートするとき、何がその動機のベースになっているのですか、と。
念のため補足すると、これが「ネトウヨ」に限らないという意見には同意するッス。自分の観測範囲の話をしたので他のサヨクなりなんなりもまたこの手の何かになってる可能性もあると思う、てーか「ネトウヨ」だけが突出してバカって世界観のほうがむしろありえん。
2015年に入ってから三ヶ月が経過した。それは、今年のアニメの第一陣(1~3月期)が終了を迎えたということを意味する。
一月に始まったアニメの中で放送前の注目度が最も高かった作品は、言うまでもなく『艦隊これくしょん』だろう。2013年のサービス稼働時から今現在まで破竹の勢いで隆盛を極めていることは、オタク世界に足を突っ込んでいる人間にとっては周知の事実である。特に同人ジャンルとしての隆盛がめざましく、その勢いはかつての『東方Project』を彷彿とさせるほどである。今、最もオタク系コンテンツの中で熱量の高い作品と言っても過言ではない『艦隊これくしょん』の待ちに待った「アニメ化」である。世間の注目度が鰻登りするのはもはや必然だと言える。
だが、そのような前評判に反して、実際に放送された内容はお世辞にも上出来とは言えないものだった。いまいち目的が見えないまま展開されていくストーリー、調和の取れていないギャグとシリアスの配分、そして視聴者に衝撃を与えただけで後の展開にはあまり影響を与えなかった如月の轟沈・・・・・・少なくとも従来の「艦これファン」は戸惑いを隠せていなかったように思える。元々の期待値が高かったこともあってか、ネット上の書き込みでは非難囂々である。
一方、これと比較すると面白いのが『アイドルマスターシンデレラガールズ』のアニメである。これは『艦これ』と同じソーシャルゲームとしての出自を持つ作品なのだが、ブラウザゲーの『艦これ』と違って課金要素が強く、ネット上に出回っている数々の逸話も相まって「廃課金ソシャゲ」の代名詞みたいな存在だった。そんな敷居の高さもあったのだろう。アニメの放送時期は『艦これ』と同時期だったのだが、「アニメ化」に対する前評判・話題性は『艦これ』と比べてそこまで高くなかったように思える。事実、当の「デレマス」ファンの間でもそこまで期待値は高くなかった。「無難な内容でやり過ごして、ソシャゲ本体に悪影響を及ぼさなければそれで良い」なんて話をされていたぐらいである。
ところが、フタを開けてみればビックリの良作アニメだった。島村卯月・渋谷凜・本田未央の三人を軸に展開されていくアイドル界でのシンデレラストーリー、絶妙に挿入されるシリアス展開、そしてまさかここまで人気キャラになるとは思われていなかったオリジナルの男性プロデューサーの登場・・・・・・あくまで目算に過ぎないが、従来の「デレマスファン」を十分に満足させただけでなく、アニメからの新規ファンを大勢獲得することにも成功しているように思える。前評判の大人しさからは信じられない大躍進である。
もちろん、『艦これ』のアニメだってBlu-rayディスクの売り上げを見れば11000枚となかなかの数値なので、「商業的に失敗だった」わけではないだろう。ランキングで見ても現時点で冬アニメ(1~3月期)の円盤売り上げは暫定『艦これ』が一位なので、むしろ商業的にはまずまずの結果である。『デレマス』のBlu-rayディスクは現時点でまだ発売していないので比較しようがないし、KADOKAWAを初めとするバックの組織がいったい『艦これ』という人気コンテンツにどれほどの売り上げを期待していたかは全く分からないが、まあ近年のアニメ円盤の売り上げ規模から言えばケチはつけられない数値であることに違いはない。
ただ、こと「既存のファンの満足度」という視点に絞って言わせてもらえば、今回の『艦これ』アニメの内容は散々だったと言わざるを得ない。SNS上の反応を見ると、多くのファンが次週の展開を戦々恐々とした気持ちで見ていたことが窺えるし、事実としてその内容が彼ら彼女らの不安を払拭してくれる展開であったことなどほぼなかった。ていうか、他ならぬ「一番ファンからの評価が高かった回」が、本筋の話をガン無視して挿入された第六駆逐艦たちのカレー回(第六話)だったことがいい証拠である。同じ「ソシャゲ出身のアニメ」でありながら『デレマス』アニメとは雲泥の差である。もちろん単純比較はできないけれど、少なくとも『デレマス』はファンが来週の展開を心待ちにできるクオリティではあった。その週の内容をツイッターで実況して盛り上がることができた。各話の展開を思い出として胸に刻むことはできた。どちらがお互いのファンを満足させたか、延いては「どちらが抱えているファンを大切にするアニメだったか」の優劣はハッキリと出ている。
片や従来のファンすら激怒させる結果に終わり、片や従来のファンどころか新規ファンまで含めて感動させた。いったい何が両者をここまで分けたのか? というか『艦これ』のアニメはどうしてあんなお粗末な内容になってしまったのか? 冬アニメが一段落を迎えた今、改めてそれを考察してみたい。自分でも『艦これ』に対してきつい物言いをしているとは思うが、あのような悲劇的な過ちを二度と繰り返させないためにも、ここでキッチリと批判しておかなくてはならない。人気コンテンツにあやかった粗製濫造アニメは決して許してはならないのだ。
さて、そろそろ「どうして『艦これ』のアニメはあれほどお粗末な内容だったのか」その理由を語っていこう。実はそれこそが『デレマス』のアニメと比較してみると浮き彫りになってくる話なのだ。というのは、背後の組織が持っている「アニメ化」への意識が根本的に違っているからである。
『艦これ』のアニメがあれほどお粗末な出来であったのは、言ってしまえば「人気コンテンツをアニメにしてみた」に過ぎなかったからである。内容なんて二の次で、とにかく「旬なジャンル」を一刻も早くアニメにすることが至上の命題だったのだろう。商品的価値は『艦これ』というブランドが保障してくれるのだから、あとは適当にアニメの中で「吹雪」や「赤城」といった登場キャラをそれっぽく動かしておけば良い。そうすれば最低限『艦これのアニメ』としては成立する・・・・・・おそらく、制作サイドにとって最も重要だったのはこの『艦これのアニメ』として「成立している」ことだったのだ。たとえ「胸を打つストーリー」がなかろうが構成が破綻してようが、「吹雪」や「赤城」という人気の艦娘を動かしておけば『艦これのアニメ』に違いはないので、「艦これジャンルの商品」としては問題なく売り出せるのである。
いわば制作サイドにとって、『アニメ艦これ』は「単なる艦これジャンルのグッズの一つ」に過ぎなかったのである。どれくらいのグッズかと言えば、アニメイトなどで売っているキャラクターが印刷されたクリアファイル、あれと同水準の「一グッズ」だ。その商品的価値は「『艦これ』のアニメ」だというそれだけだ。しかし、たったそれだけあれば「金剛を印刷したクリアファイル」が『艦これのグッズ』として販売されるように、「吹雪や赤城が動いているアニメ」も『艦これのグッズ』として販売できるのである。何ともファンを舐めた話だが、「艦娘がただプリントされたクリアファイル」を『艦これのグッズ』として購入してくれるように、「艦娘がただ動いているアニメ」も『艦これのアニメ』として評価してくれると本気で思っていたのだろう。そうでなければあんなお粗末な内容のアニメを本気で『艦これのアニメ』と言って世に出せるわけがない。
もしかしたら「でも、キャラクターもののアニメなんてそんなもんでしょ?」と反論したい方も中には居るかもしれない。ところが『アニメ版デレマス』を見てみると、明らかに『艦これ』とは「アニメ化」に対する意識が異なっていることが分かるのだ。
『アニメ版デレマス』は、「キャラクターが印刷されたクリアファイル」などの「単なるキャラクターグッズ」は明らかに一線を画している。というのは、『アニメ版デレマス』の場合、「それがアニメとして成功するかどうか」は決して「Blu-rayの売れ行きの話」に留まらないからである。一番分かり易いのは、劇中のアイドルたちのデビューソングだろう。言うまでもない話だが、あれらの楽曲はCDショップで実際に販売されている。ファンのみんなはそれらの楽曲を「あ、アニメのあの話で卯月ちゃんが歌ってた曲だ!」と思って購入するのだ。そして彼女たちの歌声を聞きながらアニメの感動的なシーンを思い出したりするのだろう。
ここで考えて欲しい、もしも肝心のアニメの話そのものがお粗末な出来であったら、ファンのみんなはCDを購入するだろうか? もちろん楽曲として優れていれば購入する人間は居るだろうが、多くのファンは「あの娘たちが血の滲む努力の果てに勝ち取ったあの曲」だからそれを欲しいと思うはずだ。元のアニメの内容がイマイチだったら「あんな雑な作品のCDなんて誰が買うか!」と購入を控えるファンが続出するだろう。『アニメ版デレマス』の成否は「アニメという一キャラグッズの成否」に留まらず、「他のデレマスのグッズの売り上げ」にまで影響を及ぼしかねないのだ。
いわば『アニメ版デレマス』は、『アイドルマスターシンデレラガールズ』という作品に関わる全ての商品の「PV」としての宿命を背負っているのだ。劇中のデビューソングを初めとする関連商品を購入させ、あわよくばソシャゲ本体の方へ誘導して重課金させるという、商業的な使命である。そしてそのためには、ただ「卯月や渋谷凜などの人気キャラクターがただ動いているだけのアニメ」では決して許されない。きっちりと視聴者の心に響くような、彼ら彼女らを魅了してやまない良アニメでなければならないのだ。
「背負っているものの重さが違う」、『艦これ』の第6話で第六駆逐艦隊にそう語っていたのは足柄さんだっただろうか。カレー勝負ではその重さが災いして雷たちに勝利を譲る結果になってしまったが、現実の世界ではやはりその重さこそが「作品のクオリティ」として如実に表れたと言えるだろう。「単なる一グッズとしてのアニメ化」に過ぎなかった『艦これ』と「他のグッズの命運を背負ったPVとしてアニメ化」された『デレマス』の違いである。異論がある提督諸君はどうか自分の胸に聞いてみて欲しい。『艦これのアニメ』を見るのと、それと同じ時間を使ってブラウザゲーム内で艦娘のレベリングに励むのと、どっちが満足感を得られるかを(特に第6話以外でだ)。
さて、この話は以上で終わるが、最後に余談として「どうして『アニメ化』に対してそこまで意識が違ったのか」を個人的に考察しておきたい。
それは、そのまま「背後にある企業の態度」の違いだったのではないだろうか? 『艦これ』の背後にあるのはKADOKAWAという企業であり、基本的にここは「その時々の旬の作品のメディアミックスで利益を上げる」のがポリシーである。言うなればKADOKAWAにとって個々のコンテンツは「消費財」であって、食いつぶして消化しきったらまた次のコンテンツに移動するのである。我々にとって『艦これ』は近年まれに見るモンスター的コンテンツであるが、そんな『艦これ』でさえも母体であるKADOKAWAにとってみれば「その時々の旬な作品」の一つに過ぎなかったのではないか? 世に出てから二年に満たない期間で「アニメ化」までこぎ着けたのは、むしろ「旬が過ぎ去らないうちにアニメ化して利益を回収しよう!」というそういうことだったのではないだろうか? 邪推と言われればそれまでだが、どうにもKADOKAWAには「コンテンツへの根本的な不信感」みたいなものがあるような気がしてならない。
対して『デレマス』の背後にあるのはバンダイナムコエンターテイメントという企業である。ここにあるのは別にポリシーと言うほどのものでもなく、「いかに自社コンテンツを長生きさせて利益を上げるか」という企業としてごく普通の態度である。KADOKAWAが個々の作品を「果実」として見なしているのに対して、バンナムはどちらかと言えば「果実のなる『木』の方」と見なしていると言える。生み出したコンテンツは「金のなる木」であって、これを「長持ちさせること」こそが自社の利益になるのである。なのでKADOKAWAのようにコンテンツを「消費」することなどあってはならない、できる限り「持続させること」こそが至上の命題なのだと言える。そのようなスタンスだから、『デレマス』のアニメもしっかりしたものでなければならなかったのだろうと思われる。どっちかというと『プリキュア』のアニメでおもちゃを買わせているバンダイの方のノウハウなんだろうね。終わり
岡田斗司夫が番組で共演した中学生のアイドルをデートに誘っていたと聞いて、やっぱり「俺SUGEEEEE」型のヤリチンだったんだなと確信。
俺も一時期そうだったけど、性欲というより「こんなことしちゃう俺SUGEEEEE」が気持よくて突き動いちゃうんだよね。
「女友達に手を出す俺SUGEEEEEE」
みたいな感じで。で、この感覚ってどんどん麻痺していくからエスカレートしていっちゃう。最初は二股とか、彼氏いる子を・・・とかですごい快感なんだけど、じゃあ次はもっとすごいのを、ってなる。
岡田斗司夫も中学生とセックスしたかったというより「中学生を口説いちゃう俺SUGEEEEEE」だったんだと思う。こういうのって破滅するまで突き動いちゃうから、今の状況はある意味必然だね。俺も慰謝料200万取られるまで止まんなかったよ。
http://news.livedoor.com/article/detail/9939748/
http://b.hatena.ne.jp/entry/news.livedoor.com/article/detail/9939748/
つか例え知らなくてもぐぐりゃいくらでも店の情報出てくるだろ。twitterやる暇あったらぐぐれよ。
保育園側に非があるとしたら、三月末じゃなくてもっと早めに知らせろ、って所だけだよなあこれ。
たくさんの子供を少ない人数で見るので、用品のサイズがバラバラだと使いにくい。業者から一括購入すると幼児には見分けられない。
一括購入で全員同じ柄は論外として(大混乱間違いなしだ)、既製品でも大体似たようなキャラクターものになってかぶるしね。
幼稚園ならまだしも保育園ったら自分の名前も読めないような歳の子ばかりなわけで、かぶったら見分け付かなくなるのは必然だし。
追記
それらを利用する財力の無い家庭もある。
件の「拷問」つってるtweetの人の保育園は月6万の認可外保育園だそうで。
入園料なんかもそれなりにかかるだろうし、外注代なんて余裕で出せる家庭じゃなきゃ入れないでしょ。
そもそもtwitterで遊んでる親がそんなに余裕がない訳ないよね。
口じゃ忙しい忙しいつっても実際は金も暇もある人ばかりだよ。本当に忙しかったらtwitterやる暇も気力もないから。
いやいや分かってる癖に。保育士増員の方が高くつくに決まっている。
「何も、何も分かってない、あなたたちは、あなたは何も分かっていない、幼すぎる」
「クズである、無能である、君は何も為さず、害を成し、生きていくことになる」
「君がいるだけで他人は傷付き、悩み、後悔する」
そう(≒そのように)、烙印を押されてきた
曰く、自分の不全な部分を見返し、恥じることもなく、恥じても改善しようともしない
本当に、自分が思ってるような意図で言われているのかは分からない
そうかもしれないし、そうでないかも知れない
死はすべてを終わらせるし、綺麗で、侵しがたい
それに対して、生きることは汚い≒それでも、生きていくなら綺麗ではいられない
生きていくために、自分がどれだけ屑でも我慢しなければならない
人の努力は有限であり、時には届かないこともある
「それはお前が努力しようとしていないからだ、面倒だからだ、怖がっているからだ、変われなかったら自分や他人が失望する事に」と、言うだろう
その対岸には、「人は分かっていても努力が出来ない時があるし、努力をしてもどうしようもない時があるし、むしろ受け入れ生きていくことも大切だ」という意見が存在する
生きていけば、よりよく生きる事を要求される
人は自己を高め、より良い価値を生み出し、貢献しなければならない
「究極まで自分を高めようとする努力」に際限はなく、その極寒には人は生きられない
片や、
人が生きる為に妥協が、つまり坂口安吾が言う所堕落が必要なのも確かである
人は自分の"生き易い"ように行きたいと願うし、そう行動する
それは人を助けるが、社会から弾かれた個体は社会から生きられないのは必然である
人は、常に究極の問いに迫られている
「うんこ味のカレーと、カレー味のうんこのどちらかを選ぶ」か「相手を殴り、社会から排斥され、死ぬか」の2択だ
多層的な随伴性を判断し、第3の選択肢を模索しようとし、失敗し
愚直にも2択を選び、どちらを選んでも苦しむ地獄に落とされ
それでも、生きる事を選択し続けなければならない疲労にやがて心を折られ、身体が動かなくなり、時として死ぬ
「セラピーに来る方は、どなたもなにか途轍もなくて自分にはどうしようもないと思っている問題を抱えてくる」というものである
分かっていることの価値とは、そこにあるのかもしれない
序盤の折衝で築いた小さなリードをノーミスでじわじわと広げる完璧な将棋だった。
だがこの将棋、簡単には終わらなかった。
Aperyが必敗になっても自らの負けを認めず指しつづけたのである。
一般に勝負の世界では最後まであきらめないことが美徳とされる。
しかしプロの将棋界では自分の負けを悟ったとき「負けました」と告げて終局にすることがほとんどである。
これを「投了」とよぶ。
投了せずに自玉が詰むまで指しつづけることはみっともないことなのだ。
それがいわゆる「日本人の美意識」に起因するものかどうかはわからないけれども、
だから、Aperyが投了せずに自分の負けを先延ばしにしようとしたことに対して
非難する声があがった。
「美しい棋譜をつくるというプロの文化・習慣にのっとるべきだ」
「プロ棋士への敬意がない」
など。
本対局が中継されたニコニコ生放送でも解説の某高段の棋士がAperyを批判したという。
「二度と将棋に関わらないでほしい」
などとAperyの開発者である平岡拓也さんを攻撃するようなものもあった。
なぜAperyは投了しなかったのか。
開発者に投了の権利があるらしいですが、どんな勝ち目の無い状況になろうとも、途中で投げません。
もしもプログラムに興味を持ってくれた人がいるなら、、、
負ける直前のコンピュータの特徴的な手は新鮮に映るかもかも知れません。
折角棋譜が残るのだから、コンピュータの特徴的な手を残したいと思います。
それに、Aperyと斎藤五段が戦う訳で、私が間に入って投了するというのは気が引けます。
感情を持たず常に最善手を追い求めることしかできないというコンピュータの特徴が、
投了する直前の局面で立ち現われてくることを彼が知っていたからであろう。
Aperyが投了しないのは、Aperyが最善手を求めた結果なのである。
決してこれはプロ棋士への敬意を欠いた態度から出たものではない。
それらが電王戦という同じ土俵にあがったとき、そこに摩擦が生じるのは必然である。
将棋は興行であるから、プロ棋士は強くあるのと同時に美しい棋譜を残さなければならない。
一方プログラマの多くは、最強のプログラムをつくることを目指している。
どちらが尊いということはない。
電王戦を創設した故米長邦雄永世棋聖は「人間とコンピュータの共存共栄」を唱えた。
それはコンピュータにプロ棋士の流儀にのっとって将棋を指すように強要することではないだろう。
むしろもしコンピュータがプロ棋士と同じように「礼儀」を心得て将棋を指すようになったら、
そして近い将来コンピュータがプロ棋士より決定的に強くなったら、プロ棋士の存在意義が問われることになるだろう。