2015-03-25

「分かっている」ことの価値

「何も、何も分かってない、あなたたちは、あなたは何も分かっていない、幼すぎる」

クズである無能である、君は何も為さず、害を成し、生きていくことになる」

「君がいるだけで他人は傷付き、悩み、後悔する」

自分を都合の良いように肯定するな」

そう(≒そのように)、烙印を押されてきた

曰く、自分の不全な部分を見返し、恥じることもなく、恥じても改善しようともしない

いわゆる、クズである

本当に、自分が思ってるような意図で言われているのかは分からない

このような言葉通りに発言されていたのかは分からない

そうかもしれないし、そうでないかも知れない

完全に迷惑をかけたくなければ、死ねば良い

死はすべてを終わらせるし、綺麗で、侵しがたい

なぜなら、はっきりしていて、"死ねばお終い"だから

それに対して、生きることは汚い≒それでも、生きていくなら綺麗ではいられない

生きていくために、自分がどれだけ屑でも我慢しなければならない

人の努力は有限であり、時には届かないこともある

「それはお前が努力しようとしていないからだ、面倒だからだ、怖がっているからだ、変われなかったら自分他人失望する事に」と、言うだろう

それは真実であるしかし一面の

その対岸には、「人は分かっていても努力が出来ない時があるし、努力をしてもどうしようもない時があるし、むしろ受け入れ生きていくことも大切だ」という意見存在する

人は、こうした葛藤に苛まれることが必然となっている

それは、生きる事に必然から

生きていけば、よりよく生きる事を要求される

人は自己を高め、より良い価値を生み出し、貢献しなければならない

しかし、その究極に生命存在できない

「究極まで自分を高めようとする努力」に際限はなく、その極寒には人は生きられない

過剰適応である

片や、

人が生きる為に妥協が、つまり坂口安吾が言う所堕落必要なのも確かである

人は自分の"生き易い"ように行きたいと願うし、そう行動する

それは社会的価値を生まず、怠慢に生きることを存在させる

それは人を助けるが、社会から弾かれた個体社会から生きられないのは必然である

不適応である

人は、常に究極の問いに迫られている

うんこ味のカレーと、カレー味のうんこのどちらかを選ぶ」か「相手を殴り、社会から排斥され、死ぬか」の2択だ

多層的な随伴性を判断し、第3の選択肢模索しようとし、失敗し

愚直にも2択を選び、どちらを選んでも苦しむ地獄に落とされ

それでも、生きる事を選択し続けなければならない疲労にやがて心を折られ、身体が動かなくなり、時として死ぬ

セラピーに来る方は、どなたもなにか途轍もなくて自分にはどうしようもないと思っている問題を抱えてくる」というものである

それが言語化できるだけでも、もうそれは大したものである

分かっていることの価値とは、そこにあるのかもしれない

対象化し、事態を把握し、そこに立ち続ける事

それが出来ているということは、生きると言う選択肢を取りつつあることに他ならないから

  • 追記 つまり、どこのレベルで人を救わんと考えているかだ 手伝いたいレベルは、目標は、手段は そのメタとして、「生きることは、時に研鑽し、時に堕落し、時にそこから逃げられる...

  • 愚行権の定義だとか、公共の福祉に抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態の人間が社会と契約することで社会が成立するだとか そういう理由でそれに意見することは...

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