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2023-07-24

ガチャとは

私は今、母と一切連絡をとっていない。

幼少期の色々な出来事現在の私を今でも苦しめる。

所謂"普通"の親子関係が分からない。

私の母は母になれない人だった。

父の出張不在時は不倫旅行、4歳の私は家にほか弁を置かれて数日1人っきり。

寂しくてお腹が空いて泣いて、耳の奥が痛くなってどうしようもなく、記憶を振り絞って祖母宅に電話したら、祖母叔父が迎えに来てくれた。

その後捕獲された母からは後日ボコボコに殴られた。

酒癖も悪く、部屋のその辺に嘔吐、放尿、包丁振り回して全裸で暴れる。

それを片付けろと命令される。

幼稚園は無断欠席。

今の潔癖症嘔吐恐怖症はここからだと思う。

気に入らないことがあると殴られ、蹴飛ばされ、発狂する母に"あの女"と呼ばれるようになった5歳の頃、初めて自殺を試みた。

母がいつも振り回していた包丁で、私に向けていた包丁自分の手を切ってみた。

母のお望み通り死のうと思った。

手を切ったくらいじゃ死ねず、誤って切ったことになって案の定からボコボコにされた。

こんなことなちゃん死ねたら良かったなと思った。

その後両親は離婚し、残念なことに私は母に引き取られた。

母と母の彼氏と新しく生まれた弟、そして完全に異物の私。

小学生の頃、相変わらず母は酒癖悪くその辺に嘔吐と放尿、朝まで全裸錯乱、そして私にだけその片付けを命じ、暴力を振るった。

生活保護費は大体母の飲み代に消えた。

私の養育費を父に何度もせびり、私のお年玉お小遣いも全部母のゲロと小便に変わっていった。

運動会遠足前日に飲まれると地獄だった。

片付けで一睡もできず、朝までボコボコにされた上にお弁当はないし、誰も見にこないからなるべく隠れて過ごしてた。

弟の世話を丸投げ、成績は100点以外は許されない、友達と遊んではいけない、という条件も追加され、さらに窮屈な生活だった。

何度も交番に駆け込んだけど助けてくれなかったし、後日ボコボコにされるから行くのをやめた。

なんだかんだで私はまだ母を愛していて、答え続ければ愛してくれると思っていた。

そんなある日、痴情の縺れから母は灯油かぶり焼身自殺を図った。

弟に見えないように毛布を掛けた。

完全に私のことはどうでもいいんだと思い知った。

一命を取り留めた母は最初は殊勝な態度だったが、元気になるにつれてまた酒癖が悪く暴れるようになった。

中学生になった私は非行に走らなかったものの、もう歪んでしまっていて、成績だけが私の存在価値だった。

運動部にも所属して、傍目から普通に過ごせてたと思う。

ちなみに母は身体が弱くて優しい母を演じていて、先生警察、友人は助けてはくれなかった。

(近所の人にはバレてると思うけど)

でも家に帰れば、母と母の彼氏との絶え間無い喧嘩、酒癖悪く暴れる母、1点でも落とせば殴られる環境、愛されている弟(愛されていてもこの環境はよくないよね)、この環境を誰も信じてくれないつらさから私は2度目の自殺を図った。

家中の錠剤を一気に飲んだ。

風邪薬や母の飲み忘れてる安定剤や痛み止めなどとにかく全部。

数百錠はあったと思う。

途中で記憶が無くて気が付いたらトイレ嘔吐してた。

部屋を汚したくない気持ちが強かったのか、無意識に移動してた。

一晩中嘔吐し続けて明け方赤黒いものを吐く頃に少しおさまってきた。

弟は寝ていて、母達は飲みに出ていて帰ってこなかったのが不幸中の幸いか

私はまた死に損なってしまった。

(今ではこのくらいじゃ死なないだろうと分かるけど)

この頃の記憶がずっと私を苦しめる。

私は親ガチャ失敗かな、って思ってる。

もっと大変な人もいるのは分かってる。

今は母と連絡を断ちほぼ絶縁状態暮らしをしているのに、少しでもつらいことがあると一気に沈んでしまう。

私はもう大人だし大丈夫、なんだかんだで立派に生きていけてるし!と言い聞かせても、あの頃の気持ちが蘇ってしまう。

最近私に娘が生まれて、(本当に可愛くて仕方がない)こんなに愛しい子どもあんなことができるなんて、と私は母に愛されてなかったことを改めて自覚して、

"普通"の親子関係ってどうなんだろうって悩んでる。

ここに書き捨てて供養していきたい。

とりあえずここまで。

2023-07-23

anond:20230723164847

ドラム式洗濯機について

選別が大変

これはもう諦める。やってみるとわりといける。販売会社がかなり安全側に倒してるだけ。

どうしても大事なのは分けてやるしかないな

冬休み、1日頑張って家中のベッドリネンを倒した後に、厚手のパーカーをそっと渡された時の怒り、わかりますか?

自動なんだからそれこそ気にならない。というか、シーツ類と厚手のパーカーは分けた方がいいよ

ドラム式の手入れって結構めんどくさい。

縦型は基本的にはゴミ取りネットさえ

去年あたりからドラム式洗濯機メンテナンスはかなり楽になってる。

2023-07-01

anond:20230630191632

同意

高気密高断熱に夢を見すぎてる気がする。

結局、木造住宅が痛むのは水分だ。

木材乾燥した状態では強いが、濡れた状態では弱い。

高気密高断熱というのは、断熱で結露を防いで、気密することで計画換気という話し。

気密性があれば、家のどこか数カ所からファンを回して排気すれば、空気が引っ張られて家中空気が回るという。

コンセプト自体は古くて、何十年も前からある。ちょっと前までスーパーウォールと言ってた。100年持つと言われて登場したが、今、古いスーパーウォールの家のリフォームをするとクロスの下はカビだらけだ。

当時は24時間換気システムがなかった、貧弱だったせいもあるけども、やっぱり空調機に頼った換気というのは難しい。

クリーンルームを作るときなんかは、換気回数や差圧を緻密に計算して作るのどけど、最初からうまくいくことはない。

まして、敵は湿度だ。

温度と違って湿度は同じ部屋の中でもムラがあり、部屋の端と端では湿度が違うこともしばしば。

空気が流れていても、部屋の片隅の湿度そのままであることはしばしば。

コロナ禍で盛んにシミュレーションされてたとおり、空気の入れ替えには窓を開けることが最強である

20年で廃屋のようになる家と、築20年でも痛みがない家の違いは、断熱でも気密でもない。

寺をみるといい。

どの寺も古いのに、雨風に晒されても柱も壁も腐ってない。

やはり木造建築を長持ちさせるのは、陽当たりと、換気だと思うところ。

持ち家派は窓を開けろ。

話はそれからだ。

2023-06-24

YouTuberが息子を変え続けてる

炎上系っぽいYouTuberにハマった時はなんかもうイキリまくってて親でも見ててキツい感じになってたんだけど

前は丁寧な暮らし系にハマって家中掃除したり収納見直したがったり白湯飲んだりしてた

今はキラキラ丁寧生活系(?)にハマって朝6時に起きてソイラテ飲みながら勉強してる

親としては自主的勉強してるとか凄いな、YouTuberありがとうございますって感じなんだけど

感化されやすいの面白いから次は何にハマるんだろうって楽しみにしてる

(追記)

10代前半だよ

偏った意見は信頼しない方がいいよ、責任を持った大人は難しい問題について断言はしないからねとは伝えてあるので陰謀論系や情報商材系にはいかないと信じたい

そういうのを見てバカにするのもやめなね、スルーしなよ、うんこに触るとうんこが手につくしそのうち全身うんこまみれになるよって言ったらギャハハ💩って言ってた

あと別に監視してるわけではなく見てーって今ハマってる動画見せてくるから知ってるだけよ

2023-06-10

子供を走らせないのは無理

あの短い足で家中を動き回るのが幼児なんですよ。

ちょっとハイになったらすぐ走るんですよ。

大人には狭い部屋でも子供なら走れちゃうのもあるし。

歩くように声はかけるし物理的に止めたりもするけど、後手になることやこっちの手が離せないこともそりゃあるさ。

床には2cm厚のジョイントマット敷き詰めてる。

それでも階下住人から苦情がくる。

努力はしてるが無理なものは無理。

2023-06-03

犬が亡くなった日の日記

家族として暮らしていた柴犬が死んだ。

17歳と8ヶ月の犬生は大往生と言えると思う。

一昨日に体調を崩して、昨日は少し持ち直した。

今朝、母に抱かれて外の空気を吸い、多分そのまま旅立ったのだと思う。

家に戻ってきて様子を見たらもう呼吸も心臓も止まっていたらしい。

私は実家から1時間弱の場所暮らしていて、弟から死んじゃったみたい、と連絡を受けた。

本当は昨晩実家に帰るつもりだった。大雨で帰るのは今日に延期した。

犬と最後にふれあったのはゴールデンウィークが明ける前の土曜日だった。

犬は1年前くらいから歩くのが下手になり、半年はひとりで立ち上がることもできない状態だった。

でも噛む力だけは衰えず、老衰で力加減を忘れた分、若いときよりずっと危険だと家族と笑いあった。

いつだかシルバーバングルに不意に噛み付いて、傷を付けていた。

外につれていくと歩こうと前脚を動かすので、四足歩行体制になるように支えて歩かせた。

人間の方がよほど疲れると母と笑いあった。

犬は数年前に腫瘍が見つかっていて、視覚嗅覚は衰えていた。

それでも老犬なりに動けないなりに、それなりに元気な老後だったと思う。

とにかく牛乳が好きな犬だった。

犬に牛乳はあまりよくないというのを知った頃には牛乳が大好きな犬になっていた。

老いからは犬用の粉ミルクに切り替えていたけれど、それまで我が家冷蔵庫牛乳を消費しているのはほぼ犬だった。

煮干しの頭が嫌いだった。

頭だけ器用に残して食べていたので、一時期我が家リビングには煮干しの頭が転がっていた。

鮎を貰って大喜びしていた。

近所のおじさんに冷凍した小さな鮎をよく貰って、人間より良いものを食べているなと笑った。

さつま芋が好きだった。

人間食べ物にあまり興味を示さなかったが、焼き芋干し芋だけは盛んにアピールをして食べていた。

抱っこが嫌いだった。

抱き上げると器用に身をよじり、脱出する様子はうなぎのようだった。

個人主義者だった、と思う。

我が家人間はそれぞれ好きなことを自分のスペースでやるタイプで、犬もそんな感じだった。

好きにしていて、人間が集まったタイミングで犬も参加してきた。

甘噛が直らなかった。

さなかった。塩対応の犬だったが、人間帰宅した時は甘噛で出迎えた。それがうれしかった。

お手とおかわりと両手タッチと待てはできた。伏せはおぼえなかった。

テレビの前の机の下が定位置だった。

老いからはよく母の後をついてまわっていた。

目がよく見えなくなったとき家中の隙間や椅子に挟まって助けを呼んでいた。

風呂場や台所玄関で寝こけていた。

夏の暑い日は、縁側の下に潜り込んで寝ていた。

雷や花火の音に怯えて家中をウロウロしていた。

シャンプー大嫌いで普段はあまり鳴かないのに大鳴きしていた。

よく額の毛に指を突っ込まれて穴模様を作られていた。

ブラッシングも嫌いで特に後ろ脚はよく怒っていた。

換毛期に顔に謎の模様が浮き上がることがあった。

はっきり模様が出たときは、近所の住民にこどものイタズラでペンで書いたものだと思われていたらしい。

キツネみたいな顔だった。

たまに顔がまんまるになっていた。

濃茶色の毛並みなのに、背中は焦げたみたいに毛の先端が黒かった。

しっぽの先端も黒かった。

額と耳の、濃茶色の短い毛がいちばんやわらかくてふわふわの毛並みだった。

から腹は白い長めの毛で、綿花みたいだった。

散歩に行くとたまに雑草をかじっていた。

犬に会うと尻の匂いを嗅ぎに行くのに嗅がれるのは嫌がって飛び退いていた。

犬よりも人間のほうが好きみたいだった。

亀に恐る恐るちょっかいを出し、猫には負けていたがよく猫を探していた。

そういえば散歩中、我が家の犬と同名の犬に会ったのを思い出した。

黒と茶色マーブルの同じくらいの体格の犬。まだ元気かな。

歩くのが下手になってからはよく側溝に落ちかけていた。

散歩で遠くまで歩けなくなっても、家の周りのパトロールは入念に行っていた。

近所の仲の良かった犬たちの中では最も長生きをした。

しばらく前に亡くなったボクサー犬の飼い主が、お供えと言っておやつを持ってきてくれた。

祖父祖母も顔を見に来てくれていた。

今日は犬の思い出を探して、家族みんな写真グループラインで共有していた。

古いカメラ携帯を引っ張り出してデータサルベージしては、思い出を語り合った。

家族は、午前のうちに気持ちを整理したようだった。さっぱりと涙を流して、

写真を見て笑い合って、腐敗を遅らせるために保冷剤を添えた犬に声を掛け、やっぱりたまに泣いた。

今、リビングに安置されている犬のそばにいるのではなく、日記を書いているのは、

犬がまだこの家にいるうちに自分記憶を書き出さないと駄目な気がしたからだ。

犬は明日には灰なって、もうこの家には帰ってこない。

冷たい犬の額を撫でるたび、その事実が脳に布を掛けるような涙になる。

私は犬のいる家が好きだった。

母と父がリビングで寛いでいて、二人の弟はそれぞれの部屋で遊んでいて、たまに降りてきて会話を交わす。

そして犬は定位置か母の近くで寝ていて、起きたときには、チャカチャカとフローリングを爪ではじく軽快な音を響かせる。

この光景永遠になれと願った。この家族の揃った家が私の永遠だった。

もう犬の魂はこの家を離れて、明日には身体も無くなってしまう。

今朝、犬は母に連れられて雨上がりの空気を吸い、少し地面に触れて、再び母に抱えられた。

そうして自分の足が動くことに気が付いて、母の腕を離れ、軽快に力いっぱい走って、虹の橋を渡っていったのだと夢想する。

自由に走ることができて大喜びだっただろう。遊びに誘うような笑顔で振り向いてくれただろうか。

犬の友達は向こうにいるし、もとよりひとりでいても困らない性格から心配はいらない。

不自由な肉体から解放された犬を明るい顔で見送る家族

私も、この別れは限りなく良いかたちだと思っている。

それでも私は、もっとこの家にいてほしかった。ずっといてほしかった。

家族はもう気持ちを整理できたようだった。水をさしたくないので、

この日記を書きながらひとり部屋で泣いている。私の永遠が終わってしまった。

ずっといてほしかった。ずっと5人と1匹の家族でいたかった。

別れたくないのに引き留められる場所にはもういない。いたって私には手段がない。

納得しているのに受け入れがたい。

去らないでほしい。ずっとリビングにいて、家族みんなに呼びかけられていてほしい。

犬が夜鳴きして、私ひとりが起きてきた夜のことを思い出す。

ずっと記憶にある思い出。

玄関腰掛けふたりで月を見た夜。

あの月を見たときは、犬と会話ができていたような気がしている。

意思の疎通ではなくて、おもいをひとつにするとか、そういう感じの。

もういない。

2023-05-23

実家帰るたびに悲しくなる

母親認知症

父親アルコール依存症かつたぶん軽度知的障害

父親身の回りのことができないので認知症の母に家事やらせてる

もう素麺ひとつまともに茹でられないのに

実家に帰ると台所から下水臭いがし、常温の食器棚にゆで卵が入っているわ閉まってある皿は油でベトベトだわ、風呂便所もカビと垢だらけ

母親に指摘するとキレるし、父親家中ボロボロでも気にせず酒を飲み続けるだけ

両親ともに貯金もなく年金で食い繋いでいる

ここから更に病気怪我などに見舞われたらもう金の工面はできない

介護施設に入れる甲斐性も資産もない

時々実家帰って様子は見ているし、認知症ケアマネージャーもつけてやったが、俺にはこれ以上面倒を見る余力はない

本人らは気にするほどの理性はなくなっているが、健常な生活をしている人から見たら悲惨底辺暮らしぶりは隠しようもない

もうなるようにしかならない

俺が金持ちならもっと面倒見の良い有償介護サービスもつけてやれたかもな

実家に帰って親の様子見を見るたびに怒りとか無力感とか不快感かいろんなやるせない気持ちがいっぺんに湧いてきて悲しくなる

2023-05-18

個人輸入抗うつ剤を服薬したゾ

吾輩は鬱である診断書はまだない。

(この日記フィクションです。)

近代社会ダブスタ具合には辟易するものがある。

メンタル弱者に寄り添う生暖かいメッセージや誰も得しない死にたがり電話センターが乱立しているが、

実際問題メンタルヘルスの問題を抱えていると、人並みの社会生活を送ることは厳しい。

まず、生命保険の加入、および住宅ローン団体信用生命保険の加入)が組めない。上記2つをやろうとすると、それぞれの既往歴チェックに引っかかる。

既往歴の申告期間は、生命保険がだいたい5年、住宅ローン(団信)が3年。つまり何らかの診断をもらうと、上記間中保険にも加入できないし、ローンを組んで家を買うこともできない。

厳密には引受基準緩和型の保険や、フラット35なら団信が任意だったりするのだが、健常者よりはコストがかかったり、資産価値が下がり続けるマイホームに35年かけてローンを払い続けるのは正直勘弁してほしい。

加えて、転職活動が非常に難しい。厳密には転職活動に際し、既往歴を開示する必要はないのだが、だいたいの職業面接では病歴について面接官に質問されることがデフォルトである

これに答えないこともできるが、普通に考えれば病歴を開示しない人は採用されないだろう。かといって、健常者である と嘘をついても、どこかしらのタイミングでバレることになる。(入社時に前職の源泉を渡すなど)

また、メンタルが不調なまま新しい職場で健常者を装いながら仕事を覚えるのはかなり酷なものである

勝手メンタルを潰しておいて態度がでかい、何様だと憤りを覚えるモーレツサラリーマン様もいらっしゃると思うが、こんなクズでも養わなければならない家族がいたりと、クズなりの正義義務存在するのだ。そんなクズ社会におけるハンディキャップ回避しながら鬱を治療する方法の一つが、個人輸入による投薬治療である

これは必ずしも人に薦められる手段ではないし、私が責任を取れることは何もないが、現状 自分が服用するために個人抗うつ剤を輸入して使用することは、法律上はセーフ(のはず)

ただし、薬品の種類によってはアウトだったり、一度に輸入できる量に制限があったりするので、そのあたりはきちんと調べる必要がある。

私は今年の3月初旬、現職からIT業界への転職を目指してプログラミング学習をしていた。しかし、当時ChatGPTがもてはやされ、プログラマという職業がなくなるのでは、と喧伝されていたこと(今考えると馬っ鹿馬鹿しい)や、現職が非常に忙しくなってきたこと、加えて元々体が弱く季節の変わり目でガタがきていたこともあり、精神状態が非常によろしくなかった。

具体的には家中の物に当たり散らかす、職場の同僚と話している時に突然キレる、妻とまともに会話できなくなる(私の荒れた様子をみて怖がっていた)、外に出る事を避けるようになるなど。ただのやばいなのだが、自分コントロールできない自分自身への絶望も相まって、精神状態加速度的に悪くなっていた。

私が在職中にメンタルをやってしまったのは2度目で、前職では家庭事情実家)のストレス抑鬱状態悪化し、めまいで体を起こすことができず、壁などの支えがないとまともに歩くことができない時期が1年以上続いた。その時はきちんと休職して通院し、抗うつ剤を処方されていたが、飲み初めのセロトニン症候群めまい症状が劇的に悪化し、結局飲まずに時間の経過だけで症状をある程度改善させた。しかし、実際は(めまいが発生したり、抑うつ症状が発生した場合でも健常者のふりをして社会生活を行う)というスキルがついただけで、自身メンタルヘルス自体が良くなったわけではない(と思っている。)

働き始めて2度目のメンタル不調がきたことで、根本的な治療を行わなければならないと思い立ち、前回はできなかった投薬治療をもう一度挑戦しようと考えた。ただし前回の休職転職時に、メンタル関連の診断が降りるといわゆる「まともな人」が送れる社会活動が一部阻害されるとわかったので、個人輸入抗うつ剤仕入れ休職と通院なしで薬と気合いで何とかする手段を思い立った。

私が購入したのは、トルコ製薬会社製造している、とある抗うつ剤ジェネリック薬品。主に不安症状への効果が高いとネットに書かれており、もともと人嫌いな性格自分に合うのではないか、と思い、軽い気持ちで1ヶ月分の錠剤を購入した。注文してから日本に到着するまで約3週間かかった。香港倉庫から出庫されるまでは早かったが、トラッキングサイトを見るとフライトへの搭載と通関で時間を食っていたようだ。

ボロボロ状態で3週間を耐え抜き、ようやく手に入れた直後に規定量を服薬する。やはりセロトニン症候群によりめまい吐き気が起こるが、今回は初期症状がおさまるまで我慢して飲み続ける。服薬してから5日ほどで、めまい吐き気はなくなった。

そうすると、今度は薬による本来作用を感じるようになった。私が飲んでいたのはSSRI選択的セロトニン再取り込み阻害薬)という、セロトニン血中濃度が上がるタイプの薬なのだが、この効果なのか常に「お風呂上がり」のような感覚が体に染みついて離れないようになった。

風呂上がりの時に、昔の辛い思い出が蘇ったり、将来に悲観したりすることはあまりないだろう。つまりは、通常の思考を妨げるマイナス要因が差しまれなくなった という表現が近い気がする。脳みそにあたたかバリアが張られているような?

飲み始めて1〜2週間はその感覚が強かったが、3週目以降はそれが当たり前のようになり、日常生活を送る中でトラウマフラッシュバック衝動的な不安に襲われることがほとんどなくなった。とんでもないものである

しかし、良いのか悪いのか、現状の生活に満足ができるようになったので、IT業界への転職活動学習は全くやらなくなってしまった。

ところが、GW中に運悪くコロナ感染してしまい、それなりに症状が重かったため1週間ほど薬をガバガバ飲みながら寝込むことになってしまった。コロナの諸症状を抑えるための薬が抗うつ剤バッティングしないか不安だったため、一時的抗うつ剤の服薬を止めたのである

これにともない、不安抑うつ症状が復活するかと思いきや、高熱と咳と呼吸困難てんやわんやのためメンタルどころではない。生命危機メンタルもクソもないのである。結局、コロナの症状が治まった後も抗うつ剤の服用は再開していない。

3月に服用を始めた時は、自分の中の不調の波がピークだった時なので、今後も波がきた時に飲み始めればいいやと思っている。

服薬をやめて、また人嫌いや外に出たくない欲求が少しづつ復活してきている(程度はしれているので、元の性格に戻った、が正しい)。加えて、IT業界への転職欲求が復活してきている。

これは、現状維持では満足できず、慢性的に何らかの焦燥感に苛まれていることが原因だと思う。自分が抱える不安症状が、現状を脱するためのプラスの力になることもあるのだな、と、自分性格を前向きに捉える事ができる良い機会となった。

文章として書いていて気づいたが、やはり自分クズであるちゃんとしている人たちから見れば、人並みのことができない人間が人並みの幸せを得ようとするな!信用もねえやつがローン組んで家買おうとしてんじゃねえ!と思うだろう。

現職の同僚や、休職してしまった前の会社の同僚にも迷惑をかけている。それを責め立てようとする自分もいる。

しかし結局、自分の身を立て直すこと以外で、迷惑をかけた方々へ報いる手段はないのだ。そう開き直ることで今日もなんとか働いている。今日わたしは人並みの幸せを追い求め、ゴキブリのように生きていく。

近所に未だに汲み取り式のアパートがある

月に一度バキュームカーが来て便槽から汚物を吸い上げて行くのだが、まあ臭いがひどい

今の時期は家中の窓を開けると心地よい風が吹き抜けるし、洗濯物もカラッと乾く日差しのおかげで物干し台には大量の衣類がかけられている

そのタイミングでのバキュームカー

冬や真夏、長雨の時期ならば窓も閉め切っていてその行為すら気づくことがないのだが、よりによって今日のような雨の前日の好天にやられると臭い気持ちが悪くなり、その後には怒りが湧いてくる

アパートオーナー経済的理由もあるのだろうが、上下水道が整備されたこ地域で未だに汲み取り式の便槽を設置していることに無責任さすら感じる

さらに、その怨嗟は汲み取りを行う作業員にも及んでしま

てめぇらの鼻はもうイカれてんだろうが、こっちの鼻は正常に機能してんだよ!

知らんやつらの濃縮された汚物臭い嗅がされて体調も悪くなってんだよ!

せめて汲み取りする前に合図出せや!周囲の住民我慢を当たり前だと思ってんじゃねーよ!

あとクソアパートオーナーもいい加減下水接続する工事やれや!家賃取って商売してんだろうが!

はぁ、このあとは家中カーテンやらソファ、布物にファブリーズして……洗濯物に臭いが残らないといいな……ああ、せっかくの休みをクソのせいで……

2023-05-16

anond:20230516205203

お前は以前の俺か

ドラム式洗濯機のありがたみって本当にすごい

以前の俺は生来ズボラから週1洗濯でも面倒で

洗濯物が家中に散らかってて見苦しかったんだが

ドラム式洗濯機だと2日に1回洗濯でも全然負担がなくてね

洗濯物が常時片付いていて家が広い広い

あと、適切な収納を後付けでつけるのは収納上級者のテク

俺と同じ匂いがするお前には絶対に無理だと思え

なのでお前は収納が多い家に引っ越すと幸せになれるぞ

少なくとも俺はなった

前の家では床や机に色々なものが散乱していたんだが

今は5分片付けたら床とダイニングテーブルから物が消える

リビングの床が思いっきり開いてる家はいいぞ

ソファ観葉植物テレビ以外は全部床

どこのカフェ行ってもこんな空間独り占めできないからね

お前もお金貯めて引っ越そう?ね?

2023-05-03

何もしない夫

お互い正社員共働き給料は俺のほうが多い。

毎朝朝食を作り、子供を起こして食べさせる。

休日は朝飯の他、昼か夜のどちらかは俺が作る。

夕食のおかずの半分は俺が朝作った残り。

夕食の後の子もの果物は俺が毎日用意する。

自分のもので干す必要があるもの自分で洗う。乾燥するものも俺の自分で畳むから畳まなくていいと言ってる。

洗い物は大体俺がやるし、シンク排水口も日々ごみを捨ててる。

洗面所には妻と娘の髪が落ちてるので、毎日掃除機をかけてる。

ゴミの日家中ゴミ箱ゴミをまとめて、ゴミ捨て場まで持っていく。

地域ゴミ当番、公園掃除はいつも俺が行く。

PTAも全部俺が行ってる。

このぐらいでも妻から見ると俺は何もしない夫らしい。

毎週休みの日に子供を外に連れて私に一人の時間をくれないのが不満だと。

2023-05-02

いつも化粧品だが消臭剤だがくせー匂い家中に撒き散らしてさ、いつになったら人に気を使うってことを覚えんのよ。死ね

2023-04-24

専業主婦年収1000万円相当理論ガバガバすぎん?

当時これ言ってたやつ、出てきて土下座せーや

そういえば、なんとかひねり出した言い訳もくだらなくて笑ったわ

その労働時間お金を払ったら1000万円になる、だっけ?労働ならそんなにタラタラやってんじゃねーよって話だわな

いまどき家政婦サービスに金払ったら4時間くらいで家中れいにしてくれるわwしかも1週間くらいはそれで暮らせるレベル

もうプラス4時間で1週間分の作りおきもしてくれるw

余裕もってさらに倍としても週16時間、月に64時間、時給3000円でも月給約20万、つまり年収約240万www

全然足りんな

2023-04-17

泣きながら定期預金を解約した

高卒無資格35歳独身彼氏なし、友だちなし

それでもヤクザ水商売ハーフとして生まれたわりには健闘してるのではないだろうか

母はまあ、わたしにとって祖母である母の母親が当時精神分裂症と呼ばれた統合失調症を患い

精神疾患に無理解昭和40〜50年代を生きるためには虚勢を張るほかなかったのだろうと予想する

母が生まれた家庭は一家離散となり、誰も帰ってこない実家中学生の頃から独りで暮らし

やがて中学卒業すると、歳を偽り夜の世界を生きるしかなかったんだろう

辛かっただろうね、よく頑張ったと思うよ

わたし中学に上がるまで、母は水商売を辞めたりまた働いたりを繰り返していた

父がヤクザになった経緯は知らんが、辞めた時のことならよく覚えている

恐喝の容疑で父とその舎弟がパクられた

こういったことがあれば組が弁護士を用意するのが通例らしいが

何せ組が動かないため、母が父だけに弁護士を用意した

それが気に入らないと組と揉め、足を洗うきっかけだった

当時わたし17歳

それまで住んでいた家にはガサが入り、部屋の中がぐっちゃぐちゃになった

そんなぐちゃぐちゃになったその家を、夜逃げのように捨てることになる

新しく越した先は、6畳の部屋が2つしかない2Kという間取りだった

家では不起訴処分となり釈放された父が四六時中タバコをふかしている

母は必死仕事を探し、それまで経験のない工場勤務の職をやっと見つけてきた

わたしバイトを見つけ、生活の足しにした

それでも生活は苦しかった

家中の小銭をかき集めてATM突っ込み、やっと残高を1000円にしてその1000円を下ろす

その1000円札を握り締め激安スーパーに行き、5食198円のインスタントラーメンを買う

ただレジ有料化導入前の時代でも、激安スーパーではレジ袋をもらうには10円かかった

その10円を節約するため、インスタントラーメンを抱きかかえて家まで運んだ

そんな状況で進路を考える時期を迎えたわたしは、当然進学なんて無理だった

定期代が払えずに学校に行けない日もあった

当然学校には自分の状況も話せず、先生たちからはただのやる気のないやつという扱いを受けた

それでも何とか学校だけは辞めずに済むよう、母は頑張ってやりくりしてくれた

無事高校卒業わたしそれから2年間フリーターとして生きた

その頃やっと母は父と離婚

相当遅いと思うが、一家離散を経験した母は家庭を守ることに必死になっていたのだろう

わたしの方はとにかく正規雇用の職を探し、やっとの思いで事務職に就いた

ただそこは典型的ブラック企業、月280時間働かされて残業代支給なし

月の収入は15万あるかないか

それでも学歴資格もない自分は、勤続年数が資格になるはずだとそこに身を置いた

母がステージ4の乳がんを患い、時間お金どちらかだけでも余裕が必要となるまで、その会社で8年働いた

新しい職に就くのは結構大変だったが、今は自分スペックに対して満足できる給与余暇のもらえる会社にお世話になっている

ちなみに母は今でも元気に生きており、わたし収入の半分を母に渡して一緒に暮らしている

一方母という食い扶持を失った父は、派遣で上手く社会に潜り込んだ

ただろくな生き方をしてこなかった人間なので、潜り込んだ先で問題を起こしてクビになることを繰り返し、

タクシー運転手に流れ着く

それでも金はあればあるだけ使う頭の悪い父なので、毎月毎月金を貸してほしいと連絡が入る

ある月は1万、ある月2万、返ってきたと思えば数日足らずでまた金を無心される

そんな感じで日常の中、今日また父から連絡があった

事故を起こし会社に叱られ、癇癪を起こしてクビになったらしい

更には会社借金もあるらしく、すぐに用立て必要があるという

何とかならないかと娘に金をせびる父

電話を切り、泣きながらネットバンクに積み立てていた定期預金を解約した

すぐに父の口座に振り込み、一括で返せるまで連絡はよこすなと電話で告げた

この先連絡が途絶え、縁が切れることになるならそれはそれでもう構わない

父も母と当然ながら年金受給資格はない

誰かと笑い合う人生なんて歩めないんだろうな

2023-04-10

anond:20230409201917

・変圧回路

直流化回路

・平滑回路

これが常時通電してるとヤバいってんなら、USBコンセントに限らず、意外と家中にたくさんあったりするんだよなー

ルータスイッチングハブの電源とか、テレビ録画用HDDの電源とか、固定電話+FAXマシーンの電源とか... かるく10年超えてるなー

ヤバいヤバいw

2023-03-28

精神疾患でも家中近所中の鼻つまみ者になるかトラブル多くても愛嬌で許してもらえるかで格差があるな

自傷や他害があるとどう頑張っても周りが身構えてしまうから一気に難しくなるな

2023-03-21

anond:20230321104053

かに落ち込んでる時とか自分に余裕がない時は部屋に表れたりするって言いますもんね。もう上京してだいぶ経ちますが、自分は逆でムカつくことや落ち込むことがあったら家中掃除するタイプでして…ご心配ありがとうございます。気をつけます。ご自愛ください

2023-03-20

信玄もさすがだが、綱成の死去3年後に北条が滅亡したとかんがえると、傑物ですなあ

北条綱成は北条家中随一の猛将として他国にも知られ、戦場において常に勇敢で、特に野戦では大将であるにも関わらずに常に先頭に立って「勝った! 勝った!」と怒号しながら真っ先に敵陣に突入したと言われる。

指物は朽葉色(黄色)の練の四隅にそれぞれ「八幡」と墨書きしたもので、その武勇高き北条綱成の姿は「地黄八幡」と呼ばれた。

この地黄八幡の旗指物現在長野市松代真田宝物館に現存する。

1571年、北条綱成が駿河深沢城を開城した際に城内に残されていたものだ。

武田の兵は置き去りにされた「地黄八幡」の旗を見つけ、北条綱成と玉縄衆の慌てぶりを嘲り笑った。

 

しか武田信玄は「左衛門大夫(北条綱成)は、逃げ惑い、旗を捨てたのではない。

あれほどの勇将なれば、次の合戦では必ずや地の利を計りて、必死の戦を仕掛けてこよう、さすれば、その鉾先支え難し。

旗印を捨てたのは、ひとえに旗持ち足軽の罪なり」と語り、真田幸隆の子真田源次郎(真田昌輝)に「左衛門大夫(北条綱成)の武勇あやかるように」と旗を与えた。

のちにこの事を伝え聞いた北条綱成は「信玄言葉で、我が恥辱は雪がれた」と悦んだとされる。

2023-03-16

母が、精神病院へ行けと言う

多少の潔癖はあるが、多少の範囲を超えていない自覚がある。

私は外と内を完璧に分けたいタイプで、外に行った服で家の椅子に座りたくない。

母は家中を歩き回るスリッパのまま絨毯の上を歩いてしまタイプ。本当に発狂してしまう。

外に行った服のまま、せっかく洗った洗濯物を取り込み畳んでいるのを見て、全部洗い直すと言ったらケンカになった。

外の埃や雑菌がついた服と、洗濯したばかりの家で着るルームウェアがくっつくことは本当に許しがたい。

母とは普段離れて暮らしているが、本当に本当に本当に衛生観念が合わない。

昔の人間から仕方がないのか?

父が外で読んでいた新聞紙の上に、これから食べる揚げ物を置いていたのを見て卒倒しかけた。

トイレから出て手を洗うときは水だけ。石鹸を使わないと意味ないじゃん。


母は私のことを強迫性障害だと思い込んでおり、精神病院へ行きカウンセリングして来いと言う。

からしたらその衛生観念をどうにかして治してほしい

一生平行線だしもう一緒に暮らすのは本当にむりだと思う。

2023-03-14

漠然とした。多分私の人生の話。

急に昔の話をしたくなったので衝動ではてぶに登録した。

多分春だからだと思う。これは花粉症の症状の一つ。

そもそも、真夜中にこのブログを開設するあたり、私はもう正気じゃない。

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漠然とした。多分私の人生の話。

5歳の頃、家族旅行アメリカへ行った。国外旅行へ行くのはこの20数年間でこの一度だけ。知らない言語に囲まれて、知らない文化に触れた、初めての経験

私はそれまで、父親よりも背の高い人間がこの地球にいるなんて知らなかった。

幼稚園キリスト教系だった。でも園の中に十字架とかそういう「偶像」がなかったので、私が日々の中に神の存在を感じる機会は非常に限られていた。お弁当を食べる時になると手を合わせて祈りを捧げた。「神よ、日々の糧に感謝いたします。アーメン」。この時間くらいじゃないだろうか。

先生たちは定期的に聖書の話をしてくれたけれど、当時の私には理解できなかった。そして多分先生たちも私たち理解することを求めていなかった。卒園式で綺麗に装丁された聖書記念品にもらった。字が読めるようになり、心に哲学概念が沸いた年齢になった時に初めて読み返した。そしてようやく何かしらは理解できたと思う。多分。…。時間差があるね。

でもこれだけは覚えているのがある。園長先生という方は非常に柔らかいお話の仕方をなさる方だった。わかるようなわからないような、でもそれはそれとして言葉がスーッと染み込んでいくようなお話をなさっていた。

先生はいつもこうおっしゃっていた。唇に歌を忘れずに。光の子として歩みなさい。

前半は知らない。でも後半は聖書の一節だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意正義真実とが生じるのです」

小学校の頃は全く覚えてない。

中学時代勉強はできるような、できないような子供だった。

英語音楽国語だけできた。でも国語担当教師と年がら年中喧嘩してたので評定に定期テストの点数が反映された記憶がない。

英語は楽しかった。小さい頃漠然定型分だけ覚えて旅行に行ったあの「英語」が、形ある理論知識として目の前に再び現れた。いうなれば、旧友との再会のような。互いに少し成長していたけれど。

音楽は、心の拠り所を得るために気まぐれで合唱部に入ったら急に歌えるようになった経緯がある。何それって話なんだけど、私もよくわからない。ただ、ある日ある時急に突然「声の出し方、響かせ方」が分かった。2年生の時、ソプラノソロパート担当させてもらった。嬉しかった。あれは、私が自分の実力だけで勝ち得たもので、そして私にもできるものがあるのだという証明になったから。音楽先生卒業式の日私の母をとっ捕まえて手を握ってこう言ったそうな。

お嬢さん音大に行きたいと言ったら、どうか止めないで入れてあげてください」と。

周りの子供たちは「自由」が増え、レンタルショップビデオを借りた。麓の街に行って、友達同士で服を選び合った。私にもそんな自由が欲しかった。漫画の貸し借りをしてみたかった。アニメ情報を共有してみたかった。

ある日、一緒にピアノを習っていた友人から楽譜を借りた。

彼女は「あなたが弾きたい曲が入ってる楽譜、家にあるから貸してあげる。家まで来て」と言った。彼女の家は私の家とは少し離れていた。やや逆方向寄りなのだ。でも私は彼女について行った。そして楽譜を借りた。

家に帰ると母は非常に機嫌が悪かった。ただいま、という挨拶に対して返ってきたのは「どこほっつき歩いてたわけ?」だった。確かに帰宅時間は通常より20分ほど遅かった。

正直に話した。友人の家に寄って楽譜を借りてきた、と。楽譜没収された。

ちなみにその友人は時々漫画も貸してくれていた。しかし母はそれを目敏く見つけて隠した(母はよく私が学校にいる間に私の部屋に入って物を漁っていた)。そして3週間ほど経った頃にクロゼットから出してきて「あの子に返してきなさい、今すぐに」と言ったのだ。

少し考えればわかること。この家は、何かが少しずつ狂ってる。

私にも自由が欲しいとゴネた事がある。他の女の子みたいにガーリーな服(当時は少し露出があるのが流行っていた記憶がある)が着たい。髪を伸ばしたい。休日友達とお出かけをしたい。バレンタイン友達チョコレートの交換をしたい。

ことごとく跳ね除けられた。

おしゃれがしたいなら家でやらないで外で自己主張して頂戴。学校お菓子を持ち込むのは校則違反でしょ?(それをバレンタインの日だけは黙認されてるから私にもやらせてくれと言ったのだが。)お出かけして遊ぶ暇があるならピアノ練習して勉強したらどう?アンタは目の前の遊びを取って将来を失うつもり?それに私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ。

そんな言葉で私の心はポッキリだった。でもその時はまだ幼かったので「高校生になったらきっと変わる」と思っていた。

ちなみに上記言葉を言われた後で私は一度だけ地域お祭りに友人と行ったことがある。

一言で言えば、つまらなかった。目に映る何もかもがくだらなく見えて、そんなくだらないものにはしゃげる友人たちが寧ろ一周回って羨ましく思った。その日の私はピアノ練習もしなかったから、鍵盤が恋しかった。結局皆より一足早く帰宅したはずだ。

…そんな私の感想に、母は非常に満足げだった。こればかりは癪にさわる。

高校私立女子校入学した。良い大学に行くことだけが目標だった。それさえ達成できたなら、きっと私の人生は報われると思った。おしゃれらしいおしゃれをしなかったことも、友人と行ったお祭りを楽しめなかったのも、バレンタインの日にお菓子作りをしなかったのも、全部全部。

周りの友人は有名らしいアイドルにどっぷりとハマっていた。週末になれば電車に乗って遠くへ行き、グッズを買い、ブロマイドを買い、皆で見せ合って楽しんでいた。

街のお祭りを楽しめなかった女は、アイドルの良さもわからなかった。女の子たちが「ねえねえ、このひとカッコいいと思わない?」と見せてくるのを適当に「ほんとだ、カッコいいね」と返した。

ちなみにミュージカルをやる部活に入ったが、言わずもがな母は私がそこに入部するのを死ぬほど嫌がったし、門限は昔よりもシビアになった。当然遊べなくなったし、部活も毎回早退していた。それは舞台本番の1週間前でも変わらなかった。先輩も同期も私の家の事を理解してくれていたことだけがいである。あの人たちは皆優しかった。でもその優しさに永遠に甘えるわけにもいかなかった。当時私はスマホを持っていなかったから「今日だけは門限を伸ばして」と公衆電話から家に電話をかけた。「それなら家に入れてやらない」とだけ返されて電話を切られた。私は職員室の前で泣きながら「どうしろって言うんだよ!」と叫んだ。

その部活は1年生の冬に廃部になった。まあ色々あったのだ。晴れて私は本当に勉強しかすることの無い暇人になったのである

英語にのめり込んだ。きっと海の向こうの人たちが喋ってる言語は私の住む世界を広げてくれると思った。

音楽は私の心の拠り所だった。親には「私たちがアンタのピアノ習い事にどれだけの月謝を払ってると思ってるの?その分ちゃん練習してよ」と言われていて、それでよくピアノが嫌いにならなかったな、と思わないでもないが、それはひとえにピアノ先生の教え方が非常に上手かったからだ。あの先生は一生の恩師と言っても良いだろう。ピアノ技術だけでなく、音楽を体全体で楽しむことの大切さを教えて下さった。

必死勉強して、そこそこ良い大学に受かった。当時は大学入試の定員規定が厳しくなったばかりだったか絶対浪人すると思ってたけど、受かった。第0志望、希望希望通りの学科

高校生の頃(というか小学校中学から)ずっと母は私に「アンタみたいに頭の悪いやつは、私の時代なら商業高校に行ってたよ。今はいいね、アンタみたいなバカでも人並みに高校に入れて受験できるんだからさ」と言っていた。

何度も娘をバカだと言わなくて良い。言われなくても本人がちゃんと分かってる。

大学は色々な地域から色んな人たちが入学していた。

同じ地域に住み、同じ景色を見ていた小中、その延長線上にあった高校とはまるで違っていた。私のような実家住まいもいれば、一人暮らしで頑張る人もいた。

でもこれだけは断言したいが「明日屋根心配しなければならない人」は私以外あの空間には存在しなかった。

大学講義は遅くて6時に終わっていた。母は言った。

「7時半には返って来れるでしょ」

まり、7時半が門限だということだ。大学生の、門限が、7時半。

あんまりだよ、と泣いた。父を説得しようとし、父方の祖母を説得しようとした。大学生なんだよ、大人だよ?と。でも父は母のイエスマンだったし、祖母(と叔母)は如何せん価値観が若干古かった。「7時半は十分遅いよ、お母さんは譲歩してる方だと思う」と言って譲らなかった。

遊ぶことはなかった。化粧もしなかった。ファンデーションだけだった。化粧なんてね、若いうちは要らないの。それが母がいつも言うことだった。

少し考えれば分かること。あの時の母は、私を完全にコントロールたかったのだ。

大学2年生の時、母に内緒彼氏を作った。

その年の秋、私はこれまた突然、手首を痛めた。関節炎だった。ピアノの弾きすぎ、PCの打ちすぎで利き手ではない左手に過度の負担がかかったらしい。もうピアノは弾かないでください。と言われた。

あの時の絶望といったら。私は身近な人を突然亡くした経験はないけど、多分親友がある朝突然死んだらこういう気分なんだろう、と思った。うまく使えない左手、もう弾けないピアノ。虚無感、なんて言葉じゃ補いきれないものだった。

私にとってピアノはそれほど大きな存在だった。嬉しい時も辛い時も一緒にいたのが、ピアノであり、音楽だったから。

その時急に現れたのが昔の知り合いだった「彼氏」だった。

少しずつお互いのことを話す中で私は小さな打ち明け話をした。休日が大嫌いなんだ、と。

当時母は土日のたびに癇癪を起こしていた。やれ私の歩き方が気に食わない、やれ私の話し声が気に入らない。どうしてアンタは私の気に入るように振る舞わないの?と。当時私は土日の早朝6時〜9時でコンビニアルバイトをしていたので、その早朝勤務の後に母の喚き声を聞くと言うのはどうにも「来る」ものがあった。

さて話を戻すと、私の打ち明け話を聞いた彼は私を週末のお出かけに誘った。電車の向こうの街でかれこれこういう催し物があるらしい、行ってみようよ。気分転換にさ。と。そういう具合に。そして私はその誘いに乗った。

母には「友達と出かけてくる」とだけ言った。情報は不足しているかもしれないが、嘘はついていない。少なくとも当時は彼はまだ「友達」だった。

そしてその友人は彼氏になった。

から告白された時、私は一種のチャンスを感じた。きっと私は自分証明できるとお思った。私の人生は私のもので、私の人生の決定権は私が握っているのだと。

しかも、当時の私が心から欲していたのは「絶対的な安全」だった。そして痛めた手首によって失われた「心の拠り所」だった。

きっと彼ならそれらをくれるだろうと思ったので、私は彼の告白同意した。

まりにも、身勝手


彼はそれ以来ちょくちょく私を外へ連れ出した。

その度に私はまるで世間一般に溶け込んだ気分になっていた。世間一般の「普通の子」になれたように思った。そしてその時私は心から喜んだ。「生きてる!」と無邪気に思えた。

私が勝手に出かけ、挙句彼氏まで作ったので、母は怒った。最初父は「別にいいんじゃないか?」と言っていたが、母があまりにも怒るので父も手のひらクルリと返した。

彼の名前学歴を言わされた。ひどく侮辱された。

母は私から家の鍵と財布の金、銀行カード没収した。お前に鍵と金を渡すと碌なことにならない、と言いながら。(ちなみにこの銀行カード、取り返したら今度は月に3万、家に入れる事を要求された。当然今度は私の生活費が足りなくなってバイトを増やしたら、要求される金額がまた増えた)

母は、アンタがどこへ行ったか全部わかってるんだからね!と怒鳴った。最初意味がわからなかったが、どうやらあの時の母は私をスマホGPS機能で追跡していたらしい。それが判明した時、私は泣いて彼氏に詫びた。どうしようもないものに巻き込んでしまったと思った。ざっくり言えば、母のやったことは犯罪に近いのだ。

彼は「気にしてないよ」と言った。

私は「いや、そこは気にしてくれ」と思った。というか、そう言った。

彼は「お前がかわいそうだ、どうにかして救いたい」と言った。

その心はありがたかったが、ありがたがると同時に私はそれを拒絶した。

「かわいそう」と軽々しく言えた彼はどこまでも温室育ちだった。4人家族ペット付き、平均的かそれよりも幾許か上の環境で、ぬくぬくと、二親に愛されて育ち我らが王子様のような扱いを受けてきた彼が言ったのは、永遠に「かわいそう」な立場にはならないであろう人間の、無意識傲慢だった。

「救いたい」と言った彼は、きっと人間人間を救えると信じていたのだろう。確かに信じるものは救われるとは言うけれども、彼氏とはいえ第三者立場人間他人を救えるのなら、今頃イエスキリスト聖母マリアもこの世から用済みだろうし、仏典聖典も要らない。でも世界にはそういうもの存在するのだ…。彼はそれをちゃんとは理解していなかった。

私の状況も、世界の状況も、「聞いて知ってはいる」けど「理解」はしていなかった。

彼氏母親という人は、息子から私の家の状況を聞いて、こうコメントした。

「あそこの大学の子だと聞いて安心していたのに。それじゃあ全く、訳アリのお嬢さんを拾ってきたってこと?」

…ってうちの母がいうんだ、面白いよな、訳アリだなんて。と彼は笑いながら言った。少なくとも彼の中で「訳アリ」という言葉一種ネタとして消費されたらしい。

私は彼氏ができた、とか勝手に出かけた、とかそういう「罪」で度々家を追い出された。そんな時私を匿ってくれたのは大学の友人たちだった。

追い出されるたびに顔色が悪くなる私を見て友人は私の目を閉じさせ耳を塞がせ、その間に家中刃物という刃物を知らない場所に隠した。彼女曰く「今のアンタに刃物を見せたらすぐさま死んでしまいそうで怖い」。当時の私は一体どんな顔をしていたのだろう。

結局、私は彼と別れた。

彼は普通の家で育った普通人間だった。そんな温室の彼を「私」という人間に巻き込み、異常なものを見せ、その一部だけでも経験させてしまたことは、私が負うべき「罪」のように思った。そして、そんな異常な場所から彼を一刻でも早く遠ざけようと思った。「かわいそう」という言葉も「訳アリ」という言葉も、ネタとして理解できる世界に戻そうとした。

それが正しいかどうかは本当にわからない。でも身勝手だったとは思えど、あの時の私にできた「最善」の判断は、それだった。

どうか彼には「普通」の彼女ができていてほしいと思う。そして、私の視界に入らないところで幸せになってほしい。

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大学3年生になり、2つの喪失、「普通」の概念について考える日々、加えてコロナ禍。最悪だった。それでも秋までは保った。そして秋になって体調を崩した。

感情がわからなくなった。楽しいとか、嬉しいとか、悲しいとか。

指先から血の気がひいた。四六時中まるで体全体が後ろから引っ張られているような感覚だった。

ほんの少し正気に戻ったその瞬間に病院に行き、うつの診断を貰った。ついでに精神安定剤も貰った。(本来抗うつ剤をもらう予定だったが、そういう精神に効くタイプの薬を飲んだことがなく不安だったため、安定剤からスタートになった)

家族はまるでお手本のような否定言葉をぶつけてきた。

仮病だ、とか、考えすぎだ、とか、甘えだ、とか。診断をした医者はヤブだ、とも言った。そして私から保険証現金没収した。よって私は途中で治療が止まっている。


正直、大学3年4年をどう過ごしたか記憶がない。

ちなみにかの「原神」を始めたのは4年の最初だったか、それくらいだったはずである。(タブレットデバイス様様で、こういうゲーム自分スマホに入っていれば「実体」が無いので、両親は私が流行りのゲームを始めただなんて夢にも思っていない)





うつの診断を受ける前だったか後だったか、とにかくその辺りの時期に私は数回手首を切った。そのうちの一つだけ、鮮明に覚えている。

衝動に任せて切って、うっすらと血を滲ませた。最悪だったのはそれが金曜日で翌日にはバイトがあったということだ。(※この時は体調の限界やらシフトの都合やら色々なものが重なって、私のシフトは早朝6時〜9時ではなく、9時〜12時に移っていた。そこには私の幼馴染の男の子も一緒に働いていたので、早朝から働いていた時よりは幾分気が楽ではあった)

さて左手首を切って血を見て1時間、なんとなく冷静になった時に気が付く「待てよ、明日バイトじゃん」は本当に最悪だ。急いで薬をぬり(強めのステロイドだった気がする)、ガーゼを乗せて包帯を巻いた。

翌朝幼馴染の彼は「それ、どうしたんです」と聞いてきたので、私は笑って言った。

「関節炎の湿布


この幼馴染、私が怪我をしたとなるとまるで問診か何かのように問い詰めるのである。どこで怪我をしたの、どうして怪我をしたの。その時何があったの、いつもと変わったことでもあったの。

手首は数回掠った。そしてもし、もう一度でも金曜日にそれをやった上で「どこで、どうして怪我をしたの」と問い詰められたら、私は誤魔化せる自信がなかった。

そもそもコンビニアルバイトなんて、いつヘルプ要請が入るかもわからないものなので、それが金曜日じゃなくても、手首を切るのは普通にアウトだった。いつか誤魔化せない日が来ると思ったし、その調子で切ってたら取り返しのつかない事になるのは目に見えていた。

それ以来、手首を切るのは自制している。少しばかり、褒めてほしい。

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先日、この幼馴染と少しばかりの遠出をした。

出かける予定を作ったことを正直に母親に白状し、許可を得た(これがまたハードルが高かった。)母は私たち電車で行ったと思っているが。

私は彼が運転する車に乗って遠出した。





帰りの移動だった。彼は、夜の暗闇が一番好きだと言った。

私も夜が好きだと返した。夜は良いなと思う。あの暗闇も、程よい明るさも好きだ。

その日すっかり疲れてしまっていた私はぼんやりと、彼に少しばかりの昔話をした。

まだ私が早朝6時のバイトシフトに入っていた頃、5時に起きて支度をしていたから冬の早朝は真夜中みたいに真っ暗だったのだと。そして少し季節が春に近づくにつれて日の出時間も早くなり、西の空は暗く、東の空は明るくて、私はその真ん中に立っているような錯覚を覚えたのだと。まるで、昨日と明日の境目にいるような気分だったと。

ある時私は親に家を追い出されて、月曜火曜ならまだしも金曜日に追い出されたのなら翌朝のバイトは始発電車に乗らないと間に合わなかった。まだ空が真っ暗な時間にそっと友人の家を出て、電車の窓の外がうっすらと明るくなるのを見ていた。

そう言った。話し終えてからようやく自分が一体なんの話をしたのか、一体彼に何を聞かせていたのか気がついた。

変な話してごめん。私の家の騒動を知ってて私を家に泊めてくれた友人くらいしか知らない話だ、多分他人に初めて話した、幼馴染の女の子ですら知らない話だ…。と途方に暮れながら謝罪したところ、彼は「そうだろうね」と言い、こう続けた。

「よく、怪我しませんでしたね。危ないでしょう、色々と」





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今も私は「普通ってなんだろう」と考えている。

家では相変わらず母がつまらないことで喚き散らしているし、私の髪の一本一本にすら執着し干渉している。そして相変わらず父は母のイエスマンだ。


幸せになりたいな、と思う。

でもまず私は「幸せってなんだろうな」から思考を巡らせなければならい

そもそもはいまだに感情の生成についての問題解決していない。

たぶん私という人間も私の家族も、私の家の一族も何かしらが「おかしい」のだ。皆が皆で、それぞれ違うベクトルで狂ってるから、その異常性に気がつきにくい。

でも気がついた人が気がついた時に「終わらせなければならない」。母は自分自分母親と絶縁した。もしかしたらそれはいつか来る自分未来だと思う。

それはそれとして、もし誰かが私の幸運をほんの少しでも願ってくれているのなら、多分、私はまだ幸せだ。

2023-03-10

人生でやったデカいドジ

人生でやったデカいドジに、冷凍ほうれん草を一袋を床にぶちまけたというのがあって

当時一人暮らしをはじめたばかりで、冷凍ほうれん草を床にぶちまけたなんてのも初めてだったから、

あー粉々でめんどくさいなあ。溶ける前に掃除しなきゃ、と何も考えずに掃除機で吸って、

やれやれキレイになった、とそんな出来事は完全に忘れた頃になんだか家がカビ臭いのが気になって、

家中ひっくり返して原因を探したら、掃除機の紙パックの中で溶けた冷凍ほうれん草ものの見事にカビていて

そりゃそうだよなあああああって思ったのだった。

もう20年くらい経つけど、まだ忘れないもんだな。

今日また冷凍ほうれん草を床にぶちまけたけど、ちゃんと手で拾ってゴミ箱に捨てました。学習

2023-03-05

夫が掃除しないとかゴミを捨てないとかい文句ネットときどき見るけど、

それは一体どうやって確認したのかと疑問に思う。

たとえばゴミ捨てに関して、妻がやらなかったら

家中ゴミだらけになっても夫はゴミ捨てをしないことを確認したのか。

本当は、夫がゴミ捨てをしないというのは嘘で、

2週間かそこらのゴミが溜まってきた状態になったら捨てるんじゃないのか。

基準だとゴミ出しの日がくるたびに毎回捨てるのに対して

基準だと2週間に1回だから基準ゴミ捨てをする機会がないだけじゃないのか。

そうだとしたら妻は、「夫はゴミを捨てない」と嘘をついてまで、

自分基準相手押し付けようとしていることになる。

もし結婚たらこんな身勝手な言い分で自分基準

押し付けられるようになるのかと想像したら、

結婚はやめておいた方が良さそうだという結論に当然なるだろうな。

2023-02-05

anond:20230205202502

メイドだってガールズバンド組んだり日本おさんどん女中みたいにたくましく物品を窃盗したり使い込んだり家中の子女に辛くあたったり仕事せず怠惰なのも山ほどおったやろうになぁ

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