はてなキーワード: 公言とは
知り合いは知らない。こういうことを公言すると、
「女性と付き合いたいけど、それができない可哀想なヤツ」という役割を
押し付けようとしてくるやつが現れて、非常に面倒なので黙っている。
好意を向けられたこともあるし、短いけど彼女がいた時期もある。
頑張ればその中の一人とお付き合いすることだってできるだろう。
でも、どの女性もそれほど好きになれないというか、
「一生一緒にいたい」だとか、「守ってあげない」みたいな感情がまるで湧いてこない。
数ある女性の中から「この人だ」と思えるようなことが、今まで生きてきて、まったくない。
「本当はそんなに好きじゃない」という気持ちを押し殺して、
女性と付き合ってみようとしたことも何度かあるけど、
向こうの反応が好感触なほど、相手を欺いている罪悪感に苛まれて、
結局途中で「もうやめよう」という気分になってその人を離れる。
そういうことを何度も繰り返してきた。デートをドタキャンしたりして、不誠実なこともした。
周りが何でそんなに簡単に人を好きになるのかがわからない。
覚えているのは学校で、誰が好きか一人一人明かしていく流れになって、
いないので「いない」と答えたら、「隠すなよ」と周りが怒りだした。
こういう人は誰かを必ず好きになるものだ、という風潮がたまらなく苦手だ。
アイドルは誰が好きかとか、女子アナだと誰だとか、そういう話題も嫌で、
まぁ、顔を見て「可愛い」とは思うがそれだけで、別段好きになることなんてない。
しかし、それを言うとまた「嘘つけ」「隠してやがんだ」みたいなことを言われる。
こんなやつと付き合う価値なんてあるのか、って思うし、
恋人の愚痴なんかを聞くと、さっさと別れろよ、としか思えない。
性欲を満たすために相手を欺いている最低野郎に見えるし、
考えなしに相手に依存している可哀想な人にも思えてくる。
こんな俺だけど、結婚願望だけはある。
尊敬しあえる相手と共に成長していくとか、
そういう関係に憧れはあるのだけど、
ただそれだけなのに、恋人がいないのは人として欠陥がある、だとか、
http://anond.hatelabo.jp/20130606080237
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20130606080237
↑
このブコメな。
いやさ、あんなん(実はかなり居るんだけど)幻想だぞ
私とか、げんしけんの久我山をベースにみーたんの新人と私モテの黒木智子を足して3で割った感じだぞ
実のところ、げんしけん2のリアル波戸くんみたいな奴、かなりの数いやがるのが厄介でな
そ、それで、私みたいなホモショタ版クガピーの立場が無いのが、こ、困るんだよね(どもる)
あと、ホモ特有のリアル交流好き&容姿重視で、腐男子クラスタみたいなのは、如何にもリア充同士で固まってるしね
ネットはネットで、意識の高いはてなーやツイッタラーが「ジェンダーやセクシャリティ」を語ってるんだけど、どうしたものか「セクマイに理解があるクラスタ」ってのはオタク批判が好きで、セクマイはオタクに批判的みたいな風潮あるんだよな
http://anond.hatelabo.jp/20130605163358
私は高校1年生。
コミュ障ぼっちの私は快活…というかやたら他人を詮索したがる女子と隣の席になり、日常や学校については話せても、趣味や普段家で何をしているかについてはあまり話したくない私に対して、「あんた休日家で何してるの?」といったことばかり聞いてくるのであった。
女の子「ねえ、〇〇君ていつも家でなにしてんの?」
ぼく「えっ、いや普通」
実のところ私は当時流行り……でもなかったがさ○うる等からリンクされたお絵かき掲示板にショタ絵を投稿したり、当時発売したばかりのポ○モンDPの可愛い♂ポ○モンの卑猥な絵を日がな一日描いたりして、某所にアップロードするなどの行為が一番の趣味なのであり、とてもそんなことは話せないのでした。
ところがその女の子、何やら絵とかを描くようで、アニメやイラスト等の話題について(私と付近の机の同級生1~2人を巻き込んで)ペラペラと語りまくる。
当時、さまざまな作品名や、それがどのような層に消費されているかについてやたら詳しかった私は、彼女の話を聞きながら(お…BLか…)などと理解するも、趣味について話した時に笑われた経験が多かったため、警戒心が強く、すぐには口には出さない。
しかし、そのことに同族意識を抱いた、というか心のなかで舞い上がってしまい、高校1年生であった私は、あろうことか、歳相応にも「もう少し積極性を出してみようかな」などといった、悪しき考えを浮かべてしまうのでした。
「キモイw」
隣の席の女の子は、思いっきり私の心を抉る発言を放った後、そんなことには何の感心も無いかのようにひとり話を続ける。
一方で、「同性愛者は異性愛者よりも女性と仲良くなりやすい」という偏見が蔓延るなか、典型的なキモオタぼっちの性指向を異性愛から同性愛に置き換えただけの私は、典型的キモオタぼっちの自意識と小学生以来の女性恐怖を強め、二度と自分の趣味についてリアルで口には出さないよう、決意を新たにしたのでした。
今思うと、おそらく私の趣味がキモいのではなく、キモい人の趣味というか、話すことが常にキモがられる法則が前提条件にあるだけなのでしょう。
少し前から、腐男子などが市民権を得るようになったようですね。
ホモはキモイなどの発言や、┌(┌ ^o^)┐ホモォといったイジりに憤りを上げる姿もよく見られるようになりました。
キモくない人がキモいと言われることに異議を申し立てることが出来るようになったり、
キモくないBL好き男性の方々が、一般オタクと対等な市民権を得られて良かったと思います。
おわり。
http://anond.hatelabo.jp/20130605163358
私も、元増田の言う「エロゲ好きを公言していて、それなりに小綺麗に着飾っている女オタク」です。4年つきあっている彼氏もいます。幸いサークラ呼ばわりされることもなく(典型的なサークラちゃんが同じコミュニティにいたので被弾を免れた)、エロゲ好きの女友達にも恵まれ、スイーツバイキングも行ってます。楽しいです!ここで孤独感を吐露している女オタクと仲良くなれたらなーとは思うけど、なかなかこういうのって趣味が合わないと難しいものです。女オタクがどんどんカミングアウトして、出会いの機会が増えるといいと思いました。
女オタクがマイノリティとしての愚痴をいうと「そんなの全然珍しくないから!」となぜか「珍しくなさ」から否定にかかるの、やめてあげてください。ブコメとかで見かけます。
女オタクは余計カミングアウトしずらくなるんじゃないかと、心配になります。
珍しくないのは重々承知です。3日目やイベントに行ったことがあればわかります。でも珍しくはなくても、マイノリティではあるので、マイノリティなりの苦労はありますから、それは認めてあげてもいいんじゃないでしょうか。マイノリティでも人数的には多いということはたくさんありますよね。
http://anond.hatelabo.jp/20130605031038
私は、元増田の言う「エロゲ好きを公言していて、それなりに小綺麗に着飾っている女オタク」だ。
しかし、はっきり言ってこの立場で生きていてもいろいろな問題にぶちあたる。
エロゲ女子はそれほど数が多くないので、普段はオタクの男友達とつるむことになるが、
サークル内紅一点とかで活動してると、ミソジニーこじらせ男&腐女子から理不尽な攻撃を受けることが多い。
「自称サバサバ女ってお前なことだよなー」←エロゲ好きを公言することが、どうしてサバサバを自称したことになるのか分からないのですが。
「サークルクラッシャー気どり?」←クラッシュさせたことないしするつもりもない。そもそも5年付き合っている彼氏がいる。
「同性の友達を作るコミュ力がないから男とばかり遊んでる」←コミュ力がキモヲタ並みしかないのは200%事実ですが、好きでそういう性格に生まれたわけじゃないんだからほっといてくれ。私だってもっとコミュ力があったのなら、女友達ときゃっきゃうふふしながらスイーツバイキングとか行ってみたかった。
彼らには、私が「男に近づきたいがために、エロゲを趣味にしている」ように見えるのだろうか?
普通に考えて、男の関心を引きたいなら、エロゲ好きをアピールするより料理上手とかアピールしたほうがよっぽど効率良いと思うのだが。
着飾るのをやめればいいじゃんって言われたこともあるけど、なんで何も悪いことしてないのに、わざわざ自らダサいブスにならなきゃいけないんだ。目当ての男がいようがいまいが、ダサいブスと思われるよりは少しでもお洒落な美人だと思われたいのは人間なら誰だって同じじゃないの?
私はただ好きな格好して好きなゲームやってるだけだ。ほんとに、ほっといてくれ。
というわけで、女オタクでいるのは非常にめんどくさい。
http://anond.hatelabo.jp/20130604092611
BLも読むけど、それほど興味がない。
買う同人誌も男性向けばかりだし、エロゲもやるし、コミケはいつも三日目常連。
どうしてこうなったのか、いつからこうなのか分からないけれど、
とにかく子どもの頃から二次元のキラキラした可愛い女の子が大好きだった。
FF7にハマって、純粋に1ゲーマーとして楽しんでいたのだけど、
ある時書店でFF7の、でも公式ではない絵が表紙になった本を見つけてしまった。
とにかく、まだネットも発達してなかったので情報に飢えていた私は買ってしまい
当時のFF7の人気BLカップリングはセフィロス×クラウドだったと思う。
とにかく、そういう目線で楽しんでいる人が衝撃的だった。
あと、うっかり飛翔系のアンソロを見てしまいトラウマになったり、
近所のこともあって私は行ってみることにした。
そこには、更に知らない世界が広がっていた。
地方の即売会は、本よりもグッズメインなのは今も変わらないのだろうか。
よく知った漫画やアニメのキャラ描いたカラフルな便箋やラミカバッジ。
なにより、楽しそうにコスプレする人たち。私は夢中になりました。
おこづかいを削って、月に一度くらいは参加するようになった。
そうしているうちにイベント会場で、顔はしってるけど話したことはない
同級生と仲良くなり、お互いヘッタクソな絵で交換日記を始めた。
当時、私が好きだったのは電撃G'sマガジンで連載されていた企画や
深夜にやっている美少女アニメばかりだった。
セラフィムコールが好きで、ビデオを録画して擦り切れるほど見た。
だから、BLを当然のように嗜む腐女子の輪の中で、私は異端だった。
男同士の絡み絵を描く中で、美少女のおっぱいやお尻のほうが良いとは
次第に疎外感と孤独感をこじらせてしまい、そのコミュニティとは
高校進学を機に離れてしまった。
こっそり深夜アニメを見たり漫画を見たりするのは止められないし、
大学に入るとエロゲに手をだすようになって、それはますますひどくなった。
それでも分かる人には分かるらしくて、オタクコミュの人から声をかけられても
「あなたとは違うんです。」的な対応をしていた。
いつももっさりした髪型と服装で、自由に使えるお金は全部グッズに使うような、
携帯のストラップにどうどうとアニメイトやガチャガチャの商品をつけるような、
そういう鬱憤を晴らすかのように、エロゲの内容というか性癖もどんどんこじらせていった。
有名どころだと、沙耶の唄やさよらならを教えてが好きだった。
この頃から、コミケに行くようになり男性向け同人誌を買いあさった。
挙げればキリがないけど、とにかく反吐が出るほど悪趣味になっていた。
もう、美少女かわいいだけでは済んでいた頃には戻れなくなっていた。
その頃、みさくら軟骨先生のシスプリ同人誌「瓶詰姉妹」に出会い、
「あーりーあーしーこー(ry」を見た時の衝撃は今でも忘れられない。
そんな感じで、内面だけは立派なキモオタに成長した私はその趣味を
誰にも晒すことも話すことなく四半世紀以上生きてきてしまった。
その間、ずっと女なのに女の子に萌える自分って頭おかしいんだろうなーと
本気で思っていた。精神科に通った方が良いのかもとすら思った。
そこで仲良くなった人の中に、私と同じように女だけど男性向けが好き、
エロゲもやる、そういう人がちらほら居ることを知った。正直、すごく感動した。
思い込んでいた私には、そういう人が他にも確かにいることが奇跡に等しかった。
何回か一緒に即売会やイベントにも参加した。ものすごく楽しかった。
生きている内で、あんなに楽しい事はなかったと今でも思うくらいには、
楽しかったし、誰かと趣味を分かり合えることが嬉しくてたまらなかった。
同時に、どうしてこういう機会があったかもしれないのに、
何より、昔の自分と違って自分の趣味を公言しても許される環境や
とても可愛らしくて、一見してオタクには見えなかった。
大学時代に見たもっさりとしたオタク像しか知らなかった私には、
よく見れば、今や自分の方があのころ嫌悪していたもっさりオタクなんじゃないか。
これまで、必死に自分を隠して生きてきた私ってなんだったんだろう・・・と。
そう思い始めてしまい、恥ずかしさと悔しさでいっぱいになった。
そうこうしているうちに私生活が忙しくなってしまい、ツイッターも止めて
見られては困るような押入れにしまいこんでいたエロゲや同人誌をほとんど処分した。
でも漫画を読んだりアニメを見たり、そういうのは止められない。
でももう、同じような趣味の人と繋がることは二度とないと思う。
どこにいても何をしてても、思春期に味わったような疎外感や孤独感は拭えない。
腐女子の輪にも入れないし、かといって男性オタクには決してなれない。
どっちつかずな存在の私のような女オタクは、これからもひっそり生きていくしかない。
何が黒歴史かといえば、オタクのくせに同じオタクを勝手に見下して同属嫌悪をして、
自分から楽しむ機会をドブに捨てていた自分の行動に対して後悔しか浮かばない。
ネットは社会の縮図だから世の中みんな猫とおっぱいが好きなんだろうね。
2chやニコ動をよく見るようになる前はこんなに世の中が猫好きとおっぱい好きに溢れてるとは知らなかった。
俺はこのふたつが嫌いではないものの特別好きなわけでもなく、「みんなで愛でるのが当然」的な流れにしばしばついて行けない。
みんな本当にそんなに好きなの?
猫はまぁいいよ。かわいいよね。他の哺乳類と大差ない気がするけどかわいいよね。
おっぱいがよくわからない。女の体の一部だから露出していれば男なら興奮するのもわからなくないけど、
単体でなぜそこまで愛されるパーツなのか。
性欲を抜きにして見れば、他の部位に比べてとりわけ美しいとも思わないし、
どちらかと言えば赤ちゃんが母乳を吸いやすいように機能面に特化した形であり、そのために美しさはやや犠牲にされているんじゃないかとすら思う。
こんなことを書くと「おっぱいの良さがわからないお前は」みたいに言われるけどそういうの。
「おっぱいはみんな好きで当然」「おっぱいは正義」みたいな全体一致の決め付けが鬱陶しい。
俺はおっぱいが嫌いなんじゃない。おっぱい普通なの。そういう男もいるの。
「こんなにおっぱいを愛していておっぱいについて熱く語れる俺って面白いだろ?おっぱい星人だろ?キャラ立ってるだろ?」
みたいに要は他人より目立ちたいからそんな発言をするんだろうと思えてならない。
お前は「おっぱい」と「おっぱい好きを公言する自分」のどっちが好きなのかと小一時間。
とりあえず女の子が複数いればおっぱい格差があって小さい方が大きい方に嫉妬してる設定にしとけばいいや的なね。
それでも多くの視聴者はそういうの望んでるんだろうなー。
割とみんな公言してないだけで、好きな食べ物を一人で食べに行く、ってのが好きな人てのはそれなりに居ると思うよ。俺もそうだし。
「孤独のグルメ」やお一人様ブームで、ようやく世間でもこの考え方が受け入れられたかなと思ったけど、どうやら勘違いだったようだ、
いわゆる腐女子だ。某ジャンルで活動している。二次創作を書いている。書いているのはBLだ。半生をやっている。ジャンルの空気というものについていけない。
半生なのにものすごく二次っぽい。いわゆる支部ツイジャンル。サイト持ちよりも支部で活動してる人のほうが多いと思う。オフする人もいるけど支部で十分って人も多そう。つべで見たって公言してる人も多い。一部のキャラが出るコーナーだけをニコつべで見たって公言して、それで描きましたってキャプションや同人誌のフリートーク的な部分に書いている人も多い。意味がわからない。
ツイッターでキャラの名前で検索するとホモ妄想がたくさん出てくる。半生ってこういうところだっけ。もうちょっと隠れてると思ってたんだけど。制作側がエゴサしてるってファンブックみたいなもので公言してる。一部の役者は番組名+キャラ名で検索してるのかたまに非公式RTでツイートに言及してる。それでもホモ妄想するってどういうことだろう。
そこから生に派生してる人たちもいる。生も支部でマイピク限定じゃない状態で置かれている。生物って私の知っている時代はurl請求制で、今ならマイピク限定だと思ってたけどここのジャンルは違うみたいだ。無法地帯というかルールを知らない人が大量に入り込んでそれでいいと思い込んで、そしてそれをどんどん真似してってるみたい。きっと他の生や半生ジャンルからは毛嫌いされててもおかしくないレベル。
ちょっとジャンルバレするかもしれないけど、公式がBL推ししてる部分がある。そこの部分絡みで2.5っていうより2.8ぐらいに位置するような企画があった。その企画絡みでまた生物なのか半生なのか微妙なものが増えてる。これは生物ではないからいいという考えなのかマイピク限定じゃないのがものすごく多い。生物よりも更に書きやすいのかもしれないけどキャスト名ほぼそのままでパロディ状態のものなんだからもうちょっと隠すなり何なりしてほしい。その企画に参加してない役者まで企画に参加してるかのように放り込んで二次創作するのもやめてほしい。それ最早ただのパロディ物。
そういうのが普通とでも言いたげなジャンルの空気についていけない。pixivで腐向けだろうと腐向けタグ付ける人自体が少ないし、腐向け隔離タグがやっと出来たけれどもそれに番組名を付ける人もまだまだ多い。エロもR-18はついているけれどもマイピク限定ですらない全体公開。ジャンルルールができるほど年月のあるジャンルではないと思っていたけど既に番組自体は3年近いのだからジャンルルールぐらいできてもいい。もしくはせめて半生のルールに従ったらいいのに。
そんなことを思いながらグーグルでキャラ名を検索したら二次創作ブログがひっかかった。fc2ブログなんて閲覧パスワードつけれるんだからつけようよ。
いちおう言っとくけど、私自身はサイトは.htaccessとロボテキで制限かけてるから検索にも中身は引っかからないし怪しげなロボットが来たら全部弾いてる。その程度はするのが普通だと思ってたんだけどなあ。
先人の抵抗の甲斐あって酒が飲めないことを公言できるようになった昨今、
そもそも酒を楽しめないのだから飲み会に行く必要がないという合理的選択を取る人も出てきた。お金ももったいないし。
本来の飲み会の目的はコミュニケーションであるから、つまり、酒を楽しめなくとも参加ができるような手段を発明しなければならないはずなのだが、それがない。
タバコ(喫煙所)も、飲み会のようなコミュニケーションの場となっているが、喫煙自体が肩身が狭くなっているし、それこそ吸わない人も増えているので万人向けとは言えない。
では万人向けのコミュニケーションの場を作るにはどうしたらよいか?
たとえばIT系だったら勉強会を開いて合同で試験を受けさせるとか、仕事終わった後に会議室を貸し出して社員同士で自主的な勉強の場を提供するとか。早朝に英会話教室やってたりもするので、それならって早朝に勉強会やるとか。朝だから電車もすいているし。
また、ウチの会社ではプロジェクトが終わったらまたすぐ次のプロジェクトの作業にとりかかてしまうのだが、そうでなく「反省会」の場を設ければよいと思う。同じプロジェクトに関わったのだから共通の話題はたくさん出てくるので、反省がてら雑談にもなるし、一石二鳥。
本質的には会社は「飲み会」に補助金を出すのでなく、「コミュニケーション機会」に補助金を出すのであるから、そういった勉強会や反省会にお金が出てしかるべきであろう。そのお金を使ってちょっと良い場所を借りてやるとか、茶や菓子を買って放課後ティータイムとしゃれ込むとか。
ほかには何か万人向けなモノはあるだろうか。
魚の方じゃないよ。
1題材を決める
・まずは大きな題材から(笑える、感動、恋愛、SF、イミフ、怒り、恐怖)
簡単な物は感動系の物、恋愛と>>1がアスペっぽくてイミフなスレです
SFと怒りは下調べがめんどくさい
怖いやつと笑えるやつはやんないほうがいいです
2おおまかに話を考える
・起承転結は考えなくてもいい
・起承転結を考えるんだったら、一つのレス毎に転の要素を入れる
3登場人物を考える
ラノベじゃないんだし。
その人の武勇伝を考えておく
嫌いな人は無理に公言しなくてもいいです
4深めていく作業(設定
・場所
もし場所を聞かれたら困るのでグーグルマップで適当に場所を探して下調べする
場所が決まったら、その場所の日没日の入り、月の形位置、過去の天気(温度、降水確率)を調べておくとリアルになります
未来から来たんだったらジョンタイターは必須。他の有名じゃないスレも確実に目を通してメモ
SFは小説を読みまくったり百科事典を読んだりしないといけない
これは大事です。絶対に浅はかな知識でスレを立ててはいけません。
・証拠をつくる
写真は効果絶大です。しかしネットで拾った画像を使わないでください
5文章に起こしていく
・独り言を入れながら
共感してもらうためだけです
・おおまかな話だけでいい。
下に書きます
6質問を想定する
・質問されながら話は進んでいくので、反応を見ながら慎重に話を変えたりする。
4の内容がここで役に立ちます
7一緒にスレを伸ばしてくれる3人を探す
・とりあえず質問してもらう
・3人と話し合いながら進めていく。バクマンの七峰透みたいなやり方って言えばわかりやすい
まとめブログもスレを伸ばすために色々頑張ってるので、盛り上がりやすいです。
9スレを立てる
・「書き置きしてないから待って」的なことを言う
本当は書き置きしている
俺はしないでニヤニヤしてます
3 :可愛い奥様:2013/05/23(木) 22:11:44.76 ID:JRgNrB8H0
乙武様のご来店お断りについて。(イタリアン店主公式謝罪文)2013-05-18 23:39:00
ttp://ginzaganzo.com/info/444903
イタリアン入店拒否について(乙武オフィシャルブログ)2013-05-21 12:00くらい
ttp://ototake.com/mail/307/
乙武洋匡さん、銀座のイタリアンに「車椅子だから」と入店拒否される(追記あり)
釣り解説"乙武洋匡さん、銀座のイタリアンに「車椅子だから」と入店拒否される"
60万フォロワーのチカラ──某イタリアン店主個人への激烈リプライ(信者砲まとめ)
ttp://kasakoblog.exblog.jp/20523301/
乙武さんの責任と心のバリアフリー「この場合はロンドンでも難しいでしょう」
ttp://bylines.news.yahoo.co.jp/kimuramasato/20130521-00025090/
ttp://d.hatena.ne.jp/marumieseijin/20130521/1369120014
ttp://anond.hatelabo.jp/20130520221917
この件は、店側の臨機応変のなさとその背後にある人権感覚の欠如の点において乙武さん@h_ototakeが
正しいと思う。店名を公表しなければ店主の高田晋一氏@takosinの人としての成長もなかったと思う。
ttps://twitter.com/masaki_kito/status/336056379267743744
櫻井光政@okinahimeji
サービス業者のサービスの悪さを,店名を揚げて,自身も顕名で批判するのは悪いことでも軽率でもないと
ttps://twitter.com/okinahimeji/status/336711420337082368
茂木健一郎 ?@kenichiromogi
読ませていただきました。やっぱり、乙武さんはまっとうな感覚だと思う。
ttps://twitter.com/kenichiromogi/status/336811483407192064
4 :可愛い奥様:2013/05/23(木) 22:12:28.98 ID:JRgNrB8H0
■その他の事件■
ttp://megalodon.jp/2008-0105-1258-49/sports.cocolog-nifty.com/ototake/2006/09/post_f549.html
ttp://www.j-cast.com/2006/09/08002901.html?p=all
↓
■他人を騙ったアカウントが乙武に中傷凸→乙武は本人のサブ垢かどうか確認せず、
http://twilog.org/h_ototake/search?word=%40YateChee&ao=a
http://twilog.org/YateChee/search?word=%40h_ototake&ao=a
5 :可愛い奥様:2013/05/23(木) 22:13:18.34 ID:JRgNrB8H0
他人に介助の負担をかけておいて「最高に幸せ」と公言する恥知らずにして、
職をコロコロ変えるほど気まぐれで根気がなく、
障害者に気づかって迷っている姿を滑稽であるかのように笑うほど底意地が悪く、
自分を賞賛するツイートを自分で臆面もなくリツイートするほど自己愛が強いナルシストで、
直接リプされたわけでもないのに自分を批判するツイートをエゴリサーチし、晒しRTして信者に
不必要に自分の病気を強調し、障害ジョークを飛ばすほど、病的な露悪趣味を持っており、
介助教員の必要な自分がいちばん教師に向いてないのに、他人に「教師に向いてない」と言い放ち、
売りになる四肢欠損は見せつけようとするが、売りにならないハゲは隠そうとするほど器が小さい、
「他の障害者はこうなってはいけません」という悪い見本のような障害者だ
こいつを叩かなきゃ誰を叩く
まさに、2ちゃんねらーに嫌われる要素のロイヤルストレートフラッシュみたいな男
何で出来ていようが城は城。城って価値をもってして素材がなにかを問えとか意味わかんないよ。
汚物はコスパがいいんすよねっていってる大工をいつまで城の工事に携わらせているのかって事だよ。
素材:全体に関わる人権問題 法整備
大工:橋下氏
ふつうのおっさんが考え付くようなてめえの糞は汚物って意味な。だれの手にふれても安心で、むしろみんな手にとりたがる素材ってのが理想的な法整備ってことでな。
どこの国の人間であれ性的機能が本人の意図しない条件で制限されることは人権侵害にあたらないのかとかそういうこともふくめてよ。
極論、切ってしまえばいいってところからどこがぎりぎり法的という公言の下でキレイに個人が納得できるかってことを考えないと役人やってる意味ないっつー話だよ。
切れとかフーゾクとか、ふつうのおっさんでも言ってるだろ。税金で人様に指さす立場で言うのかっつー話だよ。
じゃあ理想的な法整備ってなんなんだよって俺に聞くなよな。俺はふつうのおっさんだ。ふつうのおっさんってのを税金で養ってくれるっていうなら代替案を必死で考えるぜ。
たぶん糞だけどな。
発祥は2011年初冬、とある匿名掲示板群にある二次元系の掲示板の一つが発祥の可能性が高い。
※同名の掲示板がサーバーごとに5板以上あり、その中のただ一つの掲示板の事を指す
当時、2ちゃんねるの特定の掲示板において「ブヒる」という言葉を「萌える」の代用として使うことが流行となっており、
しかしこの掲示板では、自分たちは2ちゃんねるとは異なる匿名掲示板に常駐しているというアイデンティティ、
悪く言えば閉鎖的環境を保つ意味から、2ちゃんねるの流行語は好まれない傾向にあった。(同様の例として「あやしいわーるど」がある)
そのため、この掲示板においては「ブヒる」という言葉が使用されるのはごくごく限られた場合のみであった。
さて、当時放送していたとあるアニメのキャラクターに「めっちゃ~よな!」という口癖を持つキャラクターがいたのだが、
当掲示板において、同キャラのある画像(「萌え画像」とは程遠いもの)とともに、「めっちゃシコれよな!」という本文でネタスレッドを立てる、
というものがミームとなり、大流行した。(※アニメでも原作でもこのような発言をしたことはない。)
ここから、「シコる」もしくは略語として「めちゃシコ」という言葉が流行語となり、
転じて、アニメキャラに対する感情の発露を表す隠語、「ブヒる」とほぼ同義の用語として、
一昔前の言葉(ほぼ死語)であった「シコる」という言葉が定着してしまった。
その後当掲示板を知っている人が外部で徐々に使うようになり、
2012年後半に、他の場所でもこの「シコる」という用語が広く知られるようになり、
それなら「他人が協力してくれれば諦めなくて済むこと」について、少しだけ気遣いしてもらいたいと思うのは、当然じゃないか?
俺は当然だと思うが。
それが少しだけ、ってのは勝手な判断基準だろ。小さなお店で忙しい時間に、店側がそこまで面倒を見るのは物理的時間的に無理じゃないの?って言ってんの。車椅子を入れるには他のお客をどかせなきゃいけない。他の予約客をキャンセルさせて無理やり入れろってこと?
どっちにしても店にとっては「少しだけ」じゃなかった。だから断ったわけだろ。
だいたいこの件については「他人が協力してくれれば諦めなくて済むこと」じゃなくて「自分がひとこと言っていれば諦めなくて済むこと」だろ。あるいは随伴者を連れて行くとか、いくらでも対応策はあった。それをせずにおいて店側に求め、それが受け入れられなかったら誹謗中傷のツイートをした。「俺を特別扱いしろ」と言い、特別扱いされなかったからといって、極めて発言力の強い人間が公の場で店を罵倒した。今回の件はこれだけだよ。
セクシュアリティとかGIDについてはもう少し知識を整理したほうがいいんじゃない。
無理解が一番の差別だ。
そもそもこの話の場にゲイの話を出してくること自体極めて差別的だと思うがね。マイノリティの例のひとつとして、なんて言うつもりかもしれないけど、「ゲイは「ゲイです」って公言して歩かなきゃいけないのか?」って言い方が既にひどく差別的な発言だということを自覚してないのかな。
amazonのレビューで、多崎つくるのレビューを、ほとんど疑いもなく星5つで記載し、圧倒的な「参考にならない」の評価をくらっているしがないレビュアーです。
ちなみに、今日2013/5/8現在、335人中101人が星5つの評価を加え、星4つの高い評価をつけた人を加えると、335人中182人の半数以上の人が星4つ以上をつけているにも関わらず、現在「最も参考になったカスタマレビュー」は、ドリーなる人物の書いた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」という星1つのレビューで、9825人中、9502人が「参考になった」というボタンを押しています。
ちなみに星1つの評価のレビューは、323人中、51人しかないにもかかわらず、この評価は圧倒的です。
感覚的にいえば、全体における星の数の比率に、各評価の中で「最も参考になった」というというレビューが、最終的に漸近していきそうなものですが、このドリーなる人物のレビューは、ある種ゴシップ的な面白さが加わり、NAVERとかはてブあたりから迂回してやってきた方々の支援もあったのだろうと邪推しつつ、圧倒的な支持を得、10000近くの人たちに「参考になった」とフォローされているわけですが、その内容は、読めば読むほど気持ちの悪いレビューで、村上春樹をとりまくマーケティングの悲惨さを痛感するとともに、あらためて日本人の文盲具合と、教養のなさと、その教養のなさをひけらかす露悪主義をみせつけられるようでした。
とはいえ。
これも、ドリーなる人物の文章が悪いのかというとそういうのではありません。こういう気持ちの悪い文章は、本来放っておかれれば、そのまま情報の闇に葬りさられるだけであり、問題なのは、こういう情報を引っ張ってきて、「うーん、これはすごい」「面白い」と言っている人々の側に、前述した無教養さの礼賛であるとか、露悪主義のようなものがあるように思うのです。
それで、私は、この駄文が、そもそも情報の闇に葬りされること請け合いなのにもかかわらず、下記の数点の視点に絞って、村上評価およびその周辺のマーケティングの問題について論じたいと考えています。
1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど)
この3点についてです。
■1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
まず、結論から断じて言いますが「多崎つくる」のamazonのレビューを、現在の日本文学における主要作品(村上龍、山田詠美、阿部和重、平野啓一郎、川上・・・などなど)と比較して星をつけるとするならば、星は5つ以外は考えられません。これらの作家の代表作と比較しても、時代的な価値、作品の主題、文体などにおいて「劣っている」という評価をしようがないからです。
もちろん、小説や物語には個人的な共感を読み手の原動力にするという性質上、どうしても「共感できない」という人がいるのは確かなことです。しかしながら、そういう個人的な側面を度外視し、「文学」というジャンルにおいて、日本という国の文化を歴史的に補足、説明する資料として、たとえば、文学作品をピックアップするのだとすれば、本作は1Q84までとはいかないにしても、近年の日本代表クラスとしかいいようがないからです。
2013年、日本という国で出版された歴史的に淘汰を免れる文学作品をあげなさいといわれて、今年、これ以上に素晴らしい「文学作品」が登場するかどうか、私は甚だ疑問です。平野啓一郎の新刊がでればその可能性があるでしょうが、少なくとも、それ以外の作家には期待できません。
abさんご?無理です。
そういう意味において、本作は星5つ以外の評価はありえないと私は思うのです。
しいて別の視点で評価するならば、村上春樹作品全体を相対的に評価するということもできるかもしれません。これについて言えば、私の評価は、星5つに限りなくちかいものの、もしかしたら星4つをつけるかも、くらいのところです。人によっては3つという人もいるかもしれません。それはあくまでも村上春樹作品における相対評価です。
本作は、次につながる長編小説のための助走のような小説です。伏線の回収(村上春樹本人ならば、伏線の回収ではなく、全体を微細に描き切っていないと言いそうですが)、それが十分でないことがその理由です。
しかしながら、これが作品の評価を不当に低くするかというと別問題です。短編小説というのは、その行間に物語の前後や背景を滲ませ、読者に共感の余地を残すものです。これは本作が、短編小説的な位置づけにあるということを示唆しているのであって、村上春樹が手を抜いているわけではないのです。星を1つ減らす理由があるとすれば、「もう少しだけ短くてもよかった」という点でしょうか。短編小説というには、少し長すぎました。
本作は、あくまでも「短編」であり(この人の場合は、もはや「短編小説」がこの長さになってしまうだけ)、あえていくつかのプロットを読者に委ねたのです。これは、文学を読む側のリテラシーの問題です。趣味(つまり好み)の問題ではなく、読む側の技術(読解力)の問題です。
というわけで、個人的な村上春樹の読者として星をつけるならば4つもあり得るかもしれませんが、文学に全方位的に公正な評価をつけるのならば、星5つ以外にはないということをご理解いただけるでしょうか。
もし、理解できないのならば、村上春樹を読む前に、夏目漱石と森鴎外と谷崎と太宰と三島と大江健三郎と諸々読み直すべきでしょう。
それが嫌なら、伊坂幸太郎でも読んでればいいと思います。稚拙な、読解力を十分に満足させるだけの文章にはなっています。
■2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
私は、長年村上春樹の作品を読み続けてきて、周囲にもそのことを公言しているわけですが、最近困ったことに「ハルキストの○○さんは、新作もちろん読まれたんですよね?」とか「ハルキストとして今作はどうでしたか?」などと聴かれることが多くなりました。
この「ハルキスト」なる呼称、最近よく聴くんですが、これって、わりと最近たぶんノーベル文学賞に毎年エントリーされるくらいになってテレビのリポーターとかがテキトーつけたんじゃないかという気がしています。一体いつくらいなんでしょうか?
私思うんですが、村上春樹の読者を「ハルキスト」と呼称してしまう人は、はっきりと断言しますが、村上春樹を読んでいないか、全く読解できていないかのどちらかです。
村上春樹の小説はどの作品でも読めばすぐにわかりますが、組織や共同体に所属することにとにかくうんざりしています。辟易しているし、場合によっては嫌悪感に近いものを感じていることもある。とにかくそういう人たちとうまくやっていくことができないし、やっていく自信もない。主人公の「僕」やら「ハジメくん」やら、「ワタナベくん」は、もう、所在なし、所属なし。
村上春樹の作品が世界的に受け入れられているひとつの理由は、その「孤独」性です。その周囲にうんざりしたり、なじめなかったりするその主人公のおかれた状況に、読者が少なくない共感を感じてしまうことが、世界的に受け入れられたひとつの理由なのです。
つまり、「ハルキスト」などという「ひとくくり」の呼称を付与されることに、気持ち悪さしか感じない・・・というような人たちが、どちらかといえば村上春樹の本質的な読者なのです。私も同様「ハルキスト」と呼ばれるたびに、冷笑を覚えたりするので、みんなそんなもんだろうなと思っていると、ときどき本当に「ハルキスト」を自称する読者にあったりします。こういう場合は、辟易するというかなんというか、ときどき困惑と嫌悪感が入り混じった感情を抱いたりするこもあります。
なんなんだこの違和感。
と。この感覚は、村上春樹に星1つをつけて、「いやぁ、村上春樹とか読んでるやつ信じられねーな」とかいう人の感覚に案外似たところがあるかもしれません。(まぁ、とはいえどうでもいいことなので、あえてバッシングしたいとも思わないのですが。)この際、そのほんとに読んで言ってんのかよ!という方々を「ハルキスト」と呼称しましょうか、そのハルキストなる方々と、村上春樹の作品とはまた別の問題だと考えるべきです。
こう言うと、村上春樹の小説はそういう勘違いした読者、その「ハルキスト」なる存在を生み出しており、村上春樹にはその責任があると捉えることもできます。
アンチ村上春樹の人間は、この影響力に村上春樹への脆弱性をみつけて、論考をぶつのですが、はてさて、この点はもういちど考え直してみたいところです。読み手の読解力の欠如がもたらした読者の勘違いを、書き手である村上春樹にその責任を求めることができるのか?ということです。
小説作品は、たとえば自動車のエアバッグとか、緊急時備え付けの消化器とか、避難用のはしごだとか、なんでもいいけど、使い方を誤まったら命に別状があるというようなものではありません。
芸術作品です。
作り手の意思とは別に、受け手が勘違いしてしまうことに、作り手はどれだけの責任が持つ必要があるというのでしょうか。
■3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど!)
村上春樹を批判する多くのレビューを読む限りにおいて、圧倒的な支持をえる論調は、
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるたべにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
確かに、多数派ではないかもしれませんが、いないわけではありません。ホテルのバーでお酒を飲んだりすることは、普通にあることです。言葉でどう表現するかの問題はありますが、物事を深く考えすぎて、些細な問題で心を痛めてしまうということも、現代人ならよくあるはずです。セックスなんて論じる必要もなく、敷居が下がっています。
主人公の行動や言動を自分と比較して、「こんなヤツいないよ」とかいうのは、主人公を類型化して自分との共通点を見つけ出す作業なのでしょうが、確かに、村上春樹の作品の主人公を無理やり類型化して、多数派か少数派かで割り振ったとしたら、間違いなく少数派でしょう。(安易にこういう構図に分類するのは正しい方法ではないのですが)
鉄道会社勤務。年収は、700万程度。都内にマンションを所有し、ローンもない。30代後半で独身。女性関係は特に困ったことはない。
なんというか、条件面だけ描きだせば、裕福で恵まれていて、どこかしらいけすかないととることもできそうです。そして、実際、この点を、アンチレビュワーの方々は、突いているのですが。
前述したとおり、村上春樹の小説が世界的に受け入れられたひとつの要素はその「孤独性」だと言いました。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
などという人間を描いて、そこに世界中の多くの人間が共感しているのです。きわめて個人的に。
そして小説というのは、個人的な共感によってはじめて読み進めることができる形式の芸術です。
たとえば、ソフィア・コッポラの映画は、同じように「孤独」を描いています。マリーアントワネットなどはその最たる例で、多崎つくるくんなどとは比較しようもないくらい恵まれている。にも関わらず、彼女は圧倒的な孤独に苛まれている。そして映画を観る者は、そのマリーの孤独に共感して、胸を痛める。いや、映画が小説と違うのは、マリーの孤独に共感しようとしまいと、映画自体は2時間後に終わるということ。
しかしながら、小説というのは「なんだよこいつ、むかつく奴だな」というのがあったら、読み進められない。別の言い方をすれば読み進めなくてもいい。村上春樹は、この社会において孤独を感じながら生きざるを得ない、もしかしたら比率的には少ない側の面々の生き方肯定しながら、その顛末を見守るというようなプロットなのだから、読んで「むかつく」人が多いのが、当たり前といえば当たり前なのです。
もともと多くの多数の人間に共感されることを、書いてる本人も視野にいれてはいない。(それを望んでいないわけではないにしても)
にもかかわらず、売る側は必死です。
それはそうです。売る側は、本の内容は関係ないからです。出版不況の時代です。本が売れません。黙っていても売れる時代なら、売る商品を選ぶこともできます。「こんな根暗な作家が書いた本は、ひっそりと奥に並べておこう」とか。でも今は、売れる商品が限られています。小さな本屋から、大きな本屋まで、こんなにまとまって本を売ることができる機会は、年にそう何度もあるわけではないのです。
だもんで、売る側は、まったなし。「村上春樹の新刊!?長編?平積みだよ、平積み!」
と、なって当然です。で、買い手は買い手で、村上春樹なんて共感できない人が数多いて、そのことを半ば自覚しているにも関わらず、「またぞろ、村上さん新刊ですか?」などとうがった態度で、1700円も払って買って帰ったりする。
本来、孤独に静かな時間を過ごしたい人(それから社会と自分との繋がりを確認したい人)のために書かれた本であるにも関わらず。
帯にこんな風に書いておけばいいかもしれません。
「この作品は、日常に違和感を感じることもなく、日々を謳歌している人間には読む必要のない小説です。それと孤独を描いてはいますが、自分自身の孤独が解消されれば、他人のことも社会のことも、どうでもいいという人にも不向きです。自身の孤独が社会との関係において改善されることを仄かに信じている人のための作品です」
もちろん、そんなことは絶対書かれることはないのでしょうけれど。
本来静かに出版されて、求める人がそこに救済を得るという仕組みであるべき作家と読者の関係が、資本主義の論理によって蹂躙されている。それだけのことにも関わらず、本来、村上春樹に対して苛立つ必要もなかった人たちまでが、駆り出されて、勝手に苛立っているのです。
嫌なら読まないということが可能なのにも関わらず。
この「作り手」と「市場」との悲劇的な関係というのが、アンチ村上春樹を作り出し続ける最大の要因という気がしてなりません。
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随分長くなってしまいましたが、最後に結論というかなんというか。
こういうことも言えるかもしれません。
昔、三島由紀夫は、太宰治が大嫌いで、直接会いにいって「私はあなたの作品が嫌いです」と言ったそうです。
すると太宰治は返す刀でこう答えました。
「でもこうやってわざわざ来たんだから本当は好きなんでしょう?」
三島由紀夫は、なにも言い返せなかったそうです。
つまり、みんな本当は、村上春樹が好き(もちろん、断固として認めたくない)なんだけど、作品の主人公同様、素直になれず、好きさゆえに星1つつけちゃって、あんなヤツ嫌だよ、いないよ。むかつくよ。とか言ってるだけっていう可能性もあります。
ん?あっ、それって、実は一番村上春樹の主人公的?な気がしなくもないですね。
この長文を書いている間に、少なくとも「私は、ハルキストです」とか言ってる人より、星1つつけて、村上春樹なんか嫌いだよとか言いながら、毎回出版されるたびに買っちゃってる人たちの方が、なんだかよっぽど共感できる気がしてきました。
このレベルが挨拶のよーなチョンに慣れちゃっているけど、USだとフツーに大失言です/ふつーこの手の反日は民主党議員だろう、日米共に。
朝鮮進駐軍が場所乗っ取って「時効だから問題ない」とかほざいてる朝鮮学校や全国闇市跡パチンコ屋の土地とかも当然対象ですよね?ヒュンダイ様。
レイシズムやヘイトも醜いが、この支離滅裂ぶりと歪んだ世界観。
頭の中どうかしちゃってるとしか。
幼少時に性暴力被害にあった女(複数)が「ロリコンは気持ち悪いし怖い」と発言してるのに対して、ある幼女好きを公言してる男が「ロリコンだからといって誰でもいい訳じゃないんだからロリコン自称したからって危険視するのはやめれ」と憤慨していた。
そいつは誰でもいい訳じゃないのかもしれないけど世間一般のイメージだとロリコンって幼女なら何でもいいイメージだよなあ。
ゲイはロリコンに比べたら「男なら誰でもいい」メッセージなんて発してないように思う。
ゲイ同士ではハードル低い面もあるだろうがノンケ男に対しては興味なさそう。
でもそうは思ってない男が多いのかもね。
歌を録音して、動画を作って、題名に「歌ってみた」の文字を添えてニコニコ動画にアップロードしている。そんなことをもう3年ぐらい続けている。
多くの「歌い手」がそうであるように、私もボカロ曲やアニメソングなどを主に歌っている。でも、最初からそうだった訳ではない。一番最初に「歌ってみた」のは戸川純の「諦念プシガンガ」だった。戸川純ファンと思しき人々から辛辣なコメントが次々に投稿されたので、怖くなってすぐに削除してしまった。今にして思うと、それほど激しく攻撃されたわけではないけれど、不特定多数からネガティブな感情を突き刺されることに慣れていなかった当時の私は、すぐにパニックに陥ってしまったんだと思う。
話が前後するけれど、私が「歌ってみた」を始めたそもそもの動機は、ざっくりした言い方をしてしまうと、チヤホヤされたかったからだ。いや、チヤホヤとまでは行かなくても良い。ただ、自分が起こしたアクションに対して、誰かから何かしらの肯定的なリアクションを返してほしかった。
当時の私は実生活があまりパッとしなかった。地方の大学を卒業して、それなりに名前が知れた電機メーカーに入社して、東京に配属されて、そこでずっと働いていた。それ程極端に忙しいわけでもなく、賃金にも満足していた。会社での人間関係も悪くない。
しかし、仕事を終えて、職場を一歩離れてみると、途端に宙ぶらりんになる。
たまに職場の飲み会に参加したり、数少ない友達とご飯を食べに行く以外には、特にやる事がない。やりたい事がない。資格の勉強をしてみたり、ジムに通ってみたり、ライブや映画を観に行ったり、ウクレレを練習してみたり、色々と手を出してはみるものの、それでも一人の時間を持て余す。新しい友達を作りたい。でも、友達をどうやって作れば良いのか分からない。恋人もずっといない。友達の作り方も分からないけれど、恋人の作り方となると見当もつかない。今となっては誰かを好きになるという気持ち自体がよく分からない。
決して不幸ではないし、普通に生きていけているけれど、その普通さに、波風の立たなさに、だんだん気持ちが押しつぶされていくような感覚を覚えながら、毎日を過ごしていた。
そんな時、キリンジの動画を観たくてYouTubeを検索していたら、どこかの少女が自宅で撮影したと思われる動画に行き当たった。顔が見えない角度でギターを弾きながら「エイリアンズ」を歌っている動画だった。冷やかし半分の気持ちで再生してみると、ものすごく上手くはないけれど、原曲の雰囲気を大事にしながら丁寧に歌っていることが伝わってきて好感を抱いた。
その動画は、元々はニコニコ動画にアップロードされたものを本人がYouTubeに転載したものだった。ニコニコ動画の、同じ動画にアクセスしてみると、コメント数は50程度で「雰囲気が良いね」、「頑張っている」といった、私が抱いたのと同じような感想がぽつぽつと付けられていた。
それ以前にもニコニコ動画の「歌ってみた」の存在は知っていたけれど、若い子達が派手なアレンジの曲を大げさに歌った動画に対して、賛否ともに過剰なテンションのコメントが弾幕のようにつけられているような、私とは世代も文化も違う人達が集まる場所だと思っていたので、この「エイリアンズ」の、まるで地方都市の駅前の暖かな路上ライブのような雰囲気は意外だったし、好ましくも感じた。
それから何週間か、毎晩ニコニコ動画で自分が好きなミュージシャンの名前の後ろにスペースと「歌ってみた」という文字を付けて検索して、色々な「歌い手」の動画を観て回る日々が続いた。多くの動画は、3桁に届かない程度のコメントしかついておらず、お世辞にも盛り上がっているとは言えなかった。
だけど、どの動画にも、最初に観た「エイリアンズ」と同じように、「歌い手」達に対して押し付けがましくない程度に好意を伝えるコメントが並んでいて、それらのコメントを眺めていると心が落ち着いた。同じ音楽を愛する人たちが集まって、それこそ「ニコニコ」しているような、楽しさがそこにあった。
でも、多くの「歌い手」は決して歌や演奏が上手なわけでは無い。色々と動画を観ているうちに、「この程度なら私でもできる」と思う事がだんだん増えていった。そして、ある動画を観ていて「何で普通に歌っているだけで、みんなから褒められるんだ。ズルい」と思った瞬間に、私は我慢できなくなった。すぐさま、Googleで「諦念プシガンガ コード」を検索した。自分で歌ってみるならこの曲だと、実はもうずっと前から決めていた。この曲なら、私が弾ける唯一の楽器であるウクレレでも似合うはずだと思っていた。
しばらくの間、家にいる間はずっとウクレレで「諦念プシガンガ」を練習した。夜中にウクレレの弦が切れたので、慌てて池袋で一番遅くまで開いている楽器屋に駆け込み、ウクレレの弦を3セット、そして、思い切って19800円の新しいウクレレも買った。今まで使っていたのは雑貨屋で買った1980円のものだった。
毎日毎晩、練習した。そして二週間。私は、今まで殆ど使ったことがなかったパソコンの動画撮影機能を起動させて、最初に観た「エイリアンズ」の彼女のように、自分の顔が映らないようにディスプレイの角度や、座る位置を調節して、目一杯緊張しながら「諦念プシガンガ」を、歌ってみた。三回目の撮影で、声がひっくり返らず、音程も飛ばず、ウクレレも殆ど間違えなかったので、それをアップロードした。
それでも懲りずに、「歌ってみた」動画をアップロードし続けた。一週間から二週間かけて、歌を決めて、練習して、撮影して、公開する。そんな生活サイクルが自分の中で定着してきた。ネットで検索してコードが分かる曲の中で、自分にも歌えそうな好きな曲を選んで、少しずつ歌ってみた。再生数もコメント数も少なかったけれど、動画にアクセスする度にちょっとでも再生数が伸びていたり、一つでも新しいコメントがつくと、無性に嬉しかった。「新曲待ってました」というコメントが目に入ってきた時は涙が出そうになった。この人は、私の歌を待っていてくれた。私のことを待ってくれていた。それは、初めて感じる種類の喜びだった。
そのうち、オーディオインターフェイスやマイクを使うようになった。パソコン標準の動画撮影機能の音質では物足りなくなったのだ。初めてそれらの機材を使って録音したときは自分の声がはっきり録れすぎていて、その生々しさに怖気づきそうになった。「どうにでもなれ!」という気持ちで公開すると、「ものすごく聴きやすくなった」という暖かいコメントが返ってきた。再生数が伸びる速さが、少し上がった。
「ボカロを歌ってみてほしい」というコメントがついたので、ウクレレで試しに「メルト」を歌ってみたら、再生数がさらに跳ね上がった。初めて、再生数ランキングの下の方に自分の動画が表示された。否定的なコメントも「諦念プシガンガ」の時とは比べ物にならない程の数が寄せられたけれど、それ以上に好意的なコメントもどんどん書き込まれた。生まれて初めて「萌えた」と言われた。
多分あの時、私は、気持ちの上で一線を超えたんだと思う。
すぐに私は、ボーカロイド関係のウケが良さそうな曲を選んで歌ってみるようになった。私のウクレレの腕では弾けない曲ばかりだったので、出来合いのオケを使うようになった。歌の練習だけで済むようになったので、ずっと楽になった。再生数もさらに増えた。コメントも増えた。それまで自覚していなかったのだが、私の声は一定の人々の「萌え」をくすぐる要素があるらしい。そういう人達のコメントを眺めることが、たまらなく快感だった。最初からこうしていれば良かったと思った。「ウクレレじゃないと魅力が半減」というコメントも投稿されたけれど、しばらくは見て見ぬ振りでやり過ごし、やがて「ウクレレ」をNG設定して自分の目に触れないようにした。
それまで日常的に使っていたTwitterアカウントとは別に、「歌い手」としてのアカウントを作った。最初は「新しい動画を公開した」といったアナウンスに使っていたのだけれど、少しずつ他愛のない呟きや、自撮り写真を載せるようになった。
フォロワーの人たちは私のちょっとしたツイートにFavをつけたり、リプライをくれたりした。私が精一杯角度や光を工夫してボロが出ないように撮影した顔の一部や、素肌を撮影したボンヤリした写真に「100万回保存した!」と反応してくれた。
Twitterは、ウクレレで弾き語るよりも、オケにあわせて歌うよりも、ずっとずっと楽だった。準備もいらない。練習もいらない。ただちょっと踏み込んだ事を言ったり、気を引くような写真を見せるだけで、肯定的なリアクションが返ってくる。最初はウサギのイラストをアイコンにしていたけれど、途中からTwitterで知り合った絵師の女の子が私をイメージして描いてくれたという、素顔の私とは似ても似つかないウサ耳美少女の画像に変えた。フォロワー数が激増した。
先週、ある男の子に会った。
その日、私はお台場で開催された岡村靖幸のライブ会場にいた。満員の客席で、開演を待ちながらスマートフォンで「今から岡村ちゃんのライブ♪」などとツイートしていると、後ろから肩を叩かれた。まだ二十歳にもなっていない程度の、知らない男の子だった。そして、彼自身のスマートフォンに表示された、私が投稿したばかりのツイートを指差しながら、不安げな顔で、口の動きだけで「◯◯さん?」と、私の「歌い手」としての名前を呼んだ。血の気が引いた。
彼が誰だったのか、何でそこにいたのかは分からない。たまたま、私のことをフォローしていて、客席で私のスマートフォンの画面を見て気付いたのか、あるいは以前から岡村靖幸ファンを公言していた私に会うためにライブ会場にまで来たのか、今となっては分からない。彼は、名前を呼ばれて凍りつく私の顔をしばらく見た後、そのまま振り返って、他の観客の間を押しのけて、客席のずっと後ろ、私から見えない位置にまで移動してしまった。
全身が震えた。姿を見られた。
岡村ちゃんと同い年の、歳相応の容貌の私の姿を、私の子供でもおかしくないぐらいの男の子に見られた。
もし、彼一人がネット上で私のことをバラしたとしても、恐らく多くの人は真に受けないだろう。写真を撮られたわけでもなければ、私が自分で「はい、歌い手の◯◯です」と認めたわけでもない。
頭では分かってる。絶対大丈夫。今までと何も変わらない。
でも、あれから一週間。私はニコニコ動画にもTwitterにもアクセスできずにいる。
この世界にたった一人だけでも私の生身の姿を知っている人がいると思うと、私はもう、私とは似ても似つかない萌え声ウサ耳美少女歌い手の◯◯になれない。
そして、全てのきっかけになった「エイリアンズ」の歌詞を思い出す。
この星の僻地で、私が自分自身にかけた魔法は、あの日、あの一瞬で解けてしまったのだ。