はてなキーワード: 社会的認知とは
「性的な目的で考案、作成された衣装(A)」又は「元は異なる目的のものであってもある状況下で性的な目的に用いられるとのコンセンサスが社会的に生じた衣装(A')」を指すと仮定する。
たとえば「穴あき下着」は前者A、「亀甲縛り」は後者A'の例だろう。そして、それらが批判の対象とされるのは、
「それらが性的な喚起力を高くもつとの合意が現に社会的に維持されている(B)」こと、そして「性的存在として眼差すことへの禁忌が社会的に存在する対象にそれらの衣装を着ける(C)」ような場合(つまりAorA'、かつB&Cの場合)と仮定する。この場合、結果として現れる表象それ自体が公序良俗の取り締まり基準を満たしているか否か(D)とは、また別の問題として扱う必要がある(Dは、どんな文脈でも社会的に提示するのは一発アウト、みたいな基準と考えられたい。生性器のドアップ写真、とか。ただこの場合も、「公序」の制限とかけはなれた特殊な状況、場所で許容されるのは言うまでもない。医学書とか。)。
以上を前提として、先日話題になった「オーストラリアのH&M広告炎上」の件と、昨日来話題の「咲バニーガール衣装」の件を合わせ論じたい。先に結論を述べれば、A~Cの基準が異なれば議論が噛み合わないのは当然であり、相手を非常識扱いしてヒートアップするのではなく「相手との間で異なっているのは何か」を考える必要がある。相手が、いかなる表現も100%許されると考えている人(つまりDなどないよ派)でない限りは、見解が異なるだけで、対話の余地はあるはずだからである。ではまず、オーストラリアH&Mの件を整理しよう。
オーストラリアのH&Mが子供向けに「新学期ファッション」をテーマとした広告を打った。広告は、通学バスの社会を想起させる色合い・デザインの背景に、かわいい通学服を着た女児2名がちょっと生意気そうな雰囲気で振り返り、「この子らを新学期ファッションに振り向かせよう」みたいな煽り文句がついていた。これが炎上・謝罪・撤回に追い込まれた件である。
まず、この広告がDに違反していないことは言うまでもなく、それでも炎上したことに対して、いろいろと文句をつける人がいた。多くの人は「こんな程度でいちいち文句をつけるなんてちょっとヒステリックでは…」みたいな反応であり、個人的にそう感じる気持ちもよく分かるのだが、でもちょっと待ってほしい。女児の制服をファッションとして扱うのは、このキャンペーンがまさに狙っていることであり、ファッションを一種の性的喚起力だととらえるなら、この広告は「生意気そうなモデルの表情」「かわいい制服」といった文脈で、Bを印象付けたわけであり、その結果、制服がもともともつA'の文脈(制服に対して性的視線を向けるという界隈の文脈)を喚起した結果、Cに抵触する(保護されるべき女児に制服を着せあざとい表情をさせて晒し上げる)という批判を生んだという風に考えることができる。このことは、A'に陥りがちな服装をファッショナブルな(あるいは扇情的な)存在として扱うときには常に注意すべき危険であり、BからA'→C違反、という道筋がすぐ描かれてしまうことに、広告関係者は神経を尖らせる必要があるだろう。その意味でこれは、「月曜日のたわわ」の一件との連続性が高い問題だった。あれも、Dには全く違反しておらず、おそらく制服でなければ問題化もしなかった広告が、一言の少しだけ扇情的なキャッチコピーを添えられただけで炎上したが、これはもともと危うい位置にある存在で更に一歩危うい方向へと歩を進めることで起きたトラブルなのだと考えるのが適切である。
ただし、表現とは常に時代の尖端で社会の常識と切り結ぶのが仕事であり、そういう突破力を否定し切るのもいかがかと思う。社会的に(まだ)アウトですよ、と指摘するのはいいが、相手を悪魔化したり、あまつさえ、様々な社会の問題の根源や責任がそこにあるかのように攻撃したりするのは、慎むべきだ。社会の様々な問題は、多くの場合間違いなく社会そのものの中に有り、そちらをまず片づけるべきである。ゴミの多い都会を描いた漫画があるとすれば、取り組むべきは都会のゴミをまず片付けることであって、漫画の取り締まりではない。
次に、「咲にバニースーツ着せた姿の広告が炎上」した件。これに対して「高校生にバニーガールなどという性的な衣装を着せた絵が広告として駅頭に出るとは、常識外れもはなはだしい」という指摘が出た件である。一見すると、上のオーストラリアの件以上にひどい案件に聞こえ、即取り締まられてもおかしくないように感じられることだろう。この場合、それが一般的な公序良俗違反(D)の案件である必要はない。たとえば、制服の上から亀甲縛りをした少女を描いた広告にOKが出るか、と考えてみればすぐ分かる話だ。Dに違反していなくても、これはA'かつBかつCで明白にアウトである。では、「咲+バニースーツ」はどうなのか?
バニースーツがAであることは誰も否定はしない。従って、論点は、B「それが性的な喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか」、また、高校生が「性的存在として眼差すことへの禁忌が社会的に存在する」ことは前提とした上で、これらの少女が「高校生である」ことが明示されているか、の2点ということになる。
C 「咲」に登場する少女が高校生であることは明示されているか? これについては、残念ながらこの広告に関する限り、疑わしいとしか言えない。批判者は咲が麻雀部に所属する高校生であるとの知識をもって批判しているが、咲はそこまで社会的認知度が高い漫画ではない。アニメ化されたとはいえ視聴率は1%に届かない程度、DVD売り上げでも、1期7758枚、2期4939枚、3期4565枚…。(※)アニメファンには実写化、映画化……とされた人気作のイメージがあるかもしれないが、社会現象になった数々の作品に比べれば売り上げが一桁少ない。加えて作品ジャンルが「麻雀」という、一般的にいって高校生とは結び付けづらいものだ。この広告を見た多くの人が「高校生にバニースーツ」という風に見る、と主張するのは難しい。ただし、一定年齢層以上の人で、アニメ画は全て少女(ロリ)にしか見えない、という意見をお持ちの方がいることも、一応認識はしている。
(※DVD売り上げはhttps://nizilove.com/category/number-of-anime-sales/page/2/の値。)
B それが性的喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか? おそらく批判者が一番「何を言ってるんだ?!」と思うポイントであり、今回一番議論が噛み合っていないところだと思うが、Aのような服装が時代を下るにつれてBの意味合いを失っていくことは、歴史的にはよくあることである。たとえば、髪型一つとっても、「結わない髪は淫らである」といった固定観念が、遊女などの流行を取り入れつつ徐々に変遷し(※)、現代の人は単に「かわいい」という感覚で振り乱した髪の毛を奔放になびかせているのはご存じのとおりだ。「そんな髪型は昔は遊女が流行らせたもので…」と説教をして、いま、一体誰が首肯するだろう? 時代が下ればある衣装が「もともともっていた意味合い」が薄れていっても、何も不思議はない。つまり、たとえAであったとしても、時代によってBではなくなるということは別に不思議ではないのだ。
(※たとえば参考:「『女髪結』考」https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/21365/files/KU-1100-19940930-01.pdf)
では、バニー衣装はどうなのか、といえば、これはまさに時代が変化しつつある過程なのではないかと思われる。自分は決して専門の立場ではないが、そもそも夜の店の主流がキャバレー→キャバクラ等へと変遷していく過程で、「性的な接待衣装としてのバニーガール姿」というのはもはや古典的なイコンとなり、現役の「風俗衣装」としての意味合いをかなり失いつつあるのではないか。たとえば「社長さん」御用達で半世紀以上の歴史を誇る「エスカイヤクラブ」では、支援の声を受けて「ワンランク上のおもてなし」としてバニーガールによる接待をうたっている(https://www.esquire-club.co.jp/general/about01/)が、これなど、バニーガール姿がほとんと「祇園の芸妓」的な存在と化しつつあることの表れではないだろうか? そもそもの出発点においてからが極めてトレードマーク・コスプレ的な衣装であったバニーガール衣装が、現代においてコスプレ的ではなく生き延びている事例というのがどれほどあるだろう。
そのような時代の変化の過程において、「バニースーツは性的!」という批判と「ただのコスプレじゃん?」という意見が、まさにBをめぐる議論として立ち現れてくるのならば理解ができるし、それははっきり言えば単なる「時代感覚の差」の問題に過ぎないと思われるのだ。たとえば、高校生が文化祭でメイド服を着る、あるいは、小・中学生が習い事でポールダンスを学ぶ……ある年代以上の人からすると、目が点になるのか三角になるのか知らないが、そんな事例であろう。だがそれらは、時代の変化の中で起こるべくして起こる変化の一様態でしかない。
つまり、これらは決して表現の自由だとか差別とかいった問題ではなく、単なる「年寄りと若者の時代感覚の違い」に起因する問題だと認識した方がいいと思う。ならば、相互に批判しあう人たちも、この問題からいずれも学ぶことがあるはずなのだ。こういった問題で、敵味方を作ってがあがあがなりたてるのはよろしくない。何よりも必要なのは、分断ではなく対話と理解であるはずなのだから。
いまやプリントシール機そのものの代名詞となったプリクラだが、そもそもは1995年にアトラスが発売した『プリント倶楽部』(以下「プリクラ」)の略称である。
「プリクラ」はそれまで世の中にまったく存在しなかった分野を切り開き、最盛期の1997年にはプリントシール機の市場規模は1000億円を突破した( https://jaia.jp/wp-content/uploads/2020/04/JAMMA-PRI3.pdf )。そんな「プリクラ」の生みの親が、当時アトラスの営業ウーマンであった佐々木美穂氏である。元々リクルートに勤めていた彼女は、アトラスの創業社長・原野直也氏に誘われて1987年にアトラス入り。仕事に使用していたビデオプリンターから着想を得て、「プリクラ」が誕生した。
その佐々木美穂氏が亡くなっていたという話が飛び込んできた。
江崎 稔
@esakings
ATLAS女神転生初期メンバー同窓会楽しかった~僕が仕事の都合で22時抜けだったけど話は尽きなかった。メガテン制作時の笑い話、バイオ戦士、えりさと、銀河伝承、亀の恩返し。伝説の人々、可愛がって頂いた亡くなったプリクラ生みの親美○姉さん
@gontarou
色々話聞きたかった…
…ん?
>亡くなったプリクラ生みの親美○姉さん
…えっ えっ!? 亡くなってるの…??∑(゚ロ゚ ;)
午前11:04 · 2022年7月9日·Twitter Web App
https://twitter.com/gontarou/status/1545589700005875712
江崎 稔
@esakings
返信先: @gontarouさん
亡くなったらしいですよ
午前11:23 · 2022年7月9日·Twitter for iPhone
@gontarou
返信先: @esakingsさん
なんと…。
いつかの記事にこんな事書かれてましたけど、この記事が2019年の記事なので本当にこのタイトル通りとなってしまわれたのですね。。。
江崎 稔
@esakings
返信先: @gontarouさん
よくおやつ持って来てくれた優しいお姉さんでした。ご冥福をお祈りします
江崎稔氏は元アトラスのグラフィッカーで、『デジタル・デビル物語 女神転生』では悪魔デザイン、説明書イラストを担当。現在はアニメ業界に転身している。
2019年のインタビューによれば、佐々木氏は老人介護施設に勤務していた。また2021年1月放送のテレビ番組でもインタビューに答えていた。当時まだ55歳である。
「プリクラ」はSMAPが出演するテレビ番組で取り上げられたことをきっかけに社会的認知が高まり、女子高生層を中心として空前のブームとなる。「プリクラ」特需に乗るようにしてアトラスは1997年にJASDAQ上場を果たすが、ブームの退潮、他社のプリントシール機参入もあり、21世紀に入ってからは経営難に陥る。タカラ、インデックスの子会社となり、2009年には「プリクラ」を含む業務用ゲーム部門を畳んでいる( https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0902/09/news014.html )。2010年からはインデックスに完全に吸収されていたが、2013年にセガサミーグループ傘下となり会社組織として復活した。セガといえば「プリクラ」をアトラスと共同開発したという縁がある。2013年のセガ社長・鶴見尚也氏のインタビューでも「セガとの歴史で言うと、アトラスとは、プリクラの時代から長いお付き合いがありましたし、ポジティブな印象を持っていました。」と触れられている( https://www.famitsu.com/news/201312/02043751.html )。2020年にセガは20年ぶりとなるプリクラ機「fiz」を発売した( https://automaton-media.com/articles/newsjp/20200707-129763/ )。
セガとアトラスの縁といえば、以下のような話もある。セガサターン用アクションRPG『プリンセスクラウン』の開発が暗礁に乗り上げた際、神谷盛治氏とアトラスを結びつけたのも、「プリクラ」ヒットによる両社の友好的な関係が背景にあったという。神谷氏が設立したヴァニラウェアはアトラスと複数のタイトルでタッグを組むことになるのだが、もしかしたら「プリクラ」がなければ『十三機兵防衛圏』もなかったかもしれない。(『十三機兵』の複雑な時系列の組み上げにはアトラスQAチームの貢献が知られる)
神谷氏:
プリンセスクラウンの開発途中で,所属してた会社が倒産してしまうんです。
あら……。その後どうしたんですか?
神谷氏:
あわててセガの担当者に連絡を取って,「なんとかなりませんか」とお願いしたんですけど,その時はちょうどセガとバンダイの合併話が持ち上がっていた時期で,身動きが取れない状態でした。それで,代わりに……というわけではないのでしょうが,当時,セガさんと仲の良かったアトラスさんを紹介してもらったんです。
なるほど。それはなんというか……凄い展開ですね。
神谷氏:
あの時期,セガとアトラスは「プリント倶楽部」の大ヒットを背景に,とても関係がよかったそうで。こういう危うい案件の相談もできたみたいなんですね。結果としては,アトラスさんが開発費の一部を引き受けてくれて。セガ×アトラス共同プロジェクトという形で,プリンセスクラウンのプロジェクトが再開されることになるわけです。
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ヴァニラウェアは命がけでゲームを作る会社――クリエイター神谷盛治氏・ロングインタビュー https://www.4gamer.net/games/134/G013480/20130521001/
ここでミソなのが「かぼちゃと小豆」で「まずそう」だと考えるところで、かぼちゃが苦手だとか小豆が苦手だとしてと「まずそう」だとは普通は言わないんだよね
普通はかぼちゃにしろ小豆にしろそれなりに好まれている食材である事はコンセンサスが取れてるので。
まあ社会的認知を超えてもしかぼちゃが入ってるから、あるいは小豆が入ってるからという理由でまずそうだと言っちゃう人だとしたら完全に偏食だし
かぼちゃと小豆を合わせてもまずい料理しかできないと考えたなら偏食ゆえに体験した調理法のバリエーションが貧困すぎる事が原因だと予想できるし
適切に調理されたかぼちゃと小豆の煮物をまずそうだと考えるなら偏食だし
なんにしたって彼、あるいは彼女は偏食だよ
今回も真面目に返答するよ。
②既婚中年男性であろうとそうでなかろうと、性欲については公にオープンに語っても構わないこと
③性欲は婚姻という関係の外部で他の人間との性行為で解消されてもよい、という社会的認知がすすむこと
①②は、男性一般・女性一般の話としては認知が進むかもしれないが、オレの性欲・あなたの性欲という個人の話は相変わらず恥ずかしいしプライバシー情報に近い。そのため安易に口にするとハラスメントになりかねない状況は続くだろう。オープンに語れるとしても、持病や信仰などとおなじくらいセンシティブ情報として扱うのがせいぜいだろう。
③は、婚姻が性行為の永久専属契約という意味を持っているため、認知だけでなくあなたも書いているように法整備含めた制度設計の見直しが必要になる。
自分がありえると思うのは、もっとずっとフォーカスが狭く、「セックスレスが今思われている以上に深刻で解決が困難な問題であるとの社会的認知」だ。
夫婦の間で一方がセックスを望み他方が望まないという状態は解決すべき社会的課題であり、そしてまたそれは当事者が一対一で話し合っても解決が難しい、という認知でもある。
現在の社会的認知では、夫婦間で話し合っても解決しない。なぜならセックスレスがさほど深刻な問題と思われていないから。
だから、「私だって性欲はあるけど妊娠出産以降個人的な欲を捨てて子供のためにすべての意識と時間を注いでいる、あなたは親としての自覚が足りない」と言われてしまう。
本当は妊娠出産で一方的に性欲が減退しただけかもしれないのに。もちろん男女逆パターンもありえるのだが、夫婦と言う対等な立場では性欲がある方が圧倒的に不利な話し合いとなってしまう。
そのため、「夫婦間の性欲格差によるセックスレスは一方が我慢するのではなく、○○で解決するのが望ましい」という公的機関からのメッセージや社会的認知の後押しがあって、ようやく夫婦で前向きに話し合うことができるようになる、と思っている。
自分は中年男性に限らず性欲自体は別に汚らしくもないし、存在することが許されてないわけでもないと思う。風俗産業のありかたを考えれば、社会がそうした性欲の存在自体を容認していないとは思えない。
返答ありがとう。
だから、よくある女性が共感してもらいたくて話をしたら男性が解決策を提案したり、お前にも非があったんじゃないかと説教するやつの逆パターンに見えた。
なるほどね。これは確かにそうだ。共感を求めるメッセージに対して、先走って問題解決を図ろうとしてはいけないな。反省するわ。
風俗産業はパートナーを得るのが難しい男性や、出張などで遊びたい独身男性の利用が多い。芸能人などが恋愛トラブルやスキャンダルを避けるために利用するケースもある。いずれにしても既婚男性がセックスレスを理由に堂々と遊べる風潮には男性の間でもなっていない。
ここからは議論するというより、増田に一緒に考えてもらいたいというか、自分が考えることに増田につきあってほしいという感覚で書くんだけど。セックスレスを理由に堂々と性欲を解消したい、風俗で解消しても良い夫だと思ってもらいたい、というのは、性欲自体の認知・取り扱いとは違うことのような気がするんだよ。
増田と元増田の話に出てくる、社会がどう変わっていってほしいかという話を自分なりにいくつかに分けて考えてみるね。
まず①性欲は健康で健全なものだという社会的認知がすすむこと、これは充分に可能性があると思うし、老人の性や女性のセルフプレジャーが認められている話とも、性の権利宣言の話ともつながる。あとホモソーシャルな領域では男性の性欲はずっとそんな風に扱われてきたような気もする。
次に、②既婚中年男性であろうとそうでなかろうと、性欲については公にオープンに語っても構わないことだ、という社会的認知がすすむこと。これについてはまず、自分は未成年という要素が絡むときには、今後も一定の配慮や線引きが必要になるんじゃないかと思うんだよね。未成年全般に対しても、自分自身の子どもに対しても、性をめぐる情報の発信には適切・慎重な取り扱いが必要で、子どもがそれによって親との関係を損ねたり、心的トラウマを持ったりしないよう細心の注意を払わなければいけないと思う。増田の望むような未来で、子どもに対しても自分の性欲についてオープンに語れるイメージは湧いているんだろうか。俺も既婚中年男性で子どもがいてセックスレスで性欲はあって、だから自慰を行っている、という、元増田と同じステータスなんだけど、やっぱ子どもに自分の性欲について話すのはきついわ。これについては、社会通念の変化でどうにかなるような可変的な価値観だという実感が全然わかない。
あと、性のプライベートで私秘的な領域こそが人を惹き付ける部分とか、「語れない」ということこそが性の快楽の源泉になっている部分は確実にあると思うんだよ。藤子F不二雄の『気楽に殺ろうよ』ってSF短編では、セックスはオープンに誰とでもやってよく、かわりに食事が恥ずかしく淫靡な行為になった世界が描かれてるけど、やっぱ「他者の肉体との直接のコンタクト」という動物として極めてリスクの高い行為(コロナ禍でこのリスクをいっそう実感した)の実践や語りが、食事のようにカジュアルに気楽にできる未来というのはなかなかイメージしにくいんだ。
最後に、③性欲は婚姻という関係の外部で他の人間との性行為で解消されてもよい、という社会的認知がすすむこと。これは、最初からそういう前提で結婚しているパートナー同士が充分に増えない限り、広く一般に受け入れられるようになるのはなかなか難しいんじゃないかと思うし、一般的にそういう通念が通用するようになったとしても、今の配偶者との関係までがいきなり変わるわけじゃないんだよな。日本では婚外性交渉は犯罪ではないけれど、結婚している人間同士が双方同意したうえでのことでない限り「婚姻共同生活の維持という権利又は法的保護に値する利益の侵害」という不法行為を構成するわけで、やっぱり「結婚」と「相手と性行為を行う権利の排他的独占」は、社会的にはセットの権利義務関係として考えられていると思う。
元増田はまっとうな人だから、セックスを希望していない妻側の意思を尊重してセックスレス関係になっているわけだけど、やっぱり理屈としては妻と話し合って婚外での性交渉を容認してもらうというのが唯一正しいアプローチのような気がすんだよ。社会の変化や技術の進歩では、どうやってもこの問題(ほかでもないご自分の奥さんが、いま「結婚とセットだ」と考えている権利義務関係を、こちらの要望で解除すること)は解消できない、っちゅーか。
もし既婚でなければ、結婚する時に相手と「セックスレスになったときの対応」についてお互いに取り決めておくことはできるから(結婚契約書みたいなやつ)、セックスレスがいずれかの段階で来る問題だという認識のもとで、事前にそういう取り決め・擦り合わせをすることが世間的に当たり前になったらいいのかもなとは思った。
今まで色んな二次創作にハマってきたけど、pixivやTwitterでイラストを検索すると大体ワンスクロールいかないうちにR-18のものが出てきていた
誰も彼も乳を出して大股を開いて、もうその構図ならキャラが誰であってもいいのだろうか?と思うくらい、少しディグっただけでR-18のイラストがめちゃくちゃ目に飛び込んできていたのだ
でもウマ娘は、これだけ流行っているにも関わらず、現状R-18二次創作を見かけたことが一度もなかった
(もちろん然るべき掲示板など見ればあるのかもしれないが、少なくともpixivやTwitterなど社会的認知度の高い場所ではまったく見かけなかった)
公式が元のお馬さんと馬主さんを慮って、ちゃんと線引きをしてくれたのをみんなきちんと守っていてくれているのだ
優しい世界だ
で、そんなR-18二次創作が目に入らないウマ娘界隈のイラストや漫画を眺めていると、なんだか不思議と心地がよかった
ウマ娘同士で仲が良かったり、カッコいいカワイイウマ娘のイラストだったり、ギャグや恋愛や、とにかくR-18を使わない色んな方向性の二次創作があって、見る方も描く方もウマ娘を楽しんでいるようなものが多い印象を受けた
R-18ってよくも悪くも刺激的だから、そういうものが目に飛び込んでこない二次創作の広まり方は新しいし、自分としては嬉しい世界だなと思った
R-18の二次創作イラストがないと、キャラクター(ウマ娘)のプライベートが守られているような安心感?も少しあった
所詮作られたキャラクターだろ、紙に書いた絵だろそんなもんと言われればそれまでだけど、ウマ娘の育成ストーリーを見て、頑張ってる彼女たちにも秘密はあって、それはそれで彼女たちのものとしてつまびらかにしない紳士でいたいな、みたいな感じというか……
まず、以下の前提については全員の同意が得られると思う。
A.事情がある場合を除き、意図的に女性の体に触れて相手に不快な思いをさせたら痴漢である。
B.意図的ではなく偶然にやむを得ない事情で女性の体に触れたのならば痴漢ではない。
Aの事情とは、例えば倒れて意識を失っている女性に救命措置を施すなどがある。救命措置を行って助かった女性が「お前みたいなブサイクに人工呼吸されるくらいなら死んだほうがマシだった」として助けた男性を痴漢として警察に突き出しても認められるべきではない。
Bも単純だ。狭い道ですれ違う際、意図的に当たりに行ったのではなく本当にお互いに避け損なって体が当たっただけならば痴漢ではない。
従って、満員電車の場合は特別な事情があるか、偶然であるかという点が議論になる。
満員電車に乗るのは会社・学校などに遅刻しないためにやむを得ないと言う人がいる。だがそれは正しくない。仮に始発から通勤時間までずっと満員が続いているというならばその通りだが、現実にはそうなっておらず、早朝の電車はそこそこ空いている。なので早く通勤・通学することで、遅刻しない&満員電車に乗らないということは両立が出来る。なので、男にとって早朝の電車に乗らず満員電車に乗るメリットとデメリットは以下のようになる。
現在の痴漢を巡る問題で小さくない部分を占めているのが痴漢冤罪問題であり、痴漢対策だけでなく痴漢冤罪対策のためにも満員電車解消が叫ばれてることがあるなど、その社会的認知は高い。それに対し、前者は理由としては優先順位が低い。睡眠時間を多少削れば問題が解決するなら、睡眠時間を削って対処するべきというのは我が国における大多数の認識である。よって、このメリットとデメリットでは明らかにデメリットのほうが大きいと認識されるはずだ。
にも関わらず、早く通勤することで満員電車を回避しようという動きは鈍い。つまり、満員電車にはここに書いていないメリットがあるものと考えられる。
すなわち、『”満員電車だから仕方ない”と称して近くに乗っている女性の体に触れることが出来る』という満員電車の隠れた”メリット”を多くの男性が享受しようとしているのだろう。言い換えれば、満員電車に乗る男は、満員電車を口実に意図的に女性に触れようとしている。
ここで前提に戻る。『A.意図的に女性の体に触れて相手に不快な思いをさせたら痴漢である』─よって、満員電車に乗る男は痴漢である。Q.E.D.
バカバカしい主張でたぶんフェミ側の人は反応すらしてくれないと思っているけど、ディルドやオナホが規制されたら困る人も居ると思うんだ
明らかにディルドやオナホは男性一般・女性一般を対象にした性的消費であって、その存在の認知は少なくとも成人にはあるよね
流石にNHKへディルドやオナホが大衆向けの番組の中へ登場することはないとは思うけど、社会で存在が認知され性的消費されている事実は否定されるものではないはず
ディルドやオナホを挙げての主張はバカバカしい主張であって極論のように感じるのだけれど冷静になって考えてほしいんだよ
ディルドやオナホは少なくとも成人には認知されている。そしてそれは男性一般・女性一般の性的消費ということが否定できない
だったらなぜ成人の中でディルドやオナホの社会的認知が進んでるんだ?
洋楽好きを「オタク」と表現するのは腑に落ちない。下の図式だと【サブカル】の側だろう。
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・[目覚める時期] 幼年期~少年期(ローティーン) 少年期(ミドルティーン)~青年期(ハイティーン)
・[価値観] 「生活保守」主義? 「従属」は恥、「反抗」は善の《不良文化》? ※古くは映画館、ジャズ喫茶
・[住環境] 実家暮らし? 独立志向(一人暮らし、共同生活、同棲)?
・[趣味と性体験] 童貞か処女かは「不問」 童貞・処女は「恥」
・[傾向性] 「ネットの交流」で平均(没個性)化? 個性化、(他者との)差異化・差別化を重視・優先する「厨二病」?
・[ポリシー?] オナニー・スイーツ・集団アイドル?? Sex・Drugs・Rock'nRoll??
・[社会的認知] 非公認、未公認? 団塊世代が「数の力」で『若者文化』として「社会的な椅子(地位)」を獲得?
・[趣味対象と国] 自国モノに愛着(国内志向)? 外国モノを崇拝(海外志向≒出羽守タイプ)?
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この意見を聞いて思いましたがもしかしたらもともとの質問者さんは
ストレート(男女異性が性的対象)、ゲイ(同性のみが性的対象)のように完璧に人の性癖がラベルを貼って区別できるものというふうに思われているのかもしれませんね。
ですが実際には同性愛者をカミングアウトされた方であっても、その後異性と結婚をしていたり、または先に異性と結婚していてものちに同性と恋愛感情を持たれるケースも非常に多くいます。
ですので「ホモを排斥しろ」というのは単純なことではなく「男同士(女同士)のセックスを禁止しろ」ということではなく「同性同士で社会生活を送ることを禁止しろ」や「同性に恋愛感情を持つことを禁止しろ」といった非常に広い解釈ができるようになってきます。
おそらく質問者さんのようにLGBTに非常に強い嫌悪感をお持ちの方というのは同性愛が社会的に認知されること自体に強い忌避感を持たれているのではないかと思います。
ですが実際にLGBTなどのセクシャルマイノリティが希望しているのは同性婚や社会的な不利益からの解放といった部分のみであり、社会的認知とは全く違った問題になります。
法的な支援というのはその部分に関わってくるもので、同性婚についても法的に認められることにより社会的な認知度(世間的忌避感)がどの程度になるかは全く別に考えなくてはいけません。
LGBTについては数百年前より議論がされてきており、私の意見もそうした先人たちのものによるところが大きいので、むしろ現在の感情論による質問者さんのような方はどんどん言ってきてもらいたいと思っているところです。
さっきいっこ書いたんですが、全然伸びてないので、よければ読んでください。
http://anond.hatelabo.jp/20170412122218
あ、ブログを作る気はありません。
さて、タイトルの話です。
前に大門みきしさんがオススメだと書きましたが、彼の質疑についてです。
http://anond.hatelabo.jp/20170410114012
大門さんは、税制、財金問題については、おそらく政治家の中でも相当詳しいので、質問の仕方もどちらかというと講義+質問といった様相になることが多いのですが、今回ご紹介する4月5日の消費者問題に関する特別委員会、4月11日の参議院財政金融委員会で、ジャパンライフによるマルチ商法の追及もすばらしいものでした。
大門さんは滑舌があまりよろしくないので、ちょっと聞きにくいかもしれませんが、オススメです。
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php
の4月5日、2:34分ごろから
どうぞ。
他の議員でもそうですが、議員も質問の答えは基本的に承知していることが多いんですが、
「うちで、ジャパンライフルートで入手した、水庫メモというのがありましてですね」からのところ(4月5日、2:50ぐらいから)
でどよめく感じ。
献金リストももってそうなので、掘ってみると面白いかもしれないですね。
「こりゃ闇があるわ」
とつぶやいているのが拾われているのも面白かったです。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-06/2017040615_01_1.html
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik17/2017-04-12/2017041215_01_1.html
そもそもマルチ商法が抜本的に規制されないことについて、マルチ商法業者と天下り官僚との関係、政治家に献金等を繰り返していることが影響しているのではないかという指摘です。ジャパンライフの代表の山口隆祥は日本のマルチ商法の最初期から活動している、麻生太郎さん曰くの「有名人」でして、もう何度も何度も業務停止命令や有罪判決を受けているので、行政、政治家対策、社会的認知の向上のために、本当にいろいろとやっているわけです。その中で加藤勝信大臣と会食して、その様子を広告塔にしたりして、顧客に安心感を与えているという指摘で、マルチ商法の被害者が増え続けていることをちゃんと考えろといっているのですね。
大門さんは、マルチ商法の連続取引自体を規制せずに、訪問販売という商取引の形態のみを規制して、店舗でやるのをお目こぼししている状況になっていることと、経済産業省の官僚OBが天下っていることが影響しているのではないかと、こう整理しています。
民進党の矢田わかこさんも質疑されていたのですが、ジャパンライフに消費庁出身の水庫さん、経産省のキャリア組出身の松尾さん、元特許庁長官の中島誠さん、元内閣府官房長の永谷安賢さんが天下っていると。そんなズブズブの組織の指導に手心を加えずにいられるのか、という指摘です。
ちなみに、この山口さんは政治家業界にふかく、深く入り込んでいるので、いろんなところで名前を見ることができます。大門さんも指摘されている、ライフサイエンス財団に出資して、社会貢献もしてるよ、という顔もしていますし、日本文化協会のような日本会議の加瀬英明が代表をつとめる組織でも、永谷安賢さんと一緒に名前を連ねています。
大門さんは今後もこの問題を追及するとのことですが、マスコミにも当然大量の広告出稿をしているので、一般マスコミではなかなか騒がれないというアレなので、ぜひNHKのストップ詐欺被害、私はだまされないで扱って欲しいところ(違。
ちなみにジャパンライフは被害者への口止めにも力を入れているようですが、おそらくSEOも相当やっていますね。検索結果が笑えるぐらい穏便w
「全ての人間に共感できる人がコミュニケーション能力を持ってる人」????????????
※コミュ力 コミュニケーション能力 を拡大解釈するのはヤメましょう。 情報伝達以外の意味はありません。
※それ以上付け加えるならばコミュニケーション能力とは別の能力として主張すべき。
でググってみて下さい。
あと「コミュニケーション能力」でもググって下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/コミュニケーション能力
「同意することだけがコミュニケーション能力と勘違いしてる人」が多いようですが
批判がコミュニケーションでないならば、「はてなで批判をしている人間もコミュニケーション能力がない」ことになってしまいます。
つまり「イエスマン=コミュニケーション能力のある人間」という定義になってしまいます。
ましてや「どんな人間にも共感することをコミュニケーション能力とする」なんて、この世にそんな人間いますかね?
ちょっと例を挙げるとこの世界の全ての犯罪者に共感できる人間がいますか?
この世界の全ての悪意(日常を含む)に共感できる人間をコミュニケーション能力があると定義する非実効性。
そもそもの間違いは「コミュニケーション」に「力」という文字を付けたのが間違い。
またパオロ・マッツァリーノは、自己啓発書の売り上げを上げるために不安を煽り、彼らの都合のよい稼ぎ口として使われていること、も指摘しています。
以下は参考のための引用。
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パオロ・マッツァリーノの指摘
パオロ・マッツァリーノは『反社会学講座』収録の「ひきこもりのためのビジネスマナー講座」において、浜口恵俊の「日本語にはもともとコミュニケーションにあたる言葉がないため訳せない」という意見を取り上げ、近年、企業等においてコミュニケーションが本来の「意味を拡大解釈」して用いられているようだと指摘し、問題視している。
マッツァリーノによればコミュニケーションには本来、「情報(知識や感情も含む)をだれかに伝える・交換すること」という技術的な意味しかなく、そのため言葉の用法に従えば、上司や目上の人間へのある種の直接的な批判の類も立派なコミュニケーションとして成り立つことになると述べている。続けて「しかし、そうすることが日本の企業社会で奨励されているかというと、はなはだ疑問です」と言い、「日本人は古来、コミュニケーションなしで社会を成り立たせてきた」という事実を指摘し、安易にコミュニケーションという単語を用いる現代の風潮を皮肉混じりに批判している。
スーザンによれば、すべての人が同じコミュニケーションスタイルにおいて最良のパフォーマンスを発揮するというわけではなく、イントロバート(introvert)と呼ばれる『刺激に敏感で大量の刺激を本能的に避けるタイプの人間』と、エクストロバート(extrovert)と呼ばれる『刺激に鈍感で少量の刺激では必要量を満たせないために大量の刺激を必要とするタイプの人間』、二者それぞれの遺伝子レベルの性質を生かした二種類のコミュニケーションスタイルこそ、無理のない持続可能な方法であるとしている。
近代以降、資本を求め商品をいかに買わせるかが社会の関心事となった経緯を紹介し、深い思考は苦手だが口先が巧みなエクストロバートを量産し経済拡大に用いるというシステムが教育も含めて現代では日常化してしまっているという。この社会(エクストロバートワールド)では、イントロバートは欠陥品とされ(イデオロギーの定着のため病名まで発明された経緯もある)エクストロバートになることを強制される。しかしその性質は遺伝子レベルで50%以上固定されているために、対外的にはエクストロバートを「ふるまう」、無理の結果として心の病を併発したり出社拒否に陥るケースがあるという。
彼女によれば、どちらのタイプも社交的であるという。両方とも自身の性質に基づいた異なる社交性を備えており、イントロバートは多数の人間と社交を行うことは刺激が大量すぎる点で本質的に苦手だが、一対一または数人との社交においてエクストロバートを凌ぐ力があり、エクストロバートは刺激に鈍感であるがために多数の人間と社交を行うことができる。その反面、一対一または数人との社交において深い友人関係を築き長期にわたり維持することは苦手であるとされる。このため双方のコミュニケーションスタイルも必然的に異なる形となるのが自然であるが、現在の資本主義競争社会におけるバイアスのかかった社会においてエクストロバート型を唯一のコミュニケションスタイルと信じて疑わない状況がある。自分の話を聞かせたいエクストロバート、人の話を聞くことができるイントロバート、従来のリーダーの適任とされるのは前者とされてきたが、近年では後者の「引き出す力」に注目が集まり前者を凌ぐリーダーとしても可能性が示唆されている。多様なコミュニケーションスタイルは人間の多様性を認める社会であることが必須条件として、イントロバートの存在と可能性について全人民的に社会的認知を深める必要があるという。