はてなキーワード: ノベルとは
●ラノベしか読まない?他の小説は読む?それは何故?どこに魅力を感じている?
他の小説も読む。最近は歴史小説が多いけど前はミステリーが多かった。
レーベルでいうと講談社ノベルスとカッパ・ノベルスとミステリーフロンティアが多かったんだけど、最近では戦国時代モノの小説読んでる感じ。BASARAとか戦国無双とかの影響じゃないよ。本屋さんで平置きしてて面白そうだったからだよ。ゲームはほとんど出来ない。
読む理由は単純に面白いから。今度映画化する超高速!参勤交代なんかはまんまラノベっぽいというか少年漫画っぽい雰囲気で面白かった。勢いあったし最後は主人公の俺TUEEEEEEEEEEEEEEだし。話自体が魅力っちゃー魅力。
●ラノベファンはラノベを一般娯楽小説(定義付けのために一般と称しているだけ)と同じだと思っている?
どちらも小説には変わりないんだし同じだと思ってる。
そんなこと言ったらハヤカワはハヤカワという何かだしガガガはガガガという何かだし。一般娯楽とおんなじだと思う。レーベル移動をした砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけないとか彩雲国物語とかどうなっちゃうのって話だし。
歴史小説だけど金ケ崎の四人とかすっごくラノベっぽかったなあ、キャラ付けとかも含めて。あれは一般娯楽小説の範囲に入ると思うけど雰囲気的にラノベっぽい。でもどこのレーベルっぽいかと聞かれたら即座には言えないので強いて言えばカテエラレーベルガガガっぽい。
あんまり挿絵を重要視しないで文字列を文字列として飲み込んで読んでるのでそんなに違いを感じない。ラノベレーベルから出てても挿絵ないのとかも多いしね。
●ラノベで、パロディ要素が殆どを占めるようなものはどう思っている?
あんまり好きじゃない。でもパロディの元ネタがわからなくても面白いのは好き。
普段活字ばっかりだからあんまりアニメのネタがわからないので、元がわからなくとも面白いのが読みたい。
警視庁草紙で半七出てきた時は半七捕物帳を読んでいたから嬉しかったけど、あれよく考えたら二次創作というかパロディというか、そういうもんな気がする。
●ラノベは何故ジャンル分けされない?ライトノベルという呼称は既に不要ではないか?
ライトノベルて呼称は、主人公が若い小説っていうカテゴリ分けとして見てる感じなのであればあるで便利。
ラノベを主に買う理由が、最近では新刊が文庫で出てくれるに偏ってきた。ハードカバー置き場ないんだよなー。歴史小説で読みたい奴はだいたい文庫化数年後だし。タイトル買いしたくとも置き場がない。
エロゲレビューサイトめぐりをやってて思ったけど、エロゲをやることが面倒になってやらなくなってから、インプットに応じたアウトプットを行うことすら面倒になってきている感じがする。
だからレビューだけ読んで(自分がプレイしてこういう感想を考えたと錯覚して)満足する。レビューを読むことが趣味になってるレベル?
新作ゲーム買うけど自分でやるのは面倒だから誰かにやってもらうのをただぼーっと眺めるだけ的な。
でも実際そういう人って多い気がするんだよなあ。
日常生活がしんどすぎるのに娯楽が溢れすぎててやりたいのにやる気力がない、時間がないとかそういう。
オートモードもあるけど基本的にボイス待ちで次に進むから、読み終わったらボイス気にせず進める人にとっては基本的に無意味なんだよね。
クリック代行とかでも結局クリックしてもらうっていうアクションの手間>>>自分でクリックする手間だし。。
メッセージ表示終わってから文字数に応じてウェイト時間を決められればいいのか。
あとはあえて言うならエロゲのテンプレ(ツンデレとかハーレムとか中二病アクションものとか)を「そういうもの」として理解する労力も費やしたくなくなってきた。
うーん、、、ノベルゲーをやりたいけど読むのは面倒臭いってところに行き着くのかなあ。。。
なんなんだろうこの矛盾した気持ち。
ダンボール一箱分くらい未プレイのエロゲあるんだけどもうこれやらないまま処分するしかないのかなあ。。。
頭の中ではやりたいって思ってるのにやる気力が出ずに結局やらないままというのは社会人にとっては普通だけど深刻な問題だわ。
とってつけたようでなんだけど、最近の自分が特に史実を調べるでもなく艦これで無造作にレベリングばっかやってるところを見ると、物語を消化するのを避けているのかもしれないとふと思った。
佐村河内しかり大衆は物語を求める云々が最近ホッテントリでよく見かけたテーマだけど、物語を消費することが面倒になってきているのかもしれない。
普及台数つってもゲーム用にPC持ってる層は少ないだろ。家族共用だったり。
あるいは何年も前の低性能PCをネットブラウジングに使うだけですってのもざらだし。
それでじゃあノベルゲーのために買い替えようと10万近い出費をするかっていう。
動作環境が統一されていて、それが何年も変わらなくて、値段の割りに性能が高くて、
ノベルゲーといえば、金のない同人ゲームプログラマがPCで遊べるノベルゲーをこじんまりと開発してる。なんてイメージを持っている俺としては
そこそこ名の知れた某ゲーム会社がPS3で遊べるノベルゲーを開発していると知ったとき
題のように自問せざるを得なかった
そして自問すると同時に、
という疑問が噴出した。
普及台数、ひいては潜在的な顧客数、の観点からすると、PCで開発する方がたくさん売れていいじゃんね、CS機独占で開発する必要ないじゃんね
しかし、数多のゲームがCS機独占で開発され販売されている以上、CS機独占で開発するメリットが有るはずだ
PCに比べて動作環境が統一されていて不具合が発生しにくいとか?
誰か教えてください
さて、創作(メインはライト系のノベル、たまに作曲)活動を趣味としているわたしですが、
人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間、余暇)に、好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと
『時間をあっという間に吸い尽くす』というのを悪いほうにとらえがち。
そりゃあ、家庭崩壊とか、仕事に支障をきたすとか、睡眠時間が~~!! ってなったら問題ですよ。
でも、生きててさあ、趣味に費やす時間がさあ、余ったとしてどうすんの?
ネットゲームは時間喰うから封印しよう! 普通のゲームしよう! やった! 毎日5時間ゲームしてた当時と比べたら、ゲームは一日一時間って決めたから4時間も余った~!!
で?
余った四時間をどうするのさ?
好きにすりゃいいさ。
だけどね、
こちとら、人生に疲れて、一切の趣味を失い、うつで職も失い、無趣味な期間、それも、人生的な喜びも何にも感じられない人生を数年送ってきたのですよ。
現状まで回復するのに沢山時間がかかりました。数年レベル。悪化しない早めの段階で治療に入ったのにね。
その復帰プロセスなんだけど、テレビが楽しめるようになった。プロ野球の勝敗とか気になるようになった。
ゲームができるようになった。おでかけできるようになった。人と関われるようになった。なんとか普通に寝起きできるようになった。
でもいまいち何か物足りない。
やる気が起きない。うつの症状そのまま。
気分が沈む。
最近ようやく、ジョギングしたり、ギターをつまびいたり、創作できるようになってきた。
前向きに考えられるようになったから趣味が楽しめるようになったのか、
趣味に時間を使いだしたから意欲がでてきたのか、それは知らない。
だけど、生きていく上で、絶対に必要なのが余暇の充実した過ごし方だと思う。
人付き合いって波がありますよ。リア充続けるのだって大変だ。ストレスもたまる。
その逃避先が趣味でしょ?
何? 時間が惜しい?
資格? 金?
死ぬ間際に考えてみたらいい。
家族や友人、ひいては知人は大事にしなさいよ。それは飲み屋の親父の小言みたいだけど口を酸っぱくして言う。
だけどね、趣味に時間を掛けられない人って可哀そうだと思う。自分がそうだったから。
アニメをみたり漫画を読んだり……気楽だけどね、消費するだけの趣味って結局何も得ていないんだから、スキルレベルがアップしてないんだから。
体鍛えたり、何かを作り出したり……、よっぽどそういう方が趣味として健全だとおもふ。
たとえ、ネット上にゴミ屑を散らかしてたり、チラシの裏にでも描いとけというような駄作でもね。
情熱を叩き込めなくなったら人間おしまいよ。生きる意味がないよ。
そういう意味では、資格とったり、お金稼いだりってのも趣味の一環なんじゃない?
余暇をわざわざ潰してるんだから。そういう人には非難はしないよ。好きでやってんだからいいじゃん。
好きなら、アニメ見続けてもいいさ。
俺はゲームはプレイしてません、レビューを読んでの感想という訳のわからんものです。読み捨ててください。
そんで感想なんですが
いいんじゃないんですか?別に普通じゃないと思う人がいても、普通かどうかなんて主観的なものでしょ?
自分の考える普通に外れる人をことさらに非難して、自分の考える普通に合う人をむやみに称える。まるで普通という選民思想だ。
普通に対する考え方は千差万別。人の数だけあります。自分にとって普通かそうでないかだけを絶対として判断するのはどうかなと思います。
自分の考える普通と違うものに対しては、まぁそういうのもあるよなって態度でいいと思います。
それはそれとして、話はちょっと変わるんですけど、このエントリーの普通というのがよく分からないんですよね。
人間は誰でも――とまでは言えませんが、少なくとも私は不安や恐怖を克服して普通になるために生きています。人一倍臆病な人間なので、常に社会に適合できなくなったり共同体から爪弾きにされたりする恐怖に怯えながら暮らしています。嫌で嫌で仕方ないのに身体に鞭打って一年三百六十五日働きつづけているのも普通になるためです。取りたくもない資格のためにやりたくもない勉強をするのも普通になるためです。思い出したように家族サービスをするのも普通になるためです。友人と遊んで関係を維持しているのも普通になるためです。読書をしたり、映画を見たり、ノベルゲームをやったりするのも普通になるためです。せっせこ筋トレをしてプロテインを飲んで身体を作っているのも普通になるためです。ブログを更新して、拙いなりに自分の意見を発信したり、ビューワーさんの意見を受信したりしているのも普通になるためです。全ては自分が普通になるためと言っても全く過言ではありません。普通になることこそ人生の目的なのです。
すいません、ちょっと何言ってるか分かんないです。
なんだか普通というものを特別視しすぎで選民思想のようなものを感じます。
社会に適合できない人、共同体から爪弾きにされる人は普通じゃないの?
働いてない人、働けない人は普通じゃないの?体を鍛えてない人、鍛えられない人は普通じゃないの?
嫌なら別に働かなきゃいいじゃん、やりたくなけりゃ勉強しなきゃいいじゃん、それで普通じゃなくなるの?普通ってなに?
社会に適合できないなら、その社会のほうが普通じゃないんだ、共同体から爪弾きにされるなら、その共同体のほうが普通じゃないんだ
世界は広い、もっと別の社会や共同体がある。自分が属する社会や共同体の普通は絶対的なものじゃありません。
普通に対する考え方は千差万別。人の数だけあります。自分自身の普通というものを見つけていきましょうよ。そっちの方が人生の目的っぽくないですか?
まぁ普通に対してどういう考え方を持つか自由です。社会に適合すること共同体から爪弾きにされないことを、自分自身の普通にするのも自由です。
しかしその場合、仮に同性愛者が同性愛を理由に社会から不適合とされたり共同体から爪弾きにされたとしたら、同性愛者は普通じゃないということになる
普通ってそういうものじゃないでしょ、普通かどうかを誰かの判断を委ねるものじゃないでしょ、普通かどうかは自分自身で決めるものでしょ
ところで、ブログ主は百合ゲーをしていますが、その事を普通じゃないとは思ってないでしょう。
そしてブログ主はいわく普通になるために日々努力しているようですが
ブログ主が嫌々働いている職場の同僚や、サービスしている家族や、関係を維持するために遊んでる友人は
百合ゲーをしていることを普通に思うでしょうか?もしかしたら、彼らからしてみれば普通じゃないかもしれない
普通なんてそんなもんです。自分にとっての普通が、誰かにとっては普通じゃないかもしれません
最後に私がオススメする百合作品を紹介しますね。氏賀Y太の「女体解剖授業」収録『マテリアル』シリーズです。
人によっては百合だとは思わないかもしれません。普通だと思わないかもしれません。
それもそれで一つの考え方でしょう、その考え方を私は否定しません、まぁそういう考え方もあるよなぁと思います。
萌えとエロの境界線が薄れている気がする(http://tm2501.hatenablog.com/entry/2013/07/05/214058)
空想することなのでフェティッシュを喚起するアイテムとして絵やテキストが用いられる。
もののあはれにフェチを感じる人もいればバタ臭い乳袋を萌えという人もいる。
ただ「萌えとはこれのこと」と大多数が同意する概念はすでにできていて、
ライトノベルは、大多数が受け入れやすい「同じフェチ」を大量生産しました。
その結果のライトノベルブームであり、ラノベアニメ化の波による萌えの均一化です。
製作コストがバカ高いノベルゲームをもっと手軽に商品にしたいという理由でできたのがラノベです。それが全てとはいいませんが。
初期のラノベは作家もイラストレーターもほとんどがエロゲ制作を知っている人です。
一般にも受け入れやすい萌え要素を「唯一の萌え」と規定して萌えアニメ化した。
これが昨今の萌えの正体なので、エロゲをタブーと見る大多数の人か嫌悪しないよう、
境界線があるように振る舞うのが萌えアニメの処世術だったわけです。
エロは日陰者でなければならない。
そうでなければ犯罪の温床だとかなんだとか規制派がぞろ騒ぎ出す。
日本人が特別だからではなく、日本のコンテンツ規制が緩いからです。
ワンピースのサンジが米国のコミックではタバコではなくロリポップを咥えているのは、
米国のコンテンツ規制が緩ければ、少年ジャンプがアメリカで生まれていたっておかしくはないのです。
エロゲのことなんかはやく忘れて、萌えとエロにはばっちり境界線があったことにして、萌えアニメを楽しんでいたほうが世界のためです。
「○○ちゃんねる」(2ch風小説)は創作SNS「pixiv」で流行している、匿名掲示板のスレッドの流れを模したチャット形式の読み物です。
台本形式のように手軽に読み物が書け、手軽に読めるため、pixiv小説で絶大な支持を集めています。
2ch風小説 (にちゃんふうしょうせつ)とは【ピクシブ百科事典】 http://dic.pixiv.net/a/2ch%E9%A2%A8%E5%B0%8F%E8%AA%AC
その「○○ちゃんねる」作品のうち、商業ゲームブランド「TYPE-MOON」の『Fateシリーズ』を題材にしたものが、「冬木ちゃんねる」です。
「Fateシリーズ」は2004年に発売された男性向け長編ノベルゲーム「fate/staynight」からはじまる作品群です。
美少女キャラだけでなく個性のある男性キャラクターも多数登場し、熱いバトルやドラマチックな展開が繰り広げられるため、昔から女性層にもファンが多いゲームでした。
それが2011年のアニメ化でヒットした派生作品「Fate/Zero」という外伝ライトノベルと、女主人公・男主人公が選べるPSP用RPGゲーム「Fate/EXTRA」で、小中学生・高校生~の若いファンが沢山流入し、SNS「pixiv」でも、2011年秋期以降、女性ユーザーメインの「Fateシリーズ」二次創作が一気に増加し、支持を集めるようになりました。
そこに、2011年当時pixiv小説で爆発的に流行していた「○○ちゃんねる」形式の読み物のFateシリーズ版「冬木ちゃんねる」が出現しました。
初期は他の「○○ちゃんねる」小説が流行するジャンル(「黒子のバスケ」のくろちゃんねる、「タイガーアンドバニー」のシュテルンちゃんねるなど)のように、原作キャラクター主体のものが主で、
オリキャラが登場してもモブの域を出ない、あるいは原作キャラクターを活かすためにオリキャラを投入する作品、多くのキャラクターが亡くなる原作の結末を、オリキャラの介入によりなんとかハッピーエンドにできないかという内容のものが大多数でした。
オリキャラ介入による、全員生き残る「Fate/zero」世界への介入ものに人気が出るうちに、そのうち、だんだん特定キャラへの過激な暴力や制裁の描写が含まれる、ヘイト創作としか言えないものが増えてきました。
ヘイト創作とは、キャラクターの思想やあり方を否定したり責めたりすることを目的として作成された二次創作物の総称です。
ヘイト創作 (へいとそうさく)とは【ピクシブ百科事典】 http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%88%E5%89%B5%E4%BD%9C
キャラヘイト/ ヘイト表現/ 同人用語用語の基礎知識 http://www.paradisearmy.com/doujin/pasok_chara_hate.htm
これらの投稿作品が一定数の支持を集めてしまったことにより、「冬木ちゃんねる」の様相は一気に変わって行きました。
「Fateシリーズ」「冬木ちゃんねる」や「ヘイト創作」なら人気が取れると考えたユーザー達が集まり、題材作品を読むことすらなく、流行に乗ってこぞってヘイト創作を発表しました。
「冬木ちゃんねる」ならオリキャラ主人公物を書いてもいいと考えたユーザー達も、こぞって夢小説や転生憑依オリキャラ作品(現実世界に住む作者自身のアバターが題材作品の世界に転生・トリップし、主人公として振る舞うもの)を「冬木ちゃんねる」で発表しました。
彼らの多くは「Fateシリーズ」という作品には興味をもたず、原作をプレイしたりアニメを見たこともない、今後見るつもりも無いという方々でした。Wikipediaやプレイ動画などのネット情報で見た目と設定だけ把握して、二次創作と点数評価と、交流だけ楽しめればそれでよいという方々です。
Fateシリーズの原作キャラクター達は冬木ちゃんねるの中でオリキャラや書き手の最愛キャラの添え物として、悪役や下衆、引き立て役、説教対象、断罪対象や、オリキャラに味方する騎士役、オリキャラを溺愛する彼氏役や逆ハーレム要員として扱われました。
「(キャラ名)ざまぁwww」「(キャラ名)フルボッコ」などのコメントタグが多用されたので、作品の中身を読まなくてもわかるキャラdisや原作者様方への中傷が可視化されてしまいました。
好きな作品やキャラクターの名前でpixivを検索しただけで、罵声と嘲笑・ヤジが多用されたコメントタグや、常軌を逸したタイトルを目にするようになりました。
クロスオーバーに利用された作品や、その作品のキャラクターが好きな人達の目にも、嫌でも目に入ってしまうようになりました。
原作のファンは、「冬木ちゃんねる」自体を避けるようになりました。
原作沿いの「冬木ちゃんねる」を投稿する事を止めてしまった投稿者も、沢山居ます。
Fateシリーズを知らない、クロスオーバー先の版権作品タグやキャラ名等を検索した人達は、Fateシリーズとファンそのものを「他所の作品を巻き込んだヘイト創作が流行し、不快なタグが並ぶマナーの悪いジャンル」と白眼視するようになりました。
これまでの過程で、これらの投稿作品群の作者さんたちに注意をする方々が居なかったわけではありません。
「FateSSについての提案」という、注意喚起を行う人も居ました。直接投稿者へ注意をする人も居ました。でも逆切れされてしまい、注意喚起のために閲覧者が付けた「ヘイト描写あり」「原作未プレイ」「オリキャラ」「転生憑依」等のタグを削除されてしまったり、注意メールを晒しものにされてしまう事例も続出しました。
抗議メールを晒して、ひどい内容に書き換えて笑い者にする人も居ました。
そのうち、原作厨という言葉ができ始めました。作中内では「物語を原作通りに進めることを目的としてオリキャラや原作キャラに干渉する人々」という定義です。中にはこの「原作厨」を、間違った設定を諌めたり、ヘイトに反発している原作ファンと重ねて、作品内で悪役に仕立て制裁するという作品もありました。
また「原作厨」という言葉自体が、冬木ちゃんねるの言葉を知らない人たちからみれば原作ファンを攻撃するものに見え、さらに外から見えるタグ内において「原作厨」が敵として叩かれ断罪されていることで、「冬木ちゃんねるの人たちは原作ファンでないのだ」という思いがfateの二次創作を検索している人達に広がりました。
投稿者へ注意をする人はどんどん減り、「冬木ちゃんねる」は投稿者も読者も、題材作品であるはずの「Fateシリーズ」の内容すら知らず、原作を三次創作のための土台や、オリキャラの引き立て役のように扱う人が大多数を占めるようになりました。
すると三次創作される中で、多くの原作キャラクターがとんでもない誤解のもとに歪められ、原作中には本来ありもしない過失や落ち度・下衆な行動・言動を捏造され、それがさも事実であるかのように冬木ちゃんねる外部でも語られるようになりました。
原作のキャラクター達は、投稿者の贔屓キャラクターやクロスオーバー先キャラクター、「最強」で「チート」で「周囲から愛され、守られ、崇拝される」オリキャラ主人公などによって「当たり前のように」作品の中で断罪、中傷、説教、暴行、殺害されるようになりました。
それらの二次創作物・三次創作物やウィキペディアの斜め読み、違法動画だけで「Fateシリーズ」の知識を得た読者達が、実際の匿名掲示板やTwitter、ニコニコ動画などでヘイト発言を行うようになりました。
そのうちpixivでは、ちゃんねる形式以外のFateシリーズ関連投稿作品にも、「○○未視聴」「プレイ動画を見ました」「Wikipediaと二次創作でFateシリーズの知識を把握しました、公式作品は一切読んでいません」「パラレルワールドを舞台にした作品A "以外" はWikiでしか知りませんが、(正史の作品Bにしか登場しない)キャラの話を書きました」「原作乖離」「原作はお外にポイしました」などと、さも免罪符であるかのように自己申告してFateシリーズの三次創作やヘイト創作を行う投稿者が続出するようになりました。
pixiv小説内で「ヘイト創作」タグが付いている600件以上の投稿作品のうち、91%が「冬木ちゃんねる」関連投稿物です。
つまり、pixiv小説で「ヘイト創作」タグが付いている作品のうち、99%がFateシリーズを題材にして書かれた作品です。
「ヘイト創作」タグや注意書きが付いているならまだいいほうです。
閲覧数稼ぎや悪評の回避、ファンへの嫌がらせ目的で、キャラクタータグやカップリングタグを付けてファンアートに偽装したヘイト創作も、少なくはありません。
1年以上続く、これらの状況を見かねた方々が、「冬木ちゃんねる」のpixiv百科事典に、「冬木ちゃんねる」内でのヘイト創作の現状と、「冬木ちゃんねる」内で歪められ貶められたFateキャラクター達の現状や、原作者様方や原作ファンすら悪役として中傷され作中で殺害される扱いの酷さを、pixiv百科事典「冬木ちゃんねる」に書き記しました。
【「冬木ちゃんねる」作者さんへ】という注意喚起も行われました。
冬木ちゃんねる (ふゆきちゃんねる)とは【ピクシブ百科事典】 http://dic.pixiv.net/a/%E5%86%AC%E6%9C%A8%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8B
pixiv百科事典「冬木ちゃんねる」のコメント欄には、この記事の内容は言いがかりだと主張する方も現れたため、1週間分の投稿作品の統計を行い、それらのデータを公表する人も現れました。
すると、ゲーム「Fate/staynight」(全年齢対象版含む)をプレイしたことがある人は10%以下、ライトノベル「Fate/Zero」を読んだことがある投稿者は20%以下だったことがわかりました。ステイナイトやZeroのアニメだけは見たことがある」という人も、30パーセント未満です。
「冬木ちゃんねる」は「Fate/Zero」「Fate/staynight」の世界"冬木市"を舞台にしたものが大半を占めるにもかかわらず、です。
冬木ちゃんねる内の実情が明るみに出ると、投稿者達はこぞって「お知らせ」を「冬木ちゃんねる」タグで投稿しました。
「マイピク」(限定公開)へ誘導をかけたり、「冬ちゃん派生」などの回避タグを使用して、またはヘイト創作タグや「ヘイト描写あり」などの注意書きのみ削除して一般のファンアートに偽装するなどして、今まで通りヘイト創作とオリキャラ物を発表しようとする投稿者も続出しました。
2013年5月初頭には8500件ほど有った「冬木ちゃんねる」投稿物のうち、2500件以上がタグ移動、マイピク移動等で分散しました。1400件以上が「冬ちゃん派生作品」というタグへ移りました。
今、pixiv小説で「冬木ちゃんねる」を新着検索しても、「お知らせ」と書かれた投稿物が大量に並ぶばかりです。Twitterや匿名掲示板などで、不満を漏らす人も沢山居ます。
「冬木ちゃんねる」タグで投稿された沢山の「お知らせ」の中には、pixiv百科事典「冬木ちゃんねる」の内容に反論の声明を出す投稿者も少なくありません。
pixiv百科事典「冬木ちゃんねる」のコメント欄には、現在400件近くのコメントが付いています。
そのうち、130件近くは百科事典の内容に抗議する方々からの連投荒らし行為です。
これが「冬木ちゃんねる」タグと、pixivのFateシリーズ二次創作コミュニティの中で、私が見てきた限りの一連の流れです。
知らない作品のキャラクターやファンを貶めて楽しむ事や、愛情もなく一次創作物を利用する事は、二次創作コミュニティの中で受けいれられるべき行為なのか、この現状を悲しんでいる一人のファンとして、沢山の人の意見が聞きたくて、この文を書きました。
この文章が多くの人の目に触れることを願っています。
プレイし始めたきっかけ は App Store で売っていたのを見たのか、ネットの記事を読んだのかどちらかだと思うが覚えていない。
ただ人気が出ているということは知っていた。
人気の高さから当初2011年頃にリリースされたものだと勘違いしていて、購入時点でリリースされてから1、2ヶ月しか経っていなかったことを知ったのは大分後になってからだった。
まさか1年間ほぼ毎日ゲームを開くことになるとは思わなかった。
何がこのゲームをここまで魅力的にさせるのか?
自分なりに考えた結果をここにまとめておく。
本当は自分のブログに書こうと思ったが、最近のブログの方向性とかなり異なる内容のため増田に書かせてもらう。
長文を読みたくない人は以下の要約だけ読めばいい。
実力と運のバランスがほどよく、課金により圧倒的優位に立てるわけでもないのでユーザは公平感を感じてプレイできる。
覚える要素が少ないため、少しブランクが空いてもすぐにプレイに復帰できる。
魔法石という課金通貨を頻繁に配布するため、ユーザは常に課金時と同様のユーザ体験をしている。
そのため実際に課金したときに期待するユーザ体験と実際のユーザ体験にギャップがなく、不満を感じることがない。
システム障害時にもお詫びとして魔法石を配布するため、普通は大きくユーザ体験を損なうようなシステム障害が逆に良質なユーザ体験を提供する機会に変わっている。
常時開催されるイベントにより、単調になりがちなパズルゲームを飽きさせない運営の工夫がなされている。
著者のスペックは以下の通り。
このゲームのいいところは、あまりモンスターが強くなくても、パズルの腕と、落下してくる玉の色の運次第では割と勝ててしまうところにある。
実力だけでもそこそこ勝ててしまうからパズルの腕を上げて勝ち上がるというプレイも可能だし、運だけでもたまに勝ててしまうのであまり頭を使わないギャンブル的なプレイもできる。
パズルの腕がよく、かつ運がいい場合だとかなり難しいエリアでもクリアできてしまう。
逆に若干格下のエリアをプレイしていていも、気を抜くとたまにやられてしまう。
札束で殴るゲームなど揶揄されるように、ソーシャルゲームにはとにかく課金すれば誰でも勝てるという印象があった。
パズドラは課金だけでは勝てないようなゲームバランスになっている。
例えば課金専用のモンスターガチャ(ランダムで強力モンスターを入手できる仕組み)でしか入手できない「神」タイプという種別のモンスターがいる。
これらは確かに強力だが、決して最強ではない。
パズドラではモンスターでパーティを組むため、やみくもに強力なモンスターだけを使うよりも相性のいいモンスターで編成した方が強力なのだ。
また、たとえ強いパーティを作るとしても、ある程度のパズルの腕がないと結局勝つことができない。
実力のみのゲームだとプレイヤーとしての腕を上げ続けなればならないのでずっとプレイする必要がでてくる。
逆に運のみだとただのくじびきと変わらないので、ギャンブルに興味がない私はすぐ飽きてしまっただろう。
課金したからといって実力も運が無関係にならないというところも魅力的だ。お金で簡単に強くなれるゲームなら努力してプレイしようと思わないだろう。
このあたりの「公平さ」も魅力の一つである。
パズドラは覚えなきゃいけないことが少なく、ちょっとブランクが空いてもすぐに遊べる点が魅力だった。
大作RPGや複雑な話のノベルゲームは途中でブランクを空けると設定や伏線を完全に忘れるのでもう話についていけなくなる。
シミュレーションゲームはパラメータの意味や敵味方のユニットのスペックなどについて全て把握していないとまともなプレイができない。
FPSはスポーツと一緒なのでプレイし続けないと腕が落ちてやっぱりまともなプレイができない。
そういう「ゲーム疲れ」を感じて近年あまりゲームをプレイしなくなった。
かといっていわゆるカジュアルゲームのようなあまりに単純なゲームだとすぐに飽きてしまう。
このゲームで覚えるべき情報量は自分にとっては楽に記憶しておくことができるレベルだったので、仕事で忙しくブランクが空いてもすぐにプレイに復帰できた。
パズルの方法と所持モンスターの能力、あとは目標とするプレイフィールドの難易度を把握するだけでプレイができる。
モンスターの能力も、HP、攻撃力、回復力、スキル、リーダースキルの5つしかないので覚えやすい。
ガチャやコンティニューなどを行うには、「魔法石」と呼ばれる課金用通貨が必要となる。1個60-85円ぐらい。
私が驚いたのは、この魔法石をこれでもかというぐらいばら撒くことにある。
まず、毎月のように行われるイベントで魔法石がプレゼントされる。
1日1個が1週間から10日ぐらい続くので、月に大体5-10個近く入手することができる。
それだけでなく、パズドラではシステム障害時にもお詫びとして魔法石をプレゼントする(通称詫び石)。
障害の規模にもよるが、大きな障害のときは10個もまとめて配布する。
私にとって何より衝撃的だったのがこの「詫び石」システムである。
この運営方法により、ユーザである私はシステム障害を期待するようになってしまった。
こんなことは業務システムでは全く考えられない。
通常業務システムにおいて障害が発生した場合、ユーザは苛立ち、怒りの電話やメールを運営者にぶつけてくる。
ユーザにとってシステムが稼動し続けることは当たり前のことであり、障害などもっての他なのだ。
運営側は障害により若干の収入が減るかもしれないが、UX(ユーザ体験)を下げるどころか上げるということに成功しているのだ。
私のような無課金のユーザでも、常に手元には魔法石が余っている。
だから、課金ガチャを回したりコンティニューしたりということが気軽にできる。
これが何を意味するかというと、課金した状態のUXがゲームプレイにおける日常として組み込まれているということである。
もし私があるとき気が変わって課金をしようとしたときでも、課金したらどういうユーザ体験が待っているかを課金する前に十分把握しているのだ。
期待するUXと実際のUXのギャップが非常に小さいため、課金しても不満を覚えることはないだろう。
もっとも、この驚きをゲーム開発会社に勤める友人に話したところ、「今のソーシャルゲームでは当たり前」と言われたので昨今のゲームに詳しい人には驚くことではないのかもしれないが。
もう一つ、私が驚いたことで友人に「それも普通」と言われたことがある。
パズドラでは常にイベントを開催していて、イベントが開催されない期間が存在しない。
現在だと常時最低でも2つのイベントを同時開催していて、これらは月曜に開催され、2週間行われる。
開催期間は2つのイベントで1週づつずらされているため、ユーザからは毎週新しいイベントが開催されているようにみえる。
ゲーム自体はパズルを行うだけのシンプルなものなので、こうして工夫で飽きさせないようにしているのだろう。
先述の友人の話によると、ネットゲームにおいてはイベント開催が非常に重要らしい。
特に日本は文化的に年間行事が多いため、これらに合わせて緻密にイベントスケジュールが組んでいるようだ。
パズドラはゲームデザインだけでなく、運営も驚くような工夫がなされている。
私がこのゲームをプレイしていたのも、この運営の方法を研究したかったからという側面もあった。
運用・運営という側面はゲームだけでなくITシステムやレストラン・ホテルのサービスなどあらゆる場面で重要ではあるが、あまり一般の人には注目されない。
こうした「舞台裏」にこそ成功の秘密があるのだということをあらためて認識した。
なぜ丸一年が経過したタイミングではなくこの時期にこんな文章を書いているかというと、最近プレイしていないからである。
引退というわけではないが、気持ちとして一区切りついたのでこうしてまとめてみた。
理由はすごく単純で、ここ1、2ヶ月でモンスターのドロップ率とスキル成長率が大幅に下がった(と感じた)からである。
ドロップ率2倍でもほとんどドロップせず、スキルアップ率2倍時にスキルが全く上がらないと、さすがに砂に水をかけているような気分になって急速にプレイに疲れてしまった。
自分も働き始めて10年、それなりに経験をしてきたけど、ただ一つ分かっていることがある。
それは、「シナリオライターにはまずなれないよ」ということ。
よくシナリオライターになりたいとかコネはないですか、とか相談に来る人がいるけど、
もしノベルゲーの類を作りたいなら、それこそシナリオライターなんて外注するし。
普通の格闘ゲームや格闘やアクションやスポーツゲーではプランナーがシナリオ作っちゃう場合多いと思う。
特に最近のゲームはシナリオより見た目(グラフィック)が重視される傾向にあるから、
尚更シナリオライターを会社で保持することの意味が薄くなってると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20120618210749
★基本形は
「1口10円、1万口でマーケット成立」だが、
慣れてくれば、複数のマーケットを用意してもいいだろう。
★デファクトスタンダードコースは
「1口10円、1万口でマーケット成立、登録料1,000円」としながらも、
「ライトコース:1口1円、1万口でマーケット成立、登録料100円」
としたり
「マキシマムコース:1口100円、1万口でマーケット成立、登録料10,000円」
としたりするのも面白いかも。
「マキシマムコースでもマーケット成立するハズ、だったら80万円荒稼ぎ」
ということでチャレンジするかもしれない。
1回だけ「コースの変更」できる権利を投稿者に認めてもいいかもしれない。
「スタンダードコースで始めたが、集まりが悪い、ライトコースにしよう」
とか
「スタンダードコースで始めたが、物凄く勢いがいい、
いっちょマキシマムコースにして荒稼ぎしよう」とか。
登録手数料の返金は行わない。
出資者側の口数は10掛けで読み替え。
★ジャンルは大まかに分けると4つのジャンルに分かれるのでは?
いっそのこと、テキストに限定せずに、画像・映像などの投稿も認めてもいいかも。
ニュース系=政治、経済、企業、地方、海外、科学、芸能、スポーツ・・・
お役立ち系(ライフハック)
=健康、美容ファッション、料理、グルメ、子育て、マネー情報、旅行、クルマ、不動産、恋愛、勉強、資格就職転職・・・
ヒマつぶし=体験談、「●●をやってみた」、「●●に行ってみた」、海外生活事情、歴史小ネタ、育児小ネタ、業界小ネタ・・・
フィクション=ミニ小説、ミニマンガ、ミニ動画、ミニ音楽・・・
★発展系で「ドラママーケット」「ノベルマーケット」「ミュージックマーケット」「アートマーケット」なども出来そうだが、
まだ脳内整理できていない。
アニメDVDを始めて買おうとしたらその価格に驚愕した。それからこの手のコンテンツの製作コストとそのコスパについて考えていた。
アニメ、(ノベル)ゲーム、漫画、ライトノベル、と並べたとき、買う方作る方両方にとって最も低コストで、しかもその割に楽しめる。
作るコストに気をつけながら漫画を読んでると、実は絵はこんなになくても大丈夫、と感じることがある。
ライトノベルがどのようにできたかは知らないけれども、漫画で必要な製作コストを圧縮したら、ライトノベルになったと考えることはできると思う。
小説投稿サイトでは、書き上げた小説を自由に公開することが出来ます。
コミュニティー機能を持つサイトもあり、作品を公開されたい方、閲覧されたい方は、小説投稿サイトを利用してみるのもよいでしょう。
注:加筆修正しました
最近商業BL作品ばっかり読んでるから、たまにはネットで同人作品も読もうかなと思い立って、某ジャンルのサーチから二次創作サイト巡りをしていたときのこと。リンクを辿っていった先に、管理人が韓国人であることを明記しているBL小説サイトがあった。日本語ネイティブじゃないとこれはムリだろと思わせる豊かな語彙の小説や日記・掲示板の内容から判断するに留学生やニューカマーなどではなくて、日本で生まれ育った在日韓国人の方であるようだった。
なんかね、これちょっとびっくりしたんですよ。在日の人もBL書くんだなぁって。
いや、こんなにもアニメや漫画の氾濫する日本社会で生きている以上、日本人だろうが外国人だろうがオタク趣味に染まる人は染まるのが当然だろうし、中にはヤオイや二次創作に興味を持って腐女子や腐男子になる在日コリアンがいるってのも理性では理解しているんだけど。実際目にしてみると、なんかこう、感慨深いものがありましてね。
そうかー、在日のBL好きってのもやっぱりいるもんなんだなー、っていうか他にもいるけど明かしてないんだろうなー、としみじみしてたんですが、途中でふと思い出した。あれ、ちょっと待てよ?よく考えてみれば、数少ないながら今までにも在日韓国人が登場するBLがあったりするし、在日朝鮮人のBL作家というのもいたりするんじゃないの?そういえば私、そういうの読んだことあったような……、と。
というわけで、今回はBLと在日と私というテーマで今まで読んだ作品を振り返ってみようと思う。長いよー。私が以下で言及している作品には18禁のものもありますのでお気をつけください。
倉科るりというペンネームで、商業誌からBLを出版している小説家がいる。正確にはいた、と言うべきかもしれない。著作の中には絶版になっているものも多く、また1996年の『王様の夏休み』を最後に10年以上発刊はしていないようだから。公式サイトにも「倉科るりの商業活動は諸々の事情から不可能だと思います。時間がないのです。」と書いてあるので、今後も商業誌でBL作品を発表する可能性は限りなく低いと思う。
けれど、在日とBLというテーマを語るなら、彼女を外すことはできない。
実はこの作家さんは、コバルト文庫で金蓮花という名義で少女小説も書いている。むしろ金蓮花(きんれんか)というペンネームの方が世間的には通りがいいだろう。私も残念ながら倉科るり名義の本は読んだことがないけれど、金蓮花名義の本は小中学生の頃にわりと読んでいる。『銀葉亭茶話』、『水の都の物語』、『月の系譜』は何度も読み返すくらい好きだった。私が金蓮花=倉科るりというのを知ったのは大学生になってからだったけれど、BL読者やコバルト読者には結構有名な情報だったようで、ネットで検索するとペンネームを使い分けるようになった経緯や、その他もろもろの噂が出てくる。それらの噂がどこまで本当かわからないのでここでは紹介しない。
さて、金蓮花は1962年生まれの在日朝鮮人3世である。東京に生まれ育ち、大学も都内の小平市にある朝鮮大学師範教育学部美術科を卒業した。作家デビューは1994年、『銀葉亭茶話-金剛山綺譚-』で集英社の第23回コバルト・ノベル大賞を受賞したのがきっかけだった。この『銀葉亭茶話』シリーズは、朝鮮半島を舞台に仙人や精霊、竜や虎、人間たちが織り成す恋愛を描いた朝鮮風ファンタジー小説で、仙境にある一軒の茶屋銀葉亭にさまざまな客が訪れ、店主の李月流(り・うぉるりゅ)に身の上話を打ち明ける、という趣向になっている。
『金剛山綺譚』の金剛山は、もちろん朝鮮半島に実在する景勝地金剛山をさす。韓国人や外国人が北朝鮮国内の金剛山観光地区に観光をしに行くニュースを見たことのある人は多いはずだ。『銀葉亭茶話』シリーズの物語に登場する実在の固有名詞は地名だけではない。例えば『蕾姫綺譚』では重要なキャラクターとして李氏朝鮮建国の王李成桂が登場するし、『舞姫打鈴』のヒーローは新羅の英雄金庚信である。
ところで、学校で歴史を習う前に本シリーズを読んだ影響で、私は現在でも「新羅」という単語を見ると反射的に「しらぎ」ではなく「しるら」と読んでしまうし、「李成桂」を見ると「りせいけい」ではなく「りそんげ」と読んでしまう。私にとって、このシリーズこそが生まれて初めて触れた‘朝鮮文化’なのだった。馬鹿な子供だったので現役読者だった小学生の頃は朝鮮半島というのがどこにあるのか知らなかったし(私は当時本気で外国=アメリカであり、世界には日本とアメリカの二国しかないのだと思っていた)、儒教文化だとか在日朝鮮人だとかさっぱり理解できない上に興味もなかったので読み飛ばしていたけれど、雪華(そら)や明蘭(みょんらん)という美しい漢字と不思議な響きの名前、美味しそうなチヂミ、ふわりとチョゴリを広げて鞦韆をこぐ明朗な少女、霊山の天辺に位置する天池(ちょんじ)の聖水……どこか好奇心を刺激する異国のイメージの数々を私は大いに楽しんだのだった。特に金剛山の壮大な瀑布や峰々が鮮やかに染まる絢爛豪華な秋の描写などは、幼心にうっとりするような綺麗な文章だなぁとドキドキしながら読んでいた。金蓮花という作家のおかげで、私は隣国と幸福な出会い方をしたのではないかと思っている。そういう意味で、『銀葉亭茶話』は私にとって印象深いお話なのだった。
金蓮花自身にとっても、作家として第一歩を踏み出したシリーズであると同時に、祖国を舞台にしたロマンスであることを考えれば、『銀葉亭茶話』はやはり特別思い入れの深い作品なんじゃないだろうか。
彼女の著作のあとがきでは、自らのルーツを意識した話題が多い。北朝鮮に観光に行って金剛山の絶景に感動した話、伯母が北朝鮮に帰国した話、親戚が日本と北朝鮮と中国に住んでいるという話、子どもたちの通う朝鮮学校のお祭りのためPTAとして準備に奔走する話など。
そんな彼女がBL小説を書くときは、金蓮花ではなく倉科るりというペンネームを用いた。倉科るり名義の本では特に朝鮮半島と関連のある物語を書いたりはしていないようだ。少女小説のコバルト作家としての自分とをきっちり分けたかったのかもしれないし、儒教を尊ぶ在日コミュニティの価値観からするとさすがにBLを在日朝鮮人と明かしている金蓮花名義で出すのは難しかったのかもしれない。少女小説家としてデビューする際も家族からかなり強硬に反対されたと聞く。少女小説を書いているのがバレて家族会議で土下座までしたそうな。ましてやBLをや。
まぁ、BLを書くときと少女小説やラノベや一般漫画を書くときでペンネームを変えるのはbassoや秋月こお、榎田尤利もやっていることで、金蓮花に限った話ではないけれど、少女小説では在日ネタをふんだんに出していた人がBLではそれを一切出さないというのも興味深い話ではある。
ちなみに金蓮花名義の本に一切男性同士の恋愛や性愛が出てこないか、というとそういうわけでもない。
ここでちょっと萌え語りをさせてもらうと、『銀葉亭茶話』シリーズで私が一番好きなキャラクターは長白君(ちゃんべつくん)だった。彼は、朝鮮半島の付け根、北朝鮮と中国の国境にまたがる山(朝鮮語では白頭山、中国語では長白山)の守護仙人(精霊だったかもしれない)で、シリーズ通してのキーパーソンである李氏(注:男性)に想いを寄せている男性である。李氏に冷たく拒絶されたり、周囲の神仙たちに揶揄されたりしつつも、変わらず李氏に暖かい真心を捧げ続けている好漢なのだ。李氏には他に想い人がいるのでまず間違いなく長白君の恋が成就することはないのだろうが、私は彼の男らしい包容力にときめいたのでぜひ幸せになってもらいたいと思っている。別に相手は李氏じゃなくてもいいから。というか長白君には楓英とか緋鯉の精みたいな豪胆で誠実な男性とか似合うと思うんだよね。
studio may-beを結成して仕事をしている高城響と鷹匠早紀は、BLゲームや乙女ゲームのシナリオライターとして活動している他に、連名でBL小説を書いて出版したり、漫画の原作をしたりしている。音楽業界を舞台にしたBL小説『たぶん、きみが好き』『いつか、翼を広げて』『きっと、空も飛べる』という3冊がマイクロマガジン社から発行されたのは2004年のことだった。この3作は天才指揮者と男性アイドルのカップルを描いたお話なのだが、実は高城響と鷹匠早紀がやっているサイトに長年連載していた大長編小説『KT』を手直しして発表したものだという。
そのサイトの大長編(まだ完結していないらしい)には、脇役として若手の指揮者同士のカップルが登場する。彼らを主人公にした話もサイトには掲載されており、出会いと恋人になるまでを描く『'O sole mio』、体の関係を持つまでに至る続編『hard day's night』、いちゃいちゃらぶらぶしてる『jealous guy』などがある。珍しいことにこのカップルの攻めは在日コリアンである。
『'O sole mio』と『jealous guy』では、攻めが在日であることはストーリーの主軸にはほとんど絡んでこない。民族が違うということよりも同じ夢を抱く音楽家同士であることの方が、この物語の中では圧倒的に比重が大きいのだ。
しかし、『hard day's night』の中ではそれらしいエピソードが挿入されている。演奏会の予定が突如キャンセルされてしまった攻め。晴れがましい仕事を一つ失った原因を、受けに問われた攻めはしぶしぶこう語るのだった。「オレ、在日やん」。BLで、差別に直面する在日の姿が描かれているのは大変珍しい。そもそも在日としてのアイデンティティを持ったキャラクターが登場するBL自体ほとんど見かけないんだけどね。
ところで、この物語の攻めは、大阪出身で関西弁を喋る陽気な男性だ。大らかで人懐っこい。阪神タイガースファン。長身、ガタイが良くて、美男子ではないけれど、受けから見れば十分に魅力的な容貌をしている。そして新進気鋭の指揮者である。実際、読んでいて、彼は魅力的な人物として描かれているように思った。なんとなく関東生まれ関東育ちな自分からすると良い意味で典型的な関西人という印象を受けた。
神経質で繊細、あまり感情表現が得意ではない日本人の受けは、自分と正反対の気質の攻めに惹かれていく。自分にないものを持っている相手を反発心を抱きながらも愛してしまうパターンというのはわりと恋愛物の王道だが、受けが攻めの才能に嫉妬をして苦悩したり、振り切ってもついてくる攻めに苛立ったり、励まされたりと感情をぶつけ合ううちに自分の恋心を認めざるを得ない展開になるというのは微笑ましくて良かった。
BL小説家、檜原まり子の作品の一つに『マリンブルーは密やかに』という小説がある。2008年、講談社X文庫ホワイトハートから発行された。舞台はアジア・オセアニアクルーズ中の豪華客船。そこに乗り込んだ保険会社から委託を受けた調査員の受けと、元自衛官の攻めのラブストーリーだ。
正直なところ、この物語の一番興味深いところは、ストーリーなどよりも受けの両親だと思う。
受けの母親は日本人の医師だった。そして父親は在日韓国人の寿司職人。両親が渡米して、一家がカリフォルニアにいたとき受けは生まれた。医師免許が認められなかった母親は畑違いの仕事をして受けを育ててくれたらしい。後に離婚したようだが、受けの両親の話こそ読んでみたいと思った。寿司職人と女医さん夫婦米国滞在記なんていろいろ波乱万丈なドラマがあって面白そうじゃん。
というわけで、本作の受けは間違いなく在日韓国人の血をひいているのだが、特に在日とか韓国に関するエピソードは出てこない。受けが韓国語を喋ったりキムチを食べるシーンがあるわけでもない。彼が民族的なコミュニティや朝鮮半島に思いを巡らすシーンがあるわけでもない。冒頭、地の文でさらりと受けの生い立ちが説明されているだけで、その後はとくに彼が韓国系であることには触れないまま物語は終わるのだ。
なら別に受けが在日の血を引くキャラクターである意味ってないのでは?と思わないでもないけれど、まぁ深い意味がなきゃ在日がBLに出てはいけないってこともないし、これはこれでいいのかもしれない。なんと言ってもこの作品の舞台はいろいろな国籍のクルーが働く豪華客船なのだから。南太平洋を悠々と航海する船上のキャラクターにちょっとしたマージナルな要素を付与したいと作者が思うのもわかる気がする。船長の喜屋武も、受けと同様にマージナルな人物である。米軍勤務の軍人を父に持つ沖縄出身の男性で、金髪碧眼という日本人離れした容姿だが自らを日本人だと主張する。とても珍しい韓国系の受けや、沖縄と米軍というデリケートなバックグラウンドを持つキャラクターが登場するという点において、このお話はなかなか印象深かった。
『うつしみの花』は、幻冬舎リンクスロマンスから2008年に出版された全2巻のBL漫画である。作者はタカヒサ亨。舞台は飛鳥時代の日本で、有名どころでは葛城皇子(中大兄皇子)、皇極天皇、間人皇女などが登場する歴史ロマンBLである。ちなみに中大兄皇子と受けがキスする場面もあったりする。
主人公(受け)は、百済からの渡来人で金工職人である実父を持つ美少年。攻めは、受けの父親の弟弟子で、乃楽山(ならやま)の麓に住む百済系渡来人であり以前は都随一と呼ばれた腕を持つ金工職人だった。受けが攻めの弟子となるので職人師弟ものBLであると同時に、渡来人と渡来人の子孫が出会って恋に落ちる物語なのである。
職人の村で修行をする受けは、師匠であり恋人である攻め以外の渡来系の職人たちとも交流を持つようになり、技術を磨いていく。いつか攻めの故郷である百済に帰還することを夢見るようになるし、自分たちの存在は発展させ続けていく技術に拠って立つのだという強い自負心を持つに至る。彼らのアイデンティティは明確に百済系渡来人であることにあり、ヤマトにはないんだなーと読んでいて思った。
日本が舞台なのにあえて渡来人のカップルを描くなんて随分通好み(?)だなと思う。こういうのは珍しくて面白い試みだ。同時に、ちょっと私の中の日本人としての感覚が一抹の寂しさというか疎外感を感じなくもなかったような……。この記事のテーマである在日と古代日本の渡来人はちょっと違う存在なのでこの作品には簡単に触れるだけにとどめるけれど、思いがけずヤオイを読んでいて自らのナショナリズムが浮上したという点で本作は印象深い作品だった。私が気にしすぎなだけだけなんだろうけれどさ。
もちろん、健気で頑張り屋な受けとクールで格好良い攻めは萌えたし楽しめた。
ところで、作者のタカヒサ亨は、角髪(みずら)に萌えてこのお話を描いたらしい。わかるわー私もみずら萌えです。特に青年の下げみずら姿は可愛くて良い。不評でなかなか描かせてもらえなかったとのことだが、残念だ。もっと見たかったよー。
ハテブやツイッター、増田2ちゃんねるでコメント下さった方ありがとう。せっかくだし嬉しかったので、いくつかのコメントにお返事します。
恐縮です。ありがとう。
自分のブログではこういう記事を出したことがないのでうまく書けるかわからなかったし、書いたとしてもこの記事だけ場違い感がぷんぷんして浮き上がってしまうだろうと考え増田にしました。悲しいことですが、BLも在日も荒れやすい話題ですから。
私は金蓮花の初期の作品が好きでここ7~8年の著作は読んでないのですが、作品だけじゃなくて作家自身も本当に興味深いなと思ってその動向は注目しています。ラノベ界でも稀な在日外国人であることを明かしている作家さんですよね。まして日本と関係が良好でない国を祖国に持つ人ですから、日本社会で生きる彼女自身、悲しみや自負心を含め複雑な感情はあったんじゃないかなと想像しています。日朝首脳会談が開かれ拉致問題が発覚した2002年、この年に発売された『伽椰琴打鈴』を最後に、彼女の著作の中で一番‘朝鮮’を押し出している銀葉亭茶話シリーズが発行されていないというのは、偶然かもしれないけれどなんとなく象徴的に見えたり……。
確かに文化が違う、価値観や倫理観が異なっている、と強く感じる点はいくつかありましたね。面白いなと好ましく思う相違もあれば、モヤモヤする思いを抱える相違もありました。私の場合、女性の描かれ方や女性の置かれた立場というのが結構気になりました。『蝶々姫綺譚』で、女性が子を成さずに死ぬのは罪である、罰として死後の世界で償わなければならないという設定には、儒教をベースにしたファンタジーだとこうなっちゃうのか、とびっくりしたなぁ。日本や日本よりフェミニズムの強い欧米発のファンタジーじゃそういう設定ってないでしょう。まぁ、当時の価値観を反映させた設定であることが良いという考えもあるとは思いますが、現代女性としてはファンタジーとはいえその世界の女性は生き辛そうだなという感じたのも事実でした。
ネットで読める作品もるし書店や図書館に置いてある作品もあります。個人的に、興味や関心の度合いが在日>BLという人よりは、BL>在日の人の方が楽しめるとは思いますが。
全然関係ないけど、最近アメリカのスラッシュが翻訳されて日本の書店の店頭に並び始めましたよね。日本語で海外スラッシュが読める日が来ようとは思わなかった。嬉しい。
皆さんがどなたをイメージしているのか興味あるなー。私は弱小ブログを書いてますが、Twitterはやっていないんですよ。
韓国人は日本人よりも情熱的、確かにそういうイメージありますよね。こんな記事書いといて言うのもなんですが、家族友人知人に韓国人や在日の人っていないんで実際そうなのかはよく知らないけれど。
確かに作品が面白ければ作家は関係ないというのは仰る通り。私も普段は書き手には興味がないんですが、今回は冒頭で書いた某サイトにはなんだか妙に感慨深くなってしまいまして。
創作の中のマイノリティ、本当に興味深いですよね。読み専なので創作の苦しみは知らないのですが、創作物にマイノリティを登場させる際書き手さんはやっぱり慎重になるんだろうなぁ。セクシュアル・マイノリティが登場するBLは殊にそういう姿勢を求められているジャンルですし。常に政治的に正しいお行儀のよいBLである必要はないと思うけれど、読者が引くような差別的な描写が垂れ流しにされてるBLは読みたくないと思います。私はまだガチでがっつり民族問題を盛り込んだBLというのは読んだことがありません。今後もそんな作品は出ないんじゃないかなと思うし、たとえ出版されたとしても読みたいとは思わないかも、と考えています。娯楽作品には悲惨な差別とか貧困とかの要素は求めていない性質で、どちらかというとイチャイチャ、ドキドキ、ワクワク、エロエロ、アマアマ、ラブラブって感じのノリの方が好きなんですよ。なのでフレーバー的な登場のさせ方や特筆されるような描写がなくても私はOKなんですが、作家がまったくその問題の背景に無知ではキャラクターの魅力的な属性にはできないわけですしね。作家は10調べたことのうち1を書く(100調べたことのうち1を書く、だったかもしれない)と聞いたことがあります。BLを愛する者の一人として、そういうBL作家さんが今まで以上にたくさん出てくれるといいなぁと願っています。
このエヴァ騒動によって一時、オタクは「萌え」と「サブカル」に大分裂した。「萌え」系オタクは、エヴァでいえば綾波レイや惣流・アスカ・ラングレーなどの萌えキャラにハァハァしていた純粋オタクの系統であり、「サブカル」系は、オタクよりも恋愛資本主義の側に擦り寄ってオサレ系を目指した連中だ。
だが、あれから数年、どうなっただろうか?
そう、サブカルは市場として成立せず、萌え市場だけが拡大したのだ。サブカルは短期間で事実上滅び、講談社のノベル雑誌『ファウスト』のような「半萌え・半サブカル」形態によってかろうじて命脈を保っているばかりとなった。
これは当然の帰結といえる。
オタク文化そのものが「二次元>>>>>>>>>>三次元」という前提によって威力を持てる妄想の文化である以上、サブカルが「三次元>>>>>>>>>>二次元」とやらかしたら、オタクの大勢がサブカルから離脱するのは時間の問題だった。
この「サブカル」ってのを「一部の批評系」にしたらしっくり来る。
萌えオタ罵倒してフニャフニャ主義だとか言ってた本人が、いざ容姿を出すと初音ミクの痛車よりも映像映えしないリア充ならぬリアル三十(さんじゅう)だったり、映像だと(字幕の向こうの群衆におびえて)大人しくなりキャラ崩壊してたりとゼロ年代批評はいろいろありました。
『電波男』は要するに「萌えには階級格差を無化する力があるんだ!」という本です。現在は『はがない』『IS』『けいおん!』など、良かれ悪しかれそうした表現が主流になりつつある。いかにも小泉構造改革以後の空気感みたいなのと関連付けやすい『カイジ』や『ウシジマ君』は有名になったけれど、なぜ彼らはアイドル(=偶像)になれなかったのだろう。
代わりにネットオタクの偶像となったのは『初音ミク』や『アイドルマスター』や『ラブプラス』それに『けいおん!』だった。
そして社会に出て自らの文化的アイデンティティを主張できたのは、『スクールカースト』ではなく痛車と聖地とローソンだった。そこにある想いは「余暇の時間まで勝ち組・負け組を意識させられ自己啓発されるのはキツい」というあたりまえのものだろう。
それすら許せん、となにかと理由をつけて萌えオタ罵倒してた件の人物は映像に出たらしょぼしょぼで(以下略。
映像やまとめサイトが「差異化ゲーム厨」への抑止力になるならば、少なくとも差異化ゲーム厨が野放しな環境よりは良いと思う。まあともかく萌えからフニャフニャ主義への流れなんてなくて、フニャフニャ主義こそむしろサブジャンルに過ぎないっつうか、萌えだけで刺激が足りない時に触れる程度。
ようするにゼロ年代は「差異化ゲームの思想」ではなく「無関連化する思想」が勝利した。2005年の段階でこのことを説明し得た『電波男』は、フニャフニャ主義本よりもよっぽどゼロ年代の「正史」を正しく語っている。