はてなキーワード: 親の期待とは
親が「お前がやってる研究は結局農家が儲かるだけ、それに比べて俺のやってることは人々を助け…」
みたいなことを言ってるのを聞いて、
そこそこいい大学行ったけど、そこで学問に優劣なんてないとしみじみ感じさせられた
キラキラした眼の新入生たちは、私と違って学問に対する信念を持ってた
工学部だろうと理学部数学科だろうと、法学部だろうと文学部哲学科だろうと、
そこに優劣はなく、いわゆる「ツブシ」がどうこうはどうでも良いことで、
自然科学・人文科学の観察や探究に勤しむことは、そういう恵まれた環境を与えられた知的生命体の活動としてはめちゃくちゃ真っ当なことだと思った
時代感的にも、詰め込み教育のかわりに人それぞれの幸せ・価値観・自由みたいなものを教わってきたから
なおさら金持ちが正義とか、名誉が全てとか、人助けが正しいとか、そういう価値観は前時代的に思えてくる
そこそこ親の期待に応えようとして受験勉強頑張ったけど、残念ながら私と親とでは学問に対する捉え方が全然違っていて、
私は色々しんどくなってしまった
春から進学する予定の専門学校なんだけど、何かの事情で射精科の専属教員のいちばん若い人が女に代わるらしい。
正直いってこんな時期に言いだすのさすがに無くないか?って思ったけど、友人とかによると新しいのはノンケ界隈では割と有名な奴らしくて「お前ほんまツイてるな!○○さん直々に教われるとかめっちゃ羨しいわ」「さすが増田はエリートだもんなあ、将来はお世話になるかもしれんでよろしくな!」とかからかわれて余計ムカつく。
だいたい人生で一度も射精したことありません、みたいな奴に射精教えられるわけなくね?自動車学校の教官が無免許どころかハンドルも握ったことありませんレベルだろそれ。
正直もう普通に大学に進学すればよかったかな、とも思ったけど、でもこの進路を認めてくれた両親の期待を裏切るわけにもいかないし、何かめっちゃつらい。こんなんで春から大丈夫かな…
「親の期待」を言い訳にする人の残念な共通点 | 非学歴エリートの熱血キャリア相談 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 https://toyokeizai.net/articles/-/324611
「幸せになるために生きている」というのはキレイゴトとしか思えません.
私は親が幸せそうに見えません.有名大手企業で40年間勤め上げた父親が理想とする地位や環境を手に入れられなかったこと,仕事が原因で鬱病になったことを知っています.世間体ばかり気にして生きている母親も理想を手に入られていません.何より彼らの仲はとても悪い.彼らは互いの欠点を非難することを25年間続けています.彼らのようになりたくない.だから私は結婚を望みません.
なぜ彼らはそれでも有名大手企業への就職に執着し,結婚に執着するのですか?理解できません.
私は今実家暮らしなので,彼らから独立したい.今行う選択に対して,今納得できていればそれでいい,未来のことは未来で対処すればいい.それが今の私の望みです.
「やる気が出ないのは責任転嫁しているから」と気づけたことに対しては感謝しています.ありがとうございました.
コメント欄の意見に対しても不満があります.意志薄弱なのは認めます.でもこの文章のどこから「意志薄弱」さが汲み取れるのかが分かりません.自分が意志薄弱でないということを強調して書いたつもりなのに,反対に読み取られてしまうことが悔しいです.
安井様のご回答にもありますが,家出したときは自分が考えていることをレポートにして親に送りました.そのとき内定があったのに留年したのは母親が「留年してもう一回就活をやり直して欲しい」と涙ぐんで訴えてきたからです.親を説得する能力が無いから,その結果就活に失敗したのだという主張はその通りです.しかし,口が下手だから文章にしても理解してもらえないのです.「内定をもらったことを隠しておいて夜逃げする」くらいしか今の私には方法が思いつきません.
「親の期待」を言い訳にする人の残念な共通点 https://toyokeizai.net/articles/-/324611
安井様
大変有難いご回答ですが,今の私にはキレイゴトとしか思えません.
幸せになるために生きているって,本当ですか?
私は親が幸せそうに見えません.有名大手企業で40年間勤め上げた父親は「会社に感謝している」と言っていますが,彼が理想とする地位や環境を手に入れられなかったことは知っています.過去に仕事が原因で鬱病になったことも知っています.今は彼の隣の部屋に住んでいますが,正直彼のような人生を歩みたくないと思っています.
中流階級に人気がある住宅地に一軒家を買わせ,修理にいちいちカネがかかる外車(中古ですけど)にこだわる母親も,理想の環境を手に入れているわけではありません.見栄ばかり気にして生きている人間だと私は思っています.
何より,彼らの仲はとても悪いです.私が生まれてきてからというものの,両者共に非があるのに互いの欠点を非難することを25年間続けています.そもそもなぜ結婚したのか分かりません.だから私は結婚を望みません.
なぜ彼らはそれでも有名大手企業への就職に執着し,結婚に執着するのですか?理解できません.
私は今実家暮らしなので,彼らから独立したい.今行う選択に対して,今納得できていればそれでいい,未来のことは未来で対処すればいい.それが今の私の望みです.
コメント欄の意見に対しても不満があります.意志薄弱なのは認めます.でもこの文章のどこから「意志薄弱」さが汲み取れるのかが分かりません.自分が意志薄弱でないということを強調して書いたつもりなのに,反対に読み取られてしまうことが悔しいです.
安井様のご回答にもありますが,家出したときは自分が考えていることをレポートにして親に送りました.そのとき内定があったのに留年したのは母親が「留年してもう一回就活をやり直して欲しい」と涙ぐんで訴えてきたからです.親を説得する能力が無いから,その結果就活に失敗したのだという主張はその通りです.しかし,口が下手だから文章にしても理解してもらえないのです.「内定をもらったことを隠しておいて夜逃げする」くらいしか今の私には方法が思いつきません.
最後に,散々に書きましたが,「やる気が出ないのは責任転嫁しているから」と気づけたことに対しては感謝しています.ありがとうございました.
永戸
昨夜は塾の先生の言葉を、午後10時前に塾から戻ってきた息子から聴いて、怒髪天。
毎週塾でもらうプリントに日付を書いて、記名代わりの名前ハンコを押しているけど、それについて、「プリントの有無の確認だけなら無意味」という先生の言葉を知って、ものすごく腹が立った。意味があるかどうか、そんなことはこちらが決めることで、あんたに言われたくねーよ。時間が経つにつれて怒りがどんどん大きくなって、涙が出てきた。
🐢
冷静になってみれば、
・何カッコつけてんだろ。
・こんなことやったって成績あがらない。
・宿題だって満足にやってこないし、毎週の基礎テストだって満点とれないじゃん。
・イミフ
という思考なんだろうけど。
こちらとしてはテキストの存在有無じゃなくて、息子が名前を書き忘れることが多いし、親がイチイチ手書きで名前を書いているゆとりがないのでハンコにしたわけなんだが(最初は手書きしてた)。
名前を書き忘れるなんて小6として情けないし、そもそも人間的な欠陥なんだろうけど、それが現実。小学校生活5年3ヶ月を経てもダメなものはダメなんだ。未だに給食のランチマットを学校へ持っていくのを忘れることがあるし。
テキストの存在有無だけじゃなくて、それよりも毎回の塾の授業での出題と解答状況、授業ノートの書き込み具合、誤字脱字トメ・ハネ・ハライのチェック、宿題の範囲と分量と優先順、今後の時間的ゆとりと息子の体力や精神状態などを勘案して週間で勉強スケジュールを組んでいくことをやっているわけで、それにも関わらず宿題をやらない、問題を解けないというのは息子の至らないところで、いまのところ、これ以上どうしようもないと思っている。だいたい、この年頃になると親の言うことなんて聞かないのが初期値になっている。
全国の親御さんのかなり多くの方々が薄々感じていることかもしれないけど、残されている選択肢は体罰とか折檻とか、そういうレベルまで追い込まれ始めている時期なのだ。そういう追い詰められている状態のときに、塾講師の小娘にあれこれ言われているということを知って、昨夜は逆上していた。
修行が足りないな。
🐢
たぶん、自分がこんなに努力しても息子が勉強せず、成績が上がらず、厖大な時間、莫大な費用、果てしない徒労と心労を積み重ねて、もしかしたら“無意味”を作り上げようとしているのかもしれないのに、誰もわかってくれない、なぐさめてくれないということで、全世界を敵に回したかったのだろう。おまえ等なんか、どいつもこいつも、みんな敵だ!
つまり、身勝手な“かまってちゃん的怒り”だったんだろう。そうなのだ。中学受験なんて親の身勝手に過ぎない。
「○○中学に行きたい」という息子の言葉だって、本来的な彼自身の望みではなくて親の期待に対するゾウリムシ的反射反応で発話している可能性を否定できない。生まれて12年間生きただけで社会とか世間とか人生とかについて、まともに判断なんて出来るわけないんだから、親の言うことをオウム返しに言っている可能性が高い。将来の進路ではなく、目の前の親の期待に応えているのだろう。
それに、親が信じようとしている「中高一貫に進学することが将来的に息子の可能性を広げる」ということだって、受験産業の吹聴する言葉に幻惑されているだけかもしれない。首都圏だけで6万人の中学受験生が毎年発生しているわけで、それが4、5、6年生で塾通いだとすると18万人市場が堅いわけで、しかも受験に関しては「父親の財力と、母親の狂気」によって、幾らでも財布の紐をゆるめようという“顧客”には事欠かないわけで、そりゃ商売に力を入れるだろうし、もっともらしいことを並べ立てて説得力のドーピングを惜しんだりはしないだろうサ。
2月1日まで、とうとう200日を切った。
父親が亡くなってから、早いもので二ヶ月が経った。肺癌が主な原因だった。
私は父親が嫌いだった。昔ながらの亭主関白な夫と言えばわかりやすいだろうか。母を召使いのように扱い、母がいなければ娘の私を扱き使う父親だった。
例えば夕飯時、口を開けば「早く箸を持ってこい」「飲み物を持ってこい」と偉そうに命令した。反発すれば怒鳴り散らし、机を叩くなどして威嚇する。その影響で私は人が(特に男性が)怒っていたり怒鳴っていたりすると、身が竦むほど恐ろしさを感じるようになったぐらいだ。
父親は典型的なクレーマーでもあった。理髪店で自分の気に入らないヘアカットにされた時は、相手が泣くまで怒鳴りつけたそうだ。同じことを他の店でもしている。本人が武勇伝のように語っていた。相手に落ち度があるのはさておき、そこまで怒る必要は断じてないし、店員にどんなトラウマを植え付けたのか考えるだけで忍びない。
そんな父親ではあったが、小さい頃は私を目に入れても痛くない程に可愛がっていたようだ。記憶は薄れているが、確かに可愛く思っていたのは事実だろう。しかし私はその愛情に、思春期らしい気持ちの悪さを感じていたことを覚えている。今思えば、それは都合の良い人形を可愛がるようなものだったからではないだろうか。
小学生ぐらいの記憶を引っ張り出してくると、休みの日に父親が家にいたことは稀だった。一人もしくは母とパチンコへ行くことが多かったからだ。いたとしても日がな一日ゴロゴロと寝転がっているだけで、家族で出かけるようなことはなかった。泊まりで旅行など、温泉に一度行ったきりだ。
今や定番であり行ったことがないというだけで子供に惨めな思いをさせるというディズニーランドなど、その頃の私には想像もつかない世界だった。ある程度成長するとディズニーランドに言ったことがないのは少数派だとわかり、私は友人と話を合わせたくて「行ったことがある」と何年間も嘘をつき続けた。
「子供を可愛がる」というのは、子供の遊びに付き合い、行きたいところへ連れていき、一緒に経験を積み重ねることではないだろうか。父親からはそういった愛情をもらうことはなかった。
私には兄がいる。私とは違い、高校も大学も両親の期待以上のところへ進んだ、彼らにとって自慢の息子だ。父が兄に対して怒ったのは、小さい頃以外だと私が知る限り大学留年の危機に瀕した時だけだ。また、兄を小間使いのように扱ったこともない。
そもそも兄は私の四つ上で、中学の時は部活や塾で朝早く夜遅く、高校の時は遊び回ってほとんど家におらず、私が中学生の時にはもう家を出ていたため記憶が薄い。仲は悪くないが、まるで他人のように感じる。
そんな兄と私はよく比べられた。よくある話だ。優秀で友人も多くクラスの人気者な兄とは違い、私は特に秀でておらず人見知りも激しく友人は少ない。父にとって私は「理想の娘」ではなかっただろう。よく冗談で「お前は橋の下で拾った」と言われたものだ。私は、先に生まれただけで両親の良いところを全部持っていった兄が憎らしく恨めしく、そして何より羨ましかった。この頃の私は成績にしろ資格を取るにしろ両親が喜ぶだろうと思って行動していた。その成果である様々な賞状がうちには飾ってあり、父はよく自慢していたようだった。
私にとって父は畏怖の対象でもあり、自分を認めて欲しい存在でもあったのだ。
社会人になってからの数年間も、私は実家にいた。勤め先が実家のすぐ近くであったこともあるが、精神的に自立していなかったからだ。
その頃父との関係は冷戦状態で、口を開けば互いに怒鳴り合うこととなった。私は他人からは怒ることなどない穏やかな人間に見られていたが、それは人見知りを拗らせた内弁慶だからであり、家ではとても口が悪く我儘だった。
父は二言目には喧嘩腰に「なにぃ!?」と眉を吊り上げた。それに恐れをなして怯む自分を気付かれたくなくて、いつも怒鳴り返していた。
家を出てからはほとんど実家に帰っていない。父と口を利きたくなかったし、母とも何を話せばいいのかわからなくなっていた。
その内に私が結婚し、父が定年前に退職して数年後、肺癌が発覚した。他の病気まで併発していた。当たり前だった。あまりにも酷い生活だったのだから。
今まで何年…いや何十年と、私は両親に煙草を止めるよう苦言を呈してきた。それに加えて父は甘いジュースが好きで、見るからに不健康な体型だったが運動はしなかった。そして、職場でほぼ強制的に受けさせられる健康診断も逃げ続けた。恐らく何か見つかるのが怖かったのだろう。
退職後から発熱したり咳が続くことが多くなり、具合の悪さにとうとう病院へ行った時にはもう手遅れだ。他の病気のせいで放射線治療はできず、低血圧のため手術もできないと言われた。
それでも父はめげずに抗がん剤治療を始めた。この辺りのことを考えると気が滅入るので省くが、とにかく辛く過酷な日々であっただろう。
担当医に「今夜が山でしょう」と言われた日から二日ほど過ぎた。付き添い人である母と兄はゲッソリとしていた。父は夜中の決まった時間にパッと目を覚まし、叫び暴れるのだと言う。「痛い」「苦しい」「殺してくれ」と。
モルヒネの量を増やしたため、父は最早会話ができなかった。たまに独り言を呟いたり、かと思えば急に会話に入ってきたりしていた。
私が最後に父を見たのは亡くなる三日前だ。まるで死を待つように、ただベッドに座ってぼうっとした目で息をしている父の姿に、私は何故か涙が込み上げて部屋から逃げ出した。それ以上見ていることができなかった。
寝れなくて辛いから付き添いを代わってくれと兄に頼まれたが、今の姿ですら見ていられないのに暴れ出す姿を見たら更に正気でいられるはずもなく、断るしかなかった。兄はこのことを恐らく恨んでいるだろう。
母からの電話を受けて夜中に病院へ向かった。道中、ずっと涙が止まらなかった。
父のことが大嫌いだった。父そっくりなせいで私は不細工だし、すぐ怒鳴りつけるし、母や私を扱き使うし、我儘で自分勝手で金遣いも荒く、不貞を働いたこともある最低な人だ。何度となく「死ねばいいのに」と思った。
それなのに何故、涙が出るのだろう。何故、苦しんで死んだのだと思うと辛いのだろう。何故、遺品である携帯やタブレットから父の痕跡を辿っては苦しくなるのだろう。
今もまだ、父を思い出すと胸が詰まったような気持ちに苛まれる。
葬式が済めばすっかり日常に戻れるぐらい父に対して思い入れがないというのに、ふとした時に見てもいない死に際を思って胸が詰まるのだ。
きっと父は長生きしても人に迷惑をかける老人になったであろうから、早くに亡くなって良かったのだと思っている。
生きていたら、やはり何度となく「死んでくれないかな」と思っただろう。
今日、もう稼働しなくなった家族全員のグループLINEがふと目に入った。入院中の父が母へ毎日のように「あれ買ってこい」「早く来い」とそこに送っていた。そのやり取りを見て、どうしようもなく誰かに吐き出したくなった。
僕の中でイケメンというのは玉山鉄二とかTOKIO長瀬みたいな顔をさすので自分をイケメンだと思ったことはないし好きな顔でもないが
昔からモテ囃されるので人からはそう思われる顔なんだろうなと思って生きてる。
妻といえば北欧あたりのハーフと間違えるほどのはっきりとした顔の美人で、街を歩けば必ず声をかけられ男からは特別扱いされる人生を歩いてる。
妻は僕の顔には興味が無いらしく「薄い顔」「簡単な顔」と言ってる。
そんな顔同士が結婚した。
名前は、あまり両親の期待を入れすぎてもなぁ、と、季節の名前とか花の名前とかそんな感じにしようと思ってる。
「美麗」とか付けちゃって美麗じゃない顔が生まれてきたらその子の人生かわいそうだし。
僕は薄い顔で妻は西洋人顔。この正反対な特徴が悪いように組み合わさってしまったらどうしよう。
ブサイクブス同士でブスが生まれてくるのとは違う、まわりからのプレッシャー。
自分の子供だから顔の良し悪し関係なくかわいいし愛するのはわかっているけど
ふと顔を見たときに「ブスだな…」と思うの嫌だ。
宇垣美里さんが「顔がいいというのは足が速いとかと一緒なので別に遠慮しない」というような話をしていたが、その気持ちよくわかる。
ブサイクブスより美男美女に生まれてきたほうが人生5割は得をしているのは実感しているので
どうにかその舞台にあがってほしい。
親は団塊世代で当時は給料も右肩上がりの時代で、それなりの中流家庭だったと思う。
兄が通っていた地元の塾に自分も行かせてもらい、兄は一足先に中学受験をして某私立中高一貫校へ進学した。
自分は最初の塾(兄と同じ)で、『御三家も狙える』と言われ、有名な大手進学塾へ通うようになった。
毎週土日のどちらかには親に連れて行ってもらって都内へテストを受けに行き、自分は純粋に楽しんでいたが、それに付きあう親は大変だったろうと思う。
そしてその頃から、どうやら兄は道を徐々に踏み外していったらしい。
具体的に中学生の兄の身に何があってそうなったのかは今でも知らない。
兄は万引きなど軽犯罪を繰り返すようになり、親が警察に行くこともたびたびあった(当時、自分にはそれらの事実は知らされなかった)。
自分と兄はひとつ屋根の下に暮らしていたが、部屋は別々で元々仲の良い兄妹でもなかったし、
自分は中学高校(御三家の一つに受かった)で良い友人に恵まれ学生生活を楽しんでいて、兄のことはほぼ眼中になかった。
ただ、それでも兄や両親を見ていて、『兄が道を踏み外しつつある』こと、『親が兄の対応で大変らしいこと』は雰囲気でわかった。
だから、自分まで親に負担をかけてはいけないな、と子供ながらに思っていた。
別に親のためにいい子でいようと思ったわけではない。
道を踏み外していく兄を尊敬できなかった、いや、心から軽蔑していた。ああはなりたくない、と思っていただけだ。
学校の友人の兄弟はみな出来が良くて、どこに出しても恥ずかしくない「まっとうな」人達で、比べると自分の兄が恥ずかしかった。
学歴なんかの問題じゃない、今でもそれで兄を差別する気はない。
犯罪を犯すこと(万引き以外にも路駐やら何かでしょっちゅう警察から電話があった。警察をバカにし、遵法精神などまるでなかった)、
それで親に多大なる迷惑と心労をかけていたこと、それを反省もせずにまた繰り返すこと。
兄の心理など知る由もないし、なにか彼の思春期に問題があったのかもしれない。
だがだからといって兄の行為が正当化される訳もない。繰り返すならなおさら弁護の余地もない。
私は心の底から兄を嫌い、軽蔑し、しかし表にはそれを出さずに、ただ兄とは接触しないようにしていた。
(なぜなら、兄は短気で暴力に訴える人間だったからだ。一度自分がそういった態度を見せた時、夜中に枕元に金属バッドを持ってすごんできたのは忘れられない。
そしてそういった基質もまた、私の兄への侮蔑をより強める結果になった)
そして兄は高校を(なんとか)卒業し、大学へは行かずにフリーターになった。
親はどこでもいいから大学へ行かせたかったようだが、兄本人が『大学でやりたいことがない』と進学しなかった(ここは兄が正しいと思う)。
ありがちな話だが、兄は音楽の道を進もうとしたらしい。バンドを組んで、いわゆるバンドマンになった。
音楽活動の実態は何をしてるのかさっぱりわからなかったが、さほど身を入れてやっている様子もなく、芽も出なかった。だが諦めきれないのか、フリーターをしながらだらだらと続けていた。
自分が高校を卒業し大学へ進学した後も、兄はその生活をしばらく続けていた。
そのうち、兄は一人の女性(Aさん)と知り合った。そして二人は結婚を考える仲になった。
Aさんはとても良い女性だった。自分や両親とも仲良くしてくれて、兄は大嫌いだがこんな姉ができるなんてほんとに嬉しい、ようやく兄が自分にとって良い行いをしてくれたと思った。
しかしここで、両親は最大の過ちを犯した。
何を思ったのか、兄にマンションを買い与えたのだ。親の名義でローンを組んで、兄と彼女の新居にしろと兄に与えた。
フリーターの兄に月々のマンションに係る支払が払えるはずもない。それはすべて親が払っていたのだ。しかも結婚も確定しないうちに買って与えた。
呆気に取られた。納得できないが親の気持ちになって考えてみれば、『Aさんに逃げられないように、住居が確定していれば結婚生活も楽になるだろう』ということだったのかもしれない。
『妹は大学へ行かせてやったのだから、兄にも何か与えねば』と思ったのかもしれない(しかし自分は国立大で、学費をトータルしてもマンション費用の20%にもならないのだが)。
兄は別に特段の感謝をする様子でもなく、当たり前のようにそれを受け取った。
そしてその後、結婚が決まっても一向に定職につこうとせずに自堕落な生活を続ける兄は、Aさんに愛想をつかされて結婚前に出ていかれた。
(兄はAさんに入れ込んでいたらしく相当なショックを受けていたが、自分から見れば当たり前だばーかとしか思えなかった)
この頃からだろうか、自分が『親は兄を贔屓している』と思うようになったのは。正確には、『親は兄を甘やかしている(自分には厳しいのに)』と感じ始めたのは。
自分は親に言われた。『私立大に行かせる金はないし仕送りをする余裕もないから、家から通える国立大にしろ』と。
親の言うことに従おうとしたわけではなかったが、自分の行きたい大学はその条件を満たしていたので、結果として親ののぞみを叶えた形になった。
しかし心のどこかに、『親ののぞみを叶えたい』という気持ちがなかったとは言えない。兄で苦労させられている親を見てきて、自分だけは親が誇れる子供でいようとしたのかもしれない。
通おうと思えば通えたが、一人暮らしに憧れていたこともあり、親の援助は一切受けずに一人暮らしを始めた。貯金とバイトでなんとかまかない、4年間それを続けた。
親が兄にマンションを買い与えるまではそれも納得していた。だが、親がそれをした時、自分の中で不公平だという気持ちが生じた。
根底に『「親に迷惑ばかりかける穀潰しでろくでなしの」兄に、なぜそんなに金をかけて甘やかすのか?』という考えも当然あった。
自分にとって兄は「いないほうがマシ」で、存在する事で何もいいことがない、迷惑なだけの存在だった。
グレてようがフリーターだろうが、優しい兄なら愛せたろう。だが、兄としての優しさを見せてくれたことなど数える程もない(その数回も小学生以下の時だけ)。
家庭を持って子を為し、親に孫の顔を見せて安心させてくれたなら、「普通」で「まっとう」な人間になってくれたなら、それで兄を見直すこともできただろう。
しかし兄は正真正銘のクズなので、逆の道にしか行かなかったのだ(それについては後述)。自分が兄を見直す機会はおそらく死ぬまで来ないだろう。
(余談だが、なかにし礼氏の小説の再現ドラマ(兄との関係を描いたもの)を見た時、心からなかにし礼氏に共感した。自堕落でお調子者で弟にとって迷惑な兄。
なかにし礼氏が兄の葬式後につぶやく、『兄さん、死んでくれてありがとう』がわかりすぎて辛かった。
何年先かわからないが、おそらく自分も兄が死んだ時、『死んでくれてありがとう』と心から思うだろう。自分が先に死ぬかもしれないが)
Aさんに逃げられた後、しばらく兄は自堕落な生活をしていた(親が金を払っているマンションで一人ぐらし)。
自分は何度も親に『マンションから出て行かせろ、でなければ兄は自立できない』と言ったが、親は『そんなこと実際にできるわけがない』『目の届かないところに行かせるほうが不安だ』と言って聞かなかった。
この頃から、自分の中で『兄が駄目になったのは親の(甘やかしの)せいではないのか』『親は己の見栄しか考えてないのではないか』という疑念が湧いてきた。
やがて自分は大学を卒業して、氷河期の中なんとか上場企業に就職を決めた。
希望の会社からは内定が出ず、文系でプログラムなど全くわからないのにSEになることになったが、就職できただけでよしとするしかなかった。
親の反応は『とりあえず上場企業だから、外への体裁が整った』というものだった。親にとって自分は見栄のための存在なのだなということが、徐々にわかってきていた。
同じ頃、兄もようやく某リフォーム会社で営業として働きはじめた。
兄の営業成績は良かった(もともと外面だけは良い)ので、いっときは小金持ちになれたらしい。外車を買ったが、マンションの金を親に返す気はさらさら無いようだった。
その外車がポンコツなのかあるいは外車とはそういうものなのか、しょっちゅう壊れて修理代がかかった。あまり乗らないせいもあっただろう。
乗らないのなら売ればいいのに『売っても二束三文にしかならない』と兄は言い張り、親はなぜか修理代を肩代わりして払ってやっていた。
(散々修理代を払って直して、最後にはやはり壊れ、ろくに乗りもしないままに結局二束三文で売ったようだった)
マンションの支払いは親が続けていた。このころようやく、月々の管理費や積立金などの維持費だけは兄が支払うようになったようだった。
そのうち、バツイチ子持ちの女性Bさんと知り合い、今度は結婚した。Bさんについては自分はほとんど知らない。
その頃自分は向いていない仕事かつ長時間労働で心身を病みかけており、朝焼けの街を徹夜明けで泣きながら一人家路についたりしていたので、兄のことなど構う暇もなかった。
結婚式には一応出た。ストレスで過食気味になりむくんだ顔の自分が愛想笑いを浮かべて写っている写真は見返したくもない。
兄の結婚になんの感慨もなく、『これで普通の人間になってくれれば』と願っただけだった。兄に望むただ一つのことは『普通の家庭を築いてくれ』で、それ以上は望まなかった。
営業成績が良いのに浮かれ、独立すると言って仕事を辞めた兄だったが、ろくなノウハウもない個人のリフォーム営業がそうそう上手く行くわけもない。
あっという間に生活は行き詰まり、さっさとBさんに逃げられた(どうやら浮気されていたようだが、それを追い詰める気力もなかったようだった)。
そしてまた、マンションで自堕落な生活に戻った(もちろんマンション維持費は親払いに戻った)。
自分はずっと『兄を甘やかしすぎだ、マンションから追い出せ、マンションを売ってしまえ、でなければ兄は自立しない』と親に言い続けていたが、ずっとでもでもだってで聞き流された。
『(万引きなどの)前科があるから、追い出したら何をするかわからない。もっと悪いことになるかもしれない』『どれだけ言ってもあいつはこちらの言うことを聞かない』。これが親の言い分だった。
しみじみ、親も兄も情けなく、どうしようもないと思った。『お前は冷たい』と言われた。
『そもそも最初にあれが道を踏み外した時、お前の中学受験にかかりきりで、親としてろくに関わってやれなかったのが悪かったから』と。
そう言われて自分にどうしろと? 責任を感じろというのだろうか? もうとっくに成人していい年になった兄を憐れめと? 親でもない自分がなぜ親と同じ感情を共有せねばならないのか?
『ずっとそう言い続けて兄を甘やかして、それで状況が好転したか? 好転する見込みがあるというのか? 兄の自立を妨げているだけではないのか?』
そう言っても、親は同じ言い訳を繰り返して兄への甘やかし(マンション与え)をやめようとしなかった。
自分の中で、兄への嫌悪と親への嫌悪の比率は徐々に逆転していった。兄がどれほどのクズだろうが、どんな人生を送ろうがもはやどうでもいい。
自分と同じ親のもとで、恵まれた環境で育ったにも関わらず、兄は自ら堕ちていったのだ。兄の人生は兄のもの、好きに生きればいいしどこでのたれ死のうが勝手にすればいい。
兄よりも、そんな兄を甘やかし続ける親のほうに不信と不満が募っていった。なるほど、親がこうして甘やかすから兄は更生できないのだと納得した。
そして『兄が自分よりも甘やかされてる事実』にどうしても納得できなかった。自分を特別扱いしろというのではない、兄を特別扱いするのが耐えられなかったのだ。同じ子供として平等に扱ってほしかった。
自分の大学時代、兄は親が与えたマンションでゆうゆうと一人暮らしして、自分は仕送りを一切受けられずに生活費のすべてを自力で稼いだ。
就職してから、兄は親が与えたマンションで好き勝手に暮らして、自分は親に金を入れていた。家に金を入れるのは当然だと思う気持ちもあったが、理不尽だと思う気持ちはどうしても拭えなかった。
その気持ちに耐えられず、『兄と比べてあまりにも不平等だ、兄にも金を支払わせろ、兄を甘やかすのもいい加減にしろ』と泣いて言ったら、『じゃあこれからお前も金は入れなくていい』と言われた(そうじゃないだろ)。
家庭のことや仕事のことなど色々あり、結局自分は新卒で入った会社を3年ほどで辞めてしまった。親に『30までにやりたい道(フリーランス)で食っていく目処をたてる』と誓い、宣言どおりに28で目処を立てた。
兄は親が見つけてきた非正規パートの仕事をなんとかこなし、その頃にはそこそこ年季も入って板についてきていた。新しい彼女(Cさん)もできたようで、マンションで一緒に暮らし始めた。
だが、そんな矢先。兄が、クスリで捕まった。
最初に一報を聞いた時、親はともかく、自分は『まあ、あるだろうな。やっぱりな』としか思わなかった(基本的に兄の人格を信頼していないので、何を起こしたと聞いても『やりかねない』としか思わない)。
もちろん家族の誰も気づいていなかった。家族の目の届かないマンションでずっとやってきたものらしい。
自分は『言わんこっちゃない、だからマンションから追い出せとあれほど言ったのに、甘やかし続けた結果がこれだ』と親に言った。親は『そんなこと今更言っても仕方ない』としか言わなかった。
そこからの詳細は省くが、兄は執行猶予がついて戻ってきて、兄を見捨てなかったCさん(菩薩かよ)と今でも親の与えたマンションで暮らしている。Cさんが見張っているので再犯はないと思いたい。
Cさんには敬意と感謝しかない。彼女がいなかったら兄はもっとだめになっただろう。
しばらくCさんに食わせてもらっていた兄だが、今はまた派遣で職について、そこでの仕事も軌道にのってきたようだ。今度こそは歳も歳なので落ち着いたと思いたい。
(ちなみに、また維持費だけは払うようになったが、購入費は一切払っておらず、名義は父のまま。毎年実家よりも高い固定資産税を払っているのも父)
兄はもうどうでもよく、二度と犯罪を犯すなCさんにだけは迷惑をかけるなCさんだけは大切にしろとしか思っていない。
残念なことに、自分の中で兄の見方が変わることはこの先死ぬまでない。今の兄と表面上でも付き合えるのはCさんあってこそだ。Cさんを姉と慕っても、兄を兄と慕うことは生涯ない。
きょうだいは他人の始まりとはよく言ったもので、兄への気持ちはもうこれでいいと落ち着いている。
だが、「未だに」なのか、「今だからこそ今まで積もり積もったものが」なのか、自分の中で親へのわだかまりだけはどうしても消えない。考えると落ち着かず、心がざわつく。
もう親も老い、自分もいい年だ。親も人間であり、それも見栄っぱりで子供を平等に扱わず贔屓するようなできの悪い人間だったんだと納得するしかないとわかっているのに、
自分はどうしても、親に『自分たちが間違っていた』と言ってほしい。子育ての過ちを認め、自分がどれほど辛い思いをしたかを理解し、悪かったと謝ってほしい。
だが、過去に喧嘩した時の経験から、親は絶対に自分の過ちを認めない、ましてや子供から言われる言葉を決して正面から受け止めないとわかっている。
『それが親に対して言う言葉か』『何様のつもりだ』『はいはい、全部こっちのせいだって言いたいんでしょう』…そう言って絶対に絶対に自分の過ちを認めない。老いた今、なおさら頑なになり認めないだろう。
自分は自分なりに、親の期待には応えてきたと思う。教育で親に金をかけてもらった事は感謝しているが、それだけの成果をちゃんと出し、結果をだした。
なのになぜ、自分は兄と同じに扱われなかったのだろう。自分だけが要求され、応え続けねばならず、それなのにそれを評価もされなかったのだろう。
これを言うと嫌な人間だと思われるだろうが、客観的に見て自分のほうが親に貢献しているしまともな人間として育った(少なくとも前科ものでなく、親に迷惑をかけていない)という自負があるだけに、やるせない思いがある。
本来なら自分のほうが親に贔屓されて然るべきではないのかという思いがあることは否定しないが、贔屓してほしいとは言わないしするべきでもない。
ただ自分に求めるものは兄にも求め、兄に与えたものは自分にも与えてほしい、子供の間に差をつけないで平等に接してほしかっただけだ。
男女の差だというのならばなおさら、兄には『長男』としての役割と責務を求めるべきだったろうに、なぜ私が長男の役割も果たさねばならないのだろう。
兄が結婚した時、自分は『兄が孫を作ってくれたらそれだけが兄の親孝行だ、自分にも兄がいた意味がある。せめてそれくらい孝行しやがれ』とわずかに期待したが、兄は子供を作る間もなく離婚した(そもそも作る気もない)。
母は自分にだけ言う、兄には絶対に言わないのに、『老後の楽しみがほしい、孫が見たい』と。
子供はジジババの楽しみのために産むもんじゃねえし産んでおしまいじゃない、何ならあなたがたが育ててくれんの? 育てる金あるの? と応えたら沈黙した。
そんなに孫が見たいなら兄に言ってくれ、男なんだから自分よりよほど確率が高いだろうと言ったら、『あの子に育てられるわけがない』。『何を言っても無駄』と言って、兄には20年以上何も要求しない。
『精子バンクとかあるでしょう』『50歳で産んだって例もあるし』とまで言われた日には本当に失望した。
50歳で産んだ女性はほぼ卵子提供で母方の遺伝子は入らないし、養子じゃ嫌だってんならそれ(母方の遺伝子が入らない)も嫌なんだろうに。
そもそも出産までにどれだけ苦労したか(流産だって何度も経験してるはず)、不妊治療にどれだけお金がかかったかわかってて言っているのか、そして不妊治療と高齢出産がどれだけ母体に負担がかかると思っているのか。
娘の体など、自分の楽しみのためにはどうなってもいいのだろう。
孫の立場にしたって、父親がいない家庭に生まれることになるのだが、そういったことを考えてもいないのだろう。ただ、自分が欲しいから、だ。
私の結婚も、自分の見栄だけのためにしてほしかったらしい。大切なのは見栄と体裁で、娘の幸福などどうでもよかった。
『結婚しない女はなにか問題があると思われる』なんて言われても、それはあなただけの醜い価値観だろう、未婚率が三割の時代にそんな事思うほうが少数派だ。
図らずも未婚女性への「己の偏見」を曝け出したことにも気づかずに、『あなたのために言っている、それが世間だ』などと諭してくる醜さ。兄にも同じことを言えばいいのに。
『結婚しろ』と言われるのが嫌で、それを避けるために誰でもいい、一回結婚さえすれば文句を言われまいと思って結婚したけれど、上手く行くわけもなく2年も経たずに破綻。
(付き合っていた人とは、兄の事件で別れざるを得なかった。結婚した人には家族ぐるみで兄のことを隠した。そんな結婚うまくいくわけもなかったし相手には申し訳ないことをしたと思う)
その時の言葉も『せめて2年は持たせろ、外聞が悪い』『相手の親に私(母)の顔が立たない』『どうせお前のわがままだろう』…出てくるのは己の見栄と体裁のための言葉だけで、一度も娘の心情を慮る言葉は出てこなかった。
兄が同じように2年程度で破綻した時、兄に同じ言葉を突きつけたなら、そういう人なのだと納得もできたかもしれない。だが、兄の離婚に関して親は兄に何も言わなかったのだ。
一行要約:人の気持ちを汲み取ろうともせずに家業の仕事を一方的に息子(おれ)に押し付ける父親に心底辟易しているが,母親はどちらかと言えばいい人サイドなので両親もろとも縁を切ると母親に辛い思いをさせそうでつらい
・登場人物
母親:専業主婦.(おれ目線では)父親と比較すると人格は非常にまとも
思えばおれは昔から父親のことが嫌いだったが,そのことをはっきりと自覚したのは家業を継ぐ/継がないで親と喧嘩になったときのことだ.父親は少しマイルドな昭和の堅物,といった感じの人間で,常に自分のことを正しいと信じて疑わないところがあるとおれは感じている.彼は身内の人間と対立したときに,相手の気持ちを理解しようという努力を一切しない.おれは彼が身内の人間に対して「ごめん」などの謝罪の言葉を発した場面を一度も見たことがない.おれのことは「当然家業を継ぐべきである」という前提のもとで育ててきただろうから,おれが「家業を継ぎたくない」と伝えたときも一体このバカは何を言っているんだというような反応だったし,おれが「先祖代々うんぬん以外におれが継ぐことを納得できるような合理的な理由はねえのか」と訴えたときも,生まれてこの方息子を説得する必要があるとは考えたこともなかったというような顔をしていた.しょせん家業なんて「昔からやってきたから」以外に継ぐまともな理由は存在しないので,おれも無い物ねだりをしていた側面はあるのかもしれない.だが,幼少期から家業の手伝いをする中でこの仕事は絶望的なまでにおれに合わないなと感じていた上に,そんなに嫌いな仕事を嫌いな親と一つ屋根の下営むメリットなど微塵も感じられなかったので,このまま無理にでも家業を継がせるつもりなら縁を切るぞとほとんど脅しめいた交渉をして家業を継がないことにした.おれはこのゴタゴタでだいぶメンタルがやられ,今でもそれを引きずっている.
これで晴れておれの人生の操縦桿はおれの手に,というハッピーエンドなら良かったのだが,ことはそう上手くは進まなかった.父親はその後も折に触れて家業の手伝いを要求してきた.おれは美しい国ニッポンの高雅な儒教精神とやらを少しは持っていたので,親の期待を裏切ったことに対する罪悪感からこの手伝いには応じることにした.結果として,夏休みの三分の二程度が家業の手伝いに消えた.おれは学生の本分であるところの勉学もやらねばならなかったので,夏休みは友人からの遊びの誘いは全て断り,土日も休みなしの六時間睡眠で毎日家と大学を往復する日々だった(ショートスリーパーの人間には分からないかもしれないが,ロングスリーパーのおれにとって六時間睡眠はつらい).親から労いの言葉は一切なかった.遅刻をすればきちんと説教をされた.
さすがにやってられんわ,とおれが思ったのは言うまでもない.
おれは家業を継がないことにすれば親の支配下から逃れられる,と思っていたが,それは間違いだった.おれは罪悪感と「家族の絆」いう名の鎖で結局親の元に繋がれている.家業を将来的には継がないとはいえ,結局家業の手伝いに従事させられているのでは,生き急いでいる若者のおれにとっては事態は大して変わっていない.おれは別に女遊びやパチスロのためではなく,それなりの大志を持って家業を放棄したのだ.おれは意を決して「家業の手伝いとしては度が超している.お前はおれが家業の仕事を覚える必要があるとか言うが継がないおれがそれをやる必要がなぜある.バイトで補填できない部分の仕事を息子の責任にして息子に押し付けるな」と訴えたが,父親は依然として「家」がどうこうというおれには理解できない向こうのロジックで反論してきた.おれは何より,おれのこの不満に理解を示そうともしない父親の態度に心底腹が立った.継がないことにすれば事態が好転すると思っていたおれがバカだった.おれが本当に逃げるべきだったのは,家業からではなく父親からだったのだ.おそらく.
おれは今後の人生をかけて養育費を親に返済してやってもいいくらいの勢いで親と縁を切りたいと思っている(結局のところ罪悪感はまだ残っているのだ).それで一人で苦労して野垂れ死んだとしても,家業を無理にでも継ぐくらいなら自殺してやると思っていた昔と比べれば大きな前進だ.おれはいつまでたってもおれ自身の人生を歩めないことに,流石に苛立ちを隠せなくなってきた.
おれが親と縁を切る決断をできないでいるのには,ひとえに母親の存在がある.母親は父親とおれの間を取り持って,どうにか事態をうまく収められるよう色々と配慮をしてくれた.父親とは異なり,母親はおれの人生についておれ目線から考え気遣ってくれた.母親がいなかったら,おれと父親はすでに一生顔を合わせることのない仲になっていたと思う.母親が家に嫁いできた当初の辛苦を祖母から聞いていることもあり,そうまでして頑張って育てた息子が家出,となるととてもつらい思いをするだろう.そうなってしまってはおれとしてもとても心苦しい.
インターネッツで観測できるいわゆる「毒親」案件は,清々しいほどまでに両親がクズであることが多く,その点はある意味羨ましいなと思う.おれは母親のことをクズだと思うことはできない.おれが母親まで嫌いになることができたなら,ゴミをゴミ箱に捨てるのと同じ感覚で躊躇なく親と縁を切れたのになと思う.おれが縁を切ったことで母親が苦しめば,おれも儒教精神やら罪悪感やらを抜きにして,心底悲しむ.
おれは,父親のことが嫌いである以上に,この家族は不運だな,と感じている.父親は堅物なところがある以外は目立った問題はなく,この家に家業なるものが存在しなければこんなに面倒な沙汰にはならなかっただろう.だからおれは職業選択の自由とは相容れない「家業」という概念自体がこの世から消えてしまえばいいのに,と思っているが,それはまた別の話.
勉強が出来るとか、見た目が良くなる、とか。
しかし、それらは全て相対的な価値なので、どこまでやっても満たされる事がない。
故に、常に劣等感を感じ、完璧主義になり、いつまでも幸せになれない。
それに気づいたのは、子供や妻がモタモタするのを見て、すごくイライラしてしまった時。
自分は、家族に対してすら、外的価値で価値判断をしてしまっていた。
自転車に乗れる、とか、家事を効率的にこなせる、とか、生産性が高いか低いか、でしか
認めていなかった。
そういえば、自分に対しても常にそういう判断をしていた。太っているのは醜い、だから大好きな甘いものは食べずにダイエットしなきゃ、とか
男で30を超えていたら、年収はいくら以上ないとダメだ、もっと仕事頑張らなきゃとか、賢くないといけない、本をもっと読まなきゃ、とか。
そうでなければ、生きる資格はない、などの外的価値での判断を常にしていた。
なので、生きていてもちっとも楽しくなかった。常にもっともっととなり、満たされない。
穴のあいた船で、常に水を掻き出しているような状況で、焦りしか感じてこなかった。
少し成功して、他人からすごいね、とか言われても、壁はどんどん高くなり、評価が下がると
自分の全てを否定された気がして、ものすごく傷ついて、何日も気分が落ち込む。
このままではいくらお金持ちになっても、いくら見た目が良くなっても、ずっと不幸のままだ、と
思ったので、この習慣を変えようと思う。
まずは、家族はもちろん、会社の同僚、自分の周りにいる人々を、外的価値で測るのを意識的に止めるようにした。
こいつ仕事できねーな、とか、資料作るの遅すぎ、とか、あいつは太っててみっともない、とか
40こえてるくせに年収低すぎだろ、とか、そういう相対的な価値で他人を判断するのを止める。
また、相対的な価値観で判断するような人が寄ってきたら、離れるようにする。
【中学受験】
動機は3つ。小学校で好きだった子や友人と張り合うため。先生に勧められたため。行きたい学校を見つけたため。
小学校は東京郊外の私立に通った。いわゆる東京の私立というイメージとは遠く、付属中学もなく田園の教育という方針を実践しているのんびりとした学校だった。学年に男女合わせて30人ちょっとしかおらず、当然クラスもひとつしかなかった。
私は四年生の時に親の母校であるその私立へと転校した。学校では何もしなくても成績が良かった。テストはいつも早く終わり、ほぼ満点しか取らなかった。いつもトップを争う子がおり、私はいつしかその子に好意を寄せるようになった。その子とは度々一緒に学級委員に選出されて囃されたが、実際悪い気はしなかった。
五年生になって周囲が塾という習い事のため足早に帰ることに気づいた私は、特に深く考えもせず受験がしたいと親に申告した。担任の先生と相談すると、可能性を広げる良いチャンスなので多いに推奨すると言われた。この時の先生の一言だけで私は世界が広がった気がした。
学校をいろいろ見学した結果、最後に訪れた御三家の一角を目指すことになった。門を叩くまで母は恐れ多いと躊躇していたが、行ってみると風通しが良く自由な校風で私は一発で気に入った。ここしかないと強く思った。
好きになった子とは家族ぐるみの付き合いがあり、テーマパークへ行ったり共学を一緒に見学したりした。同じ学校で無敵の青春時代を過ごす妄想が捗ったが、世間的に知名度の高かった共学も思ったほど私には語りかけてこなかった。試験日程も遅かったので、お互いそれぞれの御三家が第一志望となった。
塾は近所の個人塾に通った。寺子屋みたいな雰囲気で、先生は塾長と奥さんの2人、生徒は4人、そして授業中は正座だった。私だけ必要な科目数が多かったので、マンツーマンで教わる時間も多かった。回答を間違えると「バカチン」と先生はよく言った。指導は厳しかったが、頻繁に飴を配ったり可愛がってくれた。
塾は行ったら行ったで面白いし好きではあったのだが、束縛に耐えられなかったのか、私はよく直前にお腹を壊したり、自転車で行くふりをしてバックレたりした。もちろんすぐバレた。何度もやめてもいいよと親に諭されたが、そう言われると余計に引けなかった。何より勉強は楽しかった。自宅で勉強と称して漫画を読むのも楽しかった。
大手の塾には模試と講習だけ行ったが、普段の学校や塾とはまるで異質な空気に圧倒された。何点取ったらゲームもらえるとか、模試で何位だったからお小遣い増えたとか、そんな会話が横行しできない奴は容赦なくバカにされた。私は萎縮してしまい、模試や講習では御三家を狙うにはギリギリの偏差値をいつも取っていた。
そんなこんなで中学受験。第一志望の受験日は2月1日。受験番号は402。母が「フォーチュンだね」と言ったので覚えている。大手塾特進クラスの連中はまるで家にいるみたいに寛いでいた。田んぼの学校に通いちっぽけな寺子屋からひとり送り出された私は、担任や塾長の言葉を思い出しつつ、昼休みに母の作った弁当を噛みしめた。
手ごたえはあった。得意科目は算数だったが、特に国語ができた気がした。第二志望以降も受けたはずだが、第一志望で力を使い果たしておりほとんど記憶がない。2月3日に結果が出るとその後はもう受けなかった。サクラサク。
【大学受験】
東大を受験することにした。理由は、別の進路を断念したため、学費が安かったため、そして周囲のほとんどが目指していたため。
はじめは芸大の先端芸術表現科というところに行きたかった。アートを学び実践したかったのだ。しかし、東大からでも道はあるという説得と、受験対策のための出費がかさむという理由で断念した。今思えば金をかけずに挑む方法を模索して食い下がればよかったが、当時は思い至らず折れてしまった。
私が中学の頃に父は長年勤めた会社を早期退職したが、その後仕事が奮わず家計は火の車となった。学費と生活費の捻出に家族があくせくする状況の中、私だけ美大受験の意志を押し通すことはどうしてもできなかった。大学受験は塾に通わず授業と自習で挑むことになった。
幸い有数の進学校には通っていたので、目標を東大に変えることは自分の置かれた環境を最大限活かすことにもなった。上位25%が東大に進学する学校で私は時折圏内に食い込む程度の成績だったので、そう遠くない目標に思えた。
ところが、目指し始めた頃には届きそうに思えた赤門も、時間が経つにつれ遠のいていった。ハイレベルな塾に通う周りからは目に見えて離され始め、模試の判定も振るわなかった。いくら寝ていても自習をすると眠くなり、分からないところがあっても差を感じると素直に質問できなくなった。焦るほどに時間だけが過ぎていった。
願書を出す段になると、父と腰を落ち着けて話した。弱気になった私とは裏腹に、父は自信に満ちていた。「滑り止めに金は出さない。行きたいところだけ受ければいい」と父は言った。それもそうかと妙に納得し、私は東大のみを受験することにした。東大一本なら正直落ちてもカッコつくと思った自分がいたのは事実である。
余談だが、父は学生紛争で東大受験がなくなった年に受験生だった。成績優秀で東大を目指していた父はその年第一志望に挑戦することすら叶わず第二志望へと進学した。私はその話を本人からではなく母から聞いた。複雑に絡み合った様々な思いを背負って私は試験に臨んだ。
結果はボロボロだった。足切りこそされなかったものの、センター試験は合格者平均を大きく下回っていた。二次試験の数学に至っては頭も回答用紙も真っ白だった。案の定、私は東大に落ちた。
【大学受験2】
東大に落ちて私は忸怩たる思いでいっぱいだった。自分が周りに一目置かれたいがためにいたずらに東大を目指した気がした。東大しか受けずに落ちたと言うと、周囲はその勇気を讃え不運を嘆いた。だが私が一番良く知っていた。それは勇気ではなくただの処世術で、不運ではなく純然たる力不足だった。
私が卑屈にも自分と比べていた仲間たちは一足先に合格をその手で掴み大学生となってしまった。毎日通っていた高校も卒業してしまった。私はからっぽになった。現役受験が終わってから、これは他人との競争などではなく自分との戦いなんだとやっと気付いた。
就職か浪人かという選択肢を前に、働くと言いかけた私に親は浪人を勧めた。もったいないから、という言葉に私は到底納得できなかったが、ある種自分を見直す時間だと捉え受け入れた。親に頭を下げ予備校に通った。
浪人の前半期はくすぶっていた。授業は新鮮で楽しめたが、予習復習には身が入らなかった。借りた小説を読み漁り、レンタル映画を見倒した。私は物語の主役であり、困難に立ち向かう若者であり、世界の広さを思い知る冒険者であった。自由を求め無頼を気取っていたが、その実何の変哲もない予備校生だった。
後半期になると配属クラスが上がった。自分でも気持ちが乗ってきているのが分かった。模試では結果を出せるようになり、勉強と試験のサイクルが単に知識の吸収と確認をする作業なんだと理解できた。高校の教科書をはじめから読んだり、資料集を飽きるまで眺めたりした。そこに書かれていたのは試験のために記憶すべき情報ではなく、世界を紐解く手掛かりだった。
この頃から私はセンター試験をひたすらやった。現役受験の際に感じた基本の不足を徹底的に見直そうと思った。周りは東大対策に余念がなかったが、私は自分が一番手応えを感じられる道を進めばいいと思えた。センター試験で満点が取れるようになると、不思議と二次試験の過去問も解けるようになった。
結果からいうと、私は当時の前期日程試験で不合格だったが、後期日程で理科一類に合格した。
前期日程で落ちたのは予想外だったが、余計な要素が削ぎ落とされるほどに私はなぜか冷静になれた。後期日程では科目の絞り込みに加え選択もあるため必要な試験が少なく、私の場合はほぼ英語と数学のみだった。そして私にとってはそれが望ましかった。
試験前日はよく眠れた。朝は自然と目が覚め、焦りや気怠さを感じることなく落ち着いて試験に臨むことができた。数学はあっけなく終わり逆に不安になったが、英語が会心の出来だった。やるべきことはやったという清々しい心持ちで試験を終えた。
結果発表では安堵と高揚感からか、現実感が薄らいですべてがぼやけた夢のように思えた。勝鬨をあげたり号泣したりする見知らぬ同志たちを横目に、私は特に湧き上がる感情もなく立っていた。アメフト部に合否を聞かれ、小さく頷くと胴上げされた。着地の際に自分の体重が戻ってきたのを感じ、それまでの漂うような気持ちは消えた。
こうして私の受験は終わった。
【最後に】
小学校で好きだった子は私と同様に第一志望の御三家に合格したが、中学進学以来疎遠になった。私は大学を出て10年になる。
受験は競争心を煽って奮い立たせる仕掛けが多く、そういう経験を経て比較でしか物事を測れなくなる人間もまた多い。実際に私も周囲の人間や環境に大きく影響を及ぼされたが、最終的に納得の行く結果は自分の選択からしか生まれなかった。
正月の受験生たちに、あけましておめでとう。
IMAKITA
https://www.qhapaq.org/imakita/
両親は厳しかった 学校の成績以外何も認めてくれない人間だった 。
そんな両親の期待に応えようと真面目に生きてきただけなのに何かを見失ってしまった 。
しかしそれさえも最近疑っている もしかしたらこの目標は俺のものではなくて、両親の恣意が俺に干渉してきただけなのかもしれない と 。
結局 他人が必要としていたのは「勉強のできる俺」だった 何の取り柄もない俺が勉強“まで”できなくなってしまったら今度こそ誰からも必要とされなくなる 。
両親は俺にどうして欲しかったのかな。
両親は厳しかった 学校の成績以外何も認めてくれない人間だった
そんな両親の期待に応えようと真面目に生きてきただけなのに何かを見失ってしまった
勉強ができて得した事なんてなかった 万年クラスに1人はいるガリ勉ポジションで人から尊敬されたり必要とされることなんてほとんどなかった
好きな女の子にも振られた というか1度も恋愛が成就した試しがなかった ブサイクで根暗なガリ勉より明るいスポーツマンの方がイケてるからだ そんなん当たり前だよな
しかしそれさえも最近疑っている もしかしたらこの目標は俺のものではなくて、両親の恣意が俺に干渉してきただけなのかもしれない と
結局 他人が必要としていたのは「勉強のできる俺」だった 何の取り柄もない俺が勉強“まで”できなくなってしまったら今度こそ誰からも必要とされなくなる
自分の意思とか存在価値とか そういうものを考える度に気が狂いそうになった 何回もリスカしたし家出もした この間は自殺未遂をした
それでも両親は泣くばかりで何の対応もしてくれなかった
俺、いい大学に入って幸せな人生送るために勉強してきたんだよな
俺より勉強してないやつもいっぱいいる、偏差値が低いやつもいっぱいいる でもきっと幸せなのは多分そいつらの方なんだよな つくづくそう思う
幸せって何なんだろうな 感情とかやりたいこととか押し殺して 自殺未遂までしてようやっと得られる大層な物だとは思えないんだけどな
両親は俺にどうして欲しかったのかな
.
下の兄弟が自閉症で、健常者であった私は両親から凄く期待をされていた。親の悩みを聞き、兄弟の面倒も見て、家事も手伝い、そんな日々が続いていった。
そんな私が発達障害と判明したのは、うつ病になってからだ。それまでは、行動が少し変な健常者として、苦労しながらも過ごしてきていた。
本当に、両親の期待を裏切ってしまって申し訳ないと感じる。「早く結婚を」「子供を」と言われてきていたのに、うつ病になって発達障害と判明して、全て裏切ってしまった。
期待をさせてごめんなさい。
けれども、自分はとても楽になった。期待されなくなって、無茶な要求も少なくなって、心底安心している自分もいる。
私にかけた労力や金銭、時間や苦労、その事を考えると、こんな役に立たない奴は早々にいなくなった方が良いだろうというのも分かってはいる。ネット民が障害者へ「はやくしね」と書いているのも納得だ。
けれども、死ぬ事ができなかった。うつ病で希死念慮持ちで、首を吊ろうと何回もしたけど、上手くいかなかった。川に行っても飛び降りることもできなかった。
死ぬ事も生きる事も上手くできないなんて、私はなんて不器用なんだろうか。それでも、今は私は幸せに過ごしている。
これからも、この後悔と申し訳なさを抱えて、しばらく生きていくんだろう。役立たずだと後ろ指をさされながらも、自分の幸せを信じて生きていくんだろう。
死ななくてごめんなさい。
それでも私は生きていきたいのです。
子供がどーしようもない事例の全てが親のせいとは限らないが、本件の場合は全面的に親のせいな可能性が高いんじゃないかなぁと私は思う。
引きこもりの人の生まれ持った、社会に適応し難い性質が少なからず影響しているとしても。
要は親の期待が過剰だったんだろう。
引きこもりの人がよちよち歩きかそれ以前から、この月齢ではあれが出来てないとダメ、これが出来てないとダメっていう強迫観念に駆られて育てて来ちゃったんじゃないの?
今もアラサー男子たるもの一人前に会社に勤めて結婚もし、孫の一人や二人こさえてくれるのが普通だと、思ってるんじゃないの?その親達。
つうか、そう思ってなかったら取引先の会社の社員まで動員して息子を外界に引っ張り出そうとは思わないよね。
アラサー引きこもり男に必要なのは叱咤激励の類いでも社会的強者になれそな職の資格でもない。無条件の承認、ただ生きている事自体への祝福、そういうものだ。お父さんお母さんにとって掛け値なしの宝物だという事だ。
ただ、両家顔合わせが済んでいない。
顔合わせしようと求めても応じない。
1年。今から1年は無理。「気持ちが伴わないから行きたくない」ということも言われた。
40過ぎの人が「今年ゎ無理」という「ゎ」を多用しながら打ってきた。
色んな意味でガックリ来た。
溝を深めたくないのであれば、婚姻は来年にすべきってのも分かる。
私の親は「今年」と決めていた。同棲から1年程度で結婚すべきと条件をつけていた。
親も「もうそろそろか」と思っていた矢先、顔合わせすら無理という結論に至った。
私の両親は悲しいだろう。そして、彼親は違う意味で悲しいんだろう。
顔合わせって祝い事か……?
両家でご飯食べるだけなのに? もしや、外食も行かない、古いしきたりの家か?
でも、お墓も持ってなかったし、仏教でも何教でも無かった。
気持ちは分かるんだけど、こちらの気持ちを踏みにじっているのは分かるのだろうか。
「申し訳ないんだけど」の一言も何もなく「無理」と却下され、さらには
「お祝い事できる気分じゃないから」で終わらせる。
そんなにお気持ちお察ししないといけない??
私と、私の両親の期待を踏みにじっているのに、一番の被害者面して楽しい?
こちらの祖母も亡くなっているけど?(祖母の希望は私が早く結婚することだった)
悔しい。どうにもならないし、どうにかなる問題でも無いから悔しい。
ムカツク。
彼に当たったって仕方ないけど、彼にキレてケンカもした。
彼が彼母に言ったところでどうしようもないという結果は分かってるけど、
イラつきすぎて昨日死にたくなった。本当は死にたくないけど首絞めたりした。
痛くないのであれば、消えたいとも思った。
単にストレスが溜まって爆発しそうなんだろうけど。
あー、何もかも嫌だ。
今度仕事休もうかな。