はてなキーワード: 矯正とは
かくいう俺がその赤ちゃんとセックスしたい願望を持ってる男なんだけどさ
生物って遺伝子を次世代に遺すのが本能みたいなとこあるじゃん。
ぶっちゃけ赤ちゃんに興奮する理由とか俺にもよくわかんない。大半の人間が異性とセックスしたがるのと同じように理由とか必要なの?ってくらい俺にとって当たり前のものだから。
考えたら同性愛だって遺伝子を遺すって文脈で考えたら意味不明だ。でも同性愛を治療するっていう目的で研究する科学者とかいないよな。まあ需要なさそうだしそもそも同性愛を異常とすること自体先進国ではタブーだもんな。
俺も同性愛は別に俺にあんまり関係ないからどうでもいいけど俺が赤ちゃんに興奮するのと同じように女全般に対しても興奮できるようになる治療方法があったらそれは受けると思う。薬物治療だろうと外科治療だろうとよほど高額でもなければ受ける。
それか赤ちゃんサイズの精巧なセクサロイドでもいいから早く作ってくれないかな。需要ないから無理か。本当に性のマイノリティって生き辛い世の中だよな。
巷で人気のLGBTの仲間に入れて欲しいとか思わないし俺の願望を認めて赤ちゃんとセックスさせろとも思わないけど、俺みたいな性のマイノリティがどうして存在するのか、どうやったらノーマルな性志向に矯正できるのか、みたいな研究やってほしいわ。
そしたら俺率先して被験者になる。
それが無理なら赤ちゃんと自由にセックスできる世の中に行きたいわ。
SFみたいな話だけど人口子宮が普及した世界でそこではクローンの赤ちゃんがコンビニのおにぎり感覚で買えるのな。
育ててもいいし犯してもいいわけ。
そういう世界に行きたいわ。
まあどうせ俺が生きてる間にどうなるわけもないんだろうし、この願望は永久に達成されないんだろうな。達成されない方が社会的には望ましいんだろうけど、だったらせめて治療法を……と思うのは我が儘なのかな。
なんで発達障害って淘汰されないのかなあ。
淘汰圧がなかったからだが、どうして淘汰圧がなかったのか、考えてみる。
適当に思いついた仮説「昔は人権を無視した矯正がされていたから」
今でこそ、子供の人権は重要視され、親や教師がたとえ教育目的であっても、
子供を殴ったら警察沙汰になるが、昔は鉄拳制裁が当たり前だった。
そのような時代においては、たとえ発達障害の気質を持った人間であっても嫌でも周りに合わせることを覚える。
そして、曲がりなりにも空気を読めるようになった、発達障害の気質の人間は持ち前の論理的思考とも合わせて社会の中で何とかやっていけた。
繰り返すが、根拠のない話だ。
自分は意思疎通に齟齬が生じる事が多い。あまりにも多い。そのせいで参っている。
自分が人に言っていることが伝わらないことにもストレスを感じるが、それ以上に自分が人の話を正確に理解できないことにもストレスを感じる。
どう考えても上記問題は周りの人間ではなく自分のせいなのだが、自分が言う側については一生懸命準備したり、わかりやすく話すための努力をすればなんとかなる(と信じている)が、問題は逆側。
誰かの発言を自分がなぜそう理解したのか、なんてわからないし、それを改善したいね、と考えてもどうすれば良いのかなんて全然分からん。発言の理解の仕方を矯正する方法があるならぜひ教えてくれ……。本当に参っている。
こんなの書いてある。治りますように。
顎変形症を治すには外科手術が必要だと言われましたが、矯正歯科治療だけでは無理なのでしょうか?
http://www.jpao.jp/10orthodontic-dentistry/1015consultation/06-adult-start/adult-q09.html
ずっと好きでいるみたいなこと、気軽に言うなよ。信じちゃったじゃん。
信じちゃったから、あなたのこと、嘘つきって思っちゃったじゃん。」
以上の、この記事のまさに核心と言える部分の4文。増田お前...一度好きになったものはずっと同じ熱量で好きでいろと、本気で言っているのか?自分もそうしているのか?増田には前ジャンルがないのか?前ジャンルの作品も同じペースで生産し続けているのか?もしそうだとしたら、いつか許容量超えしないか?つまり、増田の望みを叶えることは、物理的に無理なんじゃないか?って言いたい。
小さい頃から好きだった食べ物を死ぬまで変わらずに好きで、なおかつ同じ生産者にコンスタントに金を落とし続けるなどの「(増田にとって)信頼感ある」行動まで必要で、それができる人間以外は増田にとってはみんな「嘘つき」なのか。いやもうこの世の全員が嘘つきだし、増田にとっては「信頼できない存在」なんだな。
他人の好きな物が変わり、その行動が変わったことに対して、誠意?などの倫理観まで踏み込んだ感情をいだくというのは、実年齢(想像)と噛み合っていない精神性を感じる。
自分の好きな人が、自分のために好きなことをしてくれなくなった。
その事実を「好きな人」の精神的欠陥のせいだ、と罵る感覚は、多くの人が幼児期〜児童期に折り合いをつける類の精神的葛藤だと思う。増田が小三くらい(この世界での滞在がまだ10年)だったらこの記事は最もだな、がんばれ!と思うが、文体からおそらく18歳以上と思われるし、いいかげん分別をもった思考をしてほしい。
「超お気に入りのお菓子の販売が終了した。メーカーは全然違う味で、似たような見た目の商品を販売しそれが大ヒット。私の大好きなお菓子は販売終了にしたくせに。メーカーが憎い。今までの宣伝や製造はなんだったの。一度作り始めたものは私のために永遠に作れ。メーカーは嘘つきだ。」商業製品と同人作品の違いは大きいが、同じ製品を何十年も作り続けることは本当に難しい。ミルキーとか森永のキャラメル、カプリコ、チョコモナカジャンボ、ガリガリ君、そういった錚々たるラインナップしか思い浮かばない。
そんな恐ろしいほどの数の支持と企業努力の果てに生産され続ける製品と、いち同人作家の生み出すいちカップリングの創作物との次元の違いを考えれば、増田の望む「半永久的なカップリング愛」というのは、そもそも無理な話であることがわからないか?
あと、個人的に気になった点だが、増田はその神と同じカップリングで創作していたんだよね?同じカップリングものとして、尊敬する神をフォローするのはふつうのことだし、そこから交流が始まって、神のAB熱を刺激することで、神とABとの関係もまた変わったのではないかと思うとすごく勿体ない。そこまで神に期待するなら、読み専ならともかく、書き手であるならさっさと好意を表明して、物理的な囲い込みをダメ元でも試みるべき。
なんの努力もしないで相手を嘘つき呼ばわりするって、そうとう危険な思想だと思う。増田は自分をやべぇやつと認識しているようだが、「やべぇ」の内訳をしっかり把握して、矯正したほうがいいと思う。そんな幼稚なクソデカ感情をかかえて生きていて、友達や職場から弾かれていないか?とか勘繰ってしまう。同人活動における自分の異常な(少なくとも平均からかなり外れた)感覚や行動を材料にして、人間としての成長に繋がる自省をしてみることを強く願う。
アホなものはスルーする力が身につく。アカンやつには触れない力が身につく。
周りの人がみんなそれに触れてても、自分は自制する精神力が鍛えられる。
程度の低い言説ってのは、いくら叩いてもなくならないんだよ。
人間が生まれ続ける限り、学の足りない状態にある人は一定数いる。
今アホぶっこいてる人間も、叩かれようが叩かれまいが一定年月を経れば大半は洗練された考え方を自然ともつだろう。
その過程状態のものをいくらか間引きしたとして、何になる。徒労でなくてなんなのだ。
一定の地位にある人が失言したとかなら、それは大いに批判されるべきだ。
だがネットの有象無象を矯正していくこと、それらが一切見逃されず全員抹殺される環境にすること、
そんなことよりも、個々がネットの扇動的な言説に容易には惑わされない知性を備えるよう、脳を鍛えること。
世の中には知性の階層があることを知り、ネットは階層が混ざり合う場であることを熟知し、自覚すること。
そういうことによって得られる、慎重さや言葉遣いの繊細さ。
何かの犯罪者がいた場合、その犯罪者自身に対して「批判や罰を与えたい」という気持ちは分かる。
しかし、何も犯罪を犯していないその家族まで攻撃するのは、度を越しており、容認されるべきではない。
罪のない者まで罰しようとする社会があるとすれば、刑法が形骸化しており、それはまともな社会とは言えない。
犯罪者の家族だったというだけで、犯罪者と同等の扱いをしてしまうのは、刑法の理念に照らし合わせて、妥当だと言えるのだろうか。
否。当然間違いであると言わざるを得ない。(もしそんなことが認められるなら、刑法が存在している意味がない。)
日本人やドイツ人、イタリア人は、敗戦によって戦勝国から非難され、賠償請求をされてきた。
本来、日本人なら反論できない立場に置かれている人の気持ちが理解できて当然のはずだ。
しかし、敗戦後の日本は弱い立場に置かれている無実の人々を叩きのめして、ストレスを発散する社会になってしまった。
かつての日本人と同じように反論できない人々を、今度は自分達が叩きつぶす側に回ってしまった。
いつから、敗戦の苦汁を忘れて、ふんぞり返るようになってしまったのだろうか。
綺麗事を抜きにすると、人間は感情ではなく論理で考えることが難しい生き物だと思う。
傲慢になって、弱い者イジメに勤しんでいる日本人がいたら、その捻じ曲がった性格を矯正しなければならないだろう。
「児童相談所 拉致 静岡市」などと検索すれば、当事者(親)が発信する記事を閲覧することができる。Twitterで実名発信すら行っている。
彼らの主張と、裁判所の認定事実とを対比しながら読めば、恐ろしさが伝わってくると思われる。
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判 決
(第1,第2 省略)
第3 争点に対する判断
前提事実に加え,後掲の証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 原告Q1は,原告Q2及びQ9との同居を始めた平成19年2月頃,Q9が時間を守らないこと,嘘をつくことを矯正させる必要があると考えて,原告Q2との間でQ9へのしつけの方法について話合い,その結果として,原告らは,Q9が小学校に入学した同年4月頃から,Q9が上記の点について原告らの口頭での指導を守らなかった場合には体罰を与えることとした。
原告らの体罰は,当初は頭を軽く叩く程度であり,その後顔を平手打ちするようになり,同年6月頃からは,Q9に木製の子ども用バットを持ってこさせて,臀部をバットで叩くことなどがあった。
(甲4,75,原告Q1本人)
イ(ア)Q9の所属するクラスの担任であるQ12教諭は,平成19年4月頃,Q9の顔に痣があったことから,その痣について聞いたところ,Q9は,タンスの角にぶつけたと述べた。Q12教諭は,その後,Q9の顔の別の位置に痣があることを発見した。
Q12教諭は,同年5月下旬頃,Q9が忘れ物をして登校してきたため,どうしたら忘れ物をしないようにできるか尋ねたところ,Q9は泣き出して,自分で学校の支度をしていることのほか,原告Q1は殴るので恐いこと,原告Q2はQ9を守ってくれなくなり,原告Q1と一緒に怒ってばかりいるが,以前はそうではなかったことなどを述べた。そこで,Q12教諭は,Q9に対し,先生はいつも君の味方であり,先生が守ってあげるなどと述べた。
原告らは,同月31日,本件小学校の担任教諭と保護者との間での連絡帳に,Q9から,先生が守ってあげるという発言があったと聞いたが,その発言の真意の確認を求める旨の記載をした。
(イ)本件小学校のQ13教頭は,同年6月5日,原告ら宅を訪れ,原告らと面談した。その際,Q13教頭は,虐待の疑いがある場合についても適切な対応をとる必要がある旨述べ,原告らは,今までQ9はしつけを行われずに育ってきており,Q9を良くするのは今しかないこと,しつけの方針として,悪いことをしたら殴ること,虐待を疑っていることは理解していることなどを述べ,Q12教諭の上記(ア)の発言について,Q12教諭からの直接の謝罪を要求した。これを受け,Q13教頭は,一旦本件小学校に戻り,Q12教諭と共に再度原告ら宅を訪れ,Q12教諭の上記(ア)の発言について,誤解を招く発言であったとして謝罪した。
Q9は,同日以降,Q12教諭に対し,先生が来てくれてから殴られなくなったと述べた。
(ウ)Q9は,同年6月29日,右大腿部,右肩に赤色の跡があり,Q12教諭が,Q9がプールに入る際にその跡について聞いたところ,Q9は,原告Q2から叩かれたと述べた。
また,Q9は,同年7月2日,右目の下部に痣があり,Q12教諭からその痣について聞かれたところ,原告Q2に殴られたと述べたが,Q13教頭からその痣について聞かれた際には,Q9は転んで怪我をしたと述べた。そこで,同日,Q13教頭が原告ら宅に架電したところ,原告Q2は,Q9が2日続けて許せない嘘をついたことから原告Q2が殴った,私も人間だから感情的になると述べた。
原告Q1は,同月3日,本件小学校に架電し,Q13教頭に対し,原告らは冷静にQ9をしかっていること,同じ状況であれば原告Q1であっても殴っているはずであり,原告Q2も同じ方針であることなどを述べた。これに対し,Q13教頭は,殴らないで育てることをまず考えるべきであるなどと述べた。
(エ)Q12教諭は,同月4日,原告らから,本件小学校の教育方針等についての意見が記載された手紙が送付されたため,同日午後3時頃,原告ら宅を訪問した。その際,原告ら及びQ12教諭が居間にいて会話をしていたところ,原告Q2は,一旦居間を離れてQ9の部屋に行き,Q9を叩き,居間に戻ってきた際に,「今私,Q9のこと,叩きましたから,守って下さい。叩きました。嘘ついたから。」などと述べた。
その後,本件小学校のQ14校長,教務主任及び生徒指導主任が原告ら宅を訪れ,原告Q1から,学校で行う教育と家庭で行う教育の区別をしたガイドラインを示してほしいという要望があったため,Q14校長がガイドラインを示す旨述べて,同日午後8時30分頃にQ14校長らは原告ら宅を離れた。
(甲11,17,18,乙ろ2の12,乙ろ15,証人Q13)
(2)本件一時保護に関する経緯
ア Q14校長は,同月6日,静岡市教育委員会に対し,前記(1)イの経緯を報告した。静岡市教育委員会は,同月10日,静岡市α区の要保護児童対策地域協議会(児童福祉法25条の2参照)の定例実務者会議において,Q9を要保護児童として提示し,Q13教頭が前記(1)イの経緯をまとめた報告書(乙ろ2の12の1ないし6丁)を提出した。上記会議に出席した静岡市児童相談所の所員は,同日,本件小学校に対し,Q9は保護を要する児童であるため,今後Q9に痣等があった場合には児童相談所に通告するように指示した。
イ Q9は,同月13日の登校の際,左顎及び左目下部に痣があり,Q14校長がその痣について聞いたところ,Q9は,嘘をついたことを原告Q1に怒られて殴られたと述べた。そこで,同日「Q14校長は,静岡市児童相談所に架電してQ9について通告した。また,同日のプールの授業の際,Q9の大腿部及び背中に痣があることが確認された。
静岡市児童相談所は,同日,上記通告を受け,子ども虐待対応の手引き(平成19年1月23日付け雇児総発第0123003号厚生労働省雇用均等・児童家庭局総務課長通知。乙ろ2の10)及び静岡県中央児童相談所等作成の家族支援ガイドブック(乙ろ2の11)に基づき,上記アの会議に参加していた所員等による緊急受理会議を開催し,Q9に行うべき支援及び援助の内容を判断するための虐待処遇アセスメント指標(乙ろ2の6)で判定をしたところ,虐待の程度は,5段階の上から2番目(打撲,広範囲の軽外傷等)であり,調査格付は,生命を脅かす(又は高い可能性がある。)状態として,直ちに立入調査を行うこととなる「R-1」と判定された。また,静岡市児童相談所のQ15主任主事(ケースワーカー)等の所員3名が,本件小学校に立入調査をして,Q9の顔から足にかけて痣があることを確認し,Q9に聞き取りをしたところ,Q9は,原告らからは,Q9が時間を守らないという理由で毎日殴られること,原告Q2の方が多く殴ること,原告Q1からはおもちゃのバットでいろいろなところを殴られ,原告Q1から殴られた際に血が出たことがあることなどを述べた。静岡市児童相談所は,上記立入調査をした所員からの報告を受け,上記虐待処遇アセスメント指標及び所員の合議に基づき判定をしたところ,Q9の支援・援助格付は,直ちに一時保護が必要となる「AA」と判定された。
静岡市児童相談所長は,Q9に痣があり,Q9も原告らから殴られていることを認めたこと,本件小学校から,家庭訪問をした後も原告らからの虐待が継続していることが確認できたことに基づき,Q9を一時保護し(本件一時保護),その後に原告ら宅に架電し,原告らに対して本件一時保護をしたことを告げた。
Q9は,同日,静岡市立静岡病院のQ16医師の診断を受けたが,同医師作成の診断書には,「全身に打撲によると思われる皮下出血を認める」として,〔1〕両下眼瞼,〔2〕左顎部,〔3〕右肩甲骨上,〔4〕左大腿背側,〔5〕右下腿膝下部前面及び〔6〕両殿部について,「いずれも鈍器,または靴による打撲跡と考えられる」,「上記外傷について全治一週間と診断する」との記載がある。
静岡市児童相談所は,同日,静岡県中央児童相談所の一時保護施設にQ9の一時保護を委託した。
(甲11,乙ろ2の4ないし6・12,乙ろ15,16,乙は3の1・2,証人Q17,証人Q13)
(3)本件一時保護開始後の経緯
ア 原告らと静岡市児童相談所は,本件一時保護が開始された平成19年7月13日以降,電話等でやり取りをしたが,次のとおり,原告らは,Q9に対する体罰は虐待ではなく,親である原告らの意思を無視して本件一時保護を継続することは不当であるとの意見を繰り返し述べた。
原告Q1は,同月20日,静岡市児童相談所のQ15主任主事との電話で,虐待はしていない旨述べ,暴行が肯定されると考えているかとの質問に対して「ええ,肯定されますよ。当たり前じゃないですか」「一時的な感情だとかそんなことで虐待を繰り返してきているわけじゃないんだ」,「責任ある体罰っていうのだってあるんだ」などと述べ,静岡市児童相談所のQ18統括主幹との電話で,同月27日,「Q9をおたくらに任せますけど,やつが20歳ぐらいになったときにまともな,私らが考えているような大人になってなかったら,抹殺しますんで。おたくらも含めてよ。」,同月30日,「子どもがこう,おれらの考えてたとおりに教育できなくなったときに,おまえらどういう責任とる。とらなかったときは,おまえ,リンチしてもいいか」,同年8月1日,「根本からお前らの育て方とか教育論が間違ってるのに,何で間違ってる奴らと俺らが話し合わなきゃいけないんだよ。」などと述べた。また,原告Q2は,同年7月23日,Q18統括主幹との電話で,「私達は少なくとも体罰は体罰だって考えてるんですね。私の思う虐待と言うのは自分の憂さ晴らしですね。」,「体罰っていうのは暴力とは違う」などと述べた。
静岡市児童相談所のQ19主任主事(心理士)及びQ15主任主事は,同月20日から同年8月31日まで,一時保護施設を訪れてQ9と面談,行動観察,心理テスト等を行った。Q9は,同月8日以降の面接で,原告らと会いたくなく,施設から帰りたくない旨訴えた。Q19主任主事は,Q9について,同年9月20日開催の静岡市健康福祉審議会児童福祉専門分科会児童処遇審査部会に「現段階では,本児の家庭に対する拒否感が強く,両親と距離を置き,守られた環境下で,本児の話に耳を傾け,個別には母性的で受容的な対応が望まれる。」,「これまでの養育環境により本児の情緒面での成長が阻害されてきた結果が示されており,今後,両親の養育態度に改善が望めないようであれば,家庭との分離はやむを得ず,児童養護施設への入所が適当であると考える。」との心理診断の結果を提出した。同部会では,Q9の入所措置の承認を求める申立てを行うことに異議は出なかった。
静岡市児童相談所のQ20所長は,上記の原告らの発言,心理診断の結果及び上記部会の結果を踏まえ,原告らによる暴力が継続される可能性が高く,Q9も帰宅を拒否していることから,児童養護施設への入所が適当であるとして,同年9月25日,入所措置の承認を求める申立て(本件申立て)をした。
(甲11,14,乙ろ7の1ないし7)
イ 原告らは,同年9月28日,静岡市児童相談所を訪れ,Q20所長,Q17参事(平成20年4月1日に静岡市児童相談所長となった。以下「Q17」という。)等の所員と面談した。この面談の際,Q20所長らは,本件一時保護の経緯や,Q9については児童虐待防止法2条1号所定の暴行が行われたものと判断していると説明したが,原告らは,「体罰と虐待はこれ別物ですから」,「しつけの段階で,あざができるほどたたかなきゃいけなかった」などと述べてQ9の返還を求め,静岡市児童相談所はこれに応じなかった。
(甲9,10,乙ろ7の10)
ウ Q20所長ら及び原告Q1は,本件承認審判及び本件勧告がされた後である平成19年12月21日,静岡市児童相談所で面談した。原告Q1は,本件承認審判の「二度と虐待に該当するような体罰をさせない」という文言から,虐待に及ばない体罰については容認されたものと解釈している,体罰を主体にしない努力はするが,目的によっては必要なこともあるなどと述べたのに対し,Q20所長は,しつけ自体を否定するわけではないが,体罰を伴うしつけは子どもに心理的な影響があり好ましくない,本件勧告を受けて,静岡市児童相談所からの原告らに対する指導方法について年明けに提案する旨述べた。また,原告Q1が,原告らがQ9の通学している安西小学校に面会等を申入れることは問題となるか確認したのに対し,Q20所長は,今の状態だと問題となる旨述べた。
静岡市児童相談所は,平成20年1月頃,上記の提案として,Q9と原告らの家族再統合に向けた「ご両親への支援プログラム」(以下「支援プログラム」という。)を作成した。支援プログラムでは,〔1〕目標は,「Q9君が安心して生活できるような家庭づくり。」であり,〔2〕方法として,原告らが静岡市児童相談所を訪れ、概ね1か月に1回2時間程度を目安に面接を実施し,面接以外にも課題の提出をお願いすることがあること,〔3〕2月から3月頃にQ9の気持ちを確認し,写真やビデオレターなどを通した親子交流を始めること,〔4〕Q9が原告らに会いたいという気持ちを確認し,5月から6月に児童相談所内で原告らとQ9との面会を実施し,6月から7月初旬に親子での外出を実施すること,〔5〕面会・外出時の親子の様子,Q9からの外泊希望を確認し,児童相談所所員による家庭訪問を実施した後,7月初めに家庭への外泊を開始すること,〔6〕外泊が繰り返される中で,良好な親子関係が認められ,引取り後の支援のあり方について共通理解が得られれば,家庭引取りとなることが記載されている。
Q20所長ら及び原告Q1は,同年1月11日,静岡市児童相談所で面談した。静岡市児童相談所のQ21心理士が支援プログラムについて説明するなどしたところ,原告Q1は,支援プログラムは本件勧告を無視したものである,原告らは体罰をしているのであって虐待や暴力ではない,一時保護自体間違っている,おれは日常生活の中で普通にやっていく中で必要であれば絶対体罰は使う,まずはQ9を帰してもらいたいなどと述べた。そこで,Q20所長は,再度提案をする旨述べた。
Q20所長ら及び原告Q1は,同月24日,静岡市児童相談所で面談した。Q17が,本件勧告に基づいてQ9を帰宅させるためには,虐待に該当するような体罰はしないことが条件になる旨述べたところ,原告Q1は,裁判所は原告らが虐待をしていないと認めており,Q9をすぐに返してもらった上で静岡市児童相談所による指導を受けるというのが原告らとして譲歩案の全てである,静岡市児童相談所が原告らの意見を聞かずに一方的な主張をしているなどと述べた。
(甲9,10,乙ろ5の2,乙ろ7の11・12)
エ Q9は,平成19年12月31日,静岡ホームで転倒して頭を打ち,CT検査をしたが,脳に異常は認められず,頭部挫傷と診断された。
静岡市児童相談所は,原告らに対し,上記転倒事故を通知せず,原告らは,平成20年3月7日に静岡市個人情報保護条例に基づき開示を受けた文書により,上記転倒事故の発生を認識した。
(乙ろ1)
オ 原告Q2は,同年2月1日,静岡市児童相談所に対し,Q9の毎日の詳しい言動や様子を報告しない理由等の回答を求める質問状を送付した。また,原告らは,同月8日,静岡市児童相談所を訪れ,本件抗告棄却決定に対して特別抗告を申し立てた旨伝えるとともに,親権を行使するとして,Q9の毎日の一時保護施設及び小学校での言動を報告することを求めた。さらに,原告Q1は,一時保護期間の7か月でQ9の身長が2.4センチメートル,体重が1キログラムしか増えていないという理由で,Q9への精神安定剤等の投与を疑
自分は九州のど田舎で、貧乏な家庭の3人姉妹の真ん中として育った。親は亭主関白な父と専業主婦の母。どちらも高卒。
父は癇癪がひどく、酒を飲むと寝てる自分を叩き起こして往復ビンタした。貧しい中、両親共に家におらずご飯が与えられなかったこともある。いつもお腹が空いていて、友人が多かった自分は友人宅でおやつをたくさん食べさせてもらっていた。そのおかげでしっかり成長できたと言っても過言ではない。病院にも行かせてもらえず、ネットが家にひかれているはずもなく子供部屋は6畳で3人一部屋だ。
父に溺愛されている妹、普通の姉、嫌われている自分というあからさますぎて認識できるレベルの差別はあったが姉妹の仲はよかった。
父から嫌われていた理由は自分で考えるに下記2点。自分は父であろうと間違えていると思うことに同意しなかった。また、勉強がよくできたところも嫌味にうつったのかもしれない。
父は自分に過大な要求と思われるものを突きつけ、自分が達成できると、ふーん、で?といった態度をとり、達成できないと喜んだ。要求内容は中学の頃は常に5教科のテストで490点取れだとか、高校の数学のテストで常に満点取れだとか。
また、父は異様に自分を縛った。溺愛されている妹はそんなことはなかったが自分の門限は高校生になっても17時半だった。
貧乏なので部活はお金がかかると禁止され、読書と勉強だけしていた。私立高校は受験料が高いため受験できず、あわや中学卒業と共に浪人生か、という危機と隣り合わせだったものの、なんとか高校は県一の進学校に入学できた。県立高校であるが授業料が払えず奨学金を借りた。大学もなんとか都内の有名大学に進学できた。もちろん奨学金で授業料や生活費を賄った。
大学に入ってから周りの家庭環境のレベルの高さを知りしんどかった。社会福祉の授業中、貧困層の話になり、自分のこれまでの生活よりはいい生活をしてる例が出てきて苦笑。教授が、ここにいる君たちには想像がつかない生活かもしれないが君たちがこういう日本の現状を変えるんだ、なんて言い出してさらに苦笑。児童虐待の話では、親に叩かれたことはあるか?という話になり、ある子が「一度だけ本当に私が悪いことをして叩かれました。その時は叩いた親も泣いていて、今でもその時のことはちゃんと親も自分も覚えてます」なんて言ってて、ああ、本当に素敵な家庭で育ったんだな、と。
格差はどこまでもあった。格差というのは金銭的な話だけでは終わらないものだ。金銭的な問題だけなら何とか乗り越えられるけれど、教養の壁、人脈の壁、知識の壁が非常に厚かった。パソコンを人差し指で入力する自分と当然ブラインドタッチの同級生、論文の調べ方もわからず、図書館に籠る日々。1年間留学に行く同級生、親のコネで就職先を決める同級生、たくさんのお店を知ってる同級生、たくさんの遊び方を知っている同級生、たくさんの将来の選択肢を知っている同級生。たびたびお嬢様でしょと同級生からからかわれたが、ガチガチに縛られていたから世間に疎いだけで、ただの貧乏人である。心が折れそうな日々を過ごした。
社会人になり、自分は自分の人生を取り戻そうと努力した。自費で歯の矯正をして、運転免許もとり、箸の持ち方も矯正し、家に仕送りをし、奨学金を返済し、働きながら専門職の資格を取得し、給料の高い職に転職し、同じ大学を卒業した同級生と結婚し、都内に家を購入した。結婚後は仕送りを辞め親とは2年に一度しか会っていない。
社会人以降トントン拍子で人生が進んでいったように自分でも思えるが、ひと段落ついた今、自分が何をしたいのか見失っている。
自分は得られなかったものを得ようと抗った結果ここにいるが、それが自分が本当に欲しいものだったのかよくわからないことに気づいてしまった。
今の自分に対し「よっしゃー!私はあの生活からしちゃ、大出世だぞー!!!」なんて充実感はなく、当然あるべきだったものが自分にはなかったから装備した、ような気持ちしかないのだ。
では、装備が整ったからといって自分が向かう先はどこだろうか。
自分はこれが好きだ、とか、こうしたい、とかは特にないまま、得られなかったものを得たいというだけでここまできてしまった。
もし、なんて話は嫌いだ。けど、もし、小さな頃に父親が正常な精神を持っていて自分のことも好きになってくれていたら、何か違っていたのかな、もしお金持ちで教養のある親に育てられてたら、何かちがっていたのかな、なんて。
お前は社会を代表するような存在、あるいは日本政府の化身か何かなのかね?
見ず知らずの他人に義憤をぶつけて世の中が良くなると思うのは幻想で、次々と際限なく湧いてくる泡を潰し続けて人生を終えたいなら勝手にしたらいいが、お国のためみたいな意識をもってる人間ならなおのことそんなのは無視して自分の仕事に集中した方が社会のためになる。
際限なく湧いてくる泡を潰し続けて人生を終えたいなら勝手にしたらいいが
お国のためみたいな意識をもってる人間ならなおのことそんなのは無視して自分の仕事に集中した方が社会のためになる。
おっしゃる通り
人生生きていく内に学習して誰もが矯正しだから不祥事を起こすような人がちょくちょく見られる世界というのは全体として健全である証拠で、
それはないです
個別にその人らの悪い部分を取り沙汰してネチネチ責めるのような、愚かな週刊誌のような空気が蔓延したら社会は閉塞するし、多様性が失われ、監視がまし、不寛容が増長し、それは他国へ向き、戦争になって国民を殺していくようになるだけなんだよ。
これもないです
日本には、「仕方がない」という文化があります。抗えない自然や変化に身を任す文化です
併せて、「水に流す」という文化があります。白黒区切りをつけて赦すを実地せず、モヤモヤさせたまま時の流れに放り込み忘却を試みます
お前は社会を代表するような存在、あるいは日本政府の化身か何かなのかね?
見ず知らずの他人に義憤をぶつけて世の中が良くなると思うのは幻想で、次々と際限なく湧いてくる泡を潰し続けて人生を終えたいなら勝手にしたらいいが、お国のためみたいな意識をもってる人間ならなおのことそんなのは無視して自分の仕事に集中した方が社会のためになる。
そもそも他人をこき下ろす義憤エンタメがオナニーでしかないと気づかない人は、その非難されているような人に誰もがなりえて、一人叩きのめしたところで何も変わらないことに関する想像力が欠如している。
誰もがああいうやらかし経験や傲慢さや至らなさを持っていて、人生生きていく内に学習して誰もが矯正していくにすぎない。それが早いか遅いか、学生のうちに聡くなるか、出世して重役について失敗してからきっかけを得るか、その違いでしかない。
その学習も、他人のふりをよく見ていて自分がしでかした時に一発で学習できる人もいれば、一直線に進んできたから周りが見えておらず、チャンスをいくつか貰っても学習するに至れない人もあり、個人差が大きい。
でもそういうバラつきは、必要なことなんだよ。後者のような人は、そうやってきた分だけ別の何かに秀でている。ニュースで取り沙汰されるような地位にきた人なら尚更だ。
全員が人格者の世界なんて洗脳でもしないと成り立たず、それはそれで社会のダイナミクスが大いに失われた社会になるだろう。
だから不祥事を起こすような人がちょくちょく見られる世界というのは全体として健全である証拠で、個別にその人らの悪い部分を取り沙汰してネチネチ責めるのような、愚かな週刊誌のような空気が蔓延したら社会は閉塞するし、多様性が失われ、監視がまし、不寛容が増長し、それは他国へ向き、戦争になって国民を殺していくようになるだけなんだよ。
キレやすい人とそうでない人の差は何なのか?
そう思うには理由がある
いつか見たTVのドキュメンタリーで、アメリカでは手に負えない凶暴な子供の性格を矯正する施設があって、凶暴な子供が大人しくなるまでの経過を写した番組だ。
番組の最終的な結論は、子供が日常口にする食べ物に原因があると言っていた。
つまり、人間の性格も普段から食べてるもの、何世代もかけて食べているものが影響しているのではないだろうか
すぐにキレそう
最近、日本人がキレやすいのも、牛肉食う人が増えてるからだと思う。
自分の知り合いにも、やたら短気な人がいて、聞いてみると牛肉が大好物らしい。
週5ペースで牛肉を食うと言っていた。
ほんとにたまたまだけど、なおみちゃんの最後の2ポイントだけリアルタイムで見ることができた。
で、それ見て思ったんだけど、あれ人種差別じゃない? どう見ても最初からフォルトじゃなかったよ。チャレンジするほどのレベルじゃない。チャレンジしてINだったから勝ちになったけど、あのジャッジした人間はなおみちゃんを差別していて、「こいつ勝つの許せない」って思ったんじゃないかな?
だから明らかにINなのにフォルトと判定した。恐ろしいことだよ。昔はこういう差別がたくさんあって、不正義がまかり通っていたんだろうね。今はちゃんと訂正できるようになった。
人類は科学技術によって倫理面も矯正されているんだね。科学技術の倫理的に悪い面ばかりが取り上げられるけど、こうやって正義執行もされているわけだ。
24才男子大学院生、修論もほぼ書けてもうすぐ卒業。内定もある。学歴と初任給だけ見れば相当いい方だと思う。けれど、大学6年間ですっかり心をやられてしまって、とてもじゃないが働ける気がしない。寝ても覚めても不愉快で趣味もろくに楽しめない生活を送ってる。自分語りして整理すれば仕切り直せるかなと思って書くことにした。
高校までは田舎で優等生やってた。学校の成績はいつも1位で、生徒会長やったりもして、不満はほとんどなかった。地頭はなくて数学の難しい問題は苦手だったけど、勉強はやっただけ成果が出たから、つらいと思ったことはほとんどなかった。今思うとどうしてあんなに勉強やれてたのか分からないし、「勉強しない」っていう選択肢を知らなかっただけなんだろうな。親や先生が褒めてくれるのが気持ちよくて望まれるがままに勉強してた。大学入試も難なくクリアして、いわゆる難関大学の情報系に進んだ。情報系を選んだのは、ブログの運営で少し触ったプログラミングがなんとなく面白そうだったから。当時はニュースでビッグデータがもてはやされていて職に困ることもなさそうだった。
大学1年目、高校の延長で真面目に勉強してたら自然と上のほうにいた。だけど、自分の周りでは、小学生からプログラミングやってて課題で褒められるやつとか、やたらレポートの内容が濃くて授業中に取り上げられるやつとか、無難に試験問題が解けるだけじゃない化け物がより目立っててかなり焦った。当時はまだギラギラしてたから、すぐにプログラミングの入門書とか買って自分で勉強した。幸い自学する力はあったから、大学から始めた人の中では頭ふたつ分くらい抜きん出たと思う。Twitterで自分が勉強した内容とか発信してかなりイキってた。ただ、自分でプログラミングを勉強していくのは結構しんどくて、月に何日かとにかく不快で何も手につかない日があった。自分はなんて頭が悪いんだろうとか、どうしてプログラミングを楽しめないんだろうとか、そういうことをぐるぐる考えてた。
大学2年目、先輩に誘われて一緒に小さなプロジェクトをやることになった。プロジェクトの過程で、プログラミング能力の低さとTwitterでイキてったのをめちゃめちゃに叩かれて人格がかなり矯正された。不健康気味だったメンタルが更に脆くなって自信とか自尊心がなくなったけど、プログラミング能力はすごく伸びたし、なによりあのままTwitterで井の中の蛙やってたらと思うとゾッとするし、トータルでは感謝してる。とはいえ、そのプロジェクトやってる間は大変だった。深夜にやってた萌えアニメを録画して起きてる間ずっとリピート再生したりしてた。今なら絶対に続けられないけど、当時は「つらいことをやめる」っていう選択肢を知らなかった。
大学3年目、自信を失ったなりに必死に勉強した。優秀な人の真似をしてみたり、流行りの技術に手をつけてみたり、自分の興味は二の次でひたすら迷走した。見かねた先輩に「君、意志ある?」と言われたのは今でも鮮明に覚えてる。意志はなかった。それでも、とにかく自信を取り戻したくて、別に面白くもないことを無理やり勉強し続けた。もちろん、当時は面白いと思い込んで勉強していたわけだけど。
大学4年目、研究室に配属され快進撃が始まる。たぶん人生で一番賢い時期だったと思う。きっかけはゼミの輪読。準備のために全部の定理を証明したり順序立てて説明する練習をしていたら一気に賢くなった。学校の先生がしきりに言っていた「論理的思考」がどういうことなのか分かって、頭の使い方が変わった。自分が急速に成長するのがわかって、すごく嬉しくて、それまでやっていたプログラミングを全部捨てて研究にのめり込んだ。指導教員は聡明な優しい方で、目の付けどころが良いと褒めてくれて更に研究が進んだ。今になって振り返ると、別に研究対象が面白かったわけではなかったと思う。一般に上手くできることは面白いし、人に褒められたら気持ち良い。ただそれだけのことだったけど、寸暇を惜しんで研究をした。眠りにつく直前まで研究のことを考えて、良いアイデアを思いついたら飛び起きてメモした。
年が明けて1月、卒論は早々に完成させた。同期が卒論執筆でひいひい言ってるのを横目に、ひとりヨーロッパに飛び、トップカンファレンスのポスター発表コンペで2位をもらった。賞金の300ドルは iPad Pro を買う足しにした。日本に戻ると、すぐに国際学会に出すための論文を書き始めた。1か月ちょっと、毎日10時間くらい研究室にこもって論文を書き続けた。2月末には30ページの英語フルペーパーが出来上がって、それがトップカンファレンスに一発で通った。割と流行りの分野だったし、近い内容の論文が同時にアクセプトされたりしていて、巡り合わせが良かったのだと思う。それでも十分に異常な成果だったし、このあたりでもう博士課程に進むことになるんだろうなと考えていた。
大学院1年目、アクセプトされた論文の諸手続きや発表準備をしながら次の研究テーマを探した。博士号をもらうには更に2本国際学会に論文を通す必要があって、1本目の論文が技術的にも精神的にも指導教員に依存していた自覚があったから、次のテーマは自分の力で見出したかった。指導教員からもしばらく迷走しなさいと言われた。たぶんここが分岐点で、ここで手厚い指導をお願いしていたら何か変わっていたかもしれない。当時の自分は、博士号取得に向けたアドバンテージを得たのを良いことに、時間をたっぷり使って自力で研究テーマを探そうと思った。手始めにここ30年くらいの関連研究を根こそぎリストアップしてひたすら読んだ。研究テーマを見つける最短経路ではなかったけど、一人前の研究者になるには歴史を知る必要があると思った。たぶんこれが大学生活最大のミスで、大して面白いとも思ってないくせに、何十ページもある論文をいくつもいくつも読み続けた。少しずつ、論文を読むのに飽きて、研究テーマをまとめる期限がせまって、メンタルがやられていった。
翌年2月、下宿のクローゼットに大きな穴が空いた。もう1文字も論文を読みたくない、研究テーマもろくにまとまらない、どうしたら良いんだって頭を抱えて家にこもってるところに、知り合いからしょうもない説教めいたメッセージが届いて目の前が真っ白になった。机を目一杯殴って立ち上がって、自分が座ってたゴツいオフィスチェアーをクローゼットめがけてぶん投げた。木が割れるすごい音がして、クローゼットに人の顔くらいの穴が空いた。そうするしか自分を守る方法は無かったと思うけど、引越しのことを思うと気が重い。そこまで追い詰められても、まだ教員に相談しなかった。初期の成果が異次元すぎて、それに見合う研究者にならなければいけないと思っていた。
大学院2年目の5月、自力で学振の申請書を書き上げた。めぼしい研究から無理やり話を広げてそれらしい展望をでっち上げた。内心、その研究が面白いとも有力な結果に結び付くとも思っていなかったけど、とにかく研究の段階を前に進めないと精神がもたなかった。指導教員にコメントをもらいながら、5000字くらいある申請書を10回書き直した。申請書を書いた後は、修士論文の影もちらついていたから、申請書に書いてある内容に沿って研究を進めることにした。もともと愛着も情熱もないテーマなのに、行き詰まって、読みたくもない論文を読み込んで、理論を改善して、というのを繰り返す日々が続いた。折れた足で無理やり走っているような気がした。足の骨を折ったことはないけれど。
同8月、ようやく研究が形になってきて指導教員とミーティングをした。それまでも月に1、2回は簡単なミーティングはしていたけど、理論も含めてしっかりと方針を説明するのは初めてだった。自分のメモを前に映して30分話して、色々と質問された後、この方針は厳しいねというような話が始まった。先行研究の流れを十分に汲んでおらず眉唾モノとのことで、一番近い先行研究を改善する方針を提案してもらった。教員からすれば僕の研究はいわば初稿、それを足がかりにして研究を広げれば良いと思って話をするのは当然だけど、僕からすると1年半の集大成が30分で水の泡になったわけで、たぶん致命傷だったと思う。事態の原因が自分の研究の進め方にあったことは理解していたし、現実問題として修士論文を書かなければいけないので、そこから2週間くらいは騙し騙し提案してもらった研究を続けた。
同8月末のある朝、起きたら研究をやめていた。あの朝の感覚を説明するのはすごく難しいのだけど、とにかく、自分の中の何かが壊れて研究をやめていた。研究をしたくてもできないなんてレベルの話ではなくて、きれいさっぱり研究をやめていた。研究をしなくてもなんとも思わないし、すごく不思議な感覚だった。そこから10月まで毎日ゲームをした。あんなに遊んだのは人生で初めてだった。途中、指導教員に「もう研究できません」といったメールを書いたところ、とても優しく対応してくださった。返信の言葉は適切でとても暖かく、もう数ヶ月早く同じ言葉を聞いていればさぞ励みになっただろうと思いながらゲームをした。成果にも指導教員にも恵まれていたし、とても貴重な機会を棒に振ったなと思った。
同10月、指導教員とミーティングをした。1ヶ月半ゲームをして療養したので、もしかしたら研究ができるかもしれない、という淡い期待を持って臨んだ。8月のわずかな進捗とその後の顛末を報告して、全く新しい研究テーマでやってみましょうということになった。参考文献を教えてもらって読み始めたが、アブストを半分過ぎたあたりで胃腸がギリギリ痛んで吐きそうになった。指導教員に「もう無理です、すみません」と泣きついて1本目の成果で修士論文を書くことを許してもらった。その後、就活をして内定をもらった。大学での成果を振り回して精一杯の虚勢をはったので、さぞ優秀な学生に見えたと思う。会社の内定と同じくらいの時期に、学振の内定通知も届いた。申請書に書いた展望はまるっと没になっているが、一体どんな素質を見出されたのだろう。
そうして今に至る。研究ではそれぐらいの挫折はよくあることだよ、とも言われたけど、それを乗り越えられるほどの情熱や興味はなかった。というか、乗り越えて平気な顔で研究を続ける人の方が狂ってると思う。努力は夢中に勝てないというやつ。何か夢中になれるものに出会いたいと思うけど、何かに夢中になりたいって言いながら年を取るんだと思う。何をやったとしても、上達するにはどこかで自分に負荷をかけて頑張らないといけない。そこで夢中でいるための気力を大学の6年間で全部使い果たしてしまった感じがする。つらいことや興味のないことを頑張りすぎた。
社会に出て働くわけだし、流石に関連技術を勉強しなければと思うのだけど、ひたすらつまらない。以前の自分なら、会社で評価されそうな技術を喜んで勉強したと思うのだけど、そういうギラギラした熱意は失われてしまった。たぶん研究に全部持っていかれた。どの分野もどの技術もつまらない。物事の細部や深い意味に立ち入りたいという欲求が一切湧いてこない。自分が知的好奇心の乏しい人間であることを痛感する。この状態で働き始めて、仕事を続けられる気がしない。毎日少しずつ自分が衰えていくのが分かってとても怖い。何か努力をしなければと思うけど、何をしてもつまらなくて30分ともたない。何も努力していないから、手放しで遊ぶこともできない。人生どん詰まり状態。早く仕切り直したい。