はてなキーワード: 校長とは
日々のつらさに耐えかねたのび太は、出木杉くんに相談を持ちかけた。出木杉くんはその協力要請をこころよく承諾し、のび太にこう助言した。
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剛田武くんは少し乱暴な子として職員室のあいだでも有名であった。しかし、公立小学校には様々な問題を抱えたクラスや複雑な家庭事情を持った生徒が数多く在籍しているため、教員たちは剛田武くんの言動にいちいち構っている暇はなかった。
いじめ慣れしている剛田武くんはひとの目に付かない暴力や強奪がうまく、クラスで大きな問題になることはこれまで一度もなかった。それは彼のいじめっ子としてのセンスのよさであり、また「剛田武は少し乱暴な生徒」というレッテルによって彼の乱暴性を個性として許されてきたところがあった。
のび太くんの声なき声を出木杉くんが拾い上げたのは、彼の中にある揺るぎない正義感に加えて、政治的な意味で次第に声が大きくなっていく剛田武くんに対して個人的に嫌気が差し始めていたからだった。のび太くんはそのことも承知の上で、助かるならなんでもいいという気持ちであった。
「でも、どうすればジャイアンに勝てるんだろうか」と弱気になるのび太に対して、出木杉くんはエリートらしい得意げな笑みを浮かべながら、もうひとつ踏み込んだ助言をした。
「ジャイアンに勝ちたければ学校を動かすしかない。学校を動かしたければ、世論を動かすのが有効だ。そして世論を動かしたければ、メディアを動かすんだ」
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出木杉くんはあくまでもクラスの内戦に過ぎないこの紛争を、"学校ごと"に格上げさせる方針を示した。
まず出木杉くんは友人である朝日くんに情報提供を行った。朝日くんは学校新聞の編集長で、学校新聞の編集室の中でもっとも発言力を持っていた。
出木杉くんはこれまでの剛田武くんによる悪行をまとめた資料(以下、デキスギ資料と呼ぶ)を朝日くんに手渡した。朝日くんはデキスギ資料に目を通しながら、出木杉くんに対してこう言った。
「確かに剛田武くんの行いは非人道的かもしれない。だけど、これくらいのことはどこのクラスにもよくあることだよ。それに、大きな声では言えないけど剛田武くんを敵に回すことは我々にとっても得策じゃない。我々学校新聞が報道することに意義を感じないね」
出木杉くんはその反応が返ってくることをわかっていたかのようにうんうんと頷く。
「確かに。朝日くんの言う通りだ。5年2組のちょっとした暴力なんて、学校にしてみれば裏庭で起きている猫の諍いみたいなものだろうね」
「じゃあどうして持ちかけたのさ、出木杉くんらしくないぜ?」
出木杉くんはその言葉には応えず、にっこりと爽やかに微笑みながら席を立った。
「とにかく、これからも連絡はするよ。記事にしたくなったらいつでも言ってくれ」
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のび太くんはこれまで殴られた回数や奪われたおもちゃの数を数えて、デキスギ資料をより具体的な数字で補強していた。それはもちろん出木杉くんの指示であったが、出木杉くんはそんな数字よりももっとセンセーションなものの必要性を感じていた。
出木杉くんはデキスギ資料の改訂版を何度か朝日くんに送っていたが、この日はたった一文だけを載せて送った。
「来週の朝礼で、野比のび太氏が剛田武氏に宣戦布告をします。」
毎週月曜に体育館で行われる朝礼では、校長先生のあいさつと各委員会からの報告が行われる。出木杉くんはのび太の所属する美化委員からの報告時間を巧みにハッキングすることで、のび太に宣戦布告を告げる機会を与える作戦に出た。
校長先生の定型的なあいさつが終わり、学級委員会から順に今月の報告が行われる。美化委員会の順番は最後であることは出木杉くんにとって都合がよかった。続いては美化委員会からのお知らせです、という進行役の声を合図にして、のび太くんが全校生徒の前に立った。
のび太は美化委員として、校舎前の花壇が何者かに破壊されていたことを報告した。本来であれば報告はここで終わりだが、のび太は続ける。5年2組の剛田武くんが教室の備品を勝手に持ち出したり、箒とちりとりを剣と盾に見立てて遊び、すぐに掃除用具を壊してしまうことを報告した。そして、剣のように振りかざされた箒によって、自分の肩や腹に青あざができていることを、お気に入りの黄色いカットソーをめくって見せた。体育館内がざわつく。
のび太の手足は緊張で震えていた。声も震えていた。しかし、出木杉くんにとってはそれも計算済みであった。全校生徒はのび太の震えを見て、緊張ではなく剛田武くんへの恐怖心を連想するはずだと確信していた。のび太の震えは、今まさに剛田武くんから殴られてきたかのようなリアリティを持たせていた。また、のび太の弱々しい外見が同情を引き寄せることも計算に入れていた。
教員たちが異常事態に気づき、近くにいた教員がのび太の近くまで駆け寄ってくる。だらだらと演説している時間的な余裕がないことを察したのび太は、演説の最後に剛田武くんを象徴する3つの行為「モノを奪う行為」「モノを壊す行為」「人に暴力をふるう行為」をまとめてこう呼ぶのだと強く訴えた。
「これはジャイアニズムだ」
*
朝礼は中断され、それぞれのクラスがぞろぞろと体育館を出て教室に戻っていく。その道中、全員が校舎前を通る。つまり、破壊された花壇を見るのだ。そして全員のこころの中で先程の言葉がリフレインされる。
「ジャイアニズム」
実際に花壇を破壊したのは出木杉くんであった。しかしあの朝礼が終わったあとに全校生徒が目撃する象徴的なものを壊すことによって、それが剛田武くんによる破壊行為であるかのように印象づけられる。それに、一見は百聞にしかずという言葉があるように、報告を耳で聞くよりも実際に破壊されたものを見てもらうほうが印象に残ると考えたからだ。
次の日には、学校新聞がのび太の演説をトップ記事として伝えた。ジャイアニズムというキャッチーな見出しもさることながら、これまで出木杉くんがデキスギ資料として学校新聞に送っていた剛田武くんの悪行が記事内容に厚みを持たせていた。のび太の演説と破壊された花壇は全校生徒が知っている。それ以外の皆がまだ知らない情報が載っていることにニュース性はある。新聞が貼られた廊下の前で、あれもこれもジャイアニズムだったんだと誰もが語り出した。メディアが動いたことで学校の話題は剛田武くんの悪行に一気に傾くのをのび太は感じた。
「ジャイアニズム」という言葉はあっという間に一人歩きをし出した。具体的な事実であろうがなかろうが濫用され、よくある単なるケンカではなく、ジャイアンという特別な力による暴力であると印象付けることに成功した。
剛田武くんは怒りに震え、一度教室でのび太の胸ぐらを掴んだことはあったが、周りの目が明らかに自分を悪者として見ていることに居心地の悪さを感じ、それ以降はのび太を無視するようになった。クラスだけでなく学校中から悪のレッテルを貼られた剛田武くんが廊下をとぼとぼ歩いていると、教頭先生が「剛田くん。放課後、校長室に来なさい」と声をかけた。しょんぼりしながら小さな声で返事をする剛田武くんの背中はこれまでにないくらい小さく見えた。
のび太はその様子を遠くから眺めていた。気が付くとのび太の隣には出木杉が立っていて、ふたりで剛田武くんの背中を眺めていた。
最初にのび太に助言したときのように、出木杉くんはエリートらしい笑みを浮かべながら言った。
「でも間違った情報もあった。ぼくがジャイアンや妹の悪口を言ったがばかりに殴られたこともジャイアニズムとして処理されてしまったし、それに、花壇を破壊したのは出木杉くんだろう?」
「花壇を壊したのがジャイアンだなんて一言も言ってないよ。君の読み上げた原稿にも書いてないし、学校新聞にも書いてない。みんなが勝手に誤解したんだ。でもまあ、実際に剛田武くんが花壇を踏みつけたり蹴り飛ばしたり姿を見たことがあったんだ。後日誰かがきれいに整えたので、ぼくは破壊されたときの様子を忠実に再現した。つまり演出したんだ」
「危なっかしいね」
「そうさ。情報の誘導の仕方次第では、世論はどちらにも傾く可能性があったんだよ」
「でもきみは上手に情報を操作することで、クライアントであるぼくを勝利に導いた」
「ジャイアンに勝つにはそれしかないんだよ。ジャイアンが実際の暴力を行なってくるのであれば、きみは虚構の拳を振るわなくちゃならない」
「虚像の拳か。情報は武器になる、っていうのはこういうことなんだね」
感心するのび太の顔を見ながら、出木杉くんは微笑んでこう言った。
「いいかい、のび太くん。情報を武器に仕立て上げる何者かが、その背後には常にいるんだよ。仕掛ける必要のなかった戦争、次世代通信規格の主導権争い、あるいは新型コロナウイルスのワクチン接種まで、情報を武器に扇動する者がいることを、もっと意識しなければならない」
<おしまい>
※この記事はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。のび太やジャイアンといったキャラクターたちは実在しますが、記事中のような人格ではありません。ジャイアンお誕生日おめでとう。
普通に考えて逮捕すべきだけど 監督義務者の責任(民法第714条) は『民法』だからな
日本は子どもの命と権利が親・保護者の権利にくらべてゴミみたいに軽い
【事例】そばアレルギー対応 〈アレルギー〉
A市のB小学校の6年生Cは、幼少の頃から気管支喘息の持病があり、7歳の頃に 食物アレルギー症の一つである「そばアレルギー」に罹患した。Cの両親が学校に提 出していた児童調査票には、「給食で注意すること」の欄に「そば汁」と記載され、 欄外に「小児喘息がありますのでご迷惑をおかけする時もあると思います。」と記載 されていた。Cは小学校5年生の時6、7回喘息発作を起こし、発作がひどいときは 担任のD教諭がCを保健室まで連れて行き、養護教諭に診せた後、学校の職員等の付 き添いで帰宅させたことが4回ほどあった。6年生になってからは大きな発作はなか った。そばが給食に出る場合は、おにぎりかパンを持参するように母親にはお願いし ていた。
Cはそれまで一度も給食に出たそばを食べたことはなかった。当日給食のメニュー は「五目そば」だった。しかし、Cは家からおにぎりやパンを持ってきていなかった。 「そばを食べてもいいですか。」とCがD教諭に聞いた。D教諭は、「おうちの人から 食べていいという連絡が来ていないから食べないように。」と言った。しかし、Cは そばの3分の1程度を食べた。口の周囲が赤くなったため、CはD教諭に申し出た。 D教諭が母親に電話し、少しでも早く帰したい旨を伝え、母親も「帰してほしい」と 返答した。D教諭はCを養護教諭に診せることなく一人で帰らせた。
Cは帰宅途中、そばアレルギーを原因とする強度の喘息発作を起こし、呼吸困難、 異物誤飲により窒息死した。
《判例》
○裁判年月日等-平成4年3月30日 札幌地方裁判所 民事第2部 判決
平成元年(ワ)第951号 控訴 (平成5年2月11日に和解)
《事実等》 ・A市教育委員会は、学校給食の提供にあたり、給食の材料などに起因して児童に発生する
おそれのあるそばアレルギー症に関する情報を、現場の校長をはじめ、教諭並びに給食を 担当する教員に周知徹底させ、そばアレルギー症による事故の発生を未然に防ぐべき注意 義務があった。D教諭は、給食時Cがそばを食べないよう注意するべきだった。また、C からそばを食べてそばアレルギーの症状が出ていると訴えたを受けたのであるから、Cを 保健室に連れて行き養護教諭に診せるとか、Cの下校時に自らまたは学校職員などが同伴 させるなどの措置をとるべき注意義務があったと解するのが相当である。
・Cにそばにかわる昼食を持たせず、しかもD教諭から連絡を受けたにもかかわらず、迎え にも行かなかった保護者にも過失がある。過失の割合は、5割:5割が妥当である。
・国家賠償法1条により、市が和解金800万円を支払うことで和解した。
https://www.pref.niigata.lg.jp/uploaded/attachment/184634.pdf
ネットですぐ調べれば分かることだが、日本の教師の労働環境は最悪である。
特に公的な学校となると、企業では違法とされる労働環境でも教師なら問題無いとされる。
また他にも団体交渉権が無い等々、人が持つべき人権のいくつかがはく奪される。
これにより少し脳みそを回転させて調べてみれば近寄るだけで危険と分かる職業である。
しかし馬鹿は調べない上に公務員は安定しているという信仰を簡単に信じてしまうので、結果的に馬鹿だけが教師になる。
学校には基本馬鹿しか集まらないが、馬鹿の中でも生存本能は馬鹿でないものもいる。
そういう馬鹿は早ければ1ヵ月、遅くても数年働けばさすがに気づくので、すぐに学校現場から逃げるように辞めていく。
しかし残る奴らはそのヤバさにすら気づかない、また気づいていても逃げないので結果、生存本能的にも馬鹿しか残らなくなる。
しかしその免許は10年の更新性で、その更新も運転免許とは比較にならないほど時間とお金が掛かる。
しかも大学で教員免許を取ろうと思ったら4年大学でみっちり専用の授業を受けなければならない。
免許を取るのも大変な上に、更新性という苦行を突破して初めて教師という仕事に着ける資格を得る。
しかしその見返りは決して大きくない。
頭の良いものであれば、即そのことに気づき教員免許など取りに行こうとは思わない。
教員免許を取りに行こうとするのは基本的には馬鹿か、教師に恩を感じて自分も教師を目指したいという少数である。
馬鹿の中でも教師という職業に耐えられて、かつ教師という職業の適性がかなり高いものもいる。
ただそういう馬鹿は年齢が上がるにつれて皆から褒められ慣れ、自尊心が高まりすぎた自己愛性障害になってることが多い。
なので最終的には後輩たちにマウントを取りまくり、自分の面子のために教師潰しを無意識に行うことが多発する。
またこういう奴は上に立ちやすいので、教頭の8割は大体こいつらで固まってる。
残り2割は自制心が強い比較的マシな部類だが、いっても教師世界に残る馬鹿なので比較的マシでしかない。
ちなみに校長まで行くと比較的マシは1000人に1人くらいしかいない。
これは言わずもがな。
もはや理屈ではないが、嘘だろ?と思うくらいの馬鹿と馬鹿のコラボレーションによって現場で大混乱が起きることが多々ある。
しかし周りも基本馬鹿なので大混乱を大混乱とすら認識できずに、あとで振り返ってやっとおかしいと気づくことが多い。
昨今、親によるモンスタークレーマー問題が取り上げられてるが、一番のモンスタークレーマーは教師だったりする。
先にも触れたように自尊心が肥大化した自己愛性障害者が教師の中によくいるので、彼らはよくモンスタークレーマーになりやすい。
しかも無駄に教師適性が高いので、教師適正の高い馬鹿からの言葉はそれ自体はとても正しいことが多い。
また他の馬鹿からの支持も集めやすいので、比較的親しい同僚に相談しても「あの人が言うのだから正しくてお前が間違ってる」と言われて、追い詰められた方はよりクレームを重く受けることになる。
……とまぁかなり誇張かつ過激に書き殴ったものの、そこまで事実とかけ離れてません。
そして今の若い人達や社会経験を積んで転職を考える方々には教師は止めた方が良いということを伝えておきます。
しかしあの狭すぎる世界では社会経験とするには役不足としか言いようのない現場です。
馬鹿の一人である私は教師を辞めて別の職に就いたときに初めて思い知ったことです。
それくらい救いようのない酷い世界ですので、それでも教師になりたいという人は馬鹿になる覚悟をしてください。
校長からの伝達で知ったことだが、数日前に教育委員会に市内の小学校の児童の保護者を名乗る人から電話があったらしい。
「こんなに暑くなってきたのに、娘が休み時間にマスクを取って鬼ごっこをしていたら教員に注意をされた。だったらマスクを着けながら活動できる環境を整えてください」
ごめん、どういう意味?
その先生がどの状況を見て注意したのかはわからない(走っている最中なのか、マスクを取って話していたのか)
うちの学校の基準は、「暑い時、息苦しい時はマスクを取ってもよい(ただし、マスクをしていない時は友達と話さない)」で職員で共通認識を図って指導をしている。
こういう時はいい、こういう時はだめ。って白黒はっきりつけると、重箱の隅をつつかれてお気持ち表明電話やら、連絡帳やらが来て面倒だから。
自分は低学年の担任をしているが、仕方ないとは言え、子どもたちの「マスクをしていない時は話さない」「人とくっつかない」という意識は低い。
「息苦しくなったら取ってもいいよ」は低学年には分からない。え、取ってもいい?じゃあ取っちゃお!そんだけ。
腕相撲もするし、ハグもしている、ジャングルジムや登り棒でぎゅうぎゅうになりながら笑って遊んでいる。
「近づきすぎないよ」とは声をかけるがまぁ無駄。というか、マスクした状態の接触はどこまでOKなの? 白黒はっきりつけ始めると面倒だからこれもグレーだけど。
あと最近増えてきたのが、「コロナ心配なのでしばらく休みます」(欠席ではなく出席停止扱いになる)ってやつ。
全然休むのはいいんだけど、「宿題だけでは不安なので、授業内容を簡単にまとめたプリントをポストインしてください」って何?
上に相談したけど、「まぁ信頼関係築けると思ってやってやってくれ」 まぁ作るのあなたじゃないですもんね。
え、お上(文部科学省?よく知らないけど…)やっていいって言ってるの? 調べてみました!
『プールサイドでも他の児童生徒との距離を2m以上確保』『プールに一斉に大人数の児童生徒が入らないように』
『更衣室利用中は不必要な会話や発声をしないこと』『更衣室のドアノブ、スイッチ、ロッカーなどは適宜消毒を行うこと』
無理に決まってるだろバカ。
「2年連続でプールやらないのはまずい…」っていうのは分かるけど(2年分の履修範囲ができないのは痛いですよね分かりますよ)
無理無理かたつむりだよ。
幼稚園とか保育園の先生とかってどうしてるんだろう。マスク指導もっと大変そう。
去年の今頃は「コロナは子どもは無症状!」(それによって移される家族とかはいいのか?)って理論で、あんまり小さい子はマスク付けなくてもOKって空気が流れていたように感じる。
ふつふつとした怒り(何に怒っていいかもわからない。親御さんの気持ちも分かる)が溢れた結果の書きなぐりだから、「こんな文章力のやつが教員やるな」とか言われてしまうんだろうか。すみません。
嫌だ嫌だと言いながら、転職したいという気もないし、辞める気もありません。ただの愚痴です。
でもなんだかここ2,3年で、保護者の方の「先生=忙しい」って労いの気持ちというか、温かい言葉をかけてくださる方が増えた気がする。
感謝です。
【追記】考えてた10倍の反応(ブコメ、トラバ)がいただけてびっくりしています。
昼にわーっとなって書いてしまいましがた、敬体常体ぐちゃぐちゃですね。乱文だね。
なるほどな~と思ったコメントなど、少し反応させてもらいます。
書き方が悪かったかもしれませんが、教育委員会に匿名の電話→市内の校長達→我々ヒラ
なので、難しいです。電話の件に関しては、うちの学校の保護者かどうかは分かりません。
「無理無理かたつむり」
自分が子どもの頃から母親がよく使っていたのですが……もしかして一般的な表現でない?
保護者対応に我々教員が苦心していることを労ってくださる方々がたくさんいて、頭が下がりました。
これは実際には難しいと思います。保護者対応はやっぱり、その子のこと、親のこと、家庭環境のことが分かっている担任が行うのが、一番スムーズかつ今後の関係性をケアしながら問題解決が行えるので……。
テストの採点、会計、教材の注文、プリントの印刷、コンクールへの応募など、「担任じゃなくてもできる仕事」が減ったらうれしいと思っています。人が足りないので無理ですが。
「「コロナ覚悟でなんでも許すコース」「マスクの指導等はするが、徹底が無理なものはリスクを取るコース」「安全最優先でカリキュラムは犠牲にするコース」に分ければよい」
全く思いつかないアイデアで笑いました。楽しそうですがどこの担任がしたいかと言われると悩みますね。
温かい言葉がたくさんあって、書いてよかったな、と思いました。ありがとうございます。
これだけぶちぶち言ってしまいましたが、「こんなこと言ったらクレーマーと思われるんじゃ…」って思う親御さんの訴えは、大概「教えてくださってありがとうございます!!」と思っていますので、なんでも言ってくださいね。
野生の先生や、お子さんの担任の先生を見つけたら、優しくしてあげてください。完璧にご要望に応えられはしないかもしれないけど、頑張りはしたいと思っています。
昔から個人的に、日本語のカタカナ英語で「ファンタジー」という言葉を当てられてカテゴリ分類される作品(小説、映画、漫画など)の大半が苦手である。良い悪い、正しい正しくないではなく、あくまで個人的な好みの話である。もしも、これらを好きな人が気を悪くされたら、先に謝ります。すみません。
日本語で言う時に「ファンタジー」よりも「幻想」という硬めの言葉を当てられる作品は嫌いではない。国内の作家で例を挙げれば、山尾悠子とか。
海外のSF周辺の作家や作品だと、クリストファー・プリーストの『魔法』や『奇術師』は好きである。ものすごく古いが、子供の頃に読んだH.G.ウエルズの短編『魔法を売る店』も好きである。SF作家の視点から「魔法(のような技術体系)が存在する世界」を描いたような作品、例えばハインラインの『魔法株式会社』や、霊魂テクノロジーが実現した未来世界を描いたロバート・シェクリー『不死販売株式会社』のような佳作も好きだ。ここまで読めばお分かりのように、どちらかと言えば私はSF寄りの人間である。
日本を含めて世界的に『ハリー・ポッター』シリーズや『指輪物語(LoTR)』シリーズが劇場映画としてヒットした頃に「食わず嫌いも良くないな」と思い、これらの映画を観に行ったり原作に挑戦したりした。結果を言えば、結局だめだった。私は、これらを少しも楽しめなかった。『ナルニア国物語』も駄目だった。SF映画のジャンルに含められるが実質的には「剣と魔法の世界」のようなものと言ってもよい『スター・ウォーズ』シリーズも、旧EP4以外のシリーズ作品は全く楽しめなかった。こんな感じだから当然ではあるが、家庭用ゲームの『ドラゴンクエスト』や『ファイナルファンタジー』などにも手を出していない。
「剣と魔法」系統の娯楽作品の全てを無条件に嫌いかと言えば、そういう訳でもない。子供の頃にテレビやビデオで観た『アルゴ探検隊の冒険』や『タイタンの戦い(オリジナル版)』といったレイ・ハリーハウゼン作品は、昔も今も大好きである。
『ハリー・ポッター』などが苦手に感じるのには、別の理由も有る。たとえば、ドラえもんの「うつつマクラ」で、余りにも都合が良すぎる夢(文武両道の大天才でモテモテで、教師にも親にも級友にもチヤホヤされる世界)に、のび太が興醒めしていたようなものだと言えば、理解してもらえるだろうか?学期末の成績を発表する場で、校長が「勝ったのは…スリザリン!……じゃありません!大逆転でグリフィンドールの勝ち!」とか言って、バラエティ番組の「結果発表ー!」みたいな真似をしてスリザリンの生徒たちを糠喜びさせたのは非道い。校長があんな依怙贔屓をするような人間だから、スリザリンの生徒たちも性格が歪んでしまったのではないだろうか。あの校長は、教育者として失格だと思う。スリザリンの生徒たちは、腐ったミカンなんかじゃない!こんなハリー・ポッターがヒットしたということは「なろう系作品」を好む人間が、日本と同様に海外でも少なくないということなのだろう。どうも私は「なろう系作品」が苦手だ。そういえば、上で挙げた『アルゴ探検隊の大冒険』や『タイタンの戦い』は、ハリウッド作品としてアレンジされているとはいえ、ギリシア神話の英雄譚がベースであり、依怙贔屓どころか、むしろ主人公に理不尽な試練が課せられる物語なので、その点がツボなのかもしれない。
LoTRが苦手なのは、正義の側のキャラクターは白人がベースの美しい造形または愛嬌の有る造形ばかりで、悪の側は醜悪な造形ばかりというのが、どうしても興醒めしてダメだった。ルッキズム。それに、LoTRの悪の側の造形は、白人から見た有色人種のイメージが入り込んでいる気がする。ルッキズム。それはそれとして、第一部で地下に消えたガンダルフが、続編で生きていたと判明し、杖一本を手に巨大な怪物を相手にガキーン!ガキーン!と肉弾戦をしていたところは、正直に言うと大爆笑した。
こんな感じでカタカナ・ファンタジー作品の大半が私は苦手であるが、例外的に楽しめて大好きだった作品が、先ごろ惜しくも亡くなられた三浦建太郎の『ベルセルク』である。
外形的には、人知を超越する異形の存在や怪物、魔法などが存在する世界を舞台にした物語という意味で、同じカタカナ英語のファンタジーという単語が当てられていた作品ではある。しかし、私個人にとっては、ハリー・ポッターやLoTRと天と地の違いが有るように思えた。もちろん、私にとっては『ベルセルク』の方が「天」である。ハリー・ポッターやLoTRのファンの人には、重ね重ねすみません。繰り返しますが、個人の好みの話です。
ゴットハンドの名前(スラン、ユービック、ヴォークト)や、黄金時代篇の敵の武将の名前(ボスコーン)からは、作者の原体験にSF作品が有ったことは想像に難くない。だから、ベルセルクの物語世界では「魔法のような人知を超えた事象が存在する/起きるならば、その根源となるエネルギーは何処から齎されるのか」「その代償に払う犠牲は何か」といった理(ことわり、ロジック)を、作者は考えていたと思う。上でも書いたように、SF作家がSF的視点から「魔法が存在する世界を舞台にした物語」を書くケースはしばしばあったので、SF好きの三浦建太郎もそれらの影響を受けていたことと推測される。ゴッドハンドの1人として転生する直前、深淵に降ったグリフィスが「ヒトの作りし神」に出会って対話を交わす場面(※単行本未収録)は、あれも「この物語世界がどのような理(ロジック)で動いているか」を読者に示すものだったと言える。
少し脱線するが、理(ことわり、ロジック)と言えば、ハリー・ポッターのような作品を読んだり見たりしていると「あんな大きな学校が有って、そこから大勢の卒業生たちが魔法使いになって世に送り出されて、就職先は確保できるのだろうか?」とか「石を投げれば魔法使いに当たるぐらい、たくさんの魔法使いがいる世界では、そもそも魔法使いの存在価値は有るのだろうか?」とか考えてしまう。モンティ・パイソンのコント「スーパーマンだらけの世界で大活躍するスーパーヒーロー!我らが『自転車修理マン』!」みたいになったりしないのだろうか?捻くれたSF好きである私は、おそらく「物語のような『不思議な世界』が存在していて、それが自分のいる現実世界と地続きであって欲しい」という願望が強いのだろう。だから、不思議な世界を成り立たせるロジックを求めてしまうのだと思う。ちなみに、驚異の世界を成り立たせるような、もっともらしい理屈を付けてくれるハードSFは大好きである。
話を戻すと、『ベルセルク』の物語は魔法や異形のモノが存在する世界で展開されるが、主人公のガッツ自身は、魔法による恩恵を受けていない時期の方が長かった(パックの翅の鱗粉で傷を治癒する描写とか有ったけれど)。ベヘリットによりゴッドハンドが召喚され、鷹の団メンバーたちが使徒たちへの贄として捧げられた悲劇を考えれば、ベルセルクの物語における魔法や人知を超えた異形の怪物のほとんどは、主人公に困難を与える原因として存在したと言っても過言ではない。そんな中でガッツは、鍛錬で身につけた能力や人間の業で作れる武器だけを頼りに、使徒という異形の怪物たちを相手に、文字通り満身創痍になって半死半生になりながら、ギリギリで死線を掻い潜る闘いを繰り広げていた。リッケルト、鍛冶のゴドーと養女エリカの親子、パックなど少数の例外を除けば、長い間ガッツの闘いは孤立無援だった。これでは読者も、応援したくなるというものである。
それとは対照的に、地下牢で長期間に渡る拷問を受けたものの、ベヘリットを使ってゴッドハンドを召喚し、彼らの1人フェムトとなり、受肉して自分の王国ファルコニアも手に入れた新生グリフィスは、謂わば「うつつマクラでドリーム状態を実現した、ハンサムな野比のび太」である。まさに、なろう系の究極形。しかも、ノスフェラトゥ・ゾッドを筆頭に使徒たちを配下に従えているのだから、主人公との戦力差は圧倒的であり、まさに天と地の差である。
こういう丁寧な前フリがあればこそ、近年の主人公を取り巻く状況に変化(イシドロ、ファルネーゼ、セルピコなどの新たな仲間の誕生、髑髏の騎士や魔女による魔法的サポート)を生じさせたことにも、説得力が生まれた。最初からガッツに心強い仲間がいて、魔法によるサポートも受けられるような状態で物語が始まっていたとしたら、私のようなカタカナ・ファンタジーの大半が苦手な人間は「ハイハイ、どうせ魔法でチョチョイのチョイと助かるんでしょ」と興醒めして終わっただろうし、多くの熱狂的なファンも生まれなかったことだろう。
長い長い時を経てキャスカが正気を取り戻したことは、主人公ガッツにとっても読者にとっても喜ばしいことだった。しかし、それでグリフィスに対するガッツの闘いに終止符が打たれた訳ではなかった。新たな仲間や魔法的なサポートを得たとはいえ、これから先もガッツは、強大なグリフィスに対して、苦しく不利な闘いを挑むことになるのは確実だった。そういう骨太の物語を、作者は描いてくれる。長期間の休載は読者としては辛いけれど、長く待つだけの甲斐が有る作品を描いてくれる。これまでと同様に、これから先も、そうであろう。そう思っていた。鷹の団メンバーが、グリフィスの夢の実現を信じていたように。
私を含めたファンの願望は、もう叶わない。三浦建太郎自身のペンによる物語の続きを、我々が読むことが出来る機会は、永遠に喪われてしまった。
このまま未完で終わらせるのか。構想のメモなどを元に、誰か脚本家や作画者を代筆に立てて遺志を継ぐのか。今後どうなるのかは、未定だという。どちらが良いのか、私には分からない。
人は誰しも、別れを告げる時には詩人になるのだと、誰かが言った。しかし、ご覧のとおり私には詩才は無い。こんなに心乱れたままで、長々と駄文を書き連ねた挙げ句、偉大なる作家が彼の代表作の中に残した印象的なフレーズを引用するぐらいしか出来ない。
「風が、旅の終わりを告げていた」と。
俗に言う「酒鬼薔薇事件」=神戸連続児童殺傷事件から24年が経過しようとしている。
掻い摘んで言うと、
第三の事件では一人の児童が殺された、と言う連続殺傷事件だった。
民事裁判による損害賠償請求に応えるには、印税をもって対応するほか成すすべがないと、
酒鬼薔薇の弁護人が、海外ではそのような事が行われていることなど、その両親に説明したらしい。
被害者の意向がどうかは不明だが、その印税は被害者に支払われたと言われている。
刑事裁判での判決=刑は温いとか、母親は印税で家を建てたとか言われているが、
最も理解できないのが、少年A≠酒鬼薔薇で、あの事件は冤罪であるというものだ。
声明文は少年Aに書ける文章ではない(少年Aの国語の成績は2で、それほどの文章は書けない)、
物理的な証拠は見つかっていない等々、確かに疑義が残る部分は或るからだ。
それについては弁護人や、少年Aの通っていた小学校の校長等の言い分もかなりあるようだ。
自分が犯人ではなくとも、犯人扱いされることが愉快だと思ったのか、
もう面倒だからどうでもいいと思ったのか、辻褄が合うように、
警察で誘導されるがままに自白したのは何故だったのか、本当に真犯人だったのか、
真実は闇の中だ。
ブクマカの多くは維新憎しの党派性からこの校長を持ち上げているが、ちょっと待て。
そんなに良いこと言ってないぞ、あの校長。
具体的な話は何もない、ただのポエムだぞ。
工場長が社長に、「新しいEVは気に食わないから作れない。クルマはもっと楽しくあるべきだ」的な個人的思いをつらつらとポエムにして送りつけたようなもんだぞ?
「生産工程のここに問題があるから今のままでは作れない」って指摘なら正しいけど、あのポエムじゃダメじゃないか?
「オンライン授業やるにはこういう人材とか機材がないととてもできない」って訴えじゃないとおかしいだろ?
維新も松井も大嫌いだが、ああいう綺麗事の教育論を語って自分に酔いしれてる先生は同じくらいかそれ以上に嫌いだ。
教員:週末は原則半分程潰れる(一部部署除く)。大会が連続すると一ヶ月の休日がゼロになることもある。
文部科学省:残業代がフルに出ることはない。状況によっては全残業時間の2割程度しか支給対象にならない。文部科学省は他省と比較しても少ない。
教員:残業代は一切出ない。いくら働いても教職調整額4%しか支給されない。他地方公務員と比較しても少ない。
文部科学省:ニュースで自身の仕事が報道されると大きなやりがいを感じる。
教員:ニュースで教員不祥事が報道されると大きな失望を感じる。
文部科学省:上司が黒と言えば、白でも黒。永田町が赤と言えば、上司は赤に変更するので、そうですね、赤ですと言える度量が必要。
文部科学省:プロパー職員もだいたい2年ごとに部署異動があるため、専門的な知識の蓄積がしにくい。
文部科学省:都道府県により教育にも特色があってよい。国は最低限のルールと必要な行政指導を行えばよいと思っている。
教員:学習機会の差が生じないようにできるだけ国で統一してほしいと思っている。
30過ぎて転職をした。実家より田舎ではあるが生活には全く不便しない環境なので全然気にしていなかったけど、子供ができる可能性を考えていたら急に実家付近の環境の良さに心がむしばまれ始めた。これは一緒のホームシックなんだな。
実家は首都圏の地方都市。そこそこな文教地区で私鉄駅直ぐ近くだった。東京にすぐな立地なので自分の家をやや田舎だと子供の頃は過小評価していた。一時期は東京に住んでいたし実家は建て替えるまえはかなりのボロ家だったので自分の家がまともという感覚はあまりなかった。
それに片方の親との確執もあってか実家から離れたい願望が強く、今の仕事も実家から程よい距離間を保てるという理由で決めていた。
結婚してしばらくは全然問題なかった。しかし子供の計画を話している内に、教育地域としてはあまり充実していない事実に頭を悩ませている。
結局の所、公立中高なんてのは年や校長によって常に変わっていく。近所の中学だって校長が替わってからは劇的に改善してと聞く。単なるくじ運でしかない。とはいえ実家付近の公立学校の評判より明らかに低いのだ。地方なんてそんなものだ。そう割り切ればいいと思っていたが、自分の実家付近が軒並み「どこにでもある普通の学校」であることがむしろ羨ましい。こちらは年度単位で当たり外れがあるし、そうでなくとも普通よりは下の水準なのだ。
実家付近にいれば子供の教育で変に頭を悩ますことはない。それどころか能力に応じて柔軟に高校までも選べる。こっちだと特に公立高校から荒れやすい。
こちらは一人・二人だけの暮らしには全く問題ない。金があれば比較的良い家だって買えるが、実家付近だと家は馬鹿高いか狭っ苦しい。いまの賃貸だってかなり快適だ。
下手に東京に近かったから教育は少しは受けていた自覚がある。だからそれ未満の環境しか用意できないのが歯がゆい。こんなことで実家のことを評価する時が来るなんて思わなかった。良い解決方法は、収入増やして私立の中高に通わせる程度しかない。あるいは転職をして教育環境の良いところに移るかだ。田舎でも文教地区は意外とあったりする。というか田舎だからこそ教育に力入れる傾向がある。転職の立地を間違えたと思った。
君は学生時代から行動力があって、ちょっと傲慢で、自分の正しさを確信していて、「正しいこと正しい」と突っ走ることが多いゆえに、誤解も受けやすい人でした。
大学を卒業後、商社マン→経済紙記者→大阪での公募に応募しての中学校の校長と、目まぐるしくキャリアを変えていったらしいことは風の噂とネットの噂で知りました。
中学校の校長を辞めるにあたっては、色々なトラブルの報道も出て、遠くから少し気にはしていました。
その後、君が東南アジアに渡って記者の活動をしているらしいこともネットで知りました。
先程、テレビで記者会見をみていて、あー、とか、えー、とか挟みながら喋る癖は変わらないけれど、昔より声が低くなって、昔より周りの人への感謝とか素直に語れるようになったなあと感じました。
まあ、異常な体験の後でしょうから、これが今の君の本当の姿なのかはよく分かりませんが。
とにかく、無事に帰ってきてなにより。
君が見てきたことは、世界に伝えるに価値のあることだと思うので、今後の活動に期待しています。
とりいそぎ。
人々は弱者男性が被害者であると意地でも認めないつもりらしい。
弱者男性と扱われるのが嫌なら、弱者男性をやめればいいとでも思っているのだろう。
好きで弱者男性をやっているのだから自業自得だとでも言いたいのだろう。
だけれど弱者男性だって好きで弱者男性をやってるわけじゃないんだ。
強者男性になって、上げ膳据え膳のイージーモードで、人生という名のゲームを楽しみたかったんだ。
例えば校長のようなツワモノとなって生きる喜びを知りたかったんだ。
強者男性は若い女性を餌食にして利益を得て、その上で尊敬までされているのだろう?
もし弱者男性が強者男性を自認したとて世間の承認がなければ無力だ。
どうして世間は我々を我々の見て欲しいように見てはくれないのか?
「お前は弱者だ」と、言わば「強さ自認」を考慮しようともしない世間からの一方的な決めつけによってだ。
ただ弱者男性であるというだけの、ただそれだけの理由で若い女性から蔑ろにされているんだ。
悪いのはなにも若い女性ばかりではない。
だが強者男性とて一歩間違えばたちまち弱者男性に転落してしまうのだからやむなしだろう。
男社会はイージーモードの女社会とは違って過酷な競争社会なのだ。
どこで差がついたのか?慢心?環境の違い?
弱者男性にやはり慢心があって、努力すれば強者男性になれたのだろうか?
だが努力するのもまた才能であって、自己責任論は完全論破されているというのが定説だ。
常識的に考えて弱者男性が弱者男性であることが弱者男性の責任であるわけがない。
なんらかの(自己責任でない)理由によって、弱者男性であることを強いられているんだ。
そんな弱者男性の気持ちを綺麗事ばかり言うリベラルは絶対に絶対に分かろうとはしない。
そこにはリベラルが弱者男性を舐めているという病巣が隠れている。
若い女性が強者男性には素直に従い、弱者男性コンテンツばかり攻撃するのはなぜ?
だから弱者男性コンテンツの価値を意地でも認めようとせず、あまつさえ「かわいそう」と見下す。
フェミはヤクザや半グレといった歯向かえば命の危険すらある強者男性には絶対に口出ししない。
そしてオーラと言うのは極めて言語化しづらいなにかでお気持ち次第という次第。
科学万能のこの時代だけど、オーラみたいな非科学的な価値観が幅を利かせているのが現実だ。
弱者男性には遺伝子や環境といった(自己責任でない)理由のせいでオーラがない。
オーラがあれば金も、女も、地位も、名誉も、みんな手に入った。
裏を返せばオーラがなければ、一時的にそれらを手にしても、すぐさま失ってしまうんだ。
オーラがないというだけの理由で、弱者男性であることを強いられているんだ。
もしオーラが手に入るなら、諸君らはどれだけの対価を支払える?
みなさんのオーラを手に入れることへの意気込みを聞かせてください。