はてなキーワード: 必然とは
能力主義とは必然、力こそ全てという社会を容認するものであるから、
優秀な人間とそうでない人間に格差を作る能力主義バンザイな皆様に於かれましては
「よくやったぞプーチン、建前として戦争反対だがお前のやってることは正しい」
私達は力によるマウントを正しいものとして認めてきているではありませんか
人権?
人権はホームレスもヤクザも救わない、ましてや有事にあって庶民の命を守るものでもありません
守るものは何か?
武力ですよ
金ですよ
力ですよ
さあ明治に立ち返りましょう
使えねー奴は鉄砲玉にして殺す
いいことじゃないか
それを決めるのは力だ
力こそが全てだ
さあ来い
次はお前がやってやれ
バイデン大統領にしろ、欧州各国の首相たちにしろ、戦争を起こしてでもウクライナを守ろうとする国は皆無だった。
プーチン大統領は、欧米のそういう後ろ向きなところを見抜いていたのだろう。
経済制裁をしてくるだけで、実際に武力でロシアに攻め入る国は無いのだろうと高をくくっていたら、その通りになってしまった。
ロシアの覇権主義に強硬姿勢を見せることこそが戦争を抑止する方法だったのに、強硬姿勢は見せられなかった。
兆候はあったよね。
それまでアメリカ軍に協力してくれた現地人の人達を見捨てて、アメリカは無責任に撤退したわけだが、その様子を見ていたロシアや中国はどう思うだろうか。
「バイデン大統領は弱腰だ、自分達の覇権主義を止める力はないだろう」
「みけぽ」
という言葉を知らない人がこの言葉を見て、どんな意味か想像がつくだろうか?
「みちょぱ」みたいなニックネーム的な奴?それとも場所の名前?
しかし、「ぽっちゃり」や「むちむち」で形容できない、いわゆる「明らかにデブ」な体型を「みけぽ」という言葉に置き換えることにより良く見せようとする女性の狡猾さには恐れ入る。
多少のぽっちゃりとはわけが違う。腕も足もブヨブヨ、腹は三段を超え、加工しても隠しきれない顔から醸し出てくる明らかに常人とはかけ離れた大きさの顔、
確かに体型に対して差別的なのは昨今の情勢では相容れないだろう。
私も病気や特異な体質で太ってしまうのは仕方ないと思う。そうなる必然はあるのだから。
しかし、そういった事情もなしに三桁台の体重は明らかに自堕落や不摂生の結果だ。
運動すれば痩せる、身体に悪いが食べなければ痩せるということができない、自分を律せないのが自堕落な三桁体重という超巨漢を生み出すメカニズムだ。
自分ではどうにもできない(自分でどうにかするとは言ってない)ぽっちゃりともむちむちともかけ離れた体型を
どうにかして「デブ」という言葉を避けてブランディングするかと苦悩した結果が「みけぽ」だろう。
ぽっちゃりな体型が魅力的なこともあるし、逆に摂食障害を患っていそうなくらいガリガリな女性もどうにかしてほしいがそれはまぁ置いておこう。
だが、100kgを超えているのは明らかに異質だ。何をどうしたらその状態で生活を続けようと思えるのか全く分からない。
しかも「みけぽ」という言葉を逃げ道にしたり棚に上げたりして脱却する様子もない。あまつさえ「みけぽ」という言葉で自分を可愛く見せているのである。
他人から見えているのは明らかな体積を誇った女と飯と酒の画像ばかりだ。
最後に、俺が言いたいのは
ということだ。
さっさと痩せて健康になれ。
【追記】追記編と初手編、日常用語編、国際編、人物編、二眼の説明を加えた。
anond:20220131231934にインスパイアされてやってみた。
省力のために一部wikipediaからの引用も交えながら独自の解説を記した。
一手で隅をほぼ専有できてしまう反面、中央から遠く発展力やスピードに欠ける。
江戸時代以前の古くから打たれている手であり三々よりは中央に近く、星よりは地に近いバランスの取れた手。
隅を占めるのに二手かかるのが欠点。
4・4の地点で碁盤の目印のある部分のこと。
後述の昭和の新布石時代からよく打たれるようになった手。それ以前は置碁くらいでしかあまり見られなかった。
地に甘いというのは、相手に三々に入られるとほとんど地を奪われてしまうためである。
碁盤において、この地点がもっとも高い地点であり、端は地面という概念となっている。
後述の厚みが確定地ではない未来への投資であるのに対し、序盤から陣地になる可能性が高い場所を実利という。
実利をとれば厚みを作られ、厚みを作ると実利をとられるという表裏一体な関係にある。
盤上において影響力を及ぼすことのできる、しっかりと連絡して眼形の心配もない強力な石の集団である。
「厚み」は「薄み」に対する対義語である。囲碁で「薄い」というのは連絡が十分取れていない形、眼に不安がある石のことであり、相手に攻撃される可能性を持っている状態を指す。
これに対して強力な「厚み」は相手からの攻撃を受ける可能性が低く、周囲に近づいた敵の石に対して攻撃するための基盤となる。また、相手が近づいてこなければ大きな模様や地を形成する拠点となる。
大きな地になりうる可能性のある勢力圏のことを指す。多くの場合、隅から辺、中央へ広がるものを呼ぶ。
手の順番や形を変え、定石等と比べることで本来の形に対して余計な石があることなどを評価し、効かし効かされを判断する。
1933年(昭和8年)に呉清源と木谷實が発表した、中央・速度を重視する新しい囲碁の布石のスタイル。それまでの小目を中心とした位の低い布石に対し、星・三々で隅を一手で済ませて辺や中央への展開速度を重視し、中央に雄大な模様を構築することを主眼とする。その斬新なスタイルと、これを駆使した呉・木谷の活躍により社会現象とも言えるブームを巻き起こした。
またAlphaGoの台頭以後、新布石時代に負けるとも劣らない布石の変化が囲碁界を席巻している。
例えば星への三々入りを序盤に行うの「ダイレクト三々」は相手に厚みを与えるため不利と言われていたがそれが平然と行われるようになった。
隣り合った隅・辺・隅の星を占める布石である。辺を打たず、隣り合った隅の星を占めるのは二連星と呼ばれる。中央に大きな模様を張ることを主眼としたスタイルで、武宮正樹が有名な使い手である。
安永流ともよばれる。星・小目・辺の星脇を組み合わせた配置である。
小目からシマリを省略して星脇へヒラく手法は、江戸時代初期に本因坊道策が使用している。
本格的な中国流の開祖は安永一とされ、中国には陳祖徳が広めたとされる。1965年の日中囲碁交流の際に非常に注目され、日本に逆輸入された。
右上空き隅、小目、相手の星へのカカリから星脇へのヒラキまでの一連の配置を指す。下図下辺の黒の配置がミニ中国流である。右上隅の着点は必ずしも決まってはいないが、星との組み合わせが最もよく打たれる。平成期に流行した構えだが、すでに400年ほど前に本因坊道策が試みていた。このため道策流とも呼ばれる。
序盤早々、周囲にまだ石がない段階で、相手の星に対して直接に三々に打ち込んでいく手段を指す。かつては全く考えられていなかった戦法だが、AlphaGoなどの人工知能がこの手を打つことから注目され、人間の棋士の間でも広く採用されるようになった。ダイレクト三々の名称は、2018年5月から河野臨によって週刊碁の連載のタイトルに使われ、定着した。
囲碁の基本的な手筋のひとつである。アタリの連続で、逃げる側は盤がある限りは逃げることができるのだが、盤の端まで到達してしまうとどうにもできず、石を取られてしまう状態をいう。逃げきれるつもりでこの手順に入ると非常に大きな被害を受けること、シチョウアタリという攻守が全く逆転する危険な変化があることから、「シチョウ知らずに碁を打つな」という格言もある。
シチョウの追いかける先に相手の味方の石がある場合シチョウが成立しないので、この手を選ぶことが多い。
相手の石にフタをするように斜めに置き動きを封じる。
一旦相手のふところに石を打ち、一度は取られてしまうが取った後の姿がアタリになっていてすぐに相手の石を取り返すことができる。
漢字表記では「追い落とし」となる。 ツグ手を打っても引き続きアタリになり、取られてしまう状態をいう。別名をトントン、ツギオトシ、バタバタとも。
相手の石にも自分の石にも触れないような位置に、文字通り「置く」ように打つ手のこと。動詞では「置く」となる。多くの場合一線や二線など辺の低い位置の、敵陣の急所に打つケースを指す。
相手の二団以上の石を同時にアタリにし、二眼を確保する手段。文字通り相手を押しつぶすイメージであることからつけられた。着手禁止点を利用して生きる手筋である。
相手の石をアタリにし、自分の石を相手に取らせた上でもう一度相手をアタリにする一連の打ち方を指す。途中、さらに捨て石なども交えることもある。多くの場合、相手を凝り形にし、自分が形を整える目的で打たれる。また、攻め合いの場面で相手の手数を詰め、攻め合い勝ちに導く手筋としても用いられる。また、あまり効果のないシボリを「西洋シボリ」と称することがある(前田陳爾の造語)。
ある石のダメが詰まることで、各種の不都合が生じる状態を指す。「ダメの詰まりは身の詰まり」という囲碁格言があるように、不必要にダメを詰めてしまうことは身の破滅につながり、碁において戒められる事柄のひとつである。
駄目については後述。追記編を参照。
ヨセ(終盤のこと)において相手の陣地を侵食するための鮮やかな手筋。
一見繋がってないようなところに打つのだが、見事に繋がっていて相手の地をかなり減らすことができる。
盤上にある石の一団は二眼(空間が2つ)ないとゆくゆくは駄目(呼吸点)が詰まり必ず取られてしまう運命にある。
これはルールとして定められているというよりは、石は呼吸点を有してないと取られる、着手禁止点には打てないという2つのルールから導かれる定理のようなものである。
2つ眼があると、駄目が最低でも2つある状態と着手禁止点が2つある状態が存在するため、着手禁止点を同時に2つ塞ぐことはルール上できないので必ず取られない最強の存在となるのである。
この取られない石の状態のことを「生きている」と言い、この「生きている石」の内側の領域が陣地となる。
この石の生き死にさえ理解できれば、初心者の、どっちがどっちを囲んでるのか、これは内側も外側も囲んでると言えるのではないか、という疑問は消えるだろう。
相手にそこを継がれると眼となる部分に先行して打って欠け目にすること。
「打って欠く」(打ち欠く、あるいは内欠く)の意
相手にそこに打たれると完全な二眼ができてしまう部分に先行して打てなくする、相手の石の一団を殺す必殺の手。
隅に打った既存の石から陣地を確保するためにもう一手かけて領域の守りを固める手
ふたつ隙間を空けて打つ手
●┼┼┼
┼┼┼★
●┼┼┼
自分の石の斜めひとつ空けた場所に置くこと。●から見て★の手のこと。
●┼┼
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相手の石の隣にくっつけて置くこと
相手の石を挟むように置くこと
相手の石の斜めに置くこと
相手の石のつながりを断つように斜めに打つこと
相手の石がそれ以上侵入してこないようにせき止める位置に置く石
相手の石を押すように平行に打たれる石
目外しへのカカリから発生する定石を指す。派生する変化型が多く、複雑な戦いになることから、大斜百変、大斜千変とも呼ばれる、難解定石の代表的なもの。天保頃より特に研究が進み、現代でも多くの変化が生まれ続けている。
小目への一間高ガカリに下ツケする形から発生する定石を指す。最初から接触戦となり、また変化型が多い難解定石の代表の一つ。石が接触しながら戦いになっていく様を「ナダレ」と形容された
小目への一間高ガカリに二間高バサミして生ずる一連の変化を指す。難解で未解明部分も多く、また変化型が多いために誤ると自らも傷を負うところから、村正にちなんでこの名が付いた。大斜、大ナダレとともに三大難解定石とされる。
竹の節のような並び。
一間空けて2:2で平行に並んだ形で、その間をどちらかを相手に打たれたらもう片方で繋がれるので絶対に切られることがない。
仏教用語ではひとつの宇宙が始まって終わるまでの途方も無い長い時間のこと。
囲碁においては、どちらかが譲らない限り永遠に循環してしまう特別な形があり、その形をコウと呼ぶ。
コウの形で石を取られた側はコウをすぐに取り返してはならず、一手別の場所へ打つ必要がある。
通常、白石はハマグリのくり抜きによってできているがそれが語源か。しらんけど
冒頭で説明。
限られた局面、特に序盤においてある程度決まった一連の手の応酬のこと。
定石は手練の碁打ちの長い研鑽、研究により成り立つもので、お互いに必然の手を打ち、双方ほぼ互角のワカレとなるのが定石の前提である
どちらの陣地にもならないどうでもいい地点の事を指すことから日常用語に転じた。
または、石から出ている呼吸点(全部塞がれると相手に取られてしまう)のこと。
囲碁において死活問題とは、相手の石を殺す、あるいは自分の石を活かすための問題(クイズ)のことである。
現代では上手(うわて)が白を持つが平安時代期には強いほうが黒を持っていた。
そのため
と転じたと言われている。
自分が第三者となった視点で戦いを見ると手がよく見える、あるいはそう錯覚すること。
一目は一子(石ひとつ)の意。
囲碁においては強さに差がある場合、相手より多く先に石を置いた状態で始めることから、相手の実力を認め敬意を示す意味に使われるようになった。
手を省くこと。
力を抜くことではなく、相手の打った手に付き合わず、その場所よりも価値の高い場所へ向かうことを言う。
囲碁にはいくつかルールがあり、基本的には江戸期~昭和期まで囲碁の第一人者であり、世界に囲碁を広めた日本のルールが用いられている。
日本ルールは盤上の囲った陣地(目)のみをポイントとするのに対し、中国ルールではそれを含め置いた石の数もポイントになる。
この2つの大きな違いは、日本ルールが自分の陣地に自分の石を置くことがマイナスとなるのに対し、中国ルールではマイナスにならない点である。
このことが死活に関わる局面や終盤の局面での手入れ、手抜きにおいて大きな違いを生む。
日本ルールでは曲がり四目と呼ばれる形が出現した場合、手を入れるのがマイナスになるためそれが死であることの証明を用いないと議論が生じる。
そのため中国ルールのほうが初心者に優しく、コンピューターにも優しい。
他には日本ルールでも中国ルールでも禁止されている自殺手がOK!というルールもある。
碁打衆を保護、「御城碁」の基盤を築く。近世囲碁の発展、振興に絶大な貢献。(日本棋院表彰ページより引用)
永禄2年(1559年) - 元和9年5月16日(1623年6月13日)
江戸幕府における囲碁の最高位だけにとどまらず、将棋の最高位も得た二刀流。
大橋宗桂との将棋対局は将棋の現存する最古の棋譜でもあり将棋界においても重要な人物の一人。
正保2年(1645年) - 元禄15年3月26日(1702年4月22日)
手割りや布石など、数々の発明を生んだ天才棋士。史上最強という呼び声も高い。
文政12年5月5日〈1829年6月6日〉 - 文久2年8月10日〈1862年9月3日〉
ヒカルの碁で著名。
1874年(明治7年)6月24日- 1940年(昭和15年)1月18日
またタイトルとなる前の、「名人は一世に一人」の終身名人制時代の最後の名人でもある。
引退後に本因坊の名跡を日本棋院に譲渡し、選手権制の本因坊戦創設に導いた。2008年囲碁殿堂入り。
「オマ●コ」発言など、昭和の棋士らしい数々の破天荒なエピソードが有名。
棋聖 6期 (1977-82)
名人 2期 (1962・70)
天元 1期 (1975)
いろんな場所に住んだが、しばらく行かないうちに潰れてしまった店を見ると、
ああああああもっと俺が通っておけば良かった、と後悔するときがある。
そういう代替の効かないお店というのが地元にあるかないかで、QOLはかなり違ってくるはず。
イオンや中堅スーパーでは替えの効かない業種のお店を挙げてみた。
1.パン屋
地方のスーパーには、とにかく硬いパンとか黒いパン、その他の海外由来のパンが少ないのもその理由。
なにしろパン屋は儲けが少ないし重労働だし、とにかくパンが好きだから開店しました的な商売抜きのパン馬鹿店主が多いので、
2.蕎麦屋
パン屋も馬鹿だが、蕎麦屋も蕎麦命という感じの蕎麦馬鹿店主が多い印象。
メニューに蕎麦がきあるとか日本酒揃えてるとかが特徴だが、こだわりが強すぎて生来の人付き合いの悪さが漏れてしまうこともある。
相性が悪いと感じたら、常連になるというよりは月1くらいのペースで付かず離れず見守ってやりたい。
オモニの作ったキムチやナムルは、スーパーで買えるものとはぜんぜん違う。
ただし、開店してウン十年で先代から引き継いだとかなら良いが、
新規開店だとまれに変な宗教やマルチに傾倒している家族だったりもするので、
これも付かず離れず付き合ってみたい。
4.ケーキ屋
突然辺鄙な田舎の地元にパティスリーができたらホントにラッキーとしか。おめでとうございます。
ナントカ賞を受賞したレベルの腕のある若いパティシエは、経費はたっぷりと材料にかけるべきと考えるので、
田舎にオープンするのは必然ともいえる。まあそれだけの腕前なら、潰れることはないんだけど。
5.ガソリンスタンド
これは市況に左右されるから、どんだけ常連になったところで潰れるときは打つ手がない。
最近だと火事が怖いということで灯油ストーブも敬遠されているのもきつい。
しまちゃん家にはパパが二人いる。能天気でマイペースな茜パパと、理性的で優しい葵パパだ。
そんな二人に愛されすくすくと健やかに育ったしまちゃん。ところが、授業参観の後、パパが二人いてママがいないなんて変だとクラスメートに言われてしまう。
「変じゃない」と言い返したしまちゃん。だが、しまちゃんは自分の家族に何の不満もないものの、茜パパと葵パパがどうして結婚したのか、ふと疑問に思ったのだった。
授業参観の帰り道にパパ二人に疑問を投げかけたしまちゃんに、茜パパが葵パパとの馴初めを語ってくれた。そう、初めての出会いは、葵パパの「秘密基地」で……。
オメガバース作品。オメガバースとはなんぞ? というのは、ググれば私の説明よりもよっぽど解りやすい図解がいくつも出てくるので割愛。
私は普段、ツルツルテカテカな絵柄のビーボーイコミックスってあまり読まないんだけれども、表紙が助平じゃない作品は当たり率が高いという個人的観測により、試し読みを読んだ。そしたらパパ達の過去話の出落ち感が気に入ってしまい、購入してしまったという次第。実際のところ、わりと当たりだった。
オメガバース設定の作品は性質上悲惨になりがち……特にΩのほうが。そして悲惨な暮らしぶりのΩが理解のある彼くんに出逢って幸せになるというのがよくあるパターンのようだ。
だが、本作は型破りなストーリーだった。つまり、野性の本能に振り回された挙げ句の不幸展開ではなく、αもΩもそれぞれ本能を抑え着けてお互い相手を気遣って着々と幸せになっていったという、そんな結婚生活の序章話。
このご時世なんで、なるべくポリティカルコレクトネスに配慮したストーリー構成なのだろうか……。BLという時点で男性同性愛者の性的搾取だろけしからんと言われたら終わりだけれども。まあ、Ωが一方的にヤられて不幸になる話よりはストレスなく読めていいと思った。
茜と葵の若い頃に使っていたガラケーの型からして、彼らは00年代半ばくらいに高校生だった模様。ということは、現在は見た目は若いけど30代半ば。で、娘のしまちゃんが小学校低学年ぽいので、彼らはガチで計画的人生を歩んできたことがわかる。芸が細かい……。
とはいえ、エロシーンはエロい。別にエロがエロいのは悪くないけど、個人的にあんまり受けが派手にトロ顔するのは好きじゃないんで、そこだけは微妙と思った。
あ、これはネタバレになるけど、彼らはちゃんとゴムは着けていたというのが後のページに書かれていて、そんな後出し設定をだされてもなと思いつつ、ページを遡ってみたら、ほ、本当にゴムして致している!? それを修正が入らないように描くだなんて、なんつう芸と配慮の細かさなんだ……。半端ねぇ。
オメガバース設定はその性質と物語のよくあるパターンから、ずっとBL読みからも批判され一部からは嫌悪されて来たのだけれども、批判される部分を全て排除した作品も出て来るとは……。これもまた業界の自主的表現規制のたまものかと思えば、良し悪しだなぁ。そもそも、女性向けの作品で今時は古風な嫁入り譚とかが書きづらくなってきたというのも、オメガバース等特殊設定が流行った原因の一つだと思うので、オメガバまでクリーンになると行き場のない物語の受け入れ処が更になくなってしまうのでは。
この世ならざる者をホイホイ拾い、しかもまぐわうことで相手を成仏させるという特殊スキルを持った若者・左近桜蔵(さこんさくら)を主人公とした短編~中編連作集。シリーズは『左近の桜』『咲くや、この花』『さくら、うるわし』『その花の名を知らず』の全部で四作品が刊行されている。
大学生の桜蔵は、父方の祖父の墓参りに行く為にバスに乗った。そこで彼はまた自分が異界に迷い込んだことを察知し身構えたが、起きたのはなんと交通事故。
そこで物語は四年前、彼が高校に上がる春に遡る。祖父の遺品を祖父の縁者に形見分けをする際、遺品の一つが函だけを遺して中身がないことが判明。桜蔵は無くなった茶碗〈ざくろ〉探しの手伝いをすることになった。桜蔵は〈ざくろ〉の手がかりを求めて、祖父の生家・白鳥家の家系を辿るが……。
『さくら、うるわし』までは幻想小説の体だったが、『その花の名を知らず』はそこにミステリー要素が加わる。といっても、殺人など事件が起きて主人公がその解決にのり出すという話ではない。テーマは茶碗〈ざくろ〉の行方探しというよりは、茶碗探しにかこつけて桜蔵と血の繋がりのない父親・柾の系譜を遡り、彼らの因縁を解き明かすことにある。
そもそも、『左近の桜』シリーズのはじまりは、桜蔵が柾に懐いた疑問、「どうして柾は子どもを持つことにしたのか」なので、今回もまたその謎に、一族の系譜を紐解くことで迫ろうということのようだ。
私はずっとこのシリーズをなんかよくわからん幻想小説と思って読んでいたので、物語にミステリー要素があるということを完全に見逃していた。なんなら、あれだけ頻繁に登場しまくる柾をただの味のある脇役くらいに思っていたりとか……。なんだかなぁ、すごい訳わかんない話だけどなんなのこれ? と。
ところが、最新作『その花の名を知らず』を読んでみて、既刊とテイストが違いミステリー要素があるのは一体何故なのかと不思議に思い、それから、万葉集などの和歌や謡曲などの引用があるのが気になった。もしかすると、このシリーズは単なる思いつきとインスピレーションで書かれた幻想小説というより、何らかの大仕掛けが仕込まれた大作なのでは? と思い付いて、シリーズ一作目から全部読み返した。ああ疲れた!
細かいことは全部省くけど、『左近の桜』ワールドには「蛇性」というかつては水神を祀っていた一族……その者達自身が蛇あるいは水神なのかも……と、その伴侶となる「女」の血筋があって、前者が柾の家系、後者が桜蔵の血筋のようだ。桜蔵の育った左近家は、何故か「女」の血を継いだ男の子を、養子にするなど何らかの形で代々引き取ってきたらしい。
「蛇」も桜蔵の血筋(おそらく、『左近の桜』に出てきた「とても長生きな蜃=龍の子ども」というのがこれだ)も長寿だというが、家系図をみれば、柾の先祖にも桜の先祖にも誰も度を超えて長生きした人物はいない。「長寿」というのは、血統が絶えることなく長く続いているという意味なのだろう。
そもそも、タイトルおよび主人公の名が「左近桜」に由来している。左近桜は京都御所にあるとても長い歴史を持った桜だが、すごく長生きな一本の木なのではなく、枯死するごとに新しい桜を植え替えて守り続けて今に至るものだ。『左近の桜』シリーズにおける「長寿」も、そういう意味での長寿なのだと思う。
まあそういうわけで。桜蔵は「蛇」の伴侶になる「女」で、彼の戸籍上の父親の柾は「蛇」だ。柾は過去に彼の最愛の「女」を亡くした模様。そこで柾は桜蔵を自分のあたらしい「女」にするべく桜蔵を育て、彼が大人の「女」になるのを待っているのか、それとも単に「女」を育てるのが自分の役目と思って育てただけなのかは、『その花の名を知らず』でもまだ不明。
まあ、柾×桜蔵というカップリングが成立するのかどうかってとこだけど、年齢差が20歳以上もあるから、どうなるんだか。
『その花の―』はストーリーの大部分が桜蔵の子ども時代の話で、柾と桜蔵が親子らしくキャッキャしているシーンが微笑ましくてよかった。それを読まされると、あーこの二人がカップリングになることは無いかもしれんなぁーという気もしてくるけども。
「猫飼停」と呼ばれる豪奢な屋敷に棲む兄弟達のもとへ、とある必然によって引き寄せられた男達のなんやかんや。
『左近の桜』シリーズみたいに深い謎があるわけではない、肩の力を抜いて読めるちょっとえっちなBL短編連作小説だったー。
猫シッターのアルバイトのつもりがセックスのポジション的な意味で猫にされてしまう大学生の話から始まったので、猫飼停に住まわされて客を取らされる話かなあと思ったら別にそんな話ではなかった。
BL要素以上に、猫飼停の和洋折衷の豪華絢爛な内装や調度を想像するのが、とても楽しかった。
今回はこれまで。最近某BLレビューサイトのくじが当たらないし、長野まゆみ先生の新刊待ちでBLに使えるお金が乏しいので、BL日照りだ……。
ゲームの歴史や文化への推測で物が書かれてそうだったので補足したい。
こういった攻略情報を見ないで遊ぶプレイヤーの可処分時間時間を尊重しているとはとても思えないゲームが増えた
~
昔よりも今のゲームの方がギミックが複雑になっていたり、プレイ時間が長くなったのには理由がある。
こういった物が積み重なり、ユーザーもゲームに慣れていった結果、今の複雑なゲームがある。
そもそもゲーム開発において、ゲームを難しく作るのは簡単。易しいゲームを作ろうとすると沢山の知識や技術が要求されるので、難しいゲームは必然と増えていく。
難しくておもしろいゲームは生まれるし、難しくてつまらないゲームも生まれるので、すべての難しいゲームを一辺倒に悪と切り捨てるようなイチかゼロかの話ではない。
今はネットなんて皆使えるし、ネットがないなら攻略本があるわけだから攻略情報はいくらでも集まる。
~
結局さ、攻略情報見ないこと至上主義のプレイヤーが時代に取り残されているだけなんだよね。
~
たとえばスト2で遠征先で戦った強敵と情報交換し合うことでそれぞれの地域だけじゃ見つけられなかった知識を深めることでゲームをより深く楽しめてたわけじゃん。
攻略情報の交換がゲーム文化の一部になっているのはその通りだと思う。
昔のゲームセンターには白紙の攻略本が置いてあり、ユーザーが攻略情報を好きに書き込み情報交換をしていたし、雑誌に攻略情報の投稿をしていた人もいる。
今も同様に、ネットに攻略情報を書き込み情報交換するのはそういった文化の発展があるから。
「自力でゲームクリアーを目指す人が時代に取り残されている」というのはかなり疑問。
ゲーム配信者が高難易度のゲームを自力で解いて配信が盛り上がるような例もあれば、ひとりでコツコツと頑張り楽しんでいるユーザーもごまんといるはず。
結構昔からの友達に、色々ちゃんと自分で考えるタイプで、波長が合うし尊敬してるタイプの子がいるんだけど、その子の様子が最近ちょっと変わっていて。
何かというと、所謂『能力主義は正義か?』的な話(成功は本人の努力によるものではない的なやつ)と、フェミニズムにすごい傾倒してて。
こうやって、特に"フェミニズムに傾倒"って書くのは実はかなり抵抗がある。
というのは自分自身そういう考えを持ってるし、そもそもこうやって"フェミニズム"って日本語で書いた時、それが何を指すのか今はすごい曖昧になってしまってるからだと思う。
※ここでいう"フェミニズム"は、所謂揶揄されるときに使われる"行き過ぎたツイフェミ"みたいな意味ではなくて、女性の人権を守ろうとする考え方や運動、つまり本来の辞書的な意味のフェミニズムです。
そういう"真っ当な"ものだと考えているなら、なんで"傾倒"なんて言葉を使うのかというと、そうとしか言えない状態に友人が見えたからで、それがこんな長々と文章を書いて自分の考えをまとめようとしている理由でもある。
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その友達は昔から本当によく考える人で、ともすれば面倒臭い人なんて扱いを受けることも多かったそうだが、こちらも"自分の頭で考えずに生きるなんて"、という方だったのですごくウマが合った。
ウマが合うといってもずっと一緒につるんでいたわけでなく、中学の時から接触が増えたり減ったりしながら、社会人になった今でも繋がってるといる感じ。
で、最近電話で話し込む機会があったんだが、そしたらなんか友達がその、ちょっと変わっていた。
能力主義は正義か?という話も、フェミニズムも、今ある当たり前を疑うという話ではあるし、それ自体に自分もアレルギーがないどころか、特にフェミニズムについてはかなり友達と似た意見を持っていたはずだ。
ただなんだろう、自分の頭で考えていたはずの友達の口から、インターネットやそこらで聞き飽きたような話がつらつらと出てくるのには結構な違和感を感じてしまった。
能力主義のあれそれやフェミニズム的な話を"聞き飽きたような話"と書くのもすごく抵抗があるが、じゃあ例えばそれが何かというと、エリートへの怨嗟、結婚制度は家父長制を助長するであるとか、現状に対する特権側の無知厚顔さであるとか…。
それらの主張や感じ方自体に反対かというと、そうでないどころか自分も同じような考えを持っていさえする。
だから、所謂"ウワッフェミニズムの人だ!(笑)"みたいな気持ちには当然ならなかったし、途中までフンフンそうだよな的な気持ちですらいた。
のにも関わらず、だんだんと違和感が大きくなっていった。だって、あまりにもその、聞いたことあるし思ったことある話だから。
いやそりゃ、同じ問題について課題意識を持ってるんだから、同じことを考えるのは必然だろうというのもわかるし、それはそうだと思うんだが(例えばフェミニズムじゃなかったとしても)。
ただ、あまりにもその単語の全て、怒りの方向性、結論、雰囲気(としかいいようがない)などがあまりに既視感のあるもので。
似たような人間が同じ本を読んで感想を熱く語っているような、そんな印象を受けた。
で、じゃあその何が問題なのか?というと、それでその友達がものすっっごく生きづらそうだったのと、自分にも同じ生きづらさについて思い当たるところがあったというところ。
いやさ、フェミニズムなんて女性の生きづらさに対する考えや運動なんだからそれを意識すれば大変なのは当たり前で、でもそれに無関心、無知で生きるよりよっぽど良いだろと思うし、それは別に間違ってないとも思う。
ただその"フェミニズム"的考えが本当に全部自分のものなのか、考えたほうがいいなと思った。
別に自分の原体験じゃなくたって、他の人の怒りに同調することは全く悪ではないし、実際日本はジェンダー格差がやべ〜のは事実だし、それに怒ることはマジで大事だと思う。
でも、そういった考え方や感情のどこまでが本当に自分のものなのかを間違えたり、わからなくなると、なんというか現実までそれに歪められてしまって、目の前の人間や現実をそのまま受け入れられなくなってしまう気がする。
"よく考える人である"はずの友達をあらためて客観的に見た時に、あまりにも『能力主義は正義か?』とかフェミニズム的な考え…イデオロギーを外からガッツリインストールしてしまって、それに雁字搦めになっているように見えた。
そこで改めて自分や"フェミニズム"というものを顧みてみると、やっぱりかなり思うところがあった。
今のツイッターの"フェミニズム"ってさ、まぁあくまで自分の観測範囲内であることは先に強く言っておきたいけど、こんな感じじゃん:
・みんなが個々で色々考えて言っているように見えて、そのベースにはある程度共通のイデオロギーがある(ように見える)
・そのイデオロギーは別に特定の有名人一人の考えではないが、複数人拡散力の強い人はいる(本の著者やSNS上のインフルエンサーなど)
・対抗勢力めいたものがいる(その雰囲気を帯びた投稿にめちゃめちゃ噛み付くユーザとか)
・程度の差はあれ、現実の認識がそのイデオロギーに影響されている
これってさ…この特徴って、フェミニズムだけじゃないインターネット上の"運動"でよく見かける気がしないか?
ネトウヨとか、スピリチュアルとか、陰謀論とか、そういう、「自分の頭で考えれば良いのになぁ」って感じの人達。
↑の箇条書きのテーマをフェミニズムからこれらに読み替えてみてほしいけど、どれでも結構当てはまると思う。
まぁ、だからどうなのかと言われると、少し困る。
ジェンダー格差は現実の切実な課題としてそこにあることも、それを自分が問題に感じることも変わるわけじゃない。
ただ、少なくともインターネットで多く繰り広げられてる"フェミニズム的なもの"については、↑のような要素や部分も少なからず有るようには感じる。
人間というものがなんらかのイデオロギーを持って活動しようとすると、多かれ少なかれ似たようなことになるのかもしれないな、とも。
だから、これもどこかで聞いた話だが、"その怒り(じゃなくてもいいけどなにかの強い感情、そして多くの場合は怒り)は本当にあなた自身の怒りなのか?"というところがわからなくなったら、一旦距離を置くというのも(その人自身の人生にとって)良い選択肢なのではないかな、と思う。
別にインターネット上のフェミニズム自体を全く否定するわけではないし、拡散力がある以上その手の運動にとってインターネットの活用は不可欠だと思う。
具体的に名前が浮かぶアカウントも、普通に応援したいというか頑張れ…とは思っている。でも、俺は一旦離れようかな、という感じ。
こんだけつらつら書いて結論弱?!って感じだが(笑)、自分が信じ込んでるものについて、リアルで他人の挙動を見せられたのは結構衝撃だったし、それをみて自分にも思い当たるところ(振る舞いもだけどそれより特に考え方について)があったのも衝撃だったし、それを整理するのに分量が必要でした、という感じだ。
その友達も変わらず俺の大事な友達なので、別にそのイデオロギーめいた部分以外は変わってないし話してて楽しいし、同じ考えを持つことを強要されだすとかしない限りは(そしてそういうことはしない人だとは思う)、仲良くしていきたいと思う…(書いてて改めて思うけどほんと陰謀論の人とかに対する感じ方だな…)。
ちなみに自分の振る舞いや考え方で特に思い当たったのは、同性パートナー(男)への評価の仕方がなんか、毒されてるな(あえてこういう日本語を使う)と思った(し実際相手から微妙に指摘された)という感じです
こういうちょっとした違和感が重なっていた所に、ドーンと友人の挙動を見せられたのがトリガーになった感はある
蛇足にしたのは本編でしていたイデオロギー云々の話に、自分の個人的な話(特に属性)を入れると話が発散しそうだなと思ったので…
男でフェミニズム?モテたいの?とかよく言われるけどゲイだと結構色々思うところはある。
ただあんまりこの話をするとそもそもフェミニズムは女性の権利の回復の話であって(勝手に男のものにするな)、みたいな話にもなるし、別にその話をしたいわけじゃないのであまり脱線させたくなかった
続きはwebで
のことではなくてですね。あれは作られた引きが気にならないしそういや最近見ない気がする。
私、ウマ娘にはまったく興味がないのですが、テレビでもアベマでもニコニコでもCMがじゃんじゃか流れているんですよ。
「君の愛馬が走り出し~」って歌詞なんすかね。愛馬じゃなくてアイドルかもしれん。ウマ娘は馬じゃないらしいから愛馬なんて言葉はなくてアイドルかも。知らんけど。そこはどうでもいい。
走り出して、なんなんだよ!「し」と接続したら続いて「~する」とかなるだろぉ!?
すげー中途半端じゃん!歌詞としてもその部分で請求できる点あんまりなくないか!?走っただけだぞ!?
なぜ、そこを選んだし。いやまさか語尾がしのキャラの曲じゃあるまいな?もしそうならカンカンだし!ししし!
実際のCMは「走り出し~(フッフー)」っちゅう合いの手が入るんだけどそこ削るなり編集するなりで続きいれろよ!とも思うんだよ。タレントのフッフーは確保できてもその後の数秒は確保できないんか。
毎回気になる続きをフッフーでごまかされるようで嫌だ。
こんな文章書く暇で調べろとなるが知りたいという興味が微塵も無い。そういうんじゃなくてわざと不完全にしたものをどしどし流し込まれる不快感。おまえのCMにニケ像的魅力はねぇよ。
もしセブンイレブンのデイドリームビリーバーが「ずっと夢を見て」や「僕は」や「そんで」で切られたら同じようにイライラしてたと思うわ。
反対勢力を包む「応援しているからそのまま攻撃されて耐え続けていてね、屈したらその時は私達が責めるけど」という態度だけで全てが説明できてしまう。
この時点でどちらへ流れが強く向いているかが分かるだろう、強引に引っ張っている相手に対してこの無防備宣言である。
よく標的になるオタク層分野に多い「消費以外に対する面倒くさがり」が思いっきり出てしまっているよね。
SNSでちょっと書くだけで何にもならない「応援」の何と虚無なことか、そこには何も守れるものはないし負け続けるのは必然過ぎて笑えてしまう。
助けにもならず、力にもならず、ただ騒いで消費するだけ、いじめ被害者を安全圏から応援する外野のような優良顧客気取りの集団にこそ、現場は一番うんざりしているというのにね。
屈するなと吠えるなら、精々その好きなものを努力して助けたらいいのにそれだけはやろうとしない。
屈した企業は叩いても、いざ敵自体には言い訳並べて絶対に立ち向かわない。
直接どころか間接的に仕組みを作ることすらそれはとても面倒くさいから。