はてなキーワード: 不利益とは
(長く書きすぎたみたいだ。途中で切れてしまった。。。)
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新たな研究分野の基礎を示した先駆的研究として評価することができる。
本論文は日本語の文法事象を中心に扱っており、その記述・分析の面においても、射程の広さと事例観察の綿密さが評価される。分析対象として、格、時制、主語・目的語、自動詞・他動詞、態、形容詞といった広範な現象を横断的に扱い、本論文の主張する日本語の「主体化による認知モード」によって一貫した説明が試みられており、それらがいずれも西欧的パラダイムによる言語研究で標準的に使用されてきた文法概念と完全な対応関係を結ばないことが、説得力をもって示されている。
日本語学で所与のものとして適用されてきた「動詞の自他」や「態」といった文法概念そのものの再検討を迫るという点で、本論文は日本語学研究にも一定の貢献をなすものである。また、本論文は日本語における文法カテゴリや語彙の変容にも照準を合わせたものであるが、その主張は単なる理論的憶測ではなく、万葉集や源氏物語などの主要な古典作品をはじめとする膨大な歴史的資料に基づいたものであり、言語研究において不可欠である言語データの観察の綿密さについても高く評価することができる。
本論文は共時的な言語事例と通時的な言語事例とを並行的に分析し、日本語の言語現象全般と個別現象の解明を目指した統合的研究であり、認知言語類型論という新たな研究視点を提供している点で、学術的価値は高いと判断される。
まさにお墨付きだ。
最後にちょっと真面目な話。『認知言語類型論原理』の問題は、この書評で間違いだと明らかになったことじゃない。学問は古い学説を踏み台にして進んでいく。今の定説もいつかは否定され、乗り越えられていくかもしれない。だから、間違いを含んでいるとわかったこと自体は問題じゃない。それまでの研究に新たな知見を付け加えたのなら、たとえ間違いを含んでいても価値ある研究だ。ダメなのは、従来の研究に何ら新しい知見を付け加えず、最初から間違いだとわかる研究だ。『認知言語類型論原理』はまさにそのような本だと批判されている。もちろん、出版された本に対してそのような批判をする権利は誰にでもある。たとえ批判が当たっていなくても、ある。自由に批判ができることは、学問の発展に不可欠だ。書評子が批判をしたことで将来不利益を被ることがあってはならない。
それにしても、どうして『認知言語類型論原理』は『日本語に主語はいらない』みたいに多くの言語学者から批判されていないんだ? 『日本語に主語はいらない』は大手出版社から一般向けに出たのに対して、『認知言語類型論原理』は学術専門出版社から専門書として出たからか? それにしたって、専門書でも専門家なら読むだろうし、なんならもっと真剣に読むだろう。他に書評は出てないのかとCiNii https://ci.nii.ac.jp/ で『認知言語類型論原理』を検索したけど、ないみたいだ。もしかして京大とか超大物研究者とかの権威に怯んでるのか? 文系の学問がそんな腐敗した世界なら、世間から不要とされるのも無理はない。この腐敗した世界に堕とされても、くだらないことでビビることなく「王様は裸じゃないか! 裸の王様、何を学んだの?」と喝破した書評子には拍手喝采を送りたい。だけど、こんなものを書くために生まれたんじゃないだろ…。
日本の大学、特に文系の学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系の学者達は自分たちの存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系の研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系の先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。
だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端の研究は専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン。一般・特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系の研究も基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。
本題に入ろう。最近、1つの書評論文が東大の言語学研究室発行の紀要に出た。
田中太一「日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型論原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313
https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2
著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学科 准教授の中野研一郎先生。
普通、書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後にちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評も酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンのフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。
一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である「博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大な論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分のオリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間の知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。
そして博士論文の原稿は、3~5人の審査委員が審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学の教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文を大学に提出していいかを審査する二次審査、最後に論文が完成し、大学に提出された後、博士の学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。
ミサト:おめでとう!
アスカ:おめでとう!
レイ:おめでとう。
研究者人生のフィナーレではないが、1つのピークである。こうやって研究者の能力にお墨付きを与えるのが大学の存在意義の大きな一部分だ。
要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ。日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本の大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校の先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学の准教授になったようだ。周知の通り、大学の終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。
博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学の博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学の博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学に就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生の師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型論原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本を代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生は2014年度に京大を定年退官して、2015年度からは中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文の審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査の主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。
さて、超大物お墨付きの博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからないからパス。3節「日本語に存在しないとされるもの」から見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分からの引用がある。
「日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリが妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである「日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。
(『認知言語類型論原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)
昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋『日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579
主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型論原理』は、ミニマリストの断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞/他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。
これは熊倉千之氏の「音象徴」理論に基づいているそうで、熊倉氏は、
膠着語にかんして、「イメージとイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。
とのこと。
近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性の原理を否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣の名前は、音と意味の関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴は基本的にオノマトペ(擬音語・擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかもあくまで傾向性。言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、
「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。
知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、
「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)
と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴は
「日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)
この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである。同音異義語の存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)
確かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、
「日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味・機能も通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本語 やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)
と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信と関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。
そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生や熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、
1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学、サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年に帰国後、東京家政学院大学教授、1999年金城学院大学教授。2007年退職。
という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学。言語について言語学界とは関係なく自由に思索・著述をしている人のようだ。そういう独自の言語論を唱える文学や思想の研究者はよくいるけど、普通の言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型論原理』もその類の本だったなら、東大で言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大の言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ。
他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。
ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的に文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ、英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!
ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後の激辛書評論文を大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型論原理』は、博士論文の審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!
もう終わりにしよう。書評の批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員の指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版社からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文の審査結果の要旨とほとんど同じ。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf
本論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式・文法カテゴリが創発する根源的理由の説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た
いくら友人であろうと、異性だけ終電で帰らせたり、旅行から外したりもする。もちろんしない場合もあるけど、それも当人たちが選択したことなんだよな。
ゲイを隠して友人で居ることは、その選択をさせないということ。
そして同性間にある特有の気の緩みから、自分が『男友達の中でパンツ見えてる子という、エロマンガ的なおバカさん』だったことに驚くわけだ。「誰もお前に恋愛感情なんか持ってないよ、自意識過剰だ」と言うのは、「ブスのパンツなんか見ねーよ、わざわざ隠すな」というのとあまり変わらない。
その人に魅力があろうと無かろうと、自意識はあるし、防衛本能もある。安心感が損なわれることに、己の顔面は関係ない。
自分が同性愛者では無いと主張する権利を個人は持っているか。自分がゲイでないのに、周囲からゲイだと認識される不利益を排するのは個人の権利なのか。主張すること自体に差別があることは明白だけど、個人的には仕方の無いことなんじゃ無いかと思う。
ゲイのあいつと特別なかの良いあいつ、という周囲の目を疎ましく思うことは仕方なかろう。その結果、もっとも近しい人から手ひどい拒絶を受ける、という経験をしたゲイの方はそれなりにいそう。
まだこのご時世、ゲイで居ることも、カムアウトされる方も、みな不幸。何世代か経てば、そういう状況も変わっていくんじゃないかね。それには周囲にも普通にゲイの人が居るんだよという、相互の理解が必要なんだと思う。
なにこの春って奴。自分に都合のいい論文だけ拾い読みしてんのか?どっちも暴言だろ。
差別は何が悪いかって、自分がその属性であるだけで謂れのないレッテルをはられることにより不利益を被ることだろ。男というだけで女を【潜在的に】見下してる発言とされたり、女というだけで発言内容が”フェミ”扱いされたり、ゲイというだけで不潔なもの違法なものとされたりってのが悪いところなわけ。
その時に、自分がゲイだから男女愛をクサすのはOKみたいなのは皮肉文化やカウンター文化として表現の自由に組み込まれるというのは、今の世の中では割と通りがちだが、実際は属性で強者扱いされる救われない被害者を産むだけで、やっていることは同等にゲスだと俺は考えている。
差別や不当な扱いを受けるとき、徹底的な抗議は必要だ。その説得材料として逆サイドにいる人間の扱いを引き合いに出すのは良いが、逆サイドを蔑める行為をするなら、それは正しいことだとは思わん。
強く言い切ることで反発を誘発することが「議論を呼んだ」と評価されるのは、俺の評価軸からすればクソだ。どの立場にも気を使い理解しようとした上で、それでいて事なかれとするのではなく、自分が正しいと思うことをハッキリと発言する。そういう意味で、事なかれで収縮するのもクソだ。もちろん鞘から抜かないような判断も必要、いつも剣を振りまわしていると「クレーマー」のレッテルにより言葉が届かなくなる。だから自分の譲れない部分は局所化して持っておく。
春 on Twitter: "ジャンプの件は「女性に配慮した作品をつくれ」ではなく、「少年がメインターゲットであるという点を譲歩しろ」という話でもなく、「倫理観を持て」という話だと理解している。 男子向けにつくるなら女子への加害はエンタメ扱いするのがまぁ当然、みたいな意識には問題がある。という感じの話。"
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/tiharu4happy/status/1191638835324522496
ちょっと故意にすっとぼけてるのか本気でアレなだけなのか判断つかないので真面目に書く。
ジャンプの件は「女性に配慮した作品をつくれ」ではなく、「少年がメインターゲットであるという点を譲歩しろ」という話でもなく、「倫理観を持て」という話だと理解している。
男子向けにつくるなら女子への加害はエンタメ扱いするのがまぁ当然、みたいな意識には問題がある。という感じの話。— 春 (@tiharu4happy) November 5, 2019
「女子への加害をエンタメ扱いする」とは具体的にジャンプのどれのことなのかがわからない。
女子への加害をエンタメ扱いしてたら確かにグロいし感心できないし当然私もそんな漫画を好きにはなれない。
けれども現在のジャンプでそんな漫画があったっけ?というと思いつけない。
(もしも女性キャラが胸元空けてる衣装などを「女子への加害」と言ってるならかなり話は違ってくるんだけど。)
だからまずジャンプのどの漫画の何ページの描写なのか言って欲しい。
言われればちゃんとバックナンバーを当たって当該箇所を読み直して考えるから。(電子版便利)
でもそれを絶対言わないでしょ。
むしろ「こんなに酷い描写があるから見ろーーッ!」って言いたくなる筈じゃない?
なんでそこ避ける?
雄弁だったのに具体的に質問されると一転ダンマリになる感じが。
…本当にそんなの見たの?
具体的に、何をどのようにすると、何故まずいのかの明文的な基準の提示を規制論者がやらないことにある。※1
その質問を投げかけられても決して答えないので、逃げているようにすら見える。
別にジャンプが無謬だと思わないし「この漫画のこの描写に抗議する」ということなら全然いいと思う。
私も例えばワンピースの単行本のオマケで「男性キャラが女性に性転換したら全員スイーツやサラダの話ばかりするおばかになる」(女性キャラが男性に性転換すると粗暴で野心的になる)という描写にはうわあ~ステレオタイプ!と思ったし感心出来なかった。
スケットダンスにかなりホモソーシャル的だなあと感じた回もある。
そういう具体例について指摘して批判の議論をするならいいと思う。
もちろん納得せずに「それぐらいいいだろ!」って反論してくる人もいるけど、それら全て意味のある議論だし批判だよね。
でも具体的に言わずに「倫理を持て」で規制かけてくるのは怖いよ。
それはもう何でもやり放題じゃん。
でも規制論で「倫理」が基準にされるのは怖すぎ。フリーハンドといっしょじゃん。
ていうかはてなってそういうのを懐疑する側だったと思うんだけど。
「倫理を持て」とか「常識で考えろ」とか「普通にわかるだろ」とかで咎められるのって怖いし理不尽じゃん。
そうやって議論を回避しつつ恣意的に取り締まりたいっていうのは権力的な仕草じゃない?
はてなはどっちかっていうと反権力・リベラル勢力だったと思うんだけど
なんでオタク規制のときだけゴリゴリの保守みたいに問答無用の権力的な顔つきになるの?
そんな長くなかったと思うけどまとめ。
1、ジャンプの問題を指摘するなら問題のある作品名と箇所を具体的に言ってよ。
2、「倫理」とかいう恣意的に内容決められちゃう基準で規制出来たら弾圧国家だよ。
これだけです。わかりにくくないでしょ?
「倫理」なんて人によるんだから、客観的に論じるべき話題でそんな言葉持ち出される時点でちょっと「えーっ?」ってなる。
tweetの春さんは「BLが好き!」って書いてるけど、「ホモなんて論外!」っていう倫理の持ち主絶対居るよ。
倫理ってそういうものなんだけど、春さんや彼女に賛同する人はそこからわかってないのかな。
yas-mal そもそも、元Tweetに「規制」という単語は出てこないようですが…。
2019/11/06
これは予想し得うる限り最もくだらない逃げであると同時に、
「規制」という言葉を使わないようにしているのは気付いていますよ。
で、今回実際起きていることはどうですか。
日赤は弁護士から「セクハラである」と明言され世論への火付けを図られ
ジャンプ作家の篠原健太もクレームへの丁寧なやり取りの中で「不快な表現があり得る」と述べたら
セクハラも差別も一発で社会生命が葬られるぐらい重い疑義であって
挙句に「”倫理観”をもって自主的に”考えれば”これ以上攻撃しないよ?」
ヤクザの脅迫も「誠意を見せろ」と言って具体的に何が問題でどうしてほしいのか言わないそうですが
yas-mal氏の「規制とは言ってない」は「金を出せとは言ってない」とどう違うのでしょう。
segawashin 規制ってどこから出てきたの。表現を考える根拠の一つに倫理を置くことと規制は殆ど正反対の差があるのに。例えば我々が猫虐待画像を許せないのだって要は倫理の問題なんだけど、都合よく目の敵にしないで欲しいね。 33 clicks
2019/11/06
yas-mal氏と同じおとぼけは流すとして、
私は猫虐待画像は全然許します。それ許さなかったらジョジョも読めないですから。
都合よく目の敵にしないではどっちのセリフなんですか、
あなたは日頃からオタクを目の敵にしてオタクの話だと蔑視的攻撃的なツイートする人に見えます私には。
あなたの”倫理”なんてなおさら全然広く共有できる代物でなくないですか。
当人にその自覚もなくむしろ「自明絶対のルールだぞ」ぐらいに勘違いしがちだからこそ”倫理”はあてにならないんです。
noemi_itoh 明確な基準を示さないのは自分の頭で考えろという意味で、表現規制しない為なんだよな
2019/11/06
絶え間ない攻撃と不利益の予告をしながら「自分で考えろ」というのは
あいトレへのクレームや圧力や不利益の予告は「自分で考えることを促していただけ」「倫理の話をしただけ」「規制と正反対」なんですね?
どんな圧迫を加えても「規制」とさえいわなければ規制ではないのだと。
ひどい言い逃れです。
Cunliffe 「「倫理」とかいう恣意的に内容決められちゃう基準で規制出来たら弾圧国家」なんでいきなり「国家」に飛んじゃうのかねえ。「国家」が「倫理」を押し付けてきたらわたしゃ反対するよ。
2019/11/06
私もあなたと同じく国家が倫理を押し付けてきたら反対しますけど、
あなたと違って一部市民が倫理を押し付けてきても反対するんです。
いや、あなただって押し付けられる側に立ったと感じたら絶対反対すると思いますけどね。
少なくとも自己の内面を掘り下げない一般男性よりは自覚的であると言える
比較的ありのままで存在を認められる「かわいい」といった女性特有の強さは
需要どころか排斥対象すらなりえるという自覚から逃れなれない男性にとっては
もはや羨望の対象ですらある。
「宇崎ちゃんは遊びたい」も女性を弱者として性的に消費してるどころか
一億稼げといわれたら宝くじが現実的で説得力ある選択肢になりえるように
女性に接触する唯一レベルで説得力がある可能性という悲しい構図なのだ
前述のようにオタクは弱者で、どう取り繕っても本質的にキモいという自覚があり
自分は何も持っていないと考えている。
だからこそ自分の内面の欲望と向き合い、空想することが生き甲斐になっている。
フェミな方々があげる問題は「持つものが価値をどう保護運用/自己コントロールするか」の話に見えてしまう
それどころか、持つものが持たざる者の逃げ場所を価値の自己コントロールの対象として奪おうとしてるようすらみえる。
大多数のオタクは女性の不利益は是正されるべきと穏当に考えてるが
表現の弾圧は是正のための唯一の手段でも、効果的な手段でも、女性被害の象徴ですらない
リターンなど考えずただ叩きやすい弱者だから叩いてるように見える。
弱者から潰すのは戦争では常套手段とはいえ、禍根を残す虐殺をやる覚悟をちゃんと持ってるのかは疑問である
圧倒的強者である女性にたいしてオタクはできるだけ接触したくないと考えている。
(ただし、いけるという勘違いが発生してしまった場合はこの限りではない傾向がある)
ファンタジーを現実と同一視するどころか、現実の象徴とすらして
オタクこそ現実の女性を積極的に性的消費する第一人者とみなすのは大間違いといえる。
むしろ、現実の女性への性的消費から遠いところにいるのがオタクだ
オタクは自らの欲望と向き合い自給自足にある程度成功している。
男性的な性欲を満たすのに必要なパラメーターは客観的にはけっこう少ない。
たぶんロボットアーム付きルンバみたいなのに遠隔操作か自律動作で家事をやらせるのがどこかで流行るので
触覚も20年以内にある程度解決する可能性が高いのではないかと思う。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20191101/k10012159841000.html
この制度で行きますよーと公になったときには既に教員として働いていて、いま高2の英語を教えているので、ここまでの流れと制度の詳細は大体知っているつもり。
延期については、まあそうですかというほかないけど、このタイミングでってすげーなとは思った。
文化祭、定期考査、修学旅行準備と日々の授業準備の傍ら、9月から申込の書類を(生徒のお金で送料も払って)取り寄せて、保護者通知の文書を作って、生徒集めて説明会してそのために各大学の方針調べてスライドも作って、申請用紙書かせてチェックして取りまとめて、保護者会でも説明して相談に対応して、さっそく書類発送のために文書起案しようかなと思っていたところに今朝のニュース。
まあでも大切なのは生徒だ。生徒の不利益にならないようにと準備してきたわけなので、結果、延期の方が生徒の不利益にならないならそれでいいと思う。でも今回の騒動で、既に生徒が振り回されてるのも事実で、それって何に振り回されてたの?ということは、このニュースに興味持った人はせめて頭の片隅にでも置いといてもらいたい。
いま言われているような問題点(受験料、会場に起因する不平等や、入試に民間団体を参入させることの正当性)は当初から指摘されてきたもので、それをずっと抱えたままここまで来て、「身の丈」発言があったことでマスコミが大々的に取り上げ、世論が大反対して、一人の大臣のひいては一連の政権の不祥事という文脈の中で、この制度は引っ込められた。
延期自体は、問題点を潰してから始めるって意味で現時点でのベターだと思うんだけど、政権もマスコミも世論も、結局ここにきて政治的な動きをしてその結果生徒を振り回している部分も見える。みんな「受験生ファースト」的なこと言いながら自分の政治的な言動を取って少なくとも民間試験対策してた生徒は振り回してる。まあ特に対策してない多くの生徒からしたらラッキーなだけだけど。
でもこの話のスタートラインは政治ではなく教育。私も、制度に対する疑問はありながらも、より教育的だと思って生徒に4技能を伸ばす指導を心がけていた。そもそも制度導入したのは、受験英語を目標に勉強してると4技能育たないよね、って話だったわけで。
つまり、なんかこれもう英語教育の話じゃなくなってる。特定の民間団体が食い込むことによる公正性の問題はあるとは思うけど、「採点がバイト」などという批判には疑問を持っている。それだと最初から今回採用された民間試験の信用性を疑うことになるし、その疑問が妥当だとは思えない。また「民間試験だと難易度に差がある」という批判もあるが、そもそも、異なる民間試験の同じバンドルで測る「英語力」と、センター試験の最小2点差で区切られる「英語力」のどちらが「本物の英語力」を反映してるのだろう。そういうスタートラインはもう忘れ去られてるわけだ。
まあ、でも、世間はそれでいいんだろう。そんな話が吹っ飛ぶくらい「延期ではなく中止を」なんて叫ばれてる。これには「英語なんて◯◯できればいいんだよ」というたくさんの個人の経験則もまた寄与しているように見える。現実の、そして未来の生徒を振り回しているのは誰なのか、も考えて欲しい。
・来年から毎年、高3生は、6月と11月にセンター試験と同じくらいの重み・規模で、英検かGTEC(ベネッセの検定)を受けることになる。
というもの。
田舎(離島ではない)の進学校に勤めている自分の身の回りで起きていること、心配事を挙げてみます。
・英語外部検定は7種類あるが、田舎なので、受験会場が多い英検かGTECの2択。
・進学校なので学年全員が受験する。入試に直結する重要性から、受験会場までは学校でバスを借りて教員が引率する。学校行事のような位置付け。ちなみに現行のセンター試験も学年バス旅行、教員引率、ホテル借り上げて宿泊、弁当手配、などやっている高校がある。
・学年受験旅行は大がかりなので、学校として受けさせるのは英検かGTECのどちらか一つが限界。
・GTECも英検も期間内に2回受けられるが、基本的に、6月の第一回は試験が11月にある推薦やAO入試への出願に利用。11月の第二回は一般入試に利用。推薦入試を受けたい生徒にとっては6月が本番。
・6月というと、運動部は高校3年生の最後の県大会の時期で忙しい。今までの受験生より早く入試が始まることになるが、最後の大会に集中できるのか。実際、来年6月のGTEC試験日と部活の大会日程が重なっている部がある。その部の生徒だけ英検を申し込ませるなどの別対応が煩雑。
・そもそも6月は多くの学校で中間テストが行われる。英検やGTECの検定日周辺に、学校行事が重ならないようにする調整が必要。学校の年間行事計画はだいたい前年踏襲なので、大幅に変えると各所で混乱が生じる。
・検定試験を受けるのは来年度だが、申し込みを前年度の秋にしなけばならない。今まさにやっている。民間試験を受けていないと出願できない大学もあるため、全国の高校2年生が、来年大学受験をするかしないか決断を迫られ、今申し込まないで後で進学したくなっても救済措置がないので、恐らくほとんどの高校2年生が申し込みをしている。
・あまり報道されていないが、現高3生が浪人した場合も、民間試験の受験が必要になることがある。まだ今年の受験が始まっていないのに、浪人の可能性があるなら民間試験の申し込みをしなければならない。恐らくほとんどの高校3年生が申し込みをしている。
・英検はこの申し込みに3000円かかる。浪人せずに済んで受験しなかった場合でも、返金はされない。
・そもそも大学側は反対の声が強い。どうなったかというと、大学側が受験生に求める英語レベルは蓋を開けてみたら英検3級、準2級程度という大学が多く、これはそもそもその大学に合格できる受験生ならそんなに頑張らなくてもクリアできるレベル。大学は、受験生に検定試験を目指して頑張ることを期待しているというより、皆が形だけ民間検定を受けて、後は学校独自の二次試験で詳細な英語力を測って選抜する。という方向に持っていって、民間試験活用を無効化しようとしているように見える。
・そうなってくると、もうやる意味があるのかわからなくなってくる。
・しかしこの英語の入試改革が決まってから数年間、高校現場では情報収集を行い、勉強会を開き、不確定情報が多すぎる中で生徒・保護者になんとか学校の方針を説明し、生徒に不利益がないように頑張ってきた。特に英語科の若い先生などは新テスト対策係となり、情報提供を一手に引き受け、大変な負担がかかってきた。新入試を延期するにはもう遅いような気がするが、今後毎年このような複雑な業務を継続的にやっていけるかというと、なかなか難しいと思う。
僕は理系だけど物理系の材料屋なんで環境問題とかさっぱりわからない。
血液クレンジングのときの血が鮮やかかどうかなんかを分ける理由の知識はあるけど、それだって表面的な知識だ。
そんな僕が地球温暖化なんて問題が人為的なものであるかどうかなんてどうやって判断しろっていうんだ?
でも地球温暖化を科学的に考えるためには相当の時間や労力が必要になる。
僕には国民として経済の量的緩和や、公共の場での表現の自由なんかも学ばなきゃならない。
でも地球温暖化はもし本当だとしたら取り返しがつかない問題だろう。
じゃあ、そうした場合に僕がとれる行動ってなんだろうか?
今のままが楽だからという理由でもしかしたら取り返しのつかないことをしてるかもしれないことを肯定することはできるのだろうか?
今の社会で最も"強い"のは何かと言えば、
本来であれば、弱者または被害者というのは先んじて不利益を被ってるので、
その埋め合わせをする目的で社会的な利益を与えてトントンに戻す、
という扱いなのだが、
弱者または被害者だと社会的に扱われさえすれば利益を受けれるバグがあるので、
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これもまた実際には強者でも加害者でもないのにそう扱われてしまうと
現状において「お前は強者だ」というのは
強烈極まるレッテル貼りだと言える。
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「黒人=加害者属性なので全て加害者として扱う」というのが差別なのだから、
「白人=強者属性なので全て強者として扱う」というのも当然差別だ。
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どのような場合であっても、
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主観的で比べることの難しい心の傷を持ち出した上で、
「私はお前たちよりもより傷ついていることは絶対だ」と主張する。
「私の痛みを知らないくせに分かった風な口を聞くな」と言った口で
「私はお前たちの痛みを知らないが取るに足らないことはわかる」
と言い出す。
私がエビデンスとは、根拠はないが私が一番の被害者に決まってるという意味だ。
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「私はより繊細で傷つきやすいので
周囲は私の基準に合わせて動け」という主張も珍しくない。
助けて貰えなかったら酷いだなんだわめけばいい。
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それでも足りなけりゃ
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・騒動を揶揄した漫画から輸血を必要としている人の描写を削除し、
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自分らはその弱者よりも優先されるべき最高の弱者様だという自信が
ツイフェミの中にはあるのだろう。
とか言い出すようになるんじゃなかろうか。
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ツイフェミに限らず様々な場面で
より自分のほうが弱いんだぞと言い合う
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同情や関心を引く為に弱者だと偽るミュンヒハウゼン症候群では
だとも言われている。
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きっとツイフェミの皆様も
幼少期に弱者でいることの強さを知っちゃったんだろう。
新入社員時代の研修で、「社内規定に違反するようなことがあったら通報するための手段があるよ」ということを教わった。
なので、配属されてから2年以上立つ現在までに、50件くらいは通報したと思う。
社内規定上やってはいけないこと、みたいな研修が定期的にあるんだけど、その中の例文で出てくるようなことが周りには結構あったので、自分のチーム内の話でないことでも、どんなに細かいことでも見つけるたびに徹底的に通報してきた。
おかげで、通報した内容がもとで懲戒処分を受けた人もいた。誇らしい。
なのに、最近ふと気づくと、打ち合わせという打ち合わせに参加が求められなくなった。
メールも敢えてCCに入れられることがなくなり、本当に事務的な話しか自分には降りてこなくなった。影では「正論マン」と呼ばれていることをつい最近知った。
なんで?
社内規定に違反しているのは通報された側のはずなのに、なんで通報した俺が不利益を被らないといけないんだ?
この前面談があった人事にそのことを言ったら「君はうちの会社に向いてないかもね」みたいなことを言われたので、俺はそれをパワハラと受け取った。なので、また通報するつもりである。
少しでも、会社がいい方向に向かうことを願って頑張る。
ブコメにlifehackcat 読んだ。理解できない。を書いたものです。文字制限があるのでこっちで。
性的消費と言われると範囲があまりにも広いし基準が曖昧で疑問でしたが男性社会の迎合って言われるなら多少理解はできます。
ただ、まぁ一方的に傍受しているってのは双方あり得ないでしょう。
なんで満員電車で女性専用車両は空いているのだと思う男もいるでしょうし、なんで女性は夜遅くまで働かないんだよって不満持つフリーターもいるでしょう。
でも、まぁだいたいそんなもんなんですよ。
数多ある問題の1つに噛みついた所でその主張の反対にいる人たちはやっぱり反対するんですよ。
その人たちも一方的な意見じゃなくて立場があって不利益を被った過去があるからで問題の度合いとしては貴方とどっこい、どっこい。どっちが正義って事もないんです。
だから私も多分、貴方の主張の反対側にいる人間で貴方の男性社会の迎合って意見は思うところはあるから理解はするけど賛成はできません。
世の中なんて、そんなもんだと思います。
まとまらなくなったけど、大勢から反応を喰らうと一気に公人と化して論理破綻した人間からも噛みつかれた事でしょう。
疲れたら一旦、ネットから離れて1週間ぐらいしたら戻るといいです。あーそんなのもあったなって事に。過去に代わっているので。
反射的に怒れる人とか、イライラをアピールできる人って何なんだろう
自分は後で思い出したようにしか怒れないんだけど、それって鈍感なだけなのかなあ
それ以前に、あんまり周りに当たり散らしたり怒鳴ったりしたくないというか
オラついてる人とか見ると、時間とかエネルギーとか何もかも無駄に見えるし
余程不利益なことでもされない限り、攻撃的になる必要ってないと思うんだけどね
自分も周りに「イライラする!」って口頭で宣言してイライラアピールしてくる人がいて
本当に面倒くさいと思っている
法律というのは「守らないといけないもの」なのか「守らなかったときに罰せられる」ものなのかどちらですか?
自分は後者寄りの考え方です。もちろん一部の例外として、自分の価値観として、前者に分類されるものもあります。
というのも、ネットで炎上する話のいくつかは、この「考え方の違い」から起きているのではないかと感じています。
例えば労働基準法。個人的には守らなくていいと思うんです。好きな人達が集まって法律の範囲外で働くことに何ら問題は無いはずです。
一方で、それを望まない人がいるのは理解できます。大手企業など従業員数が多いところでは前社員が同じマインドで働くことは無理でしょう。
そのときは法律に従って労働局に駆け込むでも裁判でもすればいいと思うんです。企業側は裁判が嫌なら法律に従えばいい。
これは「守らなくてもいいけど、守らなかったときは罰を受ける。罰を受けたくなければ法律を守る」という考え方です。
この考え方に従うと、無関係の人が横から「おまえは法律に違反しているぞ!」という注意は無意味になるんです。
もし自分に何かしら不利益があるのなら、然るべき手順で裁判でもすればいいでしょう。無関係なら黙っていてください。
こうすると「なぜ被害を受けている自分が手間をかけなければいけないのか」という人が出てきますが、法律ってそういうものなんじゃないでしょうか。
あなたの権利は法的に認められて守れているのだから、自分で主張して明らかにすればいいでしょう?
最初にお話した一部の例外、「殺人」「傷害」「誘拐」などは納得できないという気持ちもあるのですが
これは矛盾しているのではなくて、小さい頃から身についた価値観やモラル、道徳心があるためです。
軽犯罪、例えば立ち小便などはもういちいち「法律を守れ!」という方がアホらしいと思うんです。
とはいえ自分の庭に小便をされたならそれは警察に通報してあなたの被害を救済する権利は当然あります。
これっておかしいでしょうか?