はてなキーワード: 日経新聞とは
安倍元総理が殺された事件に関連して、ネット上の投稿が原因なのではないかという意見や、事件を利用して規制すべきではないという意見など色々書かれている。それについて思うことをまとめたい。
といっても事件の犯人の動機についてはまだ詳しく捜査されてないので、今回の事件についての話ではなく一般論として。
自分は表現の自由は大事だと考えているし、はてなブックマークでは他のユーザーから表現の自由戦士と呼ばれたこともある。
しかし、どんな表現でも規制すべきではないと思っているのではなく、強い悪影響がある表現なら規制も仕方ないという立場である。
そして、政治家に対するネット上の誹謗中傷の中には規制が必要なものもあると考える。
表現の自由についての議論として、よく問題になるのは性的表現である。具体的には宇崎ちゃんの献血ポスターやご当地VTuber、日経新聞のたわわの広告などだが、こうした表現を規制すべきだとは思わない。
こうした表現が偏見を助長し性犯罪を誘発するという根拠は無いし、自分の感覚としても小説や映画などの他のコンテンツと比べて影響が大きいとは思えないからだ。
一方、政治家に対する誹謗中傷はそうではない。政治家が違法な行為をしつつも権力で揉み消しているかのような投稿は、過激な思想の人物が危害を加えようと考える情報としては十分だと感じるからだ。
自分がそう思うというだけで根拠は無いが、実際に事件を報じる記事には、安倍元総理が暴力団に選挙の妨害を依頼したかのようなコメントや(裁判で暴力団員はそう証言したが、信憑性が低いとして事実とは認定されていない)、法律で裁けない悪人が裁かれたかのようなコメントも書かれている。
あくまでそう思うというだけで根拠はないが、自分はネット上での誹謗中傷は対象が公人であったとしてもある程度の規制は必要だろうと考える。
増田は結構前から表示されてなかった(のが放置されてきた)が、 日経新聞 や ITmedia 、 インプレス(の一部) 、 Gigazine 、 クーリエ とかのちゃんと独自のファビコンが表示されてたサイトまで、ここ数週間で「ファビコン未設定」みたいなやつになってしまった。
去年 9〜10月に「title より og:title を優先して表示する」という仕様変更があったんだが、一般的に title には末尾にサイト名が含まれてて、og:title だと含まれないことが多い。
この「ファビコン非表示」の不具合(?)と「og:title優先」の仕様が相まって、エントリ一覧を見てもどのサイトの記事だかわかんないやつがメチャメチャ増えて、すごい不便なんですけど…。
園子温が100%有罪だから話すことないって事実関係の有無じゃなくて行為の是非の話では。
告発が事実なら枕営業強要野郎なんて満場一致でアウトなんだから語ることはないわな。
たわわは日経新聞の広告に載るくらい社会的に認められてるけれども実は女性蔑視の表れなんだから抗議する、持論を語る必要があるのだろう。
「キスマーク+100円」 使用済みマスクの売買は法に触れないのか
https://mainichi.jp/articles/20220502/k00/00m/040/231000c
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20220502/k00/00m/040/231000c
園子温もだけど、この記事、誰もが気持ち悪いとは言うものの性犯罪への関連について危機感を持って批判したのは極小数。
ブクマ自体も性に関わるカテゴリーとして見るとそんな伸びてない。
露出のないありふれた女子高生の絵の新聞広告一枚にあれだけ女性への性加害ガーと燃やし散らかしたくせに、こう言うより生々しく性犯罪に繋がりそうな話には飛びつかない。
法の在り方や記事の是非は今置いとくよ。違法じゃない。合法だ。それは確定してるけど、露出のない萌え絵も全くの合法でありながら性犯罪!私たちは被害者!として出てきた人たちがこう言う話には全く飛びつかない。
要は性犯罪を抑制したいんじゃなくて、結局『不快なものを私の目に映るところに出すな』って言う本当に女様のお気持ちとしか呼べないものが根底なんだろうと思った。
更に突き詰めると、その不快と言うのは女性の魅力を男目線で強調して記号化した萌え絵が気持ち悪いって事なんだろうけど、これ、男性の魅力を女目線で強調して記号化した男キャラ(もうこれも女性が萌えてるんだから萌え絵と呼んででいいんじゃないかな?)も平等にあるという現状、ただの差別的扱いだよね。
更にはその女性の萌え絵を生み出したり愛でてる存在としてステレオタイプなキモオタに白羽の矢が立ったんだろうけど、何度も言われてるだろうけど現実で女食ってるタイプはキモオタじゃないし、それこそ性犯罪で上がってくるのは園子温みたいなそれなりの地位や金や暴力で増長したセクハラモラハラパワハラタイプばっかりじゃん。
オタクにも全くいないとは言えないけど、矛先までお気持ちすぎるんだよね。
そもそもたかが日経新聞の広告なんてごく限られた範囲の話を性加害ガーなんて大枠で文句つけてるのが心底アホらしかった。あんな絵でリアル女子高生への性加害性を催すとか公共の面前でオナニーすんなとか言ってるコメもあったけど、そんなん男だって困惑するわ。って言うか萌え絵見て公共の場でオナニーとかそれもう萌え絵がどうとか言うレベルじゃないから。単に保護しなきゃいけないタイプの人だから。
国連女性機関なんてのが出てきてから日経じゃなかったら問題ないとか性加害の大枠から意味不明なトーンダウンに落ち着く人も続出だし。
※末尾に追記2(5/7 19:26)、追記3(5/8 01:45)を付与。
※園子音氏に関する一部表現を修正。週刊誌報道を認めての謝罪ではないと判断したため。こちらで係争中と見られる件の善悪についての判断をするのは不適切と判断し、関連する記述は削除した。(5/8)
何故、フェミニストの中では「たわわ」がNGで、園子温は"無罪"(論じる必要がない対象)なのか?何故、オタクがバッシング対象で、ホストは共感の対象なのか?フェミニストの性質の中にその答えが眠っている。
「フェミニストの活動家達には、何故こんなに一貫性が無いのか???」
こんな事を一度でも思った事のある方は、少なく無いのでは無いか。
何故、フェミニストは、実際の被害者が居ない「たわわ」にお熱になるのに、被害者と称する女性からの訴えが週刊誌に載った園子温にはさほど関心を示さないのだろうか。
何故、フェミニストは、「海、似合って無いね」動画における反応のようにインドア派の男性(というかオタク)への蔑視を隠しもしない一方で、実際に女性を搾取するホストに対しては、さほど怒りの声を上げず丁重に扱ってしまうのだろうか。
何故、成人指定でも無いお色気漫画のゾーニングを強く求める一方で、BLに対するゾーニングに抵抗し自由を求めてしまうフェミニストが出て来てしまうのだろうか。
フェミニスト諸兄は、胸に手を当てながら読んで頂き、自分に当てはまる点について、「アップデート」する事は出来ないか、じっくりと考えてみてほしい。
フェミニストは、「〜だから、ダメ」というタイプの論理を多用する。
フェミニストが火をつける炎上は、基本、この論理のタイプで起きる。
一方、フェミニストは「〜だから、良い」というタイプの論理を使用する事については慎重だ。
この論理を使用する場合、フェミニストでなくても言える以上の結論となる事は、あまりない。「性的表象」のような妙なフェミニスト用語を使うケースは滅多に見ない。誰もが「そりゃそうだ」と思えるレベルの、ある意味無意味な内容の時に、好んでこの論理を使う事になる。
これはどういう事を意味するのか。
フェミニズムは「何が良いのか」「何がダメなのか」という事の境界線をきっちり引くことに、正面から向き合っていない、ということだ。
そして、境界線がないが故に、個々の事象に対する良し悪しの判断が、個々のフェミニストに内在する、明確な境界線のない嫌悪の反応(つまりは「お気持ち」)に委ねられてしまう事になる。
「一人一派」と言う表現は、その現状を言い換えているだけに過ぎない。
次の論戦を見てみよう。
https://togetter.com/li/1873195
この議論で最も重要な指摘はCDB氏による以下のコメントである。
小宮先生は『まずUN WOMENの主張を理解せよ』と仰いました。なので、『UNWは広告表象を問題にしており、表現を修正すれば掲載可能である』と主張していると解釈されるのか、それともUNWは作品そのものが広告掲載に不適切であると主張している』と解釈されたのか、小宮先生の解釈を伺っています。
「たわわ」の広告表象が問題であるのか、作品が問題であるのか、という質問である。小宮氏はこれに直接回答する事を避けている。
小宮氏を少し擁護すると、これは小宮氏でなくとも回答が困難な問いであろう。何故なら、UN WOMAN側がどちらの解釈が適切なのかを提示していないからだ。そもそもフェミニズムが、この場合にどう判断するかという線引きに十分に向き合ってこなかったのだから、小宮氏にはどちらとも言えないのである。
UN WOMANのコメントがなければ解釈が出来ない、という構造は興味深い。つまり、結論が先にあって、その理論付けは後から行う、と言う実態を示唆しているからである。
多くのフェミニストの主張では、個々の事象に対して、それを許すか許さないか、についての個人の無意識的なバイアスに基づく判断が先にある。そこから理屈が逆算される形で構築されるのである。
最近、「当事者性がある人が批判するべき」「当事者性がなくても批判できるべき」と、シチュエーションによって主張が安定しない論者が話題になった。
理由は簡単で、その場その場で結論から後付けで理屈を構築しているからである。
シチュエーションによって、議論の構造と前提が異なるため、その場で自分に都合の良い形(言い換えると「お気持ち」)で論理を組む事になる。結果として、ダブルスタンダードな主張が散見される事になる。
良し悪しに関する客観的な物差しの不在はまた、男性に向ける物差しを自分に適用しないように巧妙にサボる事も可能にする。
「海、似合ってないね」という例の動画を見れば、これがジェンダー的にかなり多くの要求を男性に課している事は間違いない(性別を逆にして、スタイルの悪い女性に「海、似合ってないね」と言ったら大炎上するのは、火を見るよりも明らか)。しかし、何人かのフェミニストはこの動画を絶賛した。
それは、彼女らが自身の中にジェンダーについての規範をインストールしてこなかった事を強く示唆している。言い換えると、相手に求める厳しさを自分に適用していない、という事である。
「たわわ」や「宇崎ちゃん」に怒りながら、BLの不健全図書扱いに怒るフェミニストもまた、非常にわかりやすい例である。男女間で別の基準を適用することの狡さを、本人の中で言い訳をしながら共存させてしまっているのである。
フェミニストは、ダブルスタンダードと言われても意に解さない。
自分が悪者になりうるような基準を、そもそも自分の中に持たない(もしくは言い訳、という形でパッチを当てる)事で、「自分がおかしいのではないか」と懐疑心を持たなくても済む、という構造があるからである。
なので、フェミニストが自分が責められた時によく使うロジックは、「それには当たらない(だから自分は悪くない)」である。常に自分は(何やかやと言い訳をして)安全地帯にいることになっているのだ。
私見だが、
この文章を読んだフェミニストは恐らく「これは、きちんと書けていない。だから自分の話では無い」と矮小化するか、「この論理は破綻している。だから認める必要はない」と全てを排除するか、の大きく2つの類型に向かうのではないか、と予想している。
フェミニストの一部に非常に性格の悪い人間が居る。多分本人は気づいていないだろうが、周囲からは丸わかりである。これはフェミニズムが他責型の人間にとって居心地が良い構造にあることと無縁ではないだろう。
フェミニストは行動を起こした結果がどうなろうと、その事にはあまり関心を持たないし、結果に責任を取ろうともしない。ましてや「これはやり過ぎたのでは?」と思う事もない。
大量の人間を集めて、一人の人間を徹底的に糾弾するほど、社会的に強いメッセージを発している。にも関わらず、問題が起きても、誰も責任者が出てこない。これはあまりに情けない話で、呆れている。何故フェミニストはこんなにも無責任な人間の集まりなのだろうか?
オープンレターでもう一つ興味深いのは、「教授」などの肩書きをとても重要視している事だ。単なる署名であれば肩書きは不要であるはず。肩書きをつける事で権威を付けて相手を攻撃しようと言う意図を読み取る事ができる。
たわわの件でも「UN WOMAN」が日経新聞に抗議するというアクションが取られている。
演繹的な議論を嫌う性質と、結論ありきの権威主義は相性が良いといえば言い過ぎだろうか?
この文を読んで、「アカデミックなバックグラウンドを持つ人物かどうか確認出来ないからダメ」と考えるならば、それはつまり権威主義の病が膏肓に入っていると言えるだろう。
フェミニストは自分を省みないので、まともにこれを読まない人間がきっと多数だろうが、フェミニストでなければ首肯する点が多いのではないか。
また、上記の逆になるように行動するようなフェミニストは健全であるとも言える。皮肉ではなく、そのようなフェミニストであれば全力で応援したい。
他者にばかりアップデートを求めるフェミニストに自らのアップデートが出来るとは到底思えないが、実現すれば結果としてもっとジェンダー的にフェアな状況が生まれるように思える。
若い世代でフェミニズム離れが進むのは、こういうフェミニスト・フェミニズムの(卑怯な)特性に嫌気が差している部分も大きいと考えるからだ。
面白いなー。園子温への対応の話以外にも一貫性の無さを取り上げているのだけど、園子温の件を否定できれば俺無罪!!という感じのブコメが多くて興味深い。通底するテーマは批判するかしないかに関する基準の無さ、一貫性のなさだよ。園子温に対する考え方をちょろっと批判した、という程度では揺らがない部分。
BL無罪の人なんて、フェミニストの矛盾を体現するようなアクションだったけど、そこには全く目を向けない。まー、フェミニストは、自分に問題があるかもしれない、という論理は受け入れ無いということが良くわかる。
lacucaracha:
有罪だから語るべきものがない、って不思議な論理だね。UN WOMANが、園子温(や榊秀雄)のような現在進行形の問題よりも先に、たわわのように複雑な議論が必要な事象を糾弾したのは何故?
cinefuk:
「女性差別的な文化を脱するために」と、特定の人間を貶めるためにフェミニストが結集し、オープンレターを叩きつけ、失職に追い込んだのと比べると、今回は弱々しいですね。名指しでないオープンレターぐらいはあってもよかった。
(女性原作者のオープンレターをフェミニストの手柄にするような下衆しぐさはしませんよね?)
「たわわ」との違いは、園を免罪しようとする擁護が出なかったからでは。炎上案件は、フェミの批判より反フェミが盛り上げてる印象
たわわには反論すべき論理もあるけど、それ故に炎上の責任を負わされる、という構造があるのであれば、それは容認していいの?
ウクライナが抵抗したから戦争が激しくなった、みたいな論理ですよ、それ。
todomadrid:
園子温を支持しているフェミニストなんて存在するの?そしてそもそも、広告のバッシングは広告主や媒体、もしくは痴漢をバッシングしているのであって、オタクをバッシングしてるわけじゃないので勘違いでは。
何で「園子温を支持している」にすり替えてるんだよ。こういうフェミニズムの卑怯さの構造を説明したんだからしっかり読め。
フェミニストのオタクバッシングは結構見苦しいものがあるので、これも話をすり替えないように。だから、たわわと園子温事案の熱量の差は何だよ?という話をしている。
kohgethu:
誰が性的加害やらかした映画監督どもを無罪と言ってるんだ?奴らは粛々と社会的制裁を受けてるし騒がなくても罰せられている真っ最中なので騒ぐ必要が全く無い。もしも当人が足掻いたならたわわレベルに炎上するよ。
https://www.jprime.jp/articles/-/23703
Domino-R:
一昔前に、一部の女性が自分はフェミニストをやめたと、怒りながらに距離を置くのを見ていたが、理由が分からなかったんだな。
フェミニストとの議論を通じて気付いたのは、フェミニストの立論が場当たり的で、論理がなく、端的に不誠実だという事。何故か自己中心的で、話のすり替えに余念がないクズが多くて、腹が立つ事がやたら多いんだよ。
フェミニストは、ツイフェミに限らず、例えば立憲民主の中で、まともな議論を尽くさずに議員を辞職させたりしている。害悪が大きくなるばかりじゃん。その構造がクリアでなかったので、まず見える化をしようとして書いた。
今回まとめた特徴に合致しないフェミニスト、ほんと見つからないね。居たら連れてきてよ。1人でも居ます?
こっちに移動
国連女性機関が『月曜日のたわわ』全面広告に抗議。「外の世界からの目を意識して」と日本事務所長
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_6257a5d0e4b0e97a351aa6f7
何事もなかったかのように風化させようとしてるのか知らないけど、国連の名まで出しておいて流石にその五流企業対応はないんじゃないだろうか。
記事で焦点として上げられた「3つのP」を基準としたチェックには散々ツッコミが入ったし、日本事務所石川所長の過去発言との矛盾も指摘された。
もはや件の広告に問題あるとした人でもわざわざこの件を担ぐほどの人はいなくなった。
それを何事もなかったかのようにほとぼり冷めるようスルーしてやり過ごすのは本当に国連の一機関として問題しかないと思う。
自分たちで提示した根拠に矛盾が指摘されたのだから、それは責任とって説明すべきで、内容はこう見ると矛盾がないとかでも良い。
言いっぱなしで自分たちの矛盾はスルーと言うのは無責任な実態のよくわからない反社企業がトンズラこくようなことで、それを国連の機関が行ったと言うのは国連女性機関、引いては国連そのものの信頼度、言及の信頼性にも関わる重大な損失だ。
最初から提示しなければ、国連女性機関と日経新聞社との契約間での話として終わらせていれば勿論そんなことはなかったろう。
だが日経新聞は国連女性機関との規約を冒したと言わんばかりに一方的な情報開示を行ったのだから、その責任は取るべきだと思う。
このまま逃げ去るのであれば少なくとも日本においての国連女性機関と言うのは今後ただの程度の低いクレーマーとして見做されるだろう。
id:ruin20である。自分のIDが出ていたのでいっちょ噛みしておこう。
たわわには巨乳ヒロインが複数登場するが、そのうち、電車の中で会える女子高生のアイちゃんをわざわざ表象に選んでいる意図が抜けている。
元増田が無知なのか無知を装ってるのかは知らんが、アイちゃんが選ばれたのは『たわわ』のシリーズヒロイン、つまりは『月曜日のたわわ』を象徴するヒロインだからだ。
本シリーズは、Twitter上で、「月曜朝の社畜諸兄にたわわをお届けします」と銘打たれて始まった。当初は巨乳少女の水着姿が中心だったが、33回目にアイちゃんが登場する。それまでいいねは1万前後だったがアイちゃんは2回目の登場で2万いいねを稼いだ。作者も(アイちゃんを)「ちょっと気に入った」と述べており、アイちゃんを連続して描くようになる。2回目、あるいは3回目にはぼかしながらも「相手」が登場し、4回目にはスーツ姿の男性らしき人物がアイちゃんの視線の先に現れるようになった。
このように、アイちゃんはシリーズにおいて始めて連続して登場した少女であり、シリーズ飛躍のきっかけになったキャラクターであり、元々はただの巨乳少女を描くだけだった本作に「たわわな女の子と男性」という二者間の関係性を描写するという枠組みを導入したキャラクターなのだ。人気アンケートを取れば当然1位になるだろう。歴史的にもコンテクスト的にも人気的にも『たわわ』の顔であり、だからこそ広告にも登場した。「電車の中で会える女子高生だからアイちゃんがおすすめ」というまとめ方は本質を外していると言わざるをえない。私はここでハンロンの剃刀ということわざを思い出すべきだろうか? 難しいところである。
元増田が無知なのか無知を装ってるのか気になるところは他にもある。
40代以降が萌え絵についていけてなくて価値観がアップデートされていないとか、
上記の根拠として元増田はリスク認知について持ち出している。一定納得するところもあるが、リスク認知が文化的影響を受けるというなら麻薬に対する不安レベルがアメリカより日本の方が高くなるのは明らかにおかしい(当該論文の図4)。レイプの発生件数や発生率はアメリカやイギリスなど先進諸国とくらべて日本が圧倒的に低いと統計的に明らかになっている(※1)が、本邦フェミニストは日本が欧米に遅れた性犯罪大国かのように喧伝する。アメリカに比べて麻薬がまったく社会問題化していない日本の方がそのリスクを感じていたり、レイプ統計を合わせて考えれば実態を伴わないイメージだけで過大にリスクを感じているだけではないのか。
また、元増田はまったく無視しているが、歳を経るごとに『たわわ』に対するイメージが悪化していくのは、若い人ほどオタクに対する偏見やネガティブイメージがなくなっていくからだという点を見逃してはならない。オタクはもともと蔑称であり、宮崎勤事件を頂点に変質者・犯罪者予備軍として社会から差別されてきた。この事件は今40歳であればだいたい10歳ごろにそれを経験している。リスク認知に文化的影響があるというならオタクに対する偏見が社会に満ちていた時代を経験した世代かどうかを無視してはならない。
2010年に行われた調査では10代女性の50.9%は自分がオタクだと回答し、35~39歳の女性は17.6%に過ぎなかった。同調査においてオタクに対するネガティブイメージは10代だと29%だったのに対し、35~39歳は40.5%だった(※2)。自身がオタクである割合が増えればオタクに対するイメージも良化する傾向にある。別の調査元ではあるが、2020年の調査では自分がオタクだと回答した10代女性は86%に増加している(※3)。これらを踏まえれば「40代以降が萌え絵についていけてなくて価値観がアップデートされていない」はむしろ正と言える。
「電車の中の女子高生を性的コンテンツとして楽しむこと」と痴漢等の具体的な性的被害への危機感がリンクするのは、主に被害の実体験を持つ者だからである。
これもありふれた理由付けである。誰かの個別的体験に配慮して表現を規制するのであればあらゆる表現が規制されねばならない。表現規制しろとまでは言ってない、と言うのだろう。しかしこれもいじめではなくからかっただけ、と同じで攻撃者が好むご飯論法だ。
誰かの権利を抑制しようとするとき、そこにはフェアネスが必要だ。オタクや萌え絵を攻撃する連中にはそれがない。
“周囲の大人は痴漢に怒ってくれる、という信頼感を自分にくれた恩人である。” この信頼感の絶対量がもっと多い世の中だったら、たわわも問題にならなかったんじゃないのかな〜と思ったりする“
元増田は上記ブコメに感銘を受けたようだが、俺に言わせれば萌えフォビアのフェミニストにこそ信頼が置けない。月曜日のたわわ、温泉むすめ、宇崎ちゃん、境ホラ、のうりん、人工知能学会表紙エトセトラエトセトラエトセトラ。連中はいくつものコンテンツを燃やしてきたが、それを批判されると反論するのではなく論点を変えてやり過ごそうとする。たわわも最初は公共の場にふさわしくないという話だったが、日経新聞というブランドでやったことが問題視され、次は「見たくない表現に触れない権利」などというものが持ち出され、どちらも論破されると「日経新聞はUN Womenのアンステレオタイプアライアンスのメンバーだから守るべき」という話にすりかわってそれも論破されると元増田のように「講談社の意図が気になる」みたいのが出てくる。もはやいたちごっこであり、誠実さの欠片もない。広告だったことが問題なのであれば何故たわわ以外のコンテンツを燃やしたのか? 主張の一貫性などどこにもない。たわわのような表現によって性犯罪が増えるという統計的裏付けがあるならまだしも出てきたのがたわわのような表現があると不安になる女性がいるから、とか言うんだから話にならない。
萌えフォビアのフェミニストにフェアネスがないのは、ananSEX特集の駅ナカ広告や宮崎県日向市のCMをスルーしたり擁護したりすることからも指摘できる。これを引き合いに出すと決まって必ず「Whataboutismだ!」などと吹き上がる連中がいるのだが、ここで問題にしているのは社会を背景に表現を批判する者が持つべきフェアネスと一貫性である。萌えフォビアのフェミニストがオタクコンテンツを燃やすとき決まって必ず社会性をまとう。私が気に食わないからという理由で攻撃しても誰もついてこないからだ。だから「公共の場所に性的と感じられるコンテンツを置くべきではない」という論調になるが、それであれば渋谷駅の駅ナカで展開されたananのSEX特集の広告など真っ先に批判されるべきだろう。しかしそれをやってるフェミニストは見たことがない。けっきょく「私」が気に入らないから攻撃しているに過ぎず、それであれば「私はそれが嫌いだから私の見えないところにそれをやれ」と言われた方がよほど誠実に感じる。
フェミニストにフェアネスと一貫性があってもっと信頼感があれば言うことを聞く人も増えるだろう。だが今はその対極にいる。その事実をまっすぐに受け止めた方が良い。
※1:https://hakusyo1.moj.go.jp/jp/64/nfm/n64_2_1_3_4_0.html
たわわの内容は、おおむね、
性被害に悩む女性に寄り添う主人公がちょっとイイ思いをするという男の妄想垂れ流し漫画であることはほぼ間違いなくて、
「性被害に悩む女性に寄り添う主人公」までしか見えなかった女性は内容をそれほど悪くないと考え、
「イイ思いをするという男の妄想垂れ流し」まで読み取れれば、未成年を性的に扱うのは問題だと考えている様子。
性被害に感受性の高い、あるいは、過去に性被害の経験ある女性からみたら、未成年を性的に扱う広告は言語道断であるし、
表現の自由というか、創作の自由を支持する人から見たら、この程度のほとんど問題の無さそうな作品の広告を規制するのは、
コンビニに行けば、今でも水着アイドルが微笑み、ネットをみれば、明らかにR18な広告が溢れている中で、
さほど露出もないたわわ広告を糾弾するのは、それこそ、検閲利権のための活動にしか見えなくなる。
そんなこんなで、賛成派反対派が分かり合えるはずもなく、規制とは集団のコンセンサスで決めてゆくべきものだ。
なんてよく分からない結論に落ち着きつつあって、そのコンセンサスを得るためには、自分の意見を主張し続けなくてはいけない。