はてなキーワード: 建築家とは
(続き)
これ、『サマーウォーズ』--これは脚本自体は奥寺さんですけどね--の頃からの一貫して細田さんの弱点だと思うんだけど、いわゆるカギカッコつきの“リベラル”的な女性観・家族観の理解がひっじょーに浅薄で浅いんですよ。女性が家長、新しい!女性は子育てをしていて偉い!男はイクメン気取りだけど全然わかってない!主夫の育児なんてドタバタでダメダメ!→ね?俺わかってるっしょ?みたいな意識/無意識ですね。
まず、イマドキ4歳児に「男の子でしょ!」って言って説得するのは“絶対になし”とまでは言えないまでもちょっと古くさい感覚だと思うし、そんなあさーい理解だからサイコ父ちゃんが無慈悲な既読スルーをする一方で、クソガキ様の自転車の練習のとき--この父子モチーフもイマドキ手垢つきまくってませんかねえ--急に古くさい父親のイメージとなるんですよ。要するに無理してかっこつけて大衆に目配せしているおかげで世界観やキャラクターの知能レベルがガタガタなんです。
さらに痛いのがね、ミライちゃんが初めて現われたその動機、ネタバレになるから一応伏せますけどね。何か裏事情があるのかなーと思って見てたらそのまんまで、は?なんじゃそりゃ!っていう。何故そこだけ急に価値観が昭和中期以前になるのかな・・・?キミ、設定上は一応令和時代を育ったんでしょ・・・?ってかそれ、おもしろい、のですか・・・??
ところが、このミライちゃんについては、はあ、それで・・・?未来のミライちゃんにとっての“今”ならまだしも新生児のときのソレってそんな気にするもんなの?というか、我々はリアリティラインをどこに設定すればよいのかな・・・?となっちゃっていて、行動原理が全くロジカルじゃない!ギャグとしても全くおもしろくないし。そもそもね、あれだけドタバタしてたらいい加減お父さん気付くでしょ?何か不思議な力が働いているのかな?ってか結局“現実”ではどう処理されたの?ってのが全く意味不明、というね。
良かった点も一応言っておきましょう!特にクソガキちゃんのクネクネクネクネした動きね!ここに関してはいわゆるアニメーションに疎い私でも「あっこれは気合い入れてるな、金かけてんなー、他の諸作品とは次元が違うなー」と思わせるものがありました!
でもね、それに関しても、「動きリアルっしょ?」「幼児の動きわかってるっしょ?」という自意識が先に見えてしまって素直に楽しめない自分がおりました。ここもなー、動きを見せようというのが先にあって全くロジカルじゃないんだよな。
擁護派の中には、「アニメーションリテラシーがちょっと高くないと」「『話がどうこう』って言い出すとやっぱり『つまんない』って感想が出てきやすい」っておっしゃってる方もいるみたいですけどねー。専門学校生が卒業制作で作る映画の話をしているならまだしも、あれだけ大メジャー作家のアニメーション映画でそれ言い出しちゃったらダメですよ。動きを追求するにしても「話がどうこう」の最低限のレベルはクリアしてくださいよ。そこは逃げないでくださいよ。比較するのはちょっと残酷すぎるかもしれませんが、宮崎監督作品や高畑監督作品の批評でアニメーションリテラシーの高低の話出てきますか?そりゃリテラシーが高い方の方がより作品世界を楽しめる。そういうことは往々にしてございます。両巨匠の作品もそういった性質のものですし、ポスト世代では、庵野監督作品、片渕須直監督作品だってそのように評価できると僕は思います。
しかしね、それにしても、あれだけの資本がついていて、ちゃんと作品に力があればリテラシーの高低にかかわらず、大衆みながそれぞれの立場で楽しめるものになるはずなんですよ、本来は。
極端なこと言えばリアルなアニメーションが欲しいだけならモーションキャプチャーでウニウニ動かせばいいだけの話で。僕は、それ以前の、物語としての最低限の誠意やマナーの話をしているんです。
その象徴として最たるものがあの“意識高い系”住宅。あれ、わざわざ建築家の方にオリジナル建築の設計を発注したとのことですが、あのねえ・・・これ、建築家の方は発注に答えたまでで全く悪くないと思いますが、新生児と4歳児をかかえたサイコ父ちゃんが仕事をしながらワンオペ育児をする家があの作りって・・・。あのう・・・控えめに言って狂ってるんでしょうか?これも「ためにする」デザインにしか思えないというか、あの家の作りでこの家族--暴れ回る幼児たちやこれから年を取るご夫婦--が一人も頭をかちわらずに天寿を全うできたらそれこそ奇跡なんじゃねえかという(笑)。やっぱりねーそこらへんの視点への気配りも含め、とことん不誠実なんですよ。
あとねー、クソガキちゃんについてもですね、「アナルプラグ(笑)」って書いてきたリスナーもいましたけれども(笑)、未来のミライちゃんに対して顔を赤らめて言うセリフとか、“王子様”に対する態度とか、サイコ母ちゃんのアルバム(唐突に出てくる、結婚式のスライドのようなリアリティのないアルバム。あれだけ小綺麗な写真見せといてなーにが“黒歴史ww”じゃい!)への反応とか、カギカッコつきの“東京駅”での振る舞いとか、ラストシーンのミライちゃんの説明ゼリフとか、もうとにかくその場その場で場当たりでてっきとーにキャラクターを動かしているから、まとめて一本の映画として見させられると賢さの設定がぶれぶれなんです。
特にアナルプラグのクダリなんて完全に大人側の欲望の目線やんけ、これのどこがリアルな4歳児なんすか!というですね。
ぶれぶれといえば、こちらも指摘しておかなければなりません。
物語の根幹かつクライマックスにもかかわる、世界観の設定ですね。
ミライちゃんがこれまた脈絡のない説明ゼリフでとあるタブーを説明するんですが、その数十分後にはたやすくタブーが破られる。そして特にペナルティーもない。じゃああの説明ゼリフはなんだったの?観客ポカーンみたいな。
そもそも未来のミライちゃんが全て知ってるように振る舞っているのは何故?とかね。言い出したら切りがありません!
BTTFシリーズのようにパキッと全ての伏線を回収しろとまでは言いませんよ!けどね、作品独自のタブーを出したらペナルティもあわせて説明してくれないと意味ないでしょ!ってかそれって創作における最低限の誠意、マナーなんじゃないんですか?
どういうことか。要するに、タブーが実際に破られる?大丈夫か?大丈夫か?あーとうとう破られてしまったー!そのあと一体どうなるー?、という状況があって初めて我々観客は一緒にハラハラできるわけですよ。たとえるならアレですよ。映画『グレムリン』ありますよね。1984年。ジョー・ダンテ監督の出世作。その中で、例の3つのルール、ありますね。
この作品でたとえるなら、映画内で3つのタブーを説明したにもかかわらず、結局ペナルティはよくわからない。映画の後半でギズモが太陽が燦々と照る真っ昼間にグラサンかけてジャブジャブ海水浴をしている。そんで最後の最後にそれまでの展開と無関係な第4の設定が唐突にギズモの口から語られる。なんじゃそりゃ、みたいな(笑)。もう一体何がしたいの?というレベルですよ。
世界観の設定自体もね、これ、実は初見のとき、クソガキちゃんのインナートリップやらセルフセラピーやらの話かとも思ったんですが、どうもそうじゃない。福山ひいじいちゃんや東京駅のクダリを踏まえると、クソガキちゃんが明らかに経験しえないこと・知りえないことを経験していて、なんでインナートリップのルールからも明らかにはみ出している。
あのねえ、4歳児を主人公にすること、オムニバス形式であること、現実と夢、空想があいまいなことって世界観がグチャグチャであることの免罪符には決してなりませんからね。童話や寓話、不条理ってそういうことじゃあないんですよ。ことほどさように、幼児を、というか人間のあり方そのものなめている所作としか思えません!
細田さん、クレヨンしんちゃん、映画版だけでもいいからもう一度じっくり全部見てくださいよ。全てが100%の傑作というつもりはもちろんありません!ありませんけど、幼児が主人公であること、ギャグマンガであることを世界観の言い訳にしているのはほとんどありませんよ。その上で、幼児の幼児性、第一子と第二子の関係性、ペットとの関係性、親子が親子であること、夫婦が夫婦であること、家族が家族であること、などなど、比べるのもホントおこがましくてしんちゃん側に大変失礼な話ですが、大人も子供も笑えるギャグも交えつつ逃げずに遙かに高度のレベルで達成してますよ。
クレしんとの対比でいえばクライマックスのアレね。あー出た出た細田演出、はいはい。なんて意地悪な僕は呟いてしまったわけですけれども、これもちょっとしたネタバレになっちゃいますが、クレしんの某・大名作映画。監督・脚本は原恵一。ナンチャラ帝国(笑)オトナナンチャラ(笑)の、“あの例のシーン”。これ、見た方はおわかりかと思います。と同じようなシーンをクドクドクドクド・・・。犬まで登場させてクドクドクドクド・・・。そもそも犬ってああやって母犬と別れるのか・・・?違うんじゃねえの(笑)?ってかそれもセリフで説明すんのかーい!見てりゃそれくらい黙っててもわかるわ!それ以前の問題としてに父犬はどこに?ということも含めて、とにかくひっじょーにテンポが悪い!!
あと一つ、これだけは言わせてください。
僕、前から言ってますよね。我々の用語でいうところの、いわゆる一つの“ベロベロバー”問題でございます。
クソガキたちがおどけた何か面白“げ”なことをやれば面白くなると思ってますよね。テレビではそれでいいかもしれないけど映画はそれじゃあ笑えないんですよ。
なおかつ、それ以外のギャグもアナルプラグでしょ!?単に下ネタがダメってんじゃないですが、時と場所と見せ方を選んでください。ただただ不快です。R指定なくていいのか?これ、子供に見せてもいいの?という。
さらに、その滑ったギャグを、全然成長しないクソガキのワガママやサイコ両親の立ち振る舞いで上書きして不快感を増させていくという(笑)。もはや“げ”ですらないじゃないか(笑)!
うるせー!こちらがお前らを「好きくない」んじゃー!とホント上映中心の中で何度叫んだことか。
そんで全然成長しないサイコ両親が終盤あまーい自己満足のセリフを言い合いますよね。はあ・・・。それはまあいいんですが、まずご自分たちのサイコ性に手を当てて顧みていただいて、素晴らしいご両親のご美意識にはお反しあらせられるかもしれませんがご自宅に子供用の転落防止柵をつけるなり、恵まれた収入でハウスキーパー雇うなりしないと死人が出ますよ、なーんてひねくれた僕なんかは思っちゃいますけどね!ええ、ええ、どうもすいませんねえ!ひねくれ者なもので!
これもねえ、今回は残念ながらあざとい部分だけ、“やだみ”ばかり印象に残ってしまいました!
はいカメラパンしました。時間が経過しましたよ。これ省略だよ。映画的でしょ?というのもさー、それはそれでいいと思うし、正直さすがうまい演出だなあと感じたカットも中にはありました!冒頭の息でガラスを曇らすシーンとか、雪のシーンとかですね。でも、これは演出じゃなくて脚本の方の問題かもしれないけど、とにかく登場人物がクドクドと設定を喋る喋る。別に未来の人だからってイコール全知の人じゃないですからねえ?
これもそれなりの理由があれば設定を喋ること自体は全然いいんですよ。
さっきたとえにあげたBTTFシリーズのドクとか、顕著な例ですよね。要は、彼は物語の構造上、観客が知らないことを「知っている」から、タイムマシーンの設定を「知らない」マーティン(=我々)に対して多少くどく説明しても全く嫌みにならないじゃないですか。ちゃんと時間が変わって彼が設定上「知らない」世界のことは観客が知っていても一切説明してないでしょ。
このあたりもなー。知識レベルの設定が全然統一されてない。観客は最初から最後まで悪い意味で置いてけぼり。
たとえばこれ僕からの一つの稚拙な提案ですけどね。ひな人形を巡るくっだらねードタバタをどうしてもやりたいんなら、おじいさんのエピソードも、一見するとくだらない代々の言い伝えである迷信的なナニカを律儀に守りました→そうしたらおばあさんとめでたく結婚できました→ミライまでの血脈が繋がりました→だからミライもそれをなぞったのです、ってすればですね、まあ設定のレベルとしてはひとまず統一できるじゃないですか。そのあたりも含めてとにかく“雑”の一言に尽きるんですよ。
あと、これ、感想メールで指摘していたリスナーもいましたけど、父ちゃん側の血筋はガン無視?問題ですね。誰しもそうですが、父と母が「両方いて」初めて今の我々に繋がるんじゃねえの?おいしいところ、ドラマチックなところのつまみ食い的な、「ファミリーヒストリー」をそのままやりたいならわかりますよ?でもこの映画のテーマって、平凡な一家族の、非・ファミリーヒストリー的な部分にあるんじゃないんですか?
「ファミリーヒストリー」的にいってもですね、もうこれ作品の根幹の価値観の話なんですが、サイコな両親とは距離を置き、血縁を自分からは繋がず、一人で自己完結してアナルプラグで遊んで暮らす一生は果たして「不幸」なのか?「何かしらの罰を受けなければいけないこと」なのか?という問いにはこの映画、実は全然答えられていませんよね。そのように考える人は、排除され、存在しえない世界となってしまっている。ここ、最初にも述べた“この光景は果たしてユートピアなのかそれともディストピアなのか(笑)!”という問いにも繋がるところですが、このあたりも、昨今生産性だなんだとニュースになったりしていますが、イマドキの価値観でいえば、全体としてはどんどん多様な個人の価値観を尊重する方向に向かっていっていますよね。少なくとも、僕個人はかくあるべきだと考えています。「家族派は家族派」、その立場はもちろんそれで否定しないけれども、一方で「アナル派はアナル派」だし(笑)、「乳首派はもちろん乳首派」(スタッフ爆笑)、本当はね、みんな違ってみんないいと思うんですよ。
このあたりも細田さんの“臆面のない傲慢さ”の意識/無意識、いわゆる“やだみ”がどうしても透けて見えてしまっているというか。というよりも、悪いこと言わないからもう細田さんはこれ以上家族のテーマは触らないか、触るとしても設定から脚本から何から全部外注して演出だけに専念する方が良いと思いますけどねえ。僕は。
というか、そもそも幸せって他人と比べてしまった時点で大概幸せにはなれないですからね。“あの”東京駅の“あの”新幹線の設定を踏まえるとどうもここはそういう世界ではないようですが。僕はこの世界は断固拒否したいです。絶対に嫌です。別にひとりぼっちでも本人が幸せならそのままで全然いいじゃねえか、というね。僕なんかはそう思ってしまいますけれども。
あー時間がない!声優のお話とかもしたかったんですけどね。福山雅治さんの意外なはまりっぷりとかね。
結論としては、申し訳ないですが、僕個人は「好きくない」類の映画と言わざるを得ませんが、山下達郎さんの主題歌を劇場の音響で聴きたい方、幼児がアナルプラグを刺して絶頂する場面を超絶作画で見たいという方に対しては・・・・・・オススメです!
(終)
俺が下着のにおいを嗅ぐのが好きだからこそ、逆にコメントし辛い。
(もちろん合法での話よ)
ぶっちゃけ、これが男女逆で日本の男がドイツのオババの下着を嗅ぐCMだったら、人種差別だとは言われなかったんじゃないかと考えている。
「におい好きが行き過ぎて誰のものとも(人ですらない場合もある)わからない匂いで興奮してる」というのはよくある笑い話だ。
何より、においフェチの人々自身が「だはは、そういう扱いだよね」って笑いそうだと思う。(少なくとも俺は笑う)
フェチに無関係な女性は怒りを感じているそうなので、これにはすみませんと言う他ない。
大体、CMぐらい手間のかかる表現というのは「相手を貶めたいという差別意図だけ」ではなかなか作れないものなのだ。
それが出来るのはプロパガンダくらいで、普通はどうしたって「貶めたい相手」を自分の中にも発見し、共感してしまう。
だからCMなどが問題になる場合は、「無意識の差別」が露呈する事が多い。
しかしこの会社は、日本人の建築家だかデザイナーだかをCMに起用した事もあり(日本語音声でドイツ語字幕)、日本にまったく無関心ではないのだ。
プロパガンダ作品は意図の明確さゆえに歪になることが多いが、このCMにはまた違うものを感じた。
単純な差別意図なら、下着の工場含め日本の描写が長くて力を入れすぎだし、馬鹿にするにしてももっとやりようがあったと思うのだ。
逆に女性のにおいフェチの気持ちを簡単に推し量る事ができない。
俺は女性の匂いフェチの実態を詳しくは知らないが、割と存在するらしいとは聞く。
コンサートや運動部のマネージャーなどの汗が絡む世界の話を聞くと、一般的には女性の方が好きな相手の汗やにおいには敏感なように感じ、
当人が笑っているのならそれでよし、という訳ではないが、それなら話はまた変わってくる気がする。
アナルが好きな変態大国でギャグがつまらないらしいというド偏見はあるが、においフェチの扱いなどはわからない。
案外、日本を仲間扱いして内輪向けジョークをやったつもりが怒られた、というオチなのではないかと勘ぐったりもする。
そうやって答えの出ないことをぐるぐる考えつつ今回のCMを見ると、
まとまりのない話を書いてしまったが、個人的には匂いフェチという部分に共感すればこそ、今回の件はいろんな所が引っかかり、素直に差別だと捉えられなかった。
インターネット上に早稲田大学芸術学校についての情報が少なすぎるため、数年間当校に在籍した経験を基に入学を検討している人に向けて情報提供をしたいと思い記事を書くことにしました。いくつかの夜間建築学校などを検討している方などに向けた記事ですが、当校の入学決定者にも役に立つところがあるかもしれません。
また、当校は体制改革の最中ですので、もしかするとこの記事は古い情報である可能性もあることをご了承願います。
・入試について
・教育の質について
・最後に
インターネットを見ていると入試の内容、難易度に関して疑問や不安を感じている方が多いように感じますが、まったくもって心配する必要はありません。
入試の内容は、詳細には覚えていませんが、私が受けたときには「好きな建築(あるいは建築を学ぶきっかけとなった建築)を挙げ、その建築について述べなさい。」といったような内容だったと思います。これに加え講師との面接があり、その後入学が決定します。合格率は年によって異なるかもしれませんが、基本的には全入であると思われます(定員割れしていることが多いので)。ですので、入試に関しては特に心配はいりません。
これはもしかすると私の学年だけかもしれませんが、かなり多くの生徒が自主退学をします。退学者に理由を聞いて回ったわけではないので詳細な理由は知りませんが、おそらく日中の職業との両立の難しさ、そして建築を学ぶことへのモチベーションの低下などが主たる理由であると思われます。
カリキュラムについてはホームページやシラバスで十分な情報があるのでそちらを読んでいただければ問題ありませんが、率直な感想を言うと週5回の夜間学校は予想以上にしんどいです。これを読んでいるあなたが学生や社会人である場合、両立にはかなりの忍耐力が必要です。おそらく入学を前向きに検討している方はそのような覚悟もできている上で(私もそうでした)この記事を読んでいるかと思われますが、実際のところ本当にきついです。
まず平日18時過ぎに毎日必ず西早稲田に移動することができない方はまず入学を再検討したほうがいいかもしれません。授業開始時間に間に合わない社会人や学生も多いため、遅刻自体には寛容(成績的な評価で言えばほとんど影響はない)ですが、そもそも授業に途中参加することは確実にあなたの意欲を下げます。大学や高校でもそのような経験があるのではないでしょうか。授業の導入部分を聞けないということは、その授業全体の理解度に大きな影響を及ぼしますし、その授業についていけなければ当然次回以降も理解が難しくなります。また、欠席に関しても、シラバス上では全出席が基本とされていますが、実際のところはそこそこ寛容です。ですが、欠席を重ねていくうちに授業についていけなくなったり、本来は出席できるがサボってしまう「だらけ」が発生します。おそらく誰しもが平日に残業や飲み会、友人との食事などの機会があると思われますが、本校に通うとこれらへの参加と授業への参加を天秤にかけるようになります。強い意志で毎回授業に参加できる方は全く問題ないかもしれませんが、やむを得ないこともあるでしょう。しかし、いかなる理由でも欠席は建築を学ぶ意欲を削ぎ、モチベーションを失って惰性で学校に通う、または退学する原因となります。(実際にこのような人はたくさんいました)
生活リズムについても結構厳しいところがあります。18時15分に授業が始まり、21時25分の授業終了まで、休憩はわずか15分程度しかありません。その間に食べれるものといえばせいぜいコンビニの軽食ぐらいであり、これが週5回続きます。普段からコンビニ飯がメインな人にとっては大した問題ではないかも知れませんが、料理が好きな方や食事管理をしている方にとっては大きなストレスになります。もちろん食費も余計にかかります。
以上のように、想像以上に当校のカリキュラムは厳しく、ストレスを伴うものです。これらに耐える自信がない方は今一度入学を検討し直してみてください。
本校では「建築設計科」と「建築都市設計科」があり、それぞれ2年コースと3年コースがあります。3年コースに入学しても、2年間の授業は2年コースと全く同じで、2年コース+1年という授業形態です。2年コースと3年コースでは卒業後の建築士の受験資格や得られる学位に差がありますが、なぜ私が2年コースを勧めるのかと言うと、2年コースから3年コースには編入制度があるためです。仮に2年間建築を学び、やはり違うと思って建築の道を辞める場合でも、単位を取得していれば2年コースでは当然卒業になりますが、3年コース選択の場合は退学になります。3年コースから2年コースへの編入はできません。つまり、建築に進まないと言う選択をするリスクと考えると、わざわざはじめから3年コースを選択する理由は全くありません。2年間学び、やはりもっと建築を学ぼうという気になれば3年コースへの編入をすれば良い話です。編入審査は形式的なものでほぼ確実にできます。
このように、入学するなら絶対に「建築設計科」を選択することをおすすめします。
本校の教育は、基本的にはハイレベルで質の高いものだと思います。著名建築家である校長を始め、大手ゼネコンの上流社員、早稲田大学理工学術院の教授など、錚々たる講師陣が揃っています。また、副業として講師をしている熱心な若手建築家の方も複数人います。しかし、経歴の立派さが教育の質の高さにつながるとは限りません。実際のところ、実績はあってもあまり教育には熱心ではない(ように伺える)方もいらっしゃいましたし、生徒が必死に製図する中大声で談笑する講師陣の姿も見えました。また、自立した社会人が過半数を占める学校ということもあり、面倒見の良い学校であるとは言えません。そういう点を求めるならば別の学校を検討するのも一つだと思います。
少々棘のある内容となってしまいましたが、基本的にはやはり教育の質は高いと思います。仮にも歴史のある早稲田大学の関連組織ですし、実際に活躍されてるOBOGも多くいらっしゃいます。ただ一つ重要なことを補足しますと、当校は実用的なCADスキルや建築士の資格試験対策に重きをおいた学校ではなく、むしろ建築を中心とした芸術的センスと教養を育むことを重視しています。そのため意匠に興味がない方には非常に退屈に感じるかもしれませんし、最速で建築士資格の取得を目指しているような人には向いていないかもしれません。
以上が早稲田大学芸術学校について私が持っている情報です。ご参考になれば幸いです。
https://www.news-postseven.com/archives/20160401_397320.html
著者はイタリア人で、在日二〇年におよぶ建築家である。その体験をつうじ、こう言いきる。日本には、ヨーロッパだと考えられない建築表現の自由がある。「ヨーロッパの国々から見たら、ほとんど『何でもあり』の状態だ」。
と言っても、そんな自由を著者はうらやましがっているわけでは、けっしてない。日本びいきの著者は、大好きな日本のために、この野放図な自由をなげいている。そして、日本の都市計画家たちに、さまざまな提言をこころみる。こうすれば、日本の都市ももっと美しくなるんじゃあないか、と。
1000作品以上集めてわかった「マンションポエム」に隠された“ワナ” | 文春オンライン
http://b.hatena.ne.jp/entry/bunshun.jp/articles/-/10004
この記事では、マンションの売り文句にマンションを超えた詩的な表現が使われている多くの例が挙げられている。
建築業界にはマンションに限らず痛い詩的な表現が蔓延している。
この建物はいかに素晴らしいか、いかに洗練されたデザインか、そしてそれが施主に認められるかどうかで莫大な金が動く。
このような詩的な表現が多くみられるのは、マンションのような客に対する広告宣伝の場のほかに、個性的な設計をする建築家のプレゼンの場がある。
自分のまちの公共施設なんかの公開プレゼンに出向いたことがある人や、建築家に頼んで家を設計してもらったことがある人には実感があるのではなかろうか。
例えば新しく公共施設を建てようということになると
「水の軸、緑の軸、そこが交わるこの建物が地域の拠点となり賑わいの種となる」とか「エンガワのような集いの場」とか妙にひねった表現が横行する。
住宅であれば「ゆるく繋がる」とか「漏れだす光のぬくもり」とか何が何だかよくわからない。
一応これらの表現について説明すると、水の軸というのは川のこと。緑の軸は並木通りなんかを往々にして示す。
んで、その川と道が交差したここにみんなが集まってくるんですよ! (なんでだよ。集まってこねーよ。)
昔ながらの縁側に座って星を見るような雰囲気に仕上げたので、ここに人が集まるんですよ!
(集まってこねーよ。縁側がカタカナになっていることろもポイント。大体赤の他人と話さねーし)
使いやすい間取りや、周りのまちに溶け込まない個性的な外観を正当化させるために、ごまかしのようにコンセプトばかり考えたがる。これが建築業界に蔓延している癌である。
このような詩的な表現を用いるのは建築学科に通う学生時代からの慣例となっている。
建築学科の学生は記事のようなマンションポエム、表現系建築家に憧れ、育ち、ポエム付き建築を量産しているのだ。
こういう表現をコンセプトや売り文句に含む文化はデザインなんかが絡む建築や、グラフィックとか、映像とかそういう業界に多いように思うのだが
君は君のスマホがどのように情報をやりとりしているか理解できているか。情報が電波に、光に、導体に、どのように乗るか理解できているか。OSが何をしているか理解できているか。アセンブラから高級言語まで、どのように組み立てていくのか理解できているか。ネットワークがどのように構築され背景にどのような理論があるのか知っているか。待ち行列理論を知っているか。情報理論を知っているか。エントロピーを知っているか。統計的機械学習がどのように動くのか理解できるか。グレブナー基底を用いた数学証明をコンピュータで構築できるか。君が情報に関わる者全てを工事現場の土方だと思うなら視野があまりにも狭い。君が土方なら私は君の何千倍も優秀な土方であり、そしてかつ何よりその前に建築家だ。
事前のネットの反応見てると、もっと兄になることを嫌がるくんちゃんに対して、
周囲が毒親ぶりを発揮してよき兄へと更生される物語を予見していたけど
実際はくんちゃん本人が家系図の人々との出会いの中で自発的に「兄」という役割を受け入れる物語だった。
建築物の奇妙な構造は確かに奇妙だったが、それは父親が建築家だからということであり、
また母型の祖母から奇妙であると劇中でも指摘されているので気にならなかった。
この作品だけを見て細田守の家族観に憤っている人は小町的な言説に毒されすぎだと思う。
それとは別に同じパターンを反復し、かつプライベートに寄りすぎている物語はいささか退屈であったし、
くんちゃんの挙動に対して子共の持つ可愛さや愉快さよりも、気持ち悪さや不快感が先に立ってしまうのは問題だった。
また時間移動が実際に行われているたしいファンタジーの設定も後付感があり、
自分のことばかり話す知人がいて、僕はその人が苦手だ。
だけど僕は基本的に人の話を聞くのが好きで
なのに何で自分のことばかり話す人は苦手なのか考えてみた。
そして去年読んだ本に書いてあったことを思い出した。
簡単に言うとアメリカでは既存の知に何か+α(新しいアイデア、発見)がなければ認められないということ。
そのためには既存の知の文脈を知ることも大事だし、新しいものを発見したり、発明する努力も必要であるということ。
知人の話を聞いていて面白くないのはその+αがないからではないかと思った。
当人としては自分がこれまでに経験していないことなので新鮮なのかもしれないが
知識として何も目新しくないので聞いていて楽しくない。
もしくは文脈から外れているから違和感があって落ち着かない気分になる。
僕が小さい頃、うちの父は日曜大工が趣味で色々なものを作っていた。
父は夕食の時にそれを自慢げに語っていた。
「俺はこれを誰にも頼らずに一人で作った。偉そうにしている建築家にこんなことが出来るか!」と一人で勝手に息巻いていた。
「あいつらは徒党を組んで卑怯だ。俺は誰にも手伝ってもらわずに作ったから俺の方が凄い」という理屈を付けていた。
自分の中で釈然としないものがあったが、何と言い返せばいいかが分からなかった。
父は「お前は屁理屈ばっかりだな」と馬鹿にしたように呆れていたのを覚えている。
父のことを思い出したのは、先の知人と父の発する不快感がとても似ていたからだ。
両者に共通しているのは自分の経験値だけでしか物事を考えていないこと。
「日本人の芸術観は自分の思い思いの表現をすることが芸術だと思われているが
海外では過去の文脈を理解して、そこにどう自分自身をプレゼンテーションしていくか考えないと通用しない」という趣旨の発言をされていた。
こういうことなんだろうなと思った。
また、うちの父から「お前は屁理屈ばっかりだな」と言われてしまいそうだ。
追記〜
こういう人に共通しているのは常日頃から勉強する習慣がついていないという人だと思う。
もうひとつ、別なパターンがあった。両親が知的な専門職(建築家や弁護士など)で、兄弟姉妹がめちゃくちゃ優秀な中で自分だけぱっとしないという状況で、「どうせお前はダメだ」と言われ続けてきた子。そういう子は、「高校2年にもなって、中学1年の学習事項でつまずいていることは恥ずかしいことだ、悪いことだ」と思い込んでいて、問題集を開くたびにその「自分ができていない中学1年の学習事項」を目にすることになるから、問題集を開かなくなってしまう。そして親からは「お前はほんとにダメだな」と言われ……の悪循環。その悪循環を断ち切るには、「わからないことは恥ではないし、悪いことでもない」ということを、本当の意味で本人にわかってもらうこと(言葉で言っても「きれいごとばかり」と思われる)。そして、「優秀な兄弟姉妹と自分を比べてもしょうがない」ということを伝えること。後者は実に難しいことで、50歳になってもトラウマ引きずってる人もいる。
1.そもそもほとんどの人がポストモダンを1ミリも知らない(ポストモダンの建築家、小説家、哲学者をそれぞれ三人ずつあげられる?俺は無理)。
2.ポストモダンを理解できないことをほとんどの人は気にしない。
3.自分を賢いと思い込んでいる馬鹿者が「ポストモダンが意味不明なのは空虚だからである(意訳:俺が理解できないポストモダンは糞!)」とかなんとか発言する。
4.ほとんどだれも理解していないので、馬鹿発言が間違っていると判断のつく人が皆無。
5.そのくせソーカル事件(馬鹿者がポストモダンを馬鹿にできる最高のクズネタ。正しく批判できる人はすくない)の知名度は比較的高く、馬鹿者の聖典になっている。
6.だれも指摘できないので馬鹿者の馬鹿発言がなぜかまかり通る。馬鹿者が意気がる。
小6 なりたい職業
【男の子】
研究者 並
ゲームクリエイター 並
教員 並
エンジニア 並
建築家 並
公務員 並
【女の子】
教員 並
保育士 低い
看護師 並
パティシエ・パン屋 低い
薬剤師 並
なんでだろうなあ
男の子のなりたいものって「そんなのなれるわけ無いでしょ(難しいから)」
だけど
女の子のなりたいものって「そんなのなれるわけ無いでしょ(低賃金過ぎて)」
っていうイメージ
__
女性が好みそうな職種が安くなりがち現象って、割りと無視できないと思うんだけどな
__
なんか伸びたからもうちょいちゃんと見てみる
参考資料
http://berd.benesse.jp/berd/center/open/report/kodomoseikatu_data/2009/hon4_2_04.html
保育士、薬剤師、栄養士、カウンセラー、飼育員、理容師、デザイナー、ファッション、漫画家・イラストレーター、パティシエ、ペットショップ
差分はここらへんかな
うーん
確かに、女性が多い現場→自ずと非正規が多くなる→低賃金化 みたいなことはあるのかもなあ
でもそれ以前に、飲食・理容師・デザイン・保育・アパレルなど、業界構造的に低賃金化しやすい職業を好んでる気が
これらに何か共通点があるのか?
自分以外にもこんな感じの人いるんだな。つられて、つい自分語りをしたくなったよ。
自分はこの元増田より2−3年下だが、うちも両親中卒だ。おかげで高校入るくらいまで大学というものがどういうものかさえよくわかっていなかった。それどころか勉強を親に教わった記憶がない。
なにしろ小学校の高学年の頃には、勉強に関してははっきりと自分の知識も能力も母親より上だと認識していた。親から勉強を教えてもらった記憶など、小学校以降ない。父親は父親で勉強のじゃまばかりしてくる。なにしろ家で勉強をしていると酔っ払った父親に家で勉強なんかするな目障りだと怒られる。
おかげで高校まではテスト前にちょっと復習するくらい(親が帰ってきたら止める)で、のびのびと過ごさせてもらった。
たまたま中学の成績が良かったので、ろくに勉強もせずともぎりぎり大学進学できる程度の高校に入れたのが僥倖だった。その高校が公立で家から自転車で通える範囲だったのも幸運だった。貧乏な家だったので電車通学が必要だったり私立だったりしたら止められていただろう。
その高校に入って2年目くらいでようやく気がついた。このままじゃ面白そうな職、面白そうな仕事にはつけないぞと。世の中にある面白そうな仕事ー弁護士、大企業のエンジニア、作家、官僚、パイロット、建築家ーそういった物の多くは大学を出ていないとスタートラインにもたてないらしい。はずかしながら高校生の半ばまでそんなことさえ知らなかった。
そこから必死になって勉強した。勉強してないのは飯食ってる時間、眠っている時間、部活の時間くらい。それ以外は全部勉強にあてた。3年になって部活が終わってからは飯、勉強、飯、勉強、飯、勉強、寝る、の毎日。おかげで高3のころには県でも上位の成績を取れるようになっていた。
だが、それが父親には余計気に食わなかったらしい。親戚の話によると中学の頃まで父親の成績はけっこう良かったのだが、その父親(私の祖父)がアル中でろくに働かないせいで進学を諦め、中学をでるとすぐ働き出して弟妹達を高校まで行かせたそうだ。泣ける話だ。だがそのルサンチマンであたりちらされる子供にとってはとんでもない災難だ。
家で勉強しているのを見つかると怒鳴られる、酒をかけられる。夜中に泣いて家を飛び出したことも何度もある。毎日家に帰りたくないと思っていた。何ヶ月も父親と口を聞かないこともあった。そのうち不憫に思ったのか叔父や叔母が仲介に入ってくれて、物理的な嫌がらせは止まったが、それでも家で顔を合わせると「誰の金で食わせてもらっていると思っていやがる」などの嫌がらせの言葉が飛んでくる。3年の夏休み頃、一時的に成績が落ちたのを挽回しようと家で勉強していたら家業の手伝いをさせられた。たのむから勉強させてくれというと「お前が勉強するための金はどこから出ていると思っているんだ?」という答え。その後なるべく家では顔を合わせずにすむようにしつつ勉強を続け、成績ももどり、どうにか東大に入った。(嘘だろうって?そう思うんなら勝手にそう思ってろ。しょせん増田だ。)
高校最後の一年くらいはこの家から早く出たいという気持ちが、将来ひとかどの人間になりたいと思いと同じくらい強くなっていた。家を出ることができて心の底からほっとした。東大に入ったことよりもそちらのほうが嬉しいくらいだった。その後大学院まで進学し、外資系に就職し、今は海外からこの増田を読んでいる。
元益田と同じように両親をうらんでいるか?ときかれれば、恨んではいるが仕方がなかったことも理解していると応えるしかない。それは当時から同じだ。自分の学歴コンプレックスから優秀な子供の邪魔をし芽を摘む一歩手前まで行ったことは今でもゆるせないが、同時に、自分より劣る弟妹を高校に進学させるために中学を出て働き出したというエピソードには一人の人間として畏敬の念を抱かざるを得ない。
高校の時以降、親を頼ろうと思ったことなど一切ない。その点ではまったく恨んでなどいない。ただ、恵まれた同級生たちをみて、自分の親が彼らの親のようだったら、自分ももっと素直に育っていたのだろうか、同じように青春や人生の幸せを感じ取れたのだろうかとつい詮なきことを思い浮かべ悲しくなるくらいだ。高校をでてからはろくに実家にも帰らなかったが、初孫にあたる息子を連れて行った時は、本当に喜んでいた。その姿をみて毒気が抜かれた。自分が生まれた時もこんなふうに喜んでいたのだろうかなどとさえ思った。
その父親はその後病気になり後遺症で口さえ聞けなくなった。たまに一時帰国時に入院先に見舞いにいっても、言葉にならない声を出すばかり。ただ目には喜びがうかんでいる。子供の時には仲の良い親子だった。その頃の気分になっているのだろうか。それとも俺のことなど無視して孫達に会えたことが嬉しいのか。話が聞けないので、それはわからない。
大学の教授の授業はつまらない。彼らは別に学生にわかってもらおうとなんて思ってないだろう。
極一部だけ、自然と聞ける授業をする先生もいる。何がその他大勢と違うか。
それは別に話が上手だったりするわけではない。
学生の方に姿勢を向けているというか、対話しようとする意思が伝わってくるのだ。だから聞き手も聞きやすい。
俺はこれを「心の矢印が外向きである」と呼んでいる。
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中学生相手に集団授業をするバイトをしている。真面目なので、毎回しっかり準備して挑む。
しかし、事前で考えてきた説明をそのまま吐き出しても、なんか微妙な感じで終わることが少なくない。
その場に適切な?声の大きさとかトーンとか、話のリズムがあって、それに乗せて言葉を吐かなくとうまくいく。気がする。
家で「ここはこういうトーンで話そう」とか考えてきても結局また微妙な感じになる。
そもそも「上手にやろう」と考えた時点でもう心の矢印が内向きなのだ。
最近少しだけ矢印を外向きにできるようになってきた。
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アニラジだけじゃなく、地上波のラジオもちょこちょこ聞くが、やはり一番ラジオが上手だと思う。
もちろん正解はひとつじゃないのだろうが。
何といってもゲストを掘り下げるのが上手である。気持ちいいくらいの深さまで掘ってくれる。
ゲストに対してだけではない。リスナーに対しても矢印を向けている。
その対話を外で聞いているリスナーもちゃんと意識しているのが鷲崎健である。
ゲストに対するリアクションが大きいのは、リスナーに「ここは笑っていいところですよ」と伝えるためだと思う。
だからリスナーは”安心して”笑うことができる。番組の雰囲気の一部にいるような気持ちになる。
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安藤忠雄展。メインの建築の話はまあ正直3%くらいしか理解できなかった。
コンクリートで抽象的なTHE・Tadao Andoの建物だが、その実、立地環境を最も生かすように構成されている。
表参道ヒルズのことも、あのゆるやかな坂の傾斜を「建物内部に取り込もうとした」と言っていた。よくわからんけどすごい。
音声ガイドを聞いていても、住居にすむ人のことをよく考えていたり、一緒に仕事をした人の名前をよく挙げていたのが印象的であった。
独学で頂点に立った天才建築家である以上、自分のこだわりは曲げないみたいな、気難しい気性を想像していたが。
自分の意見が受け入れてもらえなかったり、企画が挫折の連続だったとかの過去も、ちゃんと自分の中で消化しているのだなと感じたり。
あの光の教会も、めちゃくちゃ厳しい依頼の中での仕事だったらしい。
それでも条件を全部満たしたうえで自分の作品を建てた。うーん、見習いたい。
あくまでも心の矢印を外に向けたまま、自分の理想も実現するということか。
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始めはインターネットのアングラ、オタク向けの作品、自分がやりたいことをやるところから始まったが、
《星を追う子ども》を経て、「観客の求めること」に作品を合わせに行けるようになったという。
矢印が外に向いていき大衆を指したとき、《君の名は。》が集大成として結実したのだ。
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以上、心の矢印を外に向けたいの話。
これまで勉強と水泳とオタクしかやってこなかった俺の矢印は内側を向いて錆びついている。
少しずつ還元していく。