はてなキーワード: 薄っぺらとは
そこでプリキュアを褒められてもな……って感じだよ。
でもただただ夢が大事夢が大事って連呼してるだけで、すっごく薄っぺらい。
バケモノの子は台詞で説明し過ぎる、と言われてたけど同じ状態か?いやバケモノは見てないんだけど。
アンパンマンみたいに全体がお綺麗ファンタジーで構成されている世界ならまあそういう世界観なんだろと思えるけど
リアル現代日本舞台で他にリアリティある言動をするキャラもいる世界でそんな薄っぺらい事言われても違和感あるだけだよ。
全体的にもドシリアスな展開になったと思いきや、次回であっさりそれを忘れ去って「明日は友達皆でショッピング♪」とか言い出したりして回ごとのギャップあり過ぎだよ。
やれ世界の危機だとか言ってなかったかお前ら。ショッピングしてる場合か?
シリアス展開は大人オタクウケがいいから入れたいけど子供は明るく楽しい話を好むから、ってんでそうなってるんだろうけど、全体の整合性取れてねえ。
ドシリアスな理由で数か月に渡って仲違いし続けてしていた二人が一緒にサッカーやっただけであっさり仲直り、ってのもあっていやいくら何でもねーだろと思った。
仲違いしていた根本的な理由は全く解決しておらず、サッカーはその時ワールドカップだったから時事ネタってだけ。子供騙しにもほどがあるだろ。
見ていて嫌になる話も多い。この前は子供の頃から母親に自分を否定され続けていた娘が母親に反発している、と言う話が出て来て毒親を乗り越える話か?と思ったら
結局「母親はちょい天然なだけで悪気はなく娘を愛している」「娘もやっぱりママが大好き」的な展開になってええええっと思った。
これだけ毒親とか問題視されてるこのご時世にこんな話作るかあ?毒親持ちの子供があれ見て親は悪くない親を愛せない自分が悪いんだと思い込みそうで痛々しい。
ディズニーと比較するなと言うけどラプンツェルがリアリティある毒親を描き、勿論娘が最後は決別して乗り越えていたのとは違いすぎる。
終盤になるとシリアス展開続くけど、そうなるとキャラが強敵に只管痛めつけられて悲鳴あげ続けてたりして子供怖がって見たがらねえ。
リョナ好きのヲタ狙いなの?あれ。精々3歳とか4歳の女児がそんなもん見て喜ぶと思ってんのかよ。
増田はディズニーアニメと同じく大勢のスタッフで打ち合わせて作ってるはずだ、と言うけどさ。
その打ち合わせ内容が全然違うだろ。ディズニーは子供にとって面白く教育にも良いエンタテイメントを作ろう、という気概を感じるけど
プリキュアで打ち合わせてんのはどうやって玩具を売るか、スポンサーの意向にそぐわない内容が入ってないか、だけじゃね。
つかあれ作ってる人に問い詰めたい。
お前本当にこれが子供向けの作品として良いものだと思ってんのか?
お前に娘がいたとしてこれを是非見せたい、と本気で思えるのか?と。
絶対思ってねーだろ。子供は馬鹿だから子供騙し作っとけば騙せる、とか思ってるだろ。
いや仕方ないんだろうけどさ。高い志を持てるだけの金も余裕もないんだろうし。実際それで子供騙せてるんだから、目先の仕事としてはそれで良いんだろうし。
でも大きくなってからも思い出に残るって事はなさそうだよねあれ。
良い子供向け作品ってのは大人になってから見返すとまた(良い意味で)違った感想を抱くものだと思うけど、
プリキュア見てる子供が大人になって見返したとしても「こんなくだらねーのに夢中になってたなんて子供だったなあ」という悪い意味で違った感想しか抱かなさそう。
ヒトデって人が最近よくマンガまとめしててホッテントリしてる。なんこか見てたけど、多分そんなに詳しくない。マンガも好きなのだろうだけれどオタクではない。そこに己のアイデンティティかけるほどのめり込んでないって意味で。
オタクの人からみたら薄っぺらいとか底が浅いっていい方になるのかもしれないけど、ヒトデ氏は自分がめちゃくちゃ詳しくないのは重々わかってて、そんなことは全く気にしてない。ただ自分が楽しんでるだけ。 無邪気に楽しんでみせてるだけ。そこにタテの意識やら勝ち負けの意識はない。あえていえば、楽しんでる時点で勝ってる。結局のところ、そこそこ話が通じて、押し付けがましくなくて、楽しんでる人のところに人は集うのだろうね。
ヒトデさんのブログをみて、俺のほうがいい漫画知っとるわい、なんだこの雑魚はとか誰も求めてないのにひとり勝ち負けを意識してしまう自分が悲しくなった。どうして何の意味もないのにこういう風に考えてしまうのだ。
「女は外見しか見ない」「男は中身を見ない」←どっちよ
http://anond.hatelabo.jp/20150713234228
これ書いたんだけど。結構ブコメとか付いてて。マジで世の中こんな感じの感想なのかとビックリした。
でも本当にこんな感じで反応するんだなあと。
→学生のウィキペディアコピーレポートと、査読を通る論文では『中身』の意味合いが違う、中身が無い論文は採用されない。みたいな純粋な中身。ってのが伝わらないのは本当だろうか?
→女の子はお姫様とかきらきらしたものが子供のときには好きだし、男の子は発達障害が多くてミニカー渡すと並べだす子が多い。みたいな性差に基づいた嗜好が普通にある。女の子はきらきらした『見た目』のものが好きで、男の子はプロ野球名鑑みたいなのを暗記するのが好きだったり。これをもって、女、男と書くのは、医学的にもなされてることなのに、なぜダメなのか分からない。
→モテナイから、疑問に思ったが、モテナイから文句を言ってるわけではない。
→中身無い論文は採用されないから。中身無い文学なんて歴史に残らないから。だから中身に言及するのは自然としか思えない。
「フィールズ賞の話なんてありがたいと思わないでしょ」
→普通に中身あると分かってる話しだから、理解できなくても是非聞きたいってなるがなあ。
「人生経験が足りない」
→人生経験してる人達って、文学とか哲学とかなんで読まないの?それこそ人間の存在について色々疑問持って普通読むんじゃないの?それをしない『人間性』ってどの程度の人間性なの?薄っぺらく感じる。ってかおかしいと思わないのかな自分で。あおりとかじゃなく、普通におかしいと思う。強くなりたい、って思ってる人がトレーニングしてないみたいなおかしさ。
→だから、女が求める中身、とやらは本当に中身という話なの?たんなるおためごかしでしょ。中身って単語を恣意的に間違って使ってる。AV女優は演技下手なのに、一応女優的な、そういうエクスキューズでしょ?
「中身は外見に表れる」
→すばらしい中身の発達障害系の偉人は相当クズ扱いされるなあ。外に出たらいぶかしがられるのが中身なら、中身がある奴が好きだという女の言葉はやはりおかしいのでは。
とまあ、俺はそういう風に、思ったんだけど。
世の中的には、ブコメの通り思うのがスタンダードで、俺は間違っているという話らしい。
でも、俺は数学で学年で俺だけ正解とか、そういうのたくさんあって。俺だけ違う答え書いたから間違いかといわれたらまったく納得がいかなくなってしまう。
だってそれが正しいなら、大多数が数学でバツつけられるあの事象はどう説明するんだろうって思う。
でも、客観的に、数学とくようになんの感情も抜きで、こういう結論に俺はなってしまうんだけど、なぜみんなそうならないんだろうか。と思う。
答えを見ても理解できない層というのが大多数らしいし、こんなものか?
俺が正しいと言いはることに意味は感じないが、じゃあ何が間違っているんかは、まったく理解できなかった。
中身があるなしという話で言うと、論文なんかは中身を審査できる人間ってのが限られてて、ほとんどの人には無理だから。
だから、中身を判断している、っていう言葉自体が相当おごり高ぶっているとしか思えない。
男の場合は、発達障害とかで、確かにそういう奴がいるなってのは理解できる。あるいは専門に走ってるオタクとか。
でも、女はそういう人少ないわけだ。医学的にも。
そうなると、女の中で、「中身で判断する」というのがスタンダードになることはかなり難しいと思う。なんらか理屈がないとおかしいと思える。
就活がつらい。「就活がつらい」などという学生にはありきたりすぎて反吐が出そうな悩みをここに書き連ねるのは些か憚られるのだが、
つらいものはつらい。
そこそこ良い大学に入ったはいいものの、自分は計画的に物事をこなすのが苦手らしく、
定期試験を見据えて計画的に単位をとることが自分にはどうしても困難だった。
周囲への劣等感に押し潰された結果の休学と留年を経てようやく単位の取り方(要領)が分かってきた、気がする。
周回プレイすることでよりスムーズにゲームをクリアできるようになる、みたいなものだ。
無理だ。
周囲に馴染めない。
慣行に馴染めない。
システムに馴染めない。
空白期間の(それなりに正当っぽい)言い訳を考えなければならないということに堪えられない。
心にもない薄っぺらな志望動機を披露することに堪えられない。薄っぺらいことを自覚しているから尚更堪えられない。
無理だ。
つらい。
つらい。
今すぐゆゆ式の2期が観たい。
1
6月11日に、「絶歌」は発売された。その直後、この本の刊行を報道で知った遺族のうちの一人が、遺憾であるとコメントを発表した。
以来、今日に至るまで、様々な人々が—— 専門家、知識人、芸能人、ライター、クリエイター、etc——、この本についてコメントをしたり、記事を発表している。
少しだけ、どこかで見たような光景だな、と俺は思った。
原発だ。
震災以来、原発というのは、賛成だろうと反対だろうと、何かしらの意見を持たなければならないような問題になった。「どうでもいい」「どっちでもいい」というような態度は許されない。誰しもが原発に対して、真剣に考えなければならない(あるいは、そのフリをしなくてはならない)、そんな風潮が蔓延している。
そんな光景に、どこか似ている、と俺は思った。この本の出版に関して、肯定的だろうと否定的だろうと、有名人(というかライターやクリエイター、芸能人)は、何かしらコメントをしなくてはならない。そんな雰囲気が漂っているような気がした。
また、ネットでもあちこちで、この本のことが言及されている。その内容(というか質)も、原発に関するもの似ている。有意義なものあるけれど、ほとんどが似たり寄ったりな退屈な意見で、特にAmazonのレビューに関しては、まぁ、平均的な人間の平均的な意見が読める、という以上の価値はない。
なんというかまさに「脱法ハーブ、握手会、風営法、放射能、ダサい、ダンス、ダウンロードって言ったら負け」状態だ。
2
俺がこの本を読んだ理由は、端的に言えば好奇心だ。この本が発売されると知ったとき、純粋に読みたいと思った。ただの好奇心。
この際だから、書いてしまおう。俺は小説を書いている。ほとんどの人は知らないと思うが、Amazonで販売出できるKDP(Kindle Direct Publishing)で発表もしている。つまり、創作をする人間として、この本に興味を持った。
この本の元になった事件は、説明するまでもなく、後のフィクションに多大な影響を与えている。俺が知っている範囲だけでも、舞城王太郎や佐藤友哉あたりは確実に影響を受けているだろうし(舞城の『阿修羅ガール』に出てくる鬼畜殺人鬼グルグル魔人を知っているか?)、奥浩哉『GANTZ』に出てくる西なんかは、もうまんまだ。他にも探せばたくさん出てくるだろう。
創作をする人間として、そんな風に後のフィクションに、作家たちに影響を与えた事件の当事者が書いた手記に興味を持つことは、そんなに不思議ではない、と思う。だから手に取った。ただ、これは弁解だ、言い訳だ。下世話な好奇心で読んだ、と言われても反論は出来ない。
(これは余談だが、先述したとおり、この本は6月11日に発売された。ニュースになったのも、その二三日前だったと思う。しかし、振り返って見ると、五月の終わりに、この事件をモデルにした窪美澄「さよなら、ニルヴァーナ」が出ているし、そのちょっと前には、34歳になったとある小説家が事件現場を巡礼(?)するという内容の佐藤友哉「ドグマ34」がすばる4月号に掲載されいてる。偶然か? さらに余談だが去年放映されていた、金城一紀脚本のドラマ「ボーダー」の第三話は、殺人を犯した元少年が手記を出版しようとして遺族に殺されてしまう、といった内容だった。まぁ、偶然だろう)
3
事件当時、俺はまだ小学生だった。けれど、この事件のことは、やはり印象に残っている。
俺は子供のころ、モデルガンが好きで、アクション映画などの銃撃戦のシーンを見てはひとり興奮していた。シュワルツェネッガーがバンバン人間を撃ち殺しているのを観ながら熱狂している俺を見て、母親も心配していた。俺も子供心に「自分は人が死ぬことになにも思わないのか」などと普通のことを普通に思っていた。平均的だ。
そしてこの事件以降、子供によるセンセーショナルな事件は、たびたび起こる。「キレる17歳」などいうキャッチコピーがつき、まるで急に少年犯罪が増えたかのように報道された。
フィクションも影響を受ける。バスジャック事件を題材にした青山真治の映画「ユリイカ」などだ。
開き直るわけではないが、俺は上記の作品たちが好きだ。だから作者に興味があるし、その作者に影響を与えた題材、事件にも興味がある。センセーショナルな事件は、良くも悪くも、フィクションに影響を与えているのだ。
ただ、報道のされ方、ニュースの選ばれ方のせいなのか、はたまた「事実は小説より奇なり」なのか、現実では悲惨なニュースが相次ぐ。自然災害は仕方がないにしても、凡人には理解できない理由で、または理解できないほど身勝手な理由で、色々な事件が起こる。無差別殺人、闇サイト、児童虐待。世紀末を過ぎても、この手のニュースには事欠かない。
「近頃はありきたりのリアリズムに追いつかれそうにも見える」
これは、とある賞の選評の一部だ。とある一作品に向けられた言葉ではあるが、なんだかフィクションがひどくしらけてしまうときに、この言葉がふと思い浮かぶ。
我ながらバカなことを書いているな、とは思う。でも、俺は嫌なのだ。俺はフィクションが好きで、物語が好きで、小説が好きなのだ。だから、読むし、書いている。書いては直して、また書いている。
この本が出たときも、似たようなことを思った。批判が溢れ出ているのに、蓋を開ければベストセラーだ。売れているからって、優れたものじゃないってことは判っている。それは音楽も映画も本も同じだ。
4
そして、この本を読んでみた。内心ドキドキしていた。偉そうな事を言っておきながら、日本の犯罪史上稀に見る(仰々しい枕詞だ)事件を起こした、当事者の手記。正直、影響を受けてしまったらどうしようか、とも思った。俺は本を読む以上、どんな本でも最大限影響を受けるつもりで読んでいる(そうでなければ読む意味なんてない)。ただ、この本だけは、少し怖かった。
しかし、どうだろう。前半はネットで揶揄されている通り、自己陶酔しきった糞ポエムだった。ガラガラのライブハウスで演奏しているクソみたいなバンドの歌詞でも、これよりはほんの少しマシだろう。ただ、文章自体は上手いな、とも思った。読ませる文章だ。特に、後半の面会に来た弟のやり取りの場面では、ちょっとぐっと来た。少しだけ泣きそうにもなった。
でもこれは(ここまで書いておいてなんだが)、所謂ただのお涙頂戴話だ。当たり前の反応というか、けして面白かったというわけではない。
そう、端的に言って「つまらなかった」というのが、この本を読んでの感想だ。
一部で神格化、カリスマと化している「殺人鬼」だが、彼はつまらない、ただの普通の人だったのだ。多くのフィクションに影響を与え、ひとたび本を出版すれば大いに話題になる「あの人」は、普通の人間だった。
前半のあの糞ポエムが、それを象徴している気がした。あの稚拙で過剰な修飾表現は恐らくわざとで、そうやって過剰に飾らなければならないほど、内容は、実は普通なのだ。
これについてはロマンポルシェのロマン優光さんが書いた記事に頷ける箇所があった。
“この本には特にそういうところがないのだ。(性的偏向については代入される対象がおかしいだけで数式は同じなので、対象がいくら理解できなくても根本的に理解できないというわけではない。) 普通の人が普通に想像したような話が続くだけである。 ”
http://bucchinews.com/subcul/5203.html
5
少し前になるが、日曜の午前にやっている「ワイドナショー」という番組で、店の商品に爪楊枝を刺す場面をYouTubeに投稿した少年のニュースをやっていた。
それを観た松本人志が、「全然おもしろくない。声も張ってないし」とコメントしていた。他の出演者は「そこですか?w」といった感じだったが、俺は、松ちゃんはこういうコメントをどんどんしていったほうが良い、と思った。
つまり、つまらないものは、つまらないというべきなのだ。そして、松本人志のようなおもしろい人は、こういうくだらないことをする人間に向かって「全然笑えない。おもしろくない」ともっというべきなのだ。
同じ番組で、松ちゃんは、この本は読まない、といっていた。遺族の方がここまで言うのなら、と。立派な態度だと思う。下世話な好奇心で読むヤツに比べたら、遥かにマシな態度だ。
でも、俺は松ちゃんに読んでほしい。この本を読んで、おもしろくない、と言ってほしい。
「俺に影響受けてるのかもしれへんけど、お前の本、つまんなかったで」と言ってほしいのだ。
舞城でもユヤタンでも乙一でも、こんな本より、俺の小説のほうがおもしろいぜって言ってほしい。なにがベストセラーだ!っていってほしい。
だから、俺は敢えて言う。
自分に取っての本当のことを書いたのかもしれないが、ハッキリ言ってフィクションのほうがおもしろいぜ。普通の理由で普通の狂い方をした普通の人間なんかより、グルグル魔人のほうが狂ってるぜ。なんせウンコパン三世〜♫ デレッデレ〜♫ なのだ。
だから俺は、この本を批判するならおもしろい人たちに、「つまらない!」って言葉こそ、声高に叫んで欲しい。
6
“結局のところ、人生で起こるすべての本当のことは、陳腐で薄っぺらで通俗的なのだ。そうじゃないことは小説の中にしかない。だから小説の中で、つまんないなあと思うとき、わりとそれが人生の本当のことを書いているってのがあって、だから小説って難しい”(舞城王太郎/パッキャラ魔道)
まったくその通りだ。
そんで、つまんない本のことで、
いちいち騒ぐのはやめようぜ。
おわり。
昔、ある出会いがあった。
おそらくは、一秒すらなかった光景。
されど。
その姿ならば、たとえ地獄に落ちようとも、鮮明に思い返すことができるだろう。
その先が地獄だとしても前に進むと決めた士郎と
その先が滅亡と知っていても王になると決意したセイバー
やっぱりこの二人は似たもの同士だと改めて思ったなあ
本編のアーチャーの詳細の中で「なんのペナルティもなく固有結界を使いこなし」という一文があったが、本当に消えかかった身でも発動可能なくらい消費が少なかったんだな
わりと初期の頃このペナルティがどれくらいのものなのかと議論されていたがまさかこんなところで結論が出ようとは
HAの『たとえ地獄に落ちようとも思い返すことのできる光景』をまさかUBWで見れようとはなぁ………
アーチャーが契約した“かつてのセイバー”に対する思い入れ、出会いの強さがしんみりと来たぜ
……だからこそ、歯痒いものを感じる
セイバーの聖杯に対する願望、そして自分の内にある鞘の存在を知るほどの関係に至っていたのに、なんで彼女を救えなかったんだ馬鹿野郎………!!
この世界の士郎は先にアーチャーを見たからこそ、アーチャーの様にはならないんだろうな。
守護者の立場が確定したアーチャーはもう抜け出せないけど、後悔だらけの自分とは違う道を示す自分を見たわけで。
本人にはもう救いはなくても、可能性を感じられるだけマシ、なのかなあ。
問おう、貴方が私のマスターか
のカットが入っててまたいいわ。あのシーンて確か本編士郎じゃなくて
本編アーチャーの過去編だったよね。
セイバーの表情もとても良かった。
そういえば士郎はよく「借り物の理想に執着してしまった愚かな男」って言われてるけど、どっかの誰かさんが言ったように「借り物の理想を持たない人間はいない」んだよな。そして自分も元だけど「借り物の理想」をもった人間に該当する。
何年か前、ある人の実況動画をみて、その実況者がプレイしたゲームの素晴らしさに憬れて、自分もそのゲームの製作者のように素晴らしい作品を造りたいと思うようになったのよ。
でもいつからだったか覚えてないんだけど、自分の抱いた理想が「そのゲームの製作者のように」ではなく「自分だけの、自分にしかできない作品を創りたい」という理想に変わったたんだ。
つまり何が言いたいかっていうと、全ての理想に対するanswerは「他人から受け継いだ借り物の理想を借り物の理想のままに終わらせるか」と「借り物の理想を自分だけの理想に変えられるか」という二つの結論に帰結するんじゃないかなといいたいんだ。
新規の人のコメントで「袖がないアーチャーの服は『涙を拭くことができない』ことを表していると思った。」っていうのを見てめちゃくちゃ納得した。
一晩たって落ち着いて考えてみると、この一番大事なシーンを時間の制限ついたアニメにしっかり合わせて分かりやすく構成してると感心するわぁ…
原作やったのがだいぶ昔でアーチャーの言葉にひたすら対抗して打ち合ってたイメージあったけど、ちゃんとその苦しみを理解してその上で対峙するって段階を丁寧に丁寧に描写してたのがほんとよかった、特に同情なんてしないけど心が欠けそうになるってシーン。
あと原作やった時は二人にしか目が行かなかったけどセイバーさんめっちゃ辛そうだな
挿入歌の「傷だらけの硝子の心が」の部分でボロボロの士郎が映って、「忘れかけた熱をともす」でアーチャーに切り替わってるんだよな
偶然かもしれないけど、なんか感じるところがあった
ある意味では士郎にとっても(桜関係や横暴なところを除けば)そういった持ち味を持った慎二も愛おしい日常の象徴だったんだな。だからこそHAでの殺し殺されるっていう緊迫した感じや魔術に対する毒気が抜けて、これから間桐家から出て一般人として再出発しようと語る慎二と士郎のやり取りは(セイバー&桜√で死んでることを考えると)胸にくるものがある。もしHAが映像化したらぜひ入れて欲しい。
理想に執着しているのであって助ける相手に執着していないと言っているのだと思う
衛宮士郎は幸福のために邁進する者ではなく、もっとあいまいなものを守ろうとしているに過ぎないと
だから誰を救うのかも定まらない
それは特定の誰かを助けるために必死になれる人間(たとえば士郎のために真剣に怒った凛など)に比べれば動機が弱い
自分の欲望ではなく願いのために戦うから薄っぺらいんだとエミヤは言いたいんだと思う
じっさいは薄っぺらいどころか士郎は折れる気配すらないと悟るんだけど
今思えばアヴァロンって必ず誰かを救ってくれる要なんだよね…士郎の命が切嗣によって救われただけじゃなく切嗣自身も士郎と出会い救われたし、SNでは後にセイバーが士郎と忘れられないあの夜に出会って彼女自身が救われるきっかけになったしさ。皆の架け橋のような存在だよね。
数ある宝具の中でも、特にアヴァロン(全て遠き理想郷)は尊いものに感じるな。
エミヤに「その先は地獄だぞ」と言われた後の士郎の微笑みが素晴らしかった。
自分の理想の根底にかつての自身の願いがあったことに思い至っての、自身の理想が空虚な借り物でなかったことへの安堵、かつての自分と同じようにたとえ未来の自分から進む先が地獄だと告げられてもその道を進むことをやめようと思わない「自分」と言う人間の性への苦笑、そしてこれからも理想を追い求めていくという決意、それらがあらわれた絶妙な表情だった。
「士郎は人間の振りをしたロボット」とよく言われていたけれど、実は士郎も自分自身のやりたいことを追い求めたれっきとした人間だったんだな。
士郎の始まりは切嗣との出会いでも「正義の味方」という借り物の理想ではなく大災害の地獄の中で願った「誰かを助けたい」という思いだった
今回の話は視聴するまで不覚にも自分ですら忘れていた事柄を士郎と一緒に再確認させられたエピソードだった
これまで士郎は「人間のフリをしたロボット」や「士郎が人間になれるのはHFだけ」っていう意見が多かったし、自分もそう思っていたところがあったけど
今回の回想を見て、改めて以前にきのこが語っていた「士郎という人間は大災害に遭わなくっても最初からああいう人間だった」や「士郎は成長しない主人公」という言葉通り、士郎は最初から士郎以外の何者でもないと改めて気付かされた
今回のUBWはアーチャーが忘れてしまった大切な事を思い出す物語であると同時に、視聴者が「衛宮士郎は衛宮士郎という一人の人間である」っていう原作をした時には分かっていたことを思い出す話じゃないのかな?
そういう風に思わせてくれるufoときのこの演出は本当にすごい
ある意味ではこれまでのfateの総決算ともいえるの名エピソードでした
Fate/stにおいては近くにアーサー王がいるとオートリジェネが入る便利装備
もう一つ便利機能があるがこれは別の話
アーサー王物語にて、策略でアーサー王と決闘させられたある騎士がすんでで相手の正体に気がつき
鞘をアーサーに返却、同時に鞘の加護が消滅してしまい、治癒しきっていなかった致命傷が元で死亡してしまった
と、本来なら死亡しているであろう傷でも命を繋ぎとめてしまう能力がある
もう一つの便利機能、害意判別といいアーサー王物語におけるエクスカリバーの本体はこっちなんじゃないかとの声も
忘れてしまったモノを思い出す為に記憶(うみ)に潜り、あの地獄、あの原初の光景の中にある大切なモノを手繰り寄せる。
Fateは偉大な英霊同士のバトルが目玉なのはよく分かるし、派手だから目に付きやすいし当然だと思う。
でもやっぱり、こういった『人間の想い』を丁寧に織り上げる物語こそが、Fateの真骨頂だとPC版をプレイした時からずっと感じてた。
次話の『answer』もだけど、これから終局まで続く怒涛の展開に期待!
ユニクロ士郎は前編通してやるともうこれしかねぇって感じになるからね、仕方ないね。
個人的に士郎のユニクロについては、端的に士郎の特徴を現してる気がする。
服装って現代では(昔からそうではあるが)自分をよりよく見せたいとか人と異なる服装をして自己の個性を出したい、または同じ服装をすることで一体感を味わいたいといった意味で使われると思う。でも、士郎にはそういった人より優れた自分を見せたいという“自己”には乏しい。士郎がユニクロ着てることからそういう風にも読み取れるんじゃないかなぁと自分は思ってます。
凛の「アイツはああでなくちゃいけないって、ああいうヤツがいてもいいんだって救われてる。」
20話視聴後の感想はまさにこの心境だった
衛宮士郎というキャラクターは創作物の中でも一番好きなキャラかもしれん
違うアーチャーも言ってただろ
「助けたいから助ける」そこに理由がないから偽善だって言ってる
普通の人は大切な人だからとか誰かを助けるに足る理由が存在する
でも士郎は見ず知らずの人すら命がけで助けてしまう
でその理由を挙げるなら死にそうな誰かを助けたいという理想しかないんだよ
間違ってない願いだけど人間として致命的に欠けている
「それを手にする前に、きちんと考えたほうがいい。それを手にしたが最後、君は人間ではなくなるよ」
「おい、そこから先は地獄だぞ」
剣を抜くカットもそうだけど、この辺りもまた対比になってるなぁ
元から、「今、願ってる主体」が士郎以外の誰かだったことはないよ原作でも。
これ、普通の物語なら「始まりがなんだろうとこれは俺の心だー!」になるんだけど
そこで、「もう借物だとか自分の心だとか、理想が理想である前には超些細ですし」
までぶっとぶのがUBW。
「笑いたかっただけ」みたいな話は、普通のキャラにとっては深刻なんだけど
衛宮士郎二人にとっては、自分が偽善呼ばわりされるなんて大した話じゃないから
話さくさく流れて理想の話になっちゃうんだよね。
そこを凄い脳内で拡大してる人が出たりする。
それこそ、「士郎は切嗣の行動をなぞってるだけ」とか。
士郎は切嗣に「憧れた」わけだけど、
それはつまり、「ああいうものに憧れを抱く、善しとする価値観」を
士郎が元々持っていないと始まらない。
それを考えると、もうちょっと複雑なんだよねその辺り。
アーチャーの「幸せそうだったから憧れただけ」を真に受けるのはナシだしな。
「実は贖罪」もそうだけど、UBWであいつが殊更露悪ぶって口にする言葉を
それよりは
>「―――覚えてる。俺を覗き込む目とか、助かってくれと懇願する声を。
> その淵で思ったんだ。自分が助かった事じゃなくて、助けてくれるヤツがいる事は、なんて」
> 素晴らしい、奇蹟なんだって事を。
の辺りを読み込んだ方が未だヒントになりそうな。
→じゃぁもっと決定打になるものを見せてやろう
っていう意味じゃないか? UBW展開は。
「お前の辿り着く先はこの不毛の荒野だ」を文字通り目に物見せると。
あと、演出的には、Ufoはアーチャーと士郎を背負う空(特に雲)で表すそうだから
多分answerが凄いことになる。
UBWは心象世界だから、心象のぶつかりあいをビジュアル化する装置になりうるんだよ。
まさかここにきて、「アーチャーのUBW展開はローコスト」という設定が
演出上の最強のカードになろうとは。
某動画サイトでのコメントはアーチャーがセイバーを間接的にdisってるwwって解釈してるから違和感ある。
あそこのシーンのセイバーはアーチャーの言葉に傷ついてるわけじゃなくて自分と同じような道を歩んだ士郎の成れの果てのアーチャーを痛々しく思いながらも自分と似た願いを持つアーチャーを否定しきれない葛藤も持ちながら二人の問答の答えがどうなるか見守ってるんだと思う。
ホントそれ。そもそも願いが間違いなだけでセイバーの在り方自体はFateの全編を通して否定しえないものとして書かれてる。
SNから入った人はセイバー√で初めにそれを理解するんだけどそれをZeroで盛大に全否定したもんだから
そこから入った連中はセイバー=否定される、していいキャラとして認識してるから大問題。
虚淵のネームバリューもあって被害は甚大よ。
たまに絵に起こしてもらうと、ゲームのCGイベントは戦闘だし、
「いかにもうおおおおおとか言いそう」なとこが対外的には押されがちだったけど
基本「己と向き合い自分の心を形にする」人間だから
実は「動」だけじゃなくて「静」の面も強いんだよね。
その「静」に支えられるから熱さもあるって感じ?
今回の、内面でのアーチャーとの静かな対峙で
「静」の面が凄いクローズアップされたと思った。
自分はこれが見たかったんだよね。
とりあえず、「以前の記憶がない」は「ほほをつたう」と矛盾してると思う。
士郎、思い出に浸るのを自分に禁じただけで、普通に記憶はあるぞ。
> 何もなくなった場所にいって、有りもしない玄関を開けて、
> 誰もいない廊下を歩いて、姿のない母親に笑いかけた。
> ……あの日の前に戻れて。
> 何もかも悪い夢だったのだと、そう目が覚める日を待ち続けた。
士郎って割と元々ああよ。
衛宮士郎がアーチャーと士郎に分かれて真剣に自分の将来を模索するお話まじ熱い
アーチャーは自分が辿った選択ではろくな道筋にならないと力説する
士郎は自分が進む未来は「選べる道」ではなく「選びたい道」を進もうとする
幾度の面談を経て衛宮士郎は見つけづらい険しい道筋を見つけて答えとする
自分会議(物理)は死ぬほどストレスたまりそうだけどその分効率の良さが半端じゃないな
今回のエピソードは、アーチャーの月下の誓いに対する「呪い」という言葉が
あまりにそのまま伝わり過ぎていることに対する反論的な意味もあるのかな……と思った。
余人から見れば呪いととられかねない歪なものなのは確かだし、発言したのが未来の士郎と
いう点もあって、「信憑度が高い」と取られても仕方がない部分はある。
だが、そうじゃない。そんなものは、アーチャーのレトリックに過ぎない。
「月下の誓いに至るには、大火災のさなかで救いを求める自分がいて、生存者がいないと分かりながらも
助けようとした切嗣がいた。だからこそ、救われない人間をこそ救おうとするエミヤが生まれた。呪いなんて、忘れてしまったアーチャーの後付だ」というように。
ここら辺、原作やってても勘違いしちゃう人間がいるし。これをより説明的にしたことを指してデチューンと言ってたのかもね。
なんだかんだ分析してるが、初見じゃもうボロボロ涙でて凄かったよ。そうだよ!そうだよ!と絶叫しちまった。
価値観っていうと語弊があるのかもしれないが
とにもかくにも「心」はないと憧れも発生し得ないってところは
押さえておいてもいいのではと。憧れって心の働きなので。
災害中の描写から、衛宮士郎の連続性を断つ描写は作者したつもりないと思うんだよな-。
っていうか、原作の描写をそう読まれちゃったことを踏まえて再構成したのが
んー、言いたいことは分る。確かにもっともだ。
だが、「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」だと
極論すると、士郎以外の誰であっても
上記二条件を満たせば、士郎の如き人間になるってことだろう。
実際問題、それは非常に考えづらくないか?
なんで士郎がああまで凄まじい人間になっちゃったのかって言ったら
やっぱり元々「何もできないのに謝って楽になるのはだめだ」と
涙を呑んで歩き続けるような真っ当すぎて真っ直ぐすぎる子供だったからで、
そういう心をベースに憧れが発生したからだろう。
「心が死んだ」「ゼロの状態で切嗣から新規に心を貰った」
を強調し過ぎると、なんっかその辺拾えてない印象になる。
大事そうな話をよく読むとさっくり投げっぱなしにしつつ
「え、そこ?」ってとこに落ち着くのな。
よく考えたら何故その話が理想に落ち着く、みたいな。
読み甲斐があるといえばそうなんだけど、お陰で
「借物」が「心がない」と誤解されたり
「笑いたかっただけ」が一人歩きしたり、
今回、物凄い分かり易くバッサリまとめてきて、色々衝撃だった。
始まりは憧れ、でも根底に在るのは願い って、きのこだなぁおい
思い出したよ、くっそながい文章アホみたいにぶっ通しで昼夜読み続けてここの所で「なんて尊い大馬鹿野郎どもだ」ってボロボロ泣いたの。
今回は素晴らしかった。
なんというか、エミヤシロウというキャラクターの魅力を再確認できたよ
人間なら誰であれ死に絶えるような地獄の中で意味もなく切り捨てられる小さな命をこそ守りたいと願った少年が、その地獄の希望をくれた人から受け継いだ理想によって、その最も救いたかったものを切り捨てて大多数を救うものになってしまったんだからやるせないよなあ
士郎が本当に凡人なら、途中で折れるんだろうけど、地獄の道行を後悔なく駆け抜けることができてしまった心身の強さに物悲しくなる
一応補足しとくけど、兄貴とディルでは置かれた状況が全く違うからな
兄貴とディルを比べてディルをけなしている人はそこらへんを忘れているし、あえてどちらがより酷いかといえばディルの方が遥かにひどい状況だったんだよなぁ
そりゃ恨み節の一つも吐きたくなるだろって納得するくらいに
仮にディルが戦闘続行を持ってて、セイバーと切嗣を倒してケイネスたちを救えた後に消滅したなら恨み節は残さなかったろうし
もし兄貴がディルと同じ状況だったら、恨み節はともかくとしてやはり憤怒の形相で怒っていたんではなかろうか
それに主君に忠を尽くすってディルの願いも、強い奴と全力で戦いたいっていう兄貴の願いも自分本位な願いという意味では同じだからディルも兄貴同様、立派なケルトの英雄だと思うけどなぁ
士郎が人助けをしたいのに、元々法政志望してたことが昔から疑問だった。救急隊とか医者とか、もっとわかりやすく人助けできる仕事があるのに、と。
でも、きっと士郎はそんな自分の手の届く距離だけに留まるミクロの人助けではなく、社会の仕組み全体を変えるようなマクロの人助けをしたかったんだろうな。
そう思うと、世界と契約したのも、膨大な力で社会全体をよりよくできるという期待を持ってたのに、実際は何の権限もないただの末端の処刑人でしたっていうオチに涙せずにいられない。
なんて愚かで、なんて愛おしいんだろう。大人しくレスキュー隊にでもなっていれば良かったのに。でも身の程を超えて、それより上を、人類の幸福の根源を求めてしまう士郎だからこそ、愛せずにはいられない。
大河になってアーチャーを馬鹿馬鹿って言いながら思い出してくれるまで思いっきり抱きしめたい。
俺もそんな風に思っていたけどFateを深く考察するようになってちょっと考えが変わった
士郎が最も助けたいのは苦しみ足掻いてなお幸せになろうとする人なんだよね
だからもしかしたら罪を犯しても尚幸せになろうと苦しんでいる人をこそ助けたいと思っていたのかも
分かりやすい消防隊員や警察官を目指さないのは
だからあのゲリラの少年を始めとする人々はアーチャーにとっては助けたい相手だったんじゃないかって
指導者はともかく実際に戦っている人達は思想に関係なく自分や家族が食べていく為だったりするし
>>「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」
>原作ではこう
>>自分では持ち得ないから、その尊さに涙した。
>>いけないのか。自分の気持ちではないから、それは偽物なのか。
それ、別に矛盾しなくない?
士郎は元々恐ろしく真っ当な子供で、「『誰か』この地獄を覆してほしい、みんな助かってほしい」
っていう願いを持ってた。
でもそれは、救いのない、誰も彼も死んでいく現実をつきつけられて
意味をなさなくなった(これを「心が死んだ」作中では表現する)
そして、その地獄にあって未だ生存者を探す、
「『自分で』地獄をどうにかしようとする」切嗣に会って、
士郎は、「助かりたい」「助かってほしい」という情動すらボロボロになった己の心では
抱けなくなってたその思いに涙したわけだろう。
SN切嗣では強すぎて物語にならないのは分かるけどだからといってケイネス一人に原作で語られた外道戦術使うのはちょっと弱体化させすぎやな(せめてもう一組くらい・・・)
会話の制約があったとはいえ、セイバーをあからさまな無能騎士道中にしたり、切嗣に明らかにおかしい戦争は英雄のせいだ論を抱かせるのもちょっとな(過去編から考えても切嗣が恨むようになるのは魔術師のはずだし、セイバーがあんなに騎士道大好きなはずもないから、明らかに話の都合のためにそうなったようにしか見えない)
これはもうちょっとやり様があったのじゃないかと思ってしまう
後やっぱりなぜ切嗣は火災の犯人になったのだろうか?
虚淵さんが言峰大好きだったから変えたんじゃないよな流石に
ナタリアとの別れによる正義への絶望や故郷での事件等の過去編がよかったから余計にそこらへんの矛盾や弱体化が気になってしまうな
横からだけど、「士郎は正義の心を元来から備えていた」と思われる描写は今回、原作、前回のアニメでも見えたりしてるよ。
・泣きながら災害のなかを歩いた。その時、周囲から「助けて」 と声が聞こえてきた。止めてくれ、オレにはそんな力はない。という感じの描写。
・そして今回の顔。泣いてはいるけど、泣き顔ではない。
「誰か助けて」ではなく、「助けられないのに助けを求められることに対して謝りながら、歩き続けた」
スマホからだと書きにくいな…
俺は
「たしかに、始まりは憧れだった」
「けど、根底にあったものは願なんだよ」
「(幼士郎の)この地獄を覆してほしいという願い」
「(切嗣)誰かの力になりたかったのに、結局、何もかも取りこぼした男の、果たされなかった願いだ」
って解釈した
根底にある願いは切嗣に会う前から持っていた
のコメントを見て思ったけど、確かに「こんな地獄を覆して欲しい」っていう表現は、今まであの手この手を尽くして地獄を覆すために努力してきた切嗣の願いとしては受動的すぎるかなって思うんだよね。だからこれはやっぱり地獄を前に何も出来なかった子供士郎の願いなんだと思う。
車の傍の死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
トンネルの中の死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
荒野の木の周りの死体
暗転[黒い画面に白い文字で]理想(じごく)を見た。
世界との契約
暗転[赤い画面に黒い文字で]――いずれ辿る、地獄(りそう)を見た。
という事?
そうじゃなくて、
地獄を見た。
地獄を見た。
地獄を見た。
――いずれ辿る、理想(地獄)を見た。
ってこと。
いや、原作ではとてもそうは見えなかったけどな。
実力的には1/10しか戦闘能力出せない状態でも圧倒的に士郎<アーチャー。
そして勝負のついた最後の一刀もアーチャーなら余裕で防げた。けれど防がずに士郎の攻撃を受け入れたってちゃんと理解出来る用になってる。
セイバーも「アーチャー…何故……」って疑問を口にしてた筈だし。
だからこそDEEN版でそこが分かりづらくて不満点になってるんだし。
セイバーが辛そうなのは士郎達が殺し合ってるのに見てる事しか出来ない辛さだと、思うけどな。
彼女はずっと士郎の生き方は危ういと言ってたし、実際に破滅したアーチャーが士郎を殺そうとしてるんだからそりゃ辛い。
士郎とセイバーは似たもの同士だから士郎やアーチャーの気持ちもセイバーは理解できるだろうしね。
挿入歌にあるSTARDUSTって星屑もそうだけど「夢を見るようなロマンチックな気持ち」という意味もあると知ってショックを受けたよ。星屑はまさに「願い」の記号だけどそれだけじゃなく、地獄と知っていても夢を掴みにいく士郎の熱い気持ちも表しているようでAimerさん、なんという言葉を選んでくれたんだ。ついでに、
Ashは色も熱も失った灰塵=アーチャー
Judasはエミヤシロウを最後には殺してしまう裏切り者=理想
として歌詞を見ると本当にアニメ映像とリンクしていてもうこの歌が大好きになってしまったよ。本当になんてすばらしい物をつくってくれたんだこの人たちは。
http://oriaso.seesaa.net/article/421134088.html
これ読んだ感想ね。
劇場版『ラブライブ!』はなぜ失敗作なのか、と言われても、それは彼の感性に合わなかったから、本人の弁を引用するなら「根本的なセンスの違いだからどうしようもない」のでは。
順を追って述べていくけれども、結局のところ今からの話は、俺はこうだった、というだけで、他の人がどう感じて、どう過ごして来たかは全くもって別の話になる。
まず「雑誌連載時代」について、そもそもその言葉はなんなのかツッコミたいのはおさえるとして、確かにラブライブ!の始まりは読者参加企画だけれども、G'sにハガキを出しているラブライ部員がどれだけいるかは分かったものではないし、ハガキを出したファンとて「キャラクターを実在するかのように扱っている」という訳ではない。
あくまで読者参加企画として、そういう体裁を守っているに過ぎず、「彼女らの人生を共有できると信じる真摯な姿勢」というのは古参ファンを神聖化したいがための彼の勝手な思い込みでしかない。
しかしそれでも誌面やドラマパート、そしてPVの中から『本物のμ's』とも言える何かを自分たちの中に確かに抱えていたし、現実のお渡し会やライブを通して『μ's』と『μ'sの中の人』という二種類の存在を受け入れていた。
そしてアニメ第一期。
彼の考えがはっきりと自分とは違うと思うところとして、俺はアニメ第一期を良いものだったとは思っていない。
地上波アニメとして動きまわっている彼女らは、第一期のころから薄っぺらいニセモノであったと思う。『アニメ版μ's』は自分の中に居る『本物のμ's』とは違う。
例えばμ'sの名付け方だったり、あまりにも雑に加入する希だったり、そして彼の言うTV版第一期最終話の展開も、何か違うものを感じながら見ていた。
それは自分の中では、1クールアニメとしてまとめる上で仕方のない犠牲だったのだと納得している。
現にアニメを見てファンになったというラブライバーが多くいるのだから、アニメスタッフは間違っていないのだろう。
アニメ第二期についてはかなり割愛するが、第一期よりも好きだ。それは『二期のμ's』が『本物のμ's』に近いと感じているからに他ならない。
俺の『本物のμ's』は脳天気で、平和で、廃校を口実にバカ騒ぎをしたいだけの集団で、『二期のμ's』はその姿を見せてくれた。
だから俺は第二期が好きで、その上で、ストーリーをまとめるために穂乃果を中心に据えてしまうことはやはり仕方がないのだと思っている。
ようやく劇場版ラブライブ!の話に入る。彼が劇場版をあまり深く見ていないのではないかと思うポイントは幾つもあるのをさておいて。
結局穂乃果の物語に終始してしまったのは否めないが、しかし、9人それぞれの心象を描けていないというのは、受け取る側が力不足だと言わざるを得ない。
はぐれた穂乃果を大声で叱る海未が、部室で絵里と同時に声を上げる真姫が、ドームライブを誰よりも喜びつつ解散すると言い張るにこが、彼女らが心ないマシーンだと思えるのなら、それこそ彼女らを人間として思っていないのではないか。
花陽が米キチにされていることを始めとした、「キャラクターとしてのデフォルメが強すぎる」というのはその通りだと思うが、高々2時間もない劇場版で、高々1クールずつしかない地上波アニメ版で、9人それぞれに見せ場を作るには必要な事だ。これも納得するしかない部分のひとつだ。
そもそもうちの花陽は引っ込み思案なのだ。ふてくされる海未のためにいつのまにかカップケーキを買ってきてくれるような優しい子なのだ。アイドルや米を語るときぐらい大声で饒舌になってくれないと、ただの背景になるしかない子なのだ。うちの花陽を彼の主張の補強材にしないでいただきたい。
劇場版ラブライブ!は物語性については優れた作品とは言い辛いかもしれない。
しかし俺はそれをアニメ第一期のころから感じているし、そこを納得づくで劇場版を素晴らしい作品だと思っている。
ここがアニメラブライブ!の区切りであり、ラブライブ!として新たなプロジェクトのスタートラインなのだと、2時間かけて丁寧に描いてくれた劇場版ラブライブ!は素晴らしい。
この感想は自分だけのものだと思うし、他の人がどう感じたところで、俺の感想が変わることはない。
俺と逆に「一期までは面白かったが、二期と劇場版はクソだ」と言う人がいてもいい。
ただ、「劇場版は間違っている」と言わんばかりの感想はやめてほしい。
これでは作品の途中から彼に嫌われてしまった『アニメのμ's』が可哀想だし、彼女らを描くことに心血を注ぐあまり某アニメのライブパート演出を降りた某氏に対して失礼だ。
「指導や健全な発達のために叱られることはすばらしい!」という名目で、自分のおもいどおりにならない子供をどなってるだけじゃん。きちんと感情コントロールできるようになって、理想の状態がどうあるべきで現状がどうだからダメなのか伝えられるスキル身につけてから子供を指導しろよ。
あと、「大きい夢をもて!」と連呼して盲目的な努力を美談にするのもそこらの界隈にありがちだよな。それで大成するのは才能ある子供だけ。理想と現実の乖離のせいで人格をこじらせ、ぼんやり人生送る子供を増やしてるだけだよね。「大きい夢をもて!」とセットで必要なのは、そのために達成すべき過程がどれだけあるか。中目標や小目標が達成できれば、自尊心にもつながるし、ダメなら改めて大目標について考える指針になる。
たとえば小学生なら「全国大会まで進めるように頑張る」「そこまでは難しいなぁ、でもこのチームで地区大会3位以内に入れるように頑張ってみよう」「そこまでやると中学ではどこかのシニアやクラブチームに入れるかもな」「それも難しいなら、思いきってこのスポーツやめるのもありかもな」くらい一緒に考えるべきだと思うんだけどな。ただぼけーっと大きい夢とやらを夢想してる子供を見てあーすばらしいなぁと感動してるのって、おまえの自己満足のために子供の人生けずってるようなもんだからな。現実見ろよガキ。ガキに育てられるガキってほんとに可哀想。
知り合いの子育てを見ながらこういうことを考えていて、その考えをもとに子供を育てた結果、アメリカの高校に留学を決めるわ、スマホのアプリ制作して自分でこづかい稼ぐわ、優秀になりつつあるので嬉しい。この間、知り合いにどういう子育てをしたのか聞かれてオブラートにこの話をしたら「今からそうするようにしたいが、スポーツ指導者だけでなく公立学校の教師もだいたいそんなもん。子供の価値観が汚染されちゃうんだよ」と寂しそうな顔をしながら言われた。私立しか知らないので公立教師が本当にそうか、俺は知らん。ただ、そこら中にガキが溢れてるらしいので「ガキに自分の子供を任せないように気をつけろ」と、いずれしっかり教えたいと思う。
以下コメント返し
①自分をすごいと思ってるとか、アメリカ高校留学が優秀なんて薄っぺらいとか言われてるようだが、それを言ってる人たちは、冒頭に書いている人たちの精神年齢が低くてもっとマシな教育をしろという点には同意してくれるのかな?同意してくれるならそれでいいよ?俺よりもはるかに優秀な人たちだから、俺がバカに見えるんだろうね。ブクマページ覗いたらほんと優秀で笑みがこぼれたもん。
②優秀になってくれたら嬉しいってのは、作品がよくできたじゃなくてきちんと幸福や目標がなにか自覚しながら、それをつかんでいける人間になってくれそうなのが嬉しいってことね。そういう意味で、子供に何も選ばせてないという意見は間違い。子供は子供なりに勝手に考えてるだろという意見も含めて、子供と一緒になって考えず、純粋で自然のままでいさせるのが善だと信じるのは虐待と言っても過言ではないよ。忙しいのはわかるけど、飯を食わせておいて好きなことやらせておけば勝手に育つ、みたいな考え方は絶対にすべきじゃない。
③そのときの決めつけ良くないって言うけど、そうやって夢をむりやり追わせて成功する人よりも失敗する人のほうが多いよね、しかも決めつけではなく中くらい小くらいの目標を達成できるかという指標を持ってるわけだよね、いないと勝てないという言葉はそのチームで頑張るかどうかの指標の一つにはなるけど、長いスパンで考えて必要かどうかということを思考停止していい理由にはならないよね。
決めつけでうまくいったいい例としては、大学でも球拾いだった上原や長友が挙げられるけど、あれってごく例外だから感動する訳だよね?それを親が感動の側だけ持ち出して強調するのはクズすぎるでしょ。むしろ例外だということをきちんと強調して現実を理解させた上で選ばせるのが大事というだけ。一緒になって感動したい!という考えこそ子供をモノとしてしか扱ってないよね。子供の育て方は自由だ!って言うけど、それラクしたいだけじゃん。一緒に何も考えないで育てるからきちんと考え方を身につけた子供が育ちにくいんじゃないの?ミクロで見れば子供のためだし、マクロで見れば社会的投資を受けてる義務のためということを考えずに、ぼけーっと育てられる感覚がまったく理解できない。
④子供と話し合って、思考のやり方を教えながら考えさせるのが「子供が主役じゃなくなる」「子供の自由を奪っている」「親の目標を押しつけるアイムホームのキムタクみたい」という意味不明な理屈はなんなの?不安定化した社会では、なにもしない方が立派な虐待だという認識を持つべき。ほんと子供が可哀想。
坂口安吾とか退廃的で一般からは程遠く、教師時代のエピソード読んでも教育者には向いてないのがまるわかりな人の発言をドヤ顔で言われても困る。太宰の自意識をDisったという文脈を理解してるのかな。具体的に言語化してるだけ、まだマシだけどね。
ポジティブであろうとする姿勢は嫌いではないけれど、ポジティブであることに固執して、結局臭いものに蓋をするような物の見方になってしまいがちだ。
(こういう考えは、自分でまとめるよりも先達がより深く掘り下げて解説しているので、それを読むことでより自分の考えも鮮明になるのだが、いかんせん自分の語彙が足らないので、鮮明になったところで上手く書ききれないのが悲しい。。。)
かつての仲間や友人が、そういった信仰にハマってしまい、彼らの言うところのハッピーな話(端から見るとそれはそれは薄っぺらく見えるが)を拡散しようと躍起になっているところを見ると悲しくなる。
直接その物の味方を批判すると意固地になるか、支離滅裂なポジティブ解釈をしてしまうからもうお話にならない。
せめて議論くらいできれば、お互い新しい物の見方が出来るかもしれないのに…。
そう思いながら、Facebookのフォローをそっと外したのでありました。
数年後彼らはどうなっているのかな。
幸せとは何か
幸せの形は人それぞれ、なんてことをよく耳にするがそれは一部正しい。
どこか(場所)でもない、何か(物)、でもなく誰か(人)である。
ただその誰かはAさんにとっての誰かや、Bさんにとっての誰かは異なる。
私は旅が大好きで、バイクで九州を一周したり、海外をパックパッカーとして旅をしていた。
そこで色々な絶景を見たり、美味い飯を食べた。
また、刺激的な体験をしたり、様々な人に会った。
そこで楽しかったと懐かしむ思い出はどんな絶景でも飯でもない、
そこで出会えた自分にとって心通じることのできた友達と過ごした日々であった。
そんな人に出会えた旅は最高の思い出になるし、そうでない旅はとりわけ心の底から懐かしむことはない。
私はフィリピンで一人の女の子に出会い、たった2週間という短い間であったが一緒の時を過ごした。
お金もあまりなかったので綺麗なビーチに行くことも、面白いアクティビティーを体験することも、とりわけ日本よりもうまい飯を食うこともなくただ至って普通の日常を一緒に過ごした。
だけれど、今、私にとってフィリピンはどんな刺激的な国よりも思い出深く、懐かしい。
それがアメリカであろうとタイであろうと日本だろうと、高級なスイートに泊まろうが、エキサイトできるアクティビティーを体験しようが、リムジンやハマーをレンタルしようがしまいが全く関係なかったと思う。
私は人生の全てに当てはまると言い切る。
その誰かの気持ちまでは。
年収と幸福度のグラフなんか見たことある人もいると思うがそれがいい例だ。
なのにこの世の中のほとんどの人がお金があればなんでか幸せになれると思っている。
また、お金を稼ぐ意識の高い人に「何のためにお金をたくさん稼ぎたいの?」と聞くと大体が決まってこう答える。
「色々旅行したり、いい家住んだり、美味いもん食えるし、遊べるじゃん」
もしくはとりわけ理由に困る人たち. .
いずれにせよお金があれば幸せ、楽しいとぼんやりしたイメージで生きる人たち。
私は幸せの本質は誰かだと思っているので、一緒に旅行する誰か、一緒に住む誰か、一緒に美味い飯を食う誰か、一緒に遊ぶ誰かが一番重要で、幸せも楽しさも「誰と一緒にそれをするのか」次第で決まると思う。
もちろん必要最低限生活できるレベルのお金は必要なのは知っているし、お金で買える刹那的な娯楽も時に確かに楽しい。
そしてもちろん、仕事やお金を稼ぐこと自体が純粋に楽しいのならそれはそれで羨ましいとは思う。
しかし、幸せとは何か、幸せの本質を考え、見抜くことのできる人間は多くはない。または考えが浅はかなゆえ的外れである。
ゆえに、みな幸せになるために日々動いているはずなのに、実際は幸せとは関係のない動きをする。
結果幸せになれたり、なれなかったりする。
ここから先はかなりこの論理を突き詰めた考え方になってしまい、うまく説明する自信もないし、誤解も生じるだろう、またやや刺激が強く、理解するのも簡単ではないかもしれないのでそのつもりで心してほしい。
話を元に戻すと、幸せとはどこか(場所)でもない、何か(物)、でもなく誰か(人)である。
その誰かを探すことである。
お金を稼ぐことよりも、社会的に成功することよりも、幸せになることが当然みんな重要度が高いはずなので、その誰かを探すべきである。
道で気になる人を見つけたら勇気をもって声をかけてみよう。
出会い系サイトで真剣に誰かを探してみる、いいじゃないですか。
だが人びとはなぜ仕事のために、合間を縫って本屋でマーケティングやデキる会話術の本を熱心に読み勉強できるのに、日々の出会いに対しては大分運任せなのか。
なぜ人生で一番重要度の高いことなのに、そこを偶然や自然の流れに身を任せてしまうのか。
結局、言いたいことは出会いをもっと求めろかよって薄っぺらく思われるかもしれないが、実際この幸せ理論を行動に移すとなるとそうなる。
スーパーの店員さんと言えば、やはり一番のイメージとして出てくるのは女性ではないだろうか。
パートのおばちゃんだったり、女子学生のバイトだったりが「いらっしゃいませ」と笑顔でレジ打ちをしてくれるそんなイメージだ。
しかし私が行くスーパーのレジ打ち店員さんには一年ほど前から男性がいる。最初は夕方に見ていたもんだから高校生か大学生のアルバイトだと思っていた。
けれどある時朝に行ってもその彼はいそいそとレジ打ちをしていた。
なるほど。ここで私の興味は一気に彼へ向かう。見たところハタチそこそこの若い彼だ。そんな彼がパートのおばちゃん達に混じり拙い笑顔で「いらっしゃいませ」と接客してくれる。
その拙さと、見た目の良さが相まって私はそこのスーパーで買い物をした時は一番に彼を探した。彼を探してレジ打ちをしていればたとえ買う物がなくったってジュースの一本だけでも、セルフレジがあるにも関わらずわざわざ並んでわざわざ接客をしてもらった。
見るからに女性慣れをしていなさそうで、見るからに自分に興味のなさそうな彼は、とびきり可愛い顔をしているにも関わらずある時いきなり五分刈りにしてしまう程である。その自分の魅力に気付いていない所も私の興味をそそらせたのだ。
しかし、あくまでお客と店員と言う間柄である。何の知り合いでもない彼のレジにいつも並んでいると、さすがに人に興味がなさそうな彼でも覚えられてしまうだろう。
覚えられてしまっては私の負けだ。あくまで彼に覚えられない範囲のローテーションで行かなければ、不審に思われてしまう。それだけは御免だ。
認識をしてほしい訳ではない。ただ彼の可愛い顔をレジの間だけでも見ていたいのだ。勝手に自己分析した結果これは所謂ファン心理なのではないかと心当たった。好きな芸能人を最前列で見るファン心理とおそらく同じなのだ。ただ、ただ見ていたい。出来る事なら写真に収めてその写真をずっと眺めていたい。そんな心持ちだ。しかし彼は芸能人でもスポーツ選手でもないので、私が写真を撮ってしまえば一発で通報だ。なので脳内のカメラに収めようと何回も何回も彼の顔を見るのだが、ポンコツな私の脳内は綺麗に、完璧に、彼の顔を思い出させてはくれないのだ。
さして興味もない人の顔ならサラサラと思い出すのに、全く使えない。
そしてはた、と気付く。
いつ辞めるかも、いつ異動になるのかも、はたまた出世してレジ打ちを卒業してしまう可能性も全くゼロではないのだ。そうなればもう私は彼のレジに並ぶ事も彼に接客してもらう事も叶わなくなってしまうのだ。
ならばその時が来るまでに声を掛けてみようかな?などと思わないと言えば嘘になってしまう。しかし私が彼に声を掛けるには若さも純情さも純粋さも、ビジュアルも何一つ足りていないのだ。
だから私は彼に接客してもらえなくなる日まで、こっそり彼のレジに並び何食わぬ顔でレジをしてもらい、薄っぺらい笑顔で「ありがとう」と言うことしか出来ないのだ。
「大阪都構想がいいものなのか悪いものなのか判断がつかない、というのが多くの大阪の住民の意見」だという意見があるが、そうは思わない。
地元の住民は案外、都構想の薄っぺらさを肌で感じているし、その理由も知っている。
説明しよう。この有名な動画を見てみるがいい。
総統閣下が都構想の失敗でお怒りのようです
コレを見て笑えるとか面白いとか大阪人が思えるのは、そう思えるだけのリテラシーが大阪人にあるからだ。
利権を嫌うフリをしている維新や独裁者市長自身が利権まみれで、行き当たりばったりで都構想をブチ上げていたことは、案外みんな知っている。だからこの映像を笑える。
お育ち良くて性格悪い奴が多いんだよな。
豪勢な生活・美人でお嬢様な嫁・芸術とか文化っぽいものへの薄っぺらいこだわり、もうちょっと歳食うと子供の教育にどんだけ金かけてるか。
「田舎は甘くない、田舎の方が排他的」みたいな意見がよく聞かれるが、これも薄っぺらいよね
どちらも本当の田舎を知らず、先入観だけで言ってるのがばればれでさ
いや、一定数、ほんとに田舎でつらい思いした人、田舎でめっちゃいい思いした人といるとは思うよ
アサイチのこれ
これもなんか知らずに言ってる人が半分以上いそうな感じ
俺は東京、大阪、福岡市、人口10万人の田舎 (県庁所在地まで高速で一時間、その地方の中核都市までは新幹線で一時間)、
それから地方の県庁所在地 (都会か田舎かなら都会だけど、田舎はすぐそばにある)、ロンドン (ある意味一番都会) に住んだ経験がある
田舎の良いところ
・住居費、生活費が安い、車必須を差っ引いても断然田舎の方が生活費は安い
・子育支援政策が手厚かったりして、小さいうちは子育てしやすい
・食べ物が美味しい (ただし、洋菓子やフレンチなんかはあまりいいのがないかも)
・多くの人が現状変更を望んでないので、自分も暮らせる以上に頑張る必要がない
・広告や人を目にする機会が激減するので、物欲が刺激されず、消費行動がぐんと減ってお金が貯まる
・田舎は人付き合いが大変、とか言われるけど、利害なく道端や店で出会う人は基本優しい、というかおおらか
田舎のつらいところ
・まともな教育環境がないので、子供育てしていいのは小学生までくらいと思う
・仕事がない、または選べないので、妻がパートに出るのもいろいろ難しい
・欲しいものが手に入らない
・というか欲しいものがなくなる
・刺激も欲求も減っていくので、浦島太郎状態というか、若いくせに老後みたいになっちゃう
・店や近所にある施設は当然全て知っているので、新たな発見がない、新たな発見は河原で草むら見てた方がある
・人付き合いが大変、っていうけど、ガチガチの田舎で、集落に家一桁しかない、みたいなところじゃなければ無理して近所と付き合う必要はない。だからこそ、友達はなかなかできない。
・人付き合いしてなくても、近所の目はあるし、噂話はされているようだ。誰に見られてるかわかったもんじゃない。
都会の良いところ
・仕事も、物品も、習い事も、学習環境も、ファッションも芸術も、望めば手に入る
・次々と新しいものを目に入れられるので、アンテナ張ってなくてもいろいろ興味が出る
・現状変更したい人、野望を持った人がいるので、自分もいろいろ頑張れる
・上から下まで将来は幅広く用意されている
・都会も別に優しくておおらかな人はたくさんいる。でもいきなり声かける人は田舎ほどいない
都会のつらいところ
・生活費、住居費、物価がバカみたいに高すぎる。都会じゃ車なんて維持できない金額。
・望んで努力しないと何も得難い。流されて終わり、みたいな人生になりがち
・保育所に子供を預けにくい。小学生までくらいは子育てが大変。
・一つのエリアで全ての用事が終わらない、いろんなものが町中に点在してて、目的に応じて電車移動しなきゃいけない
まあなんだ
当たり前だけど、どっちがいいとか悪いとかはない
田舎に憧れすぎるのもバカだし、同じく都会に憧れるのもバカだと思う
田舎を必要以上に暮らしづらいという必要はないし、都会も暮らしやすさと暮らしにくさが同居してる
つまりだ、都会だから田舎だからではなく、自分にあった街を探せばいいんだ
ちなみに、俺の今までの経験から言えば、神戸あたりがいろいろ便利かつ、商業的にも不便なく、のんびりスポットも芸術スポットもちょっと足伸ばせば飽きるほどあるし、学習環境も京阪神といい大学が揃ってるし、女子大もいっぱいあるし、ちょうどいい感じなんじゃないかと思う
横浜の近郊あたりもいいかもねー