はてなキーワード: 自発的とは
安楽死考えるのわかるし、苦痛を経験してまで延長したい人生か?って思う。これ以上赤字になるのが確定なら、さっさと損切りしてあがっちゃいたい。わざわざ苦しい思いしてから死にたくないんだよな。
多分増田より「生きてること=苦痛」の傾向があるから、今でさえ快楽が苦痛を打ち消し切れてないのに、もっと辛くなるなら単純に耐えられない。そんな思いして死ぬのと、元気な内に見切りつけるなら後者の方がいい。
こっちはガチFランなので、将来の展望なんてものが明るいはずもないし、コミュニケーション能力もぼっちなのでお察し。ホワイトなんて夢のまた夢だし、そもそもバイトに落ちただけで心が折れる人間が就活をまともにやり遂げられるとも思ってない。 もし働けても、仕事も人間関係も上手くいかないのが目に見えるようだ。想像だけで胃が痛い。
自分は色々考えた結果、死ぬのが一番良いという結論になりました。だけど、今のところは勇気や気力が足りないので準備期間として先延ばし中。自発的ならやりたいこと全部やりきって未練をなくしたいので、ゴールを決めてみたら楽になった。そんな感じで仮の地点を決めると、少しは気が楽になるかもしれない。
こちらも痛いのは嫌だから結構悩んでる。でも試してみる勇気すらないから方法を調べてばかりだ。最近は麻酔薬を見ては「医者か薬剤師になればよかった」と考えている。本当、寝てる間に死ねたらいいんだけどね。
何でもできそうになった日じゃなくて、少しは何かできたかもしれない日の話。
母方の祖父母はどちらも素晴らしい人だ。いつも穏やかにしていて、人格者で、思慮深く優しい。みんなからも当たり前のように愛されていて、毎年昔の教え子(夫婦である芸事の教室をしている)からの年賀状や誕生日プレゼントが大量に届いてお酒が飲み切れないと笑っている。
そういう人が僕のおじいちゃんとおばあちゃんだった。そんな彼らから僕はまた当たり前のように愛されていた。会う頻度は少ないけれど、わかる。会うたびに見せてくれる笑顔や、優しかったり厳しかったりする言葉、とにかく彼らがくれるものすべての細部に愛が籠っていた。
当たり前のように愛してくれて、だから僕も彼らのことが大好きだった。
でも僕は傍目ではいつも彼らによそよそしくしていた。わざとしていたわけではなく、、つまり、話し方もちゃんとした甘え方もよくわからない、親の背中に隠れる子供のまま礼儀正しさだけ身に着けてしまったんだと思う。彼らはそういう僕を分かってくれているのかそうじゃないのかよくわからないけれど、とにかく驚くべきことにそれでも優しかった。当たり前だけど申し訳なかった。僕は受け取った分の 1mm でも返せているのかな? といつも疑問で、だからいつからか二人が笑いかけてくれるのもなんとなく気まずかった。
祖父母のことだけじゃない。何もかも勇気がなくて。先延ばしにして。僕はそういう人だって分かってたからもうなんでもいいかなと思うことも多かったけど、それでも祖父母のことだけはずっと僕を非難していた。多分、僕に本当に大事に思える他人は少ないから。大事になんてできてないけど。
何でもできそうだ思った夜が何度もあり、同じ数だけ何もかも無理だと感じた朝があった。
そういう日のうちに、あるキャスを聞いた。
「親みたいにずっとお世話になっていた人に会いに行って、ご飯を作ってくれたときに、お皿を洗えて(ほんの少しでも恩返しできたみたいで)良かった」という話だった(わたしの語彙...)。
こう書くとよくある話かもしれないけど、僕は彼女(キャス主)が僕のように何にもしてこなかったような人ではないことを知っていた。つまり恐らく彼女が会いに行ったのも、連絡を取ったのも普段の積み重ねの延長上にあって、、
でも普段からそうしていたとしてもまだ「お皿を洗う姿を見せられて良かった」なんて思うんだと、そう思った。それからたまたまそのとき彼女を少しだけ身近に感じていたのもあった。普段から尊敬する彼女の中に素朴なものを感じて、うまく言えてないけど、とにかく僕にも何かできるし、躊躇ってることがあるなら前に進みなよって言われてる気さえした(なにかこちらに語りかけてくれたわけではない。多分周囲にいい影響を与える人ってこういう人のことを言うんだと思う)。それでその日は遅かったので明日とりあえず祖父母の家に電話してみることを決めて寝た。
翌日よくわからない時間に起きて、頭が回りだしたのは午後。その日は休日だったけど夜にちょっとしたプレゼンをしなければならず、その資料作成をしていた。
正直めちゃめちゃ忙しくて、明日でいいかなーと思ってた。ぼんやり考えていたけど電話をして何を話したらいいかいまいちわからなかったし、ちゃんと話すことを考えてまとめる時間が欲しかった。
ただ、キャスの彼女がまたお世話になっていた人に連絡を取ったっていうツイートを見たとき(確かにまた連絡を取りたいと言っていた)、見て、作業に戻ろうとしたけど、うまくできなくて、スマホを手に取ってたまたま充電がなかったことに気づいて逡巡した挙句財布を持って公衆電話に向かった。
一度、電話番号を覚えてないことに気づいて戻った。話すべきことは歩き出せば意外にもすぐ決まった。国道沿いのコンビニで車のうるささに辟易したけど一度深呼吸して、右耳を袖で塞いで左耳に受話器を当ててダイヤルした。僕から祖父母彼らに掛けること自体は初めてはなかったけど、自発的なものは初めてだった。
正直すぐには意味があったのかどうかもわからなかった。言いたかったことは1割も伝わったかどうかわからないし、そもそも僕が電話を掛けた意味を相手はすこし取り違えて理解したようだった(大学を辞めたことの謝罪をしたかったのだと思われたみたいだった。もちろんそんなことが一番言いたかったことではない)。
こんなんで僕は少しでも彼らを大切にできたんだろうか? その片足でも上げられたのかな。そういうことをぐるぐると考えていた。
でも最終的に、少なくとも僕がこのきっかけを後悔することを彼らは望まないよな、と思った。僕は間違いなく愛されていて、それには自信があったから。
何かソースを出せという人が多かったから出す。あと本旨があまり理解されてないっぽいのでそれも再確認する。
前の文の下に繋げようとしたらできなかった(長すぎたのかな?)ので、トラバの方にぶら下げることにする。
フィンランドの鉄道については、元増田が引用したソースの下の方で
"Most stations are accessible." (ほとんどの駅はアクセシブルです)と書いてある通り。
accessibleとは直訳すれば"アクセスできる"という意味で、バリアフリーの文脈では障害等に関わらず利用可能な状態であることを指す。
ノルウェーの鉄道の場合、ありがたいことにノルウェー国鉄の全駅の情報が見れる。→https://www.banenor.no/en/startpage1/Search-for-stations/
ここにリストアップされている全336駅中、"Wheelchair access to platform"が無いのは34駅(有っても不完全な駅も含む。完全に無い駅に限ると23駅)。
Vakås駅のページにはアクセスできなかったので、23~34/335=約7~10%の駅が車椅子利用者にとって"not accessible"と言える。
これはド田舎まで含めたノルウェー全土の数値なので、ほとんどの駅でアクセシブルと言ってもいいだろう。「90%程度では"ほとんど"なんて言えない」と言う人は、まあ私と感覚が合わなかったということで一つ。
スウェーデンのほぼ全ての駅に関する情報はhttps://www.dinstation.comで提供されている。
掲載されている124駅のうち、アクセシビリティの情報が書いてあるのは97駅、そのうち車椅子でアクセスできないエントランスがあるのは12駅。
約12%の駅(情報なしは除外して12/97)が車椅子ユーザーにとって"not accessible"である。ただし仮に情報が無い駅を全部"not accessible"とカウントした場合、それは約31%(="accessible"な駅は69%だけ)になるため"ほとんどの駅でaccessible"という私の見解が揺らぐことを、公平のために記しておく。
地下鉄はエレベーター完備。列車の乗降口はプラットフォームと無段差。追加の支援が必要な場合は列車やプラットフォームにある呼び出しボタンが使える。→https://dinoffentligetransport.dk/en/customer-service/rules-and-guidelines/disability-access-conditions/
Lokaltog(地方鉄道の総括,123駅)についてはhttps://www.lokaltog.dk/kunde/handicaphjaelp/に書いてある。これは追記前にも言及済み。
曰く"Du kan som kørestolsbruger, spontant rejse med toget på alle Lokaltogs strækninger uden at aftale nærmere med Lokaltog på forhånd. På de stationer, hvor tog og perron ikke er i niveau, vil togets lokomotivfører lægge en rampe ud./車椅子利用者は、すべてのLokaltogで自由に事前連絡なしで旅行出来ます。もしプラットフォームと電車の乗降口に段差がある場合、車掌がスロープを設置します。"
ただし、Østbanen(デンマークの地方鉄道)のLille Syd線ではGadstrup、Havdrup、Lille Skensved、Ølbyの4駅についてはlevel-freeではないため、ここを利用したいなら事前(利用12時間前)にハンディキャップサービスに連絡が必要。そうした場合、最寄りのlevel-freeな駅まで送ってもらえる。
DSB(デンマーク国鉄)の駅に関する情報はhttps://www.dsb.dk/kundeservice/stationer/でみられる。
ここではアクセシビリティとして階段とエレベーターの有無が見られる。
リストされている317駅で"階段はあるがエレベーターが無い"駅は30である。またどちらもある駅が129、どちらもない駅(=平屋建て)が156。
ノルウェーと同様、9割以上の駅が"accessible"である。
「どちらもない駅がバリアフリーとは限らないじゃないか。階段がないだけで段差だらけかもしれないだろう」という意見もあるかもしれない。
このリストにはLokaltogの利用駅も含まれており、それらがlevel-freeと見做されている以上、他の駅もそうだろうと考えるのが自然と私は考えた。
ただGadstrup、Havdrup、Lille Skensvedの3駅はLokaltogのサイトで言ってる通り階段ありエレベーター無しだが、Ølbyは両方あることになってる。同名の別駅か、最近改修されたのか、情報が間違っているのか。
氏の紹介した例は要予約のサービスであり、別に予約しなくとも駅は使える。
車椅子ユーザーにとって"not accessible"でありかつその支援サービスが提供されている駅でのみ発生する事態なのだが、"not accessible"な駅自体が少ないことはこの追記で述べた通り。
なお駅が"not accessible"で支援サービスもない場合は諦めよう。駅員さんが賃金外労働で助けてくれたりはしないぞ。
これには特にソースを出さずに言ったため、疑問に思った人が多かったようだ。なので追記で根拠とソースを出した。私としてはこれで十分と思うが如何に。
(1)と若干被ってるか。事前連絡が必要なケースは北欧の方が日本より少ないのは確かだが、無いわけじゃない。(あと必須じゃないがした方が得なので自発的に連絡する人は多い。)
なので"伊是名女史のケースは北欧でも事前連絡が必要なケースに該当するかもしれない。"と書いた通り、「北欧なら伊是名女史は連絡なしで乗れたのに!日本は遅れてる!」という意見があるとすればあまり正しくない。
仮に伊是名女史がノルウェーのVieren駅(https://www.banenor.no/en/Railway/Search-for-stations/-V-/Vieren/)に行っても列車に乗るのは不可能だっただろう。この駅なら事前連絡しても無理だろうけど。
北欧ではどうやってエレベーターとかきっちりつけてんの?金もつん?という疑問が見受けられた。その疑問に一部答えよう。
バリアフリー化が法律で義務付けられてて、駅や列車の新築/新造や改修時に基準に沿ってないと許可が下りない。
福祉国家故か高い税金分ジャブジャブ注ぎ込む。スウェーデンなんかは何年か前に250億くらい突っ込んでた気がする。
あと平屋建てが多い。エレベーターとかなくともちょっとスロープ付けるだけでなんとかなる。
ぶっちゃけるとド田舎ではプラットフォームが線路の脇を舗装/草刈りしただけとかもままあるため、特になんもしなくても車椅子で行けたり、手作りや既製品のスロープがポンと置いてあるだけなんてことも多い。
一方でそういう駅ではプラットホームと列車の間の段差はそのままだったりする。
弱者はある程度は助けられるべきだ、とは大抵の人間は思っているだろう。
しかし、それが現実的に合意可能なのは、弱者に「加害性がない」場合に限る。
人的、精神的リソースを供給するにはマジョリティが自発的に行う必要がある。
政府が推奨しようが、言論で擁護しようが、自由な社会においては効果は薄い。
流れを変えるために多くの予算をつけようにも、その配分を決定するのも民主主義なのだから同じことだ。
ガラスの天井とか言うけど、いや、そういうものも世の中にあることは知ってるし、それに阻まれて苦しんでいる友人も見てきたし、まあ、ガラスの天井を割ろうとするみなさんはさ、偉いと思うよ。
偉い偉い。
でも私はガラスの床の上に立っているド底辺女なので、まあ、ガラスを割られると困るわけ。
優秀でエネルギッシュな女性の皆様がガラスを割りたいって言うなら止めませんけどね。
はーい。頑張ってください。
まあ女でも成人式の同窓会に謝罪の列ができるレベルでいじめられてたけど、ゆーて女向けのいじめって精神攻撃メインなわけ。
男はバカスカ殴られてたけどチビで運動音痴の女を集団で殴る男とかそんないねえわっていう。
これガラスの床だよね。
床割られたら殴られちゃうんでしょ。無理すぎる。
ということで私は物理攻撃を受けなかったので小中高といじめられてたけど普通に卒業した。
友達いないと他にやることもないしな。
大学入ってド陰キャ過ぎてバイトの面接全落ちしたけど準ガルバみたいなとこは雇ってくれた。
そこで最低限人間らしい振る舞いを身に着けることができたので他のバイトにありつけた。
友達も女だからって下心ありで声かけてくれた男のおかげで友人のコミュニティに入れた。
男だったらと思うと怖すぎる。
恋人がいるから偉いってわけじゃないが、友達とは深い関係を築けないので、それで初めて他人の前で泣くということ、他人と喧嘩をするということ、そしてそれを誰かに相談するということを学んだ。
他にも女が少ない学校だったこともあって、結構色んなことに「女子呼びたい」と言いだす誰かのおかげで誘ってもらった。
スノボだのキャンプだのスポーツ観戦だのライブだの、陰キャには無縁の趣味を楽しめたのは女だからだ。
こう、自発的に動く能力が欠落しててもなんとなくコミュニティに拾ってもらえる感じ、面白いこと言えなくても、仲間に誘ってもらえる感じ、色々経験出来て得だよなあと思う。
現在就活中だが、私は若い女なんだと思うと偉いおっさんの前でもベラベラ喋れる。
怖い女性とか強い女性の前では委縮しちゃうけど、経験的にゆーておっさんは若い女に甘いって認識がなんとなく構築されてるので、おっさんの前なら委縮せずにいられる。
これ男だったら会社の役員とかいう圧倒的強者を前に絶対蛇に睨まれた蛙がごとくなってたって確信できる。
面接で出てくるのが受け付けの美女じゃなくて役員のおっさんでほんと良かった~~~~~。
受け付けの美女にあなたが特に美容において力を入れていることは何ですかとか聞かれたら死ぬが?????
名門大学で立派な研究してて今バリバリ研究してるおっさんに、私がつまらん大学でやったつまらん研究の話をする方が全然心軽い。
だって相手はおっさんで私は若い女だから。おっさんから能力を見定めるような意地悪のされ方したことほぼないもん。
トラウマ発動だよ。
まぁ見える表に出てきたらそのミジメさをあげつらって自発的に石の下に戻るようにイジり倒してやるけどな
もともと女性一般から広くモテたいとか、誰でもいいからセックスをしたいとかさせてほしいとか、社会から魅力的な男性として認められたいといった願望はない。俺が惚れた女がたまたま俺に惚れてくれないという状況がン十年続いているだけだ。しかし世間一般ではその状況こそ恋愛弱者とされているのだろう。俺からしてみれば弱者という自覚などないしこうした現状を特に気に病んでもいないが、うるおいのない人生であることもまた事実だ。たしかに人生はパサパサだ。顔は脂でネチョネチョしているが。さて、独り身の男がうるおいのない人生に慰めを見出すとしたら? もっとも手軽な手段は読んで字のごとく自慰である。というわけで、ここから先はオナニーの話をします。恋愛弱者論は出てきません。お引き取りください。
100%イマジネーションだけで登頂できる程度にはまだ元気な私だけれど、もちろんよいおかずがあればそれに越したことはない。私の世代の男性はさまざまなおかずで食事をしてきた。うつろいゆくエロメディアの変遷をすべて経験してきた。いや、ピンク映画は経験してないか。まあいい、それはさておき、自宅の電話線に通信モデムが接続されるまでの長い長い間、私の主食は紙媒体だった。エロ本、エロ小説、エロマンガである。劇画タッチの暗くて薄汚いエロマンガに代わってアニメ調のかわいらしい絵柄の美少女エロマンガ雑誌が続々登場し、それに夢中になったりもした。アダルトビデオもすでに文化としては大輪の花を咲かせていたが市場的にはレンタル専用の位置づけで、日々の主食とするにはコストがかかりすぎるごちそうだった。どんなに気に入った作品でもレンタルは返さなければいけないし、セル用VHSともなると1本が1万円以上したのだ。
こうしたおかず環境はインターネットの登場で激変し、通信環境やパソコンの処理能力の向上でもう一度激変した。このあたりの変遷はくだくだしく振り返る必要はないだろう。かつて、何世代ものダビングを経て裏か表かすらよくわからなくなった飯島愛のビデオに目をこらしていたことを考えると、常時接続のネット回線からフルハイビジョンの無修正動画が無料でドバドバ降ってくる現代の状況は「隔世の感」などという月並みな言葉では語り尽くせない感慨がある。「この世の春」が少し近い。
もっとも、この変化はあくまでも量的な変化に過ぎない。ガビガビの飯島愛とフルハイビジョンの七沢みあの違いは、端的には解像度と入手性だけであり、メディアとしての質的な差はないと言える。どっちも同じ動画だ。そこには、かつてエロ本(静止画)に代わってエロビデオ(動画)が登場した時のようなパラダイムシフトはない。作品の内容についても同様である。80~90年代のAVに比べると現代のAVは内容がめちゃくちゃに高度化していて、とんでもない美人がとんでもなくエロいことをとんでもない演技力でやってのける時代になったが、これとても地道に連続的に向上していった結果であり、その間に何か飛躍があったわけではない。
この先もこういう線形な向上がひたすら続くんだろうな、と俺は思っていた。モデルはますます美人になり、エロ演出はますます洗練され、解像度は4K、8K、16Kとますます向上し……そのうちテレビも買い換えなきゃだな、と。この先に非線形な、飛躍をともなうパラダイムシフトが起こるとは思っていなかった。
ところが2016年になってそれは起こった。アダルトVRの登場である。
それはまさにパラダイムシフトだった。静止画が動画になったあのパラダイムシフトさえ超える革命だった。初めてアダルトVRを見たとき、「これは今までのAVとはまったく異質なものだ」と私は確信した。
VRゴーグルをかけて再生を始めた時、自分は行為の「当事者」になっていた。それまでのAVでは(一人称視点モノであっても)自分はあくまでも「傍観者」だった。見慣れたハウススタジオで繰り広げられている知らない誰かと誰かの性行為を神の視点で眺めるだけの傍観者だ。男優の求めに応じて、あるいは自発的に女優が行う行為の淫靡さ大胆さ、背徳さや不潔さ、それを傍観して興奮するのが従来のAVだ。AV嬢は裸になるのが当たり前だし、裸になるまでのチンケな三文芝居など早送りするしかない。
しかしアダルトVRはそれとはまったく違った。なぜか間取りをうっすら知っている家の中に自分はいて、目の前にはめちゃめちゃきれいな女の子がいる。冬服に変わったばかりで今タンスから出してきたようなブレザーの制服を着ている。樟脳のにおいがしてきそうだ。その子がこっちを向いて「うふふっ」と笑う。こちらもつられてつい笑ってしまう。「ンフッ」 今までAVを見ていてそんなことがあったか? 俺はなかった。画面の中で何が行われていても、握力と緩急の調整こそすれ、表情は真顔のままだったと思う。
驚くべきは女優たちの演技力だ。アダルトVRは基本的に「女優の一人芝居」である。自分役の男優はいるがただの木偶であり、ストーリー進行はすべて女優の演技に任されている。女優たちはこれを見事にしてのけるのだ。イッセー尾形とまでは言わないが、正直私はAV女優たちがここまでちゃんとしたお芝居をするとは思っていなかった。また、そのくらいアダルトVRは女優の演技力が重要なジャンルなのだった。棒読み学芸会の芝居だとまったく白けたものになってしまうのだ。結果として、ただかわいくてスタイルがいいだけの女優ではなく、きちんとお芝居のできる女優が日々発掘され、適性が見いだされ、人気を得て活躍していくようになった。
一人称AVというジャンルは古くからあるが、久しくマイナージャンルであった。しかしここへきて一人称AVは突然業界のどセンターに据えられることになったのだから世の中わからないものである。
一人称という形式により、2Dでは早送りしていたような行為前後のたわいもないドラマシーンががぜん意味を帯びてきた。この女性は下宿の美人管理人さんで、俺はしがない浪人生。この女性はかわいい妹で俺はモテない兄貴。この女性は神待ちJKで俺は一人暮らしの冴えないおっさんリーマン。2Dではわりとどうでもよかったそんな設定がいちいち重要になってきた。その設定に没入すればするほど、目の前の女性が服を脱いだ時の衝撃と興奮が大きいのだ。もし美人教師やかわいい看護婦さんが「現実に」目の前で服を脱ぎだしたら、誰だってびっくりするでしょう?
風呂上がりでバスタオルを胴に巻いただけの妹が俺のほうに上半身をのり出してきて、急にまじめな顔になって聞く。「ねえおにいちゃん、そらのおっぱい見たい?」俺はあまりのことに声も出せずただブンブンと首をタテに振るしかできなかった。「ほら!」バスタオルの前が勢いよく開かれた。椎名そらの、いつもAVで見ていたあこがれの椎名そらの、あの白くてすべすべしてふっくらとまろやかで、ぷにぷにと弾力のあるかわいい乳房が、俺の目の前でぷるんと揺れた。「あっ、あっ…!!」人は感極まるとカオナシみたいな声が出てしまうことを知った。「興奮する?」「うん…する…する!」思わず答えていた。
目の前に素敵な女の人がいて、自分を信頼して親密に身を寄せてきてくれるあの幸福感が脳を満たす。「幸せ物質」みたいなものがあるとしたらそれが体中を駆けめぐる感じ、2DのAVでは決して味わうことのないゾクゾクする感じがアダルトVRにはあった。もちろん相手が生身の女性だったらその歓喜はもっとずっと大きいはずだが(長いこと感じていないのでどのくらいか忘れてしまった)そんなことはもうどうでもいい。少なくとも2Dにはそれがなく、VRにはそれがあるのだ。
心通じ合うパートナーがいなければこの先ずっと得られないと思っていたあの歓びを、わずかでも擬似的にでも感じることができたし、ゴーグルをかければいつでも感じることができる。そしてこの先まだまだVRゴーグルの性能は向上するし、きっと動画の解像度も上がっていくだろう。素晴らしいじゃないか。コロナにおびえながらキャバクラや風俗に通わなくてもいい。俺はもう、大丈夫だ。これさえあれば、アダルトVRさえあれば大丈夫だとわかった。生きていける。
いいたいことはわかるけどそれは無宗教とかではなくて「無信仰」信仰の方法を自由(とりとめのない・まとまりのない・定型でない)にしてるということではないでしょうか
信仰と宗教は違うのかというとそれはもう文字も意味も違うので違うのだと思います
どの神様に、と選べる時点で無宗教、宗教の宗派に属していないといえると感じるのは、選択できる範囲や競合をできる組織体内にあるということでもないし完全に別団体に属したものを選べることを自由(無節操さ)だといえるところからです
宗教に属す宗派に属すということが「その教義の行動規範に則る」べきであるというところからになるでしょう
宗教は人の考えや行動を縛り自由を奪うものなのかといわれたら、言い方次第ではそうだといえるでしょう
自由を奪うことは罪であり悪であり宗教や道徳といった観念からは排除されるべきものととらえるのは早計でしょう
選択肢として明示し行動として示したものを許諾の例として言葉にしなければ実質制限されていることも自由の範疇におさめることができます
どんな宗教も悪事は自由ではなく制限され道徳や権利の自由からそれらを排除にむかわせるべきだとしていますが時に悪事とされる善行にあたることもあるでしょう
自己犠牲として自発的に損失を被ることについて、自己犠牲になりたいと思った本人の行動がどこからが本人の意思決定であったか、その根源たるを他の人の意思であるというところまでつきつめると洗脳による自害自損ともいえるでしょう
それがどこまで近い段階であっても言葉にしなければ「美しい自己犠牲」とも言えるわけです
自由で公平で自発的なのか、恣意的な他人の欲求だったのか、視野を自由にできるのならどれも自己責任でありますし、どれも他人の所為でもあります
この定義方法を、議論や考察、研究や文化の形成、生活の安全性や自発性に任せる部分を安全かつ効率的に使うためには関係者の認識を共通させる必要があります
Aの宗教ではこれをしていいが、この場面ではBの協議にしたがう、Cの教徒とおなじ慣習をもちつつ、Dの祝い事に参加する、これが問題なのは主催者の意に沿わない参加者が発生するということです
その土地では年齢や性別に大きく関係する分類や層づくりがあって行動様式がある、それは土地の形状や生産物、文化の継承方法について試行錯誤の結果できたものだとして、それをどの視野の範囲からかわからないけれども否定をする必要性や異なる文化への融合を促進する必要性など、人の欲求という根源以外にないわけです
これをもとに行動を個人が大きく他人を巻き込むと、独占的な判断で継承されるべき文化や人々の生活などがその人の基準のみで変化します
民主主義や多数決といった構造で全体的な存続と発展の利をとるために組織されている一つの目標団体が、多目的に他情報を積極的に取り込み侵食する必要はないのです
日本は結果として無宗教という無制限で垣根のない侵食を行える体制がありますが、これが陸続きの土地ならば過去の大陸を大幅に占領した戦争などに近いことになるのではないかと思いますが日本は島国で日本以外にその文化も習慣もひろまることがありませんでした
この自由という行動者にとってだけ都合がよくて状況を受ける側の圧倒的不利さをせき止める防壁として戒律などがあります
培ってきた文化や財産、知恵や技が家族や一族を存続させるために必要であるのに、ただ血脈のなかでも一人秀でた人がいたので対応できる新技術に乗り換えたとしたら、次の世代の一族はそれを継承できるのか、できなかった場合についての対策をしなくてはならないのではないか、その保守性などが宗教という組織体で自由を制限し自由を得るための礎となるわけです
自由と自由みたいなことになってしまう言葉の使い方が混乱を招くわけですが、選択権を握るためには選択できる手段をもっていなくては「自由に選択することすらままならなくなる」のです
両手にあまる自由をふんだんに持ち選んだりえらばなかったりすることができる、という状態を自由ともいえますが過剰な供給で十分に生活ができなくなり結果として選択ができなくなる状態においこまれることを自由とまた同じ言葉で表すのは、理解をもとめるためには効率的でもないし意味のないことでしょう
自由という状態を過剰に与えるということは選択しないという自由を与えることにもなってしまう、つまり自由を侵害するために自由を供給されているともみれます
選択肢を狭くすることで状況を予測しやすくする、想定した状況にあわせて対策を行い対処し乗り切る、その中にある判断や行動の種類の多さについて自由という言葉を使うべきなのではないでしょうか
さてお話を戻して宗教というのが行動を縛るということ、それは状況の発生予測を絞ることで行動の選択をしやすく解決をしやすい方向へ導くためのルール、規則の単位である宗教のあるべきところだろうと私は考えます
他宗教というならば、複数の神の名の下つまりコードネームのようなものの定義にある行動規範にのっとり判断し行動するという手段が複数あるということになるかもしれません
それが戒律を越えなければ可能かもしれませんが、健康や文化による財産や生産を失う可能性があるものだとすれば到底受け入れられるものではないはずです
日本は調理方法さえまちがっていなければ牛でも豚でも鶏でも食べれます これは宗教によるものということでもありますがこれは宗教による教育と統率が必要ないからです
気温が50度を超える環境で冷蔵庫や家屋に扉が密閉できる状態でなく、電気も家庭に全てあるわけではなく、調理方法も保管方法も十分に洗浄された水が供給されていない状態で無宗教の日本とおなじ文化を必要とする人権を唱えたところで、人権を守るためにはその土地の戒律をまもったほうがより安全ではあるということがあります
これ豆知識としてこの土地では、という情報が何年間、どの範囲でどこまで残るものでしょうか
お布施などで共同運営しだれのところに優遇されることなく中立でいて安全のためだけに情報を継承する立場、聖人という代替概念でその尊厳を意味づけて形作っているのが宗教です
これを複数またいでいいとこどりをするのが、経済力などで圧倒的に安全性や保障を引き受けられる個人か団体、または暴力などで制圧した強制力でなければできないでしょう
その場ごとにルールがかわるのであれば、みな知恵などなくその場で判断した欲求をそれぞれに解消していけばよいだけです
日本が無宗教なのはほとんどの生活行動範囲が安全なため危険を回避するための教えが伝承される必要がなくなっているところです
交通安全や山登り川遊びで人は死にます これを避けるために必要な教えがあるはずですがこれらの発生原因をほとんど人に置き換えられるのが現状です
つまり神様によって救われたり悪魔によって害をなされたりするわけではないので概念ではなく「責任者に賠償を要求する」という解決方法が人のあつまりにおけるルールになっているのです
責任者不在の害を受けるところには近づかないという行動規範を定義づける必要がないため宗教に縛られることがなくなるのです
個人や団体において弱みや充分に練度の高まっていない部分にほかの人が了承を得ながら近づいてきて根こそぎもっていかれる、なんて詐欺や犯罪から身を守るための小規模な団体の積み重ねや知恵も裁判で公平に、などと考えているかもしれません
それぞれの個人の責任において自由という自分からみて選択肢が複数あること、それが他人からみて自分を奪い取る対象にしている人からもおなじ数があることが公平、といった形でそれらの安全を担保しているのが政府、国家がいざとなれば自分という個人をまもってくれる、その象徴が日本人にさえうまれれば日本人の象徴として存在している天皇が自分を日本人だとして人権と自由を国家を通じてまもってもらえるはずだ、と言葉にはしていませんが実質その構造をもっているのが日本人の宗教といえば宗教ではあるでしょう
その宗教に属しているからこそほかの宗教に属さないということはあるかもしれません
男性は女性は、と議論をするときにまず男性と女性の議論であればその人数から層や傾向を定義してその話をするべきでしょう
男性100人いればそのうち5人が、女性ならば8人が、という割合や、具体的に割合から引き出された数字で話すときは「でもそうでない人がいるでしょう」とはならないはずなのです
「それ、あなたの感想ですよね」ってそれは人が人の口から言っているのでその人の責任における言動はあきらかでしょう
その進めたい方向と目的にあわせて議論をすすめていくところに、ルールのことなる干渉があるとどうなるでしょうか
いまは「そういう例の人」という100人以外でかつ数例、1例ごとに全然ちがう数例をもちだして100人の構成と比較し議論する基準が「人であるから」というのではお話になりません
「それあなたの意見ですよね」というのは誰の意見ならば、どの意見ならば、意見とは何人がどこから出せば「その人の意見」ではなくなり、その発信者が責任を持つ言動以上に求められる言葉はなんの必要があるのでしょうか
裁判官が有罪と口にしたら「それあなたの意見ですよね」と言うのでしょうか そうではないとしたらどの口で言うべきなのでしょうか
裁判官は裁判所のルールにしたがって、国家のルールに従って定義されたその役職で行動をしているわけでその人が構成員であるということがそれらの代弁代行に意味をなすことができるわけです
一人が自己の責任と権利において他の人に干渉するのであればそれこそ借り物の権利でほかの人の守られるべきと大きな組織が定義している範囲を侵害されるべきではないでしょう
これらルールにのっとり、ルールの適用範囲ではルールに従った行動をし責任を果たし権利を得るという環境づくりが宗教というくくりであったり団体の定義方法なのです
日本では、海外では、といったところで海外でしていることが日本でしていいのか、といった境界を安全と繁栄の目的のために定義する最大が国家であり、そこから法的には自治体単位で、人のより能動的な生産や貢献活動の促進のために定義していない範囲だけれども、できるだけ広い範囲で知見を共有し無駄な闘争や議論を省き、豊かさへ行動するのに安心できるよう定義するのが宗教で、そこから地方ルールや家ルール、個人ごとの約束などがあるわけです。
つまり神様を何体コレクションするかということが宗教に属するということではなく、宗教ごとの福音をいくつ得たいかということが宗教に属すということではなく、自分が宗教に属することで行動範囲を限定し利益を最大化するということ、これについて多くの人が専属的に属しているか、もしくはしていないかということにおいて、無宗教という属さない人が比較的多くいるということです
自由時間を抑制しより賃金の収入を拡大し効率化するためにサラリーマンになったり、収入を最低限にして自由な時間を多く得るためにフリーターとなる、それらを選べる自由という選択肢の幅が宗教の自由といったところでしょうか
会社につとめながら、フリーターの自由さを味わい、フリーターの責任の小ささを同じ労働をしている人間なのだからと訴えるのは、その組織に属している他の人が迷惑するということなのでそれを避けるためのルールと戒律、罰則があるわけです
複数の神を信仰する自由は、個人の可能な範囲で自由を謳歌してもらって問題ないのですが、異なるルールをほかの定義からもってくるのを禁止し、その傾向をできるだけ排除することで安定性と安心感、長期にわたる組織体の維持にあてているわけです
いかがだったでしょうか?
https://www.asahi.com/articles/ASP4632NTP45UTIL04F.html
この記事に対する反応。
「弱者男性が女性に選ばれないのは仕方がない」的な事を言ってる人達が(それ自体は私も賛同する)
「「路上に4歳児、声をかけない大人たち」と言って、別に加害した訳でも何でもない、単に通り過ぎたというだけの周りの「大人」やそれを擁護する声を叩いていてびっくり
女に自称弱者男性を選ぶ義務なんかないのと同じように、親以外の大人は見知らぬ子供を助ける義務なんてないでしょ
善意や好意は自発的に示すものであって、他人に強制するべきものではありません
女に自称弱者男性を愛する義務がないのと同じように、大人には4歳児を助ける義務もありません
なんで年齢が大人だってだけで、赤の他人を積極的に助けなきゃいけない訳?まったくもって意味が分からない
国家は国家を維持するためにある訳ではなく、ただただ個々の自由を最大化するためにある調整機構に過ぎない。
そもそも国家機構というものは本来的には不要のもの。自助努力と相互の自発的扶助のもとで市民は生きていくべきだが、ホモサピエンスが愚か過ぎるので仕方なしに存在しているもんが政府であり国家。
であるからして、国の未来のために出生数を増やすなんてものはおかしい。
出生数は増えても減ってもいい。どちらにしろそれは個々の自由な市民の自由な選択の結果の総体だ。
国家体勢の維持などより、そして何よりも最大限尊重されるべき事項だ。
また、このような議論でしばしば出てくる「人類、または生命の目的な自己増殖である」という言説も科学的でもなんでもない。
誰が言い始めたのか知らんが、生命を幾らひもとこうともその目的なんて理解はできない。
そうであるのなら、人類の目的など存在しないと語るべきであろう。
異論はあり得ない。
以上の議論から共同体の理論としても、生命体の理論からしても出生数を上向かせなければならない理由などない。
であるなら、出生数を上向かせるための種々の施策は国家機関たる暴力装置の権力暴走に他ならない。
またその財源として、税金を利用しているというのは認められる訳がない。
さっさと全てをやめるべきだ。
私は反出生主義者ではない。
ただそれはあくまでも個々人の自由が行使された結果に過ぎない。
社会共同体がそのような自由を行使した者へ手を差し延べる必要は断じてない。
自助努力でどうにかすればいい。
もちろん生まれてしまった子供にも権利はあるから、生存権や自由権、そして教育を受ける権利は強く保障されるべきだ。
しかし、それもあくまでもフラットに保障されるべき内容である。
その両親が元の職業を難なく出来るようにしてあげるような生活保護のような発想は要らない。
減税をする必要もない。
彼等は自身の自由を行使したのだから、その自由のもとで責任を負えばいい。
権利が制限されている子供へ直接の保障以外は正当性が一切ない。
自分は20代半ばだけど、とくに『女は男を立てるべき』なんて思わないし、世代レベルでもそういう価値観はもう古臭いモノと思われているように感じるよ。
ただそういう強制がなくなっても、相手(女→男に限らず)を立てるということが、好意の形や、対価を引き出す手段や、自己満足になり得るというのは世代が変わっても変わらないことだと思う。
相手をイジることが、キャラ立ちを助けているって本気で言ってるのか?
相手が自発的にボケたらツッコミ入れるのは会話のキャッチボールと言えなくもないけど
もしかして大津のいじめ自殺とかも、いじめられてる子がリアクション芸人役で笑いをとってキャラを立ててやったと言いたいのか?
https://nuc.hatenadiary.org/entry/2021/03/31
を読んで、ブコメ群を見ると病的だとか、「悪い意味で」頭を殴られたような感情になってしまう人が一定数いそう(私含め)と感じたので、エンジニア向けのみならず、もっと一般向けに上の話を例えてみる。なお、上の記事を批判してるわけでも称賛しているわけでもないのであしからず。
これは、モテる男性から、「自然に女の子と話せば彼女できるよね」というモテアドバイスを貰ったときの気持ちにとても似ている。
モテる人の立場からすると、普通の、だが実体験に即したアドバイスに聞こえるだろう。一方で、真剣に女子にモテたいと切望する諸君の立場からすると、これは3つの点で期待はずれな回答だと思う。
1: 自然にやっててダメなので、再現性のあるメソッドが聞きたかった。
2: 自然にやっててもやっぱりダメな自分という劣等感、コンプレックスが増長される。(そういう感情を抱かなければこの後の文章はスルーで良いよ)
「自然に振る舞っていてもモテなければ」意識して異性から好かれるように日々努力を重ね、可能性を高めるしかない。ということである人はサークルに入り、ある人は清潔感を保ったり、ある人は結婚相談所に駆け込んで第三者からのアドバイスを貰う。こうした自発的な行動によって場数を踏んでいくことで次第に良い感触を掴んでいく。
上の記事にもどると、なんとかgoogle(や他の外資系の待遇の良い企業群)に入りたいという気持ちから、おおよそ普通~ある程度経験の積んだエンジニアはleetcodeなどをやって競技プログラミングのスキルを身に着けたり、コンピュータサイエンスに近い分野の本を自分なりに理解するように努めたりする。(競技プログラミングの善悪の話をしているのではなく、そういう手段で面接に通過する確率を上げるというだけの事実の話をしてる)
しかしながら、「自然とコンピュータサイエンスに向き合っていれば、面接は友達とお茶をする程度で済む」と言われても、いやいやそれはモテる側の立場の強者の理論でしょとなる。
必要な能力は「椅子に座れること」「四則演算ができること」「本が読めること」というのは、モテる人の比喩に例えれば、「椅子に座れること」「会話ができること」「スマホを持っていること」となろうか。
強者にとってまっとうな実体験に即したアドバイスでも、弱者にとって見れば残念ながらコンプレックスをえぐる言葉でしかない。万人にとって良いアドバイスというものは存在しない、といえば聞こえは良いだろうが。
ということで、上のgoogleの面接対策の記事は、意識して努力するよりも自分の得意な(友達とお茶をする程度で自然とできる)分野で勝負すべき、という身も蓋もないという小噺だと思ったほうが良いです。面接対策でleetcodeなどをやって苦労してるんだけど、という感想を抱いたり、ソフトウェアエンジニアでのステップアップに限界を感じていれば、それは「友達とお茶をする程度」の感覚の人には勝てないので、得意なこととの掛け算で勝負するのが現実的な勝ち筋にみえます。