もともと女性一般から広くモテたいとか、誰でもいいからセックスをしたいとかさせてほしいとか、社会から魅力的な男性として認められたいといった願望はない。俺が惚れた女がたまたま俺に惚れてくれないという状況がン十年続いているだけだ。しかし世間一般ではその状況こそ恋愛弱者とされているのだろう。俺からしてみれば弱者という自覚などないしこうした現状を特に気に病んでもいないが、うるおいのない人生であることもまた事実だ。たしかに人生はパサパサだ。顔は脂でネチョネチョしているが。さて、独り身の男がうるおいのない人生に慰めを見出すとしたら? もっとも手軽な手段は読んで字のごとく自慰である。というわけで、ここから先はオナニーの話をします。恋愛弱者論は出てきません。お引き取りください。
100%イマジネーションだけで登頂できる程度にはまだ元気な私だけれど、もちろんよいおかずがあればそれに越したことはない。私の世代の男性はさまざまなおかずで食事をしてきた。うつろいゆくエロメディアの変遷をすべて経験してきた。いや、ピンク映画は経験してないか。まあいい、それはさておき、自宅の電話線に通信モデムが接続されるまでの長い長い間、私の主食は紙媒体だった。エロ本、エロ小説、エロマンガである。劇画タッチの暗くて薄汚いエロマンガに代わってアニメ調のかわいらしい絵柄の美少女エロマンガ雑誌が続々登場し、それに夢中になったりもした。アダルトビデオもすでに文化としては大輪の花を咲かせていたが市場的にはレンタル専用の位置づけで、日々の主食とするにはコストがかかりすぎるごちそうだった。どんなに気に入った作品でもレンタルは返さなければいけないし、セル用VHSともなると1本が1万円以上したのだ。
こうしたおかず環境はインターネットの登場で激変し、通信環境やパソコンの処理能力の向上でもう一度激変した。このあたりの変遷はくだくだしく振り返る必要はないだろう。かつて、何世代ものダビングを経て裏か表かすらよくわからなくなった飯島愛のビデオに目をこらしていたことを考えると、常時接続のネット回線からフルハイビジョンの無修正動画が無料でドバドバ降ってくる現代の状況は「隔世の感」などという月並みな言葉では語り尽くせない感慨がある。「この世の春」が少し近い。
もっとも、この変化はあくまでも量的な変化に過ぎない。ガビガビの飯島愛とフルハイビジョンの七沢みあの違いは、端的には解像度と入手性だけであり、メディアとしての質的な差はないと言える。どっちも同じ動画だ。そこには、かつてエロ本(静止画)に代わってエロビデオ(動画)が登場した時のようなパラダイムシフトはない。作品の内容についても同様である。80~90年代のAVに比べると現代のAVは内容がめちゃくちゃに高度化していて、とんでもない美人がとんでもなくエロいことをとんでもない演技力でやってのける時代になったが、これとても地道に連続的に向上していった結果であり、その間に何か飛躍があったわけではない。
この先もこういう線形な向上がひたすら続くんだろうな、と俺は思っていた。モデルはますます美人になり、エロ演出はますます洗練され、解像度は4K、8K、16Kとますます向上し……そのうちテレビも買い換えなきゃだな、と。この先に非線形な、飛躍をともなうパラダイムシフトが起こるとは思っていなかった。
ところが2016年になってそれは起こった。アダルトVRの登場である。
それはまさにパラダイムシフトだった。静止画が動画になったあのパラダイムシフトさえ超える革命だった。初めてアダルトVRを見たとき、「これは今までのAVとはまったく異質なものだ」と私は確信した。
VRゴーグルをかけて再生を始めた時、自分は行為の「当事者」になっていた。それまでのAVでは(一人称視点モノであっても)自分はあくまでも「傍観者」だった。見慣れたハウススタジオで繰り広げられている知らない誰かと誰かの性行為を神の視点で眺めるだけの傍観者だ。男優の求めに応じて、あるいは自発的に女優が行う行為の淫靡さ大胆さ、背徳さや不潔さ、それを傍観して興奮するのが従来のAVだ。AV嬢は裸になるのが当たり前だし、裸になるまでのチンケな三文芝居など早送りするしかない。
しかしアダルトVRはそれとはまったく違った。なぜか間取りをうっすら知っている家の中に自分はいて、目の前にはめちゃめちゃきれいな女の子がいる。冬服に変わったばかりで今タンスから出してきたようなブレザーの制服を着ている。樟脳のにおいがしてきそうだ。その子がこっちを向いて「うふふっ」と笑う。こちらもつられてつい笑ってしまう。「ンフッ」 今までAVを見ていてそんなことがあったか? 俺はなかった。画面の中で何が行われていても、握力と緩急の調整こそすれ、表情は真顔のままだったと思う。
驚くべきは女優たちの演技力だ。アダルトVRは基本的に「女優の一人芝居」である。自分役の男優はいるがただの木偶であり、ストーリー進行はすべて女優の演技に任されている。女優たちはこれを見事にしてのけるのだ。イッセー尾形とまでは言わないが、正直私はAV女優たちがここまでちゃんとしたお芝居をするとは思っていなかった。また、そのくらいアダルトVRは女優の演技力が重要なジャンルなのだった。棒読み学芸会の芝居だとまったく白けたものになってしまうのだ。結果として、ただかわいくてスタイルがいいだけの女優ではなく、きちんとお芝居のできる女優が日々発掘され、適性が見いだされ、人気を得て活躍していくようになった。
一人称AVというジャンルは古くからあるが、久しくマイナージャンルであった。しかしここへきて一人称AVは突然業界のどセンターに据えられることになったのだから世の中わからないものである。
一人称という形式により、2Dでは早送りしていたような行為前後のたわいもないドラマシーンががぜん意味を帯びてきた。この女性は下宿の美人管理人さんで、俺はしがない浪人生。この女性はかわいい妹で俺はモテない兄貴。この女性は神待ちJKで俺は一人暮らしの冴えないおっさんリーマン。2Dではわりとどうでもよかったそんな設定がいちいち重要になってきた。その設定に没入すればするほど、目の前の女性が服を脱いだ時の衝撃と興奮が大きいのだ。もし美人教師やかわいい看護婦さんが「現実に」目の前で服を脱ぎだしたら、誰だってびっくりするでしょう?
風呂上がりでバスタオルを胴に巻いただけの妹が俺のほうに上半身をのり出してきて、急にまじめな顔になって聞く。「ねえおにいちゃん、そらのおっぱい見たい?」俺はあまりのことに声も出せずただブンブンと首をタテに振るしかできなかった。「ほら!」バスタオルの前が勢いよく開かれた。椎名そらの、いつもAVで見ていたあこがれの椎名そらの、あの白くてすべすべしてふっくらとまろやかで、ぷにぷにと弾力のあるかわいい乳房が、俺の目の前でぷるんと揺れた。「あっ、あっ…!!」人は感極まるとカオナシみたいな声が出てしまうことを知った。「興奮する?」「うん…する…する!」思わず答えていた。
目の前に素敵な女の人がいて、自分を信頼して親密に身を寄せてきてくれるあの幸福感が脳を満たす。「幸せ物質」みたいなものがあるとしたらそれが体中を駆けめぐる感じ、2DのAVでは決して味わうことのないゾクゾクする感じがアダルトVRにはあった。もちろん相手が生身の女性だったらその歓喜はもっとずっと大きいはずだが(長いこと感じていないのでどのくらいか忘れてしまった)そんなことはもうどうでもいい。少なくとも2Dにはそれがなく、VRにはそれがあるのだ。
心通じ合うパートナーがいなければこの先ずっと得られないと思っていたあの歓びを、わずかでも擬似的にでも感じることができたし、ゴーグルをかければいつでも感じることができる。そしてこの先まだまだVRゴーグルの性能は向上するし、きっと動画の解像度も上がっていくだろう。素晴らしいじゃないか。コロナにおびえながらキャバクラや風俗に通わなくてもいい。俺はもう、大丈夫だ。これさえあれば、アダルトVRさえあれば大丈夫だとわかった。生きていける。
弱者男性とタイトルに入れればどんな長文でも読んでもらえると思ったら大間違いだからな