はてなキーワード: 自発的とは
飲食店経営者は、票田としてはケアする優先度が低い。人数が少ないし、業界団体(圧力団体)を持ってないし、もともと設立3年以内に半分が潰れるような不安定な業界だ。そこを捨てても、おそらく自民党はあまり痛くない。中小・零細は無視、大手には「全部収まったらまたGO TO EATやるからね」ぐらいの撒き餌で充分だろう。イベントも似たような対応で誤魔化すのではないだろうか。
飲食やイベントに行けない消費者の側は、そのこと自体で死ぬほど困っているわけではないし、恐らく痛めつけられたという自覚もないと思う。不満はあっても「やむを得ない理由」「切迫した事情」を感じれば、行動抑制にも利があると考えるようになる(今まさに大阪で起きているのが、市民が医療崩壊のリスクに直面したことによる自発的な行動抑制だ。自治体がどれだけ言っても行動は変わらないが、現実に人が死に始めるとほとんどの人間はビビる)。
自発的に糖分を足したくない
うっせーな。Python なんて、教育されてプログラミングはじめた無能しかいねーだろ。Ruby の良さっていうのは、こんな言語を使うのは自発的に勉強した人の証明なんだよ。Python を使うやつなんか、Python が廃れたらエンジニア廃業だろ。みてみろって、Ruby 使いは Javascript も書けるし、Rust だって勉強している。そうだとも、Ruby が廃れても Rubyist は死なねーんだ。Python の未来なんて PHP と変わんねーだろ。プゲラ。Python 使いの未来は、まなぶや勝又と同じで情弱に教材を教えて金をせびるチンピラになる未来しかねーんだよ。バーカ。くたばるのはテメーの方だ
自己判断だけどなんとなく自分はややADHDっぽい性質があると思ってる。20年ぐらい前に安易にリタリン出すタイプの精神科医に生活上の困難を相談したら、あんまり深く検査もしないでADHDでしょうねとか言われたことがあったレベル。でもセカンドオピニオンを求めてちゃんと検査する大学病院行ったらリアルに鼻で笑われたから投薬とか受けてないけど。
社会人になってからタスクの管理が全然できなくてミスして怒られてばっかりで、鬱っぽくなって自分ADHDかも?と疑って受診したのが始まり。何も覚えていられないから細かいタスクまで全部テキストに書いて毎日何度も見返してた。時間感覚が全然ないことにもその頃に気づいて、自分がさっきまで何してたのか、何でこんなに時間たってるのか分からないこともしょっちゅうあった。何時までに何をどれだけやるのかっていう計画性とか時間の見積をする習慣が本当に全くなくて、これを少し身に着けて日々繰り返すことで少しずつ普通にこなせるようなってきた。(でも休日になると子供の頃と同じ暮らしに戻る)
自分の場合はよく過集中しちゃうんだけど、それって「今は先に○○しなきゃ」っていう短期記憶がすぐに揮発しちゃうのも一因かなと思ってる。視界に入ってないものは何でも本当にすぐ忘れる。本読むのが苦手で、前のページまでに何書いてあったか覚えてられなくてストーリーの全体像が頭に入らない。深く練られた物語とか伏線とか推理小説とか大抵くみ取れない。1日3回飲んでる薬があるんだけど、さっき飲んだのかどうか思い出せないことがしょっちゅうあって、飲んだ記憶がさっきなのか昨日なのか本気でわからないなんてのもザラにある。深夜になって、今夜の夕飯が何だったのかを思い出すのも10秒ぐらい悩んで頑張ってようやく思い出せる。
仕事の打ち合わせなんかしてるとき、細かいToDoとか懸念点とかの話がたくさん出てくるけど、3つ目ぐらいになるともうワーキングメモリからあふれるのが分かる。最近では「あっ今何か忘れた」って感覚すらある。(シナプスが切れた感覚とでもいうのかな?)怖くてひたすらメモするからメモが大量に膨らんでそれの整理に追われて疲れ果ててる。毎日何も抜けないようにするなんて無理で周囲からのトレースに物凄く助けられてる。
でもなぜか学歴はそんなに低くなかった。子供の頃は勉強する意味も分かってなかったし授業も一切聞いてなかったし、なんか怒られるからただやってた。テストでいい点とりたいと思ったことも無かったから万年学内で劣等生だったけど、高校卒業してから仕方なく大学受験のために自分で参考書買ってマイペースで独学したら結構楽しくて、人並み程度の点は取れるようになって一浪してちょっとましな大学入った。みんなが言ってる勉強ってこういうこと頑張ってたんだなってここで初めてちゃんと理解した。
思い起こせば幼稚園から大学卒業まで、犬猫みたいに瞬間瞬間を主観的に直感的に本能で生きてて、同級生がそれぞれどんな性格の人だったかほとんどわかってなかったことにも気づいた。他人にも感情があって、他人の立場から見て自分の振る舞いがひどいものだ、っていうことを理解したのは社会人になって数年たったころだった。孤独耐性がかなり強いし友達と呼べる人は今はいなくて、大学の知り合いと年に1回連絡とるかとらないかぐらいしか関係は残ってない。
こういう頭の悪さって家庭環境とか遺伝も関係あるのかなと思う。父親はかなりアスペ疑惑の強い友達いない嫌われ者だし、母親は部屋散らかってて掃除しないAC気味で離婚した。兄弟はDVキチガイでこれまたアスペ疑惑で20年ぐらい毎日自分が殴られてた。こんな家庭出身で自己肯定感は地に落ちてるし子供とか死んでも要らない。相方はいた方がいいとおもうけどまあどうでもいい。生きていくのしんどすぎわろた
子育て中の親が「うちの子が脱線ばっかりして宿題しない」とかいうのを目にすると、例えばこんな感じで無自覚に記憶が飛んでるのかなと思ってる。自分がいつもどんな行動パターンで時間を無駄にしたり何かを忘れたりしているのかを、まず本人が時系列で振り返って自覚したり、それを改めたいと自発的に思わない限り改善は難しいんじゃないだろうか。
下手だけども文章を書いていく。
ただの救われない男の戯言なので面倒だと思う人は見なくて構わない。
HSPと一緒で傷つきやすかったり敏感でありながらも、平穏を求めずに刺激を求めるとかゆう自爆タイプのかわいそうな人間である。
刺激を求め飛びついては傷ついて疲弊して考えんこんでしまうのが当たり前とかゆう馬鹿な人間。
正直かなり辛い。
これまで刺激的な体験がしたくていろいろなことをしてきた。
ライブをしたくてバンドを組んだりしたのだが、自分の歌が人を魅了できるほど上手くないとわかっているのでメンバーや観客の顔色を気にしては疲弊し自己嫌悪に陥る。
高校の頃漫才の大会に出たが、あまり笑ってもらえず頭が真っ白になりネタを途中でやめ退場。
またも高校の時に、舞台祭といって体育館の舞台でいろんな演目をやる行事の司会のひとりとして出たこともあるが、司会が4人もいたので下手に入り込むとぐちゃぐちゃになりそうだとか、司会の二人の進行がうまかったので必要ないんじゃね?と勘ぐり一言も発せず退場。
その他にも好きゆえに飛びついては下手なところを意識しては自爆して自己嫌悪に陥り鬱っぽくなってやる気が出なくなる日々が多い。
ここまできたら人前に立ったり、誰かを挟んで何かをすることが向いてないのはわかっている。けどそこができなくなるって考えるだけで生きる希望がなくなってしまう。
誰かに称賛されたいわけじゃなくて、本当は自分のしたいことや想像したビジョンを現実化したいだけなんだ。
間っ子であることも要因の一つで空気を読んでしまいがちだし、これに加えてHSPの敏感さを兼ね備えたせいか、何事にも相手の顔を伺ってしまうし、こうした方が周りにとって都合が良いと思える立ち回りが浮かんでしまう。
良い立ち回りが浮かんでもそこに注ぐエネルギーは膨大な上、自発的では無いからやったとしても本当にメンタルを削られる。
ランチをした店の店員さんときさくに話す横で自分も混じったりしないといけないだろうなとか、楽しくいろんなことを話してくれる彼女に向けて自分ももっと話さなきゃいけないんだろうなとか考えていた。
そんな時ふと思う。こんな俺が彼氏で良いと思ってくれているのだろうか?
彼女はすごく綺麗で性格も本当にいい。そこも相まって一緒にいることに懸念がある。
考えすぎだとか、人と比べちゃいけないってのはものすごく理解している。
けどどうしても敏感ゆえにチラついてしまってバイアスが消えてくれない。
今日は楽しい一日だったのに、そんな些細なことでも楽しいことを悲しく捉えてしまうようになってしまっていた。なんだかもう死にたい。
「昔、昔、浦島は〜」
浦島!浦島太郎じゃない!
そういうシステムになっているんだ。
これら「なんとか太郎」の集まりに、いけしゃあしゃあとと紛れ込んでるわけだ。
やつは、ただの太郎だ。
インターネットの自称事情通たちは、我が物顔でインターネットを闊歩している。
いや!インターネットだけじゃなくて、リアルでも間違いなくそうだろう。
「オレ様は情強大魔神だ!」くらいの勢いで街中を我が物顔で闊歩しているに違いない。
そして道行く人々を勝手に情弱と断定し、見下し、悦に入っているのだろう。
自称事情通たちは常日頃から自慢の情弱センサーで情弱度を邪推しながら道を歩いているんだ。
哀れなピエロだよ。まったく。
まぁ、それはいい。
それは本題ではない。
注目すべきは、ここだ。
「助けた亀に乗せられて〜」
乗せられて!
かといって、毅然とした態度でお礼を断るのでもなく!
ようするに「お礼をいただけるのであればやぶさかではない」みたくこの歌詞では言っているわけだ。
一見どうということない「乗せられて」だが、実は日本の縮図といって過言でない。
こうした振る舞いは日本という島国の津々浦々で見られることだ。
勝ち組はなんら要求することなく相手が察して勝手に「乗せて」くれる。
別に自発的にお礼など要求することはないし、それは恥知らずなことなんだ。
負け組はいつか「乗せられる」であろうことを夢見て頑張るが、生涯「乗せられる」ことはない。
繰り返す。負け組は、生涯「乗せられる」ことはない。
「いいことをすれば見返りがありますよ」という。
児童らは「乗せられて」「乗せられて」と数百〜数千回繰り返し聞くうちにその「仕組み」を理解するであろう。
負け組にとってそれは欺瞞である一方で、勝ち組にとっては真実なのだ。
「いいことをすれば乗せられるはずだから、乗せれられていないということはいいことをしていないのだろう」
そうした逆説的な論法を耳にした例は一度や二度ではないはずだ。
なお余談だが、亀の立場で考えてみると浦島はお礼をいただける立場にない。
そもそも、イジメて来たのは人間族の子供であって、それを別の人間族が静止したまでのこと。
亀の立場から考えてみれば、これはマッチポンプ以外の何物でもない。
どうして浦島太郎がお礼をいただけるのか?
このようにして日本人は浦島太郎を反面教師にして様々な学びを得ることができるはずなのだ。
時間の流れが違う「ネタ」を見るたびに「ウラシマ効果!ウラシマ効果!」などと叫んで喜ぶのが関の山だろう。
「○○の起源は、日本の浦島太郎」などとハナタカしてるわけだ。
作品の本質ではなくSF的な小道具・ガジェットにばかり目を向けたがる。
私の行動が徐々に緩やかに変化していった理由が、「薬の効果」のおかげなのか、それとも「薬を飲んでいるという意識」から自発的に無意識に変わっているのかは判断が出来ません
上記の文章で「病院に行ってみることをおすすめするよ」と言った以上、執拗に言葉を正させていただくのだけども
「薬の効果がすごく出る」とは一言も伝わって欲しくは無かったな
最初のインパクトとしての話であり、明確な変化は継続して見られませんでした(意訳)と書いたつもりでしたが、プラセボと捉えられるほどに誇大表現になっていたのであれば「そうではない」と訂正します。
事実、飲み始めてもミスは完全に治ってはいないし、10ヶ月たった今もそもそもの薬を飲み忘れることがある(飲み忘れたときの頭の痛さとかめまいが酷すぎるんだな)
しかし、落ち着いて行動出来るようになった、って言うのは主観的だが事実ではあるので、おすすめした迄です。
もしこの増田を読んで本当に病院に行くことを検討した人は、どうかインターネットや文献などから正しい情報を取捨選択して、自分で判断して行ってみてください。私もそうしました。よろしくな!
これを書いた者なんだけど。
自分のこと自分でできなくて、自分で面倒みられてない、(ざっと流し読みした上ではそんなに好きでもない)両親祖父母とかって、そんなに長生きして欲しいのかな?
人間は早く死にたいと思っても簡単に死ねないし、死にたくないと思っても簡単に死んでしまう動物だと思う。
親族の情が厚い中で育った人には信じられないだろうけど、関係性が薄い中で生まれ育つと「長生きして欲しい」と言う気持ちも薄い感じはする。
あまり良く思っていないのに最低限の対応している理由は、自分と周囲に迷惑がかからないようにするためというのが大きい。
自分はつくづく運が良くて、父親は倒れる直前に車の運転をしていた。
無事目的地に到着して倒れたわけだけど、数分時間がずれていれば、運転中に制御不能になって誰かを殺してしまったかもしれない。
一人で事故って死ぬなら仕方ないが、他人様を巻き込んでしまったら償い切れない。
その点で非常に運が良かったので、それを活かしきれないと、もっとすごいことが起きそうな予感がしている。
だから、最低限のことはすることにした。
父親は一人で生活するのは厳しいけど、自分のことができないわけじゃない。
排泄も自発的だし、着替えもできる。日常会話も問題ないので、一見普通には見える。
ただ、脳の病なので、しっかり高次機能障害が残ってる。また、空間識失調もあるので、片側への注意が向かず、話しかける時の立ち位置に注意しないと認識できない。
昔のことはよく覚えているけど、近い記憶は覚えられない。感情の起伏が激しくなってるし、話し出すと止まらないという特性も出ている。
老健では「もっと酷い人でも、訪問ヘルパーを使って一人暮らしをしている人はいる。ただし、身近にサポートできる親族がいることが前提で、それに当てはまらないお父さんには一人暮らしは無理」と判定されているので、なんらかの施設に入るしかない。
一人暮らしの家に他人が入り込み、ごっそり家財を持っていかれた。認知症が知らないうちに進行して、親族が気づいた時には、ぐちゃぐちゃになった部屋で茫然と座り込んでいたそうだ。
だから、認知機能が低下している人間を一人で置いておくことは非常に危険だ。
けれど、そんな酷い経験をしなければならないほど、悪いことをした人だとは思っていない。
なんといっても、私の進学費用はこの人の稼ぎから出たものだ。そして、その進学によって、自分の食い扶持を稼いで生活している。
ともすれば、最低限の対応はしなければならないだろう。
特養に入る時に延命措置についての確認をするのだが、すべて「延命しない」にチェックを入れた。
身体は命を保てないのに、無理矢理つなぎ留めても辛いだろうと思うからだ。
人の命に対して思うことは様々だ。
延命を望む親族たちは、「生きて欲しい」というよりも、ゆっくりお別れをする時間が欲しいのかもしれない。
しかし、だ。
今のところ経過は良好だけど、年明けに軽いガン手術してるんだよね。もしかすると自分の方が先に死んじゃうかもw
だから、人のことに構ってる暇はなかったりするんだよね。
お腹の調子の良い期間にはパンやラーメンを食べていないことに気づいて、食事から小麦粉を抜いてみたところ不調が改善した。
プラセボ効果だったのかもしれないが、とりあえず軽い気持ちで継続して現在に至る。
調味料(焼肉のたれ等)などを厳密に抜いているわけではないが、基本的に小麦粉をたくさん使っている食品は食べないようにしている。
パン、麺類以外にも、例えば、カレー、シチュー、お菓子なども自発的には食べない。
ただ周りにも言っていないし、アレルギー検査をしたわけでもないので、友達と遊びに行った際にラーメン屋に誘われたら普通に食べる。
検査もしていないので未だに何が原因かも不明だが、なんとなく惰性でここまで続けてしまっている
ネットには「~を食べてはいけない」という科学的根拠が乏しいフレーズをよく見かけるので、私も本当は検査なりをした方が良いのだろうな。
韓流なんかはやたらと掃いて捨てるほど日本の情報で溢れてるんだが、
それに対して中国の文化が入ってこないのは本当に不気味なんだよな。
また韓国の漫画なんかも、ネット広告に入っている漫画は韓国系が多いと聞いて、
なるほどなんか変な雰囲気やノリだと思っていたがあれは韓国系だったのかと得心するとともに、
ああいった韓国漫画系は韓流のような日本の広告宣伝ラインには決して乗ってこないというところも不気味だ。
さて、前置きはさておき。
ウィキによるともう2016年くらいから始まった文化のようだ。
こんなに中国が世界を席巻しておいて我が国ではこんな一文程度ですら解説を多くしなければ理解できないほど中国文化が人口に膾炙されていないのかと感じる。
「1990年代に生まれた若者の一部の、受け身、無関心で、高望みをせず、世間を冷めた目で見る生き方」といった現状があるのか。
「下の世代の子供を養う必要があるとともに上の世代の両親の面倒を見る必要のある集団であり、それに家賃が加わる場合もあり、
そのため生活上のストレスが大きく、喪文化に染まりやすい集団」
人民網は喪文化を「精神のアヘン」と批判し、喪文化の流行がもたらすマイナスの影響を警告し、その背後につきまとう文化の侵食を警戒すべきとした。
また中華民族の精神を発揮して、挫折や失敗には、後ろ向きに対応して喪文化の際限ない蔓延を許すのではなく前向きな態度で対峙するように述べている。
中国青年網は、人生において失敗や挫折に遭遇するのは必然であり、だれにとっても避けられないことであって、
喪文化による逃避は実際の問題をまったく解決できず、歪んだ価値観を形成するとする。
前向きに対応すれば、困難に打ち勝ち、人生の進む先を発見し、人生の理想を実現することができるという。
また中国青年網は、中国の若者は喪文化に抵抗し、中華民族の偉大さの復興にむけ戦うべきだとも述べた。
これが実に中国の真骨頂で、思想すら中国共産党が"指導"していくということだ。
…こういう部分が、日本のマスコミ等々が中国文化を紹介することを躊躇う一因であるのかもしれない。
何のことはない。
復旦大学の経済学博士、林采宜は、喪文化は名誉や利益を求めず、自らの身を大切にすることを提唱しており、
道教文化の体現であって、功利が重視される現代社会への一種の解毒剤だと考える。
澎湃新聞の曾於里は、喪文化の生まれた原因を考え、現代の若者が「喪」に走るのは、彼らが進取を嫌がるからではなく、
かつて成功を求めようとしたにもかかわらず、現代社会の競争の厳しさなどのさまざまな問題によって成功しなかったためだと考える。
幾度もの失敗と挫折という打撃を受けたために彼らは喪文化の受容層となったという。
ある意味、中国という国家の「鬱病の初期症状」なのかもしれないな。
これを抑圧すれば、パッと見社会という名の会社に一時的には復帰できるかもしれないが、
ひとたび「壊れた」ら、全治数十年は見積もらなくてはならないのかもしれない。
まあそれは脇においといて。
中国という国は爛熟期から衰退期にかけて大抵宗教が王朝の転覆要因となってきたが、
21世紀の現代においては、若者文化においてこうした概念が普及することで、
ところで、利路修である。
例のリアリティーショーは、スマホも取り上げて隔絶させるのか。
まあいろいろ"ノウハウ"が蓄積されているんだろう。吐き気がするな。
私生活まで「カネ」に変換させられ、やめれば巨額の違約金。奴隷だなまさに。
家に帰りたい、疲れた、ってことか。
これはまだまだ日本の検索では一切ヒットしない概念のようだが、
若い連中は夢に向かって将来に大きな、バクダイな期待があると思うからこそがむしゃらになって夢に邁進する。
楽しくてしょうがなく、強烈な使命感があるからこそ、あらゆる努力が全て自発的にでき、またエネルギーが生まれてくるのだろう。
別に相手を非難するわけでもなんでもなくただ吐き出したかったので書いてます。
私の最推しはマイナージャンルだ。ソシャゲのように毎月新しいイラストやストーリーがバンバン投下されるわけでもなく、数行ほどのコメントが追加される程度のコンテンツ。公式のツイートですら、3桁いくといい方だ。
当然付いているオタクは少なく、相互でなくともこのジャンルにいる人達は大体顔見知りか、フォロワーのフォロワー、みたいなレベルの規模のジャンル。そんな界隈で私はコスプレイヤーとして活動している。
公式の更新が少なくても、いやむしろ少ないおかげで自分達が想像できる余地は多く、二次創作の自由度が高いジャンルだとすら思っていたし、界隈では更新のたびにワイワイ盛り上がってるので、これはこれで居心地が良くて、私はそんな自ジャンルが今でも大好きだ。
そんなジャンルに、私は友人と共にどっぷりハマっていた。彼女とは最推しのカップリングこそ別々だったが、お互いの推しキャラへの理解はあったし、こんなマイナージャンルともなるともはや全員愛しくて箱推し状態だったので、当時は毎週のように一緒にコスプレをしていた。同じくらいの情熱を注いで存分に萌え語りをしたし、毎日狂ったように作品に愛を注いでいた。業者製の衣装なんてもちろんないので全部自作していた。推しに限らずジャンル内のマイナーキャラまで色んなコスプレをした。周りから見ても明らかにニコイチだっただろう。もはや私達は他の人との予定はほぼ入れてなかった。時には辛いなと思うことすらあるくらい予定を詰め込みまくって毎週二人でコスプレをしていた。死ぬほど充実していた。彼女は私にとってこれ以上ないほど最高のパートナーだった。でも、そうこうしている間にコロナで自粛期間が始まり、私達はやむを得ず活動を停止した。
最初の頃はリモ飲みとかもしていたが、それもすぐに飽きた。ジャンルへの想いは冷めてなかったが、会う機会はほぼなくなり、コミュニケーションを取るのはツイッター上が殆どになっていった。
そしてある日、彼女は別の友人に布教されてとある某有名ソシャゲジャンルにどハマりした。
それはもう見事なハマりっぷりで、当時自ジャンルに注いでた情熱をそのまま某有名ソシャゲに注ぎ出した。宅コスで初出ししている写メがあがり、衣装を作っているツイートも上がるようになった。彼女の推しカプは、ハマってない私でも知ってるくらい人気のカプだった。毎日そのソシャゲの二次創作絵がバンバンリツイートされるようになった。まさに水を得た魚である。
気持ちはわかる。
今までのジャンルと、供給の量とスピード、周りの賑わい、共感できる人の数、全てにおいて比べ物にならなかったんだろう。そりゃ私も同じ立場だったら楽し過ぎて毎日赤飯炊いて踊り狂ってしまうと思う。
かく言う私は、これまで2人でずっと一緒に活動していただけに寂しい気持ちもあったが、何にハマるのも彼女の自由だし、こればっかりは仕方のないこと…、そう思って草葉の陰から見守っていた。
ある時、自ジャンルの更新があって私や他の友人達がツイッターで盛り上がっていた時、ツイッター上に浮上していたにも関わらず、会話に加わることのない彼女を見て、私はとてつもない喪失感に襲われた。彼女は完全にジャンルを移ってしまったのだ。片足突っ込むとかではなく、完全に抜けてしまった。そう思った瞬間だった。でも、何度も言うようにこれは私が強制できるものでもないし、気持ちが冷めてしまったものに無理に反応することほど辛いことはないのだ。
人気ジャンルはレイヤーもたくさんいるだろうから併せの人にも困らなそうだ。繋がりたいタグでもやればすぐにフォロワーも増えるだろう。そう思うと彼女が羨ましくもあった。
幸か不幸か、緊急事態宣言のせいでコスプレをする機会がないので、今はそんなに気にならないが、今後また再開しようと思っても私は完全に一人になってしまった。こんなドマイナージャンルに今から同じテンションでコスプレに付き合ってくれる稀有な存在が現れるとは到底思えない。
作品は知らずとも撮影してくれるカメラマンさんはいるかもしれないけれど、もう彼女と併せをすることはないのだと思うと私は本当に悲しいし寂しい。
でもそんなことを彼女に言っても困らせるだけだし、言われて戻ってこられてもそれは彼女の本意ではないだろうし、メンヘラになりたいわけでもないので言わない。むしろもう作品を追いかけていない彼女に無理やりコスプレさせるのは申し訳ないし、こっちもなんだか虚しい。自発的に好きだからやりたいと思ってもらいたいんだよ。もう無理なんだが。
なんなら、これは私の被害妄想かもしれないが、私が自ジャンルの話で盛り上がっていると、彼女が投稿を控えているようにすら感じる時がある。居づらいのかな?と思うが、それに私が配慮して呟くのをやめるのもまた変な話だと思うので、これに関しては私はスタンスは変えていない。たまたまなのかもしれないし、私が気にしすぎなのかもしれないが。
他ジャンルに移ったことを恨んだりはしていないし、それはそれで彼女の人生なので、いっそ思う存分ツイッターでも萌え語りして、バンバンコスプレ写真もあげたらいいと思う。その方が変に気を遣われてなくていい。むしろそれはそれでいいと思うし、彼女と縁を切りたいと思っているわけではない。
そりゃもちろん本音を言えば、彼女に対して未練タラタラなので昔みたいにまた戻ってきて欲しい。でも、作品に対して全力で向き合うタイプの何一つ取りこぼしたくない系のオタクに、このブランクを埋めるのはもう無理だ。一度違えてしまった道はもう交わらないだろう。
私は大事な友人を失った。正確には失っていないし彼女は引き続き私の大切な友達の一人だけど、もうあの頃の関係には戻れないんだろう。でも誰も悪くない。誰かが何か間違えたわけでもない。だから余計に悲しくて切なくて、あの頃が恋しくて仕方ない。
まあ、そう言ったところで多くの人には信じてもらえないのだろう。
だからまずは、どのようにタイムリープが可能となったのか、その理屈を述べ、
今回のタイムリープには協力者が居て、その人のおかげでタイムリープが実現できた。
それ以上のことは先方との約束により、絶対に明らかにできない。
しかし、タイムリープの理屈など、私にとってはどうでもいいことだ。
そんなことよりも、タイムリープによって知った驚きの事実を、私は「ある期待」を込めて皆に伝えたいのだ。
さて、そもそも私の場合、入試や恋愛、大きな事件事故など、現在に至るまでの人生の中で、
強い悔いを残し、これだけは絶対に変えたい!というイベントは特に無かったのだ。
それでも、先方からのタイムリープの誘いに乗ったのは、既に結果を知る過去を再度歩めるのなら、
そこに現れる人生の選択肢もより良いものが選べるはずだと考えたからだった。
例えば、学生の頃のテストは現在の知識によって、より良い点数が取れるだろう。
また逆に、記憶の限り日々のトラブルはすべて回避できるだろう。そういったことだ。
すなわち、自分の記憶によって、2度目の過去ではより良い選択肢が選べ、
現在までの人生をもっと高いステージに引き上げることができるだろうと思ったのだ。
おそらく、大多数の人間がそう考えるように。
ちなみに、私には中学生の頃から、大学ノートに日記を記す習慣があった。
さすがに、過去の細かなことなど覚えていないわけで、過去をより良く選択するには、
日記という貴重なデータを絶対に持っていく必要があると思った。
だから、先方にも無理を言って説得し、その十数冊ある日記の束と共にタイムリープすることを許してもらった。
しかしながら、今になって思い返してみれば、それが一番の悪手であった。
その日記という紙束が、自分の選択肢を強く制約し、新たな可能性を潰してしまったのだ。
つまりは、実際にタイムリープしてみると、日記の記載と記憶どおりの人生を歩んでしまい、
新たな選択肢を選び直すことなどほとんどできやしなかったのだ。
いや、タイムリープして最初のうちは、出し惜しみのつもりだった。
その不思議さは、自分が全知であるかのような錯覚を生む。このままで居たい。
そこで、新たな選択は未来を知る自分のアドバンテージを損なうことなのだと理屈を付けた。
そして、自分はまだ中学生なのだから、さほど大きな選択肢も無いだろうと、
タイムリープして最初のうちは意図的に、1度目の過去とわりと同じ選択肢を選び続けていたのだった。
さらに、先に述べたとおり、私には絶対に変えたいというイベントが特に無かった。
そのため、新たな選択肢を出し惜しむ状態は、数年間にも渡って続いてしまった。
しかし、高校生にもなれば、日々の会話の中で「バタフライ効果」の存在に思い至る。
どんな小さな行動でも、新たな選択肢を選んでしまえばその影響の大きさは読み切れない。
未来を知るアドバンテージもその行動に留まらず、完全に失われかねない。
それに気づいてからは全てを不安に感じ始めてしまい、いつか来る大きな選択肢のために
そのアドバンテージを保持しようと、それが自分にとって良いことであろうと悪いことであろうと、
ひたすら日記の記載と記憶の通り行動した。それは大人になっても同じだった。
例えば、その日は職場でトラブルを起こし、大迷惑をかけるとわかっていた。
それでも出勤し、何の対策も取らず、上司に怒られながら対応に奔走した。
例えば、その日は旅行でどんな光景を見たのか、おぼろ気ながらも覚えていた。
それでも出発し、同じ忘れ物をして、退屈を感じながらも時刻表に追われた。
もちろん、毎日何を食べて暮らしていたかなど、日記にも記憶にも無いこともあったが、
それらは詳しく追わなかった。それなら、意識しないことこそ自然だと思ったから。
そして日記も書いた。
日記を書くというよりは、持参した日記の単なる引き写しでしかなかったわけだが。
それでも、日記を書かないこともバタフライ効果を起こすと信じてしまい、
持参した日記をまっさらな大学ノートにそのまま書写するという、
客観的に見ればまさに馬鹿馬鹿しいだろう行動を、現在まで真剣に続けてきたのだった。
そうやって、タイムリープの出発時点である「現在」に十数年もかけて、ただ出戻ってしまったわけだ。
外見的には、同じ日記の束が1組増えただけのひたすら長い時間だった。
ここまで述べた思考過程により、人生を変えるような選択肢は何一つ選べなかったわけだが、
それでも、一つだけ新たに気づいたことがある。
それは、2度目の過去は少々退屈ではあるけれど、ひたすら快適だということだった。
2度目の過去の後半はむしろ、自発的に新たな選択肢を選ぼうとしなかったのかもしれない。
なにしろ、選択肢を選び直さなければ、明日に何が起こるのかまたわかるのだから。
その明日がトラブルだらけだったとしても、それはいつどのように治まるかを知っている。
「止まない雨は無い」ということを、実体験によりわかっていたのだ。
それゆえ、バタフライ効果の影響が狭まったやり直しの後半においても、
トラブルを回避するつもりの選択肢を選ぶリスク(バタフライ効果でそれはリスクにもなり得るのだ)より、
そうして、私はこの2度目の現在に至るまで、リスクのある新しい選択肢ではなく、
苦しくとも理解できる未来が選べる快適さの方を選んできたのだった。
ここまで長々と書いてきたが、今回のタイムリープでは、
タイムリープによる人生のやり直しなど物語上の幻想に過ぎないと身を以て知った。
おそらく、私のような常人には、タイムリープを以てしても人生はやり直せない。
タイムリープで人生をやり直すには、タイムリープの誘いを受けたという幸運だけでなく、
ある種の快適さ、未来を知る快適さを打ち捨てるだけの強い意志が必要なのだ。
それは本当に強い意志だ。私が驚きとともに伝えたかったのは、まさにそのことだ。
人生にやり直しがきかないのは、タイムリープができないからではないのだ。
たしか小学生の頃には、私もいわゆるロールプレイングゲームで遊んだことがある。
なぜなら、ガイドブックが存在する範囲のシナリオが終わってしまうと、
何をどう進めて最終目標に向かえばよいかわからなかったからだ。
そのことを、2度目の現在に戻ってようやく思い出す。
これからの、日記も記憶も、当然ガイドブックも無いまっさらな未来が本当に恐ろしい。
それに比べて、あの快適さに包まれた過去の日々は、本当に素晴らしいものだった。
強い意志の無い私のような人間には、新たな選択肢が選べ直せないと重々わかりきった上でも、
もう一度、日記とともにタイムリープを繰り返したいと思うくらいに。
そして、今はあの「現在」だ。タイムリープの出発時点である「現在」だ。
だから、1度目の人生と同様、協力者である先方は再び現れるはずだ。
迷惑メールのようなぎこちない文面で、タイムリープの誘いを持ち掛けてくるはずなのだ。
そう、そのはずだったのだ。
しかし、タイムリープの誘いを持ち掛けるメールは、いまだに来ない。
その時期が日記の記載から遅れていても許すから、どうか早く現れてほしい。
まっさらな未来などまっぴらだ。もう、結果のわからない未来なんて体験したくない。
私はタイムリープで、あの快適な過去にもう一度引きこもりたいのだ。
かつては、タイムリープでもう一度、人生をやり直すことを期待していたが、
今回は、タイムリープでもう一度、人生を「繰り返す」ためにメールが欲しいのだ。
そう思いながら、メールを更新しては気分の塞ぐ日々を過ごしていたが、
昨日ようやく、自分がバタフライ効果から解放されていることに気づいた。
自分にはもう、守るべき「1度目の過去」は存在しないのだから、
バタフライ効果を恐れて、現状を維持しようと努めなくてもよいのだ。
長い習慣ゆえ、そんな当たり前のことに思い至るまで時間がかかってしまったが、
とにかく、現状を打破する行動のひとつとして、この長すぎる文章を書いた。
先述の「ある期待」というのも、まさにそういうことだ。
あんなに嫌っていたバタフライ効果だったわけだが、今回はそれに「期待」を込めて、