はてなキーワード: 帰結とは
日米欧、欧の中でも各国違う仕組みでシステムがまわっているのを見るけど、
なかでも日本は本当にうまく回っていない感は外から見ていても感じる。とても日本社会的な特徴がよく出ているかなとも思う。
財務省は、高齢者サポート以外の予算を一生懸命締め付けるための因縁を各省庁につけて回っているんだけど、
文科省はグローバル化とか大学改革とか、それを実施するためのお金として削られる分を取り返そうとしている。
財務省はそこに根拠を求めるから、文科省が偉い教授陣に提案とかグローバル化のロードマップとかの作成をお願いする。
すると、
> もっと偉い教授陣が集まる教授会で何が議論されているかと思えば、やれ大学改革だ、グローバル化だ、
> 大学院授業の実質化だ、オープンコースウェアだ、アクティブラーニングだ、学位プログラム化だ、
> 単位互換制度だ、デュアルディグリーだと、文科省の顔色をうかがいながら、
みたいな現象が起きる。
ただ、大学運営の方針を決めたり戦略を作ったりすること自体は世界中のどこでもやってる。
ここで、日本で一番特徴的だなと感じるのは、年功が高い人というか総合力を重視する規範がものすごく強くて、
そういったロードマップ作成を、年功の高い人だけでやろうとすること。
だいたい良い人材が腐らなければ、年々研鑽していくこともあって、
年功が高い人の方が(その組織委内での)総合力が高くなるのは当然の帰結だけど、
それでもある一点で評価すると年功の低い人でも年功の高い人を圧倒することは当然ある。
「他はだめだめなんだけど、ここは素晴らしい」という人材がいたとき、
「あいつは未だ未だ」「こういうところが足りてない」など、"欠点がない"ことを資質として求めちゃう。
結局、戦略策定とか高尚とされるお仕事は年功高い人がとるので、大学の業務リソースは変わらない中、よそ者とか若い人に、
> 生産性の低い学生(留学生含む)を手厚く面倒みながら、自分は事務書類に追われ、試験監督したり、
> クラス連絡会とかオリエンテーションとか企画して、引きこもりで出てこない学生の両親に電話相談したり、
> 大学説明会、オープンキャンパス、市民講座とかに駆り出され、はては高校訪問などの営業まで
してもらわないといけない体制が出来上がる。
長期戦略を作る方の話に戻ると、年功が高い人になると、人生の"あがり"が見えている人が自然多くて、
「10年後なんて俺には関係ない話」と口にしちゃう人がマジでいるし、
戦略策定も"欠点がないように"実施項目は並べるんだけど達成目標の議論は避ける。
「ベンチャー活用」とか実施項目は踊るけど、その帰結については書いてないでしょ?
年功高い人の会議でも同様の議論(↓)があって、これまで前述のことは本当に陳腐だと感じられるかもしれないけど、
結局のところ、地方は結局「若者」を排除して自ら衰退するですね。
さらにこういったものを作る有識者会議だと「高度な日本の技術を輸出」とか、
日本に本当に有意性があるかどうか不明なことが世界を圧倒しており、
しかも世界がそれを欲しがっているというクールジャパン前提の実行計画が立つ。
他方で、極端な例を挙げると欧州小国だと官僚組織の部長(局長の次席)に30歳ちょっとで就くことがあったりして、
そういう人にうまく仕事をさせて、組織の利益にしようという目標意識も運営側に強い。
欧米だと博士課程の学生に勤続年数5-6年のサラリーマンと同じ年収を渡して仕事をしてもらうのもよく聞く話ですよね。
日本だったら、そんな社会経験ない人に良く任せるなーって感じするよね。
でも、欧米の友人もP300くらいの研究提案書(ロードマップ)なんて作ってポジション取りに行ってるし、
いや元増田の考えと認識はどうか知らないけど。私はそう思った。
こういう、発達障害とか鬱病とかアスペとかコミュ障とか言われる、精神的な問題って、共感されないし同情されないよね。
同じ様に(それこそ自殺を考える程に)苦しんでいるにも関わらず、被災者は共感され同情され、何より支援される。
かたや精神的問題は自己責任だと叩かれ、絡み辛いと遠巻きにされ、カウンセリングは(場合によるが)保険も効かない。
ここに不公平感がある。
つまり、元増田の怒りの対象は被災者ではなく、共感出来る不幸には物質的・精神的に救いを差し伸べるが、そうでない不幸には寧ろ石を投げる、世間・社会なんじゃないのか。
コミュ障や精神疾患は、周囲から叩かれ疎まれ、それにより更にコミュ障になり、更に叩かれる無限地獄。
かく言う私自身も、周りに居るそういう人を個人的に助ける事は出来ない。
同情はするし出来る範囲の事はしたいと思ってるが、家族や旧友でもなければ彼等を好きになれないし、積極的に関わるのには莫大なエネルギーが必要だからだ。
人に助けて貰う為には先ず好かれるか同情されなければならないが、そこで躓く。
ひと昔前は発達障害や鬱病という言葉も認識されて居なかったので、今よりも更に「怠け者」「性格が悪い」という認識をされ易かった。
そういう意味では今はマシにはなってるが、不十分だと思う。
秋葉原無差別殺人事件の加藤なんかは、そういう負のループから生まれた面も有ると思ってる。
彼が「社会」「世間」に攻撃したのはある意味当然の帰結ではないか。
その社会に彼が共感を持つ事は無いし、復讐心を抑えるブレーキは機能しない。
元増田はとりあえずカウンセリングとか精神科に行って、専門家に知見を求めるのが良いと思うが、社会っつーか我々の理解がもう少し進めば、こうした「救われない不幸」は減って行くんじゃないかと思う。
【前提】
就活でかなり追い詰められていた時に、彼は「別に専業主婦とかでもいいんだよ」と言ってくれた。
彼のことは非常に愛しているし、正直魅力的な提案だと思ってしまったけど、でも無事に就職先が決まった時、とてもホッとした。この事について、ただただ考えてみた。
これは個人的な愚痴の吐き出しであり、一般化を目的とするものではない。
(個人的には、ハウスキーパーなど家事技能必須の職業も存在していることだし、一人暮らししてると家事めっちゃめんどくさいし、尊敬の念を禁じ得ない。)
【外的?要因】
どうも配偶者や恋人などのパートナーがいると、個人の能力とか、主体的な部分が無視されることがある気がする。
私に恋人がいることを知っている知人から、「そのネックレスかわいいね、彼氏さんからのプレゼント?」とかなり確信に近い感じで言われたことがある。
私はそれほどバイトに熱心な方ではないと知られていたので思考としては当然の帰結なのかもしれないけど。
けどもし、珍しくバイトして汗水垂らして買いましたとか、そういう風に言ったらこの人どうするんだろう?と考えてしまった。
たかがアクセサリー、たかがこれくらいの言葉で、と自分でも思う。でも短期間で同じようなことが立て続けにあり、どうしても考えてしまった。
恋人がいる、というだけで個人の経済力とか、自己決定能力が無視されたように感じてしまった。更に言えば、自己肯定感の低い人間なので、私って彼氏がいる以外何もない人間なんだろうか、とちょっと落ち込んだ。私と彼とは個人同士で選びあって愛しあっているのに、第三者からするとどちらかがどちらかの付属物のように見られることがある、というのがなんとなく悲しかった。
私の場合はアクセサリーに対してのだったけど、もしかしてたまにあることだったりするんだろうか。例えば男の子がなんとなく作った料理とかお菓子の写真を上げて、「美味しそうだね!彼女さんが作ってくれたの?」っていうリプが付くとか?
勿論自意識過剰なのはわかっているし、社交辞令とか世間話ってそういうもんだと思う。
でも、もし例えば専業主婦になって、専業主婦に関してよくある言葉を軽口として言われ続けたらきっと耐えられないだろう。個人関係でさえこれなのだから、社会的責任をもって結ばれた関係でこうやって考え込んで勝手に落ち込んでたらやっていけない。
【内的要因】
本当は、前段を本題として、「もし世界に彼と私の二人きりなら、一も二もなく提案を受けるだろう」と締めくくるつもりだった。けどよくよく考えてみて、実際そうなったらいつか自殺したくなるんじゃないか、と思った。
理由は罪悪感である。相手に何かしてもらうばかりで、自分は何一つしてあげられないのではないか、と。
以前ストレートにこの旨を話した所、「具体的に何してくれるとかじゃなくて、君がいるだけで俺は頑張れる」的なことを言われた。カーッ!好き!でも実感ができないので納得できない。
そんな私にもわかりやすい指標の一つが、お金である。ちゃんと働いて相手に金銭的負担をかけないとか、そういうことが唯一私が彼にできることであり、拠り所というか希望になりつつあったのかもしれない。
多分主婦になっても、ちゃんとした家事ができる気がしない。かなりダメだと思う。それでも彼は何か見つけて労ったり褒めたりしてくれそうなんだ。
彼は優しくて私は卑屈だ。そういう人間にとって最後の砦が、「ちゃんとしているということを経済力によって示す」ことなのかもしれない。
正直社会人になるのも滅茶苦茶不安だ。働きたくない。やっていける気がしない。でも、相手に見合う人間になりたいとか、自立した一個人として見られたいとか、そういうことを考えれば頑張れるというか、もうそれしかない。
http://syakkin-dama.hatenablog.com/entry/20170224/1487937935
http://b.hatena.ne.jp/entry/syakkin-dama.hatenablog.com/entry/20170224/1487937935
最初ブコメとして書こうとしたが,100字制限の下では意図が正確に伝わらない恐れが大きいのでこちらへ。
これに加えて,ブコメでは,
の問題までごちゃ混ぜにしようとしている。
この文章では,「効率と弱者救済の問題」に限定して,単純化された思考実験を以て,元記事の問題点を明らかにしてみたいと思う。
1人が1日暮らしていけるだけの給料がもらえる仕事量を1とする。
全員が,元記事で言う所の「強者」,すなわち定時(8時間とする)内に1の仕事をこなせるのであれば,残業禁止でも誰も困らない。
だがここで,なんらかの理由(発達障害に限らない)で,1の仕事をこなすのに9時間かかる人が居たとする。
それは「弱者切り捨て」だから問題だとして,1時間までの残業は認めることにする。
(実はここで,正しくは,2つのケース=その1時間に対して残業代を支払うか否か,に分岐するのだが,それを考慮しなくてもこのやり方が破綻することを示せると思うので,このまま進める)
さて,すぐにわかるように,1の仕事をこなすのに10時間かかる人も居るだろうということは容易に考えられる。
その人を救済するためには,2時間の残業を認めなければいけない。
以下,この数字がいくらでも増えていくことは,容易に想像できる。
例えば,1の仕事をこなすのに25時間かかる「弱者」も中には居るだろう。
そういう人は,このやり方では救えない。
この思考実験で言いたかったのは,「残業を禁止しなくても全ての(効率の悪い)弱者を救えない以上,残業禁止は(効率の良い)強者の論理だから間違っているという非難は成り立たないのではないか」ということである。
結局,この問題は,「残業という仕組みで,どこまで(効率の悪い)弱者を救うべきか」という問題に帰結されてしまう。それが0時間/日なのか,何時間/日なのかは,バランスの問題であって,all or nothing で是非が決まるものではない。
現在の日本社会においては,労働の長時間化が,消費=需要の減退→物価の低下→賃金の低下→労働のさらなる長時間化→...という悪循環が引き起こしているのではないかという推定がある。また,単に短期的な影響だけでなく,労働の長時間化が中長期的な少子化をもたらし,それによるさらなる需要の減退という悪影響が生まれることも懸念されている。
ならば,この悪循環を断ち切るために,労働時間を短くする方向へ規制をかけるというのは,マクロの「バランス」を考えると間違った考えではないと思われる。
他方この政策が,一定数の「暮らしていけない弱者」を生むのもまた確かだろう。
それらの人々を切り捨てるのは,人道的のみならず,経済を回していくという点からも正しくない。そもそも,人口減少を避けるための政策なのだから,切り捨ては本末転倒である。
ただしそれらの人々は,「残業許容」ではなく,別な方法(例えばBIのようなセーフティ・ネット)によって救うべき,というのが今の流れなのではないだろうか。
資本主義的な帰結だってことは凄い分かる。でもその逃げ場のなさが、結局その主義の中に住む人々をある意味で殺している(飼い殺しにしてる?)ってのに、抵抗感が凄いある。
青臭いことを前提でいえば、もっと人々はユナイトするべきなんだって思うんだけど、あっちもこっちもヘイトだらけで日本では無理なんじゃないのとは思ってる。男と女ですら互いに分かり合えないんだし。いやそもそも日本以外の国ですら無理だって事がトランプの大統領選で分かってしまったし。
だから人々を超越した神を頂点にいただく宗教に、限界を迎えた人々が走るんだろうとは思う。
でもそれって「発展」も「進歩」もしてなくて、けっきょく「腕力」(資本)の強い者が勝つみたいな、原始社会に退行してるよね、って思う。
いやだから抽象的にでもどんな事実があるのかと。根拠云々以前に判断基準ってものがあるでしょ。
いやだから抽象的な判断で事実はないだろアホか。世間一般の基準で見て抽象的にマイナスだということを述べた上でその要因を考察してるわけでしょ。
30代・40代がマイナス評価で20代以下と50代以上をプラス評価しているとするならば、その評価点は何なのか。
「Aがマイナスだ」という命題を述べると「A以外はプラス」だという命題を帰結できるとかちょっとオツムが足りてない人だと確信されてしまうからやめておこうな。
自営業は比較的早くに影響があったけど、バブル崩壊当時ってそんなに大事になると思われてなかったんだよ。あくまで一時的な不況で、まあ3-4年で日本経済にももう一度波がくるだろうと楽観視されてたので、サラリーマンの給与についてはしばらくの間手を付けられていなかった。そこからの日本の歴史を知っている感覚で過去を振りかえると、バブル崩壊の瞬間に何もかも変わったように思えるかもしれないけど、俺の記憶ではかなりの間、楽観視して、ぼやぼやして何も手を打たずに数年放置されてたの。少なくとも、バブル崩壊が直接的に生活に影響を与えるまでにはタイムラグがあった。投資のレベルではバブル崩壊時からマイナス局面に入っているけど、生活のレベルとしては消費者物価指数でデフレになった1998年くらいからが、自分の感覚としてもバブル崩壊のヤバさが生活に出てきてた感じ。
98年デフレや指標の悪化は消費税でますます悪化させたというだけでしょ
そもそも株価の暴落自体は89年をピークに90年にかけて一気に起こってる
この会話ログはフィクションであり、実在の人物・地名・団体とは一切関係ありません。
坂木
わろた
坂木
自分が理解できないものを意味がないと思いこみたがるタイプの人だということがよく分かったので原文を読まずに済んだ。ありがたいまとめだ。
安原
NTPsec が,ownership を理解していない開発者たちの声が大きくなるようなコミュニティによって開発されているということが分かって大変有意義でした(こなみかん
宮森
今までCで開発してきたプロジェクトを移すなら極端な話ownershipを理解しなくても良いわけで、悪くないのではと思う。
宮森
……が、理解できないものに対して、理解を試みず~すべきだ~と設計しろ、っちゅう人が作るソフトとはちょっと関わりたくないと思う。
安原
いや,私は C で開発してきたプロジェクトであるならばなおさら ownership を理解していないといけないと思います. ownership に理解を示さないコミュニティが関わってきた一定規模以上の C によるプロジェクト……私の第一感は「こわ…近寄らんとこ…」です.
宮森
いや、Cで開発してきた人たちって、ownershipを自前でコントロールできると思っている(思い込んでいる)人たちですんで……こわちかは同意。
安原
いや,私は C で開発してきた人たちの多くは,そもそも ownership の概念を獲得していないのではないかと危惧しています.元々,私はもっと楽観的で,多くの C プログラマは ownership の概念を獲得していると思っていました.
宮森
安原
OpenSSL の騒動の時,関数の途中で return したことによるリソース漏れを揶揄したことがあります. OpenSSL のようなインターネットの基盤を支えるオープンソースプロジェクトにおいてさえ, ownership の概念を獲得していれば脊髄反射で気づくであろうバグが随所に見られたことには本当に絶望しました.
安原
藤堂
安原
むしろ C++ によって ownership という概念が明確になり,その重要性が認知されるようになったのではないでしょうか? これについては,私は歴史的なことが分からないので真偽のほどは何とも言えませんが.
宮森
シニアな開発者にしかC++/Rustが受けないと思うの、まさにその点だと思っていて、人類を信頼したがために足どころか頭を吹き飛ばす経験を積んでいないからだろうなー、とか。
宮森
OSとかシステム系のプログラマの人々、基本的にリソースは人間が適切に管理するし管理できると考えている人が多い印象([検閲削除]社時経験)。言語側で安全を確保したい、的な話をしても相容れなかった記憶が。
坂木
[検閲削除] のコードには、間違って自分の足どころか頭を撃ち抜いてしまった偉大な先人たちの知恵が詰まっていて、開発していてとても勉強になります。なお [検閲削除] は頭がなくなっていることに気づかずゾンビとして生きている模様。
今井
今井
リソースどうこう以前に、そもそもちゃんと構造化されてるコードが書けるかも怪しい(個人の感想です。見識にバイアスがかかっている可能性があります)
安原
うーん,数値計算系のチームやコミュニティも ownership の概念の獲得,重要性の理解,その管理を自動化することへの理解,これらを期待するのは難しいだろうなあ…….そもそも高度なリソース管理が必要になる場面少ないし…….
坂木
コードの品質が強く求められるプロジェクトとそうでもないプロジェクトがあるからなあ。クライアントサイドソフトウェアは割と品質が求められる気がする。
安原
OS 実装とかシステムプログラミングって,クライアントに直接接しないだけで,その上にクライアントサイドソフトウェアが載るわけで,コードの品質が強く求められると思うのですがそれは…….まあ, API とかで切り離されているので,そこだけしっかりしていれば,という話はあるか.
宮森
坂木
今井
あとは、デモが作れればいい、的なのも同じかなぁ。
宮森
宮森
安原
今井
まー、 offline で動くバッチ、的なのはそこまでメモリ管理とか / パフォーマンスとかにもシビアにならなくていいし(最悪オーダーがほどほどならよい、的な)、そいう文化にいると、雰囲気にのまれる人が多い、というのはまぁわかる。
坂木
今井
宮森
いろいろ言っていますがワタクシ、そういう管理が必要なプログラムは全く書けなくなりましたので今書くと死にます(プログラムと顧客の大事なデータが)
安原
しかし,システムプログラミング界隈に「人間はリソースを適切に管理できる」という悪しき信仰がはびこっているの,何か構造的な原因があったりするのかなあ?
宮森
システム系、基本的に生のハードウェアが透けて見える言語を使う必要があって、そのために選択肢がCしかなくて、手段が限られているからこそ信仰が発生した、という認識
宮森
宮森
坂木
Linux カーネル、一体どうやったらあの規模のコードをクオリティコントロール出来るのか本当に不思議
安原
坂木
Linux カーネル、属人性高そうではあるけどそれでも実際に十分スケールしているからなあ…… ヤバい系レビュアーがごろごろしているのかな
宮森
安原
私も [検閲削除] のコミュニティを見てましたから,各々必要なドメインにおける圧倒的なタレント性を持った人たちが1ヶ所に集結して奇跡のアンサンブルを奏でうる場合がありうるのは理解しているんですが,本当にただの奇跡でしかないと思っています.
宮森
つーても機械エンジニアリングで町工場の職人芸を必要であれば使うように、属人性を求めるのも一個の正しい戦略だと思うんですよね。
宮森
なおその対極がみずh(省略されました
安原
Linux カーネルにおけるスケール云々は, Linux カーネルのコミュニティ自体におけるスケーラビリティではなくて,(システム)プログラミングコミュニティ全体(他のプロジェクト)へスケールするかどうかを言ったつもりでした.
坂木
宮森
C系がシステム系で優先されるの、ツールを変えるとツール独特の罠があるので、罠が全て分かっているツールを使う、っつうのもあるな。
安原
> システム系、基本的に生のハードウェアが透けて見える言語を使う必要があって、そのために選択肢がCしかなくて、手段が限られているからこそ信仰が発生した、という認識
これが原因だとすると,やはり Rust だ……Rust しかない…….ツール周りとか,まだまだ未整備な部分たくさんあるけれど……そこをクリアすれば…….
坂木
坂木
イテレータっていうか Java でいう Scanner を作ろうとしたんだっけ。サードパーティライブラリも探してみたけどその頃は I/O 周りの API が unstable でビルドが軒並み壊れていたりしたな……
藤堂
1.0 以前のことは忘れましょう (本当に unstable)
安原
坂木
安原
「Rust 経験者」という条件でプログラマを募集して,それで入ってきた人材に C を書かせればよいのでは!(ピコーン!
藤堂
犯罪ですよそれは
安原
はい.
藤堂
安原
まさにそれをイメージしていました.
宮森
藤堂
うーん、それ以降の話は知らず
今井
Rust そして誰もいなくなった、にならないかが一番心配だったりする
安原
それな
宮森
もしかして、NTPsecの人がRustでミニサーバーを起こすのにすら苦労していたの、普段からバグありのコードを生産しているからなのでは、という気がしてきた……。
(この辺で一同寝落ち)
前回の続きで、そちらをあらかじめ読んでいること推奨。
もっと主観バリバリ、かつ雑に展開させた方が読んでいる人たちもツッコミやすいし、筆者も書くの飽きてきたので今回はもっとテキトーに書いていくことにするよ。
食に関することは基本的に作るか、食べるかだけれども、細分化していけば目の付け所はいくらでもある。
要はコンセプトによる差別化だ。
『胃弱メシ』は胃が弱い人の、『女くどき飯』はデートでキメるとき。
『将棋めし』は将棋で勝つためのゲン担ぎといったように、「食とどう関わっていくか」ということも差別化の一つともいえる。
『目玉焼きの黄身 いつつぶす?』や、『食の軍師』などといったように食に関する独特な拘りを主体にしたものもある。
他には、食べ物自体は絡むものの、その他の要素に比重を置かれているパターンも。
定番なのが人間ドラマで、『ゆきうさぎのお品書き』や、前回挙げた『甘々と稲妻』などはその傾向が強い。
料理やそれを食べる要素は必ずあるものの、それによって紡がれるドラマが主体なのだ。
これはどちらかというと帰結ともいえ、食べ物そのもののエンターテイメント性の弱さを補完しようとすれば、過剰な演出を除けばストーリーやコンセプトに目を向けることになるのだ。
その点では『ゴールデンカムイ』もその要素を持つといえるが、これをグルメ漫画と認識している人は少ない。
バトルやドラマ、コメディなど、主体となる要素、テーマが他に多くあるからだと思う。
では、食の要素を持ちつつ、食漫画と認識されにくいものには他にどのような例があるだろうか。
完全な持論だが、それは茶化したり、弄ぶことによる“破壊系”だと思う。
代表格は一部の「料理バトル」モノで、過剰な演出とエキセントリックなプロットを突き詰めていく過程で真面目に食べ物や調理を扱わなくなった。
数年前だと『マジカルシェフ少女しずる』という漫画が印象的である。
最近だと『人魚姫のごめんねごはん』という漫画がホッテントリになっていて記憶に新しい。
ディズニーアニメの『リトル・マーメイド』でコックが魚を料理する歌があるのだが、架空の設定で見方を変えさせることで、印象を鮮烈にするというのは手法としてある。
まあ正直ここまでくると、食が関係していてもグルメ漫画というよりはコメディ漫画寄りだから、今回の話で扱うのは趣旨がズレているかもしれないが……。
主張したいのは個人的にこの“破壊”を許容されることで発生する、ジャンルの多様化もあるのではないかということだ。
つまり「破天荒さ」と「グルメ」を両立しているにも関わらず食漫画としての体裁を保った、そんな奇妙な読み味の漫画たちである。
グルメ漫画のほとんどは現実世界をモチーフにしていることが多く、料理もまたそれに準拠している。
だが、それに拘る必要がないのではと思い始める作品も出てくる。
例えば『異世界駅舎の喫茶店』、『信長のシェフ』などといったように、舞台を別の世界にしたもの。
しかし、食べ物まで空想の産物にした代表格は『ダンジョン飯』だろう。
RPGに登場しがちな空想の生き物を材料に、大真面目に調理工程が描かれるのである。
以降も異世界の架空の食物を扱った『幻想グルメ』や、妖怪を材料にした『美味しい妖』などの作品が続いていく。
もはや食漫画は、舞台、調理工程、登場人物、食べ物あらゆるものが多様化したのである。
だが悪くいえば、ほぼ手垢まみれの状態となりつつある、ともいえる。
私みたいに食傷気味になっている人間ならまだしも、様々なジャンルの漫画をそこそこ読んでいる人なら、一つのジャンルの隆盛などあまり意識しないだろうし、漫画自体をほどほどにしか読まない人なら尚更である。
「こんなに食漫画があるんですよ」と挙げても、それらを全部読んでいる人なんてまずいないからだ。
そもそも現代は漫画が供給過多の状態なので、全体を見渡せば食漫画自体はそこまで多くはない。
いいえ。
謝ることはありませんよ。
ああ、これって被害者ぶってる割にすんげー上から目線だからキモチワルイんだって気が付きましたよ。
これで最初の回答になったね!よかったよかった。
あのね、あなたは最初の投稿からして潜在的に異性に対して嫌悪感とか憎悪を持つことが大前提になってて、それに対して自分はさも「異性の優しさを受け止められました(あくまで優しさを“受け入れてやってる”のがミソ)」「許せるようになりました」みたいなエラソーな達観を披露してるわけ。
そんでそのかけ離れているという感覚を「ゲーム」とかいう言葉にして、自分の性格を「サイコパス=感情が乏しい。同情心が少ない」とかいうところに帰結させてるの。
自覚してないんだろうけど、そういうところが自分の中では謙虚でいい人演じてるつもりなのに周囲に見下しとか選民意識みたいなキモチワルさを醸し出してるんだよ。
どんなに隠してるつもりでも、そういうネジ曲がった人をバカにする態度は文章の細かいところににじみ出るのがキモチワルイの。
わかった?まあわかんないだろうけどね。
ようするにまとめて言うと、お前は性格が超悪い。
以上
今回は感想というより、雑感。
亜人はいるんだけれども、ストーリーや舞台設定自体は現代ほぼそのままっていうね。
興味深いのが、亜人だからって特別なことはさせなかったり、させたとしてもあまり大袈裟にしないのもあるんだよ。
となりのヤングジャンプだと『彼女に合わせる顔が無い』とか、ポラリスだと『オデットODETTE』とか。
コミックウォーカーだと『かわずや』、『彼とカレット。』とかかな。
少年ジャンプ+で最近ブロンズルーキー賞取った『となりの熊沢君』とかもか。
なぜこういう現代を舞台にした日常モノに人外を添えるかって考えたみたんだけど、要は「日常の中で非日常を演出できる装置として便利だから」だと思うんだよね。
日常モノをバカにするつもりはないけれども、やっぱりエンタメとしては弱くなりやすいジャンルだからなあ。
エンタメの基本って、何かが過剰であったり異常であったり、或いは逆に欠如していることだと思うからね。
できることは限られているし、受け手の想像しうる範疇になりやすい。
私がよくいう「同じことはやればやるほどつまらなくなりやすい」に通じる。比較対象が増えれば尚更。天丼だとか、お約束という解釈も可能ではあるけれども。
エンタメがフィクションにおいて絶対条件とはなりえないケースも勿論あって、どの層の受け手がどのようなものを求めるかということに帰結しやすい話ではあるけれども、まあエンタメが花形であることは否めない。
その点で、日常描写に支障のない範囲内で「分かりやすい異常、過剰性」を演出する舞台装置として人外は便利だったんじゃないかなあ、と。
雛型が凡庸であることの抵抗ともいえるかもしれない(まあ、それすら手垢まみれになりつつあるが)。
『となりの熊沢君』とかは最たる例で、あれは熊沢が普通の人間であっても全く問題なく成立するプロットなんだよね。
けれども、真正面から真面目なストーリーを描くと照れ臭いから、作者自ら茶化さずにはいられなかったのか、ああいうキャラクターにしたと感じた。