はてなキーワード: ラッキーとは
あの祝辞は東大新入生男子を差別の直接の加害者として責めるものではありません。差別を含む構造の中で自分が有利な位置に生まれ育ったラッキーを自覚してほしいというだけです。個人の罪の話ではなく、社会構造の話です。
それを「責めてる」と言うんだが。
そもそも結果論でしかなく、その存在を立証すらされていない「女性差別」の恩恵を受けてる、と言うのが加害者としての避難でなくてなんだろうか?直接的加害者じゃなく、間接的加害者として攻めるならオーケーか?
私は思わない。
そもそもフェミニズムという思想自体が、報われない結果の不平等を男性に押し付ける八つ当たりの思想に過ぎない。
現にフェミニスト達自身も結果論以外で女性差別を立証できたか?医大の件は自爆しただけで、何も立証出来ていない。
その八つ当たりの思想家が、もっとひどい八つ当たりを諌めもしてない現状がある。
男全体に、ありもしない(証明されてない)「女性差別」の件で八つ当たりするフェミニストには、内輪の加害者を自浄する責任があろう。自分たちが言ってるように。
あと一つ、純粋に不思議でおうかがいしたいのですが、東大新入生男子は男女差別をしない賛同もしないと増田さんが信じる根拠は何でしょうか。他大学の男子と同程度には、差別をする人もしない人もいると思うのですが。
なぜなら「女性差別」というもの、これは幻想に過ぎないから。何度も書くが、結果論でしかない。証明されてない。
個人の好みの問題を「女性差別」と定義するならば、そりゃ「女性差別」する奴も居ることになろうが、「男性差別」やらなんやらも大量に出現する。(ここで言う「男性差別」は現実に存在する、男性から機会の平等や公平な扱いを奪う男性差別とは別物)
合コンの件なんか顕著な例だ。
今日学校で懇談会があって、時間が余ったので近くの人とグループ組んで情報交換的な事をしてよくなった。
そしたら、担任の先生すぐそこにいるのに、出るわ出るわ先生の悪口が。
担任の癖に無責任だとか、中途半端にやるくらいなら教師辞めろとか色々、聞くに耐えない罵詈雑言を聞かされた。私が反論しても全部遮られてしまう。
自分等の悪口にエキサイトしてしまって、ノリノリで、ほんの数メートルの所にいる、自分等よりも十以上若い担任に聞こえよがしに言いまくる。とても楽しそうに。
止められない私はなんて無力なんだ。辛い。
自分の娘が、将来教師とかなんか色々な仕事をして、妊娠したくらいでそんな風に言われたら嫌じゃないのか?私は嫌だ。
私としては、人生にはどうしても仕事よりも自分の身体や家族などを優先しなければならない時期があるというのを、子供達に当然だと思って欲しい。子供が生まれるという事にネガティブな感情を持って欲しくない。
担任の先生が妊娠中でそのうち産休に入るというのは、そういう意味ではラッキーなのではないだろうか。人間とはそういうものであるという事を、知れる。
先生も人間だから、妊娠出産の他に、病気や怪我で休養を取らなければならない事だってある。
人は壊れない機械なんかではない。そういう事を知って欲しいから、先生は完璧超人でなくていい。親だってそうだ。完璧超人でなくていい。
元増田です。
増田さんが「叩く」「攻撃」という言葉で何をさしているのかをはっきりと定められないままお返事するので、ずれた返答になっていたら申し訳ありません。
あの祝辞は東大新入生男子を差別の直接の加害者として責めるものではありません。差別を含む構造の中で自分が有利な位置に生まれ育ったラッキーを自覚してほしいというだけです。個人の罪の話ではなく、社会構造の話です。
===上野と意見を異にするフェミニストをいさめる責任について===
例えば東大入学式で祝辞を述べた有名人である映画評論家の蓮實重彦には、町山智弘の映画評論について逐一何か言う責任があったのでしょうか。なかったと思います。それと同様です。例が古くてすみません。
そして、上野の主張によってラディカル・フェミニストや表現規制推進派やいわゆるツイフェミの主張が変わらないのは、上野に「本邦フェミニズムの旗手」というほどの影響力がないことの証左であると私は解します。
上野のリベラルorマルクス主義的フェミニズムの主張にはまた別の突っこみどころがありますが、それはそれとして別個に批判すればよいでしょう。例えば下記のページのように。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-5924c7.html
増田さん曰く「女性専用車両賛同派のロジック」である「叩かれたくなければまず身内の罪人を叩け」については、男性に対してもフェミニストに対してもその他いかなるカテゴリーに対しても、かような言い草は不毛な八つ当たりだと私は考えます。八つ当たりをくらった増田さんが八つ当たりし返したくなるほど怒るのはもっともだと納得もし、私の行き届かない文章でその怒りに油を注いでなしまったようであることに申し訳なさも感じます。
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あと一つ、純粋に不思議でおうかがいしたいのですが、東大新入生男子は男女差別をしない賛同もしないと増田さんが信じる根拠は何でしょうか。他大学の男子と同程度には、差別をする人もしない人もいると思うのですが。
なるようになるさと考えることから始めよう
そのうち座れたらラッキーと思えるようになってくるし
気に食わない人に出会っても、この人にはこの人の考えがあるんだろうな、ま、どうでもいいけどさと許せるようになってくる
歩行中に対面から人が来たらぶつかるのではなく、先によけてしまう、ぶつかったら後味悪いからね、ぶつからなければ五分後には忘れてる
就活終えたのでまとめとして自分が何したかを書いてみたけど投げるところもないのでこちらへ。
IT系大企業の話なので他の業界だと違うかもしれません。あと就活開始当初からほぼITに絞っていたのでインターンの話は業界が決まってる人向けかもしれないです。
誰かの役に立つといいな。
長期ではなく1,2日くらいの短期間のやつでも早期選考に乗れることがあるので本命なら行っておくべきだし、本命と同業種のところもできれば参加しておきたい。そこで会った社員の方の名前やお話した内容は絶対にメモっておく。長期でやらかすと選考にも影響するって噂も聞くけど短期ならまあ大丈夫(だと思う)。グループワークで成果を上げるよりもその会社とのつながりを深めることを重視。
ESや適性検査、面接といった選考有りのインターンも受けとくだけで選考に慣れるのでおすすめ。本選考より倍率は高いので落ちても気にしない。
・ES
幼少期から今までの出来事やその時の気持ちを洗い出すってやつ、軽くでもやっておくと後々役立つ。ESでも面接でも"自分だけの体験+その場の感情や考えの変遷"をアピールできるとつよい。
ESを元に面接される場合がほとんどなので志望動機以外のエピソードはなるべく同じものに揃えておくと楽。同じ体験を使って会社の雰囲気によってちょっとだけ結論(その体験から得られたもの、とか)を変えるくらいで。同じエピソードを使いまわしておくと色んな面接で同じ体験を深掘りしてくれるので数をこなすごとに深掘りに耐えられるようになってくる。その会社のESには書いていなくてもふとした質問に対して具体的な体験談をぶつけていけるのでつよい。ESを書くために拾い出した過去の出来事達も想定外の質問の答えの役に立ったりするのでおすすめ。
結論ファーストで書くこと。きちんとした文になっているか、誤字脱字はなるべく日を置いて確認すること。(とはいえ自分も締切ギリギリに書き上げたのがほとんど)
文末の工夫として"考える"、"思う"以外の語彙を増やす。"確信している"とか"期待している"とかポジティブ感があるものがおすすめ。"強く"、"深く"、"心から"みたいな副詞も有効的に使うと論理的な文章の中にも熱意とか人間味とかが伝わる気がする。
あと提出するESはちゃんと記録しておくこと。自分は就活関係は全部Evernoteで管理していました。
・適性検査
がんばれ
・面接
緊張しやすい性格だったので最初の方の面接は全滅。緊張は仕方ないとはいえ場数を踏めば多少は慣れるのでやはり場数こなすべきかも。ここで本命のインターンしか行ってないと早期選考のせいで初めての面接が第一志望!ってことになりかねないので(自分はそれで死んだ)他社のインターンも行っておくことを改めておすすめしたい。それか外資とか選考が早いところで慣れておく。
→準備
〇ンキャリ辺りで過去の質問やその傾向を拾い上げてくる。自己PR、志望動機+過去の質問パターン+逆質問の準備で大体なんとかなる(ならないこともあるけど)。
そして想定される質問文に対してどう答えるかを提出したESも踏まえて考えてひたすらEvernoteに書き出す。どうゆう答えをしてその理由にどの体験を持ってくるか、さらにその体験でどう考えていたかを台本を書くつもりで全部文章にする。そしてそれをひたすら音読する。
緊張しがちで頭回らなくなるタイプなので準備は(面接当日の1時とかからだけど)きっちりやりましたがこの辺の必要性は人による気がする。あと軽く吃音があって緊張するとそれが出てしまうことがあるので音読で口を慣らすのはマストでした。会社に行く電車の中でも書いた文章読み返しながら小声でモゴモゴしてたのでマスクしていたとはいえ怪しい人だったかもしれないけど人生がかかってるから許してほしい。
面接に向けた企業研究は会社HPから社長メッセージ、中期経営計画、決算報告、新しめのプレスリリース辺りを見てました。
あとはアピールの方法として"御社と自分との関わり"を押し出していく。インターンでも面接でも、"御社の〇〇さんに座談会でこういう事を聞いた"、"1次面接の△△さんのこういう考え方に共感した"みたいな具体的なアピールをしておくと志望度が高く見えるし、面接官がその人を知っていると共通点として盛り上がれる。製品を知っている事を求められそうなら調べておく。何か小さい頃に使ってたとか最近思わぬところで社名を見たみたいなエピソードはそこそこ使える。
→面接中
なるべく笑顔、とはいえニヤニヤしてても気持ち悪い気がしたので自分はひたすら期待の眼差しを向けていたつもり。
答えに詰まった時は"一旦落ち着かせてください"って言って時間をもらったり、それでも頭が真っ白になったままの時はとりあえず話し慣れているエピソードを話し始めてその途中で"質問なんでしたっけ?"みたいに聞き返ししてから無理やり結論をそこに着地させたり(今思えば論理性皆無)。詰まってもこれで切り抜けられた事はあります。(もちろん容赦なく落とされることもある。)
面接官と共通の話題を見つけて盛り上がられると楽しく面接を終えられて気が楽です。大抵最後は逆質問なのでそれがうまくいくと印象が上がる気がするので前半詰められてもなんとか挽回できます。
逆質問は事業内容について聞くと下調べが甘いのがバレるので面接官の方の働く上での心持ちだとか将来期待していることとかそういう個人的な事を聞いていました。あとは自分が他社にもらった負のフィードバックや悩みに関して改善の方法を聞いてみたりしました。この辺は居酒屋で上司に相談するくらいの気持ちで。
→面接後
面接官の名前は絶対覚えておいて面接終わったら即メモ。帰りの電車で聞かれた内容とそれに対してどう答えたかをひたすら書き出す。これをやっておくととりあえず反省点が見つかるのと次の面接でも答えが矛盾しなくなる。面接増えてくるとどこで何の話したのかわからなくなるので必須。次の面接に進めたらこのメモも見返してまた準備を、の繰り返し。
・まとめ
和やかな面接に当たることが多かったので就活中結果を見るのは辛かったけどそれ以外は大体楽しかった。色んな企業の本社見れてラッキー!って思ってたし逆にべ〇サールとかで説明会する会社クソって思ってた。本社入れてくれや。
基本Evernoteでタスク管理やES、面接準備をしていました。会社ごとにノートブック作ってそこにtodoとかESとか面接内容とか全部ぶちこんでました。todoリストにはタグつけてtodoリストだけ一覧表示できるようにしてたりtodoリストの題名に会社名と次の日程と用事(【4/2ES締切】〇〇社)入れておくと一覧で見た時に各社次にやることがすぐわかって楽でした(伝われ)。Evernoteの良いところは家でも電車でも色々書けるところと企業のwebページをそのままクリップできるところ、不便なところはES書くにあたって文字数が数えられないのと文章校正機能がないところ。
『令和もいよいよ終りを迎え……』
その男は、隣の部屋が大音量で流してくる報道番組の音を薄い壁越しに聞いていた。
この時間は彼の人生において最も想像力と多様性に満ちており、彼にとっては睡眠・労働に並ぶ三大娯楽の1つであった。
「いかなければ」
彼はそそくさと服を脱ぎ、仕事場へ向かう。
ドアノブをひねり、便座に座り、備え付けのチューブを咥え目隠しをつける。
目隠しから伸びたイヤホンが自動的に耳に絡まっていくと、トイレのドア越しに労働讃歌が流れていくのが聞こえるも、すぐにその音はかき消されていく。
「かった」
噛みしめるとは言ったが彼には生まれつき歯はない。
誕生以前より伽藍堂であり続けた口腔に、ネットリとした液体がゆっくりと流れ込んでいく。
目隠しの裏に浮かんでは消える美辞麗句は、彼の人生が如何ほど価値のあるものかをしきりに伝え、それに彼は心の中でうなずく。
何度も何度も心の中で彼はうなずく。
自分の存在価値の偉大さを噛みしめるたび、生まれてきたことそのものへの感謝がとめどなく溢れ出る。
そうして心で頷きながらも彼が頑なにその首を動かさないのは、流れる液体の嚥下を妨げないようにしようとする忠誠心によるものでもあるのやも知れぬが、それ以前に彼がそのような動作により肯定を現すことさえも知らないからである。
そこに備え付けられた人生再結成第弐世代向け労働器具を除けば、彼に情報を与えるものは本来存在し得なかったはずなのだ。
彼の部屋がたまたま高多機能性細胞保有排便製造監督者控室のすぐ隣にあったこと、それが幸運であったのかは知るよしもない。
『人生再結成第弐世代についてどう考えますか?街の人に聞いてみましょう?』
『「いやー羨ましいですよ。生まれつき何も知らないなら自分の人生に疑問を持つこともないですからね」』
『「あの人達のおかげで私達は健康に暮らせているんだから感謝しないといけないと思っています」』
『「前テレビで見ましたけど、本当に大人しいんですよね。うちの子もあれぐらい素直だったらなと考えちゃいますウフフwwww」』
『専門家に聞いてみました』
『「人生再設計第一世代が失敗した原因を調査した所、他者と自己を比較することによる過剰な劣等感が、彼らの反社会性に大きく影響していることが分かったんですね。そこで考えられたのが、現在のように、生まれつき完全に情報を遮断してあげ、完全に外界と隔離してあげた状態で何らかのごく単純な労働に就かせてあげるという形なんです。これでしたら、自分と他人を比べてしまうこともありません。単純労働力の不足した日本という国を立て直しつつ、それを担う世代に幸福な人生を送ってもらう。この2つを両立するにはこれ以外の方法はなかったと言えるでしょう。」』
作品全体が好評価になるのを見越してこの手法をとったのでは。悪印象を挽回できるほど全体が良ければこの手法は機能するわけですよね。
作品全体が好評価の場合でも、「提示だけして居心地を悪く」せず、普通にテーマとして物語に組み込んで完成させたほうが、よほど影響が強くなるかと。
この件については反証する方法があります。制作サイドの人間の”動物ファースト”的でない行動・言動が確認できたなら、作品に善意を載せた可能性を否定できるでしょう。
商業作品として製作・発表されたものが商業目的じゃないと主張する場合、商業目的じゃないと主張する側が証明をする必要があるでしょう。別に反証する必要は特にないです。
「動くものは何でも襲ってくるぞ!」とゴリラが言っています。キュルルちゃん(とかばんさん)はボート上でそれに気づき、動かなかったんでしょう。
皆さん言ってらっしゃる「セルリアンに、けしかける」ですが、けしかけたと取れるシーンは実はありませんよね。ホテルに飛び移るビーストを二人の力では止められないでしょう。探さなかったのはビーストはボートまで跳躍できる膂力があったので、ホテルからも逃げられると踏んだのもあるのでは。
仮に、ビーストがセルリアンのいた場所に勝手についてきたというのなら、キュルルの決断・行動としてのドラマは無いですね。セルリアンがいる場所と知っててビーストを連れてきたのなら、それは、けしかけたのと同じです。いずれにせよ、それが示される必要があります。
ええ、データとして客観的に立証したことではないので、私の意見として受け取っていただければ。とはいえ、「初見で面白さがわからないものを何度も見返す人が少数派」というのは、視聴率やらソシャゲの離脱ポイントやらでデータは取られてると思いますよ。
ただただ悲しい派・このような扱いにした制作を許せない派 もいらっしゃいました。集計をとったわけではないので比率がどうかは不明です。「他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。」なるほど。カラカルに「ほら、この子にお礼言いなさいよ」とか言わせたら、確かに印象はずっと良くなりますね… ただ俺はキュルルちゃんの落下のためにああでなければの立場ですので。
わざわざキュルルちゃんに悪印象をつけるのは、悪手である、というのは、先に書いた通りです。
いわゆるご都合ですね。ご都合を全く消すことはできなくても、気にならない範囲まで減らしたり、理由をつけたりすることはできます。それが脚本の腕ですね。
http://irodorich.com/archives/6780
わかばが、あそこにいた原因としては、こういう説があります。湖の水を根こそぎ吸い込んだのなら、種が出てくるのは必然でしょう。
いえもちろん、偶然によらないイベントを用意したり他の流れと同じ原因から始まる必然的結果にするのは不可能ではないでしょう。その意味でリソースが潤沢にあれば、と申しました。
まぁそうですね。フィクションでない作品を目指したのでなくて、単に技量の問題でしょう。ただドラマからご都合を排除するのは悪いことじゃないのですが、排除しようとした結果、ドラマが消化不良になったら、それは本末転倒というものです。制作者は「多少のご都合で盛り上がるよりも、ご都合をできる限り排除して、特に盛り上がらないドラマを作りたかった」のか、というと、私はそうでないと思います。
売り言葉に買い言葉になってしまいますが… けもフレ1の最終戦でのフレンズ同士の交流はそれほど高質でしたか。主人公勢以外での話です。けもフレ2で多かったのはそちらなので。
けも1ラストのフレンズのセリフは、これまでのエピソードを想起させる形で、それぞれのフレンズが、それぞれの得意技を生かして戦うというもので、非常に高質でした。「交流」ということが、言葉を直接交わしてる会話を指すなら、少ないですね。ただ、けもフレ2の「交流」に私は意味や盛り上がりを特に感じませんでした。
「オオミミギツネさんのシーン」だけだと、ちょっとどこかわかりませんでした。ともあれ、のほほんとした交流シーンをやりたいなら、危機の最中にやらなくてもよいでしょう。
「最初からフレンズ」ですが、必ずしもそうだとは言い切れないと思います。ジャングルでは及び腰だったし、荒野では面倒事に巻き込まれないように逃げようとしていました。当時基本的にはおうちを探すことを優先していました。その割に車掌ラッキーさんに振り返ってお礼を言ったり、リョコウバトに絵を描くために夜を徹したりします。まあ確かに「なんでこんなに気を使ってるのかわからない」的な描写があれば更に盛り上がったでしょうね...
フレンズに対する態度に大きな変化があるなら、変化した理由が必要になりますよね。その理由は、「元々フレンズが好きだったことを思い出した」でも良いのですが、それならば、どういう理由、過程で思い出したか、が必要になる。
微妙に変わってはいるというなら、「微妙だけどしっかり変化してる」ことを印象づけ、やっぱり、その理由・過程を描く必要があります。
厳密には一話の施設の様子などに、当時の様子が推理できる判断材料がありますが、概ねそうです。サンドスターにコールドスリープさせる機能が描かれていないし、記憶を失っているのもフレンズ化と合致します。パークの客ならばパークの外におうちがあったんでしょう。
ミステリというのは謎が提示されて、その謎について事態が進展して、新たな手がかりが出たり、真相と思われるものが二転、三転するなどして、最後に謎が解けて(あるいは解ける以外の形で解消され)終わるわけです。けもフレ2の場合、冒頭の謎が、特にそのまま触れられず進展しないままずっと進みます。最後のカットで一応謎は解けますが、それは冒頭の時点で予測できた推理が確認されただけです。それではミステリとしてはダメです。
提示だけして居心地を悪くすることは、作品に悪印象を残すことになり、悪い印象の作品から何かを学ぼうとすることは人間はあまりしないので、負の効果があるでしょう。それを超える正の効果がある、とする根拠はないように思われます。
作品全体が好評価になるのを見越してこの手法をとったのでは。悪印象を挽回できるほど全体が良ければこの手法は機能するわけですよね。
この件については反証する方法があります。制作サイドの人間の”動物ファースト”的でない行動・言動が確認できたなら、作品に善意を載せた可能性を否定できるでしょう。
「危険で、恐ろしいビーストから逃げず、敢えて解り合おうとする」ことをやりたいのかもしれませんが、暴れまくるビーストをどうやって船に乗せて連れてきたか、なぜみんな無事なのか
「動くものは何でも襲ってくるぞ!」とゴリラが言っています。キュルルちゃん(とかばんさん)はボート上でそれに気づき、動かなかったんでしょう。皆さん言ってらっしゃる「セルリアンに、けしかける」ですが、けしかけたと取れるシーンは実はありませんよね。ホテルに飛び移るビーストを二人の力では止められないでしょう。探さなかったのはビーストはボートまで跳躍できる膂力があったので、ホテルからも逃げられると踏んだのもあるのでは。
全体の平均を取ると、「初見で面白くないと感じる作品の、考察は、されにくく、されても特に人気に繋がらない」ことになります。
データを取ってはいないでしょう?... いえ、ご経験を理由としているのはわかります。
視聴者の多くというか「ざまあ」と言った人の多くは、ですね。まぁ視聴者の多くは、イエイヌに対するキュルルちゃんの行動・言動に問題があったと判断しているでしょう。
ただただ悲しい派・このような扱いにした制作を許せない派 もいらっしゃいました。集計をとったわけではないので比率がどうかは不明です。「他のキャラなりに、うながさせるとか方法はいくらでもあるのです。」なるほど。カラカルに「ほら、この子にお礼言いなさいよ」とか言わせたら、確かに印象はずっと良くなりますね… ただ俺はキュルルちゃんの落下のためにああでなければの立場ですので。
たとえばケムリクサで、わかばが水槽に転送されたり、橋のヌシに出くわしたり、多くのイベントは偶然じゃないですか。フィクションなので気にならないわけですが、キュルルちゃんの「大好きだー」を必然的にするイベントを追加してもその発生は偶然によるものになるのでは。イベントを廃した結果、自分で振り絞っているような描写になって脱フィクション化がなされた。いえもちろん、偶然によらないイベントを用意したり他の流れと同じ原因から始まる必然的結果にするのは不可能ではないでしょう。その意味でリソースが潤沢にあれば、と申しました。
量より質ですね。
売り言葉に買い言葉になってしまいますが… けもフレ1の最終戦でのフレンズ同士の交流はそれほど高質でしたか。主人公勢以外での話です。けもフレ2で多かったのはそちらなので。
オオミミギツネさんのシーンはそれに該当していますが、ギャグ的な魅せ方で俺は流されてしまいました。初見では。
ご意見を尊重します。覚悟したかどうかも今後のスタッフの様子からおそらく判断できるでしょう。
最初からフレンズに親切ですし、特に「自分がフレンズを好きだと気づいていない」ようにも見えないので、「自分がフレンズを好きだということに気づいた」と言われても、盛り上がりがないんですよ。
「最初からフレンズ」ですが、必ずしもそうだとは言い切れないと思います。ジャングルでは及び腰だったし、荒野では面倒事に巻き込まれないように逃げようとしていました。当時基本的にはおうちを探すことを優先していました。その割に車掌ラッキーさんに振り返ってお礼を言ったり、リョコウバトに絵を描くために夜を徹したりします。まあ確かに「なんでこんなに気を使ってるのかわからない」的な描写があれば更に盛り上がったでしょうね...
キュルルの正体って、一話のキュルルが出てきたところに、サンドスターがあって、ラストで、パークが無事な時からいたことがわかるから、キュルル自身のフレンズだろうという話ですか?
厳密には一話の施設の様子などに、当時の様子が推理できる判断材料がありますが、概ねそうです。サンドスターにコールドスリープさせる機能が描かれていないし、記憶を失っているのもフレンズ化と合致します。パークの客ならばパークの外におうちがあったんでしょう。
日本のコンテンツ、というかテレビ映画業界は、歴史的に「脚本」というものを本当に軽視してきたので、まず脚本家というものの人数が少ない。太秦に出入りしていて目橋の聞く若造がやっと書かせてもらえるかという世界。優秀な脚本家を賞レースやコンペで選定することをまるでしてこなかった。内輪でやらせてみて、良いものができたらラッキーのレベル。世代交代やポシャッたらおちるシステムもない。オリジナルのTVドラマの脚本とか大抵は酷い。たまにいいドラマがあってもそれはせいぜい数人が作っているし、彼らも既に老害に足をつっこんでいる。
ゲームもそう。あの大作ゲームやこの大作ゲームのシナリオは誰が書いているんだ? 社内の適当なやつが書いているんだよ。面白いわけがない。でもゲームは売れちゃう。結局のところ、脚本なんて添え物だから。ゲームというコンテンツは本当に素晴らしいので、少々ストーリーがクソでも感情移入させてもらえたり、楽しませてもらえたりする。良いストーリーは、あればいいけど、無くても大丈夫だ。
ヒプマイもそういうところがあるんだろうな。
歌と声優はガチプロに外注したからめちゃすばらしいです。脚本はだめ。わかるわかる。ありがち。
ハリウッドが脚本家養成の大学学部まで作って、どんなベテランも脚本家なら熾烈な競争下にいるのと対照的だ。幸い、日本にもハリウッドと同じような環境にいるクリエイターがいる。エンタメ小説家や漫画家だ。この人たちは本当にすごい才能……は恐らくハリウッドでも太秦でもどこでもあるのでともかく、合理的な訓練を積んだ人うえ、プロになってからも絶えず競争にさらされて生き残った人たちだ。だから最近の映像作品は漫画原作や小説原作の映像作品ばかり作られてヒットする。
最近は日本もようやくそういう現実に気付いてきて、脚本家を募集する賞を新設するだとか、有名な小説家や漫画家に脚本を依頼するだとか、そういうことをするようになってきた。
広い意味で調和し、繋がる必要はあります。さもないと単に、とっちらかった話になってしまいます。
けもフレ2の場合、キュルルが「みんなのことが~大好きなんだー!」と叫び、これが多分メインテーマなわけで、だとすると、「リョコウバトを絶滅させ、イルカやアシカにショーをさせ、イエイヌを人間なしには生きられなくした人間の業」はメインテーマと真っ向からぶつかるアンチテーゼなわけで、その業とどう向かい合うかは、避けて通れない話でしょう。軽く触れるだけで終わらせるのは構成的に不備があります。
けもフレ2のメインテーマは「おうち探し」だと思ってました。そうだとするとヒトの業はアンチテーゼとしては機能しないです。ただ、テーマについて、議論を受けて改めて考えなおしてみたのですが、それぞれ責任の取り方を示唆する決着にはなってたと思います。イルカ・アシカは芸のネタを与えてあげる、イエイヌは(他人ではなく)飼い主が戻ってくるのを待たせる、リョコウバトには「ひとりじゃないみんなが仲間」ということを教える。イエイヌは不憫感のある結末でしたが、あそこでキュルルちゃんが代わりの飼い主になってしまえば、視聴者は「ああ犬を捨てても誰かが拾えばいいんだ」と受け取ってしまいかねない、飼うことの責任を結果の悲しさを見せることで匂わせた、そういう意図だったのではと思います。木村監督は仕事受けたあとインタビューで「娯楽なので、ぶっちゃけ監督なんて誰でもいいんですよ」とお話したそうです。この言葉は謙遜、およびプロとしての矜持だった、道具に徹するという意志の現れだったのでしょうが、騒動で傷ついていたファンには「たつき監督への侮辱か」と受け取られてしまったようで、残念なことです。作劇のプロとしての基準がどのようなものか存じませんが、一般的なエンタメの方法論の尺度では、(見得を切った割には)十分な水準に達していなかったということでしょうか。俺としてはとっちらかっているとまでは思えなかったです。
野生解放を明言しないの目的が引っかからないようにするため。性格の自己申告の目的がわかりやすくするため、と申しました。サーバルは対ビースト戦でも野生解放を使っているので、視聴者は最終話のシーンでは引っかからないだろう、と考えたのでしょう。むしろ俺は貴方のレベルでそれを見落としたことに驚いています。すくなくとも演出の目論見は失敗したと言っていいでしょうね。
ミドリがケムリクサ自体を回復できるのに、なぜ、赤を回復してしまわないか、は、複数の葉を重ねて作られた赤を「治す」ことで、元に戻してるのかもしれません。
いただいた他の論はあまり説得力を感じませんでしたが、この解釈は的を射ていると思います。考察によって筋を通すことができる、それに耐えられる作品になっている。そういう信頼がたつき監督にはあり、木村監督には無かったのでしょう。見返しておられるとのことで詳しくは控えますが、あらゆるポイントに伏線と回収があります。りんが記憶の草を触られて居心地悪くしているシーンは流し見るとなんかエッチな雰囲気に見えてしまいますが、きちんと意味のある描写です。内面世界の外への進出、この観点で二作品の差を論評するのはいささか無理があるのではないでしょうか。俺はけもフレ2もSFアドベンチャーとして設定を考察しています。しかし先に触れてらっしゃいますが、全体的な伏線-回収のスタイルには2つの作品は確かに大きく異なっています。
「さぁとっとと野生解放するのです」… かの名言を忘れているとは。おっしゃる通りで返す言葉もないです。やれやれ、咀嚼が足りてないですね。噛めば噛むほど味が出る、これがたつき監督のけもフレ1以後の作品の凄さでした。個人的には、けもフレ2もそのスピリットを色濃く受け継いでいるように思えます。
ただケムリクサという作品は、全体を通して様々な伏線があり、矛盾や意味不明に思えた描写が「なるほど、こういうことだったのか!」と思う瞬間が何度もありました。だからこそ、矛盾と思える部分についても「もしかして、これはこうなのでは」と考えたくなります。けもフレ2は、そういう作品ではないので、
これには異を唱えておきます。けもフレ1にくらべてもケムリクサは、伏線-回収のプロセスがかなり表面に出ており、しかも草や姉妹の周りで深く・複雑に織り込まれています。流し見していると、在りし日の姉達の思い出や、草の種類など、設定開示が多すぎて雑音が多い視聴感になると思うのですが、すべてに筋を通すべく没頭してみれば、極めて大きいS/N比を持っていることが判る。他方けもフレ2では、けもフレ1の設定との整合を意識しなくてはならなくて、キャラクターもかぶらないようにしなければならない。ヘラジカとプロングホーンは性格はごくごく微妙に違っています。舞台装置の融通がケムリクサほどには効かない。遅いジャパリトラクターと海の二人のスピードの差、ホテルの位置。時代を重ねた末のキャラクター同士の関係性の変化。そういうことで破綻がないようにしなければならなかったわけです。ボスウォッチでキュルルちゃんを探すことができてしまうと、けもフレ1で海に落ちたボスをラッキービーストは探せなかったのと矛盾が出る。伏線だけでなく視聴者の印象にも配慮しなくてはならない。最終話で唐突にボートが出てくると、あれ? けもフレ1のかばんちゃん出立でバスを使ったのはなぜだよ、というショックを与える可能性があるので、うみのフレンズ回で予め出しておく。”うみのごきげん”はそのタイミングで合わせて出す。パーク内でのボスウォッチの在り方は、けもフレ1では”脳みそソコについてんのか!?”というビックリ要素でしか無かったですが、バスのハンドルディスプレイにウォッチをかざせというようなGUIがあるところからみて、ウォッチはボスの形態の一つだったと考えられます。そして引き出しに大量の異型筐体のボスウォッチ。「コレを持っていって」っと手渡す。様々な疑問に筋を通す解釈を俺は見つけることができました。見逃してしまうような設定開示を考察で結ぶことができる、これはたつき監督のお家芸だったはずですが、継いだ最初の仕事で再現できる手腕には舌を巻きます。
このようにけもフレ2では設定が矛盾しないように、しかもそれを前面に押し出さず(制作が苦労している感が出ないように)背後で処理している。考察を進めると考える上でヒントになる(あるいは制限になる)情報があちこちにあるわけです。視聴時の情報の引っかからなさが、けもフレ2の優れたポイントです。キュルルちゃんの出自も明示的には解決されませんでしたが、一話中心にためつすがめつしてよく見直すと推測の材料が仕込んであり、最終話Cパートですべてが繋がるわけです。キュルルちゃんがキュルルちゃん本人のフレンズなら、コレは擬似的に不老不死を実現していることになる。そうすると、けもフレ1の山頂の戦闘機にも理屈がつけられるような気がしませんか。よくある批判に、キュルルちゃんの正体が最終的には謎じゃないか、というものがありますがそれを言うと、わかばの正体も最終的には謎でした。俺から見ると、どちらも読み解くのが… とても楽しい。貴方ほどのレベルの視聴者にこの作品がメルヘン扱いされているのは、勿体無いことこのうえないです。”義憤”や”同調圧力”などがそうさせてるとしたら… ううむ、最初の諍いのときに制作はプライドを曲げてでも頭を下げて、互いに許し合うべきだった。残念です。
あのシーン(引用者注・けもフレ1の全員集合シーン)を、フレンズ化セルリアンで再現した、けもフレ2は本当に何をしたかったのだろう……。
牽強付会ですよ。囲まれた敵に立ち向かう描写は自ずとあのようなカットか、あるいは上空からの俯瞰のような見せ方になると思います。まさに悪意をもって粗をさがそう、好意的にすべてを伏線ととろう、そのような態度の差が、けもフレ2とケムリクサの評価を分けた一因なのでは。
「優しい世界」と呼ぶかは意見が分かれるかもしれません。ただ、ここで書いたようにキャラの基本的な優しさ、裏表のなさなど、けもフレ1とも共通してる作家性があり、だからこそ、全体として、けもフレ1ファンの人にも人気が出た、くらいは言えると思います。
それを仰るなら、けもフレ2も優しい世界になるでしょう。センちゃんアルマーさんもペパプに暴行を働いたりキュルルちゃんを誘拐したことはあったけど、基本的には裏表はなく素直で親切心が高く、イエイヌに貢献できたことを「善いことをしたね」と振り返る。ただその在り方がひたすらにストレートなので、視聴者の視点では行動が横暴に見える。けもフレ2のジャングルメンバーは互いに本気で諍いしていますが、キュルルちゃんの仲立ちもあってか最終話ではツンデレ仲良し感を醸し出しています。”キャラの基本的な優しさ”や裏表のなさを実現するのは、恐れながら申し上げますが、難しくないでしょう。人数を絞ればキャラも立たせやすいのでは。そのうえで悪役を自意識のないモンスターにしてしまえばよいわけです。その程度で「優しい世界」とみなせるならそれこそ監督なんて誰でも良くてもできるでしょう。たつき監督が立ち上げた「優しい世界」概念のスピリットは、けもフレ2にもケムリクサにも息づいていますが、しかし全く道半ばだと思います。けもフレ1でも博士はサーバルの図書館来館時に背後から頭に蹴りを加えていますし(フクロウの能力の表現としても蹴るまでは不要だった)、アニサマコラボ動画では大量のフレンズを酷使して、かばんちゃんを、りょうり要員として使役しています。視聴者を全面的にエンパワメントするというか、癒やしとしての芸術表現はここからもっと発展していくべきでしょう。監督名に自動的にくっついてくるラベルにしておくのはもったいない。
一般的エンタメ作劇論では低評価するしかない、というのは、納得できました。しかし不備があるというならそれを示していただけませんか。広義の悪意について考えたのですが「対抗心さえ悪意」のように考えると、あらゆる創作に悪意は入り込みます。問題なのは「悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらい」ことですよね。作品が問題なのか・楽しめない理由が俺たち視聴者にあるか、判別するためには議論を重ねるしかないと思うのです(追記・とはいえ、やり取りも長くなったので先は後進に託すとしましょうか?)。
20年くらい名古屋で働いてるけど、1回だけ「おじさんぽ」のロケをしてる
N水さんを見かけて、それは超絶ラッキーだったと思う。
20年で1度だけです。
某人気女性アナウンサーさんと女優さんが、普通に2人で居てびっくりした。
ちなみに、私は友人に言われるまで気づかなかった。
友達同士とかで誕生日にプレゼントをあげる時「私は〇〇にしてね」とか指定してくるヤツが苦手。何ならAmazonのアドレスをメールしてきたりする。
家族や恋人同士ならともかく、友達同士のプレゼントなんて気持ちじゃん。かさばらなきゃいいくらいに思うけど?たまたま欲しいものだったらラッキーくらいな。
なんか「自分が本来受け取るべき取り分で損をした」みたいな考え方が苦手。
それ互助会じゃん。
お土産とかでもさ、自分のもらったものが気に入らないといつまでも不満そうな顔してる。
あーあ、やだなあそういうの。
https://anond.hatelabo.jp/20080819183454
これ書いたの俺。
これまでの経歴を書く、少し補足を入れつつね。
飲食と営業のバイト > やや専門性のある派遣社員 > 専門性のある派遣社員 > 独立開業 > 取引先に就職(数年) > フリーランス (今ココ)
売上ベースでは900万を超えるようになった。経費を引くと所得で800弱ってとこかな。
生まれも育ちも貧乏だったので金の使い道があんまりない。でも貧乏になる恐怖がすごいので、しっかり稼ぐ。もちろんお金で幸福は買えないが、お金は不要な不幸をはじいてくれるお守りだ。しかも効果は抜群。中流以上の人はわかんないかもしれないけど。
なんで11年ぶりに続編を書こうかと思ったかって、少し前に、増田で都会育ちと金持ちと貧乏といろいろの世界観の話がホテントリしてたので、俺も書きたくなったことがあるから。
俺はこのパターンに当てはめると「都会生まれ、都会育ちの、貧乏人」ということになる。ニュータイプ。
都会には結構貧乏人が多い。昔から都会には貧乏人が生息してきたんだが、田舎の人は(お金だけでなくて)情報的・文化的な格差があってこういう事実をあまり知らないのかも。
貧乏と一口に言ってもいろいろ。俺の場合は月末になるとおかずがなくて米だけになる程度の貧乏。下には下がいるので貧乏系のマウンティングは勘弁な。
公営住宅に住んでいた。一人親ではなく、両親がいた。家族に障害者はいなかった。つまり、稼ぎがすこぶる悪かったってことになる。
自分の貧乏を強く意識したのは、友達がみんな自転車を持っているのに自分だけなかったときとか。小学校3年くらいの時に始めて「学習机」をもらったときのこととか。その学習机が実は、人が不要になって捨てた女性用の鏡台だったこととか。相対性剥奪ってやつか。「不足している」というのをひしひしと味わい尽くした。
友達も貧乏人が多かった。俺は別々の2グループに属していたが、全体を見て公営団地に住む奴らが7割。一人親も7割くらい。大学に行ったのが2割(東京的には少ない)。公営団地に住んでいて(高卒後の進路として)大学に行った友達はいない。俺は今、放送大学で1学期2単位ずつとる一応の大学生だけど。
自分が「持たざるもの」ということは小学校低学年くらいによく理解できた。なので自分の誕生日プレゼントに欲しいもののリクエストをしない子になってしまった。両親が何が欲しいのかと問い詰めてくれたので、たいして欲しくもない安そうなものをねだったことを覚えている。父親は時代に取り残された職人だった。需要がなく、仕事がなかった。その分野以外のスキルはゼロのまま、学歴もないまま、何もないまま、仕事を辞めて家族を養うために肉体労働を始めた。当時はそんな父親をかっこ悪く思ったが、今思うとすげーかっこいい。泣けてくる。転職先で、体力もおぼつかないまま、若造にこき使われて、ストレスをためて酒を飲み過ぎて、一発逆転を狙ってギャンブルにはまった模様。あんまり笑わないでやってほしい。人は追い詰められると一発逆転を狙うようになる。
年頃になって周囲がおしゃれに目覚め始めたときはつらかった。みんなで服を買いに行って、俺だけ買わないとか。集団でゲーセンに通うようになっても、おれだけ2~3回やるのが精一杯とか(しかも、1プレイ50円のところだぜ!)。人のプレイとデモ画面ばかり見てた。だから強くもならないし、ワンコインの持続力は短かった。資本の力を思い知らされた。
話は若干それるが、田舎の人が「都会=金持ち」の偏見を持っていて困ることがある。変なところで、嫌みを言われたり、奇妙な目の敵にされることがある。そんな奴らの方が、金銭的な意味では俺より豊かな育ち方をしているのにだぜ。これには本当にまいる。
俺は専門学校に行くために高校時代はバイトに明け暮れた。父親の借金(ギャンブルで!)が発覚したときに、俺の貯金で返済しようかと思ったけど、母親がそれを止めてくれた。貧乏だったので、逆選抜バリバリ思考で、とくにかく早く働きたかった。だけど高卒で働くよりも手に職を付けたかった。でも専門学校を出て飛び込んだ業界は旧態依然としたレッドオーシャンで封建社会だったので続かなかった。すぐに仕事を辞めてモラトリアムに走った。大学に行ってる友達が遊んでばかりで悔しかったから、俺も遊び倒すことにした。夜の繁華街でもよく働いた。いわゆる「外こもり」みたいなこともやった。いろんなとこで死にかけた。
で、そのモラトリアムの延長線上で、自分のとある才能に気がついてしまった。ほんとラッキーだった。その才能を生かして派遣の仕事を得ようとした。しかし学歴がないので前提条件に入れなかった。しかたないのでその方面の資格を取った。短期間で、一発で、そこそこのレベルの資格が取れた。ちょう頑張ったけど、今思えば才能に恵まれていた(ちなみに、当時の自分は努力体験と成功体験をセットで味わったので、「スーパー自己責任論者」になってしまった。必死だっんだろうな。時代もそうだったので勘弁して欲しい。今思えば、才能が9割というベースに努力2割を足しただけの結果だと思ってる)。
まずは大卒じゃなくても雇ってくれる職場から始めた。そこで勉強してから転職した。経験者だったので、同じ方面の専門性の高い職にありついた。自分がホワイトカラーという分類に入っている奇跡に驚いた。だから頑張ったし、面接は特にはりきった。張り切ってスキルを並べて、受かった瞬間に有休消化を使ってそのスキルを学んだ(つまり、面接時に話したスキルは若干ハッタリ)。新しい職場でも良く働いた。勢い余って結婚してその勢いで独立した。ちなみにでき婚ではない。
そのまま専門の分野で経験を積んで自分の商売を確立した。時給にはできないけど、無理やり時給にするなら5~6千円はいくはず。1日だいたい6時間強働いて、月に75~80万くらいの売上で、家事の分担をがっつりやって、下の子の保育園の送りも迎えも全部俺がやって回るようになった(あ、計算があわないから時給はもっと高いっぽい)。
今でも金にはがめつい。金にならない仕事はしない。大人の言葉遣いながら、お金のことはまっさきにはっきりと、しっかり伝えて商売をしている。
日々の生活においてお金に困らないというのは本当にありがたい。でも下の子がねだるガチャガチャだけは絶対にやらない。自分で稼いで自分でやれといつも言ってる。くそくだらない(ように見える)ファミレスの入り口とかにあるあのガチャガチャ類を見ると、ゲーセンで惨めな思いをしていた昔の自分が思い出される。やらせてやりたいという気持ちと、なんだかわからない複雑な気持ちがせめぎあって、「大きくなって自分のお金でやるんだぞ」と言ってぎゅっとだっこして強制退場。
と、一気に書いてみて読み返してみたが、母親のことを書けてなかったな。人が生きる上でお金と愛情は不可欠。どっちか一個だけ欠けるとしたらお金。愛情は欠かせない。だけど普通に言って、両方必要。絶対必要。ない人がいるなら、それを補う世の中的な仕組みが必要。こないだ結婚記念日だった両親は今も健在。ありがたい。
上司が嫌いって散々いってて、ここにもたくさん書いといて、
態度はあからさまなのに、
いじめているとしか思えないんですよね、部下である増田さんは凄く「上等で高学歴で凄い仕事出来る」のでしょうけれども。
だったらもう上司さんと食事なんて行きたくもないんでしょう?良かったんじゃないですか。
誘われたらまた毛嫌いするくせに、気難しいの極み。
凄い偉い方なんですね。
けものフレンズ2について1への「悪意」があると良く言われる。あるいは悪意ではなくとも、「1の優しさと相互認証に対して、孤独と自己肯定の物語を描こうとした(筆者要約)」(http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52306934.html)といった意見がある。
確かに、そう受け取れる描写はあるのだが、その多くは、1と2の思想基盤の違いから来てるのではないかと思うのだ。
けもフレ1のジャパリパークは、人間がいなくなって長らく経つ世界で、動物たちが気ままに暮らしている世界である。「ヒト」というのもフレンズの一種であり、対等の存在として描かれる。
一方の、けもフレ2では、人間と動物の違い、人間が動物の上に立つモチーフが強調される。拍手とご褒美を要求するイルカしかり、イエイヌしかり。ここに居心地の悪さを感じるのは当たり前の話であり、「悪意」を見いだす人も多い。
これはしかし、けもフレ2が、けもフレ1を否定しているというよりかは、アプリ版等の大本のコンセプトに近い。今からなら漫画版が一番手に入りやすいだろうか。そのコンセプトは、昔風の「動物園」であり「飼育員と動物」「飼い主とペット」の友情物語である。飼い主とペットに上下関係はあるが、お互いそれに満足しており、飼い主は責任持って、ペットの世話を世話をし、ペットは飼い主を喜ばせ、芸をする。それはそれで、一つの関係だろう。
なぜ、それが、けもフレ1で変わったか。理由はいくつか考えられる。
大きな理由は、舞台が「人間がいなくなってる世界」だからだろう。人間の世話に答えて動物が人間を好きなのは良いとして、人間がいなくなってる世界で、それでも一方的に人間を崇める動物というのは、まぁ、あまり気分のいいものではない。
もう一つ。現代的な動物園は、見世物的な展示、ショーは避け、動物になるべく野生に近い生活をさせ、ありのままの生態を見せる方向へ進んでいる。フィクション上の動物園がどういうものであっても良いと思うが、現実の動物園とコラボ、協力する作品において、旧時代的な動物園を肯定したくない、というのもあっただろう。
けもフレ1は、サファリパークだったり、行動展示だったりする現代風の動物園、アプリ版、けもフレ2は、旧来の見世物的な展示をする動物園と言った具合だろう(参考:http://kemono-friendsch.com/archives/77528)。
けもフレ2は、おそらくは、アプリ版の「飼育員と動物」関係に基づいて話を作ろうとしたのだと思う。が、けもフレ1の続編という形も取ったため、前述の矛盾点が噴き出してしまっている。アプリ版の路線を復活させるならさせるで、どうすれば良いかを練るべきであった(それが許されない環境は多々ある)。
「人間がいないのに、人間を崇める動物」は、気持ち悪い。そこを敢えて描くなら、その悲劇性や罪悪感も描くべきだが、特にそれはない。多分これは「悪意」ではなく、「深く考えていなかった」ことだろう。
同様に「人間と対等な知的生物」としてのフレンズを描いた続編で、「人間に芸を披露して喜ぶフレンズ」を出すのは、えぐい。これも「悪意」ではなく以下略。
気持ちよいお話のセオリーの一つとして、内面世界と外部のシンクロというものがある。
主人公が悩んで心が暗い時は、夜だったり、雨が降ったりして、世界も暗くなる。
主人公が悩みを克服すると、夜が明けたり、空が晴れたりして、バトルで勝利したりする。
リアリティラインが低い作品の場合、深い理由がなく、そのまま内面が世界に反映する。
魔王が復活する時は、黒雲が渦巻いて雷が鳴ったりする。悩みを克服した主人公は、勢いで超パワーアップしたりする。
現実レベルが高い作品の場合、そうはいかないので、偶然で説明できる範囲のささやかなことであったり、なんらかの理由、必然性があったりする。
主人公が悩んでる時に、雨が降ってるのは、「たまたま」「偶然」の範囲であり、悩みが吹っ切れて、主人公がバトルで勝つ時は、「悩みのせいで今まで気づかなかったけど、あいつにはこんな弱点が」という閃きがあったりする。
けもフレ2では、カタカケフウチョウ、カンザシフウチョウが、内面の声を代弁しまくる。キュルルの「思い入れ」が、絵を通したり、通さなかったりして、直接、セルリアンに反映するらしい。これらの深い理由、解説等はない。
ホテルでは絶滅動物のリョコウバトのぬいぐるみが売り切れてたりする。「たまたまリョコウバトだけ売り切れだった」なら「作中現実としては偶然」で済むが、「レッサーパンダとオオアルマジロとリョコウバトが少なく、ハブはいっぱいある」までやると偶然では説明できなくなる。が、これも理由は特に語られない。
ここからわかるのは、けもフレ2は、リアリティラインが低めの、「ふわっとしたファンタジー・童話的な世界」であるということだ。
一方、けもフレ1は、作品内論理の整合性は、SF的に取っている部分が大きかった。ラッキービーストが人の声にだけ反応する、ジャパリカフェに、太陽電池がある等、SF的なガジェットがあり、崩壊世界の日常がどう維持されてるかが目配りされている。もちろん、作中で全部の設定を説明するわけにはいかないにせよ、目につく範囲での、あからさまな矛盾は減らし、それによって、「かばんちゃんの正体」と言った謎に緊張感が残った。
けもフレ2単体で見た場合、リアリティライン低めの作品だと受け止められるのだが、リアリティラインが高めの1を見たあとに2を見ると、アラや問題が多く見えてくる。
ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的にリアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる。ここもまた「悪意」ではなく以下略。
イエイヌの報われなさっぷり、ビーストがホテルの下敷きになったことを誰も気にしてない等は、悪意として描くなら、もっと強調のさせ方、後への繋げ方があるはずなわけで、ストーリーとして処理しきれなかったと考えたほうがよさそうだ。
・かばんさんに何があったかはわからない、偉い人が作るだろうと
・かばんさんの経緯は知らないが、再会の喜びを描いた
サーバルがなぜ、記憶をなくしたっぽいのかも、かばんさんとの間に何があったのかも、監督自体知らされてないのなら、「それっぽい」シーンでお茶を濁すくらいしかできないだろう。
もちろん設定がないだけなら、他にやりようがあったかもだが、こういう状況だと設定がないまま、あーしろこーしろと言われた可能性が強い。ご愁傷様である。
自分が見た範囲では「けもフレ2」に見いだされる悪意は、1,2のコンセプトの差(およびそれに対する無策)、脚本・演出技術の未熟、現場のしがらみ、などで説明がつくものであった。