はてなキーワード: ぼんやりとは
カワンゴは日本のIT業界では数少ないビジョナリーなので本当はもっと大事にされてもいい
的外れなことも言うけど、それでも金儲けのレベルを越えて、ネット文化がどうあるべきかということまで考えて事業ができる人間はほとんどいない
4,5年前ぐらいにネット規制に関して肯定的な意見を言って、蛇蝎の如く嫌われていたけど、
実際ここ数年でアメリカやヨーロッパではGAFAのような巨大IT企業に対する独占禁止法の適応は、政策のレベルまで現実化してきた
日本のIT企業家やネットユーザの大半は、彼らの建前、ネットは自由な文化というお題目を復唱してぼんやりと規制に反対して思考停止しているだけだった
それに比べたらカワンゴが見てる景色は一段も二段も上だよ
オリンピック、全く見てない。
テレビは1年近く見てないし、ネットニュースもオリンピック関連の検索しないから結果も知らない。そもそも誰が出てるのか把握してない。
たぶん反対派なんだと思うけど始まっちゃったもんはもう途中でやめたりしないだろうこの国はと思う。
お祭りに熱量がある人をみて羨ましいなと思う。何も気力が沸かない。今何かを見ようとすることにすら体力がいる。
毎年楽しみにしていた甲子園も今年は開催されても見れないかもしれない。いつもならどこが枠取った!?って情報漁ってる頃なの、この増田書いてて気づいたくらいぼんやりしてる。
そうだ、思い出した
過ごしにくいだの外に出たいだの
海外メディアもなんか日本メディアだけうろうろしててずるいってさ
すごいよなあ、国民の半分くらいが反対してる祭りにきといて準備してくれたものに文句言うんだぜ
その気力分けて欲しい
どうすれば明日起きなくていいのかな
でも疲れたよもう
おはようございます。野良兎というものです。かつて着ぐるみでの仮装を楽しんでいた生き物です。
今日はけじめとして、二次創作が嫌いになるまでの経緯を残しておこうと思います。
僕は着ぐるみというものが好きで、それが性癖と言える程度の存在です。どういう着ぐるみか想像つかない方は「着ぐるみ 美少女」などのキーワードで検索してください。
同時に、小説家と名乗るにはおこがましい程度の物書きをさせて頂いております。
僕は以前、twitterでオリジナルキャラクター(以下A子)の着ぐるみを活動させるアカウントを運営しておりました。お面自体は某工房製で、そちらや各所で多少迷惑をかけながら運営していたことを覚えています。
そんなある日、お面を作って頂いた工房から、イベントを行うので手伝ってほしいと言われました。内容としては「A子と同じ世界観で学校が舞台のオリジナルキャラクターのお面を二つ作って売りに出すから、A子に紹介役をして欲しい」とのこと。
今思えばこの時点で突っぱねるべきだったのですが、お世話になっている方だったので僕は引き受けることにしました。ただ、その時の違和感は今でも覚えています。
twitterアカウントを見れば学生ではないとすぐ分かるはずなのですが、その時は「まあ、忙しい方なので見てないんだろうな」程度に思っていました。A子はひとまず、その学校に転入させました。
それから、ステージでの脚本を考えて欲しい、自分のパートの振り付けを考えるように等、イベントまで様々な方に迷惑をかけながらそれらをこなし、イベント終了まで駆け抜けました。
そして、例のお面(以下B子、C子)が売りに出され、無事新しいオーナーを迎えることとなりました。新しい二人のオーナーもなりきりアカウントをしたいということで始めたのですが、残念ながら諸事情で間もなく三人のアカウントの活動を停止することとなります。私自身はそれからも、同人誌か何かを作るのも面白いかもしれないと思い、”B子C子二人のオーナーにその確認を取ったり”その際の構成を練ったりしながら過ごしていました。
事件の始まりは、B子の妹と名乗るキャラクター(以下妹)の着ぐるみがタイムラインに流れてきたことでした。
曰く、B子が好き過ぎて妹を作った、名前も決めた、許可も取った、とのこと。話など聞いてなどいないし、なんなら見た目とストーリーの整合性は取れてない。
その時は、キャラクター性すら全く決めていないB子のオーナーが許可を出したのだと、僕は判断しました。
許可を取ったということはほぼ公式宣言と同義。当然、構想段階だったものはすべて白紙。「先に言ってくれれば設定をどうにかできたかもしれないのに」と思いながら、僕はB子と妹のオーナーに対して負の感情を持ったまま手を引きました。
それからしばらくして、例の工房から「またイベントをするから、A子を連れて遊びに来て欲しい」と連絡がありました。お世話になっている相手なので、お邪魔しようと思ったのですが、脳裏にB子と妹のことがよぎりました。顔も見たくない相手が来る可能性があるので行くべきではない。そう思い、僕は事情を説明し断ることにしました。工房からの返事は「原作者には当然確認を取っているものだと思って返事をした、妹のオーナーはそんなに悪いヤツではないので出来たら許してやって欲しい」とのこと。
それからしばらくして、妹のオーナーから長文の謝罪メッセージが届きました。「悪気はなかった。野良兎さんの話が好きだ。ストーリーと整合性が取れていない理由は~、本当に申し訳ない、そのうえで本当に好きなので一緒に活動させて欲しい」のような内容だったと思います。
僕は勢いに押されて謝罪を受け入れ、妹オーナーと和解してイベントにお邪魔することを工房に伝えました。
その時の返事はだいたい以下のような内容でした。
「よかったね。あと、今回のイベントで前回の世界観と繋がっているキャラ二人(以下F子G子)出すから。表立ってそういう設定は出さないからいいでしょ。そんなわけでよろしく」
キレるタイミングを逃しがちな僕は、この場で何も言い返せませんでした。
イベント当日。妹オーナーはイベントスタッフらしく、僕に挨拶と手土産と謝罪を残し、慌しく駆け回っていました。
暇だった僕がぼんやりしていると、B子のオーナーを見つけました。声をかけると彼はヘラヘラしながら、
「すいません。先に言っておけばよかったんですけどね」
と。「先に言っておけば~」は俺が言うセリフであって貴方のセリフではないですよねと思いながら、「もういいよ。次からね」とあしらいました。
その日はステージを眺めて退散。新キャラに関する情報は何もありませんでした。
後日、妹オーナーやFの演者から改めて連絡があり、新キャラに関する設定を聞きました。
F子はB子の幼い頃の知り合いで、今は機械化している。G子は大企業の偉い人の娘で、交通事故により機械化。
F子はともかく、G子の関係性雑過ぎるなぁと思いながら更に切り込むと、どうやらF子の演者もB子にぞっこんらしく。
もうこれ、メアリースーみたいな夢女子と雑に用意されたモブやんけって感想しか抱けませんでした。
メアリー・スー https://ja.wikipedia.org/wiki/Mary_Sue
こんなんを同じ話に突っ込むのかと、僕は今までやってきたことを穢されたように感じました。
更に話をよく聞けば、妹オーナーは僕の話もアカウントの投稿も読んだことない状態で「話が好き」と言っていたらしく、そもそもA子やC子を殆ど知らず思考に入れていない。以上の事やその他多くの要素から、僕は妹オーナーが「イベントを荒らされたくないが為にご機嫌取りをした」という結論に至りました。
しばらくして、僕はA子に学校を退学させ、所持している面となりきりアカウントを全て処分しました。事実上のキャラクターの抹殺です。某工房製の面を視界に入れるだけで沸騰するような憎悪を感じるようになり、それに耐えられなくなったが為の苦渋の決断でした。六年間可愛がってきたキャラクターへの愛情よりも、キャラクターを都合よく使われ滅茶苦茶にされた憎悪が勝ってしまった事実は、今でも悲しく思います。
気が付けば、僕は二次創作を煙たがるようになっていました。同様に、版権もののコスプレや着ぐるみも。
理由は簡単。都合のいいキャラクターを選んで無許可で使う行為が、僕の経験とダブって見えるからです。その行為は、あなた方が犯罪者と罵り忌み嫌う無断転載と本質は何も変わらないのでは? その行為が、僕にA子を抹殺させたのでは? と。
僕も版権キャラクターの面を所持していたので、自責の念もかなりあります。すべての面を捨てたのは、そういう側面も少なからず存在します。出来ることなら抹消したい過去です。
きっと、純粋なファン活動としてコスプレや二次創作をやっている方も沢山存在するのでしょう。しかし、残念ながらもう僕の目には殆どのものがそう映らなくなりました。自分の承認欲や性欲を満たす道具としてキャラクターが無断で使われているように見えています。最早『異常者』と呼んで差し支えないほど、僕は多くを憎悪し、心の平穏の為にtwitterでも沢山のものをブロックするようになっていました。二次創作に類するもののせいで、たくさんのコンテンツを嫌いになっていました。殆ど、自業自得なのかもしれませんが。
ここまで恨みつらみを重ねてきましたが、別に「二次創作をやめろ」という気はありません。きっと権利も何もありません。
僕が言いたいのは「時々は、自分のやっていることを振り返ってみて欲しい」ということです。
本来二次創作は、公式に見つかっていないからか、公式が見て見ぬふりをしているから存在できるコンテンツです。
言い方を変えれば「公式が引き金を引けば、二次創作者の頭はいつでも合法的に吹っ飛ぶ」ということになります。
二次創作、あるいはそれに近い自称ファン活動をしている方々は、自分が殺されるかもしれないと考えたことがありますか? 自分の行動で誰かを殺してしまうかもしれないと考えたことがありますか? これはタチの悪い冗談でも脅迫でもないと、僕は考えます。
きっと僕を大袈裟だと嘲笑する方もいらっしゃるでしょう。しかし事実、娘のように可愛がっていたキャラクターを自分の手で抹殺するまで、僕は彼らと同じ思想に追い詰められました。
貴方は、本当にファン活動をしていますか? 貴方は第三者から、ファン活動をしているように見えていますか?
僕のような異常者を再び生まない為にも、たまにはそういうことを考えてもいいと思います。誰かの為に、或いは自分の身の安全の為に。
ステレオタイプっていう話があるみたいだけど、漫画を読んだら当然そうなるよねという感想しかない。
殺人犯が出てくるあのシーンが想像であれ平行世界であれ、藤野の作った世界というのは明らか(なぜなら4コマを描かず京本を部屋から出さないという世界は藤野にしか作りようがないから)で、じゃあ藤野の作り得る「犯人」はどういう人物になるかというと、犯人と直接の接点がない以上テレビやネットなどの外部から知る情報で作られることになる。
それはニュースの記事のような記述と共に犯人が登場することからも結構分かりやすく表現されていると思うし、犯人の情報をさして知り得ない藤野の状況を考えればここでの犯人が「フィクションなどによく出てくるステレオタイプの殺人犯」となるのはごく自然でありそう描くのが誠実であろうとさえ思う。
当然藤野は犯人の顔をよく知らないので犯人の顔もぼんやりしている。
もちろん犯人側にも事情があり犯行に至った経緯があるのかもしれないが、このときの藤野はそれを知りようがなく結果としてそれらを加味した「解像度の高い犯人」は作りようがないだろう。
要するにあの犯人はステレオタイプをステレオタイプとして描いているわけだから、それに対して「ステレオタイプを描くな」というのはかなり的外れだと思う。
「こういったステレオタイプは現実とは全然違う」という議論のきっかけにするのは構わないと思うし、それによって5年後10年後にこの表現が通じない世の中になっているかもしれないが現時点での表現としては適切であろう。
ごく個人的な事だけれど、残しておきたかったのでここに書く。自分の今も心にわだかまる、あるささやかな思い出の話だ。
地元の町では毎年、みどりの日(今でいう昭和の日)にお祭りがある。
朝早くから山車(だんじり、という。これで大体出身地は絞り込めるかな)を、町内会ごとに、男たちが威勢の良い掛け声と共に担ぎあげる。だんじりは、筋骨隆々の大人の男性が数十人でようやく持ち上げられるほど重く、立派だ。
だんじりの中心は幕で覆われており、中には大きな太鼓がひとつ。次代の町内を担う小学生の男子たちが、太鼓を交代で延々と叩き続けリズムを作る。
それぞれがそれぞれのルートで出発しては町を練り歩き、八幡の神社に昼前くらいに集まる。
それから神社で何やら神事らしき事をおこなったのち、昼過ぎくらい出発しては、どの町内会のだんじりも、夕日がさすくらいまでに再び担ぎ出して帰る。
さて、僕の話だ。
僕ら一家は町内会①に、祖父母が少し遠い町内会②に暮していた。
両親は、仕事から帰ってくるまでの間の僕の世話面倒を祖父母に任せていたので、
保育園の迎えは祖母だったし、放課後は祖父母の家…つまり町内会②で過ごしていた。
両親は仕事が終わると迎えに来てくれ、夜は町内会①で暮らす。そんな日々をずっと送ってきた。
友だちも、まあそれなりにいた。たいていは子どもの自由時間である放課後に過ごす町内会②での繋がりで。
なにせ、僕は祭りの日にだんじりに一度も乗ることができなかったからだ。
町内会①も②にも僕が乗ることはなかった。
祭りが近づくと町内会の子らが太鼓の練習に当たり前のように行く中、
とても寂しく切ない気持ちを抱えて、1人で遊んでいたように思う。
覚えてないが、乗りたくないと言ったのか。親が町内会との折り合いが悪かったのか、はたまた本当に地域の慣習上疎外されるべき存在だったのか(なんらかの伝統的な基準を満たさなかったのか、次男だったからなのか)、分からない。
ただ当時の僕は、「自分が町内会①と②のどっちつかずだから、どっちにも認めてもらえないのだ」と思っていた。
両親も、まともに祭りに参加していなかった。住んでいる町内会①の祭りには、ろくに出ていなかったように思う。
一方で、祖父はみんなが担ぐだんじりの上に乗るという栄誉(と思われる)にあずかった事もあるくらい、祭りには毎年参加していた。その写真が、額縁に今も飾られている。
僕はそれを見ながら、誇らしい気持ちと共に、寂しく切ない気持ちになる。
一度だけ、祭りの日に友だちについて行って、違う町内会の休憩しているだんじりの太鼓をこっそり叩いた事がある。どうしても叩いてみたかったんだ。
みんなは練習しているから、カッコよく慣れた手つきで叩くし、どこでどんな風に叩いたら良いかも分かっているなか、僕だけがみっともなく不恰好な太鼓を叩いている。
その居心地の悪さは今でも覚えている。
自分の町内会でもない太鼓で、練習してもない腕で、太鼓を叩いているグロテスクさへの嫌悪感と
自分が欲しかったのは太鼓を叩く事ではなく、当たり前のように太鼓を叩くことを求められ、それを、当たり前に思う帰属意識だったのだとわかった失望。
幼かったので言葉にはできなかったけれど、「これは違うんだ」と、だんじりから降りてからジリジリと、違和感を感じていた。
……
その後、ありがたい事にお勉強ができた僕は、東京の困難な大学へ合格し、就職。
10年ちかくキャリアを積んで、いま長年の夢を叶え、働きたかった会社で働いている。
東京の暮らしは心地よかった、だって、ここでは本当に他所者なんだから。
名実ともに故郷であるはずのふるさとに、疎外感を感じながら居ることの方がつらいのだ。
………
こうして僕は、ついぞ大人になる過程の中で故郷という居場所を得ることはなかった。
いや、地元は好きだよ?でも僕の帰る場所じゃない。そんな思いが根強くある。
でもぼんやり思う…もし僕があの頃、本当の意味で太鼓を叩いていたなら、人生は変わっていただろうか?
いや、きっと何も変わらないのだろうけど。
でも老後の暮らしの選択肢に故郷がないのは、きっとこのせいだぜ。
おわり。
ただ1人、こんな淋しさを抱えて生きている僕という人間がいる、と自分を悲劇的に酔いながら書いただけの話だ。
何の薬にもならないだろう。
誰か知らないけど、読んでくれてありがとう。
何かショックなことがあったわけではないけど、5月くらいからずっとぼんやり「死にたいな」と考えている。大切な人を亡くしたとか炎上して傷ついたとか何もそういうことは無く、ただぼんやりとこの先生きてても楽しいことなんて無いだろうな、じゃあ死にたいなと思ってる。これって希死念慮って言うんだな。病院でも行けば死にたくなくなるのか?知らないカウンセラーに「死んでは駄目です」って言われるだけで本当に「よし、死ぬのはやめよう!」ってなるの?
高校生以下はそろそろ夏休みの時期ですね。大学生は来月くらいかな。
例年と違って休みになっても大手振って外で遊べないし皆で集まれないし、素直に喜べないだろうなあとぼんやり思います。
ところで僕は学生時代、大人たちに「いま夏休み?学生はいいよな~!社会人に夏休みなんてねえからよ~」みたいに言われるのが嫌いでした。
なぜって、余程のことが無い限り、どのおっさんにもおばさんにも等しく学生時代の夏休みはあったと思うからです。(なかったとしたらそれはごめんなさい。)
自分も甘受してきたものなのに、なんで通り過ぎて何十年も経ってから勝手に上から羨んでくるんだろう。
もちろん時代の流れで土曜日半ドンだったりそうじゃなかったり、祝日の数自体が少なかったり、そういう差異はあるだろうけど大筋の休みとしては大差ないはずです
「学生に戻りてえよ~」、分かります。じゃあ課題もやってくれますか?毎日10kmチャリ漕いで通学してくれますか?というと急に黙るおっさん、休みとか勤労の義務がないとかそういう旨い部分しか見てないのを子どもに見透かされて恥ずかしくないのかな。
いけねえ、話が逸れちまった。
とにかく僕は大人たちが都合の良い部分だけ拾って大人はガキと違って大変なんだマウントをとってくるのがめちゃくちゃに嫌いだったので(まだ大人になったことないガキにマウントとって楽しいか?)(アンタも元々そのガキだっただろ)自分はそうならないようにしようと心に決めて社会人になりました。
社会人になってみると、さすがに「気楽でいいよな~」と言われることはなくなりました。が、代わりに別の部分で変な自虐?風マウントをとられるようになります。
たとえば今日、7月22日。僕の勤務先は基本カレンダー通りの祝日やすみになるので今日も明日もお休みです。世間一般でどっちが多いのかはわかりませんが、今日明日がお仕事の会社もたくさんあるでしょう。
他の職種の友人たちに今日明日休みだということを伝えると、もれなく羨ましがられます。「休みがいっぱいあっていいな~」なんていう見当違いのことを言ってくる人もいます。年間休日お前のとこと同じだけどな。
職種は自分で選べます。(これは学生より選べない人が多いかもしれないので選べない人はごめんなさい)
人が休んでる時に働いて、人が働いてる時に休みたかったらその職種を選べばいい。人が休んでる時に一緒に休みたい人はその職種を選べばいい。
そんな取捨選択すらしてないくせに勝手に人の芝生の青いところだけ見るなんて卑屈なひとたちだなあと常々思います。
あとこれを読んで「ホワイトはいいよな。俺の会社なんて~」みたいなブラック勤めマウントをする人がいるのか楽しみにしています。
朝起きたら水分が足りなくて1L以上水を飲んで塩飴をなめたのに、まだ水分が不足していたらしく、電車の中で頭痛と吐き気がした。さすがにおかしいと思ったので最寄り駅で下りて駅員さんに救急車を呼んでもらったが、車中で嘔吐。診察後、少し休んでから退院して無事帰宅した。
久し振りに後輩とオンラインで雑談していたが、妙に眠気を感じたので早めに切り上げて10時ごろに就寝。冷房は弱めにして扇風機はつけていた。比較的すぐに寝入ってしまった。
猛烈なのどの渇きと共に目を覚ます。すぐさま枕の脇に置いてあったペットボトルの水を飲んだがそれでも足りず、もう1本分を続けて空けた。朝食を普通に食べ、念のために塩飴をなめて外出。相変わらずのどが渇いていたので鞄に水を補給したペットボトルを忍ばせた。
ホームで電車を待っていると軽い頭痛がする。明らかに脱水していると思い、さらに塩飴と水を飲む。車内は冷房が効いているので少しは楽になるだろうと踏んだが、電車の中で本を読んでも内容が頭に入らない。10分から15分で急に息苦しさが悪化し、マスクをつけているのが非常につらくなる。水もほぼ飲み干したが吐き気までしてくる。これはただごとではないと思い、最寄り駅で下車した。
外の熱気で具合が悪くなる。ひとまず、キオスクでスポーツドリンクをもう1本買って飲み干す。ついで経口補水液はないかと外のコンビニに当たるが無いとのこと(後で調べたら薬局併設の所でないと売っていないらしい)。飲食できるコーナーがあったので席を借りてスポーツドリンクを飲む。そこで買ったものではないので申し訳ないと思いつつ過ごす。しかし、吐き気はまったく収まらない。スマホで検索すると、熱中症を防止するサイトやスポーツドリンクの会社のページに、吐き気は熱中症がだいぶ進んでいる状態なので受診が必要と書いてある。職場に遅れると連絡し、家族には病院に向かうと伝えた。
駅員さんに事情を話し、救急車を呼んでもらう。おおよそ5分から10分で到着するとのこと。みんなのトイレのベッドで横になることをすすめられるが、間が悪く空いていない。代わりに車いすに乗せてもらい、氷嚢を借りた。駅員さんの目の届くとこにいたため、少し暑かった。
救急車が来ると車いすから1、2の3でストレッチャーに運ばれる。ストレッチャーで運ばれるとこういう景色なのか、とぼんやり考える。ここで駅員さんに氷嚢を返す。よく考えればそのまま持っていればよかった。
子どもの頃に一度だけ救急車で運ばれたが、その時に比べると車内は狭く感じられた。
搬送されながら、向かう先の病院名を説明され、氏名や住所、服用している薬などを質問される。それから、家族に電話するのでスマホでかけてほしいとのこと。通話して渡すと、緊急隊員さんが病院名と住所を伝えた。車内は冷房が効いていたがやはり暑さを感じた。氷嚢はもらいっぱなしにするべきであった。
ところで、意識ははっきりしていたので会話に支障はなかったが、それを文字で書いてくれと頼まれると途端に具合が悪くなった。仕方がないので口頭で説明する。救急車に入ったときに、腹の上に洗面器を乗せてくれたのだが、そこに二三度嘔吐した。病院までの道がでこぼこしていて酔ったせいもあるかもしれない。本当に嘔吐するとオロオロとうがいのような音がするのだなと妙な事に感心した。そのまま吐瀉物を抱えたまま病院の緊急用入り口に入っていった。洗面器が吐瀉物で8割ほど一杯になったので、運ばれる中たぽたぽしてこぼれやしないかと気が気でなかったが、意外と段差が少ないので平気だった。
吐瀉物が持ち去られてから、病院でも改めて氏名を確認され、腕に指名の書かれたシールを貼られる。嘔吐して楽になったせいだろう、もう自分で症状を説明できる程度に回復していた。内科の検診のように胸や腹に聴診器を当てられ、舌の裏を見せてくれとか、上下左右に動くお医者さんの指先を目で追ってとか頼まれたりした。これは脳梗塞など脳や神経の病気ではないことを確認するためらしい。診断によれば、入院が必要な病気ではないらしく、熱中症・立ちっぱなしによる疲れ・混雑による体調不良などの複合要因らしい。
ベッドに運ばれ、横になって家族の到着を待つ。席を立つときはナースコールを押す必要がある。一度排便のために立ち上がったが、ここでも個室に鍵を掛けないように頼まれた。また、ベッドに戻るときにもトイレの呼び出しボタンを押すようにと指示された。
点滴はされなかった。体温も高くなかったので、その必要がないと判断されたのだろう。
寝ていると家族が来て、再度お医者さんからの説明があった。それから、もう少し休んだら退院してもよいと言われた。意外と早かった。最近は具合がよくなったら早めに退院するのは本当らしい。
それから、ベッドから降りて廊下のソファで休んでいる間、家族が病院の診断書を作ってくれた。保険証を常に携帯していてよかった。
ところで、妹が持ってくるべき荷物を手早くまとめてくれたらしく、経口補水液だけでなく着替えまで準備してくれていた。おかげでゆったりした服で帰宅することができた。これが非常に楽だった。妹は冷静沈着である。それから、帰宅したら父が大量のスポーツドリンクを準備して待ってくれていた。
その後、一日中横になっていた。夕方には読みかけていた本を読み終えるほどには回復した。
大したことなかったのに救急車を呼んでしまってよかったのだろうか、という反省もあるのだが、呼ばかなったら悪化していた可能性もある。
元々私は片頭痛持ちであり、半年に一度くらい猛烈な吐き気を伴う強さの頭痛に悩まされる。今回の熱中症はその時の症状によく似ていて、ほとんど区別できなかった。もしかしたら、片頭痛と熱中症に同時に悩まされたのかもしれない。
普段から定期的に運動しているのにもかかわらず、比較的熱中症にかかりやすい体質のようで、この時期少し外出しただけで頻繁に頭痛に襲われる。単純に微妙な体調の変化に気づきやすく、敏感なだけかもしれないが、今後も直射日光は避けたい。調べてみると、暑さに慣れるには運動だけでなく湯船につかることも大切らしい。私はシャワーで済ませがちなので、案外原因はそこかもしれない。
また、お医者さん・看護師さんの動きには無駄が一切なかったのも心強く感じた。
ところで、母は危うく別の病院に向かいそうになっていたらしい。救急隊員さんが住所もきちんと説明してくれたおかげで、行き違いになることが防げた。確かに○○総合病院、〇〇労働病院など、似た名前は多い。
妹から聞いたのだが、最近のスマホはログインしなくても個人情報や緊急連絡先を表示できる機能があるそうだ。万一私が倒れてもこれで家族に連絡できるそうで、さっそく登録した。アンドロイドの場合は以下の方法で設定できる。
https://support.google.com/android/answer/9319337?hl=ja
以上。
最近、マイクラに閉じこもってたからよく分かんなかったけど、なんか凄いね。
小山田圭吾のやったことについてはどうせ胸糞悪くなるから読んでなくて、ぼんやりとしか知らない。
そんな奴がパブリックなところでのうのうと活動していて、しかも相当強者の立場にいることについてへの抗議行動というのは理解できる。
しかし、なんかみんなの言葉が強いし、それに賛同するスターやいいねが多いのがなんか怖えのよ。
本人が目の前にいたら石投げつけるんじゃないかってくらい。
なんだろ、そういうのに結びつけちゃいけないんだろうけど、反原発のとき、発信する人たちの語気が強すぎてついていけなくなったのを思い出したわ。
もしくは都会にだけある文化なのかな、くらいに思っていた
就職して、社会に出るようになって、数年たって、今、ちょうど取引先の新卒の子が部署で村八分にされてる場面に直面して、ようやく実感した
よその会社だから内情を知らんし、もしかすると新卒の子が大層ヤベエ感じの子なのかもしれんし、村八分が伝統の文化として社訓にでもなっているのかもしれんし、そもそも村八分にされてるってのも勘違いかもしれないし、余所者の俺が口出すことではないよな、と思いつつ、これがいじめの傍観者というやつになるのか、とぼんやり考えていた
彼らは「ぼんやりとした不安」が原因で「神経症的に」爆発する人といえる。
「不安」や「怒り」になる事案を(積極的に!)探し求め、「不安」や「怒り」状態になることで
(かえって!)「安心」している。
被疑者は他人と関わりがないことで、思考の「負のフィードバックループ」に陥った。
自分の作品をパクられたかもしれない→パクられたに違いない→パクられた!許さない!
「ンなわけねーだろ」で一蹴されて終わり、だったかもしれない。
「統合失調症」ではなく、ネトウヨ、「ツイフェミ」、京アニ事件に近い、
いやー、「竜とそばかすの姫」、実質的な「ラブライブ!スーパースター!!」の第一話でしたね! 作品としての出来はラブライブの100分の1にも満たないですけどね(素人の雑感です)!
以下感想(ネタバレあり、パンフレットは売り切れていたため未読です)。
なんなんですかね、あの序盤は。三幕構成でいうなら、第一幕が終わるまでの部分がとにかくひどい。ひどすぎる。監督氏も僕みたいな正社員経験のない四十手前の人間にいわれたくないでしょうが、あえて申しましょう。冒頭開始からの35分は10分程度に短縮できます。
劇中で主人公の幼少期と、母親の死のシーン、幸せな生活の終わりが描かれますが、プロットにおいてどうでもいいし、とくに母親の死のシーンなんて、死ぬほどどうでもいい。心底どうでもいい。
プロットに関係ない部分は省きましょう。劇中でも描かれましたが、母親がすでに死んでいることを伝えたいのなら、画面に遺影を写すだけでかまわないのです。「見知らぬ子どもを助けるために、川に入って死んだ」という事実は、シナリオの進行になんら影響をもたらしませんから、シーンごと削除すべきでした。
序盤が冗長すぎるせいで、この映画の主題がぼんやりとしかわかりません。インサイティング・インシデント(物語のつかみとなる事件)をおこすことに失敗しているため、観客が映画に集中することができないのです。
この映画はなにを描きたかったのでしょうか? 仮想空間での冒険を描きたいのか、仮想空間と現実世界とのギャップを描きたいのか、母親の死の克服、学校での人間関係、恋愛にまつわるエピソードを描きたいのか、主題がまるでわかりません。もし全てを描きたいというのであれば、つまらないことはやめろといいたい。
映画は積み重ねではなく、省略の美です(数えるくらいしか映画観たことないです)(素人の妄言です)。
劇中で描かれる仮想空間は、一言でいうならよくわかりません。なんのためにつくられたのか、それを使ってなにができるのか、いまいちよくわからないまま映画は終わります。しかし限られた上映時間のなかで、わからないことをわからないまま置いておくという決断を下したことは評価できます。
問題は仮想空間の描写が古すぎるということです。監督氏のネット認識は、「電車男」あたりの時代から更新されていないのではないでしょうか。
劇中で登場した仮想空間は、よくわからないスキャンシステムにより、現実の姿を反映したアバターを生成し、乗り込むというかたちになります。仮想空間には50億アカウント以上の登録があり、一種のインフラともいえる規模です。現実世界の姿のまま活躍している人間が一人も確認できないのはおかしいとも思いますが、劇中の人間にはそんな発想はないのでしょう。
しかし、どうも仮想空間の描き方というか、劇中で描かれたネット空間の概念自体が古いとしか感じられません。ネットの世界なんて、しょせんは現実の延長線上でしかありません。監督氏はネットと現実は切り離された世界だと思っていらしゃるのでしょうか。
仮想空間で主人公は竜(とある登場人物のアバター)と知り合いましたよ→竜が困ってますよ→でもアバター同士でしか面識がありませんよ→現実での顔を知らないため、オンラインで顔出しチャットしても、自分のことをわかってくれませんよ→だから全世界に素顔を晒すって、論理としては破綻していませんが、その発想の爺むささに腰を抜かしました。
劇中にはおもに二人の悪役が登場します。仮想空間の自警団長(間違った表現だが、そうとしか言いようがない)と、竜の中の人のパパです。
両者は悪役としてまさに力不足です。びっくりするほどうすっぺらく、たいした思想もないのに悪逆非道をつくすさまは、令和の時代に出てくる登場人物とは思えません。
まずは自警団長を紹介しましょう。彼は事実上の無法状態である仮想空間において、企業とスポンサー契約をかわし、自分の正義において悪を裁く役割を担っています。「TIGER & BUNNY」に出てくるヒーロー的な存在といえばわかりやすいでしょうか。
彼の必殺技は「ネットに素顔を晒しちゃうぞビーム」です。なんなんすかね。読者の皆さんはなんだと思います? 警察的な役割を果たすのであれば、わざわざ仮想空間でバトルするのではなく、現実側でアプローチする(主人公サイドはそうしていた)とかしたほうがいいと思いますが、これ以上紙幅を割くのはやめておきましょう……。
もうひとりの悪役である、竜の中の人のパパ氏を紹介しましょう。彼は自分の子どもに暴力を振るう最低パパです。しかし、劇中では主人公に立ちはだかれ、主人公の「にらみつける」に気圧され、敗走することになります。
この描写はおかしいとしか思えません。彼は日常的な暴力に慣れ親しんでいますが、主人公ににらまれただけで、腕を振りかぶったままの状態でおびえ、尻もちをついて、家に逃げかえってしまう。いったい彼はなにをしたかったのでしょうか?
劇中ではあからさまな暴力描写はありませんが、パパ氏の爪が主人公の頬に引っかかった結果、劇中で血は流れます。暴力シーンを写せないのなら、暗喩で表現すればいいとも思います。パパ氏が子どもに暴力を振るう暗喩は見事でした。主人公にちょっと流血させただけで逃げかえるという彼のふるまいは、キャラクターとして説得力がないとしか思えません。
まずはじめに、筆者は高知県民エアプということをお伝えします。都会人に差別されて当然のいなかっぺ(ヘイトスピーチ)(不適切表現)として生をうけましたが、生涯を田舎で過ごしてきたわけでもありません。
しかし、そんな僕にもわかることもあります(適当に書いてるだけなので、後述の内容は多分間違ってます)。四国という保守的な土壌において、高校生の自由活動を許している、いきいきとした生徒が多い、主人公が遠距離から汽車通学していることから、主人公の通学先は県内有数の進学校だと推測されます。主人公のパパがなにかとカツオのたたきを話題に出すので、おそらく彼は県外どころか四国外からやってきた移民でしょう。高知県民はアホのように酒を飲みますが、飲酒描写はこの映画になくていいと思います。返杯という未開の蛮族の汚い習慣が出てこなくて、本当によかったと思います。
しかし、免許を持っている大人がいるなかで、車を使わずに河川敷を徒歩でぞろぞろと移動する高知県民なんて、絶対にありえません。この映画にたずさわるスタッフにひとりもいなかっぺがいないとは思えませんが、どうして誰も止めなかったのでしょうか?
いなかっぺは都会人以上に地球環境に優しくない存在です。高知県民に関わらず、いなかっぺはちょっとした距離を移動する際でも、必ず車を使います。いなかっぺの最大歩行距離は、駐車場からイオンモールの入り口ぐらいまででしょう。『東海道中膝栗毛』の時代でもあるまいし、大人の集団が徒歩で移動する? ありえません。
もっとも、劇中の世界は現実世界とは違います。劇中では誰も高知弁を操りませんし、そもそも劇中で描かれた仮想空間は現実には存在しません。ガソリンがリッターあたり1万円を突破している世界かもしれませんし、政府によって運転自体が規制された世界かもしれません。しかし、それなら登場人物が車を運転するという描写をしてほしくはありませんでした。
ああ夏だね、河川敷は涼しいや、気持ちいいからみんなで歩こう的な描写を平気で行えるのは、アーバンの空気を吸って育った人間だけでしょう。主人公一派は全員都会からの移住者かもしれませんが、違和感をぬぐうことはできません。
とにかくつまらない映画でした。脚本の出来がよろしくなく、なにをしたかったのかがわかりません。
前から思っていたのですが、監督氏は宮崎駿監督になりたいのでしょうか。監督氏はアニメーターとして例外にあたる才能をお持ちだとは思いますが、宮崎駿監督になることはできないでしょう。宮崎駿監督は例外中の例外にあたるお方だと思います。宮崎監督の御業は誰も真似できない。だからこそ、宮崎監督は天才と呼ばれるのでしょう。
監督氏には才はありますが、脚本を自分で手がけるのは、本当にやめていただきたい。監督氏は身の程を知り、自分に不得意なことをあきらめて、ご自分の頭の中にあるアイディアをまとめてくれるライターを雇うべきだと思います。
昼間に点灯している行灯のように、うすぼんやりしている状態。特に、そのようにぼんやりして役に立たない人を形容していう表現。
https://www.weblio.jp/content/%E6%98%BC%E8%A1%8C%E7%87%88
というふうに定義されているが、架空の昼行燈キャラは、普段は役に立たないけどいざというときは実力を発揮するのがお決まりとなっている。
(余談だが昼行燈キャラの代表格ヤン・ウェンリーは開始時点で准将だけどガチの無能なら准将にすらなれんだろう)
でも本当の意味で昼行燈なキャラって見たことない気がする。いても代わり映えしないし、本当の無能は昼行燈って呼ばれずに素直に無能って言われるだろうし。
母親が所謂「萌え」系アニメに強い嫌悪感を抱いていることはうすぼんやりと気付いていたが、自分が学生の頃にそれが確信に変わった。
ある冬の事、NHKのニュースで鷲宮神社が取り上げられたことがあった。若者に人気のアニメ「らき☆すた」の舞台の一つとして、大勢のファンが参拝しているという話だった。
オタクの聖地巡礼スポットだっただけに、境内に飾られていた絵馬はイラスト付きで推し(当時の言葉で言えば嫁)への愛を訴えるものが多くあった。
その映像が流れたのはほんの数秒だった。しかしたったそれだけで、お茶の間が凍り付いた。冷気の発信源はまぎれもなく母だった。
その時に、母にも地雷があることを知った。
幼いころからジブリやディズニーを見せられて育ち、食事中のアニメ鑑賞なども割と寛容だった母だっただけに、あの凍り付きっぷりは印象的だった。
その数年後も、初音ミクがライブを成功したというニュースを観て大量の冷気を放っていた。ミクちゃんのライブ成功の報道に内心喜んでいた私には結構ショックだった。
冷気は重い圧の様にのしかかって、初音ミクの話題を出すことを避けさせた。
そのせいか、十数年の月日が経ち、一人暮らしをするようになった今になってもアニメを観ていると母に品定めをされているような気持ちになってしまう。
このアニメは母に受け入れられるアニメなのか、そうでないのか。そんな目でアニメを観てしまう時がある。
今期もメイドラゴンSの作画のクオリティや演出などにテンション爆上がりしながらも、脳内の母に散々言い訳をしている自分がいた。
いや、違うんだお母さん。イルルの体型は精神的な幼さに反してドラゴンとしての実力を十分に持っているというアンバランスさを表した姿であって決して原作者のフェチだからという理由だけでは語れないものがあって……
そんなことを頭で反芻していると、アニメを一話観ただけでもドッと疲れてしまう。
ここまで散々脳内の母に言い訳をしてきた私でも、母に理解を求めているわけではない。理解よりも共生を望んでいたんだと思う。
仮に母の嗜好にそぐわない作品が紹介されても、それが好きな人達もいるよね、と話せる間柄でありたかった。
母の冷気のように噴射する圧は私にはとても居心地が悪く、何よりそれが無性に寂しかった。圧で沈黙させるのではなく、対話で互いの落としどころを見つけたかった。
メイドラSの終盤のシーンを思い返しながら、何故だかそんなことを思った。
母親が所謂「萌え」系アニメに強い嫌悪感を抱いていることはうすぼんやりと気付いていたが、自分が学生の頃にそれが確信に変わった。
ある冬の事、NHKのニュースで鷲宮神社が取り上げられたことがあった。若者に人気のアニメ「らき☆すた」の舞台の一つとして、大勢のファンが参拝しているという話だった。
オタクの聖地巡礼スポットだっただけに、境内に飾られていた絵馬はイラスト付きで推し(当時の言葉で言えば嫁)への愛を訴えるものが多くあった。
その映像が流れたのはほんの数秒だった。しかしたったそれだけで、お茶の間が凍り付いた。冷気の発信源はまぎれもなく母だった。
その時に、母にも地雷があることを知った。
幼いころからジブリやディズニーを見せられて育ち、食事中のアニメ鑑賞なども割と寛容だった母だっただけに、あの凍り付きっぷりは印象的だった。
その数年後も、初音ミクがライブを成功したというニュースを観て大量の冷気を放っていた。ミクちゃんのライブ成功の報道に内心喜んでいた私には結構ショックだった。
冷気は重い圧の様にのしかかって、初音ミクの話題を出すことを避けさせた。
そのせいか、十数年の月日が経ち、一人暮らしをするようになった今になってもアニメを観ていると母に品定めをされているような気持ちになってしまう。
このアニメは母に受け入れられるアニメなのか、そうでないのか。そんな目でアニメを観てしまう時がある。
今期もメイドラゴンSの作画のクオリティや演出などにテンション爆上がりしながらも、脳内の母に散々言い訳をしている自分がいた。
いや、違うんだお母さん。イルルの体型は精神的な幼さに反してドラゴンとしての実力を十分に持っているというアンバランスさを表した姿であって決して原作者のフェチだからという理由だけでは語れないものがあって……
そんなことを頭で反芻していると、アニメを一話観ただけでもドッと疲れてしまう。
ここまで散々脳内の母に言い訳をしてきた私でも、母に理解を求めているわけではない。理解よりも共生を望んでいたんだと思う。
仮に母の嗜好にそぐわない作品が紹介されても、それが好きな人達もいるよね、と話せる間柄でありたかった。
母の冷気のように噴射する圧は私にはとても居心地が悪く、何よりそれが無性に寂しかった。圧で沈黙させるのではなく、対話で互いの落としどころを見つけたかった。
メイドラSの終盤のシーンを思い返しながら、何故だかそんなことを思った。
ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨雲レーダーを見ていた。
広い門の下には、この男のほか誰もいない。ただ所々ペンキの剥げた、大きな円柱にドローンが一機突き刺さっている。
羅生門が朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみを待つSIerやプログラマーがもう二三人はありそうなものである。
それが、この男のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二三年、京都には地震とかDDoS攻撃とかEMPとかドローン攻撃とか云う災がつづいて起こった。
そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、サーバーやEVを打ち砕いて、その貴金属が使われたり充電池がそのままだったりする金属の塊を建築資材として売っていたと云う事である。
洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその荒れ果てたのをよい事にして、
営業職が棲む、意地悪な顧客が棲む。とうとうしまいには、引き取り手のないSEを、この門へ持って来て棄てて行くと云う習慣さえ出来た。
そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪がってこの門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
その代わりまたドローンがどこからか、たくさん集まって来た。昼間見ると、そのドローンが何機となく輪を描いて、高い電波塔のまわりを
ブンブン言いながら飛びまわっている。ことに門の上の空が、夕焼けであかくなる時には、それがゴマをまいたようにハッキリ見えた。
ドローンはもちろん、門の上にいるSEをせっつきに来るのである。_______もっとも今日はあまり仕事がないのか一機も見えない。
ただ、所々崩れかかった、そうしてその崩れ目に長い草のはえた石段の上に、墜落したドローンの残骸が落ちているのが見える。
下人は七段ある石段の一番上の段に、何日も洗っていないスーツの尻を据えて、右の頬に出来た大きな人面瘡を気にしながら、ぼんやり雨のふるのを眺めていた。
作者はさっき「下人が雨雲レーダーを見ていた」と書いた。しかし、下人は雨雲がどうでも格別どうしようと云う事はない。ふだんなら、
もちろん会社へ帰る可き筈である。ところがその会社からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通り
ならず衰微していた。今この下人が永年、使われていた会社から暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。
だから「下人が雨雲レーダーを見ていた」と云うよりも「雨に降りこめられた下人が、行き所がなくて途方にくれていた」と云うほうが適当である。その上、今日の空模様も少なからず、この平安朝の下人のSentimentalismに影響した。
申の刻下がり(16時以後)からふり出した雨は、いまだに上がるけしきがない。そこで下人は、何をおいても差当り明日の暮らしをどうにかしようとして____云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えを辿りながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を聞くともなく聞いていたのである。
雨は、羅生門をつつんで、遠くからざあっと云う音をあつめて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると門の屋根が、斜に突き出した甍の先に、重たくうす暗い雲を支えている。
どうにもならない事をどうにかするためには、手段を選んでいる遑(いとま)はない。選んでいれば、高架の下か道端のベンチの上で、餓死するばかりである。選ばないとすれば____下人の考えは、何度も同じ道を低徊(ていかい)した挙げ句に、やっとこの局所へ逢着(ほうちゃく)した。しかしこの「すれば」は、いつまで経っても結局「すれば」であった。下人は手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつけるために、当然、その後に来る可き「転売屋になるほかに仕方がない」と云う事を、積極的に肯定するだけの勇気が出ずにいたのである。
下人は、大きなくしゃみをして、それから大儀そうに立ち上がった。夕冷えのする京都は、もうカイロが欲しいほどの寒さである。風は門の柱という柱の間を、夕闇と共に遠慮なく吹き抜ける。円柱に突き刺さっていたドローンも、もうどこかへ吹き飛ばされてしまった。
下人は頸(くび)を縮めながら、カッターシャツに重ねたヨレヨレのジャケットの肩を高くして門のまわりを見まわした。雨風の患(うれえ)のない、人目にかかる惧(おそれ)のない、一晩楽にねられそうな所があれば、そこでともかくも夜を明かそうと思ったからである。
すると、幸い門の上の楼へ上る、幅の狭い、点検用の梯子が眼についた。上なら、人がいたにしてもどうせ疲れ果てて寝ているSEばかりである。下人はそこで、腰にさげた特殊警棒が伸びないように気をつけながら、便所サンダルをはいた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
それから、何分かの後である。羅生門の楼の上へ出る、幅の狭い梯子の中段に、一人の男が猫のように身を縮めて、息を殺しながら上の様子を窺っていた。楼の上からさす白色光が、かすかに、その男の右の頬をぬらしている。短い髭の中に、赤く膿を持った人面瘡のある頬である。下人は初めから、この上にいる者は寝ているSEとばかり高を括っていた。それが、梯子を二三段上って見ると、上では誰かがスマホライトをとぼして、しかもその灯りをそこここと動かしているらしい。これはその濁った、白い光が隅々に蜘蛛の巣をかけた天井裏に揺れながら映ったので、すぐにそれと知れたのである。この雨の夜に、この羅生門の上で灯をともしているからは、どうせただの者ではない。
下人はヤモリのように足音をぬすんで、やっと急な梯子を一番上の段まで這うようにして上りつめた。そうして体をできるだけ平らにしながら、頸をできるだけ前へ出して、恐る恐る楼の中を覗いて見た。
見ると楼の内には、噂に聞いていた通り何人かのSEが無造作に寝ているが、ライトの光の及ぶ範囲が思ったより狭いので、数は幾つともわからない。ただ、おぼろげながら知れるのは、その中に手ぶらの者とPCを持っている者があるという事である。もちろん、中には女も男もまじっているらしい。そうして、そのSEは皆、それがかつて労働意欲に燃えていた人間だと云う事実さえ疑われるほど、土をこねて造った人形のように、口を開けたり手を延ばしたりして、死んだように床にころがっていた。しかも、肩とか胸とかの高くなっている部分に、ぼんやりした光をうけて、低くなっている部分の影を一層暗くしながら、永久に唖(おし)の如く黙っていた。
下人は、それらのSEの様子に思わず眼を覆った。しかしその手は、次の瞬間にはもう眼を覆うことを忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとく男の視界を奪ってしまったからだ。
下人の眼は、その時はじめてそのSEの中にうずくまっている人間を見た。桧皮色のジャージを着た、背の低い、痩せた、白髪頭の猿のような老婆である。その老婆は、右の手にライトを灯したスマホを持って、そのSEの一人のPCを覗き込むように眺めていた。腕に抱いている所を見ると、多分ノートパソコンであろう。
下人は、六分の恐怖と四分の好奇心に動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。旧記の記者の語を借りれば、「えぐいって」と感じたのである。すると老婆は精密ドライバーを取り出して、それから今まで眺めていたノートパソコンに手をかけると、ちょうど猿の親が猿の子のシラミをとるように、そのノートパソコンを分解しはじめた。かなり手慣れているらしい。
電子部品が一個ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えていった。そうして、それと同時に、この老婆に対する激しい憎悪が少しずつ動いて来た。____いや、この老婆に対すると云っては語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人にさっき門の下でこの男が考えていた、餓死をするか転売屋になるかと云う問題を改めて持ち出したら、おそらく下人は何の未練もなく、餓死を選んだ事であろう。それほどこの男の悪を憎む心は、指数関数的に勢いよく燃え上がり出していたのである。
下人には、なぜ老婆がSEのノートパソコンを分解するかわからなかった。従って、合理的には、それを悪であると一方的に決めることが出来なかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、SE自前のノートパソコンを分解すると云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が転売屋になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
そこで下人は、両足に力を入れて、いきなり梯子から上へ飛び上がった。そうして特殊警棒に手をかけながら、大股に老婆の前へ歩み寄った。老婆はマイコンで自作した監視カメラで、事前に下人の動きを見ていたのだが、想定外の行動に飛び上がった。
「どこ行くんじゃワレ!」
下人は、老婆が寝ているSEにつまずきながら、慌てふためいて逃げようとする行く手を塞いで、こう罵った。老婆は、それでも下人をつきのけて行こうとする。下人はまた、それを行かすまいとして、押し戻す。二人はSEの浅い寝息の中で、しばらく無言のまま、つかみ合った。しかし勝敗は初めから分かっている。下人はとうとう老婆の腕をつかんで、無理にそこへねじ倒した。ちょうどケンタッキーフライドチキンの骨のような腕である。
「何しとったんじゃ!云え。云わんとこれやど」
下人は老婆をつき放すと、いきなり特殊警棒を伸ばして、黒くて硬くて長いものをその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわな震わせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球がまぶたの外へ出そうになるほど見開いて、唖のように執拗(しゅうね)く黙っている。これを見ると、下人は初めて明白にこの老婆の生殺与奪の権を自分が握っていると云う事を意識した。そしてこの意識は、今まで煮え滾っていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をしてそれが納期に間に合った時の、安らかな得意と満足があるばかりである。そこで下人は、老婆を見下しながら、少し声を和らげてこう云った。
「ワシはマッポでもSECOMでもない。今し方この門の下を通りかかった暇なヤツや。せやからお前に縄かけてどうこうしようっちゅう事もない。ただ、今時分この門の上で何をしとったんか、それをワシに話しさえすればええんや」
すると老婆は、見開いていた眼を一層大きくして、じっとその下人の顔を見守った。まぶたの赤くなった二階幹事長のような、鋭い眼で見たのである。それから皺でほとんど鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉からカエルの鳴くような声が、喘ぎ喘ぎ、下人の耳へ伝わって来た。
「このパソコンのCPUを抜いてな、型番とコア数を偽装してな、転売しようと思うたのじゃ」
下人は、老婆の答が存外平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷ややかな侮蔑とともに心の中へ入って来た。するとその気色が先方へも通じたのであろう。老婆は片手にまだ抜き取ったCPUを(素手で)持ったなり、蟇(ひき)のつぶやくような声で、口ごもりながらこんな事を云った。
「なるほどな。SEからPCを奪うという事は、何ぼう悪いことかも知れぬ。じゃが、ここにいるSE達は皆、そのくらいな事をされてもいい人間ばかりだぞよ。現にわしが今、CPUを奪った女などはな、コメントも無いし改行もない滅茶苦茶なコードを、仕様通りに動けばよいと言って書いておったわ。それもよ、この女の書くコードは早いし安いし仕様通りに動くと云うて、ケチな経営者どもが買っていたそうな。ワシは、この女のした事が悪いとは思うていぬ。せねば餓死をするのじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方がない事をよく知っているこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ」
老婆は大体こんな意味の事を云った。CPUを盗られた女は、よほど疲れているのかこんな騒ぎでもノートパソコンを抱いたまま、全く起きる気配がない。
下人は、特殊警棒を畳んで、その柄を左の手で握りながら、冷然としてこの話を聞いていた。勿論、右の手では、赤く頬に膿を持った大きな人面瘡を気にしながら、聞いているのである。しかし、これを聞いている中に、下人の心にはある勇気が生まれて来た。それはさっき門の下で、この男には欠けていた勇気である。そうして、またさっきこの門の上へ上ってこの老婆を捕まえた時の勇気とは、全然、反対な方向へ動こうとする勇気である。下人は、餓死をするか転売屋になるかに迷わなかったばかりではない。その時のこの男の心持ちから云えば、餓死などという事は、ほとんど考える事さえ出来ないほど、意識の外へ追い出されていた。
「ほーん、そうか」
老婆の話が終わると、下人は嘲るような声で念を押した。そうして、一足前へ出ると、不意に右の手を人面瘡から離して、老婆の襟上をつかみながら、噛み付くようにこう云った。
「ほな、ワシが転売をしようと恨むまいな。ワシもそうしなければ、餓死をする体なのだ」
下人はすばやく、老婆からCPUを奪い取った。それから、足にしがみつこうとする老婆をジャイアントスイングで投げ飛ばした。梯子の口までは、僅かに五歩を数えるばかりである。下人は剥ぎ取ったCPUを胸ポケットに入れ、床に置いてあった老婆の精密ドライバーセットも手に持ってまたたく間に稲妻のごとく急な梯子を夜の底へとかけ降りた。
しばらく死んだように倒れていた老婆が体を起こしたのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだライトがついているスマホの光を頼りに、梯子の口まで這って行った。そうして、そこから短い白髪をさかさまにして、門の下を覗き込んだ。外には、ただ黒洞々たる夜があるばかりである。
部下からの相談ごとは多く、煩雑ではあるものの上下コミュニケーションがうまくいっている証として歓迎している。
ただまあ、実務的な相談以外に「それは愚痴だよね」「さすがにそういう悩みは自力解決してほしいなぁ」といった相談もちょいちょい混じってきたりする。もちろんそういう相談にもできるだけ親身に乗ってやるようにはしている。
そういうどちらかという愚痴に近い相談をしてくる人としてこない人の違いに、最近ふと気づいてしまった。私の職場に限った話かもしれないが、タイトルに書いたとおり、してくるのは独身女性にほぼ限られ、既婚女性はほとんどしてこないのである。
既婚女性はダンナに愚痴をこぼすことでガスを抜いているが、独身女性たちは誰かが(この場合私が)ダンナの代わりに愚痴を聞いてやる必要があるのかなあ、などとぼんやり考えている。私個人としては家では嫁から愚痴を聞かされ職場では部下から愚痴を聞かされる状況に多少のしんどさはある。
けど、ともあれ、愚痴を言えるというのはある程度の信頼関係が成り立っている証拠とも解釈できるし、それを聞いてやって部下の「働く気分」を整えてやるのもお仕事のうちと思って聞いている。
実感として、実務だろうが愚痴だろうがいつでも相談できるムード作り(どうやって作るか聞かれてもわからん)とか、相談されたら傾聴し共感する、みたいな姿勢?が大事っぽい。