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2016-02-15

http://anond.hatelabo.jp/20160215172044

「行きつけのフィギュアショップ」のススメwwwフォカヌポウwww

「行きつけのフィギュアショップ

男なら誰しもが憧れるだろうが、そう簡単には手に入らないソレ。

僕が手に入れたきっかけは、なかなかに面白いものだった。

大学卒業後、某メーカー営業職に就職した僕だが、

とある日の外回り危機的な状況に陥っていた。

ヤバイ……。う○こしたい……下痢っぽい……」

夕方を過ぎ、最後訪問先に向かう秋葉原で、

僕は冷や汗をかきながらトイレを探していた。

しかし周囲はシャッターの閉じた店ばかり。

トイレを貸してくれそうな店はない。

(こうなったら路地裏でぶっ放すしかないか……)

そう思った時に目の前で店のシャッターを開ける、

年の頃60位だろうか、自分父親と同じくらいの男性がいた。

僕はなりふり構わずその男性に

すみませんお腹を下してしまって、トイレを貸してはいただけないでしょうか」

と、持ちうる限り最大限の丁寧さでお願いした。すると男性は、

「いいけど、なんか見ていって。ここ、フィギュアショップから

と、真顔で答えた。

(この人、腹を下してる人間に何を言ってるんだ……)

内心、おかしな人に当たってしまった、と思いつつも、

しかし、この後まだ営業先に行かなくてはいけないので、

フィギュアの代金をお支払する形ではダメでしょうか」と提案すると、

「じゃあ帰りに見に来て。ここはフィギュアショップで、トイレじゃないんだ」

男性はそういうと僕を店内に手招きした。

(そうなると、僕は帰りにここに寄らずに、そのまま帰ることもできるのに、

なんだかとても変わった人だなぁ)そう思いつつ、トイレを済ませると、

「では、帰りに寄らせてもらいます」そう言って僕は店を出た。

訪問先の滞在時間が延びたこともあり、約束は覚えていたけれど

面倒だから帰ろうかなとも思った。けれど、ちょっと様子を見てみよう、

そんな気になって、僕は帰りにその店の前を通った。

ガラスがはめられたドアをそっと覗くと、

夕方男性が一人でレジ内でフィギュアパンツを覗いていた。

やはりというか、当然だが、この店のマスターだろう。

正直に言うと、その姿があまりにもカッコよく、様になっていて、

僕は無意識の内にドアを開けていた。

マスターは僕を一瞥すると、

あんた、変わってるね」と無表情に言った。

(それはおまえの方では……)と思っていると、マスターフィギュアを出しながら続けた。

「寄らずに帰ろうと思えば帰れた。けれどあんたはここに来た。

あんたいい人だ。今日は店を休もうと思ったけど、開けてよかったよ」

そういってフィギュアスタンド女の子フィギュアを立てかけた

あんたがこの店で最初に見るアイドルフィギュアは、これが良い」

目の前に道端でコケそうになっている、何とも可愛らしいフィギュアが出された。

当時、フィギュアを全く知らなかった僕は、とりあえず値段が怖くなり、

「お幾らですか?」と財布を出しながら聞いた。マスター

「俺は見ていけ、と言っただけで、金をとるとは言ってない

このフィギュアプレゼントだ」と優しく笑った。

その後、僕はこのショップに足しげく通い、色々なオタクと知り合った。

マスターから見ればまだまだヒヨっ子だが、大人になり、

結婚もし、いい加減フィギュア卒業かな、と思っていた。

そんな矢先、マスターが亡くなった。

いつだっただろうか、常連達でしっぽりフィギュアパンツを覗いていた夜、

マスターが「なんだかインターネットに店が載ったみたいで、

楽天で知ったけどフィギュアの品揃えいいですね。僕好きです』みたいな若造が増えた

俺はそういう客は好かないんだ。機械による巡り合わせは好かないんだ」

と、愚痴っぽく言っていたことがあった。

僕も含め、何かしらおかしな巡り合わせでこの店とマスターと縁が出来た常連達は、

「では、なぜ楽天出展・・・」と思ったが、ネットを探し、三木谷社長

サイトを取り下げるように頼んだりした。

けれど、三木谷社長は「出展したのはマスター自由だ」と取り合ってくれなかった。

そんな中、マスターが暫く店を休むと言った。

今思えば、あの頃から体調が悪かったのかも知れない。

そのまま復帰の知らせのないまま、常連仲間からマスター訃報を聞いた。

告別式マスターらしい、参列者の少ないものだった。

会場には見覚えのない女性等身大フィギュアが2体ならんでいて、

話を聞くとマスターの秘蔵コレクションだった。

マスター自分の話を全くしない人で、「俺は既にノンコレクションだ」と言っていたので、

我々はそれが本当だとてっきり信じていた。

火葬の待ち時間マスターの元奥さんと娘さんが

「これを渡すように、と言われました」と僕に1体のフィギュアを渡してきた。

何でも亡くなる少し前に、マスターが2人に、僕に渡すように言付けたそうだ。

具体的な商品名は控えるが、某アイドルゲーム永遠センター(17歳)と言えば、

分かる人にはその価値がわかると思う。何故こんなものを僕に、と混乱していると、

娘さんがバーで使われていた伝票を渡してきた。裏には走り書きの文字で、

「あの日のフィギュアあんたにあげる」

そう書いてあった。

フィギュアはあの日僕が見た日から、傷ひとつついてなかった。

僕は涙が止まらず、大人げなくその場に膝をついて嗚咽した。

「行きつけのフィギュアショップ

僕に人生とは何か、人付き合いとは何か、

大人になるとはどういうことかを教えてくれた、大切な空間だ。

男なら誰しもが憧れるだろうが、そう簡単には手に入らないソレ。

僕は今後の人生において、もう行きつけのフィギュアショップをつくることはないと思う。

真のアイドルマスター10回忌にあてて。最大限の感謝と愛を込めて。

http://anond.hatelabo.jp/20160215172044

「行きつけのバー」のススメ

「行きつけのバー」

男なら誰しもが憧れるだろうが、そう簡単には手に入らないソレ。

僕が手に入れたきっかけは、なかなかに面白いものだった。


大学卒業後、某メーカー営業職に就職した僕だが、

とある日の外回り危機的な状況に陥っていた。


ヤバイ……。う○こしたい……下痢っぽい……」


夕方を過ぎ、最後訪問先に向かう寂れた商店街で、

僕は冷や汗をかきながらトイレを探していた。

しかし周囲はシャッターの閉じた店ばかり。

トイレを貸してくれそうな店はない。


(こうなったら路地裏でぶっ放すしかないか……)


そう思った時に目の前で店のシャッターを開ける、

年の頃60位だろうか、自分父親と同じくらいの男性がいた。


僕はなりふり構わずその男性に

すみませんお腹を下してしまって、トイレを貸してはいただけないでしょうか」

と、持ちうる限り最大限の丁寧さでお願いした。すると男性は、


「いいけど、なんか飲んでって。ここ、バーだから

と、真顔で答えた。


(この人、腹を下してる人間に何を言ってるんだ……)

内心、おかしな人に当たってしまった、と思いつつも、

しかし、この後まだ営業先に行かなくてはいけないので、

飲み物の代金をお支払する形ではダメでしょうか」と提案すると、


「じゃあ帰りに飲みに来て。ここはバーで、トイレじゃないんだ」

男性はそういうと僕を店内に手招きした。


(そうなると、僕は帰りにここに寄らずに、そのまま帰ることもできるのに、

なんだかとても変わった人だなぁ)そう思いつつ、トイレを済ませると、

「では、帰りに寄らせてもらいます」そう言って僕は店を出た。


訪問先の滞在時間が延びたこともあり、約束は覚えていたけれど

面倒だから帰ろうかなとも思った。けれど、ちょっと様子を見てみよう、

そんな気になって、僕は帰りにその店の前を通った。


ガラスがはめられたドアをそっと覗くと、

夕方男性が一人でカウンター内でタバコを吸っていた。

やはりというか、当然だが、この店のマスターだろう。

正直に言うと、その姿があまりにもカッコよく、様になっていて、

僕は無意識の内にドアを開けていた。


マスターは僕を一瞥すると、

あんた、変わってるね」と無表情に言った。

(それはあなたの方では……)と思っていると、マスターはグラスを出しながら続けた。

「寄らずに帰ろうと思えば帰れた。けれどあんたはここに来た。

あんたいい人だ。今日は店を休もうと思ったけど、開けてよかったよ」

そういって丸氷を入れたグラスにお酒を注いだ。

あんたがこの店で最初に飲む酒は、これが良い」

目の前に琥珀色より少しばかり深く落ち着いた、何とも美しい色のお酒が出された。


当時、酒を全く知らなかった僕は、とりあえず値段が怖くなり、

「お幾らですか?」と財布を出しながら聞いた。マスター

「俺は一杯飲んでけ、と言っただけで、金をとるとは言ってない

この一杯はプレゼントだ」と優しく笑った。


その後、僕はこのバーに足しげく通い、色々な人と知り合った。

マスターから見ればまだまだヒヨっ子だが、大人になり、

結婚もし、いつか子供とこのバーに行きたいと思っていた。


そんな矢先、マスターが亡くなった。

いつだっただろうか、常連達でしっぽり飲んでいた夜、

マスターが「なんだかインターネットに店が載ったみたいで、

『落ち着いたバーですね。僕好きです』みたいな若造が増えた

俺はそういう客は好かないんだ。機械による巡り合わせは好かないんだ」

と、愚痴っぽく言っていたことがあった。

僕も含め、何かしらおかしな巡り合わせでこの店とマスターと縁が出来た常連達は、

必死ネットを探し、掲載元に記事を取り下げるように頼んだりした。

けれど、大半のところは「言論(表現)の自由だ」と取り合ってくれなかった。

そんな中、マスターが暫く店を休むと言った。

今思えば、あの頃から体調が悪かったのかも知れない。

そのまま復帰の知らせのないまま、常連仲間からマスター訃報を聞いた。


告別式マスターらしい、参列者の少ないものだった。

会場には見覚えのない女性が2人いて、話を聞くと離婚した元奥様と娘さんだった。

マスター自分の話を全くしない人で、「俺は既に天涯孤独だ」と言っていたので、

我々はそれが本当だとてっきり信じていた。


火葬の待ち時間マスターの元奥さんと娘さんが

「これを渡すように、と言われました」と僕に1本の酒を渡してきた。

何でも亡くなる少し前に、マスターが2人に、僕に渡すように言付けたそうだ。

具体的な商品名は控えるが、某日本メーカーウイスキー(50年)と言えば、

分かる人にはその価値がわかると思う。何故こんなものを僕に、と混乱していると、

娘さんがバーで使われていた伝票を渡してきた。裏には走り書きの文字で、


「あの日のウイスキーあんたにあげる」


そう書いてあった。

ボトルはあの日僕が飲んだ一杯から、減っていなかった。

僕は涙が止まらず、大人げなくその場に膝をついて嗚咽した。


「行きつけのバー」

僕に人生とは何か、人付き合いとは何か、

大人になるとはどういうことかを教えてくれた、大切な空間だ。

男なら誰しもが憧れるだろうが、そう簡単には手に入らないソレ。

僕は今後の人生において、もう行きつけのバーをつくることはないと思う。




マスター三回忌にあてて。最大限の感謝と愛を込めて。

2016-01-03

祖母がガンで死んでいた。

子供の頃から理不尽なことを言われ続けてて、働きはじめて実家を出てから、たまに実家に帰ると恐怖でまともに眠れないような感じだったので家に帰らなくなって10年弱。

昨年、家から手紙が来ていたけれども開けるのも怖くて抽斗の奥にしまっていたのを開いて、訃報を知った。

実家暮らしてたときは死んで欲しいと思っていたけど、亡くなってしまったら話すことももうかなわない。

彼女が考えていたことやどんな暮らしをしてきたのかを知ることもなく、僕の中では憎い祖母のままで終わってしまった。

少しの悲しみと後悔しかない。

2015-12-31

顔も知らない、本名すら知らない人なのに、今まで聞いた訃報でぶっちぎりで一番悲しい。

心の底から冥福を祈る。

2015-11-30

はじめまて、ゴミクズ底辺くんです。

自己紹介が終わったところで。

水木しげる訃報に接してなんか感謝とか好きでしたとか影響を受けてこの道に~とか言い出す奴、みんな妖怪洗濯機に吸い込まれればいいのに。

2015-11-20

夭折作家と盟友の

劇場アニメ化された作品ゾンビのやつ)の劇中の台詞

「なぜ置いていった、なぜ帰ってこない」が

盟友の人のツイッターでの呟きが元になっているのではないかと噂されているのを見かけた

確かにかの人が訃報の一ヶ月後あたりにツイッターで荒ぶってるのを見て心配になった記憶はあるが、確信が持てない

はてなウォッチャー諸兄がネット上では一番詳しいと思う

どなたかしっかり記憶している方はいらっしゃらないだろうか

2015-11-09

私の中のblueboyさん

cider_kondo氏の回のときに、氏がたまに辛辣なことも書くみたいなことが書いてあって気になった。

そしたら二、三日前にも何かニアミスをしていた。

http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/tocana.jp/2015/11/post_7849_entry.html

そう言えばセルフスター騒動というのもあったなと検索したら、ふろむだ先生ブコメからリンクで芋づる式にたいちょーブコメ高木せんせブコメが出てきた。もう一年前以上も前のことになるんだな。

シロクマv.s.青二才戦ほどではないけど「炎上喧嘩はてなの華」と言えるかもしれない。

しかセルフスターは今でこそやめてるけど、枯れ葉マークの人みたいに他にもずっと続けてるブクマカーはいるし

関係ないけど枯れ葉は松来未祐さんの訃報を伝えるブログに「誰だこいつ」などとブクマセルフスターして、それ見て二階から「神経を疑う」とブチ切れコメントしてた人がいたな。切れて当然だが)

自分ブログへの誘導が多いというんだったら、これも他にも例えばサイバーメガネの人もしいたけの人もたくさんやってるんだよ。

何より他人ブコメをよく読んでる人の一人なんで個人的には嫌いじゃない(直近のxevra氏の回のブコメとか参照)

他の記事を紹介するリンクも多い。英語サイトもよく読んでいるようだ。地頭のいいタイプだと思う。

自己顕示欲シロクマせんせ風に言うと承認欲求は誰しもあるけど、ネットでそれを満たそうとしてもそう簡単に問屋は卸してくれない。誰しも他人には大して興味がないんだ。

興味がないものを無理やり注意を引こうとしたら、暴れるくらいしかやるこたない。そうすると顰蹙を買うし、あとで冷静になったときに空しくなるだけだ。

そういう経験は誰しも通過しているけど、運悪くリアル年齢も若い人だとそれをネット上でやらかし履歴を残してしまう。

だけど生暖かい目でそれを見ている他人だって、運よく履歴を晒さなかったというだけで人間の本性としては大差ないんだけどね。

ネガティブなことばかり書いても仕方がない。はてなみたいなところでも長くやってると人間は成長するもんだなと、肯定的にまとめておこう。

ところであの美女アイコンは本人の談によると泰西名画だそうだがオリジナルは何だろう?元のサイズを一度拝みたいもんだが。

2015-11-07

松来未祐さんの訃報に接して

なぜだか分からないが、ものすごく悲しくなった。ここ数年、涙を流したことなんてなかったのに、自然と目頭が熱くなった。「なぜだか分からない」という言葉配慮に欠ける、と感じる方はきっと多かろうと思う。だけど僕にとっては、なぜこれほど悲しいのか、本当にすぐには分からなかった。だって普段は、有名人が亡くなったというニュースを見て、驚きはするものの、たいして悲しくなんてならないのに。

そもそも、人が死ぬこと自体はぜんぜん珍しいことじゃない。生まれることと死ぬことは、いつも対になっている。毎日、たくさんの人が死んでいく一方で、たくさんの新しい命が生まれている。30代後半で亡くなるというのは確かに平均よりはずいぶん若いけれど、成人を迎える前に亡くなってしまう人だって、気が遠くなるほどたくさんいるはずだ。

この世界はいつもそんな調子から、人がひとり死ぬたびに悲しんでいたら、きっと精神の安定が保てない。たぶんそのせいで、身近な人以外の不幸には感情が大きく揺さぶられないように、心を防御する機構が備わっているんだと思う。

それじゃあ、僕にとって、彼女は「身近」だったんだろうか。

間違いなく、僕は彼女の熱心なファンではなかった。「ハヤテのごとく!」の伊澄役をされていたとか、「MELTY BLOOD」の翡翠役をされていたということを、訃報へのコメントを見て初めて知ったというほどだ。出不精な僕は、声優さんの出演するイベントには行ったことがないから、当然、彼女に直接お会いしたことは一度もない。

彼女の演じるキャラクターではなく、彼女自身の人柄に触れたのは、アニメ宣伝のためのラジオとか動画番組を通してのことだった。初めて彼女のことを認識したのは動画番組を観ていたときだったように思う。当時の彼女はもう30代だったけれど、とにかく、ものすごく、言いようもないほど、可愛らしい人だと思った。ひと回り以上年上の女性に、こんな感想を抱くのは生まれて初めてだった。魅力的な容姿声優さんは数多くおられるけれど、彼女はそれに加えて、仕草や表情、声色、言動、なにもかもが素敵な方だった。まるで、可愛らしさというものが服を着て歩いているようだと、勝手に思っていた。でも、出演しているのはみんなタレントさんなのだから、そういう素敵な方がおられること自体は別段不思議ではないとも思っていた。

彼女は、たまにとぼけたようなことを言って場を和ませていた。それを見て、僕も自然笑顔になった。

未婚であることに焦りがあったようだけど、それを笑い話にしてしまうような明るさがあった。こんなに素敵な方だから、そのうちひょっこりと結婚報告をするのだと信じて疑わなかった。そう信じていたからこそ、彼女の未婚ネタに対して無邪気に笑っていられた。

心根の優しさが溢れ出るような、柔らかな振る舞いをされていて、きっと、仕事仲間から愛されているんだろうなと微笑ましく思っていた。彼女が実際に、深く深く愛されていたことを、図らずも、彼女に近しい方々からの追悼の言葉で実感することになった。

きっと僕は、彼女のことが大好きだったのだ。これまで自覚すらなかったけれど、彼女が大好きだった。会ったことも、話したこともない癖に、大好きだった。

こんな支離滅裂気持ちを吐き出したくて、こんなに辺鄙な、ほとんど誰の目にも触れないような場所に、思うがままを書き残すことにした。

命を突然奪いにくるような病気を相手に、いったいどれほどの苦しさと向き合ったのだろう。僕には想像しきれないほど、壮絶な闘病生活だったのだろうと思う。入院中に更新されたブログ文章が、僕なんかが言うのはおこがましいほど、切なくて、愛しい。

願わくば彼女最期が安らかなものであったことを。

2015-11-03

まつらい何とかさんの訃報記事見たら本人は全然一般人に浸透してないから有名どころのお友達いいとも基準声優大動員で切なくなった

いきなりポックリ死ぬのと、少しずつ弱って死ぬのと、

周りの人にとってはどっちがいいのかなって考える。


ばあちゃんが死んだ時も、買ってたわんこが死んだ時も、

日に日に少しずつ弱っていくのを見るのが辛かったけど、

何となく見送る覚悟もできてくるのが自分でもわかった。


対して、いきなりポックリ死ぬのは苦しんでる姿を見せないで済むけど、

見送る方は心の準備がない分、ショックもでかい


それにしても、全く予想もしなかった訃報を聞くのは辛いもんだな。

2015-11-02

今を精一杯生きよう

ベトナム人が住人の多数を占めるシェアハウス暮らしている(私は日本人)。

彼らは気前が良い。

使っているPC日本製20万円近くするものだし、持っているiPhoneは最新か1つ前の型だ。

とにかく手元にカネがあれば使ってしまうらしく、たった3万円の家賃さえ頻繁に滞納する。

「長い戦争経験からベトナム人は将来より今を優先させる」と、ある信頼できないソースで読んだことがある。

地政学的に半島領土維持が難しいから、散財しちゃう気持ちは分かるよ。だけど本当かなぁ…… 偏見じゃないの? パクス・アメリカーナ!」と、今日まで私は眉にたっぷり唾を付けていた。

しかし、松来未祐さんの訃報を知って考えが変わった。

茫然自失の私は、吉野屋先生でもクー子でもなく、"メメント・モリ"という言葉思考を妨げられている。

はい死ぬか分からない。

カネを、使おう。

今を、生きよう。

私は書籍を中心に、過去6か月で126件もAmazonで消尽している。特に絶版古書は腹が痛んだ。

借金(無利子の奨学金)もある。

だが、気が済むまでモノ・サービス時間・生を消費しよう。

明日死ぬ確率は低いものの、病気発覚から1年も経ず、松来さんのように亡くなるケースは珍しくない。

それに死の確率対象によって変わる。

20歳人間が短期間で落命する確率は低いが、事故病気で亡くなる『とある20歳の人』は、ある意味"100%"の確率死ぬのだ。

あくま確率統計上の予測であって、一個人に数字をそのまま当てはめるのには無理がある。

今週、私の部屋(四畳半)に本棚が届く。高さ180cm、幅70cm。スライド式で、奥と手前に本を収納できる。Amazonポチったやつだ。

衣装ケースに本を満載させる』という、ウサギ小屋ライフハック破綻し始めたのが購入動機である四畳半暮らしにおいて、書棚は『場所取るし、倒れてきたら死ぬ』贅沢品なのだ

これからもムチャクチャ本を買おう。

書架がいっぱいになったら、もっと広い部屋に引っ越そう。そしてまた、空間が許す限り本を買いまくろう。

加齢で読書が困難になることは以前から覚悟していた。

そして今ではベトナム人と松来さんが私の背中をプッシュしてくれている。買おう。読もう。

2015-10-04

まれてきてよかった、なんてどうしたら思えるの

私が生まれてこなければ母が私を愛することも憎むこともなかっただろうし、私が母を憎むことも生きることに苦しむこともなかっただろうに。

母親の愛というものはいだって無償の愛ではない。そんなことはこの世に母性本能などというもの存在しないと気づいた時から知っている。母性なんてもの支配欲、庇護欲と社会的承認から成り立っているお粗末で、なおかつ便利なものだ。つくづく家族というものは本当に奇妙なコミュニティであると思う。

はいだって自分が生きていることが不安で仕方ない。私は何故生きているのだろう、いや、私は生きているのか?

この世に命あるものとして存在している以上、死ぬことのハードルはとても高く、そしてとても低い。自ら死のうなんて思っても人間はそう簡単には死ねないし、そうかと思えば事故病気であっと言う間に死ぬ他人訃報を聞くたびに、何故自分が死ななかったのか不思議に思う。私が死ねば良かったのに。

生きているわたしは死にたいと切に願い、同時に楽しく穏やかに過ごし人生は最高だなぁなどと言う人に憧れる。私はいつになったら生きるのが上手になるのだろうか。もう二十年も生きてしまった。幼い頃、心身がとても病弱で何度も入院した。家族は私がこんな歳まで生きられるとは思っていなかった。私自身はそこまで自分の死を意識せずに生きてきたし、身体が強くなって良かったとも思わない。むしろ、幼かったあの頃に死んでいればと強く思う。

2015-09-25

川島なお美訃報ブクマ

「『WOMAN』ではお世話になりました」というコメントが見当たらないことにはてブ限界を感じた

2015-08-01

http://anond.hatelabo.jp/20150731213420

(元コメとは別人です)

あなたも友人も両極端やなというのが個人的感想です。

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「I'm sorry ってアメリカでは簡単に言っちゃいけないよ、あれは責任を認める言葉から日本の『ごめん』とは違うんだよね」

みたいなネタを聞いたことないでしょうか。

その真偽はともかくも、それがまことしやかに言われる背景に目を向けてみると、

「ごめん」は「悪いことをした時」以外にも意図せず相手に被害をもたらした場合や期待に副えなかった場合もったいないことをした場合などに広く使われるんじゃないかと。

「悪いと思ってないのに『ごめん』っていうなや!」

みたいなのもまたよく聞きますが、逆に言えば、悪いと思ってないのに「ごめん」が発される場面が良くあるからで、

それが諍いの本質から目を背ける態度と合わさると問題になるというこということだと思います

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自分は何も悪いことをしていない」ってのは、その通りなんですけど、例えばその突発の用事が単なる飲みじゃなくて親友訃報によるものだったりすれば、そちらを優先させ得ますよね。

まり、そこにはあなたが暗黙に行っている選択があるわけで、何かの用事に対して「突発的な飲み」は優先させるに値しませんと断っているわけです。

「罪の意識を心から感じ」はしないですが、そこにある種の「ごめん」に値する感情は、私なら存在します。

  • 本当の「ごめん」
  • 体面上「ごめん」
  • 「ごめん」言わない

の2つめと3つめを分けるのはその感情の有無だとすると、あなたと何も言っていることは変わらないのですが、

自分は何も悪いことをしていない」ならただちに相手側の事情を慮った言葉必要が無いと考えているならば、

それは「思いやりがない」と言われてしかるべきだと思います

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http://anond.hatelabo.jp/20150731184246 抹茶コロンより普通コロンが好きだったか抹茶コロンに謝ってる人もいます日本的なのかしら(笑)

2015-07-25

[]南部先生がなぜ偉大だったか

素粒子理論神様

素粒子世界では教授学生もなく物理の前で対等である

先生」と呼ぶと嫌がられる。場合によっては怒られる。

「お前は研究者だ。学生と思って甘えるな」といった意味が暗に含まれているようにも思う。

こんな中でほぼ唯一、「先生」と呼んでよい存在南部陽一郎先生だった。

南部先生素粒子理論における神様のような人だった。

理論も、量子色力学も、電弱統一理論とその鍵であるヒッグス粒子

もとを辿るとみんな南部先生に行き着く。

漫画家で言うと手塚治虫である

偉大な仕事がたくさんありすぎて何に対してノーベル賞を与えれば良いかわからない。

それが南部先生だ。


南部は10年先を行く


南部は10年先を行く」

南部先生を評してよく使われる言葉だ。

南部先生研究は往々にして当時の人々には理解されなかった。

そして10年後に重要性がわかる、もしくは再発見されることが度々あった。

例えば「南部-後藤の弦(1970年)」。[注1]

今日でいう「ひも理論(弦理論)」である

当時ハドロン理論として提唱されたそうだが

現在では究極理論の候補である

例えば「南部-ヨナラシニオ模型1961年)」。

今日では量子色力学の簡易模型 [注2]として使われているが

量子色力学どころかクォークすらなかった時代に書かれた論文である

いったいなぜ、その時代に、その論文存在しているのか?

まったく僕には理解ができない。

南部さんの仕事はまるで「全てを知っている未来人が当時の人にわか言葉で説明したような」研究なのだ

南部さんはそれだけ超越した天才だった、ということなのだろう。

南部先生ノーベル賞

2008年、益川さん、小林さんと共にノーベル賞を受賞された。

ノーベル賞なんて別に嬉しくないと言った益川さんが「南部先生といっしょに受賞できるなんて」といって泣いた。

あの様子は例えるなら

藤子不二雄手塚治虫講談社漫画賞を同時受賞して藤子藤雄Aが泣いた」

といったところだった。

受賞時にアナウンサーの1人が

「今になって認められたお気持ちはどうですか?」と小林・益川氏にマイクを向けた。

それを見ていた人たちは怒った。

ノーベル賞を取ったから凄いのではない。

小林さん・益川さんが凄いのだ。

南部先生もっと凄いのだ。

当時いろんな人がいろんな表現で説明しようとしていたけれど

まりうまく伝わっていなかったように思う。

ノーベル賞自体は400年後には忘れ去られているかもしれない。

でも、南部さんの名前理論は400年後も残るだろう。

アインシュタイン相対論ノーベル賞を受賞していないが

アインシュタインの名も、相対論も、僕らが忘れる事はないように。

最後

この増田過去投稿を改変した物です。

南部先生訃報のあとはてなであまり話題になっていないようで寂しいので書きました。

本来僕なんかよりもっと詳しい人が書いた方が良いと思うのですが皆 twitter に移行してしまったのか・・・

この記事を読んで解りにくい、読みにくい、誤解を招く表現などありましたら

それは全て僕の低い文章力や知識の少なさが原因です。申し訳ありません。

南部先生のご冥福をお祈り致します。


参考・脚注

http://jodo.sci.u-toyama.ac.jp/theory/Nobelsympo2009jpssp/NobelSymposium-files/PDFS1/Eguchi.pdf

模型提唱
Y.Nambu, unpublished Lecture (1970)

日経サイエンス 記事ダウンロード - 編集部のお薦め

2015-07-17

無題

他人訃報にかこつけて自分の言いたい事だけを書いた思い出話を残す(しか事実に則していない内容がちらほら含まれている)のって近年のトレンドなんでしょうか

http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20120124/1327364165

http://anond.hatelabo.jp/20150715180050

http://twitter.com/kadongo38/status/621682373852172288

同意しま

2015-07-15

岩田聡任天堂社長訃報に接して(編集長) | インサイド

http://www.inside-games.jp/article/2015/07/13/89386.html

2ページ目の

Game Developers Conference 2005、岩田聡基調講演

からビジネスソフトウェア面の要点を抜粋

▼5個の変わらない点

(1)エンターテイメントとしての本質

他の娯楽と同様に、成功するためには人々を感動させるものでなくてはなりません。

笑い、恐怖、喜び、怒り、愛情、驚き、そして特に達成感

(2)挑戦と対価

コアゲーマーは困難を望み、カジュアルゲーマーは易しめの難しさを望みます

任天堂では、全てのスキルにあわせたゲームを作るのが責任だと信じています

(3)アイデア重要

(4)ソフトハードを売ります

ゲームを遊ぶ為にハードを買います

私はスティーブ・ジョブスのこの言葉同意しま

ソフトウェアユーザー体験であり、ソフトウェアコンピューター技術進歩させるだけでなく、

コンシューマーエレクトロニクス進化させる」

(5)IP(知的財産)の価値

▼変わった点

(1)ビジネスが拡大

(2)ゲーム自身も色々な面で大きくなりました

技術

より大きなチーム、より大きな予算、より困難な挑戦

大きな会社が小さな会社を飲み込むことにもなりました

(3)許容できるリスクの面で小さくなりました

ジャンルリスト最後に新しい発明掲載されたのはいつのことでしょうか?

同じジャンルの中でも一度使ったもの再利用し続けています

多様性は見つけるのが困難

(4)何を「進歩」と定義する範囲も小さくしています

ゲームの見栄えをもっとリアルにするだけがゲーム体験を改善していく手段ではありません

それだけがゲーム改善する道ではない

私達は他の手段も見つけることを望まれています。「改善」の定義は1つではありません。

(5)多くの時間お金を同じプレイヤーに追い求めて、誰かを置き去りにはしてないでしょうか?

自分では遊ばないだろうゲームについて考えていますか?

ソフト開発のスタンダード

4つの「I」で呼んでいます

(1)真に「Innovative(革新的)」であること

(2)操作ゲームプレイ方向性が「Intuitive(直感的)」であること

(3)この世界時間を費やす気になる「Inviting(誘惑的)」なものであること

(4)プレイヤーが今までにない方法でその世界に触れられる「Interface(インターフェイス)」があること

2015-07-14

なんだか悲しい

岩田さんが亡くなった事がなんだかとても悲しい。

こんなにもショックを受けている自分に驚いている。

たまにはてブエントリーで関連する記事を見ることはあった。

社長が指名して後継者になったとか、すごいプログラマだったとか、病気治療のため入院したとか、様々な記事を見た。

気の良さそうなおじさんだなって思っていた。実際大勢の人に慕われた良い人だったのだと思う。

からといって、そこまで深く知っているわけじゃない。会ったこともない人だ。

ゲーム業界の動向に多少の興味はあったけど、仕事も一切関係のない仕事をしている。

3DS持っていたり、一時的に株を所有していたこともあるけど、任天堂製品特に思い入れがあったわけでもない。

有り体に言えば、有名人が一人亡くなっただけだ。

今年はなんだか訃報をよく見る気がするが、その中でも一番悲しくてショックを受けている。

なんでこんなに悲しいんだろう?

http://anond.hatelabo.jp/20150714094842

まずはじめに、ある人の受け売りではございますが、この言葉をおくります

「お前なんてしらねーよ。出てくんなよ。」


釣りくさいけど、

訃報に寄せられた記事にいくつか目を通したけど、なんというかみんな自分ゲーム遍歴自慢なんだよね。

〜 中略 〜

その頃のゲーム自分はよくしってますよみたいな語り口になってる。

から

自分にとってみればNINTENDOといえばマリオであり宮本さんなので

ひどい


x ともらう

o とむらう


ハル研といえばメタルスレイダーグローリーであって、

メタルスレイダーグローリーとは

概要

HAL研究所独立ソフトメーカーとして発表した最後作品

にわかすぎじゃねーか


あー、また無駄時間つぶしてしまった

岩田社長を語ることは自分ゲーム遍歴を語ること

訃報に寄せられた記事にいくつか目を通したけど、なんというかみんな自分ゲーム遍歴自慢なんだよね。

よゐこ有野でさえ、バルーンファイト作った人の名刺持ってるみたいな言い方しちゃってるでしょ。

ほっとけばやれハル研やそれ以前の彼はどうたらこうたらって始まって、その頃のゲーム自分はよくしってますよみたいな語り口になってる。

お前なんてしらねーよ。出てくんなよ。

なんかさ、すごい臭うんだよね。にわか臭。彼の死をともらうにはちょっと臭すぎるんだよ。

ところでなんでともらうってGOOGLE日本語入力変換できないの?日本語間違ってる?まぁいいや。

ハル研といえばメタルスレイダーグローリーであって、ファミコン時代にあの多重スクロールカセットの大きさを見せつけられた時は大いに吹き出したもんだ。

それもどうでもいい。

自分にとってみればNINTENDOといえばマリオであり宮本さんなので岩田氏がNINTENDOを創ったみたいな書かれ方をされていることにすごく違和感があるのだよね。

3DS苦戦!Wii U苦戦!迷走の挙句ディー・エヌ・エー提携!とか、メディア経営者としての才能を散々批判してきたくせに亡くなったらこれだよ。

おいー。もっと静かにともらわせてくれよ。彼は日本スティーブ・ジョブズじゃねぇよ。

2015-06-24

たま駅長が死んだ日にばあちゃんが死んだ

猫ごとき訃報関西テレビはどうしてここまで暇なんだ

2015-06-21

ニュース報道される訃報って名前全然いたこともないような人ばかりだな。

そして、死んだ時だけあたか毎日ずっとその人このことを考えてたかのようなお決まりの反応。

でも、歌丸が亡くなったのはさすがに俺もショックだった。

2015-05-22

詐欺捏造・偽作

台湾誌(1704年

ジョルジュ・サルマナザールはフランスまれ白人だったが、ウィリアムイネスという牧師の協力を得て「キリスト教改宗した台湾人」になりすました。「台湾人の先祖日本人である」「香草をまぶした生肉を食べている」などデタラメ風習を広め、独自の「台湾語」まで作りだした。当時のヨーロッパでは台湾ことなど全く知られていなかったので、サルマナザールは25年ものあい台湾専門家と見なされ、彼が執筆した『台湾誌』は知識人からも信頼されていた。しかし、ハレー彗星で知られるエドモンド・ハレーが、『台湾誌』に掲載された星図などから矛盾を見つけ出して突きつけたため、彼はついに自らの虚偽を告白した。

ベリンガー事件(1726年)

数学教授デリック図書館司書エックハルトは、横柄な態度のヨハン・ベリンガーに腹を立て、悪質ないたずらを仕掛けることにした。二人は石灰岩に細工をして、カエルミミズ化石彗星太陽の形をした化石、「ヤハウェ」という文字が刻まれ化石などを作り出し、ベリンガー化石採集していた山に埋めておいた。当時は化石が生まれる原因が分かっておらず、神秘的な力によって形成されると考えられていたので、いま見ると明らかにおかし化石でも、ベリンガーは本物だと信じこみ、図版を収録した書籍まで出版してしまった。話が大きくなって慌てた犯人の二人は偽造であることを明かしたが、ベリンガーはそれを中傷だと考えてまったく取り合わなかったという。

コック・レーンの幽霊(1762年)

コック・レーンにあるリチャード・パーソンズの家に、ウィリアムケントとファニーという夫妻が下宿していた。しばらくしてファニーは天然痘で亡くなったが、それ以来、パーソンズの家では何かを叩くような音や引っかくような音がたびたび聞こえるようになり、パーソンズは「ファニーの幽霊に取り憑かれた」と主張した。ファニーの幽霊は、自分ケントに毒殺されたことを訴えているのだとされた。幽霊のことはロンドン中の話題になり、見物客が連日のように集まってコック・レーンを歩けないほどだった。しか調査の結果、パーソンズ自分の娘を使って、木の板を叩いたり引っかいたりさせていたのだということが分かり、彼は有罪となった。

トルコ人(1770年

ヴォルフガング・フォン・ケンペレンは「トルコ人」という名の人形を完成させた。それは完全な機械仕掛けチェスを指し、しかほとんどの人間より強いというものだった。「トルコ人」はヨーロッパ中を旅してチェスを指し、その中にはベンジャミン・フランクリンナポレオン・ボナパルトなどの名だたる人物がいた。多くの人間がその秘密を暴こうとしたが果たせなかった。ヴォルフガングの死後、「トルコ人」はヨハン・メルツェルのもとに渡り、ふたたびアメリカなどで大金を稼いだが、1854年火事によって焼失した。その後、最後の持ち主の息子が明らかにしたところでは、やはりチェス盤のあるキャビネットの中に人が入っていたのであった。

首飾り事件(1785年

宝石商シャルル・ベーマーは、自身が持つ高額な首飾りを王妃マリー・アントワネットに売りたいと思い、王妃の友人だと吹聴していたラ・モット伯爵夫人仲介を依頼した。伯爵夫人は、王妃に渡すと言って受け取った首飾りを、ばらばらにして売りさばいてしまった。その後、ベーマーが代金を取り立てようとしたことから事件が発覚し、伯爵夫人逮捕された。しかし「王妃伯爵夫人同性愛関係にあった」「本当は王妃陰謀だった」といった事実無根の噂が流れ、マリー・アントワネットの評判は貶められた。ちなみに、かの有名なカリオストロ伯爵も巻き添えで逮捕され、のちに無罪となっている。

ヴォーティガンとロウィーナ(1796年

19歳のウィリアムヘンリー・アイアランドは、父親を喜ばせるためにシェイクスピア手紙文書を偽造するようになった。多くの専門家がそれを本物だと鑑定し、ジェイムズ・ボズウェルなどは「我らが詩人聖遺物を生きて見られたことに感謝する」と祝杯を上げたほどだった。ついにウィリアム戯曲の偽作まで行うようになったが、その戯曲「ヴォーティガンとロウィーナ」はあまりにも悲惨出来栄えだった。また、その頃にはエドモンド・マローンによる批判も広まっていた。ウィリアムは罪を自白したが、世間はそれをウィリアム父親が息子に言わせているものだと受け取った。当の父親も、無能な息子がそんなものを書けるわけがないと、死ぬまで贋作であることを信じなかった。

プリンセス・カラブー(1817年)

イギリスで異国の言葉を話す身元不明女性保護された。ある船乗りが「言葉が分かる」というので通訳となった。船乗りによれば、彼女インド洋島国王女ラブーであり、海賊に囚われていたが逃げ出してきたのだということだった。彼女地元の有力者たちのあいだで人気となり、またその肖像画新聞掲載されて広まった。しかし、その新聞を見た人から通報があり、彼女メアリー・ベイカーという家政婦で、架空言語を作り出して、カラブー王女のふりをしていただけだということが判明した。

ポヤイス国(1822年)

イギリス軍人グレガー・マクレガーは、中南米で実際に功績を上げたのち、イギリスに戻って「ポヤイス国」への移住者募集した。ポヤイス国は南米の美しい楽園で、土地は肥沃であり、砂金が採れると喧伝された。ポヤイス国の土地役職通貨などが高額で売りに出された。それを購入した二百七十人の移住者グループが船で現地へ向かったが、そこにポヤイス国など存在しなかった。荒れ地に放り出された移住者たちは次々に死んでいった。マクレガーフランス高飛びし、そこで同じ詐欺を働こうとして失敗した。さらベネズエラへと逃げて、そこで英雄的な軍人として死んだ。

ピトケアン島の独裁者1831年

アメリカ冒険家だったジョシュアヒルは、ハワイ移住しようとして失敗した後、タヒチ島からピトケアン島へと渡った。ピトケアン島は、イギリスからタヒチまで航海したのちに水兵たちが反乱を起こしたという「バウンティ号」の生き残りと、その子孫たちが暮らす絶海の孤島だった。ヒルは、自分イギリス政府から派遣された要人だと嘘をつき、独裁者として君臨した。逆らう者には容赦なく鞭を振るい、恐怖で島を支配した。それから6年後、通りすがりイギリス海軍の船に島民たちが助けを求めたことで、ついにヒルは島から追放された。

ティッチボーン事件1865年

イギリスの名門ティッチボーン家の長男ロジャーは、1854年南アメリカ沖で海難事故に遭って亡くなっていたが、その10年後にオーストラリア肉屋を営む男が「自分ロジャーである」と名乗り出た。翌年、ロジャーの母である未亡人と「ロジャー」はパリで面会した。華奢だったロジャーとは違い、「ロジャー」は体重100kgを超える粗野な男だったが、未亡人は彼こそがロジャーだと認めた。貴族を名乗りつつも労働者であった彼は、イギリス庶民からも大いに人気を集めた。しか未亡人が亡くなった後、裁判において彼は偽者であるとの裁決が下され、14年の懲役刑を課されることになった。

カーディフ巨人1869年

ジョージハル進化論を支持する無神論者だったが、聖書に登場する巨人実在について口論となり、それがきっかけで巨人化石捏造することを思いついた。石膏を巧みに加工し、毛穴まで彫り込んで、いかにも偶然発見たかのように装って大々的に発表した。専門家たちはすぐに偽物であることを見抜いたが、キリスト教原理主義者の一部は進化論への反証としてこれを支持し、また全米から多くの見物客がやってきた。フィニアス・テイラーバーナムが同様に巨人化石見世物にしはじめたことで、ハルバーナムを訴えるが、その裁判取材していた新聞記者がハルの雇った石工を突き止めて自白させたため、ハル観念して偽造を認めてしまった。

ケーペニックの大尉1906年

ドイツの靴職人ヴィルヘルム・フォークトは、古着屋で軍服軍刀などを購入し、「プロイセン陸軍大尉」に変装した。彼は大通りで立哨勤務をしていた近衛兵に声をかけ、十数名の兵士を集めさせると、ケーペニック市庁舎に踏み込んだ。フォークトは、市長秘書らを逮捕し、また市の予算から4000マルクほどを押収すると、兵士たちにこのまま市庁舎占拠するよう言いつけ、自分は悠々と駅に向かい新聞記者から取材に応じた後、列車に乗り込んで姿を消した。彼はすぐに逮捕されたが、ドイツ全土で人気者となり、時の皇帝によって特赦を受けた。

ピルトダウン人(1909年

イギリスピルトダウンでチャールズドーソンによって発見された化石は、脳は現代人のように大きいが、下顎は類人猿に似ている頭蓋骨だった。ドーソンはこれをアーサー・スミス・ウッドワードと共同で研究し、人類の最古の祖先として「ピルトダウン人」と名付けて発表した。当時は大英帝国繁栄期であり、人類発祥の地がイギリスであるという説は強く関心を持たれた。しか1949年フッ素年代測定により、ピルトダウン人の化石捏造されたものだと断定された。捏造犯人は未だに分かっておらず、『シャーロック・ホームズ』の作者であるアーサー・コナン・ドイル真犯人だという説まである

エチオピア皇帝事件1910年

後に作家となるヴァージニア・ウルフを含む6人の大学生たちは、外務次官の名義でイギリス艦隊司令長官に「エチオピア皇帝艦隊見学するので国賓として応対せよ」と電報を打ってから変装をして戦艦ドレッドノートが停泊するウェイマス港に向かった。ぞんざい変装だったにもかかわらず正体がバレることはなく、イギリス海軍から歓待を受けた。彼らはラテン語ギリシア語を交えたでたらめな言葉を話し、適当ものを指して「ブンガ!ブンガ!」と叫んだりした。ロンドンに帰った彼らは新聞社に手紙を送って種明かしをし、イギリス海軍の面目は丸潰れとなった。

アルバニア王オットー1世1913年

ドイツ曲芸オットー・ヴィッテは、アルバニア公国独立の際に「スルタンの甥」のふりをしてアルバニアへ赴き、嘘がバレるまでの五日間だけ国王として即位した、と吹聴した。そのような記録はアルバニアにもなく、当時からオットー証言は疑わしいものとされていたが、オットードイツ国内でよく知られ、新聞などで人気を博していた。オットーが亡くなったとき、その訃報には「元アルバニア王オットー1世」と書かれた。

コティングリー妖精事件1916年

コティングリー村に住む少女フランシスグリフィスとエルシー・ライトは、日頃から「森で妖精たちと遊んでいる」と話していた。ある日、二人が撮影してきた写真に小さな妖精が写っていたことに驚いた父親は、作家アーサー・コナン・ドイルに鑑定を依頼した。そしてドイルが「本物の妖精」とのお墨付きを与えて雑誌に発表したため、大騒動となった。50年後、老婆となったエルシーは、絵本から切り抜いた妖精を草むらにピンで止めて撮影したと告白した。しかし、フランシスもエルシーも「写真は偽物だが妖精を見たのは本当だ」と最後まで主張していた。

アーン・マレー(1943年

オーストラリア現代詩誌『アングリーペンギンズ』に、25歳で亡くなったという青年アーン・マレーの詩が、彼の姉であるセルから送られてきた。『アングリーペンギンズ』誌はこれを大きく取り上げて天才と称賛した。しかし、これは保守派詩人であるジェームズマコリーハロルドスチュワートが、現代詩を貶めるためにつくったデタラメものだった。この事件によりオーストラリア現代詩壇は大きな損害を蒙ったが、1970年代に入るとアーン・マレーの作品シュルレアリスム詩として称賛されるようになり、以降の芸術家に大きな影響を与えるようになった。

タサダイ族(1971年

フィリピンミンダナオ島で、文明から孤立したまま原始的暮らしを続けてきたという「タサダイ族」が発見された。彼らの言語には「武器」「戦争」「敵」といった言葉がなかったため「愛の部族」として世界的な話題になった。彼らを保護するため、世界から多額の寄付が集まり居住区への立ち入りは禁止された。しかし15年後、保護地区に潜入したジャーナリストは、タサダイ族が家に住み、タバコを吸い、オートバイに乗っているのを目撃した。全ては当時のフィリピン環境大臣マヌエル・エリザルデJr.による募金目当てのでっちあげだったとされた。

ソーカル事件1994年

評論雑誌ソーシャルテキスト』は、「サイエンス・ウォーズ」と題したポストモダニズム批判への反論特集に、アランソーカルから寄せられた『境界侵犯すること 量子重力の変換解釈学に向けて』という論文掲載した。しかしそれは、ソーカルがのちに明かしたとおり、きちんと読めば明らかにおかしいと分かるような意味不明の疑似論文であり、ソーカルはそうしたでたらめをきちんと見抜けるかを試したのだった。それはポストモダン哲学者たちが科学用語濫用かつ誤用している状況に対する痛烈な批判だった。

2015-04-19

あるエンジニア挫折と変節

メーカー勤務のエンジニアがいかにキャリアチェンジに失敗し、価値観の転換を迫られ変化しつつあるかについて記す。

話は2009年頃にさかのぼる。リーマンショックと円高、さらには震災により日本の電機業界は縮小を余儀なくされ、度重なる大手企業リストラ報道に触れることで自らのサラリーマンエンジニアとしてのキャリア継続不安を覚えるようになった。

それ以前から自らのスキルの中核が会社本業とは少しずれたソフトウェアWebよりのところにあることを自覚しており、その分野での知識、経験を伸ばすことでエンジニアとしての成長、生き残りの手段と出来るのではないかと考えるようになった。

もともとネット依存な傾向と学術的な活動への未練があってはてな界隈でのの情報収集を行っていたのだが、その中で見いだしたのが機械学習関連の勉強会であった。Web業界を中心とした技術勉強会は2008~2009年からツイッターなどのSNSを通じて盛んになって来たように思われる。機械学習関連の勉強会参加者はその中でも博士課程進学者社会人博士が一般の技術職に比べてずっと多く、知的エリート雰囲気を感じるものであった。

自分勉強会に参加するようになってから少したった2010~2012年頃になると周辺のコミュニティーはどんどんと活気を増していった。

ソーシャルゲーム業界の爆発的な成長、そこではWeb関連の技術とは異なる学術的色彩の濃いバックグラウンドを持った人間を求めていること、待遇も(安定性を差し引けば)伝統的な大企業に劣らないどころか収入技術追求の環境としては遥かに凌駕するものであるとこと、自分と同様電機業出身人間も多く転身していることなどその魅力ばかりが目につくようになった。そして勉強会新興企業が優秀な人材を獲得する場であることにもすぐに気づいた。

そんな空気勝手に感じ取って勉強会ブログSNSでそこそこ積極的情報発信を行うようになっていった。

技術情報を発信する活動承認欲求自己顕示欲を十分に満たすものであり、まさにソーシャルゲームゲーマーにもたらすもの開発者サイドとして並行に体験しているような感じすらもった。しかしその魔力に取り付かれることで成熟した会社業界内のサイロ化した技術習得、それを用いた地道な作業の繰り返しにモチベーションを感じることが出来なくなり、次第にプロジェクト主体的役割を果たすことを避けていくようになった。

昼間の仕事に熱意を持って取り組めなくなったことから不眠そして鬱に悩まされ、仕事と勉学に割く時間の質と量は減っていった。

数年の年月が経過することで勉強会周囲の人間が少数は華麗に、多数はぼちぼち、あるいは人知れず職を変えていった。公の場での発表を続けるもの所属企業を巻き込んでそれを拡大するもの、全く姿を消してしまものなどその動向は様々であった。

周囲を見ると転職成功者SNSを使いこなしてオピニオンリーダーとなるような行動力コミュニケーション能力が頭ひとつ高いようにも見えた。そもそも勉強会に出て発表してある程度の知名度を得るという時点で最低限の技術力、現状の組織には依存しないという意思スクリーニングされていたと言えるのかもしれない。

そんな周りの人間の状況や数年にわたる知識の蓄積、景気の改善人工知能機械学習統計などの分野へ全ての産業が注目しているような状況を追い風と感じて2014年後半から2015年に掛けて本業リンクした業界活動をしてみた。

しかしながら会社において明確な業績がある訳でもなく、また活用できるような知名度や人脈があった訳もなかったからなのかあえなくお祈り攻勢にあうようになった。

もっとも同世代のより経営状況の悪い会社に勤めていた友人と比べると質、量(応募数)ともに圧倒的に少なく客観的に見ても転職の本気度が疑われるような有様で、その姿勢採用担当者に見透かされていたのかもしれない。

転職活動の失敗と並行して仕事勉強会関連の活動という二足のわらじに近い活動は肉体、精神健康を蝕んでいった。

精神的な転機は職場の同期や友人の結婚出産、親世代訃報であった。アラサーライフイベントを避け続けて仕事と勉学に取り組み続けることが精神的に不可能になり、元々あった不眠、鬱傾向に拍車がかかり、休職一歩手前の段階にまで悪化していってしまった。そもそもの自分活動の契機であった電機業界のリストラに伴う人材流動化がもたらした環境の変化が社内に及びそれもまたストレスの原因となった。

恋愛関係サークル活動などの濃密な人間関係経験ストレス解消法が乏しかったこと(いわゆる非リア)が精神健康の維持を妨げていたようにも思えるが、そうでもない人もいるので一概には言えない。元々の体質も影響しているかもしれない。強いて言えばストレス耐性の不足によるものだろうか。

体調の悪化や周囲の同年代ライフスタイルの変化が勉強会を中心とした活動への力を失わせ、また社内における信頼も完全に失われてしまった。

仕事での信頼、そして同期との業界知識経験格差を取り戻すのはほぼ不可能に近く、次の景気後退経営悪化ではリストラ対象になることはほぼ間違いない。だが生活の維持のためには地道な作業の繰り返し=労働必須であること、自分はすでに新技術習得ボーナスがもらえるような年ではない普通以下のおっさんになってしまったこと自覚できたことがわずかな収穫かもしれない。

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