はてなキーワード: 漁師とは
この3点はヤバさのハッピーセットなんやが、未だにknoa氏を有難がろうとしてる連中は、それが分からんのやろなーって思ったわ。
こんなもんをそこそこの理系大学で卒業研究として出そうとしても、担当教授に卒業可能な研究成果として認められない程ハチャメチャなんや。
これは何度も指摘されてる訳やが、予測モデルが存在しなければ誰にも再検証できないし、予測の尤もらしさが検証できない。例えばや、毎日我々が参考にする天気予報にも、当然やが予測に用いた数理モデルが存在する訳や。
それを元にスパコンで計算して過去の例と付き合わせ、予測精度や誤差まで検証したうえで、「こんな感じの精度のモデルをつこうてるから、参考にすべきところは参考にしてな」って予報を日々公開してるんやな。
可笑しいと思った誰かが、それに対して検証し、反論を加えられるだけの材料が揃っているからこそ、広く受け入れられている訳やね!
これは、ほんまにヤバいよ!
例えばやヤードで計測した時速と、メートルで計測した時速を、単位系の変換なしで、数値のみで比較してたらどう思うよ?ガイジやろ、そんなものは?
毎週のように計算方法を変えてるという事はや、本来は以前の計算結果と単純に比較する事は絶対に許されないレベルのアホのやる事な訳やね。仮にも数字を扱ったことがある人間なら、まずやらんことや。
もしも計算方法を変える場合は、変えた前と後でどの程度の違いが生まれるのか等、採用した手法の尤もらしさを計測しなければならん。それぞれの計算方法の間の変換式の妥当さも証明せねばならない。モデルの尤度を証明するのはメンドクサイのや。
例えばやで、毎日参考にしている天気予報が毎週のように予測モデルを変えているのに、昨年の今の時期の予想はこうでした比較すると・・・とか言われても、鼻で笑うやろ。
もっと簡単に例えるとや、先週までは華氏で温度だしていたのに、今週は摂氏で温度を出していて、共に何度ですと同じ単位であるかのように比較されるのとまったく同じことなんやね。意味なしやね。
これがトドメやね!w
円周率が3.1か、3.14かでは大きな違いがあるけど、それを勘で出しましたって言われたら、どうですかね?あかんやろ、そんなもんはwその計算結果を信頼しますか?無理やね。
普通は何らかの方法で計算をして出すのや。人力で目で見て適当に推定するって事はどういうことか?本来は客観的であるべき予測に、主観が入るという事や。
天気予報で例えればや、シミュレーションもしないで、雲を見て明日は雨って言ってるのと同じやね。漁師の勘みたいな再検証不可能な俗人的な経験測からくる天気予報は、占いと同じで
それはそれで本人やもの好きに珍重されていい物ではあるが、客観的に使える予測とは言わん訳やね。
以上を踏まえない限りは、何の価値もありません。あんたの来歴なんて、わいがどうでもいいが、予測の信頼性が全く客観的に示されてない以上は、予測した本人の信頼性の無さが問題になるのも避けられんわなあ。
結局はや、この程度のものに踊らされてる時点で、数字を扱う上での常識とか客観性が備わっていなくて主観で物事を見ているということなんやな。
これは一事が万事にあてはまる欠点で、あらゆる場面でおかしなブコメが目立つし後から振り返れば間違っていたという現状の温床でもある訳や。
完成してないワクチンを買うとかwwwって笑ってたブクマカも、いまやワクチン頼みやろ。感染症対策で決定打は集団免疫の獲得で感染しまくる訳にはいかん以上は、ワクチンしかあらへんで!ってのは常識や。
その場の空気や感情やなしに、何が正しいのか?と客観的な指標を持てない、はてな民の病気の現れなんかもしれへんね
なんやら、ブコメを見たら、増田でやってる遊びにごちゃごちゃ言うな。分かってるわ!的なコメントが散見されるけどや
関係各所の専門家にメールをすると言ってみたり、いっぱしの専門家を気取り始めた時点で、バカがやってる遊びでは済まされんものになったんやね。
専門家に専門的に意見をするのであれば同じクオリティで数字を扱えないとダメだし、おまけに無知な人間からお布施まで貰うようになっては、新興宗教と変わらん。
御上に批判的な(連中が集まってくる誘蛾灯な)新興宗教と言うと、どうしてもオウムを思い出すし、増田を遊び場としてるワイ君としては、もはや看過できんちゅうことやね。
風俗嬢は酷い職業だから、もっと酷い職業があるからって、あっていい理由にならない?
確かにそうかもね、倫理的にはね。誰もが安全に、怪我や病気や貧困や死のリスクなく仕事したいよね。当たり前だよね。
だからちょっとでも危険な仕事は職業として認めるべきではないよね。
建築、土木・林業、医療従事者、パイロット、自衛隊、工場勤務、動物の飼育員、騎手、警察官、消防士、漁師、トラックの運転手。果てはオフィスワーカーだって、腰痛やら過労死やらの危険と隣り合わせ。
https://togetter.com/li/1744776#c9350058
女性が性産業で働く自由って、要は内臓を売るとか覚醒剤漬けになる自由を認めるようなものでしょ?そりゃ反対するよ。明らかに身体に害を与える事に対して、自分の意思でやってさえいれば何でも肯定するなんておかしい。
https://togetter.com/li/1744776#c9350081
そもそも「セックスワーカー」なんて言い方がおかしいんだよ。そんなものが「仕事」になっていい訳があるか。「肝臓バイヤー」とか「膵臓バイヤー」と同様におかしい。人権侵害を「仕事」として認めるべきではない。
最初はアニメーターの低賃金労働を心配するようなものと同じでセックスワーカーを心配してるのかなと思ったけど「仕事として認めるべきではない」って断言しちゃってるし、職業自体への差別発言と受け止めて良いでしょう。
・その他「ワーク」全体への無知
の2つに分けられる。
この場合のセックスワークは一般的に想像されるAV女(男)優・風俗嬢とする。
まず日本における彼ら彼女らは「覚醒剤漬け」になんてなってないし、
経済状況が非常に悪い途上国のセックスワーカーを指しているとしたらそれは
「そもそもセックスワーカー関係なくあらゆる人々・日常に覚醒剤がはびこってる」状態の国でしょう。
「内臓を売る」ってのは性器を使うという意味では上記の例ほど荒唐無稽じゃないけど、それは本当に「使ってるだけ」であって臓器の売買と違って永久に戻ってこないものではないし。
そんな言い方するならオフィスワーカーだって眼球を使って仕事してますけど、「眼球を売る」のとは根本から違うよね。
あるいは「犯罪に巻き込まれるリスク」つまり「暴力によって怪我や命を落とす」がすぐに想像できる。
後者で殺人まで至るようなケースであればほぼ100%報道されるので、皆さんも何年かに一回くらいペースでTVで見かけるでしょう。
そうそう実際に発生してるよね、痛ましいよね。
だけどね、それだけで「仕事として認めるべきではない」ってほどではないのよ。
それは何故か?
だって他の仕事でもガンガン怪我するし、病気になるし、死んでるから。「ワーク」ってそういうもんだから。
あなたが知ってるような著名な建築物なら必ず関わった1人2人は命を落としてる。
例えば東京タワーって奇跡の建築だったって言われてて、あれ建てたときに1人しか死ななかったんだよ。
「1人しか死ななくて良かった〜!!」って美談として語られてるんだよ?人が死んでるのにだよ!
https://wawawork.work/workerstrend/skills/635/
800度もの高温リベットを20メートル上にいる職人に放り投げることもザラにあり、このやりとりは「死のキャッチボール」として有名になりました。想像するだけで冷や汗が出そうですね。
〜
1件の死亡事故を出したものの、1958年当時の建設業における年間死亡者数は1846人であったことと照らし合わせると、東京タワーの工事の難易度や当時の安全設備の不備などを考慮しても、驚異的な数字といえるでしょう。
1958年と比べれば近年では相当マシになってるけど、それでも年間で1万3813人が死傷者だそうです(2019年)。
知ってました?
https://www.decn.co.jp/?p=112101
他にも建築に近いところで土木・林業とか、医療従事者は感染症の危険が高いとか、
パイロットは0.1%くらい死ぬとか、職業軍人なんて怪我せずに帰れる方が珍しいとか、
工場では指や腕が切断されたりひしゃげるなんてしょっちゅうで、
他にも動物の飼育員とか、騎手とか、警察官とか、消防士とか、漁師とか、トラックの運転手とか、とにかく危ない仕事なんてこの世の中にいっぱいいっぱいいっぱいいっぱーーーーーーーーーいあるの!!
そしてそういう危険な仕事に従事してるのは大半が男性ばかりなのも知っての通りですね。
nanaminoさんは女性だから、この社会で男性ばかりがこういうリスクを負った仕事を担ってることには一切興味ないですかね。
そんなのはどうでも良くて、結果としての平均賃金の差の方が気になりますか?ごめん、これは本当に話が逸れた。
ただね、こういうのって無知もそうだけど「想像力」だと思うのよ。
自分以外の他人への興味というか、「もしかして危ない仕事ってたくさんあるんじゃないか?」って想像することができればさ、
手元のデバイスでちょっとポチポチやればすぐに数字が出てくる良い時代じゃないですか。
でね、「俺は頭は良くないけど身体を動かすのは得意だし手先も器用だ」って思って建築現場で働いてる人だっているじゃないですか。
(もちろん腕っぷしに自信なくても他はそれ以上にもっとできなくて消極的に選んでる人もいるよ)
外野から「明らかに身体に害を与える事に対して、自分の意思でやってさえいれば何でも肯定するなんておかしい」って言われなきゃいけないですか?
風俗嬢だって、少なくとも時間単価では明らかに「高給取り」ですよね。
他に得意なことはなくても対人サービスが得意とか、生まれつき人に好かれやすいとか、そういう自覚を持ってリスクがあっても高給な仕事を選ぶことだってありますよね。
次にお前は
「ならそういう仕事ももっと安全性を高める努力をしたらいいんじゃないですか?男性も女性ももっと自分を大切にしよう!」
「国が悪い、政治が悪い、社会が悪い、とにかく私は知らんから誰か偉い人がなんとかしろ!」
うるせーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
それができりゃ最初からやってるわ!!!!!!!!!ボケ!!!!!!!!!!
ハァハァ……。
とにかく世界にもっと興味を持って、たくさんのことを知ってください。よろしくおねがいします。現場からは以上です。
「女性が性産業で働く自由って、要は内臓を売るとか覚醒剤漬けになる自由を認めるようなものでしょ?」は愚行権の例えであって性産業で働くことで内蔵を売る羽目になったり元締めに薬漬けにされることを指しているわけではなく、あくまで例えであるというツッコミを受けました。
すいません、これは純粋に気が付きませんでした。
だって内蔵を売るのは金を得るためだから共通点あるけど(それでも金なくてメルカリで身の回りのものを売るようなもので「職業」と比較するか?と思いますが)覚醒剤にハマるのはそもそも仕事でもなんでもねーじゃん。まさか性産業で働く人は自分の快楽のためにやってる人ばかりだと思ってんのかな。
オフィスワーカーだったとしても趣味で毎日出社して机に向かってる人はそんなにいないんじゃないですか?無給だったらやらんでしょ。
「ちょっと面倒だったり嫌なことでも相応の対価がもらえるから続けてる」って仕事はこの世の中にたくさんあると思いますよ。その自由を否定してくるのは無理筋。
つーか自由意志に基づくヤク中と同列に並べるって、差別意識が強烈すぎんか。分かりたくもないわそんなの。
(性嫌悪に基づく)「職業として認めるな!」って声とか「薄汚い仕事」って偏見があるから社会・政治のコンセンサスとしていつまでも認められない実情があるわけで、
他の3K仕事と同じくちょっとリスクがあろうが(他のサービスに比べて大金が払われるくらいには)需要があるのに何故か苦しい状況に置かれてる。
合法化したほうが業界団体ができたり、まともな資本が入ってきたりして安全面含めたセックスワーカーの労働環境がどんどん良くなっていくと思う派です。
漁師町の相場は知らんけど、そもそも都会というか漁港が近くにない町の刺身の相場はめちゃくちゃ高い。
例えば俺は東大阪っていう工場とDQNとキチガイしかいない町に住んでるけど、
スーパーで刺身を買おうとするとマグロが6切れで300~400円くらいする。
しかも普通のチェーン店のスーパーだからめっちゃいいマグロってわけじゃない。
ちゃんとした店でちゃんとした鮮魚でやろうと思うと1500円くらいはするのかっていうのはわかる。
ただ、そういうスーパーは大概切り落とし詰め合わせみたいなのが400円で売ってて
海鮮丼の小一杯分くらいの量はあったりするのでそれで間に合わせてる。
観光気分でいつもとテンション違うから、2000円前後の海鮮丼も平気で食べちゃう。
地域の人と割と関わる仕事なので、気が付いたら漁師の知り合いが何人かできた。
ありがたいことに、定期的に信じられない位の量の海産物をもらう。
(家庭用の冷蔵庫では入りきらないので、先日遂に上開き式の冷凍庫を買ってしまった)
中には高級食材だったり、幻と称され高値で取引されるものもある。
何度「これ、もうそろそろお店開けるのでは?」と思ったことか。
漁師から貰えなくても、そこら辺にあるスーパーで鮮魚が安く買える。信じられない位安い。
鮮魚店では数十円で買えることもあり、今年はプリップリのイワシが駄菓子レベルの値段で叩き売りされている。
どちらも刺身で食べると最高に美味い。
それ以外の美味しい魚も安く買えるので、観光で来て車中泊だったり、宿泊のみで利用する人はスーパーで魚を買って
自分で海鮮丼にした方が安いし美味い(ゴミはきちんと捨てるように)。
こだわっているお店もあるだろうけど、少なくとも自分が住んでいる地域にある海鮮丼からはやる気が全然感じられず、
何度か付き合いで食べたがお世辞にも美味しいとはいえなかった。
https://giovanni-ihatov.hatenablog.com/entry/2021/06/20/223641
代表に選ばれた1000人が議論したならば「血肉になった政策が得られる」とかなんだそれは
その重みに耐えきれないひともいるだろうし、そもそも背負いたくもないと思っているやつ
違うよ
専門に利害調整をしてくれる人間で、その責任を背負って立候補し、強い権限と多額の報酬を得る
農家と漁師と酪農家と商社と製造工場と建設会社と町の小売店と大店舗と病院と飲食店と etcetc
老若男女、貧富、都会と寒村、障害 etcetcetcetc
それぞれの利害調整を国民に丸投げか?
そこまでの「重さを背負わせる」なら、そいつらには当然に、「強い権限と多額の報酬」が与えられるんだよな?
それを企画した何某だけが、代議士の権限と報酬を得て、それに踊らされた人民は責任だけ負わされる
なんてことないよな?
一部の「思想信条で政治ができると信じる人」の、「国民が政治に目覚めれば国が変わる」みたいなの、なんかズレてんだよ
そして、政治家の仕事は、政治が仕事じゃない人間の代弁をし、国会で利害調整をすることだ
綺麗事を言う議員を求める肉屋が居ても良いが、商店街に便宜を約束する市議に投票する肉屋は、なぜだか「反戦」なんかを掲げた市議に投票する肉屋に劣るわけではないし、汚れてもいない
<サンチャゴ>
まず、「これで良い。」と思える事。自己肯定、ここから全てが始まる。
対人恐怖症とか人間不信とかに陥ってた時があった、と。(医者にもかかっていたらしい)
そこから抜け出すきっかけが、「これで良いんや。」と自分自身に言い聞かせた事だった。
「下手だろうが何だろうが、自分にしか出来ない自分の落語をやれば良い。」と。
で、逆算。
あとで「これで良い。」と思える行動を取る様、常に心がけておけば良い。
それは『やるべき事をやる。』と言う事。
やるべき事をやって、それでもダメなら仕方が無い。
三日の内、2日は普通に漁をし、残りの1日だけ大魚を狙うなら、
日々の糧や新しい網を手に出来たのにも関わらず、彼は漁の全てを大魚に費やした。
ドラクエの「勇者」はざっくり説明すると「魔王」と対峙するものである。
まおゆうは言わずもながであるが、転スラの「勇者」と「魔王」の関係はドラクエに近い。
ドラクエといえば「勇者」と思われがちだが、「勇者」が主人公のナンバリングは 1、3,4,11 と少ない。8 や 9 に至っては「勇者」の概念がかなり希薄だ。
また、先ほど述べた「魔王と対峙する勇者」も厳密には 3,4,5,10、11 のみとなる。
最新作の 11 は「勇者」らしい勇者であるが、作中では追われる立場にある。
「勇者」を職業として見た場合、デイン系の魔法やベホマズンが使えるのが特徴だ。ただし、「勇者」だけが使える特権というわけでもない。また、「勇者」のみが装備できる武具が存在し、それが「勇者」の証でもある。
ほぼすべてのナンバリングに言えるがドラクエは「勇者」というよりも「血統主義」の方が濃いと思う。
作中のセリフから推測するに、主人公以外にも「勇者」が旅立っているようだ。
1 同様にロトの子孫であることが重要視される。「勇者」として扱われることもあるが、物語上は「ローレシアの王子」としての立ち回りが殆どである。
サマルトリアの王子、ムーンブルクの王女もロトの末裔であるが、ロトにまつわる武具を装備できるのは主人公であるローレシアの王子だけである。
オルテガもその子も、魔王バラモスの討伐に旅立つことから「勇者」と呼ばれるのだろう。
生まれながらに特別な力を持っており、勇者にしか装備できない武具がある。
4 と同じく天空の勇者のみが「勇者」であり、それを探すのが主人公の目的となる。
ダーマの神殿で転職できる。特定の職業を習熟すれば、誰でも「勇者」になれる。
ただし、主人公は他のキャラクターよりも「勇者」になる条件が緩い。
主人公は「勇者」ではないが、伝説の武具を装備できるなど、5 までの「勇者」に近い特性を持つ。
6 同様に「勇者」は職業の一つ。ただし、6 のように主人公が勇者になりやすいなどの遊具処置はない。
主人公のみが装備できる武器が存在するが、6 程に特別感はない。
主人公はデイン系やベホマズンが使えるので「勇者」的なポジションだが、作中ではドラクエ的な「勇者」の概念は存在しない。
クリア後に「勇者」と呼ばれるシーンがある。3 のラーミアと同一とされるレティスとの関わりや、裏ボスが竜神王であることから、これまでのナンバリングに則り「勇者」と呼ばれているような気がする。
転職システムはあるが、6、7 のような職業としての「勇者」も存在しない。
天使であるため人間ではないが、天使として特別な血統を有するわけではない。
主人公は「勇者」ではない。基本的には、人間以外の種族で冒険を行う。
生まれながらに特別な力を持つ、さらに亡国の王子と属性てんこ盛り。
デイン系やベホマズンが使え、専用装備も存在するなど、システム面でも過去作の「勇者」の特性を有している。
ただし、物語上は追われる勇者で必ずしも讃えらる存在としては描かれていない。
まとめてみると、元増田のイメージするドラクエの「勇者」は 3,4,5 ではなかろうか。
ただし、5 は主人公ではないけども。
いま住んでいる部屋は、トイレが極端に狭い。便器と壁の間が30cmしか離れておらず、座っただけで頭が壁につく。普通に立ち上がろうとすると顔をこすりつけてしまうので、体をひねりながら立たねばならない。こんな環境で落ち着いて用を足せるはずもなく、おかげで毎日便秘気味である。
私は無職なので、不動産屋がまともな物件を紹介してくれない。ままよと契約を申し込んでも、保証会社の審査で落とされる。諸事情のため引っ越さざるをえなくなったとき、かろうじて見つけたのがこの物件だった。ワンルームにしては居室が広く、10畳もあったが、6畳間の物件と同程度の家賃だった。暮らし始めてからその理由が分かった。
職がないことがそんなに悪いのか。金がないことがそんなに悪いのか。金がないだけで、なぜこんな思いをしなければならないのか。
そもそも、人間が生きるのに金は必要ない。衣食住があれば十分で、金はそれを得るための手段にすぎない。それなのに、誰もが金を有難がる。金なしでは生きて行けないと思い込んでいる。なぜそんな思い込みが生まれるのか。
私は理由を知っている。それは、政府が税金を取るからである。金を持っている人は政府に税を納めることができる。ゆえに、金は正義である。
たとえば、江戸時代の農民が貨幣にとらわれない生活をしていたように見えるのは、政府が米を税として徴収していたからである。この場合、金を持っていなくても税を治めることができる。ゆえに、金は正義ではない。
では米が正義かというと、政府は他の形でも税を徴収していた。むかし王朝時代には租庸調という三種の税があった。租は穀物、庸は労役、調は特産品である。百姓は米を納め、漁師は海老やアワビを納め、武芸に秀でた者はその技を納める。それぞれの職能に応じて、その生産物を納めさせた。このような制度によって、仕事の多様性が尊重されていたと言える。すべての労働の成果を貨幣という単一の基準で量るのではなく、それぞれの仕事に応じて、その成果物を評価した。これによって、仕事の多様性のみならず、人間の生の多様性が肯定されていたのである。
貨幣は、あらゆる人間の生活を塗りつぶして単一の色に染め上げてしまう。どんな仕事の成果も貨幣によって量られ、その固有の意味は失われる。
その弊害はすでに社会の至る所に現れている。貨幣に基づく税制は、古今未曽有の悪政である。我々は税制の根本的な転換を求めねばならない。
漁港の街で私は生まれ育ち、私の両親の友人には多数の漁業関係者が存在した。私が幼い頃は、父も本業の合間にパートタイムで彼らの漁船に乗っていた。このため現在に至るまで、魚介類に関しては新鮮かつ上質のものを食べられると云う恵まれた境遇にある。決して裕福な家庭ではなかった(だからこそ父もパートタイム漁師をしていた)が、魚介類に関しては、近所の漁師のおじさんおばさんが呉れるもので事足りていた。おそらく私の実家は、金を出して魚介類を食べることはゼロに等しい。私が「わざわざお金を出してまで、外食で焼き魚を食べる気にならない」と言う理由は、これである。
はてなブックマークでは「増田は美味しい焼き魚を食べられる店を知らないのだろう」といった声も有ったが、そもそも「美味しいものを食べられるのは外食の店だけ」というのが、都市部居住者の傲りである。はてなブックマーカーは都市部居住の富裕層が大多数だから、良い魚介類を外食の店に行かなくても食べられるような「田舎の漁業関係者やそれに近しい人間」の存在など、頭に浮かばなかったのだろう。まるで、美術館で若い女性観覧者を見つけると、勝手に初心者だと決めつけてレクチャーを始める「教えたがりオジサン」のように。
このような美味しい魚介類を好きなだけ、たらふく食べられる境遇で育てられたため、魚の骨を綺麗にむしって余すところなく食べるように、私は両親から入念に教育された。これは現在でも変わらない。家族以外の人間との食事の席で、しばしば「骨格標本でも作るつもりか?」とドン引きされる始末である。頬肉を食べて眼球をしゃぶるぐらい、焼き魚を食べるならば普通のことだ。
非都市部の非富裕層で育てられたので「好き嫌いを言わず、食卓に出されたものは残さず有り難く食べろ」「食べ残しは二度の殺生」と躾けられた。だから私の前に出されたものは、全て有り難く食べる。それが礼儀である。仮に「郷里で食べられる新鮮かつ上質な魚介類」には遥かに劣るような代物であっても、である。そんな時でも、骨むしりマシーンとして育てられた私の習性は、遺憾無く発揮されてしまう。ボクサーが反射的にコンビネーションブロウを出すようなものである。
ボロボロ溢れやすい食べ物も勿論ちゃんと残さず食べる。単に「自分から進んで選択しない」というだけのことである。だから、食べ残しされた可哀想な三色そぼろは存在しない。安心して欲しい。
鮎はどうなのか?と言う声も有ったが、答えは一つである。頭から丸齧りして骨一つ残さず食べる。他にどうしろと言うのだ?鮎は、焼くだけでなく甘露煮も良い。
美味しい鮎だけでなく、現在の居住地では、妻の実家のツテでイノシシ肉、果物、米を食べる機会が多い。これらも当然「わざわざ外食で食べたくないもの」である。
最後に一つ、これだけは言っておきたい。
漁港の街で生活してると上質な魚をタダだったりタダ同然の価格で貰えるの絶対嘘だろ。売り物を知り合いに採算度外視で配るっていくらなんでも漁師をバカにしすぎだろ。まともな人間なら売り物は売るものなので知り合いなんかに渡さずに市場で売ります。
漁港の街で私は生まれ育ち、私の両親の友人には多数の漁業関係者が存在した。私が幼い頃は、父も本業の合間にパートタイムで彼らの漁船に乗っていた。このため現在に至るまで、魚介類に関しては新鮮かつ上質のものを食べられると云う恵まれた境遇にある。決して裕福な家庭ではなかった(だからこそ父もパートタイム漁師をしていた)が、魚介類に関しては、近所の漁師のおじさんおばさんが呉れるもので事足りていた。おそらく私の実家は、金を出して魚介類を食べることはゼロに等しい。私が「わざわざお金を出してまで、外食で焼き魚を食べる気にならない」と言う理由は、これである。
はてなブックマークでは「増田は美味しい焼き魚を食べられる店を知らないのだろう」といった声も有ったが、そもそも「美味しいものを食べられるのは外食の店だけ」というのが、都市部居住者の傲りである。はてなブックマーカーは都市部居住の富裕層が大多数だから、良い魚介類を外食の店に行かなくても食べられるような「田舎の漁業関係者やそれに近しい人間」の存在など、頭に浮かばなかったのだろう。まるで、美術館で若い女性観覧者を見つけると、勝手に初心者だと決めつけてレクチャーを始める「教えたがりオジサン」のように。
このような美味しい魚介類を好きなだけ、たらふく食べられる境遇で育てられたため、魚の骨を綺麗にむしって余すところなく食べるように、私は両親から入念に教育された。これは現在でも変わらない。家族以外の人間との食事の席で、しばしば「骨格標本でも作るつもりか?」とドン引きされる始末である。頬肉を食べて眼球をしゃぶるぐらい、焼き魚を食べるならば普通のことだ。
非都市部の非富裕層で育てられたので「好き嫌いを言わず、食卓に出されたものは残さず有り難く食べろ」「食べ残しは二度の殺生」と躾けられた。だから私の前に出されたものは、全て有り難く食べる。それが礼儀である。仮に「郷里で食べられる新鮮かつ上質な魚介類」には遥かに劣るような代物であっても、である。そんな時でも、骨むしりマシーンとして育てられた私の習性は、遺憾無く発揮されてしまう。ボクサーが反射的にコンビネーションブロウを出すようなものである。
ボロボロ溢れやすい食べ物も勿論ちゃんと残さず食べる。単に「自分から進んで選択しない」というだけのことである。だから、食べ残しされた可哀想な三色そぼろは存在しない。安心して欲しい。
鮎はどうなのか?と言う声も有ったが、答えは一つである。頭から丸齧りして骨一つ残さず食べる。他にどうしろと言うのだ?鮎は、焼くだけでなく甘露煮も良い。
美味しい鮎だけでなく、現在の居住地では、妻の実家のツテでイノシシ肉、果物、米を食べる機会が多い。これらも当然「わざわざ外食で食べたくないもの」である。
最後に一つ、これだけは言っておきたい。
シン・エヴァンゲリオン。
その風景がかつて数年通ったあの村にそっくりだった。うん。そっくりさんだ。
港は壊滅的なダメージを受けていた。コンクリートの建物がごろりごろりと転がっている。
海に向かって破壊された巨大なケージのような建物があった。漁船に氷を積み込む基地だったという。
そこから見る海はどこまでも澄んでいた。漁師のお爺さんもこったら綺麗なのは見たことがねえという。
集落から離れて、ぼろぼろのガレージで暮らす人もいたなあ。。。
慣れた土地から離されてくしゃくしゃに集められ、無理やり仲良く暮らしていた。
そこに訪ねていくと、大人も子供も津波がどんなだったか・・・を話し続けるのだった。
僕のせいで津波が来た、私のせいで街が壊れたという子供がいた。
何人もいた。なぜかそのように強く信じているんだ。
津波ごっこにキャアキャアと全力疾走で遊んで、ふと俺のせいなんだっていう。
何もしゃべらない人もいた。
どろだらけになって植えていった。さすがに機械だったけど、はじっこの方は手で植えた。
水と風の青いにおい。ずーっとおしゃべりしながら笑いながら。
そして疲れるとおにぎりやおかずを山盛りにして食べ、昼寝をした。
ただ何度かおじゃましただけの村。
今はもう解体されてない村。
納得できないのではない、納得してやらんのだ。
北海道の人口100人にも満たない集落にある漁師の家に生まれ、将来は家を継いで世間知らずであり現金収入は少ないが食うのに困らない一生を過ごす。
そんな選択が俺にはあった。
だけれど、そんな人生に納得できなかった俺は中学卒業と共に実家を飛び出した。
小学校は同級生3人、自転車で2時間先にある中学校は何とか1学年2クラスを作れるという少子高齢が進む地域。
中学では腕っぷしの強くヤンチャな生徒、つまりは不良が幅を効かせているような文化圏、はてブで都会住みの連中がイメージするステレオタイプなド田舎と言って良い。
その当時の大人の世界では義務教育でパソコンを習わせたほうが良いという機運が高まり、各校へパソコンが配備されるようになってきた時代。
しかしながらド田舎の公立高校でそのような先進的な機械が活用されることはなく、暇を持て余したガキだった俺のオモチャへとなるのがせいぜいだった。
田舎には田舎のルールがある。
それは例えば「中学では後輩は先輩に喧嘩で勝ってはいけない」というのもルールの1つだが、クソ真面目にも早朝から起きて実家の漁を手伝い、授業が終われば部活動の野球へ日々精を出していた俺の身体能力は、年上であっても体育の授業をサボるような不良連中より劣っているわけもなかった。
ド田舎の古い価値観を持った父親のありがたい教育方針であった「男がナメられるんじゃねぇ」のもと、先輩たちが売ってきた喧嘩を買いまくり、不良の先輩たちを不登校へ追いやってしまった結果、晴れて俺は学校中からハブられ中学野球の試合にも出られなくなってしまった(野球部には所属してて毎日練習はしていた。先輩たちは卒業まで学校に来なかったが)。
ハブられてしまったため日々暇な時間を過ごすようになった俺が出会ったのが図書室の本と、前述したパソコンだった。
最初はプリインストールされていたソフトで遊んでいるだけだったが、教員も書類はワープロ専用機で作る時代だったのでパソコンの知識がなく管理がザルで、俺はそのパソコンがパソコン通信とインターネットへ接続できることに気が付いてしまった。
Yahooからリンクサイトを経由し、電子掲示板という存在を知った俺は日々電子掲示板サイトへアクセスし、誰とは知らない人たちと会話をして時間を潰した。
話題には事欠かなかったし、専門性の高い話題が出ると「ちょっと待ってね。ここ図書室なんだ」と言ってソレ関連の本を引っ張り出して、パソコンの先に居るお兄さんなのかお姉さんなのか知らないが、興味深い話を日々聴くことが出来た。
「増田クン、これからはPerlの時代だよ」
「いやボク最近やっと思い通りBASIC書けるようになってCの勉強中なんですけど」
「もちろんCは大事だよマイコンに使えるし。でもさサービスを提供するならPerlが向く。DoCoMoのiモードだって裏ではPerlだよ」
「ボクの住んでるとこピッチ圏外ばっかり、田舎だもん」
「iモードはピッチじゃないよ周波帯が違う」
特にコンピュータ関連の話は面白かった。
ゲームは自作できると教えて貰い、プログラミングを始めるようになり、BASICやC、Perl、PHP、Javaをよく触るようになった。
図書室が我が王国のようになり、問題児が図書室に籠もっていてくれているし、図書室通いの結果からか試験の成績も悪くないどころかトップクラスであり教員たちもずっと放置してくれた。
そんな生活の中で知れたのは学区に依存しない高校の存在だった。
寮もしくはアパートなどで一人暮らしをしつつ通える高校が世の中には存在することを知ったのだ。
これだと直感的に思った俺は親父へ直談判することにした。
俺の故郷に未来はないと薄々勘付いていて、正直なところ青二才だったため「じゃあ俺がいい大学入って故郷へ錦を飾れば良いじゃん」と出稼ぎ感覚でいた。
親父は俺の話を無言で最後まで聞いていた。
今思えば何をアホなこと話してるんだと思ったが、一応は国立高校だったため学費はそこまで高くなく、何だかんだで小さな頃から家業を手伝っていた俺がバイトしながら高校へ通うことに関しては古い価値観の「苦労は買ってでもしろ」的な面から了承されたのかなと思う。
おそらく一番困らせたのは高校入学祝いに当時の最新パソコンと引越し先でインターネット回線を引く費用を求めたことくらいだったのではないかと思う。
右も左もわからない状況から一人暮らしを始め、訛りのひどさにクラスでイジられ、バイト先に勤めている大学生の兄ちゃんたちに世話してもらいながらも毎日新しい体験をして過ごした。
世の中は広く世間の移り変わりは早い。着メロは和音が鳴るしディスプレイはカラー。携帯電話の電波は田舎にまで届く。
甲子園を目指したが強豪校はやっぱり強く負けてしまい、人生で初めて望んだ結果が得られないことを経験した。
しかしそれでも俺は何となくコレは真理なんじゃないかと思い始めていた。
そして国立大学へ合格したことを期にコレは真理だと確信したんだ。
今の俺は別に故郷へ錦を飾れたわけでない。
しかし俺は不良が風を肩で切るようなド田舎出身で脳筋な漁師の子だ。根本は変わってないと思っている。
それが今やG社に勤めているって言うんだから人一倍の努力は裏切らねぇなと。
自分が持ってないものが欲しいならば努力するしか方法がない。
学歴が欲しいならば年収が欲しいならば地位が欲しいならば努力するしかないんだよ。
誰もお前のために人生なんかかけてくれない。
お前の人生にかけてくれるのはお前自身しか居ないんだよ。
俺はもっと家事をしたい。家事労働はヒトを幸せにする。掃除や洗濯や修繕や調理を通じて、また、傾聴や会話やスキンシップを通じて、妻や子どもに尽くしたい。それこそがヒト(俺に限らない)の幸せに直結することだからだ。
ヒトは群れで生活する動物だ。他の構成員をケアし、食べ物を分け合って一緒に食べることに幸せを感じる。これは本能だ。また、ヒトは子育てする動物だ。同じ性質を持った他の生物と同様、子育てに喜びを感じるようにあらかじめプログラムされている。
ベンジャミン・フランクリン効果(助けた相手のことを好きになるという認知的不協和)も無視できない。手がかかる子ほどかわいい、という結果は、手をかけたという事実が生むものだ。家族に尽くせばつくするほど、家族への愛着は深まる。
幸せというのは、受け取った愛情で決まるのではなく、与えた愛情で決まる。愛されているから幸福なのではなく、愛しているから、愛を表現しているから幸福なのだ。実際に手をかけて、家事をし、話をし、食卓を囲むことで、そのように愛情を行動に移した者の幸福度が上がる。家事はその担い手を幸福にする。
しかし現実、俺の家事負担は小さい。週にわずか6回、土曜の昼食から月曜の朝食の調理(買い出しと後片付けを含む)を担当しているのと、家や家財や車や自転車などの修繕全般を担当しているほかはすべて手伝い程度で、家事らしい家事は何も担当できていない。俺が長時間の賃労働に縛り付けられているためだ。
家事だけではない。育児も限定的だ。子どもの世話をしたり、子どもとともに食卓を囲んだり、さまざまな話をしたり、勉強や料理やスポーツを教えたり、宿題を手伝ったりといった、育児にかかわる時間の大半を賃労働に奪われている。これもまた、俺のヒトとしての幸福を大いに損なっている。
本邦の男女には世界一の幸福度格差(女性の幸福度が高く男性のそれは低い)がある。これを男性の視点で説明するなら、賃労働負担の大きさと、家事参加の少なさという両面が原因だ。とりわけ家事の少なさは重大だ。我が国の男性は世界一家事をしない。多くの男性は幸せを賃労働に奪われているのだ。
我が家も結婚当初は、夫婦両方がフルタイムで働きつつ、平等に家事を分担し、夫婦の両方が幸福を感じていた。だが子どもができて夫婦で話し合った結果、俺がフルタイム労働でさらに残業を増やして家計を支える中心となり、妻はパートタイム労働の兼業主婦になることにした。
俺がパート主夫になる案も真剣に検討したものの、却下せざるを得なかった。理由は、当時30代前半だった俺が昼間にパートまたは時短で働けて、家から近い職場がないことだった。ジェンダー不平等を実感したのはこのときだ。オッサンが兼業主夫になるのは非常に難しい。
結果、俺は大半の家事を妻に任せ、ごく一部しか担当できなくなってしまった。うちの場合、家事全般について妻より俺のほうが得意である(あくまで自己評価だが)にもかかわらず、だ。逆に、賃労働の能力は俺よりも妻の方が高い(と俺は思う)にもかかわらず、彼女はフルタイムの労働を失った。
俺は、この国のジェンダー不平等を恨んでいる。俺を賃労働に縛り付け、家事や子育て(つまり俺の幸福)を奪ったからだ。
また、ほどよく分担できていれば、家事労働はそれをする者を幸福にする。だが、過分に割り当てられてしまえばそうも言えない。俺の妻はそれほど家事全般が得意でないにもかかわらず大半の家事を負担しており、せっかくの家事労働の多くが単なる面倒なタスクになりがちだ。これは幸せなことではない。
ジェンダー・ギャップ、幸福度格差、不公平な家事負担、結果としての男女の賃金格差などはすべて、要するに労働問題だ。男女で賃労働と家事を公平に担当しにくい現行制度に原因がある。なので以下のようなことを強力に推進すれば、諸問題はすべて(少なくとも我が家が抱えているものはすべて)解決する。
俺は「意識のアップデート」だの「意識改革」だのというものには期待していない。そんなものに期待していたら、ジェンダー・ギャップは永遠に解消しない。なぜならジェンダー・ギャップは、制度的な介入をせずに放置していれば自然に拡大していく性質を持っているからだ。
これは良い悪いの話ではない。生物としての自然な本能と、適応の結果に過ぎない。
まず女性の上昇婚志向がある。これは世界中のどんな社会にもあるものだそうなので、生物としての本能と言える。より多くの資源を獲得する能力を持つオスに魅力を感じることは、生物としてまったく自然だ。そして、ヒトのオスがそれに適応しようとするのもまた本能であり、生物としてまったく自然なことだ。
ただし社会全体でこの本能に適応すればするほど、ジェンダー・ギャップは拡大する。女性の上昇婚志向に適応した男性たちは、すべての資源を男性たちだけで独占し、資源へのアクセス権を女性から剥奪する。前世紀まで、まさにそのような社会が世界中で構築された。
このようにヒトの本能はジェンダー・ギャップを拡大し固定化する方向に作用するため、ジェンダー平等が自然に実現することはない。相手は無意識下の本能だ。意識改革では解決できない。制度改革でしか実現できないものだ。
現実的な解は、強制的なクオータ制の導入だ。繰り返すが、意識で本能は変えられない。だから制度を変えるのだ。クオータ制は、結果平等の観点で厳格なものであればあるほどよい。
政治家や企業役員はもちろん、あらゆる職種で男女比が1:1なるように枠を設け、罰則付きで厳格に運用する。外科医も、看護師も、消防士も、保育士も、研究者も、レジ係も、漁師も、助産師も、土木作業員も、歯科衛生士も、自衛官も、すべて男女同数にする。当然、仕事内容も拘束時間も賃金も男女平等にする。
当初は各職業における職能水準の低下が問題になるだろう。しかしそんなものは、ほんの20年か30年もすれば解消される。学齢期や新卒時を見ればわかるとおり、平均的な女性の能力は平均的な男性のそれを上回っている。クオータ制の導入で一時的に起きる職能水準の低下の問題は、ほどなく時間が解決するだろう。
賃労働も家事労働も、男女がどちらか一方に押しつけることなく、平等に負担し合う。夫婦のそれぞれが週に20〜30時間ほどずつ賃労働を負担し、あとの時間で生物として家族としての幸せを追求できる世の中になるのが理想だ。
こうなるともはや、主婦(主夫)という概念は崩壊だ。だがそんな概念は産業革命以降にでっち上げられたもので、男性を賃労働で使い倒すための便利な、そして非人道的なジェンダー・ロールだ。こんなものは徹底的に破壊し、すべてのヒトがヒトとしての幸福を追求できる社会を目指したい。
最後にもう一度強調しておく。家事労働を制限されることは、幸福を制限されているに等しい。より多くの賃労働を負担している者は、幸福度において劣後する。
しかし、現行の制度の中で各家庭が個別に部分最適化を進めれば、多くの家庭では、夫は賃労働の奴隷、妻は兼業主婦、という形をとることになる。これは不幸なことであり、制度そのものを改めるべきである。そして、ここまで述べてきた制度改革の過半は、すでにアイスランドなど北欧諸国において実施されている。