漁港の街で私は生まれ育ち、私の両親の友人には多数の漁業関係者が存在した。私が幼い頃は、父も本業の合間にパートタイムで彼らの漁船に乗っていた。このため現在に至るまで、魚介類に関しては新鮮かつ上質のものを食べられると云う恵まれた境遇にある。決して裕福な家庭ではなかった(だからこそ父もパートタイム漁師をしていた)が、魚介類に関しては、近所の漁師のおじさんおばさんが呉れるもので事足りていた。おそらく私の実家は、金を出して魚介類を食べることはゼロに等しい。私が「わざわざお金を出してまで、外食で焼き魚を食べる気にならない」と言う理由は、これである。
はてなブックマークでは「増田は美味しい焼き魚を食べられる店を知らないのだろう」といった声も有ったが、そもそも「美味しいものを食べられるのは外食の店だけ」というのが、都市部居住者の傲りである。はてなブックマーカーは都市部居住の富裕層が大多数だから、良い魚介類を外食の店に行かなくても食べられるような「田舎の漁業関係者やそれに近しい人間」の存在など、頭に浮かばなかったのだろう。まるで、美術館で若い女性観覧者を見つけると、勝手に初心者だと決めつけてレクチャーを始める「教えたがりオジサン」のように。
このような美味しい魚介類を好きなだけ、たらふく食べられる境遇で育てられたため、魚の骨を綺麗にむしって余すところなく食べるように、私は両親から入念に教育された。これは現在でも変わらない。家族以外の人間との食事の席で、しばしば「骨格標本でも作るつもりか?」とドン引きされる始末である。頬肉を食べて眼球をしゃぶるぐらい、焼き魚を食べるならば普通のことだ。
非都市部の非富裕層で育てられたので「好き嫌いを言わず、食卓に出されたものは残さず有り難く食べろ」「食べ残しは二度の殺生」と躾けられた。だから私の前に出されたものは、全て有り難く食べる。それが礼儀である。仮に「郷里で食べられる新鮮かつ上質な魚介類」には遥かに劣るような代物であっても、である。そんな時でも、骨むしりマシーンとして育てられた私の習性は、遺憾無く発揮されてしまう。ボクサーが反射的にコンビネーションブロウを出すようなものである。
ボロボロ溢れやすい食べ物も勿論ちゃんと残さず食べる。単に「自分から進んで選択しない」というだけのことである。だから、食べ残しされた可哀想な三色そぼろは存在しない。安心して欲しい。
鮎はどうなのか?と言う声も有ったが、答えは一つである。頭から丸齧りして骨一つ残さず食べる。他にどうしろと言うのだ?鮎は、焼くだけでなく甘露煮も良い。
美味しい鮎だけでなく、現在の居住地では、妻の実家のツテでイノシシ肉、果物、米を食べる機会が多い。これらも当然「わざわざ外食で食べたくないもの」である。
最後に一つ、これだけは言っておきたい。
魚焼きグリルを汚したくないし、その他のものを使っても魚焼いたら臭いので家でやる理由がない
アユは骨まで食べたくない のどに刺さる
漁港の街で生活してると上質な魚をタダだったりタダ同然の価格で貰えるの絶対嘘だろ。売り物を知り合いに採算度外視で配るっていくらなんでも漁師をバカにしすぎだろ。まともな人...
売れ残ったりするんじゃない?知らんけど
そんなこと言ったら元増田は売れ残りを上等なものだと思ってありがたがってるバカになっちゃうだろ...
上等なものでも日によっては売れ残るのでは?マジでよく知らんけど
魚の市場流通量には限りがあるけど漁師はバカだから資源保護とか考えずに取れるだけ取るから余っちゃうんだよ
農家が大量の野菜を廃棄している様子を知らない?漁業も同じで生産をコントロールするのは難しい。獲れ過ぎたり獲れなさすぎたり。そんなもんだよ