はてなキーワード: 性愛とは
私はISだ。それに、私の父親もISだ。
よく勘違いされて困るのだが、同性愛者ではない。ISで、強いて言えばGIDだ。
しかし、昔から世間は、ISやGIDと同性愛の区別がつかない。私自身も、事実とは異なる噂を勝手にたてられて被害を受けたことがあった。父親も、親や妻からは同性愛者ではないかと疑われていたようだ。
実際には、私も、おそらく父親も、ISであると同時に無性愛者だ。
最悪の失敗は、私の父親が、ISなのに普通に結婚したことだ。「普通に」というのはつまり、カミングアウトしていないで、あたかも普通の男であるかのようにして、ということだ。
それで、母親が私を妊娠した時は、「うちの息子の子どもなわけがない」という騒動になった。実際にはこうして、ISまでキッチリ遺伝しているわけだが。
ともかく、私も母親も、虐待された。母親は結婚した直後から舅姑に虐待され、私は妊娠された時から虐待され、産まれても虐待された。世間ではほとんどの人間は妊娠されたり産まれたりしたときには家を挙げて祝福されるのだろうが、私は、出てきてはいけない子だったのだ。
ついでに言うと、世の中では同性婚を認めるか否かという瑣末なレベルの議論に明け暮れて、そこで止まっている。「同性婚を認めると少子化する」と言う人間がいるくらいだが、同性婚が認められないからといって不幸な異性婚をして不幸な子どもが産まれていいと言いたいのだろうね。
今も昔も、LGBやGIDやISがいて、遺伝もする。
今もいるのは、人類が生き延びてくるために必要だったからだ。ダーウィンの進化論から言っても当然に、そういう帰結になる。
実際に、しばしば救世主を輩出してきた。
LGBTは必要かつ重要な存在なのに、世間からは嫌われ、あたかも存在しないことになっている。
私自身も、父親がカミングアウトしないからなおさらに、自分自身がなんであるかわからずに苦しんでいた。
世間でも、近年に話題になるまでは、ISというものが日本では存在しないかのごとくの雰囲気だった。だから、自分でも自分がなんであるかがわからないで、苦しめられてしまう。
実際には、どうみても周りの人間とは自分が違うことがわかるし、体格や体型や仕草が違うこともわかる。仕草が違うからイジメられることも多かった。私の場合は、見た目や動きが男でも女でもない、なんとも言いようのないものだから、なおさらに周りからは理解不能なのだろう。
服や靴も、合う既成品が見つからなくて困ることが多い。身長と体型が合わない。
ISと言ってもいろいろあるから人によって異なるが、私のように体格に現れている人が少なくないことは、IS当事者の人ならよくわかると思う。
一言で言えばつまり、私のような人間は、世の中からいないことにされていて、世の中のマジョリティの制度を押し付けられて迫害されているのである。
そして、加害者側の人間が、不特定多数であるだけではなくて、当人に加害しているという自覚がない。だから、私にはどうにもならない。
彼氏いない歴=年齢だし、彼氏が欲しいかどうか聞かれるとなんだか居心地が悪い。
腐女子だから好きなキャラクタの恋路や行く末を見ていたいのはよくわかる。
一点違うのは腐女子としては隠れようとしてることぐらい。
私は今はとても気の合う同性の友人とルームシェアして暮らして、
それなりに平和にやっている。
一緒にテレビを見たりお酒を飲んだり、たまには出掛けたりする。
みたくて一生懸命に準備する。
多分、私なりに一番大切にしている友人だと思う。
そのことを他人に話すと、必ず「それって彼氏?」と聞かれる。
「それって彼氏?」を訊かれるのと同じように
無邪気な興味丸出しで「レズなの?」と訊かれることも度々ある。
なんだか気が滅入ってしまって、今ではルームシェアしていること自体
奇異なことなのかと悩む時期もあって、
LGBTについて調べ回ったりもした。
人並に性欲があるはずだが、女の子には興味は向かなかった。
有り体に言えば、ちんこがついてる方がいい。
それでも、今までセックスしたいほど好きな男性がいたかと考えるとわからない。
ある別の友人は「付き合えるか、恋愛出来るかどうかはセックス出来るかどうか」と
男性対しても女性に対しても、友愛の範囲での"好き"はたくさんある。
私が様々な友人に対して持ち続けている"好き"の気持ちには嘘偽りはない。
私はどうしたらいいんだろう。
他人が恋愛に己のすべてを賭けて向き合っているのを目の当たりにするたび、
自分と明らかに違うと実感する。
そして同じような情動が体験出来たらなあ、と常に残念に思う。
同性愛のように人の性愛の多様性を訴えるのは今はもう一般的だけど、
恋愛関係ではない、他者を尊重する関係ももっと広く受け止められてもいいと思う。
お互いを思いやって生きていくほど親しい人が必ず恋愛関係とは限らない。
結婚出来ないとか、子どもが出来ないとか、そういう社会問題に押されて
でも、それが蔓延することで苦しくなる人たちが実際いるわけで、
恋愛したいけど出来ないっていう人も、気楽になっていいと思うんだけど。
誰が誰といようが一人でいようが問われないってすごく楽だろうなあ。
腐女子歴×2≒年齢
彼氏に黙って下準備して突然彼氏のちんこを自分のケツに入れてみた。
5回程したので、それについて書きます。
汚物の話になるけど、まずシャワ浣は風呂の洗い場の排水口を全部掃除する(髪の毛とか取り除く)ことからはじまる。
そしてトラップなどもはずしておく。
シャワ浣後、体が冷えるので湯船はためておく。 体や髪など洗う場合は洗う。
シャワーのヘッドを外してホース部分を気になるならボディソープなどで洗う。
あたたかい、くらいのお湯が5cmくらいの高さになるよう、温度と量を調整する。
勢いが強すぎるとこれもこれでよくない。(重要)
で、ケツの穴に力入れて(力んで)、ホースをつっこむ。
体制は、うんこ座りで、私は片足あげたり、片足つま先立ちしてでした。(バランス悪い場合、風呂イスなどに片足をのせるなど工夫してください)
これ、まぁまぁの確率で1回目、2回目は固形物がでるんだよね。もちろん、大きなものではなくて、最大でも1cmくらいのです。
ユニットバスだと楽なのかなー。トイレとお風呂遠いから行き来が無理なんだよね。
んで、再度書くけど、ケツからお湯を出すわけ。
下痢便出すみたいなもんだから。これで体力が取られるのと、虚しさにげんなりする。
お湯入れて出す、を5回くらい繰り返して、水をなるべく出しきる。
固形物ももう出ない、大丈夫、ってなったら、シャワーヘッド外したところをボディソープで洗って、ヘッドを戻す。
緊張もあるし、体が冷えているので、温めておいた湯船に入ってあったまる。
とにかく、シャワ浣が一番げんなりする。何この非生産的な行為…っていうメンタル的なものと、ケツから水出す不快感。
体が温まると少しよくなるだけど、風呂出ても10分くらいはそんなげんなりが続く。
少し気を持ち直して今度は穴を広げる作業に入る。道具持ってないので指使うしかないんだけど、他人の指は怖い。
慣れてる人だったらいいんだろうけど、相手もアナルセックス初めてなので、とにかく怖い。
ので、自分で広げる。
ローション、乳液、ワセリンと試したけど、ワセリンが一番良かった。チューブ状のだと途中で足したりしやすい。
中は広げる必要なさそう。柔らかいから。内蔵だし。とにかく入り口というか肛門だけ塗って広げておけば大丈夫。
もうベッドには入ってるので相手には適当に他の所をいじっといてもらうといい。
ワセリンは油分なので、ラテックスゴムのコンドームだと不向きなのはわかってるんだけど、
だからといってすぐ溶けたりすぐ破れたりってことはないだろうという判断で
できればポリのコンドームを使うか、またはそれ用のローション買いましょうね。
ちんこはコンドームつけて、ワセリン塗りましょう。とくにピストン時に肛門あたりを行き来する根本まで。
あと、途中で肛門がキツくなったらワセリンを追加してもらうようにしましょう。自分では足せないから。
ここでびっくりしたのが、初めての時でもすんなりちんこは入る!!
とにかくすんなり入ったの!
これテストに出るよ!
シャワ浣後に確認のために指入れたことはあったけど、指以上の太さ・長さのもの入れたことないほぼヴァージンな肛門なんですよ。
それでもすんなりすーっと入るんです。
ちなみに対応してくれたちんこはコンドームLサイズ、なので若干太めです。長さは普通。アナルセックス初体験。
排泄するように力むと肛門が広がり、ちんこは入りやすくなります。
協力して挿入しましょう。
あと、1回目は「あれ?!入るんだ!?」ってので恐怖はありませんでしたが、
2回目と3回目が1ヶ月くらいあいたら怖くなって、入れるときに
ちんこが動いてなければ圧迫感だけなので耐えられる。多少はスライドしても大丈夫。
ただ、抜けきる(カリ部分が外にでる)時は本当に気持ち悪い。排泄感がある。ので、全部抜けないようにしてほしい。
奥はどこまで入れても痛くないし、奥(直腸とS字結腸の間か?解らん)わりと気持ちがよい。
とにかく抜けきりそうになるたびに不快感!「痛い」は全くなく、肛門が乾いてくると引きつるのでワセリン足してもらって、
でも、もうスライドするたびに不快感というか、味わったことのない感覚なので
呼吸はずっと乱れっぱなしで「はあ、はあ、はあ」と全力疾走した後のような呼吸状態。体から全身から力が抜けない。「力抜いて…」なんていわれても無理です!
初回挿入時は正常位で、腰の下に厚い枕+タオルで腰を上げて入れました。
これ、腰を上げておかないと、太ももに変な力はいってすぐプルプルし出すので、
正常位の場合はなんか入れましょう。
その後、横位に変更。
私の片足を横にもってって横になって彼氏がそのまま(正常位、膝立ち?)の体制で動くと、
奥まで入って私も気持ちがいいし、彼氏も動ける。これは楽だね。
正常位だと枕あっても足に力入れ続けすぎてあとで足がガクガクになる。
後背位も足ガクガクするからつらかった。
2回目したときは、足は横なんだけど背中ねじってうつ伏せみたいになってて、2日後でも背中の筋肉が筋肉痛で痛かった。
あのね、今まで普通のセックスをそれこそ数えきれないくらいしたけど、腰痛くなったことないんだよね。
でもアナルセックスはノーマルな男女のセックスと違ってそもそもは無理な行為なのだよ。
だからね、腰(てか背筋)を痛めるってことが現実的にあるんだね。もうコレに関して言うと爆笑しかない。
「うわー!BLだー!!!」ってwよくあるじゃん、やりすぎて腰痛い受。
あれみて、腰が痛くなるわけ無いじゃんwって思ってたんだけど現実、痛いからね!?(背筋だけど)
話が脱線しましたが、声に関して言うと私はあんまりセックス中にアンアン言う方じゃないんだけど、
ってみたいなコトになる。もう声出てるじゃなくて叫んでる。喘ぎではなく叫び。
奥まで入った時も「ア!!!!」って短く叫んで
あとはもうずっと全力疾走みたいなハァハァハァハァ呼吸整わなくて、すごく汗をかく。
鳥肌がたつような気持ち悪さではなく、痛みもそんなにないんだけど、
これ言葉にうまくできなくて…あと余裕なかったのであんまり覚えてなくて…(悔しい)
とにかく余裕などない…。
1~3回目は、途中で私がギブアップして、ちんこ洗ってきてもらって
その後ノーマルなセックスをしてちんこはフィニッシュになったんだけど、
4回目の時、ケツで緩いピストンしてるうちに彼氏が「あ、イきそう」ってつぶやくものだから
「マジで。え、マジで?(冷静)」って返して、小刻みに動かされたら気持ち悪さが減って少し余裕が出て、
中の締め方は膣と逆で、排泄するような感じで力むと締まる。
その代わり入り口(出口だった!w)は緩む感じ。
膣を締める感じをすると、入り口が締まる。
中を締める感じにしてみて、抜けきらないように割りと短いスライドでピストンして、中で(ゴムに)彼氏が射精したのでとりあえずアナルセックスとしてはクリア!
でも萎えたちんこを抜くときすら違和感がすっごくて「アっ!!!!!!!」ってなる。
もう声抑えるの無理だよアナルセックスは…。嬌声っていうより悲鳴。
5回したけど、入るからといって慣れたかというとそーゆーわけではなくて…
奥の方グググっと入るとちょっと気持ちがいいんだけど抜き差ししても別に気持ちよくはない…。
うーん
私も「ケツまわりベタベタだし違和感!!」って風呂行ってワセリン流すんだけどワセリン流れねえw
結構しつこくあらったけどこれローションだともっと流れなかったからワセリンが良いかなーとは思った。
事後何時間かたってトイレ(小)に行った時に、ケツから水がちょろっとでる。
シャワ浣の名残。お尻も拭きましょう。
布団やその他が汚れたかどうかということに関して言うと、
布団にシーツして、バスタオル2枚使ってて、枕カバーも枕もシーツもタオルも見たくなくてすぐ洗濯回したからわかんない。枕丸洗い。
けど枕に敷いてたタオルになんか水っぽいの付いてるの見えた気がするから
シーツだけではアナルセックスは汚れると思う。シャワ浣してても。
まぁ普通のセックスでも私異常に潮吹きますからバスタオル2枚要るんですけどね☆
シーツを握りしめっぱなしだったり、背中ヘンに力んでたりで、毎度色んな所が筋肉痛。
回数こなすたびに減りましたが。
翌朝のケツは「じわ、じわ」と痛いけど意識しなければ気にならない程度。
そもそも私切痔気味だけどそれでもなんとかなる。
ケツって偉大だ。
腸内を傷つけることもなかったみたい。初回時、翌朝普通に便出たけど普通。
チャリも乗れる。
よくBL描写で無理やりヤって血が出てみたいなのあるけど、どっから出てるんだろうね?
中にちんこ以外の鋭利なもの入れたら血が出るかもしれないけど、ちんこだけだと血は出ないとおもう。
じゃあ、肛門(入り口付近)から血が出るのか?ってことになるけど、
なんらか濡らしてればそうそう切れないと思うし… 謎!
膣に比べケツは、入り口(というか出口)がキツくて、中は「みっちり」という感じらしい。
でも中は締まるというより柔らかめなのかなとおもう。膣のが動きは大きそうだと思う。
あと、5回した後に、
ケツは私がつらそうなのと、そこまで気持ちよくないからやっぱり膣がいいので…と
たくさんの方にツイート・コメント頂いたのでいくつかお返事をさせていただきます。
そうなんですよ!!
検索しても検索しても男性向のホントか嘘かわかんない話か腐女子の妄想二次創作で、
もうここは誰かが体を張ってくれないと、私がやるしかないと、そう思ったんです!
↑のように体張ってやるぜ!と思ったものの、1回や2回では実態をお伝えできないと思ったからです!
いつか誰かの役に立ってもらえたら、私のように悩んだり迷ったりする人の指針になればと思って
最後に書いたように彼氏からアナルとの関係を拒否されたため、5回で終了しております。
夏場でも冷えました。やはりケツから水を出すことは体力を使うんでしょうか。
コンドームがMサイズだとギチギチなちんこなので粗チンには当てはまらないと思います。
便の太さはたぶん普通じゃないかなあと思います。あとは気合でしょうか。
為せば成る為さねば成らぬ何事も が座右の銘です、ぜひみなさんもやってみてください。
ちんことかいう単語が含まれてたら、18禁確認のワンクッションあった方がいい気がしてきた/同じ状況で入れた側だが、ローションで濡らしてたにも拘らず太くて痛いと言われた。そんなすぐに入るものか?
びっくりしました。よほど私の肛門の広げ方がうまかったんでしょうか?
指引っ掛けてグイグイ引っ張ってただけなんですけどね。痛みは一切なかったです。違和感が酷いだけで。
ワンクッションに関してはそういうカテなどがあれば移動したい所です。
rasiel9713さんの疑問に。「変態性愛技法」によると女性の場合は膣を裏側から伸ばされる感じになるのですが、異物感と排泄の違和感が強いため、入れるときはほかの場所を愛撫しながら気持ちよさを上乗せした方がいいと
そうなんですね!彼氏も初心者だったので5回試したもののうまくいきませんでした。
動かないままで他のところを愛撫してもらえたらもうちょっと違ったかもしれません。
参考になりました。ありがとうございます。
優しい、のでしょうけども、開発完了までいききりたかった私としては、軟弱者!…と、少しだけ思いました。
---
2022/1/25
たいした追記はありません。
徹底した自己開示と執拗な自己解釈による独演を社会に提示した喪服の死神。
幼少の個人的出来事からネット右翼、アベノミクスまで論じ上げた喪服の被告人意見陳述は、他者による分析を拒む防壁として構築されたが、ひとつだけ、さらりと流されて違和感を放つ、セクシャリティのカムアウト。
陳述で同性愛を告白し、ボーイスラブ系二次創作での人気に執心したことを事件の発端とするも、彼はセクシャリティに関してだけは、言及を拒む。
自分が「手に入れたくて手に入れられなかったもの」について列挙しておきますと、上智大学の学歴、バスケマンガでの成功、ボーイズラブ系二次創作での人気の3つになります。
…
31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。
…
自分に対して理不尽な罰を科した「何か」に復讐を遂げて、その後に自分の人生を終わらせたいと無意識に考えていたのです。ただ「何か」の正体が見当もつかず、仕方なく自殺だけをしようと考えていた時に、その「何か」の代わりになるものが見つかってしまったのです。それが「黒子のバスケ」の作者の藤巻氏だったのです。ですから厳密には「自分が欲しかったもの」云々の話は、藤巻氏を標的として定めるきっかけにはなりましたが、動機の全てかと言われると違うのです。
「手に入れたくて手に入れられなかったもの」「何か」「自分が欲しかったもの」。
執拗な自己解釈を行う喪服が、ひたすらに言及を拒む「何か」は、すなわち、セクシャリティの肯定である。
喪服のまとめサイト的な自己ツッコミは、非モテ的自意識には向けられて、彼は饒舌にウェブ上に氾濫する非モテキモオタの類型コピーを演じて見せるが、一方で、自らのセクシャリティたる同性愛については、まるで《安価》が付けられていない。
本来なら最も語られるはずの内心、セクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とみる自意識に代替されている。
動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。
汚くて醜くて無惨、自らを汚物と信じた喪服。
もし彼が自身と違う肉体を持つ他者に性欲を向けること、例えば空想の中でオークに成り代わり女騎士を犯すことで充足できるセクシャリティなら、あるいは始めから性的な身体をもつと社会的に扱われている性別なら、自らの身体性が「汚くて醜くて無惨である」と信じながらも、少なくともはじめの一歩を踏み出すことはできただろう。
ヘテロセクシズムに覆われた社会において、セクシャル・マイノリティは「自分はセクシャルな存在である」と現実世界に足を踏み出せない限り、または誰かが手をさしのべてくれない限り、それがマイノリティとして否定された経験だったとしても、はじめの一歩を得られなければ“セクシャリティあるもの”として存立できない。
彼の「本当のセクシャリティ」は否定すらされなかったかもしれない。喪服は何の理由もなく、つまり、ホモ、オカマと罵られたのではなく、身体的なものをあるがままに、母親に汚い顔だと罵られた過去を呪った。それは純粋な身体性の否定であってホモフォビアとの遭遇ですらない。
ホモフォビアとの遭遇は、「ホモと笑われるのが辛かった」と、その苦しみを語ることで、自らを疎外されたマイノリティとして位置づける。
喪服の空想におけるセクシャリティは、思春期にボーイズラブによって徹底的に肯定された一方で、彼の現実のセクシャリティ、喪服が“手に入れたくて手に入れられなかった”身体性の肯定は、同性愛の自認と同時期に行われた“汚い顔”と身体的否定によって抑圧される。
自らを汚物と信じた喪服は、現実のセクシャリティ、それによって他者と繋がる身体性を否定して、汚物は誰かを愛することもできないと、性愛を禁じてすらいる。
自分は愛する人を失ったのではなく、愛する人が初めからいないのです。ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。
LGBT当事者の書籍として頻繁に持ち出される「ボクの彼氏はどこにいる? - 石川大我」と比較すれば、タイトルに違いが現れている。
今ではオープンリーゲイを公言する政治家である石川大我が、自分は人を愛するに足る存在であると信じることができた一方で、喪服の語る言葉は「愛する人が初めからいないのです」である。
愛する人がはじめから喪われている、すなわち、自らの性愛が喪に服しているからこその喪服の死神であり、一文字で暗喩された「喪」とは非モテを示す。
2000年代、2ちゃんねるやはてななど、ウェブ上で隆盛した「非モテ」とは、自らの身体性あるいは性価値に対する自己否定、キモいと罵られた汚物のような人間は誰かを愛するにも不足するという絶望を、自らに対して自己否定のレッテルを貼り付けることで自己肯定に転嫁する、クィアにも似た試みであるが、やがて、彼らにはじめから内包されていた自己否定によって自壊した。
あくまで非モテと呼ばれたことで、モテるか否か、恋愛関係にあるか否かという状態や能力について論じられてしまった非モテだが、彼ら非モテ、あるいは非リアといった類似物も含めて、彼らは「そうであること」に価値を見いだすのでは無く「そうでないこと」によって存立し、非モテを成り立たせていた人々は状態や能力を求める人間ではなく、藁にもすがる思いで自己否定のレッテルに飛びついた人々である。
自分がどれだけ汚物か、気持ち悪いか、失敗しているか、誰かの指摘に先んじて自己開示をし、誰に言われる前に自らを否定する、終わりなき自己否定のスパイラルは、非モテの名の下に集った人々に、わずかばかりの肯定を与えた。
自己否定のレッテルにより肯定される彼らの自意識の中核にあるものは、唯一、自らをキモいと思い込まざるを得なかった幼少期の経験に由来している。
しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。
…
幼少期、まだ子供の非モテたちに向けられたキモいという言葉は、思春期、セクシャリティが開花する時期を真っ黒に塗り潰す。
汚物に等しい人間は誰かを愛するにも不足するという絶望は、彼らのセクシャリティを現実を生きる他者に伝えることを禁じて、彼らの性愛は空想へと向けられていく。
本来ならば健全なセクシャリティが鎮座する位置は、自らを汚物とする自意識に取って代わられ、歪な自意識は癒やされること無く成長と共に発展し、ウェブ上で隆盛したモテない男に由来する数々のミームに乗っ取られた怨執甚だしい精神構造を完成させた一方で、耽美な世界を描いたボーイズラブ系二次創作を愛した喪服の死神。
現実では“自分のような汚い顔のキモブサメン”と自嘲して、空想では女性の世界の性愛に耽溺している。
喪服のチグハグなセクシャリティの表出には、彼の現実と空想、性の繋がりを感じさせない。
「何か」が欠落してしまっていた。
ウェブ上での自己開示および匿名の対話者からの反応を慰撫とする行為は、今や誰もが行っており、本来なら十分にウェブの中で機能して、現実世界で怨執を露呈する必要はない。
だが、喪服の自意識の歯車は、ウェブの言論歯車と噛み合わなかった。
喪服の自己対話は精緻であって、他者の解釈に先回りして応答し、全体としては分析をさせる余地を与えないほど堅牢であるも、彼の脳内にインストールされたウェブ言論と、彼自身の対話においては、歯車の噛み合わないチグハグさが漏れ出している。
このチグハグさは、喪服が扱ったネット用語に明瞭に現れている。
さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。
喪服が自らの性について語る言葉は徹底してウェブ上の異性愛社会で用いられる言葉であって、セクシャル・マイノリティの為に用いられる言葉は現れない。
自らを異性愛者の視点から「同性愛者」と規定し、異性愛者の非モテが用いた造語で「キモメン童貞魔法使いw」と自嘲し、「ボーイズラブ系の二次創作」と腐女子の言葉で性指向を空想している。
喪服の自己対話には、セクシャル・マイノリティが自らをセクシャル・マイノリティとして規定する言葉が、どこにもない。
というより、喪服がウェブで本心を語ろうとも、それに噛み合う言論の歯車はあっただろうか。
非モテから同性愛者を斥けてミソジニーとホモソーシャルの産物と断罪するセクシャリティ論。
女性たちのホモソーシャルであるボーイズラブ系二次創作の世界。
最後だけは、本当に、ひとつだけ、自己否定のトンネルのなか視野狭窄した彼が自らのセクシャリティの本心を発露して、肯定されうる場を見たならば、思春期から愛し続けたボーイズラブ系二次創作を介した他者による肯定だったのかもしれない。
しかし、喪服が創作するには、表現の原動力たる空想の世界は耽美であるも、空想と同一の肉体を持つ彼の身体性は汚物であって、空想と現実を繋ぐ彼の言語空間はウェブ上で構成された非モテミームに乗っ取られており、格差は恨みを募らせていく。
喪服が、セクシャリティの肯定を得るために行わなければならなかった努力。
本当なら、とても近しい接触によってなされるセクシャリティの肯定は、喪服においては、女性たちが作る社会における創作の表現に対する賞賛という、とても遠い彼方からの肯定の可能性が、ただひとつ、自己否定のトンネルに差す光として見えるのみ。
もしも努力の果てに肯定が得られたとしても、彼に与えられるのは二次元のベールを通した、空疎であたたかみの無い接触である。
喪服は、呪っただろう。
喪服が手に入れたくて手に入れられなかったセクシャリティの肯定を、可能性として見いだしたボーイズラブ系二次創作の賞賛を得る者を。
空想における愛情は、現実における怨執へと置き換わり、耽美な世界で肥大化した自我は、現実世界の自己表現を求めて、自走する。
喪服が見た光の絶望的な遠さは、彼が呪いを向ける対象への距離に変わった。
喪服に残された肯定的な表現手段は、呪いを振りまく脅迫状の郵送に変わった。
喪服が望んだ「何か」、口にすることすら拒んだ人の暖かみによるセクシャリティの肯定は、自己否定の結末として、無機質な統治権力による罰として具現化する。
恐らく重度のネット依存だった喪服の実生活、喪服が生きた思い出の中にも、彼のセクシャリティを、わずかにも肯定した「何か」は存在しなかったはずだ。
喪服は、斑目晴信がオタク濃度を感じたように、キモオタが秋葉原に得るしっくりと来るさまを感じ取ることが出来ただろうか。
喪服は、ボーイスラブ系二次創作を手に取るとき、美しい男を愛する女性の為に作られた空間に踏み入れた、汚物に等しい男を見る目に、何を感じ取っただろうか。
喪服は、自覚することはなかっただろう。
喪服は、徹底して、自らのセクシャリティを、完膚なき自己対話によって、自己疎外した。
執拗に繰り替えされる自己解釈は、彼が求めた「何か」の中核を、自らに気付かせないための自己防壁として機能する。
自己疎外された人々が、自らに自己否定のレッテルを貼り付けることで、健全な精神をギリギリのところで保った非モテの論理。
2000年代に爆発的に流行し、2010年代の始まりと共に終わった非モテは、童貞を中心とするヘテロセクシズムであり、同性愛者の喪服を救わなかった。
喪服が愛したボーイズラブは、あくまで女性のホモソーシャルの世界であって、男の喪服を救わなかった。
セクシャリティを否定された者たちが、自らを疎外されたマイノリティと位置付けて語るLGBTは、セクシャリティのはじめの一歩を踏みだせた者たちのための論理であって、非モテの喪服を救わなかった。
《身長×体重×年齢》と、身体性をコード化して他者と繋がる様式を持つゲイ社会は、身体性を否定された喪服を救わなかった。
身体性を否定された喪服がセクシャリティ育むべき思春期に愛したものは、空想における同性愛であり、彼を耽美な世界に誘い込み、彼の自我を肥大させて、現実を呪った。
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033576/
「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開2(篠田博之) - 個人 - Yahoo!ニュース http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140315-00033579/
「黒子のバスケ」脅迫事件犯人の「自分語り」全文公開されたが、自重しない腐女子は黒バス脅迫犯を生んだ罪について真剣に考えた方が良い。
問題は彼がBLに入れ込みすぎた結果、脅迫を犯したという事実である。彼はこのように書いている。
31年前に同性愛に目覚め、同じ年に母親から「お前は汚い顔だ」と言われ、26前に「聖闘士星矢」のテレビアニメを見たいとお願いして父親に殴り飛ばされ、24年前にバスケのユニフォームに対して異常なフェチシズムを抱くようになり、22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯があります。また、新宿につきましては、16年前に自殺をしようとしてJR新宿駅周辺を彷徨し、11年前にJR新大久保駅周辺を歩き回ったことがきっかけです。
喪服の死神は自らを同性愛者と語っているけども、これだって本当か疑わしい。おそらく自己愛性人格障害であって、同性愛というのはあくまで詐称か、BLに入れ込んだ自称腐男子程度のものではないだろうか。本当の同性愛者ならBLに入れ込むようなことはしないと思われる。
彼の自分語りから漏れ出る意識は肥大化して歪んだ自己愛であり、その結果として表れたのがBL愛好と詐称同性愛といったところか。
「22年前にボーイズラブ系の二次創作同人誌を知ったという積年の経緯」を記している。
いったい何の同人誌を知ったのか私には知る由もないが、ボーイズラブ系の二次創作同人誌の問題は、純粋に作品を楽しんでいる愛好者が、本来ならあり得ない視線(男性登場人物を性的に絡ませる)という嗜好にある。
一昔前までは腐女子の活動はアンダーグラウンドなものだった。検索避けや隠語を用いた隠れたやりとりをして、あくまで自分たちが特殊嗜好者であることを自覚した振る舞いをしていた、と記憶している。
ただ現在の腐女子はオープンにBL談義をすることも珍しくなくなったらしい。
この辺は「ゴキ腐リ」という言葉があるようで、pixiv百科事典なんかにも載っているようだ。
ゴキ腐リ (ごきぶり)とは【ピクシブ百科事典】 http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%B4%E3%82%AD%E8%85%90%E3%83%AA
この解説でとくに興味深いのは、この項だ。
実際にはファンタジーであるBLは、『男性(もしくは元となる人物)の形状を模した異質なクリーチャー』を恋愛や性行に結びつけて楽しむ嗜好であり、現実の同性愛とは全く関係が無い。
まとめサイトでは、「同性愛者の為の作品」や「同性愛をテーマにした作品」は問題が無く、同性愛嫌悪の無い人や、実際の同性愛者の中にもBLを嫌う人がおり、BLを問題に感じる人もいることから、「BL=同性愛」ではない、『男性の形状を模した“何か”を当人達以外の人間が妄想の中で恋愛・性行に結び付けて楽しみ喜び興奮する嗜好』と解説されている。
BLは実際の同性愛とは違うし、同性愛者や、同性愛嫌悪のない人物にも気持ち悪がられている・・・とのことらしいが、この解説は直感的に正しいと理解できる。
喪服の死神が入れ込んでいたのはあくまでBLであって、本当の同性愛では無かった。一方で彼は自ら童貞やキモブサメンとオタク用語を使って自己解説している。
ここには非常に強い性愛のゆがみが見て取れる。
例えば純粋にバスケ漫画を好きで黒子のバスケを読んでいる人が、腐女子人気の増大により黒バスを読む際に同性愛者と思われるようになったら、通常なら強い憤りを感じる。
現在の腐女子がおおっぴらにBL談義をする風潮(ゴキ腐リと呼ぶらしいが・・・)が、喪服の死神のねじれを生み出したと。
彼が黒子のバスケをターゲットにしたのは、ボーイズラブ系二次創作が盛んだったからであり、実際の同性愛とは全く違う女の妄想を少年誌に持ち込む異常性が、喪服の死神の内面を作り上げた現実に対する文化的な自省について、腐女子たちは真剣に考えるべきだろう。
割といいなと思う人はできる。
そういう人は大体恋人がいたりするんだけど、なぜか、そういう人に限って恋人に振られてしまう。
いい友人だと思っているので慰める。
その途端に、うえっと思ってしまうのだ。
気持ち悪い。
なんだ、この感情。
相手のことをいいと思ってたし、恋人いなければ、いっちゃうのにと思うこともあったのに振り向かれた途端、気持ち悪くなる。
でも、恋人欲しい願望だけはあるんだ。
じゃあ、どんな子だったらいいの?と自問自答。
この人いいなって思ってる分は二次元だけど、振り向かれて性愛の対象のなった途端三次元になってアウトってことかな。
恋人欲しいんだけど。
いない自分さみしいんだけど。
二次元が一番!とも思ってない、はず、なんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20140214031900
あなたは人を見下したりして差別してるんだが、なぜそれは良いのか?
人を馬鹿にしたり見下したりするのはOKなの?
どの様な対象であれば「区別」して良くてどの様な対象であれば駄目なのか。
http://anond.hatelabo.jp/20140214030934
まあ、それは愛の形のサンプルとしていったのだと思います。
そうでなければ今度はそこまでの言動の辻褄が合わなくなります。
近くねーし、んなもんねーし。
単に、友だちだから仲良くする、助ける、ではないぞ?
お前の言ってることは、性的な目的が言動となって寄付をする、なんだから、
http://anond.hatelabo.jp/20140214022201
ええ、今実際そうなってますけど。
その中で、あなたが言ってることはもはや、子供の思い通り何でも好きにやらせろ、です。
酒でもドラッグでもギャンブルでもSexでも好き放題やればいい、と。
恐ろしいですね。
いいえ、それには同意できません。
まだ、IQ、EQなどの脳機能の高度さとコミュニケーション能力、
これでいいじゃん。
で、
http://anond.hatelabo.jp/20140214014302
これに対する言い訳は?
で、もしあんたが当事者にならないとしても、小児愛者と恋愛した子供がその後絶対に報われないのは事実だよね?
そんなことどうでもいいと?
つまり、やはり小児性愛は性的な興奮を生む、ということ?お前、言ってることあっちこっち行き過ぎ。矛盾しすぎ。統一せいよ。
読み取ってくれよ。高校生が部屋に集まって遊んでる時、その部屋に酒や煙草が置いてある、って話だよ。
あのう、小児性愛は接触した時点ですでに不当なんですけど。
私が完全に正しいと言う結論で終わりですね。
日本語読めないの?
日本語理解できないの?その自己責任を取らせる客観的基準をどう決めるんだよ?って話だよ。
そういうのも全て正しいとして開放するべきだと?
で、子供いるの?
いいえ、性愛や、すべての愛を地続きで語っているだけです。
何でもかんでも愛と言えば良いことになるのか。
例えば親が子供を完全に支配して自分の思い通りにするのもそれは親の「愛」だと信じて疑わないこともありますよね?それはOK?
体罰をしても、それを本気で愛だと想ってる人は居ますよね?それはOK?
主体主体ってさ、あんたが言ってるのは主体じゃなくて、まず、責任を押し付ける、ってだけな?
いや、だってこのトラバとか完全にそうじゃんw最終的に全ての開放を求めるってw
それ、どこの宗教?
本人の意思を基本とするべきだろうね。
平均ではなく個人個人に合わせていくべきだと思う。
繰り返し。
子どもが常に親の監督下にいるわけではない。親の生活パターンだってさまざまだ。もちろん親のいない子だっている。
そしてなにより、「性」という問題がいかにパーソナルなものかを見誤っている。
性の問題に親が親として介入できる余地などほとんどないよ。だから子ども自身の見識と意識が育つのを待っているんだ。
子どもの何を知ってるの? 小児性愛自由化を唱える君は、子どもと日々接しているの? それともLOで見た脳内子どもなの?
いえ、知能指数は一つの例です。主体的な理性判断とは何か?という意味を考えたときに、
まず知性という点に着目してみることにしました。
もちろん、IQ以外の基準を幾つか設けても問題ない。それこそ恋愛を免許制度にすることだってあってもいいのではないだろうか?
うん、だから、具体的に、何よ? って聞いてるんだけど。
年齢じゃないんでしょ? 何なら判断できると思ってんの?
主語と動詞と目的語がねじれています。不必要な修飾の重なりにより文意が通りづらくなっています。
もうちょっと日本語ガンバレ。一貫性というならば「性的同意年齢」でぐぐればいいじゃん。
だ、か、ら、言ってるじゃん、「児童の成長には“平均”がある」って。
“平均”のない知的障害者の恋愛に関する問題は比較にならないよ、って。読めよ。頼むから。
で、だ。性的同意年齢を13歳であるとするのは確かに“恣意的”だろうね、
医学・発達心理学双方から導き出した“平均”を適用する行為だ。
じゃあ君はどうしたいの?
「主体的」かどうか、どう判断する気なの?
子供にとって、小児性愛者が植え付けた自分に都合のいいだけの性愛観とどのように区別できるの?
個別ケースだって言ってんじゃねえか聞け。お前のIQが心配だよ。
そして性的欲求、精神発達、機能発達、感情発達、それらはIQで表現されない。
IQだけ見てOKだと思うのは愚かな知能指数一元主義だよ。90年代くらいにはいたけどまだいたんだね。
あと、なんでトラバしないの?
先に書くけど俺は独身の男。
何かを守ろうとしているうちに、守るべき物がずれてきちゃうパターンってのはよくある。
日本の労働行政でも、「職を守って人を守らず」になってしまっていて本末転倒だって話はよく聞く。児童売春とか幼児虐待の件でも、結局「子供を守ろうとしている自分たちは偉い」とか、「児童性愛は心の中だけでも持つことは許されない→男を罰しろ」とかの議論に終始して、結局子供は守られずに終わるってパターンが多い(実際に子供を守るための具体的な活動をされている人たちは尊敬するが)。レイプ犯罪の裁判でも、犯罪者を裁くことに力点が置かれた結果被害女性が警察・検察・裁判所で「二次被害に遭う」という例は多い。
例えば、ロボットを性奴隷として作ろうとすることへの反応とかでも同様。しばらくまえに「ロボットの研究者は自分の好みの性奴隷を作りたいだけだ」っていうネット上の書き込みが話題になったけど、冷静に考えれば、男の性欲のはけ口をロボットもしくは機械に向けさせれば、女性の性被害を大きく減らせる可能性があると思うし、そんなに悪い話ではないと思う。「女性が解放されるためにはどうすれば良いのか」っていう本来の議論が忘れられて、「女性が苦しむのは男のせいだ。男を懲らしめろ。」「女にモテないなくて人格がゆがんだオタク男はウザい」という方向に行っちゃって、結句うーんって感じ。
もっといえば、女性も、自分が好みの顔と身長と体型でナイスチンコを持ったイケメンセックスロボットを作れば男女平等・対称でいいと思うけど。俺は特にそれが問題だとは思わんな。たぶんアメリカとかではそうなるだろう。
これに反対する人は、「そういうことではなく、男が女性を対象とした欲望を持つこと自体が悪いんだ」とか、「女性を性の対象として見るという発想がおぞましいのだ」とか、その当たりの反論をするのだろうけど、結局これは結論が出ないし解決もできない問題だよな。というか、意図的に結論が出ない方向へ議論を誘導したいのだろう。女性の権利とか人権団体的な方々も、組織を維持するにはそれなりに金も労力もかかるし、結論がでて終わりになってしまうテーマじゃ団体を維持できないし、定期的に話題を作らないと宣伝/広報もやりづらいだろうし、そこらへんの苦労はお察ししますという感じで生暖かい目で見ている。
とある日本の閉鎖的な学会の学会誌っていう名前がついてない学会誌の表紙が性差別や児童労働を助長する(ryみたいなことをのたまう素晴らしく進歩的()な思想()をお持ちのインテイゲンチャ様がそれなりにいらっしゃいますね。
アメリカのお?学会誌でえ?黒人やあ?黄色人種のお?掃除ガイノイドがあ?表紙にい?なってえ?いるのをお?想像して欲しいい?らしいですよwwwwwwwwww
比喩比況例示も遥かに常人には完全に理解できないものに仕上がっておりまして思わず半草である次第でございます
女性に見える、あるいは少女に見えるものがアンビリカルに繋がってるのがダメなのかな?単にルンバ的あれを擬人化しただけだと多くの人が思うじゃねえかと思うんですけどお母さんのアンビリカルにまだくっついてる赤ちゃんは独善的で偏った見方をSNSで開陳するのに興奮を覚えるタイプの異常性愛者なんでしょうか?きっとそうですよねまともな人間の思考じゃないし
じゃあ今度から屈強な白人男性のアンドロイドを表紙にしますか?それでもアレな層は食いついてくると思いますけどね
というか僕個人の意見としてはああやって学会誌を変えようって人がいて、そのために努力した人がいて、あんなに綺麗な絵を描いた人がいるのにそれを平気で否定できる人ってジェンダー云々の前に性格破綻してしてんじゃねえかって思うわけですよ
以上戯言でした
Twitterで思いの丈全部言える人羨ましいです。
異性に対しカッコいいな、仲良くしたいな思う気持ちはあるにはあるが、その先、つまり性愛的なことに全く興味がない。
興味がないというよりは、性愛的なことが酷く気持ち悪くておぞましく、手をつなぐことすらに強い拒否反応が出る。キスなんてもってのほかで、自分がそれをしているところを想像するだけで吐き気を催す。
20代も半ばを過ぎ、それまでは「思春期特有の潔癖を拗らせただけ」とのんきに構えていたが、異性に「好きだ」と言われるだけで手が震え、水すら喉に通らないような状況は、はっきり言って自分でも異常だと思った。ネットで調べたら、自分と同じような人が見つかった。非性愛者と言うらしい。恋愛感情はあっても、性愛感情のない第4の性。しっくりきてしまった。
ただ、診断を受けて非性愛者のレッテルを得たところで現状に諦めてしまうだけなのは目に見えているので、診断は受けていない。だから本当に非性愛者なのかは私はわからないが、多分それに近い状態なのではと思っている。
相性が良く話が弾むし、良き理解者で良き友人だ。出会ってから数年後に告白を受け、付き合うことになった。
が、大好きだった友人が「彼氏」に変わった瞬間、私にとってそれは恐怖の対象になりかわってしまった。
あんなに仲が良かったのに何を考えているのかわからなくなり、一挙一動に怯え、近づかれるものなら脱兎のごとく逃げ出したりもした。そうして彼をひどく傷つけて、結果別れた。別れたどころか、一方的に逃げだようなものだ。
彼には今でもこのことを申し訳なく思っているし、完全に負い目を感じている。
だが、若い私には自分が彼を拒否する理由を知る由もなかったし、とにかく恐怖の対象である彼から逃げるほかなかった。
数年たち、進路も違えて生活も落ち着いた頃、彼に再会した。
就職を経てあえる時間も少なくなったが、私たちは微妙な空気を残しながらも友情を育んでいた。と、思う。
彼に新しい彼女が出来た時、「彼女を大事にしたいから連絡はとれない」と言われた。寂しさは感じたが、素直に納得した。心からおめでとう、よかったね、がんばって彼女を大事にしなよと伝えた。誇張ではなく本心だったこと、嫉妬を抱かない自分に驚きも覚えた。
それから数年、彼の言葉に従って、私は彼にコンタクトをとらずにいた。
時たまもらえるSNSへのしょうもないコメントに喜んだりしながら、自分の生活を楽しんでいた。
彼との関わりが途絶えたことで、私も少し思うところがあったのか、婚活パーティーに手を出してみた。もしかしたら、思春期も終えて当時の恐怖心も克服できているかもしれない、自分も恋愛をしてみたいと思った。
何度か足を運び、また何度かカップル成立もしたし、告白してもらえたこともある。
が、やはりダメだった。気持ち悪い。おぞましい。そんな感情が先だって、前と同じく逃げるように男性の前から姿をくらました。電車で横の席に座るだけで冷や汗が出たし、声も震えた。
調べてみたら、非性愛者の可能性があるように思えた。
恋愛感情はあるけど、性愛を抱くことはない。なんて面倒くさい女なのかと、自分も呆れた。
でも、理性とは全く別のところで拒否するものを、自身ではどうすることもできない。
私は途方に暮れた。一生、結婚することも、子を持つことも出来ないのかと愕然とした。
恋人と別れたそうで、もう遠慮する相手はいないのでまた遊ぼう、というニュアンスだったと思う。
単純に友人と再び遊べることがとても嬉しかった。
電話をして、くだらない話をした。とても話が弾む。
久しぶりに遊ぼうよ、となるのは自然な流れだった。旧友に会えるのはとても嬉しい。
それと同時に、一抹の不安が頭をよぎる。
恋人と別れた彼は、私をその代りにしようと思っているのではないかと。
可愛い、と言う意図はなにか別にあるのかと、妙に勘ぐってしまう。
言葉の端々に感じる元恋人への不満を聞いていると、こちらも不安になってしまった。
彼は私が当時逃げた理由を知っている。
怖かったからだ、ごめんなさいと何度も伝えたし、ありがたいことにそれに関してはもう許してもらえたことと思う。
私が負い目を感じながらも彼と友人でいる理由は、彼が好きだからだし、一緒にいて楽しいし、なにより信頼できる数少ない人であるからだ。
私は一生結婚できない。唯一、可能性があるとしたら、彼しかいないと思う。
特別美人でもないのにこんな面倒な女が、新しい人と出会い、理解してもらい、そのうえ人生を捧げてもらえる自信がない。他人への興味が薄く、おまけに警戒心の強い自分が知らぬ誰かを好きになる確率も加えると、これはもうほぼ0であるように思う。
どうでもいい人間に対して我慢は出来ないが、彼ならば信頼できるし、性格の相性も悪くない。おそらく我慢できる…と思う。我慢してまでそうしてほしいのか、彼が思うかはまた別として。
普通の人である彼にこんな重荷を背負わせてしまいたくないという気持ちと、彼を逃すと自分には可能性がほぼなくなるという現実。
彼が連絡をとってくれたのは、元恋人にたいするただのあてつけなのかもしれないこと。埋め合わせに過ぎないかもしれないこと。
そして、もし受け入れてもらえたところで、私が嫌悪感を克服できるのかわからないこと。
彼と会うことが、楽しみで、怖い。
と、いうのも、周りに話せる人間が居ない(と感じている)からだ。
そういう点では捌け口が欲しい、というよりも無いと感じていると言った方が正しいのかもしれない。
一応、知り合いとか、友達とか(一方的かもしれないが)呼べる人は居るのだけど、彼らには言えないし、言いたくないと思っている自分が居る。
もしかしたら、何も気にしないで素直に最初から最後まで聞いてくれる人は居るのかもしれない。
ただ、そうでない場合や、そうだとしても、そこから更に他人に伝わる事に恐怖を覚える。
自分の言いたい事は、別に誰それが嫌いだ、とか気に食わない、とかでは無くて、
ひたすらに自分に対する嫌悪だったり、人に対してコレってどうなのよってなるような気持ちの吐露だったりする。
例えば、
よく遊んでもらってる人に対して、自分は嫌がられてないかとか、ウザいんじゃないかとか、いつの間にかちょっと一緒になりたいとか思ってる自分に気付いて、でも関係とか相手の性格とか考えると、それは無くて、だから押し殺してたらソレが腐り始めてて漏れ出してたりする感じ。
例えば、っていうか、だいたいこんなもんだな。
特に、腐ってる部分とかどうしようもなくて、何か相手の、自分に対する微妙な態度の変化とか、もう敏感。
で、別に一緒に居たいって言っても、性愛とかそういう物がメインでは無くて、単純に一緒に居てグダグダして遊んで出掛けれれば良いだけなんだけど。
要するに、ただの友達で良いんだけど、もうちょっと同じ時間に居たいだけ、なのだが。
やっぱり彼氏とかっていう立場なら何だかんだでそういう権利を行使出来るんだろうか。
とか思っていても、まぁ、何かあって関係切れたら嫌だなーとか思っていたら、いつの間にか彼氏が出来ているようじゃないですか。人づてに聞いただけなので真実とかは知りませんが。
自分が何か腐ってる間に友達としてすら中々に会いづらくなってる。
だって、週に一度は会って飯食ってーとか自分が彼氏だったら嫉妬で大炎上ですよ。
そんなんだから、会えないでしょ。会いたくても。一緒に居たくても。
まぁ、そもそも論として、そういったものに興味が無いとか、自分に対して恋愛は無いなとか言ってたから、
自分としてもそういうのを絡めたくなかったし、絡める気も無かったけど、彼氏が出来てたってwwwwwwwww
んで、そういった事を、共通の知人には話せる訳でもないし、かといって、何も知らないであろう、全く関係のない友人に言ったとしても、だから何状態にしかならないし、そもそも、そんな話で人の時間を頂戴するのは恐れ多いしで、非常に生きづらい。
その人に出会って、人間関係が広くなったお陰で、逆に自分の心の余裕が狭くなった気がする。
下手に話せない。話して何かあるのが怖い。
話せる人が居ない。話せる人が欲しい。というよりも、赦せる場所とか、赦してくれる場所が欲しい。
逃げ場が無い。
これから、自分はあの人とどのように接しよう。あの人の周りに居る人とどうやって接しよう。
生きるのが辛い。世界が狭すぎて、こういう時に何も出来ない。
息苦しい。
おお、そういう返しをされるとは思っていなかった。面白いね。確かに性愛観が変わると、家族観も連動して変化するかもしれないね。
家父長的体系と、母子関係に基づく家族体系に二分されるよりも、
核家族化する人々と、シングルファザー・シングルマザーが一般的な人々に分かれるかもな、とは思った。
あと、処女性主義者たちと、自由性主義者たちが、どういった社会的クラスターと結びつくか、によってその後の展開にかなりさまざまな展開がありえそう。
・社会階層と結びついた場合 → 階層をめぐる不平等と、家族・性愛観がバンドルされた社会的分裂
・地域と結びついた場合 → 自由性主義者の多い沖縄独立! みたいな独立闘争の加速へ
・世代と結びついた場合 → 「最近の若いものは…」 ※まあ、これは確実に起こるというか、現状でも起こってるわな。
社会階層で分裂しちゃった場合、民放改正とか言っても、議論がおさまりつかなさそうだけれども、
地域差で分裂して、条例とかで家族観を変えるような制度が施行された場合、
その家族制度が、その後の地域の経済競争力とかにも結びついていきそうなので、
結果としてどちらの家族制度が経済的に生き残るかみたいなことで、
性愛観の淘汰圧みたいのが働きそう。
(そして、その過程で、「どっちの性愛観が偉いか論争」みたいのが無限に行われそう)
http://anond.hatelabo.jp/20130619231753
モテるとかモテないとかではない。ただ無価値であり無碍に扱われることだ。
他人に価値がないのは誰だって同じだろう、ようはSEXしたいんでしょw、よく飛び交う言葉だが、まあそのとおりで、子供の頃の話だよ。
大人になればどうでもいいさ、社会的な我々は誰だって平等であり、自分の価値をアピールしなければ他人に関わることすら出来ないのだから。
強制的に半日、30~40の人詰めの箱のなかに閉じ込められて、共同生活を強いられる。社交辞令も保身も知らないために残酷で、動物のように群れを作る子供な。
居ただろ。何かにつけてキモいと言うやつ。
子供の遊びで、イジリだったのかもしれないけども。
黴菌扱い。触らないで、菌が付くからw
申し訳ない、存在して。
給食配らないで、触らないで、なんでそんな酷いことするの?
誰だってやっただろう。私だってやったと思う。清廉潔癖ないじめられっ子なんていないんだ。
確かに笑わなかった人もいたが、黴菌はクラスか学年に1人くらいなので、消毒される側から見れば誤差なのだ。
思春期。
だいたいルールがわかってくる。私のような人間は、人格の自由度が低いのだ。
気持ち悪い、存在が不快、デフォルトではそのように扱われている。
自然な成り行きとして、一等低く無碍に扱われる。
仕方ない。これはそういうことになっているのだから。別に差別でも偏見でもない。
従って私は、妖怪人間だった。
外形的な気持ち悪さから来る性的価値の低さという、社会性におけるディスアドバンテージを抱えているので、埋め合わせなければならなかった。
思春期同年代が構成する市民社会からの排斥を受けないために、彼らに要請された私を演ずる演技。
今で言うリア充、一段下げて一般的な未成年が、同年代の中で取る態度。
人並みに感情を表に出したり、遊んだり、色気づいたり、あるいは恋愛について話したり。
残念ながら、私の行うそのような態度は、思春期同年代にとって異物であり、共感の外である。
思春期とは性的な時期であり、それを通じて社会性を育む性徴期。
思春期の社会的な関わりにおいて性は重要であり、だからこそ保健体育は古くよりあり、最近では日本社会でもセクマイ概念などが教育に取り入られ始めているわけだが、しかしながら、セクハラ概念が示す事実は、自身の性的身分を超えた性的な態度は嫌がらせである。
運動会のフォークダンス、遠足の二人組、給食当番、席替え、班作り。
社会性も、性愛観念も未熟な時期に、同級生が露骨に示したその態度。
それは社会の要請であり、学童期よりも幾らか高度化した義務教育課程で学ぶ、ひとつの実習だった。
必要なのは、性的に老いること。オッサン臭いというか、ババアというか。
老人ではない。老賢とは別物だ。
完全に枯れているわけでもなく、しかし肉体は老いており、故に独特の醜さを発露する。
気持ち悪い性欲の象徴としての中年。
自らの不快さを理解しているからこそ、弁えを知り、抑制されて、節度を保った憐れな中年。
私は老いてはいなかったが、印象的に気持ち悪かった。
それに思春期らしい子供の欲求を捨てきれず、また賢さもなかったので、老人にはなれなかった。
明るく溌剌と多感な周囲について、人並みに感心はあり、またそう有りたくもあったが、表に出してはいかんのだ。
私には分相応な態度、人格が決められている。
私がどのような人間なら、理解しうる人間としてシンパシーが得られるか。
声に出す者も居たし、出さないものも居た。
やがてどうでも良くなる。
人間関係という蜘蛛の網に絡み取られて、私に向けられた他人の視線が、あるべき態度を規定する。
必要に応じて演じた態度が、人格として身についていき、成人する頃には私という人間性が確立される。
根底に身についたのは諦念であり、どうでもよさだ。
しかしながら、それでも時々思うのは、性的価値が人並みにあるものが羨ましい。
凡夫であり、賢くもない、一般的成人である私は、人生を冷徹に見つめる達観も得られなかった。
もちろんSEXに興味はあった。
だが、それより今は思うのは、子供の頃に子供らしく過ごしたかった。
思春期の頃に平均的な思春期らしく自分の日常を過ごせれば、もう少し、何か違ったかもしれない。
いや、私は平均的なのだろう。
私が送ってきた人生こそが、実にありふれた性的無価値者の日常だった。
幼児期から始まる社会での私の立ち位置が、私の内面を擦り減らし、予定された枠組みに相応しい人間性を形成したのだ。
あの頃諦念に師事しなければ、もう少し何かが違ったのかもしれない。
現実が過ぎ去り記憶になると、もっとうまく立ち回れたのにと後悔することがあるにはあるが、まあ、それよりも、私は随分頑張ったと思う。
はっきり言って、重苦しかった。
あの頃の私にはそうする他なかった。
これこそ単なる諦念なのかもしれないが、常に近くにあったが決して得られなかった同年代の日常は、私にとって眩しかったが、あれこそ他人の物であり、これが私の人生だった。
内面と演技のアンバランスの抑圧にフラストレーションを沸き起こしていた精神も、加齢によって安寧となってきた。
何かをこじらせているわけではない。
こじらせ系とは似て非なる、直道だった。