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2015-03-15

反差別多様性を殺す

http://pokonan.hatenablog.com/entry/2015/03/14/231545

これとそのブコメを読んで考えたことを書く。


反差別を掲げる人たちは、自分たち多様性を認める世の中を作るのだ、と言う。

行政や、電波を寡占するテレビ局などを相手にそれを言うなら、まだわかる。

彼らは権力でもって(極端には選挙権制限したり)、価値観多様性存在し得る基盤自体破壊することができるからだ。


だが同じ批判を、ネット上の、ひとつ漫画サイトに向けることができるだろうか。

ウォルターブロックという人が、"Defending the undefendable"という著書で次のようなことを書いていた。

黒人がバーに入店することを行政が禁じたら問題であるしかし、バーの経営者が、自分の店を白人以外お断りにすることには問題がない。

というのは、黒人以外お断りのバーや、何人でも自由に入れるバーも同時に存在することができるのだから

万が一、すべてのバーが白人以外入店禁止になったとしても、その場合、他の種類のバーを起業することで、その需要を独占できるのだから

チャンスに目敏い起業家はこれを逃すはずはない。結果として行政が何をせずとも、多様性が失われることはない。

しろ行政白人以外お断りのバーを禁止した場合白人だけでバーで飲みたいという人たちの楽しみを奪うことになる。


これは人種差別が例であるから、極端な考えに思われるかもしれない。反射的に拒否感を覚える方もいるだろう。

私はこの例自体には賛成とも反対とも述べるつもりはない。だが理屈としては、私が今回言いたいのはこれと同じだ。

comico同性愛表現を自らのサービスから排除したところで、それらがネットから排除されるわけではない。

一方で同性愛表現を認めないサービスがあり、もう一方では認めるサービスがある。それでいいじゃないか?多様性とはそのようなことだろう?

冒頭でURLを記したブログの主張を敷衍した先にあるのは、ヘテロ性愛作品は(あるいは同性愛作品は)ちらりとも見たくない、といった種類の要望抹殺された世界である

その世界では、ヘテロ性愛作品同性愛作品も同様に扱うサービスけが残る。性愛だけではない。

暴力表現も、障害の表現も、社会問題視され得るおよそ考えられる限りの表現の扱いは、全ての漫画サイトで同様なものになるだろう。

その世界はある種の人たち(おそらくはリベラルと呼ばれる)だけにとって健全化された、その意味価値観の一様な世界だ。

反差別多様性を殺すのだ。

2015-03-12

同性愛とか

さもセクマイ理解があるフリしてマイノリティ側に

立ったつもりで反対意見をブッ叩く奴も

社会未来を憂いてマイノリティブッ叩く奴も

お前らどうせ関係ないんだから黙ってろよ。

  

ロリコンとか異常性愛持ち出してこっちも認めろとか言う奴、同列で語ってんじゃねーよ。

BLやらGL読んで理解したつもりになってる奴、二次元三次元一緒にすんなよ。

  

お前らには関係ねえよ。

こいつと一緒に生きて死にたいだけなんだよ。お前じゃねえ。

セクマイはお前らが気持ちよく誰かをブッ叩く為の棒じゃねえよ。

  

2015-03-10

http://anond.hatelabo.jp/20150310184157

なんか妄想が先走った文章だなぁ。

著者の主張と、社会空気を切り分けられていないと思った。

著者の主張:セックス意味は無い。(でも楽しいからする人はする。カラオケみたいなもん。)

社会空気:いい歳こいてセックスもしてない奴って人間として欠陥品でしょw

元増田はこのふたつをごっちゃにしてる気がすんのね。

俺はアルテイシアさんの本何冊か読んでるから彼女の考えというのは結構わかるし、別に矛盾もしてないと思う。

例えば『モタク』の序文でこう書いている。

『私はオタク恋愛市場に引きずり込もうなどとは、1ミリも思ってません。(中略)「したいけど方法がわからない」という人に。この本が届く事を願います。』

彼女の考え方では、

1.恋愛をしたくて、してる人orしたくなくてしない人:お好きにどうぞ

2.恋愛をしたくて、できない人:私が力になりましょう

ってことだと思う。

から

性愛に関わること避ける人たちの生き方も認められても良いのではないかと考えている。

という点で別に対立も矛盾もしないと思う。

しろ

セックスをしないという選択肢が過剰なほど貶められている非対称性に奇妙さを覚えている。

のは元増田も著者も同じだと思う。

セックス依存症ドヤ顔なのに童貞処女は恥ずかしい社会って?

http://am-our.com/sex/231/11150/

上のURLには恋愛強者女性による座談会の内容が書かれていて

セックスすることに意味なんてない、女性カラオケ感覚セックスするんだ、と書かれている。

なるほど、それもまた一つの価値観だろう。

だが、この座談会の中心人物は、恋愛マニュアルセックス指南本などを執筆している作家であり、

世の童貞たちに素人女性との(快楽目的とした)セックスを推奨している人物でもある。

立ち読みですが、同作家執筆した作品内容を確認した結果、そのような作家だと感じました)

仮にこの女性作家本音で「セックスすることに意味はない」と考えているとすれば、

なぜ童貞たちに恋愛セックス指南をするのだろうか。

なぜ女性経験のない男性たちを無意味行為に駆り立てるのだろうか。

無論、それは単なるセールストークに過ぎない、というならば確かにそうだろう。

だが、彼女恋愛強者男性に対して「セックス意味がない」とうそぶく一方で

女性経験のない男性には、さもセックス意味があるかのような幻想を振りまいている。

しかし、セックスすることに意味がないと考える人がいるのならば、

セックスしないことにも特に意味がないと考える人がいるもいるはずだろう。

実際、童貞の多くは、気付いたら女性経験が全くないまま大人になってしまった、という例がほとんどだ。

ひどく童貞をこじらせていない限りは、セックスしないことに大きな意味付けなどしていないはずだ。

(もし誰もが意味付けをしているとすれば、童貞卒業のための恋愛指南書が売れるわけがない)

実を言うと、私は「セックスをすることに意味はない」という考え方にはおおむね賛成だ。

一方で、セックスしないことにも意味はないという意見をも主張したい。

男性であれ女性であれ、何となくセックスをしたくないと思うならば、別にしなくても良いし、

周囲が躍起になって性風俗に連れて行ったり、女性であれば彼氏をあてがったりする必要は全くないと思う。

性の自己決定権という概念がこれほど人口膾炙し、非常にカジュアルセックスを行う男女が一般化しているにも関わらず、

かえってセックスをしないという選択肢が過剰なほど貶められている非対称性に奇妙さを覚えている。

これは性のタブーが強い時代に「セックスをすること」の意味が過剰に貶められていたことと似ている。

確かに私たちにはセックスをしたい本能的な欲求はあるはずだ。

しかし、その欲求は個人差が大きく、何か大きな犠牲を払ってまで充足したいと思う人ばかりではないだろう。

特に食欲や睡眠欲、排泄欲などとは異なり、充足しないことで健康被害はもたらさないため)

そう考えると、そうした選択をする人々を貶めるような風潮、

例えば、幻冬舎新書ルポ 中年童貞』における当該男性たちの描かれ方に強い疑問を感じる。

積極的であれ、消極的であれ、性愛に関わること避けるというのも一つの自由意思の選択であって

性抑圧の強い時代ならば人格異常の一種とまで扱われてきたセックス依存症の人々が

しろ社会的成功者として扱われる自由が認められるなら、

そのような選択を避ける人たちの生き方も認められても良いのではないかと考えている。

ぜひ皆さんの意見を賜りたい。


******

ちなみに、私は30代後半に結婚するまで完全に女性経験がありませんでした。これは意識的な選択の結果です。

パートナーとは親の勧めによる見合い出会い長男をもうけてからは(話し合った結果)セックスをしていません。

2015-02-26

ラノベの「よく出来た」ボーイミーツガールテンプレート私論(中編)

さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。

例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。

同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校プールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。

溺れて必死主人公にしがみつきビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通女の子であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインうつむき押し黙るといった、つまり普通女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。

多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会前後主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である

最後見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロイン毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロイン毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。

余談

念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線クライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。

関係構築のための行為類型の整理

ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公ヒロイン恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効機能する。

さて、関係構築とは主人公ヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。

秘密の共有

遭遇の類型として「秘密漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。

秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合プライバシー同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去トラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意コントロールできるという点で優れている。

こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。

観察による発見

涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公ヒロイン友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロイン主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロイン主人公評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公ヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。

余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力である主人公必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこから作戦演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。

共通点の発覚

秘密漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入共感を誘う要素と言っていいだろう。

親切

素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由けが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。

これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公ヒロインコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。

呼称の変化

相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロイン名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。

なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。

依頼に対する承諾

一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。

一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロイン主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。

こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。

例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロイン主人公仕事を依頼し、主人公成功し続け、それをもってヒロイン主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロイン主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロイン主人公失望することは一度としてなく、最後ヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討範囲である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。

依頼に対する拒否

AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公ヒロインからスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。

この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。

好意の表明

単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。

相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。

救助と自己犠牲

窮地に陥ったヒロイン主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。

例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐ものであった。

他方で『俺の彼女幼なじみ修羅場過ぎる』におけるチンピラ侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロイン主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。

その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。

その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意ほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。

禁書』では記憶喪失し、『AURA』では中二病世間露出し、『俺妹』では自分変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分過去未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。

後編へ続く

2015-01-29

http://anond.hatelabo.jp/20150128232843

あなたの子供が幼児性愛者に性的暴行されることを受け入れられるか?

と言う発想しかかばない時点で、子供本人の権利という意識が無いんだなあ。

それ言うなら「幼児である自分幼児性愛者に性的暴行される事を受け入れられるか?」だろ。

ジェンダー論者による「モテるヒント」

http://anond.hatelabo.jp/20150128232843

引き続き、引用伏見憲明氏の『欲望問題から

 

ぼくはフェミニズムを手がかりとしてセクシュアリティジェンダーといった問題を考えるようになるのですが(中略)、その理念の中で、我々は社会的に押しつけられた性規範呪縛されているから、性愛夫婦恋人関係も抑圧されているのだ、もっとそこから解かれることによって自由で豊かな生と性を獲得することができる、とされていました。

で、自分も「男らしさ」にこだわらずに「自分らしく」あらねば、そうすることが正しいことなのだ、と日常の場で実践してみたわけです。(中略)態度物腰もやわらかく、というか、ベッタラな感じで、身につけるものフリルの着いたものやら紫色ひらひらしたものだったり……(中略)まあ、わかりやすオカマっぽくなった。それが自由で、自分らしいことだと誇らしかったのです。

そのように「自分らしさ」を表現してあまりあ自分がなぜかモテない。政治的に正しいはずなのに恋人ができない。どうしてなのだろう。理論的には間違っていないはずなのに……それで周囲のゲイたちを見回してみますと、(中略)一般に求められている男という意匠体現している人がモテている。そこで自分でも、なるべく自己主張しないようにして、それなりに流行っている服を身につけて、言葉遣いも男らしく、態度物腰も野郎っぽく演出してみると、なんと、食いつきがそれまでとはまったく違ったのです!

性愛というのは、人格以前に、その人が表象している性別イメージ、つまりジェンダーをめぐる「欲望」なのだ、ということです。(中略)発情一義的に、相手の人格的な成熟度とか、コミュニケーションスキルによって引き起こされるのなら、性愛対象性別関係ないし、例えば、もっとご年配の方がモテモテになってもいいわけです(精神的に成熟しているのだから!)。

人は合理と効率を追及していきますから記号ゲームに参加していくと、見られる存在としての自分を設定していくことで、ゲームの中でより多くの利益を得られることがわかっていきます。(中略)アメリカでは「クローンゲイ」という言葉がありましたが、それはスポーツジムに通って筋肉を付け、髪型を短く整え……といった形でみんなが同じような見た目になっているありようです。少し前、日本ゲイコミュニティでも「イカホモ」という言葉流通しました。それはいかにもホモっぽいというルックスの人のことで、肯定的意味合いで用いられています。(中略)「イカホモ」が表しているのは、見た目がある類型になっているのは前提ですが──短髪でひげがあってそこそこ筋肉があってムッチリしていてラガーシャツなんかを着ている──自意識の上でも、ゲイであることを受け入れ、それを楽しんでいて、性愛における「男らしさ」がフィクションであることを感覚的に理解しているありようです。

性愛アイデンティティが結合していると、ありのまま自分を受け入れて欲しいと望むようになり、それが結果として「他者から発情されにくい自分」になることを招いてしまう。充実した性愛を獲得するためには、発情されやす自分になることが必要であり、さらにそのためには性愛のためにジェンダーを演じることを楽しむ感性必要である……という風に読んだ。「イカホモ」を楽しむように、「イカニモ男」「イカニモ女」のステレオタイプを演じるのである。それが性愛における合理と効率の追及であり、「モテ」と「自分らしさ表現」は対立することを受け入れなければならない。「モテない!」と言って怒るのは、「モテ」と「自分らしさ表現」の両方を得ようとしているためであり、片方を捨てるだけでも進むべき方向が見定められて、迷走状態でいるよりも精神的な安定が得られるだろう。

 

追記:

cyberglass ジェンダー戦略として利用するとモテる女性無意識にそれを会得している。そうやってジェンダー秩序が再生産される。

異性愛者の男性には「それを会得している女性しか女性として認識出来ないということなのでは。

「それを会得していない男性」「それを会得していない女性」は存在するのに、発情対象にならないから

攻撃的な振る舞いをしない限り存在無視されてしまう。その結果としてのミソジニーミサンドリー

 

quick_past そういう側面はあります。ただそこで評価されることを望んでる人ばかりじゃないと言うのが問題評価したい部分が違う人同士が評価しあってしまうのも問題

職場職能よりも性的魅力が優先して評価されるようではまずいだろう。

フェミニストも、男性会社員女性会社員職能ではなく性的魅力で判断することに噛みついている。

職場乱交パーティーではないが、どんな場面でも異性(同性愛者なら同性)を性的魅力の多寡しか判断できない常時乱交パーティー状態の人種というのは居て、

精子脳と言われたり、スイーツと言われたり、要はTPOより自分性的満足を優先する馬鹿とみなされる。

 

feita 割と世に出てる天才ありのままの姿でレリゴーしても承認されてるように見えるから錯覚しがちだけど、そんな奴ホントレアケースで自分比較しても仕様がないからね。承認されたきゃある程度自分削らんとな…。

性愛アイデンティティが結合しているから「自分を削る」と感じるのでは。

性愛ペルソナ仕事ペルソナを演じ分けるようになると、そこで自分が削られることは無くなる。

天才ではなく、演じることも面倒なら、承認への執着を捨てるという道もある。

 

ysync 「ジェンダーを演じることを楽しむ感性必要である男性性に対する嫌悪感自身の中にあるものも含めて)が強すぎて楽しめそうにない…。

誰も楽しめと強要はしていない。楽しめそうにないなら捨てればいい。

2015-01-28

性的少数派であるゲイ」と「ロリコンショタコン」の違い

私は二十八歳の同性愛者です。というか、同性愛ではあるのですが、大人になる前の少年が好きなのです。けれど、実際には少年との性行為を行ったことはありません。それがいけないことだというのはわかっていますから自分必死にその欲望を抑えていますしかし、もうそれも限界に達しているのです。なんとかできないものかと、成人したゲイ男性関係を持とうとしたこともあるのですが、そうした相手ではまったく興奮することができず、結局、行為は成り立ちませんでした。最近では、ふと気がつくと、街で好みの少年のあとをつけていたり、もう少しで声をかけそうになっている自分にハッとします。それと同時にぞっとします。いったい私はどうしたらよいのでしょうか。なんとかならないものでしょうか。本当にもう子供に手を出してしまう寸前なのです……。

『欲望問題』の著者である伏見憲明氏は、上記のような相談メールを受け取ったそうだ。

伏見憲明氏は、ゲイ解放運動に携わってきたゲイであり、差別ジェンダー問題に造詣が深い。

そんな彼にとっても、答えを出すのが難しい問題である

 

伏見憲明氏は『欲望問題』の中で、以下のように続けている。

今のぼくは三十歳前後くらいが性的な好みになりますが(中略)少年愛自分と地続きです。たか発情する対象の年齢幅が十五~二十歳くらいズレているにすぎません。そのことは、ゲイだけにかぎらず、ストレートの人も同じだと思います

異性愛の人々なら、少数派は何か問題があって「正常」ではない性の傾向にねじ曲がってしまったのだ、だからそれを「治療」で本来あるべきの状態、つまり「正常」な性に戻せるはずだ、と考えるかもしれません。しかし、ぼくは、自分性的対象の年齢が少し異なっているだけの少年愛者が、セラピー程度のことで、セクシュアリティを変更できるとは考えにくい。

異性愛の欲望だって同性愛にならなかったという意味で、ぼくに言わせれば偶然の結果です。フケ専だってデブ専だってロリコンだって萌えだって巨乳好きだって……みんなそういうものなのではないでしょうか。それぞれ本人の実感の中では、選択的なものではなく、自然にそうなっていた、としかいいようがない。(中略)それがちょっとやそっとのことで恣意的に変更できないことは、同性愛の例を考えても明らかでしょう。そんなものが簡単に変わるのなら、誰もマイノリティとして社会的不利益を被ったりしません。

これには強く同意せずには居られなかった。欲望に理由付けをしている人々も居るが、後付けにしか思えない。

思春期同級生女子に拒絶されたので、成人後も思春期年代女子に執着し続けている」

思春期同級生女子に拒絶されたので、母性を感じる年上女性に惹かれるようになった」

どちらも理由として通じる。理由付けなど、本人が欲望を正当化したり納得したりするための自己満足行為しかなく、

実際はただ「思春期女子が好き」「年上女性が好き」という好みがあるだけなのだ

どのような好み・欲望を持って生まれ育つかは、ほとんど偶然の産物である

それが万人に理解されやすい欲望ならば仲間と馴れ合うネタになるし、無理解嫌悪されやすい欲望ならば迫害される。

欲望が自分にとってプラスに働くかマイナスに働くかは、運でしかない。

 

少年愛の人も、「治療」といった行為で「正常」に戻るとは想像できないし、それでその人が幸せになるとも思えない。

相手に暴力を加えたり、死に至らしめたり、年少者の心に傷を残すような行為は認めない、というのはこの社会原則でしょう。そうしなければ社会を担う次世代を育めないし、子供たちの可能性をつぶしてしまうことになる。(中略)それゆえその禁止は徹底せざるをえないでしょう。

二人の同性愛者が愛し合っている関係Win-Winであり、社会を脅かす存在でもない。

海外ではゲイカップル養子を育てている例が見られるが、養育リソースとして活用できるなら社会にとってプラス存在であるとも言える。

聖書同性愛否定している」「なんだか気持ち悪い」などの拒否反応を示す人もいるかもしれないが、

それらは個人的嫌悪感、気持ちの話であって、実害ではない。

性同一性障害女装癖、二次元オタクBL好きなどの様々な少数派も、気持ち悪がる人は居るが、その欲望による社会への実害は発生しない。

 

しかし「暴力を加えたいという欲望」「死に至らしめたいという欲望」「年少者の心に傷を残すような行為をしたいという欲望」は、

実害を発生させる欲望であり、社会を脅かす欲望であり、社会に受け入れられることが期待できない欲望である

「なんだか気持ち悪い」は、解放運動によって薄まっていく希望があるが、「実害を回避したいという強い恐怖感」はどうにもならない。

あなた他人の性欲を充たすために死に至らしめられたいか?あなたの子供が幼児性愛者に性的暴行されることを受け入れられるか?

対人関係の欲望の問題は、多数派か少数派かということが焦点ではない。

Win-Winになりうるのか、Win-Loseでしか成り立たないのか、そこが一番の問題なのだ

 

伏見憲明氏は少年愛者の相談に対し、同人誌などフィクションで欲望をみたすことを提案しているが、それでも完全ではないともしている。

 

追記:

ChieOsanai 実害がない近親結婚の解禁を唱えても怒るひとが必ず出てくる。四六時中、近親相姦に怯えるようになるって言ってるひとがいたけど、現状日本では(強姦ではない)近親相姦は法的には禁じられてないからね。

婚姻による所領の流失にも敏感であった。そのため、叔父と姪やいとこ同士(二重いとこの場合もあった)という血族結婚を数多く重ね、一族外に所領が継承される事態を防ごうとした。その結果、17世紀頃には誕生した子供の多くが障害を持っていたり、幼くして死亡するという事態が起こった[2]。カール5世以降、下顎前突症(口を閉じているときの顎の形のことではなく、歯を見せたときに上の歯より下の歯が前にある)の人物が一族に多くなっており、カール5世不正咬合により食事は丸呑み状態であったことが伝えられている。特にスペインハプスブルク家ではカルロス2世のような虚弱体質・知的障害を併せ持った王位継承者を誕生させ、スペイン王位ブルボン家に渡すこととなった。そのブルボン家も血族結婚を古くから重ねており、ブルボン家ハプスブルク家の間で頻繁に婚姻が行われるようになると、双方で夭折したり、成人に達しても身体に障害を持った人物が続出した。

ハプスブルク家 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF%E5%AE%B6

 

nomitori これの究極が殺人衝動もってる人なんやろなぁ…自殺志願者を絞殺して死刑になった人いたけど、あれはあの人なりに社会と折り合おうとしたんやろうな…もちろん社会はそれを受け入れられないわけだが…

このブコメが最も投稿意図を汲み取ってくれたと感じた。ありがとう

 

saigami こういう話題が出る度に「自分同性愛者だけど小児性愛者も差別されるべきではないし権利保護されるべきだと思ってるよ」とアピールした方がいいのだろうか

小児性愛者の権利保護とは何なのだろうか。アメリカではゲイを寄ってたかって暴行する事件が起きているが、小児性愛者もそういった暴力に晒されているということだろうか?

部落差別のように就職時の差別などを受けているのだろうか?いったい、どんな実害を被っているのだろう?

 

成人を対象とした異性愛者は、結婚という制度による保護を受け、社会お墨付きを得ながら性欲も満たしていてずるいということだろうか。

小児性愛者の権利保護は「成人男女が、実在児童を性欲解消のために使う権利」を保護することだろうか。

 

しかし成人を対象とした異性愛者であっても、貧乏ブサイクバカ金持ち美形優秀な異性を求めても、ディール不成立となる。

結婚しないのではなく、できない「成人を対象とした異性愛者」などいくらでもいる。

貧乏ブサイクバカと金持ち美形優秀女でも、貧乏ブサイクバカと金持ち美形優秀男でも、同じである

性的指向も、本人の性別も、関係ない。Win-Loseならば性的関係のディールは不成立となる。

 

成人同士なら「自分一方的に不利な関係を強いられていないか?」という判断を「お互いに」することが可能だが、成人と子供場合はそうではない。

親と子の関係も、子の判断力選択肢が限られている以上、不平等ものである。だから保護者による子供への虐待はひときわまれる。

要は知力や体力で圧倒的に勝る存在が、劣る存在に対して一方的に欲求を押しつけるのは暴力なのである

「オレのSはサービスのSだから」などとのたまうなんちゃってサディストではなく、見ず知らずの人に対する理不尽暴行殺害を熱望する純度の高いサディスト小児性愛者は、

欲求の根本暴力Win-Loseを含んでいる。これが問題なのだ

サディスト小児性愛者の権利保護がなされている状態」について教えてほしいものだ。

Ta-nishi せやな暴力的欲望も、SとMでWin-Winが成り立っているなら問題なし、と思う。

補足しようと思っていたことがブコメで補足された。ありがたい。

 

例えば視力ってのはかなり遺伝に影響される要素ではあるんだけれど、「近眼」程度の遺伝はそんなもん産むか産まないかの判断に含まれない程度の些細な要素となっているよね。

何故なら、世の中にはメガネというとても美しい装飾具があるおかげだね。

それと同じことで、産まれタイミングではどうかわからないが、時間が経てば「障害? 笑わせんな」程度になってしまうようなハンディキャップってのはあるんじゃないかねえ。

片腕無いとかのレベルは、徐々にハンディキャップじゃなくなってきてるわけじゃない。

http://anond.hatelabo.jp/20150129121148

生身の脚を上回る機能義足が登場したりと、ツール進歩ハンディキャップハンディキャップじゃなくしていくことには希望を持っている。

たとえばVR技術が発達して、サディスト小児性愛者の欲求をかなえるVRが誰でも享受できるようになれば、彼らの欲求不満は解消されるのかもしれない。

とにかく、一方的な欲求を受け止めるのが、知識や判断力がまだ備わっていない現実の子供であっては、絶対にいけないのである

 

TakamoriTarou フィクションは、確かに完全では無いにしても、擬似的に体験して衝動コントロールする機能を担っているわけだが、最近はそれすらも許さぬと言う雰囲気が出てきており非常に厄介だと思う。

疑似体験を禁止するのは愚行であると思う。フィクションガス抜きしてくれるから現実治安が保たれるのだ。

あらゆるWin-Loseを疑似体験が引き受けてくれれば、欲求をぶつけられて傷つく人も、欲求がかなえられずに怒る人も、鎮まっていくだろう。

(そしてフィクション人間現実人間を比べて、現実人間誹謗中傷するのは、最も醜く愚かな行為である

 

bloominfeeling 欲望問題はいい本だったなぁ。著者のセクシャルマイノリティに関する本は数冊読んだ。

本当にいい本だった。私はどうにも人を煽るような、喧嘩を売るような書き方をしてしまいがちだが、『欲望問題』は理解を深めて広げるような書き方に仔細に配慮しており、

ここには書ききれなかったコミュニティに関する話もとても内容が濃かった。私の投稿イラついた人にも『欲望問題』はぜひ読んでほしいと思う。

 

ゲイロリコン女性……「被差別性を帯びた共同体」について

http://anond.hatelabo.jp/20150129223928

2015-01-16

ロリコンセクシャルマイノリティ

最近あちらこちらで「ロリコンセクマイ」という主張を目にすることが増えて,それに対する「とうとうこいつらロリコンセクマイとか言い出したよwwwwww」という反応も目にすることが増えてきたんだけど,なんというか,どっちも正しくてどっちも間違ってると思う.

前者は一般論としては疑う余地なく正しい.小児にしか性愛感情を抱けないひとは一定数いる.それは変えられない.同性としか恋愛できないひとがいる,自分は違う性の身体に閉じ込められたひとがいる,というのと同じ次元で,彼らはセクシャルマイノリティと言われるべきだし,彼らが現実の子供に手を出さない限り彼らがそのために迫害されたり「治療」の対象なっちゃいけないと思う.

http://ja.gimmeaqueereye.org/entry/1531

実際に↑のような迫害を受けているひともいる.彼らはどう考えてもセクマイだ.

しか後者一定の理があるというか,現代日本の,というかぶっちゃけて言うとオタクあいだで言われる「ロリコン」って,ぶっちゃけファッションであってそんな切実な性的志向じゃないだろ! と思うことが多々あって,もちろんガチペドファイルのひとたちがある程度いることは間違いないだろうけれど,雷ちゃんかわいいとか響サイコーとか薫ちゃんにせんせえと呼ばれたいとか言ってるひとが同時に愛宕萌えーとか加賀さんかわいいとかしぶりん結婚してくれとか言ってるの見てると,それもうロリっぽくデザインされたキャラ萌えてるだけで実際は小児性愛者でも何でもないようにしか思えなくて,そして肌感覚としてそういうひとたちの方が多数派なように思えるので,そういうのを見ているひとが「何お前らがセクマイ気取ってんだよ!」みたいに言うことも,まあ,よくわかる.

もちろんオタクの中にも,本当にセクマイとしてのペドファイルはいるだろう.でも,大学に行っても自分は7歳くらいの女の子しか好きになれないんだ,と絶望したことのない俺のような「マジョリティ」に属す人間が,第六駆逐隊に萌えているという理由だけで「俺たちもセクマイだ!」と叫ぶことは醜悪だと思う.

セクマイは,多分,そんな軽い在り方じゃない.

2014-12-27

宗教者のロリコン率の高さは異常

あのキリスト教カトリック系ですらも仏教ですらもヒンズーは・・・元々だけどイスラム教・・・その最たるものだけど

基本的に18歳未満の少女レイプしたり無理やり結婚したり子供産ませたりを宗教的拘束によって為されているのは純然たる事実

そういう奴らが宗教彼女たちに肩入れするのは何故かと思う。

ニュージーランドのある孤島では14歳までの少女が父親かそれ以上の世代男性たちにレイプされて孕まされるというのが慣習的に行われていた、

という歴史的事実があった。これはその社会での宗教観念であった。

しかし、後にイギリス人女性警官によって暴かれたという事件

近年ではローマ教皇だったベネディクト16世による司祭ロリコン事件のもみ消しがあまりにも有名

新興宗教では大阪ネットワーク地球村辺りも有名だと思う。

宗教に属する年端もいかない女の子が何で教祖に身を捧げるのか(家庭の事情環境もあるだろうが中世ではないはずなので)不思議でならない。

教祖もまた本来彼らの信じる正しい道に彼女たちを導いてやらなくてはならないのに、

宗教的にはセックスを神との交わりだとか断じている宗教者も多い。

それなのに実際事件になり問題になり、という事が割と日常的に発生しているのを見ると、

やはり道徳的にも倫理的にも可笑しい事だと思われる。

宗教者のくせに少女性愛、ないし少女趣味性質を持つ人間が多すぎる。

これは言わずもがな宗教者は元来ロリコンしか成り立たない職業なのではないか?

最近はこう思うようになっている。

2014-11-15

外見はイケてるのに残念な女

「美」を利用する。それ自体は悪くないが、美という商品は確実に目減りしていくのをまるでわかっていない。

美は常に高値づかみの株だ。服装やら化粧に時間をとられすぎている。その時間ででどれだけ勉強できるだろう。

外見は拡張するが、自己内面性や精神拡張しない。読書をしない。

二十歳ぐらいからまるで成長していない常識は18歳までの偏見とはよくいったものだ。

他国はおろか、自国政治経済について知ろうとしない。経済の停滞はすべて政治家所為にする。自らの無知は戒めない。

社会成熟すれば「健常者」でいられるレベルが上がるのは当然のことだ。

字が読めなくても農民でいられた。大卒であれば定年まで職にありつけた。高い技能や知識を身につけようとしない。

美によって階層が移動できると考えている。一定真実ではあるが、”妻”には選ばないだろう。

選ばれたとしても精神的に幼いから軋轢が生じ、離婚へ向かう。

自己顕示欲偏見に満ちている。自己確立しない。周囲との差や立ち位置ばかりを考える。

他人評価し、自らもまた他人評価から自立しない。

一瞬の快楽にふけり、永続的な性愛パートナーを作ろうとしない。

「金」「社会的地位」「職」のぐらいでしか人を判断することができない、そういう基準しか持ち合わせていない。

せっかく恵まれ容姿をを持っているのだから、と残念に思う。

でもまあそういう女の子に言っても無駄なんだけどね。

2014-11-13

http://anond.hatelabo.jp/20141112015306

そもそも自分ヘテロかどうか考え直してみたらどうか。

世の中には同性愛者・異性愛者の他にも様々なセクシャリティーがある。

アセクシャル(無性愛者)とかデミセクシャル(強い愛情を持った相手にの性的感情を抱く)とか。

いちど婚活からは距離を置いて自分自身を見つめ直してみるのもいいかもしれないよ。

2014-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20141101052623

児童性愛は相手が子供判断能力が無いからダメ」というロジックも、結局は近代になってやっと成立した人権意識しかなく、この価値観未来永劫ずっと続くという保証は無いんだわ。

この件で、今こそ俺様正義感アピールタイムだとばかりに児童性愛否定してる人はその辺注意した方がいい。

宗教が絶大な力でもって同性愛弾圧していた時代がまさにそれだった。

神様ダメっつってるもの肯定される世界なんて、当時の人間には完全に理解の外だったわけだからな。

2014-10-25

http://anond.hatelabo.jp/20141025020609

ブクマ批判するのは性愛中心主義だとか元増田は性欲が薄いとか言ってる人がいるけれど

逆だと思う

この人性欲はめっちゃ強いと思うよ

要はセックス対象以外の女性とは会話もしたくないっていう事だから

本当に性欲に振り回されてるんだと思う

「好みじゃないけど親しく話せる」って当たり前の事ができない人間はそりゃあモテないよ

2014-09-16

http://anond.hatelabo.jp/20140916083147

好きになろうとしたけどダメだったと言うんだから

性愛者(アセクシャル)というやつだろう。

どうあがいたって無理だよ。

http://anond.hatelabo.jp/20140916144800

まあこんなネットの文面だけじゃ無性愛者なのかただの酸っぱいブドウなのかは判別つかんわ

http://anond.hatelabo.jp/20140916083147

いわゆる無性愛者ってやつだろう。

恋愛感情が分からないってだけで、家族や他の人に対する愛情とか趣味への情熱とかそういうのは同じように持ってるのが殆どらしい。

増田歴史から自分感覚を説明して納得したみたいだけども、次に何か考えることがあったら心理学見地から見てもいいかもな。

2014-09-13

http://anond.hatelabo.jp/20140912184121

性自認は女だし性愛対象男性結婚して夫がいるけど、未だに男になりたいって思うよ。

具体的にはチンコが羨ましい。欲しい。射精したい。抱かれるより抱きたい。女湯で見る小さい男の子が羨ましくて仕方がない。これから男の人生が待ってるなんて素晴らしい。

男装はしない。完全に女の体型だし顔つきで、しても見苦しいから。服装はまるっきりフェミニンだ。

メイクで可愛くなれる女装子さんとかMtFさんとかいいよね。

セクロスの時もオナニーの時も自分が突っ込んでる妄想でイく。

ほら、男子の「可愛い女の子になりたい」話に比べてどっか気持ち悪いし生々しいじゃん。しか厨二病とか処女こじらせた可愛らしいもんじゃない。だからさないし見ないんだよ。

誰にも打ち明けられなくて、墓場まで持ってくつもりの秘密

私が年とって死ぬまでに勃起射精もできる疑似チンコが開発されるのを期待して、残りの女の人生を粛々と生きるよ。

http://anond.hatelabo.jp/20140912184121

2014-08-31

http://anond.hatelabo.jp/20140830045542

人を人として好きになれるなら、幸せになるには十分ではないでしょうか?

私ははっきりと性嫌悪があって、おそらく無性愛だろうなという感じですが、

人として尊敬できる、ずっと友好な関係を続けていきたい、と思える人が何人かいて、

その人たちと一緒に過ごしている間はとても楽しくて、幸福も感じます

確かに無性愛他人から自分恋愛感情を抱かれてしまうと相手を悲しませてしまって、

気持ちを受け入れられない説明も正確に理解してもらいにくいので難儀ですが、

あらかじめそれとなく「恋人は要らない」という雰囲気をにおわせて

いわゆるフラグも早い段階で折りまくっていれば

うそ告白されるまでは至らないかと思います

増田の顔立ちや人当たりが良すぎて

知り合った女性が誰でも惚れちゃうとかならまた話は別ですけど。

普通恋愛をしたい、でもできない、って状態しんどいですよね。

私は恋愛はできる人だけすればいい、自分自分楽しい範囲で人付き合いをしよう、と

何年かかけて考えを変えてからだんだん気楽になっていきました。

結婚したい、実子がほしいというのでしたら

偽装結婚というか友情結婚という手がありますよ。

友情結婚市場では無性愛、性嫌悪は圧倒的に女性が多いです。

ただ結婚はしたいけど子どもは欲しくないという人も結構ます

ネットでもオフ会でもいいから一度アセクシャルばっかりいる場所

自分以外の意見にも触れて】ご自身セクシャリティ

深く見つめてみるといいかなと思います

ヘテロばっかい場所吐露して無駄に傷つくと性格が暗くなってしまます

2014-08-30

二十数年生きてきて、恋が分からない。

未だに恋と言うものが分からない。

性の芽生えというか、性交の本当の姿を知ったのは高校一年生の頃。

男子としては恐らく遅い部類だ。

中学まではセックスという言葉意味定義は知っていたが、実際に布団やベッドの上で何が行われているかなんて知らなかった。

知ったのは高校一年の秋ごろ、友達から借りたエロ小説挿絵セックスの正体を知った。

それまでは精通もしてなかったし、子どもを作る方法は何らかの手段精子を取り出して、病院かどこかで女性の子宮に入れるものとばかり思っていた。

まさか陰茎から子宮へ直に注入するなんて思ってもみなかった。

話はそれたが、そんな経緯があってか僕は恋と言うものが分からなかった。

好きな女の子とか言われても、顔や性格が好みだなぁというくらいにしか思わなかった。

そんな僕だったが、高校二年の秋ごろ気になる子が出来た。

出来たというよりは、一年生頃から徐々に潜在的に気になっていたのを改めて自覚したといったところだ。

実はその時僕とその子と、僕たちの共通の友人の中でひと悶着あった。

その友人はその子元カレで、別れる際その子嫌がらせをしたんだ。

クラス女子全体を巻き込んでのちょっとした騒動になったがまぁ何とか収まって、それに対しての仲裁に入ったこともあり、その後僕とその子は良い感じになった。

下の名前で呼び会うようになり、学校帰りに港の近くで夜の海を眺めながらタバコを吹かしたりした。

今思えば、青い関係だった。でも、それも長くは続かなかった。

結論から言えば、僕たちは付き合うに至らなかった。

僕の方から一方的メール無視するようになり、やがて自然と会話もなくなった。

彼女のことが嫌いになったわけではない。ただ、僕の心はいきなり彼女に対し無関心になった。

僕は、彼女との肉体的関係想像できなかった。

彼女と肉体的関係を結ぶことが心底嫌だった。

それは彼女女性として魅力的でなかったわけではない。

しろ逆に、彼女と肉体的関係を結ぶ自分の姿を想像し、心底気持ちが悪いと思った。

そして、その感情は今でも変わらない。

誰かを好きになるたび、その記憶が呼び出されては好きな人と距離を置いてしまう。

今ではもう、女性として人を好きになることもなく、人を人としてしか好きになれなくなった。

皆、人を好きになり、その人と幸せになっていくのに、僕は人を好きにすらなれない。

好きになったとしても、皆と同じような普通恋愛なんて出来ない。

僕の生まれ持った性質は、きっと好きな人を傷付ける。

性嫌悪なのか、無性愛なのか。

僕は自分の正体が知りたい。

幸せに、なりたい。

2014-08-17

http://anond.hatelabo.jp/20140816232534

もし本気で言ってるなら、異常性愛との違いについて本気で考えることをお勧めしたい。同じように糾弾されて然るべき、人として歪んだ価値観だと言わざるを得ない。

2014-06-02

http://anond.hatelabo.jp/20140602184231

わかる。

そのうち、無性愛にも配慮をとか、けもみみ愛にも配慮をっておかし社会になってゆく。

2014-04-12

http://anond.hatelabo.jp/20140412031804

ISって子供出来るのか!?

父親はXY? XYY?生物学からないから詳しく書いてよ。

ていうかISとGIDって被らなくない?

GID生物学的に男女ハッキリしてないとならないと思うんだが

追記

さっき調べたらISでも妊娠させる事が可能な人がいるらしいな。

http://www.momocafe.ouchi.to/cgihappy/smile/sex10/patio.cgi?mode=past&no=928&p=1

というか元増田自体がIS、GID、無性愛あたりをごっちゃにしている気がするんだが

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