はてなキーワード: 喜劇とは
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を想起させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。当然のことながら、これらの行為をして悪であると断ずることはできない筈だ。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。
結論としては以上となる。
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
話題になってるJOKER、予告だけ観た状態で1回目観て色々圧倒され、いろんな方々の評論を読んだあとにもう1回観て気づいたとこを備忘録がてらメモ。核心に触れるネタバレ多数なので未見の方はこの先非推奨です。
話題の映画「ジョーカー」を観た。3日間もの間、印象的なシーンが鮮明に再生され、日常生活を送りながらも映画の中の世界が頭から離れなかった。観賞中は息が詰まるような緊張感が続き、ショッキングな描写に気持ちは激しく動揺した。
これは一体どういう映画なのだろう。なぜこんなにも強く私の脳内を占拠したのだろう。これは議論を呼ぶ名作なのか、はたまたただのトラウマ体験なのか。作品に散りばめられたエッセンスから頭をよぎった監督たちの紹介とともに答えを探っていきたい。
まず系譜としてはマーティン・スコセッシなしには語れない。スコセッシは言うなれば妄執の父である。社会が見せる夢に取りつかれた青年が現実と妄想の間でもがく、という題材をひとつのテーマとしている監督だ。アメリカンドリームを皮肉たっぷりに描き、鬱屈した現実とポップな理想を同居させ、若者が狂信的な思いを貫くことで結果的に社会がカウンターパンチを食らう、という内容に特徴がある。主人公にはしばしば常識や倫理観が欠如しており、それが社会との隔絶や陰惨な事件を起こす引き金となる。「タクシードライバー」や「キングオブコメディ」でうだつの上がらない妄想癖の男を演じたロバート・デ・ニーロが「ジョーカー」で今度は人気番組の司会者を演じているのも意図的な皮肉だろう。社会の片隅で生きる男が自意識を肥大させて全能感を獲得するという構図は明らかにスコセッシに倣ったものだ。
だが、スコセッシ作品と比べると「ジョーカー」の方が観ていて受けるショックは大きい。はじめから狂気じみたスコセッシの描写する青年と違い、「ジョーカー」の主人公アーサーは特殊な障害こそあるものの、それなりの分別を持って慎ましい生活を送る恵まれない男なのだ。尊大さよりも不遇を強く感じさせる分、彼が段々と堕ちていくのを見るのはつらい。
似たような余韻を残す作家で連想するのはダーレン・アロノフスキーだ。アロノフスキーは絶望の職人である。こちらも現実と妄想の対比によって物語が進行するが、えげつないほどの乖離や物理的に後戻りのできない状況を生み出すことによって観客もろとも登場人物を絶望へと叩き落とす。往々にして個人における心理状態の変化に焦点が当てられ、描写に肉体の変容を伴うのが特徴だ。職人と称したのは、映像や音楽を神経質なまでに駆使して恐怖や落胆、憧れといった感情を煽っていく技巧派スタイルからだ。その画面は暗く、重く、そして美しい。「ジョーカー」を観て「レクイエムフォードリーム」や「ブラックスワン」を想起した人も多いだろう。アロノフスキー作品同様、「ジョーカー」には喪失そのものを賛美する鎮魂歌のような要素がかなりある。観客に登場人物と同じ夢を見させた上で、それが緊張とともに深い闇に飲まれていく過程をただただ美しく映し出すのだ。
では、「ジョーカー」の監督であるトッド・フィリップスの独自性はどこにあるのか。それは、社会的にインパクトのある題材を濫用し刺激的すぎるほどリアルな描写にこだわっているにも関わらず、全体として悲壮感を打ち消しにかかっているところにあるように思う。まさにジョーカー的とも言える、悲劇か喜劇かは主観次第、というのを地で行くような趣きがある。スコセッシが愛に飢え、アロノフスキーが闇を愛でる一方で、フィリップス節はなんとなくはじめから終わりまで人々の孤独が平行線のまま、深刻なのにどこか表面的で、楽観していて投げやりなのだ。
過去作の「ハングオーバー」でもトッド・フィリップスはそんな調子だった。いたずらに過激なモチーフを画面に持ち込み、場当たり的に対処していく。物語は緻密に構成しながらも強いテーマ性は内在させず、作り手としての態度はどこか楽観的だ。調べてみるとドキュメンタリー出身とのことで合点がいった。おそらくは観客を引きつけておく演出は最大限発揮しながら、事象としてはすべてありのままを受け入れる、ということである。男子寮、バチェラーパーティー、そして今回のジョーカー誕生といい、悪ふざけと相性の良いトピックを選んでいるのもきっと彼らしさなのだろう。待てよ、よくよく考えれば彼の切り口は「やりすぎ男子」そのものじゃないか。
だとすると、やはり「ジョーカー」という作品は社会的意義を議論するには不向きな映画だろう。映像表現に長け、社会をありのままに捉え、悪ふざけを好むトッド・フィリップスという監督が、人々にトラウマを植え付けるほどやりすぎてしまった結果できた映画なのではないか。社会問題全部盛り、過激表現マシマシでありながら「そういうこともあるさ」と爽やかに言わんばかりの演出にはそれで説明がつく。それは確かに時代を反映しているかもしれないが、風刺の意図や分かりやすいメッセージはおそらくそこにはない。
新時代のやりすぎブラックジョーク、それが私の「ジョーカー」に対する結論である。
※ 本当はクリストファー・ノーランにも言及したかったが、うまくまとまらなかったのであえて割愛した
例えば、ものすごく良い人で会えば皆良く言うのに発言がアレな人なんてのは多い。
そして、とても明晰で仕事も確実で信頼性の高い取引先が、飲みに行くとアレな話をすることも多い。
そして、人はみなスティーブン・キング程には表現が上手ではないので、
「うわヤだな」と思ったことに後から理屈をつけて話す事が多い。少なくとも自分はそうだ。
最初に「宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスター」論点を明確にしよう。
DCコミックスのワンダーウーマンは、その物語がある程度北米で共有されているため、特に男性から消費される性の対象として描かれているとはみなされない。
しかし、イスラム圏のポスターにワンダーウーマンを描けば非難の対象になるだろう。
だから、「あのイラストがエロいかどうか」は、時と場合による。
つぎにB、宇崎ちゃんを好ましく見る人に届けば良い、そうでない対象外の人は見なければ良い、とする意見である。
公共のポスターであり、ゾーニングされているわけではないからだ。Bは対象外の人も見えてしまうとする方が自然だろう。
つぎにCだ。知り合いの医療従事者もこの立場だったが「血が足りないのだから手段を問うている場合ではない」。
外科医はその職責において傷害罪に問われないという点から考えても、一考の余地がある。
待ったなしの局面において、明確に違法でなければ何をしても良いと考える医療従事者は、割といる。
半裸の男性のカレンダーが、売上が慈善に繋がる場合かなり好意的に受け止められている。
つまり、公共性の高さ、公共の福祉というのは、他よりも優先度を上げるという考え方は、社会によっては有り得る。
つぎはDだ。表現の自由は、公共のポスターにも適用されうるか。
表現の不自由展は、「芸術作品の表現が、制限される」という点で問題視されていた。
宇崎ちゃんは遊びたい!が、例え半裸のポスターであっても、適切に販売されるなら検閲すべきではない。
クリムトがウィーン大学向けに描いた作品が論争を引き起こして納品されることが無かったのは有名な話だ。
ポイントは、「作品」ではなく「掲示する場所」だ。争いの余地がある。
職場にヌードポスターを貼るのは、環境型セクハラに該当する、とされる。
Aの論点において「性的なポスター」であり、Bの論点において「嫌なら見るな」は否、ならば環境型セクハラに該当するだろう。
つまり、性的か否か、対象外の人に見えるか否かが、Eの結論に影響する。
性的なポスターであっても、該当の人にだけ見えれば良いという論陣なら、やはり該当しない。
最後にFだ。環境が女性に好ましくない状況である中で、それを維持強化して良いか、である。
これは、「その環境にある、ない」か「強化するか否か明確でない」か「強化はする、強化しない」の論点がある。
強化しない、強化する、いずれも明確に証拠を提示するのは、とても困難な作業になる。
女性が男性よりも性的に消費されやすいとする証拠もまた、提示が難しい。
よってこれは、「その可能性がある」とする立場で考えるのが一番自然だ。
その場合であるときに、他の論点がどう変化するかが、論点となる。
さて、こうすると、例えば自分の立ち位置は、以下となり今回の件はOKという立場だ。
B「ゾーニングはできていない」
C「医療は許容度が高い」
これは端的に言えば「環境型セクハラで女性の不当な扱いを強化する可能性があるが、表現の自由に加えて公共の福祉(医療)の方が優先度が高い」とする立場だ。
自分は、全く同じ図案のポスターが「読書感想文全国コンクールのポスター」であればNGとする立場だ。
環境型セクハラに該当する図案の場合、表現の自由よりも子供の教育環境は優先されるべきと考える。
つまり、同じポスターも時と場合によって許容度が違うと考えている。
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さて、長い前フリを読んでくれてありがとう。
JOKERは、アーサーという中年男性が、コメディアンになる夢を追いかけ、他人から利用されるだけであることをやめ、自分の悲劇が喜劇的であることに自覚的になる、悲しい物語だ。
JOKERはそのスタッフクレジットも、全体として「喜劇」のフォーマットで作られている。軽やかな曲とともに始まり、明るく楽しげな音楽で終わる。
そしてその悲劇が、喜劇的なエンターテインメントであることを理解している。
アーサーは人を笑わせるコメディアンになりたいのであって、人から笑われるピエロであることは望んでいない。
アーサーは人からはわかりにくい障害を持っている。緊張性の発作のように、自分の意志と無関係に笑ってしまうのだ。
劇中には小人症の人物も出てくる。その特性(障害)はわかりやすい。それでもソレは笑いのネタにされる。
現代では、小人症の人物を揶揄するのは不謹慎だとされるだろう。
同様に、アーサーの症例が精神病として一般に認知されていれば、当然それについて差別したり揶揄するのは、社会的に許容されない。
社会的に許容されないというのは、そんな現実がない、ということとは明確に異なる。
たぶん、アーサーは、現代でも差別され生きにくさを感じると思う。
もちろん表立ってではないし、合法的になんの問題もない理屈の上で、差別されると思う。
アーサーがJOKERになったゴッサムシティと、宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスターが掲示される現代は、とても遠くて、実はすごく近い。
医療のための緊急避難だと考えている人が多ければ、たぶん遠く、
そこから更に「しこしこミニシアターに通うサブカルオタどもとクリエイターの卵たちが社会現象を引き起こす奮闘記」が加味されてたんだよ。
当時の熱狂が生んだカタルシスあって初めて100%の面白さを体験できるから、今更見ても当時絶賛された意味はもうわからないよ。
その点ある意味でブレアウィッチプロジェクトと同じなんだよなカメラを止めるな。
それからゲットアウトの話になるけどあれの脚本と監督はジョーダンピールっていう、主にコント番組に出てたコメディアン。ゲットアウトが処女作。
強引な言い方をすればビートたけしみたいなもので、映画オタ特有のロマネスクやこだわりがないかわりにエンターテインメントとしてのサービスをさりげなく仕込むのが上手い。
そんでピールは黒人だけどスノッブで白人に囲まれて育ったような複雑な人で、アメリカの黒人問題を独特な視点で捉えてる。
結果コントとして見ることが出来てとっつきやすいが、単なる娯楽作として割り切れない深刻さもある作品ができた。
映画オタの無邪気でひたむきな活動に大衆が普遍的な共感を覚えたカメ止めと、エンタメのプロが長年のノウハウからアメリカの歪みを喜劇に昇華したゲットアウトは結構対照的な作品だったと僕は思う。
あるひとつの偶然が喜劇を生むか悲劇を生むかはわかりません。だからこそグレーゾーンに踏み込むか踏み込まないかをの判断は、そしてそもそもグレーゾーンがどこにあるかが分からない魑魅魍魎の跋扈するTwitterにおいて何をすることまでが燃えるか燃えないかは見極めるのは、どちらも非常に難しいことです。
ただ、踏み込んだのか、たまたまいた場所がグレーゾーンだったのか、そういう場合は極めて大きなアドバンテージの獲得に成功することはあります。運営になんの見返りもない金の使い方をしてもそういうことは発生してしまいます。
さて、そんなグレーゾーンに踏み込まないことは正しいかと言われたらまずそうではないのです、という所から本題に入らせて頂きます。
そもそもシンデレラガール総選挙は闇のイベントです。日頃は仲の良さそうな、若しくはガッチガチで仲の悪いプロデューサーや、クソデカ感情を抑えながら抑えきれないそれを垂れ流すユニットの民や、俺嫁キャラクター完全改変エロ専キモマグロ底辺勘違い真正ロリコンゴミクズキモオタク万害あって一厘利無し最悪の汚い男の性欲100%産業廃棄物のどんな人生送ってたら最高最高最高裁判所ちゅきちゅきお嫁さん終身刑とか出てくるんだよ頭マジで狂ってんじゃねえの目に入るだけで鳥肌が立つわもうお前が極刑だよ五京年間焦熱地獄から出てくるなよ人類が滅びてなかったらもう宇宙が滅びる十の十何乗年後まで出てくるな外道と言いたくなる野郎が一斉に部族を作って殴り合い始める高度な原人イベントです。正義もへったくれもない、正々堂々を主張することに意味は無いイベントです。邪馬台国の方が治安良さそう。
無論、明白に嫌われる行動は存在します。他のアイドルを下げて自分の好きなアイドルを上げるような言動、根拠の無い情報で人の投票を狂わせようとするリプライ、明白に寒い集団行動やコラ画像、ダイマをくれと一言も言っていない相手にひたすらテンプレート化したダイマもどきを叩きつけるアカウントなど、なんかもう地獄みたいな様相は結構見られました。
要はこの界隈色々腐っているのです。行動によって発生する結果があまりにも負の方向に偏っています。皿の上の料理が秒速で腐るコンテンツがアイドルマスターシンデレラガールズです。そんな腐った皿が次々と流れてくるイベントこそ、シンデレラガール総選挙だったという訳です。
さて、そんなピーをピーで洗う戦いの中で、本当に何事もなく、人によっては寒いとされるような集団行動をするペーもいないのに、しかも本当にダイマも何も存在しないのに上位に食らいついていたやべー奴がいました。
そう、お気持ち表明の王夢見りあむです。
実装から3ヶ月だかそれくらい、炎上と那覇を挟んで広く浅く薄くなっていった中で夢見りあむは異様な結果を残していた、恐ろしい限りの女です。
これは個人の意見ですが、夢見りあむほど堂々と戦ったアイドルはいません。
はいそこ、うちの担当の方が正々堂々だったと言いますがそんなこと言ってる時点で汚いです。それは誇るべきことじゃない、自分で噛み締めておしまいのことです。
夢見りあむは、たとえここでおしまいと言われようが強いアイドルです。夢見りあむは、餃子に混じったりパリッとしてたりするようなコラ画像もなく、やたら押しの強いダイレクトーマーケティングアカウントがある訳でもなく、何故か農業を始めているわけでもなく本当に何もしてません。だってする人間がいないから。夢見りあむのために生きているような凄まじい人間はまだ発生していないからです。
結果、夢見りあむは工作を働きません。他に害を与えず、ただ自分の力(炎上を味方にするなろうもびっくりのチート性能)のみでシンデレラガール総選挙を勝ち上がる、この時代において圧倒的な力を持ってしまったのが夢見りあむなのです。
だから私は夢見りあむに悪い印象を全く抱きません。私はあまりにも「比較」や「悪意」に過敏なタイプで、それこそ「この衣装が1番に会うアイドルAをよろしくね!」「Bとユニットを組んでるCも宜しくね!」「誰よりも努力しているDによろしくね!」「Eには絶対声がつくからFに投票してね!!!」みたいな発言を見ると、担当以外が踏み台にされていても最悪な感情を抱いてしまうし、魅力も一切伝わらないような謎のコラ画像から不愉快な感情を発生させてしまうメンヘラもびっくりな精神をしていますが、夢見りあむは見てて楽です。本当に。だって百害無くてそれでよしなんです。最高でしょ?
だから夢見りあむは凄いんです。ほかの新アイドルも正々堂々さについては同じですが、夢見りあむはそれでいてやたら表を獲得してしまっているのがやばいのです。
そしてそれを誰も誇りに思ってない。自分は正々堂々戦っているのだという自己陶酔の正義感に飲まれている人間がいないのです。むしろ夢見りあむに投票して自分をダメ人間と認識する人の方が多そうだよね。うん。そこがいいんです。見てて気持ちがいい。
これはよく言われることなのですが、ファンの民度はその対象への印象に深く関わります。一人でもやばい人がいて目立ってしまったら信用は地に落ちます。恐ろしいですよね。でも夢見りあむは安心です。落ちる信用も落とす謎人間も居ないので。
随分と具体例などが挟まってしまったので纏めると、夢見りあむは見ていて不快感を抱かない、という事です。まあいるでしょう、こんなクズになんで声がつきそうなんだとか不快に思っちゃう人。その思考をしてる時点であなたも同じ穴の狢です。もちろん私もその穴にいるので一緒に死にましょう?楽ですよ、原人バトルフィールドの外側。
そしてもうひとつ言いたいのが、みんな今回の夢見りあむの動向を少しだけでも見習って欲しいということです。アイドル単体で勝負しましょう。比較が発生するだけでフラストレーションを溜めてしまう人間に留意しましょう。特に体調とか優れないと本気でキレてブロックとかしちゃうこともあります。
その行動が本当にあなたの好きなキャラクターにとってプラスになるのか、ツイートする前に6秒だけ考えてみましょう。そしたら何かが見えてくるはずです。
ところで私何Pに見えました?ヒントを言うとCuに2人います。今回のモバマスのイベント頑張りましょうね!サインの目がキモいのかわいい。
ベンチャーの失敗はよくある話だしツイッターでもよく見かけるが、実際に自分の目の前でベンチャーが死んでいく様子を見た。
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僕が働いていたその会社は、入社当時は社員数は数十人くらいの規模、創業してまだ数年ほどのいわゆるベンチャー企業だった。
数年前からのとあるブームの波に乗り「最先端領域のベンチャー」というラベルが付いた会社だった。
僕の入社当時は非常に勢いがあった時で、仕事の引き合いも多くきていたし、市場の成長と共に会社が伸びていっている空気を感じていた。
そんな勢いに乗っていた状況だったが、社長を始めメンバーのほとんどはエンジニアで、ビジネスをつくれるセンスと能力のある人がいないことが課題だった。当時の会社の経営状況がどんなだったか詳細は知らないが、潤沢に利益があるわけではなかったと思う。VCから調達した資金を消費しながらムーンショットを狙っているような感じだった。
そしてある日、某大手コンサルティングファーム出身の人が入社するということを知った。ビジネスに課題があることは分かっていたし、上場を目指してもいたので、それを実現するために獲得したであろう人というのはすぐに分かった。
僕自身はいわゆる本物の経営コンサルタントという人と人生で一度も関わったことがなかったので、新しく入った彼がコンサルタントとしてどうなのかは全くわからなかったが、自信に満ち溢れたオーラが出ていることは感じた。
そしてその彼は入社後すぐにある重要なプロジェクトを成功させ大きな成果を出したらしい。
気づけば役員となって経営全体を指揮するようになっていた。もちろんそういう役割の前提で獲得した人なわけなので、実力を認められた上で登用されたということだ。
それはそれでいいとして、そのあたりから仕事のプロセスが急に堅苦しくなった。
分かりやすいところだと、基本的にお金がかかることは全て詳細を説明して許可を得なければいけなくなった。ただ1ステップ増えるだけならまだ許せるが、その彼に却下されることが明らかに増えた。他にもちゃんとした組織図を書いてそれぞれの部署やポジションに仰々しい名前を付けていった。自分の名刺の見た目や肩書きにはとてもこだわっていたらしい。
お金がかからない事については大いに自由にやってくれという感じだったし、そもそも明らかに無関心だった。
それらの変化に伴って会社の空気が全く変わってしまった。以前は何でも自由にやらせてくれる空気があったがそれは消え、何となく殺伐とした雰囲気を感じようになった。
いつからか正確には知らないが、そのコンサルは会社の代表権を持つようになったらしいという噂を聞いた。
この頃になってようやく気づいたが、この時点でもう会社を完全に乗っ取られていたのだ。
当然ながら優秀なメンバーから辞めていき、気づけばピーク時の半分まで人が減っているらしい。かくいう僕ももう辞めているからいまの状況は知らないが、キーマンといえる人はもう誰も残っていない。
かつて僕が面白さと未来を感じて入社したベンチャー企業が「死んだ」と感じた瞬間だった。もちろん僕が間違っている可能性は十分にあるし、これからその会社は大成功するのかもしれない。
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さて、最後になぜ会社がそんなにいとも簡単にコンサル野郎に乗っ取られてしまったのか?について少しだけお気持ちを残しておく。
これまでの書きっぷりだと昔は良い会社だったかのように感じるかもしれないが、全くそんなことはなかった。
会社が何を目指して何を解決しているかは全く分からなかったし、社長とそれを話しても的を得た回答はなく、すごく遠い未来の理想の話ばかりだったように思える。社長はとにかく大企業と実験的な仕事をすることしか考えていなかった。
社長の中にあるビジョンはおそらく、大企業や国にかかわる機関など大きな権力を持つ組織と対等に話したい、みたいな事だったんだと思う。何かの課題を解決したいわけではなく、権力を持つ人に対して自分が意見をして相手の行動に影響を与えている状態になりたいのだ。
現実で起きていたことと言えば結局は一過性のブームによって期待値が膨れ上がった中で、景気の良い大企業の余剰資金が一部流れ込んで来ただけに過ぎなかった。「最先端領域のベンチャー」というラベルがあるだけで世間は注目してくれた。
実際に僕が辞める頃にはブームも徐々に陰りが見えていて、新規事業の予算の使い道に困った顧客からの引き合いしか来ていなかったと思う。
改めて振り返ると「死んだ」のではなく、初めから「生きていなかった」んだと感じる。
社長はカリスマ性のある人柄で、何を言ってるかわからないが何かをやってくれそう、と感じさせる生れながらの才能を持っている。そこにたまたま張っていたポジション (実際には大企業の顔を立てるためにたまたまその技術をやっていた) の価値が一時的に上がったことで社長を含めて多くの人が勘違いする羽目になった。
一方で、経営コンサルタントをしている人にはありがちな悩みらしいが、自分が事業をやったことがないというのをマイナスに感じるものらしい。コンサル野郎にとっては自分で事業をやったといえる実績が手に入れば、これまで突かれると痛かったロジックの穴を埋めることができ、全人類に対して完全にマウントを取ることができるわけだ。
そんなラッキーマンとコンサル野郎の組み合わせは、もはやお互いにとって相互補完となる幸せな関係なのかもしれない。ラッキーマンは実務は全てコンサル野郎が面倒みてくれると思っているし、コンサル野郎は社長を自分の盾として置いておくだけで充分でなるべく空っぽの方が好都合だからだ。
そして本来ならそういう暴走と悪循環を止める機能をしてほしい経営陣たちでも誰も止めることはできなかったようだ。それぞれの言い訳を並べているようにしか見えなかった。
決して社長のワンマンという感じではなかったが、要は彼らもまた「ボードメンバー」というラベルが欲しかっただけなのかもしれない。
こんなことを書いている自分自身もまた「最先端領域のベンチャーで働いている」というラベルが欲しかっただけなのかもしれない。
世の中にはきっとこんな会社が星の数ほどあるんじゃないかと思う。
僕は早々に損切りしてしまったが、そんな喜劇を目の前で見れただけでとてもお得だったと思える。
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それぞれに思うところはあると思うが、あくまで末端の当事者意識の低い人間が現実を知らずに愚痴っていると捉えてもらえればいいと思う。
ちなみに、当時の会社のバーンレートを考慮してもあと2年以上は生きられるキャッシュはあったらしいよ。
事業を収益化できていなかったのはあるだろうが、そもそも何を事業としていてどんなビジネスモデルでなぜ勝てる理由があるかを会社の誰も答えられないくらいだったからな。
会社である以上金を稼ぐというのは大前提であり、人間で言えば息をするとか心臓を動かすとか血液の循環とかのようなものだ。それをなくしてカルチャーだの働きやすさだのやりたいことだのとほざいても何にもならない。
今回の件はそういう当たり前のことに気づいたいい経験だった。
この「男はつらいよ」は、そんな真面目に、肩を張って見る映画ではない。
映画の中では様々な笑いを呼ぶコントやセリフや動作がちりばめられている。
そして、ストーリーの中で、「寅」はダメ男の一つの典型として描かれている。
ダメな男が結局ふられる喜劇。山田監督もそんな馬鹿なストーリーの喜劇は1回で終わりだろうと思って作ったと証言している。
ところが劇場で大ヒット。映画館で笑いの渦。思いがけない反響に松竹が予定外に続編を作り続けて48作まで続いた。
昭和のサラリーマンは日本のため、家族のために日々身を粉にして働いた。
一生懸命働いても会社(上司)から文句を言われ、家族から文句を言われる事もあるサラリーマンにとっては、ダメ男の寅を他人のように思えなかった。そして、最終的に家族や隣人の愛に包まれる寅を羨ましいと感じた。
時代背景もあるが、労働で忙しく働いたけれど報いが少ない苦労の日々を過ごした経験がなかったり、会社や家族から冷遇された経験がなかったら、寅を身近に感じる事はできないだろうし、また、家族や隣人の愛が大切だとも思わないだろう。
ふと気付いたのだが、現実で猫を見かけるよりもネットで見かけるほうが多くなった。こういう逆転は、実は珍しいのではないか?と思い始めた。もちろん、パンダを目で見たことがある人よりも、テレビで見たと言う人のほうが多いだろう。希少な動物だし、日本にいるパンダは数えられるほど少ない。雀はどうだろう?あれだけの個体数で朝チュンチュン言ってるので、当然直接見る機会の方が多いだろう。じゃあ猫はどうなのかというと、確実にネットの方が沢山いる。氾濫していると言ってもいい。昔は、たまにどこかの飼い猫が鈴をつけて歩いている姿を見る機会が多かったはずだ。野良猫にあったら、とりあえずモノで釣って近寄ったりしたはずだ。そういった経験の価値は、今はメディア猫に比べて相対的に上がっている。メディア猫の振りまく喜劇的な可愛さに僕らの胃はもたれ気味で、どうしたってあのツンケンした現実の猫とふれあいたくなる。そうしてまた「猫を飼いたい」という偽物の気持ちを植え付けられた人々は今日も猫の居ない生活に首をかしげることになる。おかしいな、メディア猫はあんなにも居るのに、現実では全然見かけないじゃないか。。
ここから先は完璧に想像なのだが、日本の高度経済成長時代、裕福な家庭の象徴として「ペットを飼う」が掲げられた。立派な一戸建て、最新の家電、頑丈な車、広い庭、そして片隅には犬小屋があり、ゴールデン・レトリバーがいびきをかいている。ペットを飼う余裕すらないのは、中流とは言えない。彼らはこぞって同調し、しかし「なにを飼うか」で個性を競っていた。下らない流行りに付き合わされたのが猫たちである。様々な品種改良が進み、もはや家の中でしか快適に暮らせないまで進化させられてしまった彼らには高い値段が付き、飛ぶように売れた。一方で、捨てられる猫が増えた。もともと繁殖力の強い生き物だから、全国的に猫だらけになった。しかし10年も経てば、野生の猫は力尽きる。彼らの相手はいつの間にか、戸建ての一軒家からコンクリートの階層ビルに変わっていた。人間のご相伴に預かれなくなった猫たちは、やがて数を減らしていった。
そんな猫たちに分け隔てなく優しさを振りまいて、ご飯を食べさせるついでにうちの子にしてしまう男がいた。僕の叔父だ。彼は長い間祖母と二人暮らしで、ふたりとも猫が大好きだった。いつの間にか祖母の家は猫屋敷になっていた。祖母も叔父も、自分の家に何匹猫が上がり込んでいるか把握していなかった。そんな中の一匹に、チイがいた。チイは猫らしい猫だった。小さな僕がよちよち階段を登って必死で追いかけるのに、彼女はするりと脇を抜けて逃げてしまう。とても人見知りな猫だった。僕は彼女を一度くらい撫でたかった。毛並みに触らせてほしかった。ついぞ彼女が姿を消すまで、僕は撫でることができなかった。
いま猫が好きなのは、そういう原体験のおかげかもしれない。居なくなった猫の毛並みを想像して、ずっと別の猫のことを可愛がり続けるのかもしれない。そんな気持ちは猫にとっては知ったこっちゃない。我が物顔でご飯をねだり、好きなときに遊んで寝るだけだ。僕にも猫の気持ちなんて分からない。この世の誰が猫の気持ちを知っているだろう。ただ、そうした中でもなんとか上手くやっていくことができる。お互いの勝手を暗黙に認めて、自分だけのことを考えて共生する。そういうのが生活というのだろう、となんとなく思う。
祖母がもし居なくなったら、あの元猫屋敷には叔父しかいなくなってしまう。僕は叔父がクラシック・ギターを弾くのが好きだった。その昔、禁じられた遊びを弾く叔父がとてもかっこよくて、僕もギターを弾き始めた。またあの家にいつか、もうちょっとしっかりしたら、遊びに行きたい。縁の下に、光る眼。