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はてなキーワード: 必然とは

2016-08-31

自分の頭で考えて私と同じ考えになるべきだ

って何が悪いのだろうか?

ある者が自分の考えが正しいと確信していて、他人が正しい考えを持つべきだと考えるなら、他人自分と同じ考えになるべきと考えるのは必然であろう。

自分の考えが正しいと確信することは悪いことだろうか? あるいは他人が正しい考えを持つべきと考えるのは悪いことだろうか?

そして人が何か考えを身につけるにあたり、自分で考えることによってかそれとも盲目的にかどちらが良いだろうか?

自分で考えることによるのがより悪いだろうか?

自分の頭で考えて私と同じ考えになるべきだ」が悪いなら上に挙げた要素のうちどれが悪いのだろうか?

2016-08-30

完成後にああだこうだという

やれ配役がどうとかあそこの台詞は、演出は、とか。

脳内監督プロデューサーごっこもいいんだけどさ、

作品というのはあるバランスでできあがっているもの

レゴみたいに簡単にパーツを取っ替えできるものじゃない。

たとえて言えば、自然石を積み上げて作った塔みたいなもの

アンバランスに見えるところまで含めて完成しているのであって

一つ石を抜いただけで、全体がガラガラ崩れ落ちる、

ワンシーンを抜いただけで印象がガラッと変わる。

そんな繊細さをもった全体なんだよね。

そして、あくまであの映画はあの配役であの演技・演出で、

期限内、予算内で完成し公開され、そして大ヒットした。

それが事実の全てであって、それが監督以下スタッフの総力に対する評価だよ。

あとからいろいろ言っても、何の意味もないよ。

海外版を作るのは、それはそれで結構だけど、

最初から海外意識した版を作ったら大コケしてた可能性も当然ある。

それに、個人的には、ハリウッド方式世界展開を目指すやり方が

日本映画にとってベストだとも思わないんだよね。

それが必然と思うとき監督意志でそうすればいい。

世界展開のために」する配慮なんてものが、いまの日本映画でうまく機能するとは思えない。

今回の映画別に世界向けに作らなかった。ただそれだけのことで、

それ以上はもう「余計なお世話」だと思う。

もしそのイチャモン正当性を持たせようと思うなら、

もう「自分でその配役で撮ってみろや」以外に言うことはないよ。

そういうもろもろの意味で、今回「製作委員会」とやらがなくて本当によかった。

そう思わされたよ。

http://anond.hatelabo.jp/20160829171356

2016-08-28

今の日本の一番きがくるってるなと思うところ

普通、人は何かを批判するときに、それが単なる中傷とか視野狭窄偏見でないというエクスキューズをつけたがるものだ。

例えば「人」について批判する場合は、普通それが「人格攻撃」や「属性への差別」でないという念を押すものだ。

必然、その説得力を持たせるために、際立って被差別立場になりがちな属性を持つ対象への批判はそれ自体敬遠される。

もちろんそれが良い事だと言ってるわけじゃあない。それはそれで公正な批評とは言えない。

しかし、これが正常な人間心理であることは間違いない。

 

翻ってこんにちの本邦はどうであろうか。

この国では、韓国についての「批判」となると、それがどんなに度を超した中傷でもまるでアンタッチャブルになる。

なのだ

韓国差別的意識を持って「いない」というエクスキューズをする必要が全くないどころか、逆に韓国に対する差別意識を「批判しない」という立場表明すら必要になる有様である

自分韓国が嫌いだが」と前置きをしないと差別発言ぐらいを叱責することすら許されない。

日本アニメスタッフ仕事には全肯定で「アンチは出て行けよ」などと紛糾するアニメコミュニティが、韓国スタッフへの中傷には「実際に出来が悪いから仕方ない」と何故か逆に批判への批判がゆるくなる始末。

正常な人間心理差別と「とられかねない」発言忌避するのと対照的に、現代日本人の心理「正当な韓国への批判(これを差別と見なす事はそもそもNG)」に対する反論と「とられかねない」発言忌避しなければならない強迫観念に取り憑かれているのである

こんなに狂った状況があるだろうか。

 

ある時期、やましい下心や悪感情を抑えられないことを「健全」ではないが「健康」な精神状態だと呼ぶような論調流行った事がある。

このような緩い人間から見てもなお、現代日本人の精神状態は「健全」でないのはもとより「健康」とすらまったく呼びがたい。

まったく善良でひとかけらの悪心もない精神が不健康であるのと同様、まったくひとかけらの良心も抱かずにこのような悪感情を滾らせ続けられる精神もまた不健康であることは言うまでもない。

この病はいつか回復するのだろうか。

「以前に患ったときは、自己治癒はしなかった」というのが、歴史が教えるこの国の残念な一面ではあるが。

2016-08-21

必然、低収入自己責任であるということだ。

左翼がどれだけ喚き散らそうと、この事実は変わらない。

価値ものを「テーマ」とは言わない

少しだけ真面目に言うならテーマというのは「主題」なわけ。「主」って言葉意味はわかるよね。中心であり核心であり、即ち価値なわけ。価値があるから「主」というので、なければ単なる一部分にすぎないの。そんなものを「テーマ」とは言わないですよ。

からテーマを論じたらそれはマウンティングなっちゃうわけ。少なくとも優勝劣敗が存在するわけ。そんで「作品に込められたテーマを探す競争」が人々の中二心をくすぐったりもしたし、作者すらそれに乗って崇高で深遠な「テーマ」を探す競争とかしてたわけ。でもあなたが言うとおり「テーマが主なら、作品は従か?」って疑問が当然出てくるわけ。「いやいやテーマ作品は不可分一体だよ」とか言ってごまかしてもダメなわけ。たかだか数行にまとめた「テーマ」が主なら、二時間映像はいらなくて、最初からテーマだけでいいでしょって話になる。おかしいよね。なんでそんなことになったのか?

そもそもむかしむかし「作り手・受け手」の関係において「受け手」は弱者だったわけ。「作り手」は神の代弁者司祭シャーマンまり天才」。受け手はただの虫けらで、神の子の手で一喜一憂し転がされ泣かされ笑わされ搾り取られるだけの存在だったわけ。でも「批評」という行為によって革命が起きたのが近代という時代だったの。書き手さえ気付かぬ作品のシンの価値発見確立する創造行為としての批評、それが近代的なあるべき作品受容の姿となり、そこで発明された批評家武器がすなわち「テーマ」なわけ。「この作品のシンのテーマは…」とかしたり顔で語る連中は、、ことごとくこの時代に生まれた連中のしっぽなわけ。

それに対して、受け手100%権力を握るべしとした20世紀過激主義者エンタメ派なわけ。どんな作品であろーが、オレたちが楽しめればいーじゃんていう。オレたちが楽しんだ事実けが重要なのであって、作品テーマとかそんなもんあってもクソ、みたいな考えは、一方で作品の質みたいなものを果てしなく劣化させてく危険思想でもあったのだけど。まあそんなことは昨今のアニメを見てる連中ならうすうす気付いていることだとは思うけど。萌え豚だって自分らが萌え狂ってる作品が、50年後100年後まで人類熱狂させるHOTコンテンツだなんて欠片も思っちゃいないでしょ? まあでも、「批評主義テーマ主義」ってしょせんはインテリ玩具であって新しい階級主義だったわけ。それより、萌え豚の方が「ぶひー」言ってればいいか楽しい多数派なわけ。急進派は多数派に敗北するのが歴史必然なわけ。んなわけで、萌え豚が「テーマ=悪。エンタメ至上」という旗印の下に批評家オタク駆逐していったわけ。

そんなわけで、この件についてはどちらが正しいってことも別にないわけ。「それぞれの時代における流行りの作品受容の在り方」でしかないわけ。いずれもその時代なりの必然があって生まれスタイルなわけ。

それより、そういうエンタメ派全盛な脈絡の中であえて「いかにもテーマ的に論じられそうなコンテンツ」をぶっこんで来た所が庵野のタチ悪さだったわけ。つまりテーマを論じる批評という行為自体を巧妙にエンタメ化したわけ。わかりやすく言えば萌え豚という民衆の手にテーマ論という権力解放したということで、これはまさしくアナーキズム可能性の中心なわけ。これがゼロ年代オタク概念の飽和を生んだ庵野革命だったわけ。そして今回は、ゴジラ震災政治、なんつーメジャーコンテンツを使って(政治ももはや萌え豚の旗の下に果てしない劣化を始めていたというタイミングもあって)

一般人までまんまとそれに狂わされてるわけ。そこが庵野の手腕ですげーとこなわけ。だから増田増田やお前増田や俺増田がこうやってネットであーだこーだいうところまでひっくるめて、全部庵野計算したとおりのエンターテイメントなわけで、つまり「やっぱり『シン・ゴジラ』すごいわ」というのがとりあえずの結論なわけ。

というわけで、これがライト左翼の語る「シン・ゴジラ」論なわけ。

http://anond.hatelabo.jp/20160816124615

(追記)ブクマに回答

id:tick2tack 批評オタクが「駆逐」されたのはなんでなのかな?エンタメ派が増えようが批評を続けることに問題はないように思える。単に注目・承認欲求が得にくくなったためとか?

承認欲求と言えばそうですね。すごそうな「批評」に感心してくれる人が減ったら批評やりがいがない。エンタメ派によって「今時『テーマ』とかムキになって論じちゃう批評ってイケてない」というイメージが広まりましたしね。あと、積極的駆逐しなくても、エンタメ楽しい、と一動作に対して批評=考える+論じるの二動作後者は前者にどうあがいても敵わぬ理屈ッ(成る程っ!)、みたいな。「楽で楽しい」方向に流れるのは時代歴史必然でもあるように思います

2016-08-15

彼女ができたことがない

23歳になって、いまだに彼女ができたことがない。

これまでに女の子の接点は幾度かあったし、いいなと思った人にはアタックしてきた。自分気持ち相手に伝えたこともある。それでも、彼女ができない。

「年齢=彼女いない歴」という事実については、数カ月前までは「仕方がないのかなー」という具合にしか捉えていなかった。

あいにく自分が「いいな」と思った人とご縁が無かったとか、そもそも人と触れ合う機会が少ない以上、出会いの場が少ないわけで、こうなるのは必然だと思える節があったからだ。

それに、考え方の問題として「女に合わせて自分を変えるんじゃなくて、なりたい自分になっていく」という過程彼女ができればいいと思っていたこともあって、恋愛というもの優先順位をかなり低く設定していたのもあるだろう。

だけど周りの人たちが彼女持ちになった時からか、自分の歳をはっきりと意識するようになり、彼女ができたことがないということも同様に強く意識するようになってしまった。

世間的に見て「23学生彼女なし、童貞」というステータスは決して好ましいものではないし、周りからも「お前まだ彼女いないの?」と揶揄されるようになってしまった。

正直、こんなことになるとは思ってもなかったし、さすがに大学在学中に彼女の1人や2人くらいはできるだろうと高を括っていた。だけど事実彼女の1人や2人さえできなかった。


予てから考えていた「なりたい自分」にはなれていると思う。

スキルとか学識とか、そういったもの大学在学中にちゃんとつけられたし、これで生きていくんだろうなという指針も立てることができた。

だけど、彼女がいない。

一度本当に人を好きになって、想いを伝えたとき「いい人なんだけど、恋愛対象として見ることができない」と言われて、完全に気持ちが弱くなってしまい、引いてしまったのが尽きだったのか。

「また会おうね」とで言ってくれた人に対して、改めて誘って「予定が入りそうだから無理」と言われたことから「ああ、無理か」と思い、距離を置いてしまったのが失敗だったのか。

顔は確かに悪いけれど、体系だって気にしている。

服装清潔感があるようなものを着るようにしている。

部屋の掃除だって定期的にしているし、自炊もしている。

風俗に行けば変わる」と言われて金を周りから出してもらったこともある。(これについては結果的に変わるどころか、数カ月間EDになってしまったわけだが。)

いわゆる「ブサメンだけど彼女ができた」といった先人の行動は、極力再現してきたつもりだ。

だけどダメだったし、そもそも出会いのチャンスも当分なさそうだ。


どうすれば彼女ができるんだろう。

ここでも具体性のない「ソフトスキル」だとか「コミュニケーション能力」ってやつが必要になるのか?

2016-08-12

鳥越のアホさについて

2016年現在日本では(おそらくアメリカ西欧諸国でも)、知識階級においては、基本的には知性のある人はリベラル立場をとりがちだと思われているように思う。つまり

P(リベラル|知性がある) > P(保守|知性がある)

と考えている。ここでP(A|B)とは、「BであるときAの確率」を意味する。上の式は、知性があるならリベラル立場をとる確率が高いと言っているわけだ。

これを事実だとしよう。

さて、だとすると、ベイズの定理により

P(知性がある|リベラル) ∝ P(リベラル|知性がある)P(知性がある)

P(知性がある|保守) ∝ P(保守|知性がある)P(知性がある)

が成立する。ここで、P(知性がある)が一定だとするならば、P(リベラル|知性がある) > P(保守|知性がある)より、

P(知性がある|リベラル) > P(知性がある|保守)

が成立する。すなわち、リベラル立場にいたりリベラル発言をしているならその人物は、保守立場にいるものよりも知性があるのである

したがって、保守立場にいる小池百合子よりも、リベラル立場にある鳥越俊太郎の方が知性があると言える。

・・・

ここで注意すべきなのは、このように一般ピーポーは属人的事前確率(すなわちP(知性))を考慮しない傾向が一般にある(俗に言う「主語の大きい話をする」傾向がある)ため、

P(リベラル|知性がある) > P(保守|知性がある)

がある上では、本人の資質に限らず、P(知性がある|リベラル)は、P(知性がある|保守)よりも一般に高く見積もられる傾向があるということである。実際にはP(知性がある)は、単純な周辺確率分布ではなく、本人の資質との結合確率として現れるはずである(導出略)。

まり、同じようなレベルの知性であってもリベラル発言をしていると、そのレベルの知性で保守的発言をしているよりも知的に優れていると誤って評価されるということだ。また、その評価に安住する危険性も高いだろう。

すなわち、実を言うと

P(知性がある|リベラル世間評価が高い) < P(知性がある|保守世間評価が高い)

と思われるのである(多分こう書くと、世間評価が高いから知性が高いって言えるのかなどと噛みつかれるだろうが、あくまで式表現として提示しているのである)。同じくらいの知性があると評価されているなら、保守よりもリベラル人間の方が真の知性レベルは低いのではないか

今回鳥越俊太郎の件はこの点をまざまざと明らかにし、やはり意思決定ベイズ思考を投入しなければならない必要性を強く感じさせた。鳥越俊太郎リベラル発言をしてはいものの、「鳥越俊太郎には知性がある」という事前確率は著しく低かったというべきだ。一般的評価リベラル立場のいる人間について甘めに働くため、これまで世間的に評判が良かったとしてもリベラル立場人間についてはより厳しく本人の知性を見極めなければならなかった。ということであろう。

岡田さんが敵前逃亡したというが、鳥越俊太郎のあそこまでのバカぶりを見せられた後では同情する面もあろう。上の式展開により、「基本的には知性のある人はリベラル立場をとりがちだと思われている」ような社会においては、保守である自民党よりも、リベラルである民進党の方が候補者選びに苦労することは、決して岡田さんが悪いというよりもこの社会における必然であることが数学的に確認された。

なんちゃってね)

2016-08-10

老人が若者の生き血をすする社会

日本の先行きは不安

老人という名の数多の老害蔓延

未来あるはずの若者たちの生き血を啜って生きていくんだろう

 

正直未来への不安が大きすぎて

子供を作るどころか結婚すら考えられない

 

税金が上がり給料は下がり続けいつなくなるかわからない不安定な職

年金だって自分たちがもらえる頃には既に破綻してなくなっているのは明白だろう

 

政治だって母数の少ない若者向けにやるよりは

母数の多い高齢者向けに行ったほうが自分利益に繋がるんだから

高齢者向けの政治ばかり行うのは必然

 

自分たちさえ良ければそれでいいんだから

普通に考えたらそうなるだろう

 

愚痴をここで零してるだけではどうにもならないし

もっと外に向かって発信していこうとか言う人もいるだろうけど

 

実際問題若者高齢者比率がどんどん開いてるんだから

どうやったって無理な話なんだよな

 

子供は好きだから結婚して子供は欲しかったけど

こんな時代に産んで育てるなんて

自身が裕福かはたまた先が考えられない人しか無理じゃないか

2016-08-02

http://anond.hatelabo.jp/20160801190119

取材対象に敬意を持っていれば、必ず謝礼は払われるよな。

それがなされていないんだから、敬意を持って接していないのは必然

2016-08-01

その節は大変すみませんでした

anond:20160731214424

あなたはとても魅力的だから、惚れないつもりだったのについついはまってしまった。

それにモテるから、男への要求水準も高くなるのも必然

僕をそのレベルに達していないと思う権利はあるよ。

あなたが遠回しに牽制していた言葉を今更思い出してとても憂鬱になる。

突然フェイドアウトされたのを思い出して憂鬱になる。

自分能力のなさを思い出して憂鬱になる。

僕の経験値把握力戦略魅力が足りていなかったのが、主な原因だ。

正直自分がこんなにみじめに思えるのも久しぶりだ。

あなたを見返してやりたい。

口も聞きたくない。

悔しいけど、それだけあなたは魅力的だ。

その節は勝手に舞い上がってしますみませんでした。

突然事故に巻き込んで本当にごめん。

本当に本当に自分が嫌になる。

2016-07-26

http://anond.hatelabo.jp/20160726150803

白状すると自分は29歳職歴なし無職で家を出たら生活できない。この家を出ればホームレスから生活保護まっしぐらだ。生活保護がそんなに生易しいもんじゃないこともわかってる。

母親に薬漬けになってもらったり入院してもらったりしても実は困る。家の手伝いなどは多少しているものの、家事全般をこなせる自信が自分にはない。

しかし、この家に居ながら母親狂気共存することで母親年金貯金を頼りにしばらくの間の最低限の生活保障される。

どの道も地獄であるような選択肢から、どれか一つを積極的に選ぶことはできない。必然消極的現状維持を選んでいることになる。

分頭おかしくなりながらも、自立の道を模索していくしかない。

何か奇跡が起きることを願いながら。

2016-07-24

このまま行くと Pokemon Go は早々に終わる

この週末Pokemon Go子供と一緒に楽しんだ。

とても楽しく、5歳のくせに10キロ卵も割るほどだ。

そして気づいた。


マナーの悪いやつがめちゃめちゃ多い


ポケストップの周りに車で集まって、アイドリングしながらタバコを吸ってゴミを捨てる。

こんな奴らばっかり目についてうんざり

近隣住民施設管理者の迷惑なんて何も考えていない馬鹿ばっか。


こうなると住民施設関係者から任天堂に苦情が行って、

ポケストップが削除されてどこに行ってもポケストップが無いってなるのは必然に思える。


なんとかマナーの悪いやつが損をして、マナーの良い奴が特をするようにしないと、

Pokemon Goは早々に終わる。

2016-07-22

問題解決できるものであるという前提がおかしいんだ。

やろうとしている事業と不可分な要素で、発生するのが必然のものだ。

問題が許容できるレベルなら受け入れてやっていくし、許容できないなら撤退するしかないにきまってるだろ。

2016-07-15

http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/davs/20160714/1468501497

自衛隊批判する奴は、自衛隊による災害救助活動を受けるなという主張を見かけた。これが正しいのなら、左翼思想が嫌いな奴は、8時間労働制や最低賃金制による保護を受けるな、という主張も正しいことになる。

命題1:「自衛隊批判する奴は、自衛隊による災害救助活動を受けるな」

命題2:「左翼思想が嫌いな奴は、8時間労働制や最低賃金制による保護を受けるな」

ブコメでは、背理法という人がいるが、背理法であれば、命題否定して論考する。そもそも論理的なツートでないが、この論考は命題1を否定するために、同一性のある命題2を並べて、命題否定を強調しようとしていると思われる。

しか命題1と命題2に同一性があるとは言い難く、命題1が仮に正しかったとしても、命題2が正しいとは限らない。「8時間労働制や最低賃金制を批判する奴は、8時間労働制や最低賃金制による保護をうけるな」なら論理の飛躍を感じないのだが、なぜか「左翼思想」が突然出てくる。したがって

いやそれ別にサヨクのおかげじゃねえからサヨクがいなかったとしても遅かれ早かれ実現した必然ってやつだからサヨクがいようといまいとどの国もやってることだからしかもまだ完全実現できてねえじゃんwww

という@tiger_leo_氏の応答は、ごくまともに思える。

これに対して@davs_no_nikki氏が、「上のような反論も出てくることは、予想していた」とあるので、何らかの意図があるのかもしれない。論理を飛躍させた意図があるなら説明してほしい。

2016-06-30

エロゲにおける泣きゲー概観

エロゲには泣きゲーというジャンルがある。傾向として18禁要素は少なく、その必然性が薄いこともままあることから時にエロ不要論が主張されたり、あるいは泣きゲーエロゲではないと揶揄する人もいるジャンルである

しかし「一般に、泣いたあと人間は気分がよくなる」(ウィリアムフレイⅡ『涙―人はなぜ泣くのか』)。快楽を得ながら体液を体外に排出する行為エロと称するのであれば、その意味で泣きゲーエロゲの一ジャンルであることは間違いない。

泣きゲーはある日突然出現したものではなく、それはどうプレイヤーの涙を誘ったか技術の積層であり、様式の歴史である。個々の作品論は星の数ほど存在し語り尽くされてきたが、この歴史という点での言及は少ない。当時それは歴史ではなくリアルタイムだったのだから、当然といえば当然ではあるが。

2016年現在、エロゲ論壇は死に、泣きゲーが語られることも少なくなった。

だが、だからこそ、最初からぶっ通してやり直してみることでその変遷について、その後に何が継承されていったのかという点で俯瞰することが出来るのではないか。

ということでやり直したので、増田に書きなぐっておく。

1988~1996年

そもそもエロゲの目的は何かといえば、もちろんエロである。主役はエロCGであり、脇役に過ぎない物語の出来を評価する者などいなかった。

その様子が変わり始めるのは80年代後半、『リップスティックアドベンチャー』(フェアリーテール,1988/5)辺りからであるエロゲが一つの娯楽物語として成立することが示されたことでプレイヤーはその物語性に目を向け始め、脇役だった物語はSFやホラーなど様々な要素を取り入れていく。その一つが「感動」であった。

例として、早くも1991年の『ELLE』(elf)に対して「ホロリとした」という感想が存在する(小林義寛『ゲーマーエロと戯れるか』)。泣ける物語かというと微妙だが、今プレイしても確かに面白いSFエロゲであり、感動的要素が含まれていると言える作品である

人は感動すると涙腺が弛むことがある。逆に言えば、涙腺が弛む種類の感動がある。この点での先行研究として米沢嘉博の『マンガで読む「涙」構造』があるが、そこで昭和の泣ける少女マンガ少年マンガを分析した米沢は、女性は不幸における愛と感動の物語に泣き、男性友情、努力、勝利の感動に泣く、としている。

男性向けであるはずのエロゲはしかし、何を血迷ったか「不幸における愛と感動」を物語に取り込むことに成功する。

DESIRE』(C's ware,1994/7)、『EVE』(C's ware,1995/11)、更に『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(elf,1996/12)と傑作を連発した剣乃ゆきひろはいずれも物語の中核に少女の悲劇を配した。それは壮大かつ感動的な物語の帰結としての落涙をしばしば生み、その感想に「泣いた」というものが少なくない。

さらに『同級生2』(elf,1995/1)の桜子シナリオにおいていわゆる難病物がエロゲに導入される。それは当時十分に涙を誘うものであったとして、これが泣きゲー元祖だとする説も存在する(小林,前掲)。

努力・勝利の感動が無かったわけではない。例えば『闘神都市2』(ALICESOFT,1994/12)は自分の無力さが生んだ悲劇きっかけに、強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す物語であり、高く評価された。……しかしそこにはやはり「悲劇」がつきまとっている。

「不幸における愛と感動」は、こうしてエロゲで広く受けいれられていく。

1997年

難病物は概ね、主人公ヒロインの仲が深まるにつれて病状が悪化する展開をとる。これを病気に限定せず、「不幸」に一般化したもの涼元悠一は「萌やし泣き」と呼ぶ(涼元悠一ノベルゲームシナリオ作成技法』)。ヒロインとの幸福日常をまず描いてから一気に雰囲気を暗転して二人の不幸な状況を綿密に描写、涙腺の緩んだプレイヤーに最後の一押しをするという、泣きゲーに慣れた人にはお馴染みのそれである

この萌やし泣きは、しかし突如エロゲに登場したわけではない。

前述の闘神都市2には、ごく短いが構造上萌やし泣きと解釈しうるイベントが存在する。同級生2桜子シナリオは難病物である以上もちろん萌やし泣きだが、その不幸描写は非常に短く、またオチが「主人公勘違い」というギャグである。それは手法としては古くから存在しており、変わってきたのは、それを物語上どの割合で展開するかという点であった。

1997年5月、それが一つの分水嶺を超える。『ToHeart』(Leaf)のHMX-12マルチシナリオは、萌やし泣きを1ルート全てを費やして実現した。

おそらくこれが(エロゲ上で)萌やし泣きの威力が十分に発揮された最初の例だろう。彼女の物語は感動的な場面をクライマックスに据え、それ以外の要素――ギャグも皮肉もセンス・オブ・ワンダーも滲ませること無く、ストレートに終わった。そのシンプルさに価値があったと言え、本作は多くのプレイヤーから「泣いた」と絶賛された。

そしてもう一つ、作り手の意思という点でも分水嶺を越えたものが登場する。『MOON.』(Tactics,1997/11)が「鬼畜サイコ涙腺弛まし系ADV」と自ら名乗ったことは、その後の歴史的意味でも強く象徴である。もし泣かすという意思で作られたもの泣きゲーと呼ぶならば、その明示という点で最初泣きゲーは本作と言うこともできるかもしれない。

MOON.は大量のエロシーンを擁し、エキセントリックな人物造形も無く、萌やし泣きでもない。後の作品よりも本作が泣けるし好きだという人もいるが、多くの人を確実に泣かせる威力に本作があと一歩不足したことは事実と思う。

はいエロゲはついに、プレイヤーを泣かすことを主目的とし始めたのである

1998年

ToHeartで泣かせる物語構造確立し、MOON.で泣かす意思が示され、そしてそれは『ONE』(Tactics,1998/5)において結実する。MOON.スタッフが作ったそのエロゲには、萌やし泣きが全ヒロインルートで導入された。

当時の多くのプレイヤーにとって、それは致死量だったと言っていいだろう。

本作はMOON.と変わって18禁要素は非常に薄く、無くても物語は成立する。物語は全ルートで感動と涙が目的に据えられ、それしかない。にも関わらずこれがプレイヤーの絶賛を浴びたことは、「泣かせること」がそれ単独ジャンルを成立させられることを示していた。

今やり直してみると甘い部分も多い。しかし『sense off』(otherwise,2000)、『それは舞い散る桜のように』(BasiL,2002)など、本作の影響下にありつつも秀逸な作品がのちにいくつも生まれたことを考えれば、その影響力と価値を軽んじられる者はいないだろう。

1999年

6月、MOON.を作りONEを作ったチームは独立してKeyと名乗り、『Kanon』をリリースする。これがどれだけの信者を獲得したかは言うまでもないだろう。

特に技術的な面でKanonはONEよりも洗練されている。OPとED、泣かせるための特殊演出などのソフトウェア面はもちろん、泣かすための専用BGMが用意された、という点も大きい。1997年の『アトラク=ナクア』(ALICESOFT,1997/12)は物語のクライマックス、その絶望的状況下で「Going On」が初めて静かに流れ出すことで異様な精神的高揚をプレイヤーに与えたが、これが事前に何度も使われていたら効果は半減していただろう。これと同様のアプローチKanonは泣かすという目的で採っている。

Kanonから3週間後に発売された『加奈』(D.O.,1999/6)もまた、この時代泣きゲー金字塔である。ONEやKanonが物語を中盤過ぎまでギャグで埋め尽くしたのに対し、加奈は10年以上に渡る兄妹の闘病生活を正面からシリアスに描いた難病物であるリアリティのある物語という点で「新しい」泣きゲーだったと言え、今なお評価は高い。

――一方で、ToHeartもONEもKanon加奈も、悪く言えばただのお涙頂戴であるハッピーエンドは奇跡や幸運によってのみ訪れ、主人公たちは運命に翻弄される無力な存在でしかない。こうしたお涙頂戴は今も昔も根強い人気を誇るが、一方で毛嫌いする人がいることも事実である

興味深いことに泣きゲーは、これらのお涙頂戴では泣けない人々をも泣かせようとするかのように、別の「泣かせる何か」の模索を少しずつ始めていく。

2000年

知名度も低く地味だが言及しておきたい良作として、1月に発売された『Lien』(PURPLE,2000/1)がある。不慮の事故幽霊になった主人公とその周囲の人々が残された2週間でその死に向き合い、改めて別れを告げる物語であり、主人公が生き返ることは無い。従ってお涙頂戴の文法に則っているが、しかしその最後において、彼らは前を向き、笑顔で別れを告げる。別れは悲しみしか生まないものではなく、人の強さを示すものでもあることをLienは描いていた。

そして9月、Keyのリリースした『AIR』は約束された勝利を遂げる。物語はもちろん難病物で、ヒロインは最後に死ぬ。その死を「ほとんどなんの意味もない」(東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)とするならば、これは従来通りのお涙頂戴だろう。

しかし、彼女無意味に死んだことが悲しくてプレイヤーは泣いたのだろうか。

もちろんそういう人もいるだろう。だがかの有名な「ゴール」は、彼女が最後まで努力し、やりきったこと――笑顔幸福記憶を全うしたからこそ、泣いた人も少なからずいたと筆者は考える。最後の別れにおいて、彼女は必死で前を向いていた。

悲劇象徴としての別れの描き方と、それに対する姿勢は少しずつ変化を見せ始める。

2001年

ところで萌やし泣きの多くは幸福8割、不幸2割程度の文量配分で構成される(※数字は筆者の体感であり、根拠はない)。これを反転し、幸福を2割以下、不幸を8割以上にするとどうなるか。

鬱ゲである

MOON.もその一つだが、『DiaboLiQuE』(ALICESOFT,1998/5)や『銀色』(ねこねこソフト,2000/8)など、爆発的に売れることは無くとも鬱ゲーは途切れること無く続いてきた。特に銀色の執拗な鬱展開は秀逸であり、未だ根強くファンがいることも頷けるものである個人的にはDiaboLiQuEももっと評価されていいと思う)。

そして8月、幸福と不幸がほぼ半々、つまり鬱ゲーであり泣きゲーでもある『君が望む永遠』(age,2001/8)が発売される。

男女関係修羅場シリアスに描いたエロゲといえば『WHITE ALBUM』(Leaf,1998/5)が有名だが、そこでは主人公修羅場の矢面に立たされることはない。対して本作のメインシナリオでは主人公は徹底して矢面に立たされ、主人公が別れを切り出すことでのみ悲劇は終幕する。

誰を切り捨てるかは、プレイヤー選択肢が突き付けられることで行われる。だからこそ最後に彼らが再び笑い合える可能性が示されることはプレイヤーを安堵させ、涙を誘った。彼らは奇跡によってではなく、心の強さによって悲劇を克服する。

さらに11月、物語の殆どがギャグで占められ、物語の構造自体は従来の萌やし泣きの延長ながら、にも関わらず枠を踏み越えたものが登場する。『家族計画』(D.O.,2001/11)である

家族に捨てられた連中が偶然集まり、やむなく家族を偽装し、衝突しながら家族になっていき、崩壊し、再び家族になる様が描かれる作品である加奈やAIRでも家族愛は描かれたが、いずれも兄妹あるいは母娘の二者間に閉じている。対して家計は父母兄姉妹という集団の絆を描く。

襲いかかる不幸は彼らの手によって跳ね除けられる。プレイヤーはもはや誰かの不幸にではなく、茉莉がお兄さんになって下さいと訴え、準が最後にスプーンを咥え、その家族としての努力が実ったことに涙する。

なにより家計ではもはや誰一人死ぬことはない。君望もメインシナリオでは誰も死なない。誰かを失う悲しさだけが泣かせる手段ではない。悲劇に敢然と抗い、心の強さで打ち勝つだけでも人は泣くのである

2002年

……などと枠を広げ、新しい要素を貪欲に取り込むパイオニアばかりではない。泣きゲーというジャンルを充実させたのは既存の要素で構成された作品群である

例えば『flutter of birds』(シルキーズ,2001/2)は極めて基本に忠実な難病物だし、特定ルートで萌やし泣きを取り込んだ『みずいろ』(ねこねこソフト,2001/4)や『水夏』(CIRCUS,2001/7)、『グリーングリーン』(GROOVER,2001/10)はいずれも好評を博した。またDESIRE同様、悲劇シナリオの感動としての落涙であれば『腐り姫』(Liar Soft,2002/2)はこの年の作品では秀逸である

また、集団間の絆も広く扱われていく。

うたわれるもの』(Leaf,2002/4)ではSRPGというジャンル上の必然もあるだろうが、家族的な仲間との絆が描かれている。『世界ノ全テ』(たまソフト,2002/4)や『ロケットの夏』(TerraLunar,2002/10)は後半こそ二者間が主軸になるものの、いずれも部活を通して仲間と触れ合うことで主人公が成長し、仲間との絆を育むことで成立する物語である

2003年

ONEとKanonとAIRを足して3で割ったような『SNOW』(Studio Mebius,2003/1)、あるいは『てのひらを、たいように』(Clear,2003/1)では、困難に対する仲間の存在がより大きな価値を持つ。その最後は奇跡による解決はいえ、ヒロインのために仲間全員が努力し、足掻くことでハッピーエンドが訪れる様は「与えられたもの」というより「勝ち取ったもの」という印象が強い。

これらを「みんなは一人のために」とするならば、「一人はみんなのために」もまた登場する。『CROSS†CHANNEL』(FlyingShine,2003/9)である

ToHeart型のよくある学園物語に始まり、それが綱渡りの上で構築されたものであることが明かされ、ばらまかれた伏線が繋がっていく様は見事の一言に尽きる。と同時にそれは、心の壊れた主人公が何度も失敗しながらトラウマを乗り越え、仲間のために自己犠牲を重ね、それによって心を再構築していく物語である。その実に静謐な最後において、そこで彼が平穏と幸福を遂につかんだことに、タイトルの意味と、そして彼が勝ち得たものが明かされることにプレイヤーは涙を流す。

2004年

そして1月、『Fate/stay night』(TYPE-MOON)が発売される。絶望的状況下で静かに流れだす「エミヤ」はプレイヤー凶悪な興奮を与え、「強くなるために精神をすり潰し、廃人になってでも最後の敵を倒す」展開に涙を流した。

そこに「友情、努力、勝利の感動」があることを疑う者はいないだろう。

泣きゲーというとKanonやAIRがよく話題に出されるが、「泣いた」という感想がC†CやFateにも多く存在することは事実である。と同時に、いずれにも物語の重要位置に少女の悲劇と愛が配置されている。

そしてこれまで言及してきた「不幸における愛と感動」の泣きゲーに、努力や勝利が全く存在しないわけでもない。その努力が実ったかどうかの差はあれど、必死の行動があったことはどの作品でも紛れも無い事実である

としてみると、「泣いた」と感想を多く有する作品、すなわち泣きゲーには「不幸における愛と感動」と「友情、努力、勝利の感動」の要素が、両方含まれていると捉えても間違ってはいないだろう。そしてそうだとすれば両者は対立するものではなく、両立するものと言える。

そう捉えるならば泣きゲー歴史とは、時代によって、作品によって、この両者の配分を巡る歴史だった、ということもできるように思う。

2005年以降

いい加減読んでいる人も飽きただろうし2005年以降は割愛するが、一つ言及するなら不意打ちという手法が導入された点である

例えばいかにも安っぽいハーレムものとして始まりながらシリアスなSF展開を経て感動的最後を迎えたり、あるいは陰惨な陵辱物として始まりながら見事に綺麗な純愛物へと変貌したり、泣きゲーとしての姿勢最初は微塵も匂わせず、突如牙を剥くもの2005年以降に目立ち始める(いずれもタイトルは念のため伏せた)。

また泣けるイベントが用意されていても、それが作品としてのクライマックスと一致しないことが珍しくなくなる。中には語るべき物語は全て終わり、エピローグの最後の最後で油断しきったプレイヤーに猛然と襲いかかるものもある(いずれもタイトル以下略)。

昨今、泣きゲーが減ったと言われることがあり、実際、一見してわかりやす泣きゲーを現在はあまり見かけない。しかしプレイヤーを泣かせることが主目的化した時代を超えて、泣きゲーとしての技術や様式は再び物語を盛り上げるための一要素へと還元されていった、というのが現代の流れだとすれば、それは死につつあるのではなく、むしろ要素として広く普及し、遍在したことで目につきにくくなった、ということのようにも思えるのである

おわりに

リアルタイムにこれらを経験した人にしてみれば、有名作を並べただけでなんの面白みもない内容と思う。申し訳ない。が、今20歳前後若者にとってみればFateですら12年前の古典である。「泣きゲー元祖」がなぜ人によって違うのか。なぜ未だにはわわとかうぐぅとか言ってるヤツがいるのか。若者がそんなことを知っている方がおかしいし、それを知るために最初から全部やり直すなど正気の沙汰ではない。

かつて何が起きて、それが今にどうつながっているのか。粗く拙いまとめに過ぎないが、その理解一助として本稿に役立つところがあれば幸いである。加えて「そういや最近エロゲやってねぇなぁ。またちょっとやってみるか」と思うきっかけになれば、それに勝るものはない。

どうか、幸せエロゲライフを。

2016-06-12

研究者を辞める例:小保方晴子

同僚が研究室に小保方さんの本を持ってきたので、昼休みに流し読みした。つまるところ小保方さんは、研究のものではなく、研究している自分好きな人間だったのだと、妙に納得がいった。

そうゆう類いの人は 実は結構居る。学部四年、教わったばかりのエタ沈を嬉々として連呼していた同級生や、 修論で一丁前に能弁を垂れる後輩、 ラボ生活ベテランとなり後輩に対して ペダンチックになる同期など。しかしそうゆう人間は、基本的にはアカデミアには残らない。ポスドクを何年もやるまで自分がそうゆう人間であることに気付かなかった例はあまりにも有名だが (http://biomedcircus.com/research_02_13.html)、若くして見出されてしまい、気付くチャンスすらないまま世に出てしまった小保方さんの方が悲惨であり、少しばかり同情の気持ちが涌いた。

しかし一方で、STAP論文の発表会見の時の発言うろ覚えだが、実験がうまくいかず夜通し泣いたというような内容―には、強い違和感があった。そんなことは生命科学研究者にとって常であり、わざわざ世にアピールすることか、と。今更ながら、小保方晴子という女性理系研究者の強かさがよく現れた発言だったと思う。

学生時代Top journalを出しても ポスドク先では良い結果が出ない、というのはよく聞く。うだつの上がらないポスドク生活を何年も続けていて、論文が出ずに苦しんでいる同業者もたくさん見てきた。研究は、概して困難を伴う時間がおおい。面白い研究テーマを見つけ、ポジティブデータを出し続け、仮説を証明する。仮説に裏切られることもよくあることで、実験実験を重ね、時に才能や運と対峙しながら、ようやく一つのさな真実に辿り着く。 研究している自分が好きなだけの人間には、コスパが悪すぎて到底耐えられない、楽しめないだろう。だからそうゆう人間は遅かれ早かれアカデミアを去って行くのだ。

小保方さんと言えば、してもいない実験グラフ勝手プロットしたり、顕微鏡写真他所から拝借したりと、良識から逸脱していることを次々とやってのけた。だいたい、博士号集大成と言える博士論文や、ましてNatureへの投稿論文ともなれば、実験生データ画像・数値や、そのデータを取った日の出来事やその瞬間など、よりよく覚えているものだ。論文推敲段階では目が腐るほどそのデータを見ることになるので、顕微鏡写真など細胞の配置具合まで自然記憶に残る。足りない点を自分で描き足したり他所データを使い回したりしたことを、ケアレスミスでしたと言うにはとてもじゃないが説明が浅短だ。そしてこの言い訳こそ、データ実験には全く愛着がないことを証明している。

小保方さんが愛していたのはSTAP細胞ではなく、STAP細胞はありまぁすと言った彼女自身だ。そうゆう人間は決して珍しくはなくて、しかし大抵どこかの段階でしれっとフェードアウトしたり潔くコンサルにでも転職して経済的に大逆転したりするが、小保方さんはそのチャンスに出会わぬまま、まだ研究者としてはずいぶん若いうちに引っ張りだされてしまった。 寧ろ、派手な捏造をしたからこそ引っ張りだされたのだとすれば、 科学者を辞める契機を作ったのは彼女自身であり、必然であったと言えるのかもしれないが。

2016-05-18

奇跡は偶然じゃなく必然って歌詞の原点

大体、やすっぽい表現GReeeeNが多用する印象。

2016-05-14

自分価値のない人間だと決めつけてしま

最近ではなくてだいぶ前、おそらく幼い頃から自分価値のない人間なのではないかと思ってきた。

両親が厳しい人で、あまり褒めてもらうという体験をしたことがなかった。習い事勉強をたくさんやらせてもらったが、(半ば強制だったが)頑張っていたが認めてもらえたことは少なかった。いつもここが出来ていない、もっとこうしろと注意ばかりされ、時に叩かれることもあった。それに対して兄は私と比べて出来が良く、いつも「お兄ちゃんは良い子ね」と親が兄を褒めている光景を横で見ながら育っていた。

父は私のことを甘やかしてくれることもあった。が、私が小学校高学年ほどのとき、父が不倫をしていることを偶然知ってしまった。父と母はあまり仲が良くなくて、私の記憶の中では二人が笑顔で話している光景は数少なかった。なので父の不倫ある意味必然だったのかもしれない。しかし、それまで家庭内では父が心理的に一番近い距離にいたため、そんな存在の父に裏切られたという思いでいっぱいになったことを覚えている。それ以来父に嫌悪感を抱くようになり、だんだんと父との距離も離れていった。

そんな不安定な家庭状況のせいなのか分からないが、成長した今でも、私は「他人に認められたい、褒められたい」という欲求で胸が押しつぶされそうになることがよくある。その気持ちの強さのあまり夜一人で過ごしていると涙が込み上げてくる日も少なくはない。

そしてまた、私には自分価値のない人間だと決めつけてしまう癖がある。本当は自分自分価値見出してあげなくてはならないのだろうが、それができずに他人にその役割を求めてしまうのだ。つまり、私の価値を図るバロメーター他人自分に対する行動であり、私はそのために、他人の行動の端々に敏感になり、ときに敏感になりすぎて必要以上に心をすり減らすことがままあった。

このままではいけない。何とかして自分を好きになり、自分自分を認めてあげるようになりたい。そう思いながら、少しずつ私は自分を好きになろうとあがいている最中だ。

本当はこんな悩みを抱いてしまうことだけでも甘えだと思うし、面倒くさい奴だなぁと自分を思ってしまうのだけれども。

それでも私は毎日、一瞬一瞬を生きることを選択し続ける。

2016-05-12

まんこの使い方を何故もっと教育しないのか

女がまんこ使いこなすことをいやらしいとか劣ってるとか卑怯かいう風に咎めたりタブー化したりするのは

女にまんこ使うだけの存在になっとけって言っちゃうのと同じぐらい極端で非生産的で抑圧的な言論だと思う


そうやってグッドノウハウを共有したり教育したりしないか

使いこなそうと決意した女も悲愴感を持って1から自分危険トライアンドエラーをするしかなく

負担が多すぎてバランスを崩して人生が躓いたりしていく

(それをかいま見ていた別の女が「やっぱりまんこなんかに頼るからバチが当たったんだ」と間違った学びを得る)


実際増田でもすごいコミュ障だとかブスだとか友達0人だとかい自分語り女がそれでも彼氏配偶者は持ってる

レベルで男だったら絶対パートナーがいない

差は何かと言ったらまんこのパワーに他ならない

明らかにまんこ人生を切り開いた


まんこだけで人生を渡ろうというピーキー戦略がまずいのであって、

人柄とか知性とか学歴とか職能とか話術とかいろんなパラメーターの中の一つとしてのまんこ

ときに凄い威力を発揮するパラメータであるまんこ

そういう風に理解すればこの使い方も適切に学んで伸ばそうと思えるはず


一ツ橋ニートの人ならわかってくれると思う

あの人はいろんなパラメータを頑張って高めたけど

激務で欝になって転んでしまって、ステータス異常本来能力が発揮できなくなった

そこで頼りになるはずのパートナーの男に捨てられたらしい

薄情な酷い男だとも思うし、完全ダウンしたメンヘルを支えるのは結構重いとも思う

2人のことなのでなんとも言えない


ただご本人もそのようなことを言ってたから遠慮せず言うけど

一ツ橋の人はまんこ力をおろそかにしていたようだ

たとえばもっと信用できる適切な男に、もしくはもっと適切にまんこ提供していれば

よい信頼関係愛着関係が築かれたパートナーがいて、

完全にダウンしてしまったときでも支えてもらえたかもしれない


まんこ別に動物的なファクターではなく

しろどんなにまんこだけ張り切っても人柄が最悪ならどんな男も離れていってしまうし

人柄・知性とまんこは両輪の存在


逆に言えば相手ニーズを見抜く知性を持ってちょっと気の効いたまんこ提供を行えば

相手の長年抱えている目に見えない欠乏を満たしたりすることもある

初めて出来た恋人や嫁を大事にする為にやたら張り切って働き始める男は珍しくない


まんこ使うというとすぐ援助交際とか風俗とか最終段階までぶっ飛んでしまうけれども

そういう換金型の使い方はもっとレバレッジの効かない使い方だ

信頼できる長期的人間関係の構築の為にこそ賢くまんこを使うべきであって

これを上手く出来るかどうかでものすごく人生が変わってしま

有能でタフで自分1人で楽々生きていける女性ですら積み増し分としてこの上手い下手で大きな差がつくので

これは男尊女卑とか男にぶら下がるとかいう話とは関係ないことだ


せっかくついてるハイパワー資産全然使わないとか、

逆に制御できずパワーに振り回されてメルトダウン原発みたいになるとか、

パワーに味をしめすぎて他のパラメーターを省みなくなったりするのが不味いのであって、

能動的に自律的まんこを使いこなせる女が増えることは誰のことも不幸にしない


ただまあ

この話は現代世間ではまだラジカルすぎるように受け止められるだろう

自明の理が受け入れられて教育体制が作られ始めるまでにあと20年はかかるだろう

これは必然の流れの予言として書いているに過ぎない

20年後にはてなのサービスが残ってるかはともかく

2016-05-10

http://anond.hatelabo.jp/20160510001613

2chみたいなのが出てきたのも丁度その頃だな。>2000年

偶然か必然か。

2016-05-09

俺に感動を返してくれ

26歳?頃からからウキウキクワクしたことがない

何というか我を忘れてという状態になったことがない

何もかも忘れて何かに没頭したためしがない

どこかに冷めた自分がいてそいつが冷静に冷めたことを考える

ここまで書いて痛々しい中二病だなと思ったけど

そういう気恥ずかしさや自嘲気味な感情すら沸いてこない

「終わったな自分

そういう状態がずっと続いている

 

「終わった自分」が誕生したのはいからだろうか、その原因もハッキリとは覚えてないと思う。

その終わった自分になる前は、高校1年生には既に「どんな人間もいずれ死ぬのになぜ必死になって頑張らなければいけないのか?」

という疑問を持つようになった。

今もそれに対して明確な答えは持ち合わせていないし必死に頑張ることによる成果の意味というのは無いと思っている。

過程にこそ意味があれ、成果は結果として名実ともにただの結果であり意味はないと考えている。

単に命という過程の通過点にすぎず、真の結果とは個人の死だと考えているからだ。

 

話が脱線したが、要はなぜ無感動になったかという話だ。

先ほど死は約束されていてすべての結果は個人としての死に繋がると言った。

そしてそれが少なからず無感動なもうひとりの自分を生成してしまった一因であると考える。

考えをまとめるまでは自分体験する事やこれから歩む人生オリジナルものだと思っていた。

誰もが見たことの無い体験をしていくのだと。

しかし歳を重ね勉強を重ねるにつれて、自分がこうやって成長していくのに対して、

社会歴史、世の中の歴史を振り返ると成熟していくどころか定期的に逆行でもしているかのような

退行を周期的に繰り返していることに気付いた。

なぜ、過去から学べる過ちを何度も人の世は繰り返しているのかに疑問を持つようになる。

それは集団としてもそうだし人生の教訓が生まれるだけ同じ過ちを個人レベルで繰り返してきたことの根本的な疑問でもある。

 

考えた結果

それは人間が「死ぬからであるという答えにたどり着いた。

 

人間は膨大な情報を吸収してもそれを子孫に正確にフィードバックしていくことができない。

パソコンのように簡単に引き継がせることはできないのだ。

学問のような人間主体ではなく徹底的な数値化や平均化をされた分野であるのならば逆戻りすることはないだろう。

しか「人生」についてはどうだ?

人生は個人によって幸せ基準も違うし可能選択肢もそれぞれ全く異なってくる。

幸せという結果を導き出すための方法は個々で違うのであるし、あるとしてもそれを知る余地はない。

そのため、振り返りでしか反省や教訓を残すことができないのだ。

しかもこの反省にしても人によりけりという強烈な主張の前には霧散しがちだ。

適応することが可能でも逃げ口上に使われて、この言葉の持つ力の強さに払いのけられる場合もある。

ともかく、人間は例え人生において経験値を積み重ねたとしても生物としての終局を迎えることで

その経験永遠にロストし、なおかつそれを正確に後世に伝えることができていない、

そのために同じ過ちを人の世は何度も繰り返してきたという結論に至った。

 

自分もその大きな渦の中で溺れるように巻き込まれた者の一人であり、

最終的に死ぬ前に悟ったような顔で人生を極めたとしても、

ろくに正確に引き継ぐこともできずに経験と一緒に闇に帰るだろう。

例え、学問においては足跡を残したとしても、それは自分でなくても良かったことであり、ただの早いもの勝ちに過ぎない。

そしてそれが正解だと歴史証明するのにもまた自分の死後いくらか経ってからでなければ正確には判断できない。

学問が本当に貢献できたかどうかを疑う余地のないくらい信じることができる瞬間は恐らく生きている内には訪れないだろう。

もし1つの発明研究が認められただけで心から喜ぶものがいたとしたら

手品をやってお客を喜ばせたほうがまだ幸せ人生を送れるはずだ。

 

そして生物的な幸福として子供を産み育てるという欲求が用意されているが、

これこそまさに自分の死が約束されているからこそ必然として設定された欲求だろう。

子どもは生まれる前はこの世にいないし産んでくれと頼みもしない。

まれ子どもたちはすべからく親の寂しさや侘しさや欲望を受け止めるため、

親に利用されるためにこの世に生まれてきている。

の子でさえいずれは老いて死ぬというのに、それを遺伝子命令されて続ける奴隷として命がある。

それのどこが尊いと言うのだろうか?

ペットを欲しがるということ、自分の子どもを欲しがるということ。

そこに何の違いがあるというのだろう?

 

人は死ぬということ。

人の世は成長しないということ。

学問自分存在理由証明にはならないこと。

子を成す欲求は本能から来ているということ。

 

他にも理由はあるかもしれないが、

ただただ虚しくなった。

いつか死ぬ、どれだけ積み重ねても死ぬ

なのに人の世は成長しない。

完全な平和永久に訪れることはない。

虚しくなった。

自分を慰めるために子を成すことさえ希望にはならない。

俺がこの先歩く道が誰かが歩いた道で

俺が歩いた道はこの先誰かが歩く道で

同じことの繰り返し

同じことのくりかえし

 

人が本当に人として自立できるようになるためには、不死が必要だと考える。

同じことを繰り返さずに進化し続けるためには不死が前提であると考える。

過去偉人の誰も達成できなかった偉業は不死によって物語は完結されるだろう。

永久に生きる人、間違えることの無い人、完璧な人。

超人が生まれた瞬間にこそすべての人類が生まれ、死んで来た意味があると考える。

 

俺の感動は俺の虚無感から来ている。

俺の虚無感は人類の欠陥から来ている。

人類の欠陥は超人により克服される。

 

俺は夢をみて眠りにつく。

2016-05-08

Google成功と失敗の世界

ウェブ初期にはYahoo!さんにお世話になっていた

でもサイトが増えていったりして困ってくるようになった

そこで助けてくれたのがGoogle様だった

ありがとう

でもGoogle様は赤字だった

Google様は悪戦苦闘の末にはWeb広告で食い扶持を確保した

めでたし

さて現在Webはこの延長線上にある

無料サービス提供広告で食う

これは地上波テレビと同じモデル

必然的に同じ問題を抱える

質を問わずPV集めたもの勝ち

住み分けローカルルール無用ネタを集めたもの勝ち

多様性ロングテール?何それ食えるの?って世界

Webが狭苦しくなりネット民ブラウン管の前の人化したのは必然

このモデルが変わらないかぎり炎上なんて減っていかない

2016-05-07

ちきりんオワコン。それは彼女が(きっと)一番よくわかってる

http://anond.hatelabo.jp/20160504151503

だって彼女の言うことはサイエンスであって、理屈が通ってる。理屈が通ることは、ドキュメントにできる。だからこそ彼女の著書は(わりと)多くのひとに受け入れられて、僕もとても面白拝読したけど。

でもサイエンスって、斬新な知識であって、常に斬新な切り口とはならない。一度インストールしてしまえば再利用可能だ。だからこそ、彼女の言説は面白かったのだ。

研究や探求を辞めたサイエンティストの言うことがつまらなくなるのは、必然だ。

2016-05-04

[]よくある質問

真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。

Q.飲食店によって、サービスなどが必然のように求められているのはなぜですか。そして、それなのに一元化されないのはなぜですか。

そりゃあ顧客満足度というものは、必ずしも出される食べ物だけで判断されるものではないからね。

5000円の料理が、500円の料理10倍美味かったり、コストをかけていたりというとNOだよな。

まり付加価値提供する必要がある。

これの最も分かりやすい要素が「サービス」だと考えたまえ。

サービスというものは、顧客を如何に大切にするかという“業務の一つ”だ。

料理は変わらなくても、清潔感のある店内、座り心地の良い椅子空気調和された環境下で食べた方が美味く感じるだろう?

ああ、だからといって、サービス大前提として考えるのはやめておきたまえ。

あくまで“業務の一つ”でしかなく必須ではないし、サービスだってコストはかかる(この「コスト」には様々な意味を含ませて書いている)。

高級料理店のようなサービス大衆食堂に求めるのが贅沢だと、大半の人が思っているのはそのためだ(サービスが一元化されない理由も、そういうことだ)。

そこを分かっていない人がいるから、今日び「お客様」が皮肉みたいな使われ方をされてしまうのだろうな。

あれは提供する側の心構えであって、客側が共有する概念ではない(そもそもの話をするなら「お客様神様」というのも飲食店などが発祥ではなく、芸事で使われていた概念で、サービスを指すものではないらしいが)。

「当たり前を、疑え」ということさ。

FAQというカテゴリも私なりのサービスといえるが、金にならないのにやっているのだから感謝強要したいぐらいだよ。

あと今回はケースを飲食店に絞りつつ噛み砕いて答えたが、サービス一口にいっても多様な形態なので、そこは踏まえておいてくれ。

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