はてなキーワード: 制作会社とは
キャラクターデザインの方は総作監も兼任されていたけど、今年から本編ノータッチになった。
ベテラン監督だし、脚本家は変わっていないから始まるまでは前向きに続きを楽しみにしていたのだが、
作画も演出もテンポもセンスも悪いし、キャラの性格も変わった。
主人公に対して過保護な親友キャラはただの仲間になってしまった。
今まで見てきた期間を蔑ろにされたようだし、
これまでの2年間を作ってきたスタッフたちに失礼で怒りを感じる。
雑誌の記事によると、総監督は前作キャラと販促品のルールのアドバイスをしているそうだった。
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000011.000023488.html
●>このプロジェクトには、GO所属だけではなく、大手広告代理店や民放キー局出身で、メジャーなCM制作に多くの実績を持つ6名のクリエイティブディレクターが参画しています。
これはすごい。よく集めた。
広告代理店が出す、この人たちの人件費の見積もり単価考えるだけでも2000万なくなるんじゃないでしょうか、ぐらい。一流クリエイターズ。
●>「はじめてのTVCMプラン」では、制作からメディアバイイングまでを一気通貫して提供。2,000万円〜の広告予算で、最短2ヶ月で業界最高水準のCMを納品することが可能
これが安い。
普段テレビで目にする全国放送のCMをつくって流すには、普通 2~3億円かかる。高いと思ったでしょ?そう高い。キー局の放映料はまじで高い。
だからそれが払えるメジャー企業・商品、or ソシャゲとかでじゃぶじゃぶ儲かってる企業しか普通はCMを打てないんだよ!
ただまあ、色々聞いている限りだと予算2000万だとたぶん全国放映は無理で、急に安くなる地方局のみに出稿するパターンだろうね。
●>デジタル領域では当たり前の、KPI設定から数値分析までのPDCAを実施します。さらに「CMO代行プラン」では、デジタルとテレビの融合によるマーケティング予算の全体最適化を実施。
ここまでやってくれるのはすごい。
これ、広告代理店でこれ頼むと、別部署が出てきてオプション価格で見積もりがまたボコーン!ってあがるから。ここまでやりますよ!
っていうのはすごい。
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2.(大手)広告代理店が受注、オリエンに基づいたTVCMの企画やメディアバイイングのプランニング→
3.プランの承認が取れたら「制作会社」がTVCMを制作・納品 ※メディアバイイングは代理店の仕事
なの。マーケティングが入ったら2.の部分の事前リサーチと、3.の後として事後リサーチが入るのね。
これをひっくるめて、価格を億単位からしか発注できなかったTVCMを、大幅に引き下げて参入しやすくなったということね。
これはすごいよ!
さて、
ところで、
今回発表した人たちの担当範囲って「2.」のプランニングとマーケティングなんだけど、
PRしてる部分は「3.」の部分「業界最高水準のCMを納品」まで入ってるんだよね。
通常、ここの部分は慣習的に全広告予算の10%が直接制作費に割り振られるようになっている。
つまり、全体予算2億円だと、2000万を制作会社はもらってそのお金で「業界最高水準」のクオリティのキレイとかカッコいいとか高品質な映像を納品するわけね。
なんでたかだか30秒の映像つくるだけで2000万かかんのって思うだろうけど、
撮影現場にはCMの場合50人~とかスタッフがいたりして(映画の撮影現場のメイキングとか見たことあるでしょ?あんな感じ)、
もちろん、デジタル技術が発展し続けてるから、人数が少なくても良いものはできる時はあるけど
物理で美術セット建てたりすれば大工の世界だから金はかかるし、
あるいはCGつくるにしてもそのCG部分には人件費がまたかかるからね。
で、
それで、
全体予算が2000万とすると、制作費は10%として200万?
さてこの発表の影で誰が何を思うかは、
原作ファンでアニメ化もすごく楽しみにしていたけれど制作会社の雑さとか原作を読んでなさそうな感じが本当に無理。
ていうか男性声優であからさまに女の声豚釣るの気持ち悪いからやめろ
なにより作画だけがべらぼうに良いせいで持て囃さないと非国民みたいな扱いされるのがイナゴジャンルって感じで無理。
イナゴジャンルになるべくしてなったって感じだから制作側としては良いのかもしれないけど
ここまでだと何にキレてんだかわかりにくいから具体的にここはどうなのポイントを上げる
ちなみにこれまで見たアニメ化作品で一番よかったものを比較にしている。
・最初の敵視点からみた主人公のモノローグを削って中身のないアニオリを入れる
・漫画とアニメで描写の順番を入れ替えたにも関わらずセリフで整合性を取らない雑な構成
・BGMうるせえ
・BGM単品ならいいのに入れる場面と歌詞のセンスがべらぼうに無い
・BGMうるせえ
・原作は味がある作風だがそれを潰して大衆向けにすることで元の面白さがすべて消えている
・アホほどテンポが悪い
・突き技特化の原作でエフェクトのない剣士の演出で「この剣士は突き技を使う」というのがわかりにくい
・とりあえずちょうちょヒラヒラ
・キラキラさせとけばいいと思ってるのか
・BGMの緊迫感がない
・そのお涙頂戴アニオリいる?
・BGMうるせえ
・なんでわざわざ馬乗りにさせたんですか?
もう飽きたから終わり
何年も会っていなかった高校時代の人から、誘いの連絡があった。連絡をくれたのは同じクラスだったというだけの人だったので、警戒していた。
会ってみたら案の定、某マルチ商法の勧誘だった。断固拒否の構えで臨んだがそれだけでは面白くないので、私の実験に付き合ってもらうことにした。
私は10年来深夜アニメ鑑賞が趣味だったのだが、黙っていた。周りにオタな友人もいたが頑なに沈黙を貫いた。
長い人生の中では「きみって、アニメとか好きそうだよね~」と鎌をかけられることもあったが、「いやあそっちは守備範囲外で」としらばっくれ続けてきた。理由は語りだすと歯止めが利かない気がするから。
そんな隠れキリシタンの信仰のような苦行も終わりだ。もう二度と会うことのないその人は多少アニメが好きだと知っていたので、好きなだけ語らせてもらった。
最近の日常系アニメの傾向と対策、それから動画工房という制作会社のすばらしさをご進講差し上げ、絶対に見なきゃ損だと力説した。面食らっているようだった。面白かった。
後日、進めてくれたアニメ面白かったよと連絡がきた。もう二度と会わないが嬉しかった。
ちなみに、「小林さんちのメイドラゴン」と「となりの吸血鬼さん」は近年の非常に優れた作品なので見てない人はちゃんと見ような。
いやぁー非常に面白かったですね。
自分は80年代には、生きてませんが「ストレンジャー・シングスの日本からの返答」ばりの日本の80年代の描き方は非常に良かったです。
実際「SMぽいの好き」撮るまで(5話)は非常に良かった!
けど、5話以降の話の進め方が破綻しているというか、矛盾が多すぎる気がしたので、まとめます。
自分の読解力不足もあるかもしれないので、「これはこういう理由だよ」ってのがあれば、教えてもらえるとありがたいです。
(エンジニヤーであんまり映画とかそこらへんの感想をまとめる場所が無いのと、Twitterとかだと絶賛の嵐でネガティブな感想があまりなくて、書いたら怒られそうなので増田に書きます。)
SMぽいの好きが販売中止になっての窮地の解決策が「ハワイで作品を撮る!」ってのが意味わかんなさすぎ。
そもそもサファイア映像(主人公のAV制作会社)って一本もヒット出してないのに、どうやってハワイで作品撮るの?
で、お金の出どころが黒木香の出演料を本人がそのまま戻した、ってなっているけど、それももともと会社のお金じゃね?
いざ、ハワイに行ってからもFBIに捕まる理由がぜんぜんわからない。
だって作品中の村西とおるって3本しかAVの作品出してなくて、一本は未発売(SMぽいの好き)、ただの弱小AV監督じゃん。(もちろん史実は違うと思うけど)
なんで、そんな人をわざわざFBIが出てきて、捕まえるのかがぜんぜんわからない。
AV編以降、ライバル会社の社長である池澤はビデオの規制委員会を作りつつ、裏ビデオを大量に流す、という、ようするにヒールに徹するんだけど
この二枚舌が結局、最終的に自分を首を絞めてるんだから、なんか矛盾した行動だな、というもやっとした印象を受けました。
(書いてる内に自分でもなぜ もやっとしたかの理由がわからなくなってきた。)
リリーフランキー演じる刑事は、ライバル会社社長の池澤に買収されてて、それで主人公の行手を阻むべく逮捕したりとかするんだけど
なぜか最終話で、「昭和から平成の改元に伴う一斉検挙」で、リリーフランキーは池澤を検挙する。
いや、なんで今までお金もらってた会社の社長 検挙しちゃうん????
で、理由が「裏ビデオ」作ってたからなんだけど、それは村西とおるも同じじゃん?(流してたのはトシだけど)
最終的に裏ビデオ会社を牛耳ってたのはトシだったとはいえ、いくらでも池澤を検挙せずに、村西とおるとトシを検挙できる理由はあるはず。
いや、まあ最終話だし、話を纏めるには悪役である池澤がなんかしらの形で堕ちる必要があるのはわかるけど
検挙ってのがね。。。。
ポセイドン企画の売上も順調的な描写がされてたんで、ますます納得できない。
個人的には、村西とおるがテレビで活躍して、サファイア映像の売上が上がって、ポセイドン企画(池澤の会社)が売上が落ちて、池澤涙目wwww
ぐらいに展開が矛盾なくていいかな、と思ってました。(史実とは違うかもしれないけど)
本記事は、全裸監督の作品を貶める意図は全く無くて、素晴らしい作品だったらからこそ、ここが気になるよ!ってのをまとめてみました。
アニメなんてなくても生きていける。
そう論じるのは簡単なことだ。
だが
人間はそもそも不完全なものであり、合理性のみで人生を全うすることは難しい。
それが出来る人間もいようがその数は決して多くない。
アニメに限らず、ゲーム、酒、タバコ、異性、ギャンブル、車、ゴルフ、音楽、アイドル、スポーツ観戦、特撮、映画、小説…
多くの人間は一見非生産なものにひと時その身を浸して癒やしを得、日々の暮らしにおける心の糧にしているものだ。
まずこういったものに批判をすること自体禁酒法時代のアメリカや天保の改革の風俗取締令のようなナンセンスさがある。
すでに多くの批判が寄せられているが、大阪芸術大学の純丘曜彰教授の例のコラムの改稿前のものを長くなるが引用し、思うところを述べていきたい。
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/夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。/
あまりに痛ましい事件だ。だが、いつか起こると思っていた。予兆はあった。たとえば、16年の小金井事件。熱烈なファンが豹変し、本人を襲撃。アイドルやアニメは、そのマーケットがクリティカルな連中であるという自覚に欠けている。
もとはと言えば、1973年の手塚プロダクションの瓦解に始まる。同じころ、もう一方のアニメの雄、東映も労働争議で多くの人材を放出。かれらは、それぞれにスタジオを起こした。だが、これらのスタジオは、アニメの製作ノウハウはあっても、資金的な制作能力に欠けており、広告代理店やテレビ局の傘下に寄せ集められ、下請的な過労働が常態化していく。
そんな中で74年日曜夜に放送された『宇宙戦艦ヤマト』は、視聴率の低迷以前に予算管理と製作進行が破綻して打ち切り。にもかかわらず、時間帯を変えた再放送で人気を得て、77年に映画版として大成功。当初はSFブームと思われ、78年の『銀河鉄道999』や79年の『機動戦士ガンダム』が続いた。しかし、サンリオ資本のキティフィルムは、80年に薬師丸ひろ子主演で柳沢きみおのマンガ『翔んだカップル』を実写化し、SFではなく、その背景に共通しているジュブナイル、つまり中高生モノの手応えを感じており、81年、アニメに転じて『うる星やつら』を大成功させる。
このアニメの実際の製作を請け負っていたのが、手塚系のスタジオぴえろで、その応援として、同じ手塚系の京都アニメーションの前身が稼働し始める。そして、その後のアニメ業界の大勢の方向を決定づけたのが、84年、この監督だった押井守の映画版オリジナルストーリー『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』。SF色を取り入れた学園コメディで、学園祭の準備が楽しくて仕方ない宇宙人の女の子ラムの夢に世界が取り込まれ、その学園祭前日を延々と毎日、繰り返しているという話。
アニメには、砂絵からストップモーションまで、いろいろな手法があり、セル画式だけでも、『サザエさん』や『ドラえもん』のようなファミリーテレビ番組はもちろん、『ドラゴンボール』や『ワンピース』のような人気マンガを動かしたもの、『ベルサイユのばら』『セーラームーン』のような少女マンガ系、『風の谷のナウシカ』や『AKIRA』のようなディストピアSF、さらにはもっとタイトな大人向けのものもある。
にもかかわらず、京アニは、一貫して主力作品は学園物なのだ。それも、『ビューティフル・ドリーマー』の終わりなき日常というモティーフは、さまざまな作品に反復して登場する。たとえば、07年の『らき☆すた』の最終回第24話は、『BD』と同じ学園祭の前日。エンディングでは、あえて『BD』のテーマ曲を下手くそに歌っている。つまり、この作品では、この回に限らず、終わりなき日常に浸り続けるオタクのファンをあえて挑発するようなトゲがあちこちに隠されていた。しかし、「エンドレスエイト」として知られる09年の『涼宮ハルヒの憂鬱』2期第12話から19話までとなると、延々とほとんど同じ夏休みのエピソードが繰り返され、『BD』に悪酔いしたリメイクのような様相を呈する。
もっと言ってしまえば、京アニという製作会社が、終わりなき学園祭の前日を繰り返しているようなところだった。学園物、高校生のサークル物語、友だち話を作り、終わり無く次回作の公開に追われ続けてきた。内容が似たり寄ったりの繰り返しというだけでなく、そもそも創立から40年、経営者がずっと同じというのも、ある意味、呪われた夢のようだ。天性の善人とはいえ、社長の姿は、『BD』の「夢邪鬼」と重なる。そして、そうであれば、いつか「獏」がやってきて、夢を喰い潰すのは必然だった。
なぜ学園物が当たったのか。なぜそれがアニメの主流となったのか。中学高校は、日本人にとって、最大公約数の共通体験だからだ。入学式、修学旅行、学園祭、卒業式。教室、体育館、登下校。だが、実際のファンの中心は、中高生ではない。もっと上だ。学園物は、この中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすがとなってしまっていた。それは、いい年をしたアイドルが、中高生マガイの制服を着て、初恋さえ手が届かなかったようなキモオタのアラサー、アラフォーのファンを誑かすのと似ている。
夢の作り手と買い手。そこに一線があるうちはいい。だが、彼らがいつまでもおとなしく夢の買い手のままの立場でいてくれる、などと思うのは、作り手の傲慢な思い上がりだろう。連中は、もとより学園祭体験を求めている。だからファンなのだ。グッズを買い集め、「聖地」を巡礼し、そして、連中はいつか一線を越えて、作り手の領域に踏み込んでくる。それが拒否されれば、連中がどう出るか、わかりそうなものだ。
『恋はデジャブ』(93)という映画がある。これもまた、同じ一日をループで繰り返しながら、主人公が精神的に成長するという物語。この話では、主人公だけでなく、周囲の人々も同じ一日を繰り返す。つまり、主人公の成長を待ってくれる。だが、映画と違って、現実は、そうはいかない。終わりの無い学園物のアニメにうつつを抜かしている間に、同級生は進学し、就職し、結婚し、子供を作り、人生を前に進めていく。記号化されたアニメの主人公は、のび太もカツオも、同じ失敗を繰り返しても、明日には明日がある。しかし、現実の人間は、老いてふけ、体力も気力も失われ、友人も知人も彼を見捨てて去り、支えてくれる親も死んでいく。こういう連中に残された最後の希望は、自分も永遠の夢の学園祭の準備の中に飛び込んで、その仲間になることだけ。
起業する、選挙に立候補する、アイドルやタレント、芸人になる、小説やマンガの賞に応募する、もしくは、大金持ちと結婚する。時代のせいか、本人のせいか、いずれにせよ、人生がうまくいかなかった連中は、その一発逆転を狙う。だが、彼らはあまりに長く、ありもしないふわふわした夢を見させられ過ぎた。だから、一発逆転も、また別の夢。かならず失敗する。そして、最後には逆恨み、逆切れ、周囲を道連れにした自殺テロ。
いくらファンが付き、いくら経営が安定するとしても、偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身もまたその夢の中毒に染まるなどというのは、麻薬の売人以下だ。まずは業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別し、しっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
まずはこの業界全体、作り手たち自身がいいかげん夢から覚め、ガキの学園祭の前日のような粗製濫造、間に合わせの自転車操業と決別する必要がある。もう学園祭は終わったのだ。休もう。番組も、映画も、穴を開けて休もう。あれだけの京アニの惨事を目の前にしながら、よりタイトな状況で黙々と規定の製作スケジュールをこなそうとしていることこそ、異常だ。こんなときくらい、京アニにかぎらず、業界の関連全社、いったん立ち止まって、仕事や待遇、業界のあり方、物語の方向性、ファンとの関係を見直し、あらためてしっかりと現実にツメを立てて、夢の終わりの大人の物語を示すこそが、同じ悲劇を繰り返さず、すべてを供養することになると思う。
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「京アニは学園ものだけ」という言説に対し、傷痍軍人の女性が戦後を生きる「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の存在意義が改めて燦然と光り輝いているという事実。劇場版も企画されており以降もシリーズ化されればそれはもう「学園ものだけ」という批判にはあたらない、はずだったのだが…。
また京アニオリジナルの源流をたどればMUNTOという異世界ファンタジーもあり、今後何が飛び出すか、その可能性は無限に満ちていた。
日本のオタク作品の大半が確かに学園ものなのは事実であるが、それは世界観の説明が容易であること、多くの視聴者が経験していて没入しやすいこと、といったアドバンテージがある、いわば「手堅い」ジャンルゆえ。
京アニは決して裕福な会社であったとは言い切れないし、またアニメ業界自体流行り廃りが激しく、そんな中で一定の収益を手堅くあげる選択をとっても批判されるいわれはあるまい。
エンドレスエイトがいまだに物議を醸す存在であるのは事実だが、話題性が1期よりは希薄になりがちな2期ハルヒを「語る」上で大きな要素になっているという点では意義のある存在ともいえるのかもしれない。
終わりなき学園祭としてひとつの象徴となった「ビューティフル・ドリーマー」、
うる星やつらが漫画版で約9年、アニメ版で約5年もの長きに渡り「途切れることなく」続いた学園ものであった記憶もあって、ことにアニメに対して古い感性の人間ほど「終わりなき青春」を延々続ける印象もあるが、
近年の製作ペースは1クール12話、月にならせば3ヶ月ほどのスパンが基準で、シリーズが続いても2クールか長くても4クールあたりが殆どで、1年を通して続くことはもはや一部の例のみで、1クールないし2クールベースの途切れ途切れの発表ペースになっている。しかもうる星が3年を超えて学生生活を描き続けたのに対し、妥当な時間経過とともに終わり即ち「卒業」があるのも近年の特徴。
しかもアニメファンは常にコンテンツの新陳代謝にさらされる中で、コンテンツの完結を一区切りとして、同じ制作会社だからといって次に提示される新コンテンツを必ず追い続けてくれるとは限らない。
1期で好評だったシリーズ物の2期ですら、1期以上に人気を得るのは実際難しい。
そしてこの御仁が憂うまでもなくアニメ自体卒業していく人間も確かに存在する。
そういった熾烈なレッドオーシャンで波間の泡のように浮いては消えていくのがアニメ制作会社の非情なる現実。
そんな熾烈な世界にあって健気に誠実に作品を作り続け、また大きな落ち込みもなく良質な作品を供給できる会社を存続させてきた、業界の良心の要石のような会社が京アニであって、それはこういう批判の俎上に上げるべき存在ではそもそもない。
事件前からかねがね用意されていたであろう「ぼくのかんがえた日本アニメ概論」をここぞとばかりに持ってきたのだろうが、世界的に見ても比類なきほど理不尽な、そして悲惨な事件に対して論じるにはあまりにも適さない代物であったと言わざるを得ない。
このケースは犯人の特性も含めて極めて異常であり、安易な因果応報的論説にははめ込めないほどの歪さ不条理さがあるのだ。いやしくも大学教授を名乗る立場にふさわしくない浅薄さであったと言わざるを得ない。
この御仁が禄を食んでいる大阪芸大は早くからサブカルチャーに特化した今やオタク御用達の大学であり、辺境にありながら高い人気を持ち続けているのはそれ故もあるのに、そこからオタク批判をすること自体、あたかも親の庇護を受けながらヤンキーやってるイキリ中学生のようであり甚だ滑稽でしかない。
まぁ一方で確かにアニメ作りすぎなのは事実であるが、それは業界全体レベルの話であり京アニを論って言う話ではない。それは数を作らないと食えないという業界構造にこそ問題があり、是正されるべきものであるのは論を俟たない。だが、かつて勇名を馳せた会社ですら粗製乱造なものも見受けられる中、ひとつひとつの作品を売れる売れないに関わらず本当に誠実に作ってきた会社を取り上げて言うことではない。まして「麻薬の売人以下」とまで蔑まれるいわれはない。
あとアニメうる星はその後綺羅星の如く多くの俊英を生み育てる土壌になり、アニメ産業及びアニメ文化の嚆矢ともなったという意味で意義深い作品であり、とりわけビューティフル・ドリーマーはアニメ制作班の若き野心とオリジナリティに溢れた傑作であったことも付け加えておく。だがそれに内包されている批判精神は今や一周回って定番になってしまい、それをもってアニメ批判オタク批判をするには「今更感」で一杯で陳腐化していることも。
最後に
人的物的、そして心理的にも大きなダメージを負い再起すらも危ぶまれる中、これからの再起を表明した八田社長と京アニには、深い敬意を表しつつ、事件前に比肩する制作体制を整えるのはおそらくまだ時間がかかるであろうとも、その行く末を見守っていきたいし、微力であれ力添えもしていきたいものである。
そして、亡くなられた方のご冥福と、負傷された方のご快癒をお祈りしつつ、件のコラムのような浅はかな批判論を払拭する新たな可能性に満ちた作品群を期待したい。それがいつになろうとも。
初報、京アニの第一スタジオで爆発があったというところで被害状況がどんなものかもわからないうちに炎上大喜利開始。
ここでヤマカンこと山本寛氏の名前がトレンドに上がってきた。ヤマカンが犯人じゃないかという不謹慎な憶測。言っていい冗談とそうじゃないのがあるのかもわからないことに呆れた。
その後、被害の深刻さがわかってくると、京アニはこんな素晴らしい制作会社だとバズ狙いの無断転載。
報道がこの件だらけになってくると「またアニメオタクが差別される」という自意識過剰。そんなこと言ってる場合か?
ニュースで「アニメ」の単語が扱われるだけでいつもバカにされる、差別されると心配して先回りでマスコミ叩く奴ら。そういうとこだよ。
時間が経って被害状況がはっきりしてくると、公式発表されたわけでもない京アニ所属のスタッフの方へお悔やみツイート。見ず知らずの人間達から死んだことにされて、祈るような気持ちで安否がわかるのを待っている家族や関わりある人たちがどんな気持ちになるか想像できないのか?
ブログやツイッターが途絶えた声優たちへの「心配だから何かツイートして」の声。それくらい慮れよ。ブログやツイッターなんてファンサービスの一環なんだからこんな時にまで要求するなよ。
久しぶりに同人活動を再開したものの、界隈について色々思うことがあるので筆をとる。
実名で書く勇気が無いのをどうか許して欲しい。あくまで『こういう人がいる』というペルソナ的観点から読んでください。
さて。
今の同人界隈、もうジャンルに関わらずあらゆるところで毎日『学級会』が起きている。だいたい内容は解釈違いが悪かどうか、について。これについてもう嫌と言うほどいろんな意見を見、それらが互いにぶつかっては傷つきあうところを目撃してきた。よくもまあこんな不毛なことで大切な趣味まで戦争の道具にするものだと呆れ気味ではあるのだが、その根幹にあるのは『その作品/キャラクターが好きで好きで仕方ない』というあまりにも優しい感情なのだ。どの意見にも「なるほどなぁ」と思うところが少なからずある。正義と正義のぶつかり合い、まるで何かのストーリーテーマのようだ。
私自身は結構ガチガチの解釈で固めて創作するタイプだが、それを他人に求めず黙々と作品をあげ続ける人なので解釈違いだとしても「ふーん」で流す程度である。同じ解釈を持った者と語り合いたいと思うことは多々あるのだが、私は幸せなことに、全然知らんジャンルでも私の話を真剣に聞いてくれるしなんならこちらの悩みをすっぱり解決してくれるような生涯の同人友達がいる。そのおかげもあってか『解釈違い』に対する憎悪のようなものはほとんど抱かない。
そもそも『解釈違い』は何故悪なのか?どうしてこんなに燃えるのか?
これは昨今のソーシャルゲームによく見受けられるもので、なんなら解釈違いを起こして争い合っているのは『制作会社』と『そのファンたち』である。
ちょっと前までは『公式が受け入れられなくなったらもうお前は顧客じゃない』みたいなある種の公式至上主義が主流だった。でもそれはソーシャルゲームというジャンル形態にはうまくあてはまらない。
ソシャゲ界隈で何故こんなに論争が起きるのか、これはもうソシャゲの欠点と言ってもいいんじゃないだろうか。
ソシャゲは基本無料でスマホがあれば手軽に遊べて爆発的ヒットがしやすいのが最大のポイントだろう。しかしその反面、日々のメンテナンスや更新に追われ、競争も激化した今は『いかに課金させるか』という課題が制作会社を苦しめているような気がしてならない。そしてその余裕のなさは最も大事なシナリオやキャラの同一性・統一感の喪失に繋がっている。
買い置きゲームというのはストーリーの更新はないけれど、そこには完全に完成した世界観が広がっている。更新がない代わりに永遠にその解釈が変化しない。これは解釈にうるさいオタクたちにとって楽園のような環境だ。解釈ガチガチの女は既に完結している作品や、原作者が一人の作品にハマった方が絶対幸せになれる。
ところがソシャゲはそうもいかない。毎日のようにプレイデータが届き、刻々と変化する顧客のニーズに応えようと思えば応えられる環境にある。そして『いつまで続けられるか分からない』という状況の中で出来るだけ延命をとるようなストーリー戦略を取りがちだ。連載に追いついちゃったアニメの末路みたい。うまくいくこともあれば、うまくいかないこともある。そういうギャンブル的側面があるのがソシャゲだ。
まー、これが一番の原因でしょう。公式vsオタクの悲しい戦争の原因。オタクvsオタクは正直個人の問題なので今回触れないです。
公式も愛がないわけじゃない。しかしオタクも十分すぎるほど愛している。
この手の問題で『自分の(主観的)解釈と違う!』という主張で怒っている人はほとんどいなくって、みんな確固たる根拠が整然と揃えられている。だからその主張はすごく
でも正しいことは、正しいという理由だけでは振りかざしていい理由にはならない。オタクなら分かるだろう、そういうキャラ見たことあるでしょ?
君たちが同じことをしてどうするのと思う。思うけど、もう今更やめられないのも分かるし、抑えきれる感情でないのも分かってしまう。
私は一切話題には触れないし、そもそも同界隈の人と一切の関わりを持たないようにしているので触れる機会もない。フォロワーがすごいいるわけでもないから発言力もない。
ただ、それだけの理由で悲しい戦争を見て見ぬ振りしている。その事実が一番苦しい。
彼女たちを見ていると『あったかもしれない自分のif』をどうしても想像してしまうのだ。何かが違えば自分も大好きだったはずのものに憎悪を向けなければならなかったかもしれないと。
これは今現実に起きていることだ。肉体的には誰も傷つかない、でもやっていることは戦争と何も変わらない。
いつからこんなに息苦しくなってしまったんだろう。どうして平和にいたはずの私は戦争の傍観者になっているんだろう。
別に私一人でどうこう出来るわけではない。結局は個人の感情だし、万人が満足できる結果なんてない。
でもこれは同人だけの問題じゃないと思う。今の日本、世の中にはそういう悪意なき悪意みたいなものがむき出しになってしまっている。
それはずっとずっと心の中に仕舞われてきた人間のイドなのかもしれない。今まで無視してきた私たちの罪かもしれない。
これからどうしたらいいんだろう。
分からない。何も。
みんな誰かを待っている。この荒んだ現実に革新的な答えをくれる誰かを。
そんなものは多分いなくて、これからもこの問題にずっと苦しむしかないんだろうな。
やだなぁ。
でもだからって創作をやめられるわけもないし今日も推しは可愛い。自CPは尊い。
それを毎日願うだけの弱い私でごめんなさい。
テレビ局のプロデューサーと親しくしていたら、私生活を番組にされた。
やりとりをそのままドラマに使われたり、
でかけた先が数カ月後ロケ地になったり。
やめろといってもきかなくて、そんな生活が2年。
アカウントに鍵をかけたら、私とやりとりをするオープンアカウントのツイートを元に番組制作。
気持ち悪い。
バンドマンと付き合って歌にされた時は、本当にあるんだ〜って別れたけど、テレビは怖い。
漫画も番組も歌も、業界の人からしたら当たり前の手法かもしれないけど、
別にこっちはコンテンツにされるために生きてるわけじゃないんだよなぁ。
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と益田に書いたのが先方の耳に届いたそうで。
じゃあ少し別件を。
原宿にいた女の子に黒くて太くて硬い円柱状のお菓子を頬張らせる映像が流れていた。
2018年春、番組MCが出演者の学生に手を出して大騒動。番組は終了した。
連絡したときに虐待で動いてくれたら、今もMCはメンバーだったかもしれないのにね。
2019年6月10日、上記の番組と同じ放送局・同じ部署が制作している夕方のこども番組で、
出演者(成人男性・子役男)が卑猥な言葉(珍珍・棒と玉の演出有)を連呼し、
出演者(子役女)に聞かせる・卑猥な言葉を聞かせられる様子の全国放送がおこなわれた。
普通に痴漢で児童への性虐待だけど、子役だから金銭を支払って卑猥な行為をさせているよね。
局とBPOに連絡、警察に通報した。番組は現在も放送中。見てないから内容は知らない。
私の被害妄想はテレビ見なければ解決するけれど、ターゲットが別の視聴者に変わるだけなんだよね。
私をストーキングして番組制作をする犯人は、私が親しくしていたプロデューサー本人ではなく、
上に記した2つの虐待が事件として正しく対応されれば、私の件も止まるんじゃないの?
嫌がらせや虐待をスタッフに強制するパワハラもなくなるんじゃないの?
しらんけど。
しらんけど、私がやられる原因はこれをネットに書くからだろうし、
あと病院の件。残念ながら私の頭に異常はなかったんだよ。
どこの話とは言わないが、とあるオムニチャネルなサイト制作を請け負った会社にいたことがある。
そのプロジェクトはステークホルダも多く連携先が多いことから背後のシステムも入り組んでおり、本来的にはPOSシステムとBtoC事業にしっかり取り組んだ人間が要件などをまとめればいいんだがそんな人間はその会社にも数えられるほどしかおらず、それでいてクライアントの要求も厳しいので、関わっていた人間は大体心を病むか身体を病むかリアルに死ぬかしていた。
そんな訳で常にそのプロジェクトは人手が足りず、いつも協力制作会社を募ったりフリーランスを雇ったりしていたのだが、一方で制作会社やフリーランスにもその噂は広まっており、経験値があればあるほど受託してくれないケースも多かった。故にプロジェクトが進めば進むほど関わる人間のレベルが落ちていったことを覚えている。
あのサイトがリリースされたときには、別のプロジェクトの掛け持ちの結果過労で心を壊してその会社を離脱していたけれど、何というかお察しな作りを見て切ない気分になったのを覚えている。
今回も似たような状況だったんだろうな、きっと。
今後、もしamazonプライムやネトフリが本腰を入れた場合、最終的に日本のアニメが外国資本の出資で作られるようになる可能性は、今の所否定できない。
そうなればアニメーターの待遇を筆頭とする、アニメ制作界隈のブラックな慣習の大幅な改善が期待できるなど、現状よりは遥かに良い未来が待っていそうではある。
すなわち、外資が日本のアニメのパトロンになった場合、当然海外展開を第一に考えるに決まっているわけだが、その結果、筋書きやジャンルにおける諸々のテンプレが、ディズニーやハリウッド作品みたいな何かに変質する可能性が高い。
そうすると、日本だけで平日深夜に細々と放送し、円盤を売るぶんには特に問題なかったジャンルのいくつかが、「それじゃ世界レベルで売れねーよ」と切り捨てられかねないと。
このうち、キモカネおっさん兼キモオタである筆者が個人的に気にしているのが、美少女動物園が消滅するかもという危惧だったりする。
これは特に深夜アニメで完全に定着した、間違いなくジャパニメーションを特徴づける代表的ジャンルの一つである。
なお、ここ十年以上はおもにまんがタイムきらら系の伝統的お家芸になりつつあるが、他にも色んな制作会社や製作委員会が今まで様々な作品を手がけてきた。
もちろん他のジャンルと同様、その8割9割はTV放映後ほぼ一瞬で忘れ去られるような泡沫作品だらけ、まさしく出ては消え…を繰り返す界隈である。
だからそんなもん無くなっても別にいい、と思う人はちょっと待ってほしい。
実は、この無駄に広すぎる裾野のおかげで、結構な数の名作傑作が、このフォーマットから出てきているのだ。
前述のきらら系で実質2枚看板のごちうさときんモザのみならず、去年だけでもよりもい、ゆるキャン、ゾンサガとあり、更に遡ればラブライブ!、ゆるゆり、ヤマノススメ、がっこうぐらし!、響け!ユーフォニアム、まどマギ、ガルパン、ストパン、けいおん!と、極めて大雑把に分類するならば、どれも美少女動物園という特殊なテンプレを抜きに論じることは難しい(ここにけもフレを含めるのもあり)。
もちろん、これらはありきたりなフレームワークに収まらなかったというか、そこから様式や世界観を盛大に拡大しまくったり換骨奪胎したり、要はフレームワークを借りて、作る側のドキュメントがエキサイティングに展開されたからこそ、売れた作品の数々ではあるのだが。
同時に、このフレームワークにというかテンプレを抜きにしてヒットしたかどうかという話でもある。
それくらい、このテンプレは特に男性アニメファンが興味を持つ入り口として、非常に強力なカードと言っていい。ゲートウェイドラッグならぬゲートウェイテンプレとでも言おうか。
だからというわけではないが、もし今後、こういう美少女動物園を出発点にした作品が絶滅し、それこそコードギアスや進撃の巨人や君の名は。みたいな作品しか存在しない世界になったら、自分は冗談抜きでアニメを捨てると思う。