はてなキーワード: 過去形とは
イノベーションなんてそんな簡単に出来るわけないだろ。
と、受け取る側と、渡す側の利害が一致した結果、
最近はリノベーションという言葉でお茶を濁してるみなさんこんにちは。
所謂YouTube芸人達のポスターが貼られいて、「好きなことで、生きていく」とか、それっぽいことが書いてある。
その中の1つのポスターに動画のタイトルが並んでるのをみてふと思った。
結局、これニコニコ動画の「やってみた」だよなあと。
動画にコメントを付けられるというアイディアから、作る側と受け取る側の相乗コミュニケーションの場をつくり上げて
「色んな価値を生み出す空間」という、価値を生み出した。価値が生まれる可能性を社会に提示した。
でも、ニコニコ動画の運営達はそれを理解していなかった。正確には中途半端に理解してしまった。
相乗コミュニケーションそのものが価値になると、悪く言えば、アマに金を払うバカがたくさんいると。
ニコニコ動画がやったことは、メジャーという従来の価値観に変化させること。
新しい場を、従来型の受け手と作り手という双方向の場所に巻き戻すこと。
さらには、その上で、従来型のコンテンツを自分達で生成して売り始めたこと。
せっかくのイノベーションを既存の価値観に還元した、その方が金儲けするのには簡単だったから。
YouTubeが、やったことって何だろう。別にイノベーションと感じることじゃない。
生み出された価値に、そのまま対価を支払っただけ。
でも、それがイノベーションだった。
それにより、「価値が生まれる可能性」そのもの価値を社会に提示した。
「好きなことで、生きていく」
YouTubeは、ニコニコ動画を超えていくだろう。正確には、ニコニコ動画が勝手に消える。
従来の価値観により計測されて、超えた何かがメジャー化して従来型の価値を得る。
新しいことを生み出したのに、従来型の価値観でこねくり回して失敗する。
誠意という当たり前のことに当たり前なことをした結果、イノベーションになる。
YouTubeだって分からない。勘違いして失敗する気配は、秋葉原の広告に既に現れている。
あるのは、結果だけ。
http://anond.hatelabo.jp/20141013050506
「この訳文は素人が自分のために訳したものです」とはっきり書いた上で、原文と訳文を「対訳」の形式でアップすれば(それもできればwikiのようなものを使って、誰でも修正できるようにする)、致命的な誤訳は誰でも気づくだろう。Wikiを使えば、必要なら修正もしてもらえる。
There is no free lunch.
自由な昼食はありません。
を
無料の昼食はありません。
と直してもらえるように。
自分は英語を読める人なので、他人の英日翻訳のブログなどを見て、誤訳に気づいたら指摘するなどしているのだが、中には本当に身の程知らずに、まったく読めていないのに勝手に日本語にしたうえで、読者に向かってとうとうと説諭してくださるタイプのブロガーなどもいるので、頭が痛い。技術分野ではなく、国際情勢などだが。極端な例だが、South Africaを「アフリカ南部」と訳すレベルでも、過去分詞と過去形を混同してめちゃくちゃになったものを無理やりつじつまを合わせるために日本語で補って考えたようなものでも、平気でアップしちゃうからね。しかも善意だから何ともしょうがない。
そして、「善意の通りすがりの人が査読してくれること」を最初から期待して、South Africaを「アフリカ南部」と訳した文をアップされることは、率直に言って、大変に困った問題だ。それもコメント欄も何もなしのブログとか、ツイッターのような「言いっぱなし」の場でやられるのは、非常に困る。
第一、すべての「誤訳」がそのように指摘されうるということは想定されえないのだ。自分はその誤訳だらけの説諭ブログは、あまりにも悲惨なことになっているので、結局、「見なければいいんだ」と判断した。そのブログが扱っている分野に関心があって英語が読める人は、だいたい、「読まないことにした」と言っている。それでも世間では「著名ブログ」だよ。
1.
日本語は相の言語で、物と物との関係性を繋いでどういう風に物が集まっているか、という全体像を作り上げる、いわば和集合の言語。
英語は大まかな焦点から徐々に具体像へと削り込んでいく、いわば積集合の言語。
この違いを知っておかないと、英語として成立はしているけど、和集合で出来ている、不自然な所謂日本人英語になってしまう。
2.
英語のもつonの感覚が分かればhaveの感覚も分かる(大体同じ)。
inの感覚を身に着けると、冠詞の使いどころが分かる(inで表現できるものは冠詞が要らない)
3.
日本語でも英語でも「過去形」は「遠まわしに和らげて言うニュアンス」があり、その感覚から派生した語意がある。
ってあたり。
うち、1人が結婚をするという話で、そのお祝いを兼ねて。
別の1人は既に結婚をしているし、また別の1人は去年入籍していたことを知った。そいつに対しては、もっと早く言えよ!って凄く思った(皆知らなかった)。
今年の4月に29歳になったけど、このところの周りの結婚ラッシュに、そんな歳になったのかーと最近つくづく思う。
お互いが制服を着ていて、一緒にお酒を飲むなんてもっとずっと先の、想像も出来ない未来の話だと思ってた頃を思い出して感慨深くなるけどまぁ、それはどうでもいい。
結婚をしてることがじゃない。
誰かとずっと一緒にいたいという気持ちになれること、そして、結婚してもいいと思える相手に出会えたことが凄く、羨ましかった。
そして、そういう他人に対してそういう気持ちを抱けない自分が、何か欠陥がある「駄目な人間」のように思え仕方なくて。
自分は独り身でいることが寂しいと思ったことはないし、人とリズムを合わせて生活するのが凄く煩わしいと思ってしまう人間だ。
そりゃーもちろん、人恋しくなることはなる。
でもそれは、人と無性に話をしたい、人の話を聞きたい、こちらの話を聞いて欲しい、っていう思いであって、
3時間や4時間程度、お互いにダラダラと楽しく会話を続けられたら満足出来る衝動だ。
会うのはたまにでもいいから「友達」がいれば満足できるものだ。
29年生きてきて、これだ。
さらには、我ながら色々飛躍しすぎだとは思ったけど、
少子化が叫ばれる中、このままじゃ何も貢献出来そうにない自分が申し訳ないなぁとか、
親はやっぱり孫の顔とかみたいものなんだろうなぁ、未だ見せられなくその上予定もなくてごめんねとか、
なんというか、自分の腑甲斐なさに凹んだ。冷静になった今考えると、凹み過ぎだ。
そんな中、今日は母の日なので、とりあえずと思って親に電話した。実家を離れて一人暮らしをしてるので。
ありがとう、とはやっぱり照れくさくて言えないので「母の日なので…、ほら」みたいな感じで濁した。
母親は「わざわざありがとう」と言ってくれたので電話しといて良かったなと思った。
その会話の中で、同級生が結婚する、おめでたい、という話をした。
凹んでる昨日の今日で、自分からわざわざこの話題ふるとかちょっと自傷行為かなぁと思いつつも、「あんたも早く相手見つけて結婚しろ」とか言われるかなぁと思っていたら。
「まぁ周りは周り、アンタはアンタだから。焦って変な人間捕まえるよりもちゃんと考えて、見極めて。これだけ人間がいるんだからアンタにあう人も絶対いるから。親の私らが焦ってもどうしようもない問題だしね。アンタのペースでいけばいい」って。
言ってくれてさぁ。
慰めを期待してこの話題をふったわけじゃない。本当に、小言を言われると思ってた。
そうだね、焦ってないよ、って普段通りを装って話してたけど、涙目になってた。電話で良かったって心底思ったね。
それからもう少しどうでもいい話をして、電話をきった。きってから、ちょっと泣いた。マジで。涙腺弱くなったわ。
救われるってこういう気持ちなのかなぁと思った。
こういうと大袈裟すぎる表現な気がしてこっぱずかしいんだけど、他のちょうどいい感じの言葉が思い浮かばないのでこれで。
焦る必要がないって、お世辞や適当に合わせるだけの言葉じゃなくて本当にそう思って言ってくれてるっていうのが分かったからこそ、本当に、救われた気持ちになった。
上の方で羨ましかったって過去形で書いたけど、ホントの所、この羨望がなくなったわけではない。
別に、慌てたり、無理をしたりする必要がないのだと自分に対して誤摩化しじゃなく思えるようになった。
他にもぐちゃぐちゃと色々思ったんだけど、上手くまとまらないのでこの辺で。
面と向かってだと、やっぱり恥ずかしくていないんだけど、本当にありがとう、母さん。
私はAmazonで物を売っていた。
そう、残念なことに過去形で。
一方的に停止させられてしまったのだ。
Amazon.co.jpにより一時停止されています。]
正直なところ、理由はよくわからない。
メッセージの詳細を見ると
「以前当サイトにて
関連があると判断しました」
と書いてある。
警告をもらうようなことは、しているつもりがないし
本当に心当たりがなかったので
それはわかってるけど、理由がサッパリわからないことを伝える。
「申し訳ありません、それはこちらでもわかりません」
全く連絡手段を持たないらしい。
どんな企業だよとか心のなかでは思いつつ、
そこへの連絡先を聞くと
「公平性を保つため、メッセージでのやりとりのみとなってます」
末端オペレータをチクチクやっても問題は解決しないので
なにかマズイことがあるなら、改善しなければならない。
・勝手ながら一方的に判断して閉鎖したよ。
・残ってる注文の処理はそっちで勝手にやってね。
・FBA倉庫(Amazonに委託販売する時に使う倉庫)にある荷物は
・販売客からのクレーム処理のため、売上金はしばらく返さないよ
そんな内容だった。
その内容の下に、問い合わせ用のボタンが付いている。
早速、こんな内容で送ってみた。
「全く心当りがないので、
なにかマズイことがあるなら教えて欲しい。
ぜひ改善してストアの再開をしたい」
調査内容はセキュリティの問題上開かせません。
アカウント再開はできません。」
なん・・・だと?
こちらはアカウント(ストア)が再開しないと
飯の種がなくなるので、当然必死だ。
これを受けてamazonに返信してみた。
「ご回答、ありがとうございます。
どのような規定に触れたのか知らないことには、
二の轍を踏む可能性がございます。
今後の改善策として教えていただけませんでしょうか。
どうぞよろしくお願い申し上げます。」
正直、内心ムカつきながら書いてるけど
ここは我慢我慢。
で、返事が来た。
再開はできかねる旨、ご連絡申し上げます。
ご了承ください。」
正直なところ、かなり避けたい事態だった。
だが、このメールには続きがあって
要約するとこうだ。
・Amazon内で行われる活動をモニタし、調査する権利があるが義務ではない。
・Amazonが不適切だと思った行為に対して、あらゆる処置を行います。
(Amazon内での出品停止などにとどまらず、財産の差し押さえとかもやれるらしい)
・これらの規約違反について、Amazonは絶対的な裁量を保有します。
なんとか関係改善の糸口がつかめないかと三度目メールを送ってみた。
正直、自分でもしつこいとは思っているんだけど
これがないと収入が消えるのでどうしようもなくなる。
「申し訳ありませんが教えてください。
どういう意味なのでしょうか。
私個人に対して、なにか重大な規約違反があったのでしょうか。」
「アカウントも2度と作らせねーよ?」
と言われると、一体どんな恐ろしいことをしたのか不安になる。
今度の返信は早かった。
及びその関連アカウントについては、
総合的な判断より閉鎖の処置を行わせていただく場合がございます。
同様の処置を取らせていただく可能性がありますことをご理解ください。」
そもそも、関連アカウントって何?みたいな感じですが
試しに、隣にいた親戚の人に頼んで
新しいストアを作ってもらうことにした。
が。
理由は聞かないでください」
という内容の赤文字とともに、申請が途中で止まる。
ここはレンタルオフィススペース。
おそらく・・・と思ってダメ元でアカウントスペシャリストにメールを送ってみた。
アカウント停止を解除していただけないでしょうか。
何卒、ご検討ください」
一番最初のメールが帰ってきた。
一行だけ「重ねてのご案内となりますが」と付け加えられて。
次々とアカウント閉鎖に追い込まれているが
もちろん最初の一人以外は心当りがないに違いない。
先週、オフィスを逃げるように引き払った。
自分にとって唯一の救いは、
他のオフィス仲間も、なんとか立ち直って欲しいと本当に思う。
私はともかく周辺の人間だけでもなんとかならないかと思ったから。
だが。
何回か言葉のやりとりを交わした後
「どうにもなりませんね。
はてな民て。
…こちら側から見ると構ってちゃんのノイローゼさんにしか見えないんだ。精神病院に行きな、今は過去ほど恐ろしいところじゃない。 2014/03/12Add Startriggerhappysundaymorningcider_kondo
sorano_k sorano_k 増田
カウンセリングか心療内科に行くべきに一票。お薬貰ってよく寝て下さい。 2014/03/12Add Starguldeen
hinaho hinaho
自分の立場が危うくなると記事を消して捨て台詞吐く人多いよね。そんなに心が弱いなら知恵袋行けばいいのに 2014/03/12Add Starguldeenguldeenpacha_09tencafusimulacrecider_kondoyukimi1977QJV97FCr
「「二度とお前の実を食べる者がないように」。 弟子たちはそれを聞いていた」を思い出した 2014/03/12Add Starcider_kondo
ceixu ceixu
2014/03/12Add Star
babelap babelap
不安商法でデマ撒いてる連中の被害者ではあろう 2014/03/12Add Starfesterfester15hima-ari
vid vid
元記事が何かはわからんが、つまりこの書き手は放射脳だった(過去形)って事はわかった。 2014/03/12Add Starguldeennekora
htnmiki htnmiki
お疲れ様でした。お大事に。 2014/03/12Add Starfesterfesteruximeinnsimulacre
kiyoshi-n kiyoshi-n あとで読む ネタ [放射脳 釣り
] 2014/03/12Add Star
alloreverything alloreverything
質問の仕方の重要性を思い知らされた。そして、それ以上に質問する場所が重要だということも。 2014/03/12Add Stargazi4uximeinntriggerhappysundaymorningmisomico
ublftbo ublftbo
精神科と心療内科を標榜する医療機関の受診をお勧めします。PSWやCP、精神科医などが話を聞いてくれ、必要なら薬物療法なり認知行動療法なりを行ってくれます。考えこんで悪循環でひどくなってしまう前に。 2014/03/12Add Starnaqtnoosansyouuoiota_moshiota_moshkazomfesterfesterguldeenobjectOautomaton37564hi_kmdmisomicomimizuku-owllaislanopirasimulacrecider_kondo
kaitoster kaitoster 放射能
『そして、ただひたすらの罵倒とあげ足取り、「放射脳」という言葉を投げ掛けてきた人たち。不幸になれ。』←元記事消したあげくのこの捨て台詞。現在、増田で一番情けない人間と言っても過言ではない。 2014/03/12Add Starguldeenuturilaislanopiram-naze 不適切なブックマークを通報する
stet stet
捨て台詞に感じるこのイエイリズム 2014/03/12Add Stariota_moshiota_moshiota_moshiota_moshiota_moshiota_moshiota_moshguldeentriggerhappysundaymorningmisomicokuro_pp
pkm pkm 放射能
もう不幸なんですけど 2014/03/12Add Star
http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-2281.html
**以下引用**
ダニング-クルーガー効果 上から目線の人や自信家はむしろ愚かであることが多い「アメリカ人は30カ国中数学25位、科学21位、自信は1位」
個人的な経験と感覚で正確性も何もないものですが、ブログのコメント欄(現在は閉鎖)では上から目線の人や、自分は何でも知っているぞというスタンスの人の方が、幼稚な主張であることが多かったです。
また、有名人でも「自分はすごいぞ」という言動をなさる上杉隆さんなど虚言癖のある方が、論理性のまるでない主張をして一人悦に入るところが見られます。
そういった私のイメージが思い込みじゃなくてある程度一般的な傾向なのかも……と思ったのが、次の話です。
アメリカ人は先進30カ国で数学25位、科学21位、ただし自信は1位
(略)Education.comと言うサイトのコラムでは、アメリカにおける教育の現状を冷静に分析しており、要約すると以下の5点を問題に挙げています。(中略)
2. 国際比較をすると明らかに学力が低い
国際ランキングでは数学が25位、科学が21位。2002年に落ちこぼれの子を出さない誓約を立てながら、8年後の実情はミシシッピで14%、ニューヨークで30%、そしてカリフォルニアで24%のみが数学を習得している。また、全国では24~34%の子供だけがその学年レベルの読みを習得している。驚くことに、数学のレベルの低さとは別に、他国と比べてアメリカの生徒が数学に1番自信を持っているとの結果が出ている。(中略)
・アメリカの子供はいわゆるダニング・クルーガー効果"Dunning-Krugereffect"によって、自信が1位になっているのかも。
・ダニング・クルーガー効果:無能な人ほど自分の能力を過大視するという心理学。認識の偏り。知能の低い人間ほど自分をかなり知能を高く見積もる、あるいはその逆の認識をするケースが往々にしてある。
http://labaq.com/archives/51674348.html
このダニング・クルーガー効果に関する話は後々やりますが、上記で省略した部分も気になるでしょうから載っけておきます。
1. 現在のアメリカでは教育に対する予算カットが頻繁に行われているが、問題はお金だけではない
インフレ率に合わせて、生徒一人当たりに費やされる金額が30年間に4300ドルから9000ドルへと倍増したものの、成績が全く上がっていない。他の低予算の国よりスコアが悪い。(中略)
3. 教師の質が著しく落ちているが、解雇出来ない
他の専門職では失敗をすると失職したり資格を剥奪されるのに比べて、ほとんどの教員はふさわしい資質を持っていなくても職を失わない。イリノイ州では57人に1人の医者、97人に1人の弁護士が資格を失っているのに対し、教師は2500人に1人のみ。巨大化した組合が、教職を2年務めると終身雇用という契約を結ばせるためである。
4. チャータースクール(民間運営の新しいタイプの学校)が質の悪い公立の学校の代わりとなっている
普通の学校でうまくやっていけない子たちのバックアップとなっているが、良い結果を出しているチャータースクールは5校に1校しかないのが現状。
5. 子供を学力別に分けることは不公平であり、多くの生徒の成功を奪う
学力別に生徒を分けることはアメリカでは一般的に行われているが、中レベルから低レベルの位置にいる子供に不利な可能性がある。この学力別システムは1950年に始まり、20%のみが大学に進み、30%が専門職(会計士、経営者、その他の大学の資格を必要としない職)、そして50%が肉体労働者になる。
「3. 教師の質が著しく落ちているが、解雇出来ない」ですが、アメリカの先生は日本の比じゃないほどレベルが低い、より正確に言うとレベルの差が激しいようです。
私はそれはきちんとした教員制度がないせいであると聞きましたが、「終身雇用」ってのもびっくりですね。
学力別に生徒を分けた後が問題であり、この場合下位を切り捨てにしているからということでしょうが、その層に適した教育を重点的にやるということは理論上は可能です。
学力別に生徒を分けないということは高校を全部学区別にするなどして、レベル別にしないということになりそうですが、そうしたとしても結局大学は学力別に生徒を分けます。
世界大学ランキング2012-2013 東大はアジア1位で27位(3つ上昇)で1位だったマサチューセッツ工科大学(MIT)への入学を学区制にしましょうとは、さすがに誰も主張しないでしょう。
あと、こういう風に現在学力別に分ける状況にありながらも、なお「1番自信を持っている」というのも不思議な気がします。
普通はこうやると自信を持つ生徒が減りそうなものですが……。
こちらを広げると話が逸れていきますが、先の「アメリカ人は先進30カ国で数学25位、科学21位、ただし自信だけは1位」の波紋です。
・ダニング・クルーガー効果もこの現象の原因ではあると認めるが、どっちかと言うとこれは、アメリカの教育が自尊心を増大させていることが一因のように思う。
良いことを実行させるよりも、文化の良いと思わせる点を強調している。アメリカより科学などで抜きん出ている多くのアジアでは、それほど自尊心を強調しようとする概念がない。でもそれなりに満足を得ているか、自尊心が高い国より幸せだったりする。それは幸福の本質が単に自分のことをどう思うかだけではないからだ。
だから失敗を認めたり、訂正をすることは自分自身の見方を脅かす。これが全てを説明してるとは思わないが、好きな解釈のしかただ。
・自分が何をわかってないかをわかってない状態ってやつだな。同じことがスペイン語を学んだときに自分にも起こったよ。習い始めた最初の1学期が終わったとき「もうスペイン語はだいたい何でも言える、次の学期では何をするのかな」。次の学期が終わる頃「やっと過去形が終わった。うわまだ何もわかってねーじゃん」。(略)
・世界にNo.1であることを宣言し続けなくちゃいけないのなら、深刻な不安定さを象徴している。そういう間違った自信が国を滅ぼす。皮肉にもこの手の崩壊をもたらすやつらこそが、愛国者と呼ばれたりしている。
・宣伝工作もだよ。「世界で1番の健康保険」とか「世界1の憲法」とか「我々の民主主義がすばらしすぎるので輸出しよう」とか、「世界1自由な国民だ」とか。
・その「自由」ってのに引っ掛かる。過去15年で5カ国(スコットランド、オーストラリア、カナダ、アメリカ、ドイツ)に住んだよ。で、一番不自由な体験をしたのがアメリカさ。
・単に他の国が、いちいち「我々はナンバーワン!」とか「U-S-A U-S-A!」とか叫ばないだけだ。ちょっと恥ずかしいだろ。オーストラリア人より。
・記事によると同じ試験を受けた他の国の子供たちは、「一番出来るというわけではない」と答えている。(略)
・実際アメリカは世界的には偉大な大学を持って、研究者も世界中から集まっている。それからお金もだ。研究するための莫大な金を持っている。
・確かに世界でもベストといえる施設だが、研究者たちの70%は少数派の民族だ。(アジア人とか東南アジアとか)
・少し誤解を招いている。サンプルのサイズに大きな問題がある(アメリカは他の国と比べて大人数を教育し、さらに国がそれを無料で提供している)。試験の点数は35%もいる黒人やヒスパニックの悪い成績により引き下げられている。アジア系アメリカ人は平均541点で、上海、香港、日本、韓国と似通った点数である。ヒスパニックではないアメリカ人は平均525点でカナダの524点、ニュージーランド521点、オーストラリア515点に匹敵している。それとは対照に平均のヒスパニックは446点、黒人441点である。
・その書き方だとアジア人、黒人、ヒスパニックはアメリカ人じゃないみたいだな。
・カナダもマルチ民族で白人ばかりではない。オーストラリアやニュージーランドもだ。なのでやはり全体として悪いんだよ。
・違いは民族から来るというより文化からだね。他の文化に比べて、学習することを強調するサブカルチャーもある。
・1年レジで働いたが、みんなお釣りがいくらになるかわかってなくて、小銭を嫌い、余計に請求されても感謝していた。
・「近代の基本的な問題の原因は、愚か者が確信しきっていて、賢い者が疑問でいっぱいだからだ」―バートランド・ラッセル
オーストラリア人としてアメリカに6年住んだ経験から、両国の差を次のように考える。
アメリカ人は「NBAにプレイできるように頑張る」とか「NBAでプレイがしたい」というより、「NBAでプレイをするんだ」といった風に育てられる。自身を肯定することが根付いているんだ。利点としては自信を持つことで実現につながるし、ポジティブ思考であり、自分を信じることにつながるが、欠点としては、自身に対する錯覚や思い違いにつながることがある。
オーストラリアでは偽の謙虚さが根付いていて、自慢したり、何が得意だとかは絶対に言わない。がんばるしベストは尽くしても、自分が人より優れているとは思わない。昔はこれが尊敬すべき方法と思っていたが、今は2つの観念の間にはさまっている。アメリカに住むまでは自分が何かを得意だとは思わなかったし、ネガティブなコメントを恐れて言うべきことを遅らせたりした経験もあった。アメリカの「出来る」という態度や大げさな褒め言葉やサポートは気に入ってる。オーストラリアの真面目に働くところや謙虚さも気に入ってる。
最後にバランスの良い意見が載っていましたが、ダニング・クルーガー効果は全体的な傾向であり、絶対的なものではありません。
場合によりけりであり、世の中では自信を持つことが大事という主張がむしろ多いように、これが良い助けとなる場面も存在します。
過ぎたるは及ばざるが如しで、極端に自信がないこともまた問題となるでしょう。
といった点を踏まえつつ、ダニング・クルーガー効果の別のところの説明です。
ダニング・クルーガー効果(Dunning-Kruger effect)
(略)これは、コーネル大学の2人の研究者の実験による理論として1999年に発表されたもので、「知識の少ない人間が、もっと知識の多い人々より自分の方が物事をよく知っていると思い込む」現象のことです。実験に当たって彼らが立てた仮説は以下の4つで、結果的にそれらがほぼ証明されたのです。
1. 無能な人々は、自分のスキルのレベルを過大評価する傾向がある。
2. 無能な人々は、他者が持っているスキルを正しく認識できない。
3. 無能な人々は、自分の無能さがどれほどのものかを認識できない。
4. こうした人々も、本質的にスキルが向上するような訓練を施されれば、それまでのスキル不足に気づき、それを認めることができる。
http://ogasawara.cocolog-nifty.com/ogasawara_blog/2011/06/dunning-kruger-.html
「それまでのスキル不足に気づき、それを認めることができる」とありますが、能力がない人ほど自分の間違いを認めることができないというのは、最初に書いたコメント欄、有名人だけでなく、職場の人を見ていても感じます。
もう一つのブログはかなり詳しいですけど、ダニング・クルーガー効果以外の話です。しかし、内容的には同じ傾向の話があります。
それほど自信のない人のほうが、より成功する?
by creiajp on 7月 12, 2012 • 12:30 未来の人事を見てみよう
The Worse-Than-Average Effect: When You're Better Than You Think
平均以下効果: もし自分が思っているより自分がマシだった場合
http://www.spring.org.uk/2012/06/the-worse-than-average-effect-when-youre-better-than-you-think.php
そして、
Less-Confident People Are More Successful
それほど自信のない人のほうが、より成功する
http://blogs.hbr.org/cs/2012/07/less_confident_people_are_more_su.html
最初の記事で話題になっているのは、Worse-Than-Average Effect (もしくはBelow-Average Effect) で、ここでは「平均以下効果」と訳しました。(中略)
"もし自分が何かが得意だったとき、同様に他の人にとってもそれが得意だと思いこむ傾向があること。したがって、もし自分が得意な物事において難しいタスクにぶち当たってしまった時に、自分の能力を過小評価してしまう〔なぜなら他の人は得意に違いないから〕"(中略)
この説を唱えているクルーガーという学者は、一般的にはダニング・クルーガー効果で知られています。(中略)
"人々は、チェスやギャグ、ジャグリングやプログラミングといった、ステレオタイプ的に難しいとされる能力について過小評価する傾向がある。"
ということで、自分がある程度学習して出来るようになった能力は、自分でも出来たんだから誰でも追いつけるはずで、自分はそれほど大したことないはずだ、という思い込みですね。実は習熟するまでにはそれなりの時間を投資しているにも関わらず。
http://www.creia.jp/blog/2012/07/12/6
平均以下効果はダニング・クルーガー効果の"逆パターン"だそうです。
本当はよくできているのにも関わらず、そうではないと思う方ですね。
なお、"それほど複雑ではない簡単な内容については、先のダニング・クルーガー効果のほうが当てはまる確率が高い"そうです。
ということは、高度な分野においてはダニング・クルーガー効果はあまり現れず、平均以下効果の方が現れやすいということでしょうか?じゃあ、今日の最初で書いた上杉隆さんは例外になっちゃいますね。
どうにも扱いの難しい「自信」の取り扱いですが、Harvard Business Reviewに載った2番目の記事では、自信のない人のほうが、より成功する、という説を唱えていて、このメディア上ではコメント欄が200近くに達して軽く炎上しています(笑)。(中略)
"自分への自信は低い時に限って助けになる。"
とのこと。ただ、extremely low (極端に低すぎる) のはダメ、とのことで、その案配がどうにも難しいところなのですが。
先のクルーガーの「平均以下効果」が発揮されているような自信のない人のほうが、自信満々の人よりも成功する要因は、以下の3点にあるとのこと。
1.Lower self-confidence makes you pay attention to negative feedback and be self-critical
低い自信はネガティブなフィードバックへの傾聴を促し、自分自身に対して批判的になれる
2.Lower self-confidence can motivate you to work harder and prepare more
低い自信はさらなる勤労・勉強と、さらなる準備に向けたモチベーションを起こさせる
3.Lower self-confidence reduces the chances of coming across as arrogant or being deluded
低い自信は傲慢になったり勘違いしたりといった傾向を減らしてくれる
他人の無知を指摘することは簡単であるが言うまでもなく人間は世界の全てを知る事は出来ない。ギリシアの哲学者ソクラテスは当時、知恵者と評判の人物との対話を通して、自分の知識が完全ではない事に気がついている、言い換えれば無知である事を知っている点において、知恵者と自認する相手より僅かに優れていると考えた。また知らない事を知っていると考えるよりも、知らない事は知らないと考える方が優れている、とも考えた。
なお、論語にも「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という類似した言及がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%9F%A5
適度に謙虚でかつ貪欲にという姿勢が大切なのかもしれません。
(12/8追記:こういうコピペがあるそうな。
「パソコン詳しいですか?」
工学系「(寄せ集めで自作PC作ったくらいだし…)いえ、そこまでは…」
情報系「(周りの奴のほうが詳しいしな…)まぁ、人並みには…」
文系「(パソコン?毎日YouTube見てるしな…)あぁ、詳しいっすよ」
2012-01-10■僕は自分が思っていたほどは頭がよくなかった しのごの録
"(中略)高校の成績は、いままでずっとAを取りつづけていましたが、去年始めてBをとってしまいました。もしそのBがなければ、卒業生総代に選ばれていたでしょう。
総代にふさわしいのは自分だ、つまりクラスで本当に一番頭がいいのは自分だと思いたいです。でもこの一年で、僕にそれほどの知性はないし、僕より頭のいい人はたくさんいるんだということを思い知らされました。
また僕は、自分の頭のよさについて、少なくとも自分自身に対して嘘をついているところがあります。成績表からAがひとつ盗まれちゃったんだということにして、自分自身を納得させようとしているんです。(中略)昔は、自分はMITに行けるものだといつも思っていました。でも、その可能性はゼロに等しいんだという厳しい現実が明らかになってしまいました。(中略)"
対する返信。
"私は意気揚々とMITの寮に引っ越してきました。(中略)一年生の微積分と物理の単位をすでに取っていました。(中略)
時間が経ち、壁にぶち当たりました。私は高校時代それほどよい生徒ではありませんでした。悪い成績をとれば、適当ないいわけをしたものです。そんなものどうでもいいとか、忙しすぎたとか、やる気がでないとか(中略)自分はちょっとやる気がないだけで、他の誰よりも頭がいいんだと思えました。しかしいまや、そんな考え方は通用しませんでした。(中略)ほんとうに惨めな気持ちでした。
幸運なことに、私のとなりの部屋にはRという賢いやつが住んでいました。Rは、控えめに言っても、優秀な学生でした。(中略)微分方程式に半学期悩まされたあと、プライドを捨ててようやくRのところへ助けを求めに行きました。確か彼は私の教科書を一晩借りて復習して(彼は小学3年生からの全ての授業内容を憶えているわけではない)、その後、私の分からないところをひとつひとつ丁寧に解説して教えてくれました。その結果、学期末に私はB+をとり難を逃れることができました。ここでひとつ大切なことがあります。それは、彼が教えてくれたことのなかに、頭の回転が速くなければ理解できないことなどひとつもなかったということです。彼のことを知るにつけ分かったことは、彼の知性と実績のほとんどは、まさに勉強と鍛錬によってもたらされているということでした。(中略)
「頭がいい」ことが成績の良し悪しを決めるのだと言って自分自身を欺くのは簡単なことです。とても多くの場合で、これはあり得るなかで最も安易な説明です。なぜなら、これを認めれば努力をする必要もありませんし、自分の失敗をただちに正当化してくれるからです。(中略)(おもしろい事実:SATの成績と最も相関の高い変数はSATのために費やした勉強時間です。)
http://d.hatena.ne.jp/tictac/20120110/p1
ダニング・クルーガー効果と平均以下効果のどちらかが現れるかの境目とも関係するんじゃないかな?とちょっと思ったので、ここで紹介しました)
失恋したのかな。
分不相応で、告白するつもりもなかったし、
きれいな人だったからいつかはこんな日がくるだろうと思ってたけど、
長い間好きだったと思う。多分自分の人生で一番長い間好きだったと思う。
さっさと結婚してくれれば諦めもつくんだけどなあ、と思ったこともあった。
でも僕はその人のつらい時に支えようとはしなかった。
つらい気持ちだけでなく、その人が何を考えてたり思ってたりするのか、
察しようともしていなかった。ただ、独りよがりに執心していただけだ。
なんとなく距離をおいて、それでも遠くから眺めてそれで満足することにしていた。
とにかくその場では取り繕うようにしていたつもりだけど、
心の動揺を悟られていたかもしれない。
失恋したのかな。
正直はっきりしない。そう思い込もうとしているだけかもしれない。
帰り道、泣きそうな表情をしていたかもしれない。
でも泣いてる僕って可哀想みたいな理由だった気もする。
本人からだったらショックが大きすぎて
その場を取り繕うとすることもできなかったかもしれない。
僕自身どうこうしたい、という気持ちは表向きない。
その人がせめて少しでも幸せであってほしいと心で言葉にはするけど、
好きだという気持ちも過去形なのか現在形なのかそんな事実があったのかもよくわからない。
事実を認めたくないだけなのかもしれない。
失恋したのかな。
2chまとめで話題を見かけたので思うことを書く。
自分は、言葉は変遷していくものなので別にいいんじゃね?派なんだが、それはさておき、気になったのは「よろしかった」という過去形はおかしいだろ、という文法的な指摘だ。でもこれ、文法をもちだすのなら、むしろ逆に納得のいく説明ができる。
動詞に「た」をつけた形は、「過去形」ではなく、そのまんま「た形」と呼ぶ。なぜそう呼ぶかというと「た」がつくのは過去に限らないからだ。
「た形」のもうひとつの重要な使い方は仮定法。「もし明日雨が降ったら」というときの「降った」が過去のことを指していないのは言うまでもない。そして、この点、日本語と英語は似ている。英語でも仮定法では過去と同じ形の動詞をつかう。
さらに、仮定法と丁寧な言い回しに密接な関係がある。英語で Would you like ~ というとき、will の過去形である would を使っているのはもちろん過去だからではなく、これは仮定の語気を含んでいるからだ。「もしあなたがお望みであれば〜」というニュアンス。「私の押し付けではなく、私にはあなたが何を望んでいるのかを断定するつもりはなく、あくまであなたが望むなら」という気持ちがこもっている。それがひいては「丁寧な言い回し」となる。
というわけで「過去形」「仮定法」「丁寧な言い回し」の間には、密接な関係があって、それは日本語にも英語にも通じる。たぶん、言語を問わず、人間が生まれもった言語論理自体にもともとそういう類似性が含まれているんだと思う。
「よろしかったでしょうか」という言い方を使う人が「よろしいでしょうか」をすこしキツいと感じているとすれば、それは上記のような理由。人間の言語能力的に、必然的な感覚なんじゃないかな。
「終わらないで欲しいものが実はもう終わりつつあること」に気付きながらも、なおもダンスを踊ること。だがしかし、それがけっして希望や未来に繋がりはしないこと、一方では完全に分かってしまってもいて、だからそこには明らかに一種のメランコリーが隠されているのだが、では「終わりつつある」が、遂に「終わってしまった」に変わり、そのことをもはや認めざるを得ないのだとしたら、一体どうしたらいいのだろうか?
「当時、彼の書く歌詞や曲の世界は、あまりにも楽観的で表層的だと揶揄されたりもしたが、そこに同時に苦悩と諦念と、それでもなおそれらに何とかして撃ち勝とうとする「強い気持ち」を見出せなければ、彼のことをわかったことにはならないだろう。阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起こった年に「さよならなんて云えないよ」と「痛快ウキウキ通り」を発表する人間の、何ともいえない複雑さに気付けなければ。」
去年末あたりから、小沢健二を頻繁に聴いている。一言でいえばハマってしまったのだ。いや、というよりも心酔してしまった、といったほうが正確かもしれない。僕の生活を傍から誰かが覗いてみればおそらく気持ち悪がることだろう。とにかくここ最近は毎日小沢健二漬けだ。自分の生活が、人生が、小沢健二に溢れている。ここには些かの誇張も比喩もない……。
なぜ小沢健二なのか。無論彼の音楽が素晴らしいからで、それは後追いで彼の音楽を知った者としては「今現在聴いても」というような注がどうしても付随するが、事実彼の音楽は全然古びていないし、それどころかむしろいまのほうが当時より一層重要性を帯びているとすら感じられるから、なのか……。そう断言したい気持ちもあるのだけど、自分でもよくわからないというのが率直なところだ。ここでいう当時とは彼の活動が全盛を極めた90年代半ばを指すが、その後彼はメディアから急速に姿を消し、CDのリリースも絶え絶えになる。これは周知の事実。では小沢健二とはいったい何者だったのか/なのか。もちろん彼を過去形で語るのは正しくないし、絶対に間違っているとすら思うけれど、とりあえず90年代の彼の音楽家としての活動とその意義などはひとまず暫定的に総括されて然るべき問題だろうと強く思う。小沢健二はそれぐらい大きな存在だと思うし、その大きに比べると彼は「まだまだ語りきられていない」と思われるのだ。
小沢健二の音楽をリアルタイムではじめて聴いたのは、たぶん「ラブリー」だったと思うし、それ以外はほとんど記憶がない。というのはその当時(94年頃)の僕はまだ小学生で音楽そのものにあまり興味もなかったし、もしあったとしても彼の曲の良さを感受することは出来なかっただろう、おそらくは。そして物心ついた時には彼はすでに音楽の場から遠のいていた。何れにせよ今まで聞き逃してきたわけだ。といっても今までに何度かニアミスはあった。物心ついてそれなりに音楽を嗜むようになり、そのなかには渋谷系と称される音楽もいくつかあり、とりわけ渋谷系と称されるジャンルにおいて小沢健二は中心的な存在だった(はずだ)。だけど、それでもなぜか意識して小沢健二を聴くことはなかった。なぜだろう、とふと考える。というのも、つい最近まで彼のことを意識して考えたことすらほとんどなかったので自分でもよくわからないのだけど、ひとつ思い当たるふしがあるとすれば、それはやはり当時耳にはさんだ「ラブリー」の印象が大きかったからなのだと思う。もちろん、「嫌い」といえるほど彼の音楽やメディアでの振る舞いを見ていたわけではないけれど、それでもやっぱり「ラブリー」のあの底抜けに明るい(今でこそ違う表現ができるのだけど)感じをリアルタイムでは軽薄なものとして受け止めた気がするのだ(いまでも彼の音楽をそういうものとして受け止めている人たちが大勢いる)。だからなんとなく避けてきたというか、ちゃんと聴かなかったのだと思う。そんな僕が小沢健二を意識し、興味を持ったのは、彼が所謂反グローバリズム運動に関わっている(らしい)と聞いたからだった。だからはじめは音楽とは関係ない。いやあんなポップな歌を歌っていた人がそんな活動をしてるんだ、という意外性によるものだから、関係はあるのだけど(そういえばセリーヌに興味を持ったのも彼がべらぼうな反ユダヤ主義者(らしい)と聞いたからだったのだ)。
そんなこんなである日何気なくyoutubeで「ある光」を聴いた。そして一瞬にして胸を打ちぬかれた……。真摯、としか形容することができなかった。そこにあるのはなんの修辞もアイロニーもなく、ただひたすらに真摯で敬虔な歌だったからだ(それゆえになかなか危険な曲だと思う)。そして続けざまに聴いた「ラブリー」で嗚咽した。この「ラブリー」という曲の持つヘビー級の重さに僕は小沢健二という存在が理解できたような気がした。一見とてもポップで底抜けに明るいこの曲のいったいどこがどう重いのか。彼の音楽は多くの人たちから「多幸感溢れる音楽」云々と形容されてきたのだけど、それは正しくない。正確にはこうだ。小沢健二の音楽は多幸症である……。多幸症。そう、これはある種の症状であり、とりわけ「ラブリー」に顕著に見られる明るさは明らかに病的である、と。「ラブリー」にはそういった趣を感じるのだ。小沢健二の音楽を聴くことは、すなわち完全なる多幸症を生きることを含意するといってもいい。
本当に鬱のやつはコミケなんて大変なところに行けるわけがない。コミケに行くんだったら、二度と俺は鬱だなんて言うな。本当に鬱だと思うんだったら、病院行ってコミケには絶対に行くな。どっちにしても、俺に対して「鬱だ」なんて二度と言うな。って言ってやろうぞ。
コミケは知らんけど、案外鬱の診断されてる奴でも症状によっては「好きなこと」はするよ。
逆に医者にそれすすめられることもあるしな。病院に押し込めたら治るのも治らんだろう。
ただし、ホンモノとニセモノの見分けがしづらい、とか、仮にホンモノだったとしても同僚として納得できない、なんてのはまさにそのとおり。
激鬱だと本当に「起きてこない」けど、その時は栄養補給だけして放置してればいいからまだ安心だけど、治りかけの奴はいきなり死のうとしたりするから面倒であった(過去形 -- もう別れたし)。
体罰とか感情的に怒る事が、一時的に効果を出すことはあると思うんだよ。
例えば俺みたいな、怠け者だが人に怒られることをやたら恐れるような奴にはさ。
俺は、怒られると自分が100%悪いと思っちゃう。冷静に考えると相手の方が理不尽でも、そんな気になっちゃう。
だって俺なんて愚図でノロマで怠け者で馬鹿だから、自分ではどこが悪いか分からなくても、怒られるような非がどこかあるに決まっている。
とにかくそんな訳で、怒られるのを避けるために、出来るだけミスを無くして仕事をうまくやろうとする。
よく怒られ過ぎるとミスを恐れて消極的になるって言うけど、仕事が出来てなければそれはそれで怒られる訳だから、与えられた仕事についてはとにかく可能な限りクオリティを上げてやるしかない。
結果的にどの程度上手く出来ていたかは微妙だけど、怒られることへの恐怖が無かったら、俺の仕事のクオリティは多分もっと低かった。
過去形で書いたのは、結局俺はそのストレスに耐えられずに、仕事を辞めてしまったからだ。
俺が去った後の職場で「あの根性無しの腑抜け野郎が!」と誰かが怒っているかもしれないが、もうそれを目の当たりにすることは無い。
で、まあ、皆が皆俺みたいな根性無しではないだろうけどさ。
振り返ると結局、怒られる事によるブースト効果って、一時的だったんだなあと思う。
馬に鞭入れて全力で走らせて、ゴール前に力尽きるみたいなもんで。
最初の頃に俺を怒っていた奴らは、「自分が怒ってやったからアイツもいくらか仕事が出来るようになった」なんて思っているかもしれない。
今俺がこうやって燃え尽きて引き篭もってる事なんか、知りやしないんだろう。
今までギャルゲ(エロ含)ってーとプリンセスメーカー(初代←年がバレる)とか、あとはアリスソフトの無料配布の奴とかしまいま(これも無料の奴)とかしかやっていなかったが。
一時期3次元で恋愛して結婚もしていたのだが(過去形)、なんやかんやでまた次元が落ちて今年の冬休みはアマガミです。絶望放送他で神谷浩史がハマってたのを聞いて気になってたのよ。
しかし、なんつーか、amazonのレビュー見ると「自分と主人公を同一化してプレイする人には向かない、なぜなら主人公が変態紳士すぎるから」というコメントがあったが、自分の中の変態性をむくむくと刺激され、結構なエロゲよりもハマってしまうことに気がついた。いや、これにハマった人はたぶん変態予備軍ですよ、自分も含めて。こういうシチュエーションの妙に比べると、エロゲのストレートなエロシーンって、なんつーか、クドいんだよね…。
とりあえず絶望放送つながりということで桜井さんを自力で落として、その上で時間あまりないので中多さんと絢辻さんを攻略ページを頼りに最短で落としたけど、今のところどの方向性もかなりくるものがある。しかし、いい加減時間切れなので、あとはしばらく積みゲーに戻しておかないと睡眠時間がヤバい。
横だが、個人を見ると優秀だし、決まったとおりにきっちり動かす、という役割においてはさすがに有能。民主政権になってぐだぐだになったのは、民主の人間がぐだぐだだった、というより、政治家が官僚を敵視した結果官僚が萎えたから、という説があるが、比較的霞が関の近くであの時期にあおりをくらっていた自分としては、その説に一票投じたい気分。
逆に、「官僚主導の打破!」とか、「日本の官僚が悪い!」とかいう人達は、官僚がどのようなミスをしたのか教えてほしい、具体的に。
個人的には課長あたりのポスト争いによる非効率性とか、省庁間の縄張り争い(特に総務省と経産省)によるとばっちりは勘弁してほしいが、これよりベターな状況が「ぼくのかんがえたさいきょうのとうちしすてむ」な連中に作り出せるとは思えないんだよね。
ちなみに官僚主導ってのは手続き論主導って話であって、これを民主主義における必要なコストと思うか、国民の代表である政治家様がこう言うのだから今までがどうあれこうしろ、と思うかで、民主主義に対する考え方が透けて見える(こないだの田中真紀子の大学認可問題なんかいい例)。
ちっとも民主主義を理解していない政党だったよな(←まだ過去形には早いか?)
自民党も天賦人権説を否定したり、ちっとも自由じゃない政党になっちまったけどな(←ってかあれ、「オレたちの自由(=わがまま)」だよな)
うん、私が寂しいだけなんだ。すまない。
小町や知恵袋でする話だろうし、事実、その二つのサイトには同じような話題が無数に繰り広げられている。
友人を遊びに誘うばかりで、さっぱり誘われないのが寂しいという、昔から既出の話題です。
それっぽい言葉をググれば、誘う方は心が強いとか、頼れるとか、
誘われる方は待っているだけで、別に誘う方を嫌っちゃいないとか書いてある。
けど、やっぱり誘われないのは寂しいです。
付き合いの長さだけ寂しさが募るよ。
誘ってはくれない友人に固執する自分が嫌になって、自己嫌悪に陥るよ。
休日に「今日は◯◯ちゃんと××に行ったよ♪」なんて日記をSNSに書かれるとテンション下がるよ。
また自己嫌悪に陥るよ。
自分って重い人間だな、プリントアウト案件かなって時々考えて笑うよ。
「いた」って過去形に出来れば一番楽なのかもしれない。
就職してからも、結構な頻度で遊びに行っていたけれど、ふと最近、友人から誘われた記憶がほとんどないことに気づいた。
あっちが誘ってくれる時は、お互いが確実に近くにいる時だけ(仕事帰りとか)、ゲリラ的にお誘いが来る。
この日に映画行こう、とか、ランチに行こう、とか、ちゃんと日にちや時間を決めて誘われたことはない。
じゃあ、ちょっと、友人としては酷い行為だが、相手を試してみようか、しばらく誘わなければどうなるか。
それまでは月2,3回のペースで会ってたが、その日を境にこちらから連絡することを止めた。
もちろん会うこともなかった。
ああ、そうか、あっちにとって私は、ただ都合のいい友達だったんだなって、思うようになってきた。
いい子だから、私が誘わなくたって、誰かが何かに誘ってどこかに行く。
この三ヶ月間の彼女の日記がそれを証明しているようで、泣き笑いした。
いいなあ、そういう女の子。うらやましくて仕方ない。
この三ヶ月、憎くなるくらいうらやましくて仕方なかった。
幸いにも、いつも私を誘ってくれるありがたい友人がいるので、そういう人と誘い誘われるいい関係を目指そうと思いました。
あと、ひとりでどこへでも遊びに行けるように努力をしています。
最近、一人で映画を観に行くことに喜びを感じるようになりました。
そんな感じでおしまいです。
4ヶ月行って帰ってきたから書いとく。結論として自分の英語は伸びたのかというと、ちょっぴり伸びた。TOEIC800点だけどあんまり喋れない、中級にありがちな状態の人が、日常生活で困らないぐらいに会話できるようになったぐらいの進捗。帰国後TOEICは未受験。あくまで参考程度に。
日本人は20~30代がほとんどで、大抵は超初心者。(60代以上など年配の人はチラホラ。40~50代はあまり見かけない。)TOEIC200~300点台レベルが大半。中1レベルの動詞の過去形を知らない人もいる。1~2ヶ月の留学では気休めにもならない。マンツーマンの先生は進歩をほめてくれるが、内心ではもっと基礎を勉強してから来ないとあんまり意味ないよね…と思っている(複数の先生が実際そう言ってた)。準上級以上の日本人はほぼ皆無。まれに居たとしても、周囲の日本人とレベルが違うため「何であの人ここに留学しに来たの?」状態になっていた。韓国人では上級はチラホラ居たが多数派ではなかった。
せめて高校生レベル、さらに欲を言えばCラン以上ぐらいの大学生レベル(TOEIC400超えるぐらい?)で、「中級以上の文法とスピーキングを伸ばすために、最低でも3ヶ月以上留学する」というのが投資に見合ったリターンを得るのに最も適していると思われた。残念なことにそういう大学生はあまり居なかった。個人的には、とりあえず中学レベルの基礎文法と、DUOとかキクタンとかメジャーな単語本の1冊丸暗記ぐらいは終えてから行った方がいいんじゃないかと思った。マンツーマンの先生たちは皆口を揃えて、初心者を教えるのはすーーーーっごいすーーーーっごい大変だと言ってた。最初の自己紹介すら通じなくてただ微笑んでるだけとか、ほぼ無言とかの状態から始まる生徒も居るんだと。そして先生たちは大抵明るくて話好きなため、ぬっちゃけ、会話が成り立つ生徒のほうがクラスを持ってて楽しいらしい。(もちろん仕事だからどんな生徒でも普通に教えてはくれるが)
ESL学生の大部分を占める韓国人大学生たちは大抵が中の下~上の下ぐらのレベル。文化の違いはあるものの、政治的思想を持ち込むおかしなヤツというのはまず居らず、クラスメイトとして普通に友達になれる。ただし基本的に仲間内で群れるため、輪に入りたければある程度積極性が必要になる。クラブで遊んで女を買いまくってるDQNも居れば、まじめなインテリ学生も居た。留学に来ているのは基本的にそこそこいい家の子ばかりのようで、付き合いに不安はなかった。
日本人では、カナダやオーストラリアへワーホリで行く前の準備段階としてセブに来ているという人が結構いた。セブで3ヶ月程度英語を学んでからネイティブの国へ行き、そこでまた現地の語学学校に通うものの、マンツーマン授業は無いため語学の勉強としてはあまり役に立たないとの経験談を複数聞いた。セブで学んでからオーストラリアへ行ったものの、勉強にならずもう一度セブに戻った韓国人学生は結構いるとのことだった。
どの先生も基本的には真面目に教えようと頑張ってくれる。伝わらなくても生徒の能力を伸ばそうと努力を惜しまず向き合ってくれる。教材も十分ある。訛りの強い先生も居るが、それに文句を言えるレベルの語学力の学生はまず居ない。ただし、フィリピン人先生のクラスの後でネイティブ先生の英語を聞くと、すごくわかりやすく感じることもあるらしい。超絶ビギナーすぎると、ほんの少しの訛りでわからなくなるのかもしれない。(自分はそこまで初心者でもなかったので特に困らなかった)
先生と仲良くなると、一緒に遊びに行ったり、家に呼んで貰ったりすることもある。プライベートな話もよくする。ちなみに自分が通ってた語学学校は安月給(ESLの最低基本給が月額8000ペソ程度、ベテランで11000ペソ程度に皆勤手当て等の数千ペソ付加)なため、自分が受け持った生徒の帰国後に、副業としてオンラインで英会話教室をやっている先生も多い。これは普通のオンライン英会話と同程度の授業料(1時間300ペソ以上)だが、生徒としては気心の知れたプロ語学教師に学べるというメリットがある。自分が行った学校では先生は正社員というよりはバイトに近いような雇われ方をしているようで、健康保険や有給休暇は基本的には無いらしかった(大ベテランのみ?)。病気や急用の時は代理の先生が来た。急に退職してしまう先生もごくまれに居た。
先生は大抵が若い人で、教育学部や看護学部を卒業してそのままESLに就職したか、あるいは数年だけ他の職場で働いたという人が大多数であるため、所謂ビジネス英語や専門的な英語を学ぶことは難しい。教えれる先生がほとんどいない。ESLのうたい文句でビジネス英語「も」学べる!なんて書いているところもあるが、気休め程度とか初歩だけと考えていいと思う。(本気のビジネス英語を学びたがるレベルの学生がそもそも来ないからだろうと思われる)例えば日本人の看護士が留学して、運がよければマンツーマンで看護学部卒の先生を探せるなんてこともあるかもしれない。
ちなみにESLの先生という職は現地ではそこそこ勝ち組な部類とのことで、「ちゃんと英語が話せる」というのは現地でも一応ステータスではあるようだった。タクシー運転手でもなんとなく英語は通じるが、普通に英会話ができるとは言えないドライバーがほとんどだった。現地の大卒というのは日本ほどの価値がなく、ファーストフードやショッピングモールの店員ですら大卒らしい。日本のいい大学を出てるレベルとゆーのは、あちらでは院卒レベルなのかもしれない。
Forestとか薄めの文法参考書と、単語本の2冊があれば十分だと思う。向こうでも教科書買うし。毎日の授業で新しいことたくさん学ぶので、日本から持っていった自習教材でバリバリ勉強しちゃうぜ!という人はあまり居ない。というかそこまでやる気が持つ人が少ない。毎日宿題出す先生も多いし、友達できて楽しすぎるし。そして盲点なのが、本が多いと国際線の手荷物重量で引っかかるとかそっちの心配もある。行きは良くても帰りにおみやげ増えて重量オーバーとか。
日々のレッスンは、何をしていくか先生と相談したりもする。基本的な文法がなんとなくわかってる人は、こつこつライティングの勉強も並行してやると、脳内英作文が早くなるからスピーキングも伸びやすい。毎日作文して毎日先生に添削してもらう。脱ブロークンのためにもオヌヌメ。
女の人は以下もあるといいらしい。
観光、食べる&飲む、クラブ行く、ダイビング行く、買い物するぐらい。正直遊ぶのは2ヶ月で飽きる。フィリピン人の女買う奴も居るけど、ゴムしてれば全部大丈夫とか思ってるアフォが多すぎ。あとオカマ多くてびびる。綺麗なのに・・・なにその喉仏。
行って本当に良かった。色んな人との出会いも良かったが、フィリピン人のテキトーさに触れ、自由を満喫して、日本以外にも生きていける場所が見つかったという開放感がパネェ。何となくいま閉塞してしんどい人も、軽い気持ちで行って見たらいいと思う。大人しくしてれば安全に過ごすことも十分に可能だから。こまけぇこたぁいいんだよ!
※このエントリを書くきっかけとなったのはこの記事です。→http://hamusoku.com/archives/6930329.html
※「知人」には許可を取ってあります。
昨年引っ越しをして、ようやく新しい生活が落ち着いてきた知人に会ってきた。
もともと彼は仕事を辞めるつもりはなかった。何と言われようと東電に勤め続けるつもりだった。
が、秋頃に彼の子どもが、学校でイジメに遭っていることが発覚した。
机に「原発」とか「放射能」とか彫られたり、日本から出て行けと罵られたり、
その子がおとなしいのをいいことにどんどんエスカレートしていったらしい。
彼は子どもを救うことを優先し、生まれ故郷(偶然私の実家に近い)に引っ越した。
家族全員まだまだ立ち直れていないけど、幸い何とかやっていけそう、とのことである。
この話を聞いて、あなたはどう思っただろうか。
「東電社員転落人生ざまぁwwwww」とか、「子どもに罪はないだろ!いい加減にしろ!」とか、
「だから何だ責任放棄するな盗電野郎が」とか、色んな感想を抱いたことだと思う。
でも、「その人東電の"どこ"で働いていたの?」という疑問を持った人は、どれくらいいるだろうか。
彼は、火力発電関連の部門で働いていた。
3.11以降、原発にかわってフル稼働している火発の技術者だった。
彼が東電で働き続けるつもりだったのも、月並みな言い方をすれば、自分の仕事に誇りを持っていたためである。
「原発が"直ちに健康に影響ない"発電所なら、今の火発はまだ"直ちに健康に影響ある"発電所」
「焦って火発を乱立させるくらいなら、3.11の経験と今の技術(※1)をもとに原発をつくった方がずっと安全」
と語っていた。そんな火発だけど俺たちがどうにかしてみせる、とも言っていた。
そして自分の仕事については、近隣住人にきちんと話していた(※2)。
にも関わらず、イジメが起きた。イジメっ子の家庭は間違いなく彼の実情を知っていたのに、である。
連日の報道であまりに自然に「東電=原発」のイメージが染みついてしまっているが、
「東電=原発」の間違った前提で行われる東電叩きは、明らかに脱原発の道を遠のかせる。
別の部署で事故が起きたので必死で働いてください、でも給与は削減します、
社外からはその部署と一緒くたにされて叩かれます、私生活で嫌がらせを受けるかもしれません。
これで「仕事に誇りを持ってるなら堂々としてろよ。(※3)」と言われるのは、さすがに理不尽ではなかろうか。
東電という企業が叩かれるのは仕方ない。仕方ないどころか当然だ。
でも「東電社員」を叩いている人は、その相手があなたが別の場所で応援していた、
原子力以外の発電に携わっている人間かもしれないという想像を、一瞬でいいからしてほしい。
私には彼の他に数名、発電所で必死に関東の電力をまかなっている知人がいる。
はっきり言って同じような話は、もう二度と聞きたくない。