はてなキーワード: 答案用紙とは
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勉強なんてますますしてやるかボケとなり、母が理想としていた聡明で清楚な娘なんてぶち壊してやった。制服のスカートを短くして、私服も男っぽくして、寄り道買い食い、刈り上げにして、運動部で日焼けしまくって、口も悪くなった。母が嫌いなゲーセンにも内緒で行ってた。さすがに身売りとか夜の街とか借金とか法律に反するとかのやばいことはしなかったが、できる限りで親の理想と反対を行った。
学校の授業は楽しかった。一部の先生は母みたいな上から目線で嫌だったが、大体はみんな優しかった。上から目線でバカにする人はほぼいなかった。私立だったからだろうか。勉強以外で得意なことがあるならそれを伸ばそうという校風だったからだろうか。
そうなってからはカンニングなんて頭になかった。気が付けば追試の数が減っていた。追試になったときも同じ追試仲間と一緒に勉強するのは苦じゃなかった。学校で受けた全国模試では下から数えた方が早かったけど、得意科目は上から数えた方が早かったからそれでいいやと思ってた。小学生の頃は得意科目がよくてもメインの科目ができないといけないと思っていたがそんなんど〜〜〜〜〜でもよくなった。父と夜遅くまで遊び、兄弟と旅行や遊園地に行き、母に強烈に怒られた時は友人が「じゃお泊まりしよっか!」と友人宅に何度もお泊まりした。友人の母も「子供がいっぱい楽し〜!ふぅ〜!」なノリでよく花火をして、焼き肉に連れて行ってもらった。この友人の母は「留年しない程度に勉強すればいいじゃ〜ん。あそぼーぜ!」な考えで、影響されたと思う。
一度高校の頃、地学で満点近いテストを母に見せたが「学校の勉強なんだし当たり前じゃん。しかも地学って笑」と笑われた。それ以外覚えていない。くそな思い出。勉強しろ!とお小遣いで集めていた漫画やアイドルグッズを全部捨てられたときもあったが、それでも勉強なんかしてやるか!となった。
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大学受験期に差し掛かり、母がまた中学受験の時のようにテストの点数点数点数となった時期。入りたくもない塾にいれられ、難しすぎる授業を受けた。宿題・予習の量が尋常じゃなく、難しさも相まって何もわからない。学校の点数も口うるさく聞いてくる。親が金を払っているからさぼる事はしなかった。塾の授業も遅刻せずに真剣に聞くが授業スピードはかっとんでいくのでわからない。
その時の塾の先生は優しかった。すっごく初歩的なことを聞いても「わからないの?」と責めて来ない。しかし優しすぎてずっと何度も質問するのがなんだか申し訳なくなってしまった。
せっかく中学で治ったと思った小学生の頃に身に染みてしまった質問は恥が邪魔して何度も質問に行けず悩んでしまう。
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母は教えてくれない。教えないくせに「こんなの聞いていればわかる」「私はできた」と責めてくる。「あんたはやる気がない」「大金を払っているのに」「私は自力で大学に入った」と武勇伝も出てきて家では口を開けば喧嘩だった。点数点数偏差値偏差値検定検定順位順位ばっかりだった。当時の私の偏差値は34で高校3年でようやくギリギリ英検3級が取れた(一敗している)。バカなのはわかってた。学校のテストは大丈夫だが、受験となるとレベルが違う。全くわからない。
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そんな中、塾で模試を受けたとき、ふと横の人をカンニングしてしまいそうになった。目が横に動いたと意識した瞬間に前に戻した。カンニングという選択肢が常に頭にあることに気が付いた。小学生の頃に常態化していたカンニングが邪魔をしてくる。
それから模試の最中は目の前の答案用紙ではなく、自分との戦いだった。駄目だ駄目だとペンを握る。時間を見ようと顔を上げたときに他の人に目がいってしまう。そして自分を責める。カンニングの文字が頭に浮かんでしまう。結局集中できずに模試が終わる。
自分はこんなにもカンニングがすぐ思い浮かぶ人間だったのか。最低だ。でも点数が悪いと怒られる。否定される。もう親は自分に関係ない!と言い聞かせても思い出すのはあの冷ややかな目。「あ、今から怒るな」とわかる表情。思い出すだけで耳が痛くなる甲高い声。早くこの受験戦争から脱しないとカンニングをしてしまう。絶対にしてしまう。早く脱したい。でもどうやって脱するんだ。だめだ、だめだ、だめだ、と模試を受けるのが怖くなった。その後も模試を受けたがカンニングしては駄目だという戦いをしていたことしか思い出せない。いつも終わった後はお腹が痛かった。
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勉強してカンニングしないようにすればいいと勉強しても「カンニングしちゃえば楽なのに」と悪魔のささやきが頭にこだまする。勉強しても頭に入らない。覚えられない。勉強していると何故か頭が痛い。喉が苦しい。お腹に激痛が走る。自習室にいるのに母に怒られてしまうと怯える。母の視線が怖い。怒っていない時でも怒っているんだと毎日思う。あの耳が裂ける金切り声でキレてくる。突然来る。負けないぞと立ち向かおうとする。でも朝「おはよう」とあいさつするのも精いっぱいだった。「おはよう」から何に転じて怒られるかわからない。同じ屋根の下というだけで朝から晩まで、いや寝て意識が飛ぶまで怯えていた。「おはよう、そういえば模試の結果まだ届いていないの?」と言われるのではないか?「おかえり、今度テストだよね?」と言われるのではないか?眠くなって自室に戻ろうとすると「受験生なのにこんな早く寝るの?!」と怒鳴られることがある。母の気分次第だ。
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そんな時、行きたいなと思った大学のAO入試を知った。自分は勉強と指定校推薦は無理だったので早急にAO入試にシフトした。論文と面接は楽しかった。自分の考えを丁寧に文と言葉として落とせばいいので、公式を覚えなくていい。面接も自分の会話ペースに引き込んで、延長するくらいには自信があった。
大学は有名どころに受かったので母は喜んでいた。「あんたはしゃべりがうまいからね!」とドやっていた。「何自分手柄にしてんだよくそが」と反抗期真っ只中の私はキレていた。今までさんざん「勉強できないあんたは大学なんか行けない。受験を舐めている」と言っていたくせに都合のいいやつと思っていた。私が成人した現在は「あの中学に行かせてよかった」とほざいている。お前のせいでカンニングしたという過去が存在しているのになと時たま思い出してしまう。
受かった後に、とある大学入試を本気で真面目に解いて、マーク試験なのに200満点中18点だった時は父は大爆笑、母は呆れていた。「択一式なのにwwwwwま、真面目にといて?wwwある意味天才だwwww」といった父の言葉。なんだかその時に呪縛が解かれた気がした。
母は既に大学に受かっているという体があったから呆れで済んでいたと思う。それか父と兄弟がその点数で大爆笑していたからか。怒られなかった。
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AO入試を受けさせてくれた母には感謝している。大人になってから聞くと「AO入試なら受かると思った」と。「お前にとりえなんてない。おしゃべりがうるさい子。反抗期長すぎて親を何だと思っている」とキレていたくせに。母には感謝している部分とぶん殴りたくなる部分がある。
中学受験についても感謝している。受験させてくれたことには。小学生の終わりかけのころはいじめられていて、近所の公立に行ったらそのままいじめられ続けていたと思う。受験で救われることもあったから、受験を完全なる悪だとは思わない。むしろ受験をして出会えた素敵な人たちがたくさんいる。
当時、いじめられていると母に言ったら「あんたが弱弱しくするからだよ。勉強で見返せば?」と助けてくれなかったので、ま、いじめで受験させたのではなく、母の自己満だろう。それでも私は良かった。複雑な感情だ。
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大学生時代の時は授業と勉強が楽しすぎて単位上限を超えたので聴講もしてずっと大学にいた。
そして検定を好んで受けた時、カンニングを意識することはなかった。自分のペースで勉強するのは楽しい。誰にも怒られず、自由に勉強して好きに試験を受けるのは楽しいので、カンニングなんて微塵も思わない。試験が楽しくて試験中は解くのに夢中になっている。落ちたって「あちゃー」と自己責任で終わるからプレッシャーもない。
検定で〇級受かったと母にいうと「まだその級なの」とバカにしてくる。そんなもんだ。
勉強以外では仲良くしている。受験も就活も終わったからか母は丸くなった。怒らなくなったが、勉強の話になるとこんな感じだ。
社会人の今は帰りに図書館に寄って気象の勉強をしている。今度は地震の勉強でもしようと思う。
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カンニングしたというニュースを見るとカンニングをした子が心配になる。ニュースだから家庭環境は知る由もないけど、気になってしまう。カンニングをしてバレてしまい、退学、そして親から怒られるのだろう。思春期に親から怒られるあの形容しがたい恐怖と不安は自死すら考えてしまうだろう。詳細は分からないが、「この子がカンニングした理由が私と同じならかわいそうだな」と思う。カンニングは悪いことだ。悪いことだという大前提での話だ。金銭の取引をしているようなカンニングは知らん。
ましてやカンニングで責められて自殺、親が学校を訴えるなんて察するものがある。なんで子供がカンニングしたのか親はわかっているのだろうか。(処分の内容は一旦置いといて)
出来心だったとしても何でカンニングという行為をしてしまったのか。いじめとか、学校側がカンニングを仕向けて嵌めたのなら訴えるのはわかるが、そうでないのなら親がどんな思想で訴えたのか、何となくわかってしまう。子供の心情を察する。
定期的に話題に上がる教育虐待を受けて親を殺してしまった女性までは酷くないとはして、テストの点数によって怒鳴られ・責められる子はたくさんいるのだろう。バレていないだけでカンニングをしている子もいるだろう。
それを思うだけで辛くなる。私も反抗期がこなかったらカンニングを続けていたかもしれない。親に逆らえない性格だったらと思う事がある。勉強以外を認めてくれる人に出会わなかったらどうなっていたか。父、祖母や兄弟も私を勉強でいじめはしなかったという家庭環境も助かったと思う。
カンニングをする子は本人の意識の問題もあるかもしれないが、環境も強い気がする。カンニングが悪だとはわかっているが、少しでも点数を良くしないといけない事情がどこかにあるのではないかと思ってしまう。私はモラル<親の優先順位になっていた。悪だと思ってもやらなければいけない。そんな環境があるのだろう。
点数を気にしない人と出会うしかない。そんな環境にしないと抜け出せない。どうにかしてその環境から逃げ道を見つけてほしいと思う。カンニングをしてしまった事実を消すことはできないが、その子がカンニングを続けないという選択肢を選べる環境になってくれ。そう願うばかりだ。
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カンニングした人、ごめんなさい。カンニングした私は最低です。カンニングだと気が付かずに点数を付けてくれた先生たち、ごめんなさい。
今は勉強をすることが苦ではないです。大学に入ってから勉強が楽しくて仕方が無いです。だから昔の分、大学生から今まで勉強しています。カンニングなんて、ニュースを見なかったら思い出さないくらいには存在を忘れています。今は勉強が楽しいです。自由に、好きに、勉強できるのが楽しいです。
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2 ネクタイもピンもダイソーで買いまくって職場に保存しておけ
3 変な糸が出てきたらダイソーで新しいのを買え
以上だ。
99点とかは一切狙わずに如何にして85点ラインをいつだって維持できるようにするかだけ考えれば良い。
安定志向で勝負し続けて他のやつがギャンブル失敗したりケアレスかましたタイミングで差をつければ良いねん。
投資だってダラダラ握り続けるのが最強だし、起業するにしたって基本的にはダラダラ長生きして気付いたら他の奴が討ち死にしてたせいで急に伸びるパターンが多いねん。
ぶっちゃけこの世界は「答案用紙に名前書いて選択問題を3・2・3・2・3・2でひとまず埋めてから問題に取り組む」みたいなダセー姿勢で挑めるかが試され続けるんや。
余計なプライド捨ててダイソーのネクタイとピンをロッカーに溜め込んで「お気に入りのネクタイ忘れた!客先にノーネクタイはまずいぞ!」みたいにならんようにするねんまずは。
地固めを雑に終えるのだけをまずは考えてけばいいねん。
赤ちゃん用のせんべいみたいな長方形で、くちどけさっくりのせんべいに和三盆の混じるきな粉をまとわせたやつ
口に入れると上品なきな粉の味がして、せんべいがホロっと崩れ、あらもうなくなっちゃったからもう一枚食うかで、1袋消費してしまうやつが好きだ
母ちゃんが菓子盆に適当に盛ってたものを何の気なしに包装を破り、ハードルが下がり切ったところで初めて口に放って、美味くないか?と思ったときの衝撃をまだ覚えている
ただ昔は和三盆使用と謡っていた気がするがいつの間にか50%使用の表示になっている
表示上の問題で中身は変わってないのか、コスト面の問題で明確に材料比率が変わったのか知らんが、100%にしてくれ
あんなにも明確に50%使用と書いてあると、こいつはまだ50%分美味くなれるのではと感じちまう
岩塚製菓のきなこ餅の100%の力を味わってみたいんだ、頼む
あと岩塚製菓のきなこ餅の話をしていると、「越後製菓のきなこ餅の方が…」とかいうやつはマジ面倒くさい
たけのこの里VSきのこの山みたいな対立構図の線の面白トークにもっていこうとするな
越後製菓のやつを食ったことないわけでなくて、岩塚製菓の方が好きなの
それでいて越後製菓の方しか食ってないくせに、「でも越後製菓の方が」とか論争しかけてくるやつは今後一生答案用紙に「越後製菓」って書いてろ
大体においてQ(Quesiton)に対してまともなアンサーを返さないんだよね。
テストの問題に対し「出題者は馬鹿だから答える必要なんてねーよw」と答案用紙に書いて提出するイキったガキと同じ。
勿論一般的な社会では通用しない筈なんだけど、「声が大きいヤツが騒いでると周りが逃げて声が大きいヤツだけが残る」
という社会のバグ技を使って、今まで相手をネトウヨだのオタクだのデッドネーミングして貶めて質問・批判の意見自体をシャットアウトしてきた訳だ。
今回もすっかり暇アノン連呼で、Colaboへの疑問=アノンカルトの言う事だから聞く価値ありませ~んって態度を示している。
論理的にとか言わないけど、せめてQに対しては何らかのAを返して貰わないと困るよね。
これは私が実際に見た状況を模した例え話である。
中には、友人同士で結果について語り合う者もいる。
その中の1人、お調子者のAは周りの仲間にこう言った。
「やっべー、赤点ギリギリだったわ。てかこの問題の答えって2番?」
その声は大きく、クラス全体に聞こえるほどだった。
クラスの片隅で話を聞いたぼっちのBは、小声でぼそっとつぶやいた。
「そんなのもわかんねーのかよ。1番だよ、馬鹿じゃねーの」
Bの声は当然Aに届くこともなく、Aは気付かずに仲間と談笑を続けている。
Bのとなりの席に座っていたCである。
Cはサッカー部のエースであり、クラスでもカースト上位の人気者、教師からの信頼も厚い。
当然Aとも親交がある。
Bの声を耳にしたCは、周りにも聞こえる声でBに意見した。
「なぁB、Bは確かに勉強が得意で、Bにとっては簡単な問題なのかもしれないけどさ、だからって他の人に対して『馬鹿』ってのは言い過ぎじゃないのか?」
一拍おいてCは続ける。
「確かに正しいのはBかもしれないけどさ、言っていいことと悪いことってものがあるだろ?相手の気持ちも考えようぜ?」
言われたBは黙ってCを見つめ、何も言い返さない。
Cはさらに続ける。
「俺、何か間違ったこと言ってるか?反応してくれないとわからないよ」
様子を見た周りのクラスメイトは口々に話し合う。
「Bって勉強はできるけどそういうところあるよね」
「何も言い返さないってことはCの言う通りなんだね」
「Cってやっぱりいいやつだよな」
「Cは正義感強いなぁ!」
例え話はここまでである。
これを読んだあなたは、何を感じただろうか。
確かに、陰口をつぶやいたBは糾弾されても仕方ないのかもしれない。
Cが本当に「いいやつ」ならば、ここでBを糾弾する必要があっただろうか?
本当に正義感からBの言動を正したいだけなのであれば、周りには聞こえないように小声でBに指摘をすることもできたはずだ。
テスト返しが終わった後の休み時間にBと1対1で話し合ってもいいだろう。
だがCはそうしなかった。
クラスメイトに囲まれた教室の中という圧倒的に自分が優位な状況で。
わざわざ周りに聞こえるような声で。
答案用紙無くして騒ぎなったの思い出した
やたら100点取る息子 そのカラクリに「自己肯定感上がりそう!」 優しさがにじみ出る「採点システム」
100点をたくさん取るようになった息子。そのカラクリとは…=太陽とケイコムーンさん提供
「3年生になって、息子はやたら100点を取ってくるようになった」。そうつづられたツイートに注目が集まりました。ただ、100点にはちょっとしたカラクリが。投稿した母親に話を聞きました。(withnews編集部・河原夏季)
【画像】100点のカラクリとは?話題のツイートはコチラ 息子がテストに描いたネコの絵にも反応が!
答案を見て気付いたことは
話題になったのは、太陽とケイコムーンさん(@amazakeiko)が4月21日に投稿したツイートです。
100点を量産する息子。しかし、答案用紙には何ヶ所か赤ペンの跡が。よくよく見てみると、あることに気付きました。
それは、「はじめに返すときには点数を書かず、全部直し終わったら100点と書いてくれる」採点システムです。
ツイートには「点数でなく学びを100点にしていくんですね!」「これは良いアイデア!」「自己肯定感上がりそうですね!」といったコメントが寄せられ、「いいね」は4.5万を超えました。
学校が始まって2週間…あれ?
太陽とケイコムーンさんが息子の100点に気付いたのは、3年生になり2週間ほどが経ってからのことです。国語のテストが100点で、その後、算数も100点ばかり取ってくる状況に「あれ?」となりました。
当初は「学期の初めなので簡単なテストばかりなのかな」と思っていましたが、新しい担任の採点システムに気がついたときは「優しい先生なんだなあと思いました」。
1年生の時はよく100点を取っていた息子も、2年生になって担任が変わると採点基準が厳しくなり、数字の書き方や漢字の止めはねなどで減点されていたそうです。
時々ランドセルのサイドポケットの奥から、「限界まで小さく」たたんだ答案を見つけることもありました。
「正直ちょっと答案を開くのが怖かったです。ああ隠したかったのかーと思いました」と笑う太陽とケイコムーンさん。息子は、「見えないようにして、なかったことにしたかった」と話したそうです。
ほとんどは70点前後で、算数の文章問題やきれいに書くことが難しい漢字などが苦手のようでした。
ただ、必ずしも厳しい採点が悪いとも思いません。
「『こんなに厳しく採点するのは2年生までです。いまは基礎を固めるときなので、細部もチェックします』と個人面談の際におっしゃっていました。この先生のおかげで、息子は字をきれいに書けるようになり、硬筆の書き初めで賞をもらえました」
「まーた100点でーす!」
3年生になって100点を取れるようになり、息子はまたテストの結果を見せてくれるようになりました。
「まーた100点でーす!」とふざけることもあるそうです。
回答に時間がかかっていた宿題にも変化がありました。「すらすらっと簡単にやっているように見受けられます。緊張感が解けたような感じです」
とあることをきっかけに、母とは事務的な会話しかしなくなった。
お迎えの時間、他のお友達は皆が母親に抱き上げられたり手をつないで楽しそうに帰っていく中で、わたしはいつも黙って母の後をついていくだけだった。
幼稚園であった沢山のことを母に聞いてほしくてずっと母の後頭部を見つめていたが、母が振り返ることはなかった。
何も会話がないままに、母は黙々とわたしの世話を繰り返した。
だから身の回りのことは言われるよりも先にやったし、怒らせないように何でも完璧にやろうとした。
ある日、母が起こしに来る前に自分で目覚めて身支度を始めてみた。
絶対に褒められる自信があったが、母はわたしの存在を確認すると何も言わずに振り返って自分の身支度を始めた。
父はわたしのことをこれでもかとかわいがったが、忙しいせいか家にいることはほとんどなかった。
母のことを相談しようとしたことがなかったわけではないが、わたしが眠っているときに普段の父からは想像ができないような剣幕で母に怒鳴りつけている姿を見てしまったことがあり、それを思い出すと躊躇してしまった。
泣きながら謝る母を前に怒りが収まらない様子で手当たりしだいにものを投げつける父の姿は、鬼にでも乗り移られてしまったかのように恐ろしく、心の深いところに爪痕になって残った。
小学校に上がっても、やはり母に褒められるようにと学校のことは何でも頑張った。
幼稚園では人と比べられることは少なかったが、これならわたしは誰よりも優れていることが証明できる。
いくら母だって認めざるを得ないだろう。今までで一番ワクワクした気持ちで家に帰った。
そして溢れんばかりの笑顔でこれまでにないテンションで両手に持った満点の答案用紙を母の前に広げて見せた。
その瞬間母は、まるで道端に轢かれた小動物を見るような目でわたしを見て、声を上げてえづき出した。
しばらくして呼吸が落ち着いてきた母が、喉のそこから絞り出すような声で一言「あてつけか?」と言った。
何のことかさっぱりわからないわたしは、黙って立っていることしかできなかった。
「あてつけなのか!私が母親としてあんたに接せられないことに対するあてつけなのか!」
「わたしはあんたが嫌いだ。でも、死なれたら困るから世話を続けてきた。頼むから余計なことはしないでくれ。あんたが嬉しそうに近づいてくる度に、わたしは胸が苦しくなって死にそうになる。」
現実にまったくついていけていない自分を、視界のずっと奥から見つめているような不思議な感覚だった。
わたしというかわいそうな子を別のわたしになって頭の中から覗いているような感覚で、わたしというかわいそうな子が表情も変えずに立ちすくんだままただひたすらに涙を流している様子を、別のわたしとして頭の中からずっと眺め続けていた。
母が原因で涙を流したのは、今まで生きてきた中ではこれが最初で最後だった。
この日を堺に、わたしは母が嫌いになった。
わたしを嫌いだという母を、どうしたって好きになることはできなかった。
母が理由で道を踏み外すことも違うと思ったわたしは、思春期に湧き上がる特有の苛立ちも、母に見下されたくないという理由で自力でねじ伏せた。
母を見返したいという気持ちはなかった。
ただ、趣味や習い事に時間を使うことで、母よりも劣っていると思われることだけは嫌だった。
その結果、自分に残されていたのは誰のためでもなく黙々と勉強を続けることだけだった。
母はわたしに無関心な代わりに、わたしが持っていくお願いについては基本的に何でも聞き入れてくれた。
そうはいっても父の金であるが、予備校も受験費用も私立の学費も、渋られたことは一度もなかったおかげで、割と良い大学まで進むことができた。
大学に入ったら家を出る。
忘れることが許すことなのかも知れない。母の顔にモヤがかかるように記憶から薄れていくのと同時に母からの呪縛から解き放たれるような気がした。
年に数回、父からの連絡があるついでに思い出す以外、母のことは考えなくなった。
そんなわたしも、人並みに恋をして結婚してもいいと思える人に出会った。
しかし、そう思えたと同時に、突然心の底の方から恐怖が湧き上がってきた。
「もし娘が生まれたときに、わたしは母と違って娘を愛することができるのだろうか。」
その瞬間わたしは、あのとき頭の奥に押し込んだわたしに、再び覗き込まれているような感覚に陥った。
そんな目で見ないでくれ。
わたしだって嫌われたくて嫌われたわけではないのだから、嫌いたくて嫌うのではないかも知れないなじゃないか。
そのことを彼には相談できないでいた。それが理由で手に入れた幸せを手放さなくてはならなくなることが怖くて仕方なかったからだ。
その日からというもの、わたしはいつも頭の奥からわたしに覗かれているような感覚が消えなくなった。
不安を抱えながらも、話は順調に進んでいった。
実家への挨拶をどうしようかと父に連絡をしてみると、わたしが聞くより先に父が一人で東京に出てくると言い出してくれた。
母は今どうしているのか聞こうとも思ったが、父からも何も母の話がでない中で切り出せないままに会話は終わった。
もともと友達の少ないことを理由に親を呼ばずに数人の友達と二人だけでの挙式をしたいと彼に願い出た。
普段からこだわりのない彼は特に抵抗もなく、わたしにすべてを任せてくれた。
妊娠がわかったのは挙式の少し前だった。
その嬉しさが、今までの人生の苦しみから、ほんの少しだけ開放してくれた気がした。
相変わらず不安は大きく残っている。でも、少しでも嬉しさを実感できたことは自分にとって大きな救いになった。
式も滞り無く終わり、写真を持って彼の両親に報告に行ったときに、あわせて妊娠を報告した。
お義父さんは無神経に「絶対に男で頼む!」などと要らぬプレッシャーをかけて来たが、わたしも内心男の子を生みたいと思っていた。
娘だとわかったときに、妊娠した嬉しさごと消えてしまう恐怖が、まだ心の底の方にあったからだ。
産婦人科医も最近では聞かれるまで性別を答えないらしく、知るための選択権はわたし一人に委ねられていた。
いよいよお腹も大きくなって、もう準備を始めないと間に合わないという段階になって、意を決して聞くことにした。
断定はできないと前置きされた上で、「おそらく女の子ですね」と言われた。
心臓が大きく一度どくんと脈を打った。
喉の乾きを感じたが、うまくつばを飲み込めずに喉の入り口に痛みが走った。
遠のきそうになる意識の中で、必死の思いでお腹に手を当ててみる。
涙が溢れた。
大丈夫。わたしはこの子を愛することができる。心からそう思えた。
突然の涙に驚いたのか、何かを言おうとして喉をつまらせている夫がいた。
やがて涙目になって抱きしめてきた。わたしの気持ちも知らないで声を上げて泣き始めた夫を見て、少し冷静さを取り戻した。
後で聞いたところ、夫は娘が欲しくてたまらなかったらしい。
それが言い出せないままここまできて、わたしが嬉しそうに泣いているのをみて堪えられなくなってしまったそうだ。
彼も彼で抱えているものがあったのだ。そう思うとおかしくなってきて、バツの悪そうな彼を前に大きな声で笑ってしまった。
「そんな大きな声で笑うことがあったんだね」
驚きと喜びが混じったような不思議そうな彼の顔がおかしくて、さらに大きな声で笑いだしてしまった。
その瞬間、まさに雷に打たれたかのように、わたしは自分が母を許せたかのように思えた。
母は、何も自分から好き好んでわたしを嫌っていたのではないのかも知れない。
母がわたしを好きになる努力をしたかどうかはわからないけど、好きになれなかった自分を誰よりも責めていたのは母本人かも知れない。そう思えたのだ。
好きも嫌いも、自分の意思でありながら、自分ではどうすることもできないときがある。
わたしはたまたま自分の娘に愛情を感じることができただけで、それが当たり前かどうかなんて誰にも決めることはできないはずだ。
それならば、わたしはわたしが嫌いだという理由だけで、母を嫌う必要はなかったのではないか。
わたしを嫌いだという母を、そのままの姿で受け入れることだってできたはずではないか。
これは決して同情ではなく、そして、娘を愛することができた自分からの優越感でもない。
あのときの自分がそれに気がつけなかったことを責めるつもりはない。
今、わたしはそれに気づくことができて、許すことができた。ただそれだけの話だ。
わたしは、わたしを嫌いだと言った母を嫌いと思った日から、母を嫌ってしまったわたしを許せていなかったのだ。
娘を嫌う母以上に、母を嫌う娘が許せなかった。嫌われていることを言い訳に、嫌うことを正当化する自分が、誰よりも許せていなかったのだ。
もちろん嫌わないに越したことはない。
でも、何かの手違いや神のいたずらで嫌ってしまう可能性がゼロではない以上、それが許されない世の中ではあまりにも窮屈だ。
それと同時に、母から嫌われてしまった子供が不幸だなんて、誰一人として決めつけることはできないはずだ。
この日を堺に、わたしはわたしを嫌いである母とも、普通に接することができるようになった。
久々に見た母はただただ老けていた。でも、命あるうちに気がつくことができてよかった。
孫娘を抱く母の顔は、わたしが一度も見ることのなかった嬉しそうな顔をしていた。
その顔を見たとき、頭の奥から覗き込んでいるわたしと、今ここに立っているわたしが一緒になれたような気がした。
母を許せたことで母が許されたことを実感できたと同時に、自分自信も許されたような気がしたのだ。
何かを許さないということは、その何かから許されないことと同じなのだろう。
普通に起きて普通に電車に乗って普通に会場まで行く。流石に最寄り駅の路線では受験生っぽい面々がチラチラいたけど、そこまで混雑してもいなかった。
受験会場最寄り駅では受験生に向けて伊藤塾や辰巳のスタッフがパンフレットとか配りまくってるんだけど、今年は伊藤も辰巳も帰りのタイミングですらいなくて、法科大学院のパンフレットを配ってるグループしかいなかった。
会場は某大学だったんだけど、大学の敷地に入るタイミングで受験票の提示を求められた。大学内で売店的なのは当然やっていないので何か食べ物飲み物を購入するときは敷地外のコンビニに行かされるんだけど、敷地を出入りするときは受験票の提示を都度求められた。試験が終わって毎回、大学敷地の外に出るときは受験票を持たないと戻れませんという旨を試験監督員が説明してた。セキュリティ対策なんだろうけど、おそらく去年の司法試験ナンパ事件の影響だろう。
試験開始15分前には毎回試験に当たっての注意事項を説明するのだけれど、相変わらずちょっと高圧的な物言いで同じことを何回も繰り返すので、なんか怒られてるみたいで聞いててちょっとしんどい。
アドリブを交えて気の利いたことを言ってくれてもいいのになって思うんだけど、慣れない人が下手にアドリブ入れると本来の説明がわけわかんなくなるので、そこら辺は致し方ないのだろう。それにしたってもうちょっと柔らかい言い方で説明してくれたらいいのにって思うんだけどね。聞いた話によると彼らは別に公務員でもなんでもなくどこかの派遣会社から臨時で雇われた人たちらしいけど、実際は知らない。試験監督員って書いてる名札を首から下げているので試験監督員かどうかは一応識別できるけど、これ試験監督員がなりすましだったらどうするんだろう。全く同じ説明を都合4回も繰り返すだけだったら、髪色明るめ肌色黒めネイルマシマシの綺麗なお姉ちゃんに注意事項を説明してもらえる方がいいな。
去年と同じように、受験生はフェイスガードと手袋をつけることが許されているんだけど、誰もフェイスガードも手袋もしてなかった。机上にハンカチ、ウェットティッシュ、消毒液を置くのは許されているけどカバンを地面に置かないといけないのが嫌なので新聞紙やシートを持参した方がいいだろう。ゴミ袋もあった方がいいと思う。
去年は1、2割ほど欠席してたけど、今年は2、3割ほど欠席してるイメージで、去年より欠席者数が多い気がした。あと心なしか若い人が少ない気がした。そりゃ緊急事態宣言中なので、大学生で記念に受験したい人とかはちょっと遠慮しちゃうかもね。
席については、大学の講義室で数メートル5人がけの講義受けるあのテーブルで2人座る列と1人だけ座る列が交互だった。一応1メートルちょっとくらいなら距離は保ててたと思う。休んでる人も少なくなかったから、ある程度距離はあった。
特にないです。盛大に声を出してあくびをするオッサンが同じ部屋にいてイラッとしたけど、最後の方は流石に試験監督員に注意されたのかあくびの声がちょっと省エネになってた。
過去にやらかした人がいるからだろう、カンニング対策で試験室内での電子機器の使用が禁止されてる。なので試験室の中ではスマホの電源を常時オフにしないといけない。
でもこれ去年もなんだけど、試験が終わって部屋を退出するときはコロナ対策で部屋ごと別々に退出するんだけど、全部の試験が終わって答案用紙も回収されてあとは部屋を退出するだけ、っていうタイミングですら携帯電話を使わせてもらえないのよ。だからこの待ち時間がすごい虚無なんだよね。我々は今この時間何をして待てばいいのか?ちょっと困惑しながら今後のことを考えていた。今回は割とすんなり部屋から出れたけど、まあまあの人数が行列をなして密集してたから結局三密対策できてなかったし。
宇都宮さんはオリパラ中止を訴えるよりも予備試験司法試験延期を訴えた方が効果的だったんじゃないかなって思うんだけど、試験関係についてはなんのコメントもなかったので、つまりそういうことなんだろうなって思った。
講師の解説とか見ると答案用紙or問題用紙の横に補足みたいな感じで書いてるけどあれなら忘れないのだろうか
B/SとかP/L作成問題で、決算整理前T/Bが与えられてるのに未処理事項と決算整理事項だけで見て、決算整理前T/Bの数字から足し引き忘るのをなんとか無くしたいのだが一箇所は足し引き忘れて回答が違う
商業簿記は1箇所違う程度なら最大でも4点引かれるぐらいだからいいけど、工業簿記でやらかすと芋づる式に引かれるから絶対やっちゃダメって分かってるけど
間違える度に溜息出るし、間違えた部分の要点だけまとめたノート作ってるんだがケアレスミスが圧倒的に目立つ
問題解いてる時に気づくならいいけど大抵は採点してる時に気づくんだよなぁ…。見直ししても見逃す
解き方は分かるし工業簿記なら勘定連絡図とか直材、直労、製間の区別は頭に入ってるから大丈夫なのに
肝心の製造間接費を集計する時に集計漏れとか起こるんだよなぁ。なんかいい対策ないかな
過去問解いてる分には1時間ちょっとで解き終わる回もあるから見直す時間あるんだけど、この前の本番は見直してる時間なかったんだよなぁ…
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
センター試験で不正行為があっただとか試験時間が短かっただのというニュースを見て、大学在学中に試験官バイトをしていた頃を思い出したので色々書いてみようと思った。
当時は某私立大の大学生で、夏だったか秋だったか、学内掲示板に試験官(正確には試験監督補佐)バイトを募集している旨の張り紙があったので興味本位で応募した。
センター試験監督と自身が在学している私大一般入試の試験官バイトどちらも応募できたが、個人的な都合もあり一般入試のみ応募。
試験当日の朝は試験中、試験前後の動きだとかを細かく説明され、試験開始数十分程度前に待機所から教室へ移動。問題用紙・解答用紙を配布して試験開始時間を待ち、開始時間・終了時間になれば試験監督が合図をして、終了後にまた問題用紙・解答用紙を回収して撤収。このルーティンを何回か繰り返すだけの非常に楽なバイトだった。
確か数学の試験の時間だったと思うが、明らかにカンニング行為をしている受験者がいた。試験会場は広さにもよるが試験監督(大学の場合は大体教授だとか准教だとか)と大学職員やバイトの試験監督補佐が数名程度。自分が配置された教室は試験官(補佐含め)4人程度だった。
試験が始まり教室前方の端の椅子に座り試験会場を見渡していたり、音を立てぬようにゆっくり歩いたりしてカンニング行為をしていないか見回ったりしていたのだが、事件が起きたのは開始から十分程度あと、教室前方の椅子に座っている時。比較的前方に座っていた受験生が随分と挙動不審な動きをしているのに気が付いた時。顔は伏せながらも明らかに自身の問題用紙に目を向けず、左右に顔を傾けまくっている受験者がいた。当然最初は緊張をほぐすためちょっと首を動かしている程度なんだろうなと思っていたが、かなりの頻度で首を振っている。最終的には近隣の受験者で最も近い左側ばかりを向く(目を向ける)ようになっていた。
試験官自体初めての経験でありなおかつ補佐程度の役割なので特段の権限はないが、あれは不正行為だろう…と判断したため、別の試験監督(補佐)にメモと耳打ちで状況を説明してその方にも確認してもらった。その方の判断も黒。しかし問題なのは、その受験生の行為が絶対に意図した不正行為であるという確証が無いという点。
先述の通り緊張をほぐすために首を振っていただとか、もしくは体調だとか身体的特徴の影響からうっかり左側ばかり見ていただとかの可能性も0ではない(※まぁ今でもあれは隣の受験者の答案用紙見ようとしていたんだろうと思う)。
そこからは教室中の試験官全員に異様な緊張感が走り始めてた。教室の前方真ん中に座っている試験監督も受験者名簿(顔写真付き)を見て当該の生徒について確認したり、試験監督内で決めていた不正行為対策のための見回りのルーティンもぶち壊して、カンニング行為を働いているであろう受験者をなるべく悟られないように常時監視したり。一般入試特有の試験途中退出(休み時間の間に他大の合格が分かり現在受けている大学の試験を放棄してそのまま帰宅する人)だとか、そもそも出席していない欠席者分の解答用紙に欠席の手続きをするのも試験官の仕事。自分が担当していた試験会場では試験官全員が欠席手続きをする(解答用紙に受験者名や受験番号を記入して用紙全体に"欠"と記入する)のだが、今回は緊急で試験監督補佐を一人、例の受験者をメインで監視する目的で欠席手続きの役割から外された。その外された人物が私だった。
結論から申し上げると、その生徒はカンニング行為をしていたと認められなかった。認められなかったというより、カンニング行為をしていたという絶対的な確証がないため認めることができなかった。
後ほど聞いた話では、その教室にいた試験監督も試験監督補佐たちも、全員あれは恐らくカンニング行為であったという認識であった。だが、確証はない。ただ首を振っていただとか、隣の解答用紙なんて見ておらず全く別のところを見ていただとかと言い訳をされてしまえば正直それまでである。電源の点いたスマートフォンを使っていただとかカンニングペーパーを持ち込んでいたなど物的証拠があれば一発アウトなのだが、"近隣受験者の回答を覗いていた"という行為に関しては、カンニングをしていたという絶対的な証拠が残らない。いざあの受験者を不正行為として取り上げていたとして、もしも本当に不正行為を働いていなかった場合、試験監督は取り返しのつかない行為をしてしまったことになる。下手したら受験者の一生を左右する行為にもなりかねない行為である。かといって目の前で行われていた不正行為に目を背けてよいのかという正義感にも苛まれつつ、試験時間が終了して、いつも通り問題用紙・解答用紙を回収して撤収した。
今でも当時の判断、試験監督に件の受験者がカンニングを行っているので不正行為のため退出させるべきだと進言するべきか否かという相談をしなかったことが正しかったのか、正しくなかったのか分からない。ただ先述した通り、試験監督も受験者のカンニング行為については試験時間中に認識していた。それでも監督は実質黙認していた。当然試験監督も、"もしも不正行為ではなかった場合"を想定していたのだと思う。その結果試験官全員が、受験者がカンニングをしているのを認識しつつも黙認してしまうという空間が生まれてしまった。
ちなみにその受験生は残り時間30分程度になるとカンニング行為をパタリとやめてしまった。試験官が怪しんでいることに気づいたの、はたまた解答が終了したのかは定かではないが…。
センター試験も終わってこれから一般入試も始まると思うが、受験生にお願いしたい。頼むからカンニング行為はしないで欲しい。行為をしている本人も精神をすり減らすだろうし、それ以上に試験官も精神をすり減らしてしまう。最悪の場合お互い最悪の結末を迎えてしまいかねない。不正行為は一切せず、自身の実力を全力でぶつけた真剣勝負でお願いします…。
「コミュ障が婚活マッチングアプリで出会い別れるまでの一部始終」(anond:20190106214218)という日記を書いた者です。
前回の日記を通じて、自分の経験を文章に落とす作業をしている間はすごく気分が晴れるということに、生まれて初めて気づきました。文章を褒めてくださる方もいらっしゃったので、調子に乗ってもう1本、投稿してみます(読み手を選ぶ内容なので、さほどブックマークはつかないと思いますが)。また、前回の日記では、あたかも僕が恋愛経験・コミュニケーション能力以外の点において完全なる真人間であるかのような印象を与えてしまったので、ちょっと彼女に対してアンフェアだったな、という懺悔の思いもあります。
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僕が中学生・高校生時代に、人生で初めて好きになった方の話をしたいと思います。
僕が通っていたのは、中高一貫の男子校でした。所謂進学校で、有名大学進学率がKPIになっている、勉学を重んじる厳しい校風でした。
中学校の登校初日。入学式を終えた新入生は、疲れた足取りで初めて行く自分の教室へ向かっていました。殆どの生徒はお互い初対面なので、会話もまばらでした。1人で居ても目立たなくて良いな、ずっとこのままなら良いのに、などと思いながら、僕は人の波から少し外れたところを歩いていました。
廊下の角を曲がった時、僕は斜め前を歩いていた同級生の1人に気づきました。サラサラなストレートの髪に、小さな顔、大きな瞳、長い睫毛。人生で見たことのある誰よりも格好良い男の子が、そこには居ました。
これが、一目惚れか、と、冷静に思ったのを、はっきりと覚えています。
彼と僕は同じクラスでした。彼は、才色兼備な人でした。文武両道で、サッカーが趣味。優しい性格で、愛嬌があり、話は面白く、友人も多い。笑顔がキラキラしていて、王子様のように見えました。過去を美化し過ぎだと言われるかもしれませんが、アイドルグループに所属していてもおかしくなかったと思います。クラスで文化祭に出店した、大して美味しくない割高なタコ焼きも、彼が声を掛けた女子学生は全員買ってくれました。
僕は、絶対に彼には自分の心の内を明かさない、と決めていました。傷つくのが怖かったのもありますが、彼の人生劇場の登場人物として、僕はあまりに分不相応だと思ったからです。僕は、彼が僕を抱きしめ、名前を呼びながら優しく髪を撫でてくれることを想像し、時に嗚咽しながら床に就きました。僕の人生は泣いてばかりです。今思えば、この時の涙の理由も自己憐憫でした。努力を放棄し、自分で自分のことを追い詰め、思考停止して悲劇のヒロインを気取り、自身を慰めて、精神的な安寧を得るのが日課になりました。幸せと虚しさが入り混じった複雑な気持ちで、彼と時空間を共有できない夜をやり過ごすことしか、できませんでした。
僕は「好きな人の好きなものを好きになる」タイプでした。彼があるアイドルのファンだと聞けば、プロフィールを暗記し、出演するテレビ番組を観ました。彼がよく口ずさんでいた洋楽アーティストのCDは全部借りて聴き、歌詞まで覚えました。そうして仕入れた話題で彼に話しかける勇気もないのに、です。
ある日僕は、彼と彼の友達が教室の窓辺で繰り広げる雑談に聞き耳を立てていました。彼は、塾で出来た初めての彼女とファストファッション店に行き、お揃いのトレーナーを買ったと、少し恥ずかしそうに、しかしとても楽しそうに話していました。僕は彼に彼女ができていたことさえ知りませんでした。完全に狼狽しました。彼は彼女のことが好きで、僕が知ることのできない存在であるその彼女は、僕の見たことのない彼の表情を知っているのです。結局、その日は何もやる気が起きず、トイレに籠って残りの授業をサボってしまいました。泣き腫らした顔を誰にも見られたくなくて、放課後、日が沈んだ頃に個室を後にしました。親には怒られましたが、何も言えませんでした。
でも、サボってばかりいたわけではありません。むしろ勉強には必死で取り組んでいました。彼と同じクラスになるためです。入れ替わりの激しい特進クラスを6年間ずっとキープし続けたのは、とうとう彼と僕だけでした。彼は文系コース、僕は理系コースでした。本当は彼と同じコースに進みたい気持ちもありましたが、無理して高い授業料を払ってくれている両親の顔を思い浮かべると、人生を棒に振る可能性のある決断をする勇気は出ませんでした。それでも、少しでも多く彼と同じ空気を吸っていたくて、受験に必要のない文系科目まで、教頭に頼み込んで時間割の許す限り履修していました。ただ、残念ながら僕の学力は彼に遠く及ばず、別の大学に通うことになるのは自明でした。最終学年になって勉強のモチベーションを失った僕の成績は、急に翼を失った鳥のように落ちてゆきました。教師全員にひどく心配されたのを良く覚えています。
高校3年の1学期の席替えで、僕の席が彼の後ろになりました。夏休みまでのたった数ヶ月だけですが、世界中の誰よりも彼と一番物理的に近い場所を占有できる喜びで、胸がいっぱいになりました。居眠りの振りをして机に突っ伏し、いつの間にか仄かに甘い香りを纏うようになっていた彼の背中に近づきました。息をするたびに、彼と一体化してゆくような、幸せな気持ちが溢れました。放課後、憶えた匂いだけを頼りに、彼と同じ香水を探しました。塾を休んで、お店を何軒も梯子しましたが、結局見つけることはできませんでした。
ある授業の小テストで、僕が酷い点数を取ったことがありました。回収の号令が掛かり、自己採点した答案用紙を、前の席に座る彼に恥ずかしそうな顔で差し出すと、彼は僕の眼を見て「可愛い」、と言いながら、優しい笑顔で受け取ってくれました。どういう意味を持つ言葉なのか、しばらく理解できませんでした。その声色は、今でも耳にこびり付いています。辛いことがあった時に、何度も、何度も心の中で反芻して、その度に涙を流し、頬から耳まで真っ赤に染めました。
彼が僕の気持ちに気づいていたのかどうかは、卒業するまで、ついに分かりませんでした。
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この日記は、彼の好きだったEric Claptonを聴きながら書きました(この日記では固有名詞を一切出さないという自分縛りがあったのですが、これだけ例外にさせてください)。自分の中で強く記憶に残っているエピソードを集めてみたのですが、結果として完全なる狂気という印象になってしまいました。常にこのような変態行為に走っていたわけではないことだけ、申し開きをさせてください。この時期にできた数少ない友人の一人とは、年に一度、母校の文化祭に行く間柄を保っています。
彼とは、高校卒業以来、一度も会っていません。大学に進学すると、僕は別に男性が好きだったわけではないのだということに気づきました。ただ、6年間、彼という重いアイロンを掛け続けた心の折り目はなかなか消えず、随分とひねくれたまま大学生活を送ってしまいました。
客観的に読み返すと、僕は本来的には恋愛依存体質で入れ込みやすいタイプなのかな、と思いました。これをコントロールできるようにしないと婚活中に精神を病みそうですね。
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この日記をどうしても書きたくなったもう一つの理由は、前の日記の「彼女」が、3次元ボーイズラブ小説の執筆をこよなく愛していたからです。彼女は、本当に親しい人にしか言えない秘密だと言って、4度目のデートで僕にその趣味を打ち明けてくれました。彼女に僕の経験を伝える機会はついにありませんでしたが、あの時僕が彼女の良き理解者として振舞えたのは、中高時代の彼との思い出があったからこそでした。
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ブックマークコメントを読ませていただきました。「まともな人かと思ったらヤバい奴だった」みたいなことを云われるのではないかと心配していたのですが、杞憂でした。お薦めしていただいた漫画も面白そうなので読んでみようと思います。あと、「明治の文豪が書きそう」とあって笑ってしまいました。読書量の少ない人間がそれらしく文章を書こうとすると、学生時代に読んだ著名な本にしか影響されていないことが透けて見えてしまうものですね。僕は「こころ」が好きでした。この日記が遺書にならないよう精進します。