はてなキーワード: 漠然とは
仕事つらい系の話に「残業80時間は少ない」みたいなコメントがつく
書く側も残業何時間を超えているみたいな書き方をしちゃうところに
「これ一般的に多いですよね僕つらい気持ちになっていいんですよね」みたいなのを感じる
「40時間しか残業ついてないから、つらいって思っちゃだめなのかな」って萎縮して声が小さくなって
「残業100時間超えたけど仕事ってこういうものだから仕方ない」みたいな声ばかり大きくなったら
なんだかそっちがスタンダードで正しくて一般的で社会人になるにはそういうレベルで働かなきゃいけないし働いて当然みたいな感じになるじゃない
そんな生活とても無理な自分はもう就職したらいけない社会のゴミで死ぬしかないんだろうか
そういう異常な状況がいたるところで普通に発生しているから目にする機会が多かったり同意する人が多かったりするんだと思うんだけど
あれ?でもいたるところで普通に発生しているのならやっぱりそれが普通なのだろうか
やっぱり生きていけない
とにかく、なんだか「つらくなっていい基準値」を満たしていないとつらいとかも言えないような気がしていてつらい
とくに理由もないけどつらくってもいいじゃない
つらい
なんと言うか、漠然と哲学的なのではなく、特定の思想とかなりシンクロ率が高いみたいなのを知りたい。
最近読んだ中では、
だなと思った。
そのようなものがあったら、教えて欲しい。
追記:
とても参考になった。
漫画・哲学の素養が乏しく、カバー範囲が狭いのだが、回答できるコメ・ブクマだけ回答させてもらう。
ドラえもんをニーチェ的に読むと言うのは、過激な試みに見える。
どうもこれはそうっぽい。読んでみる。
パプリカはどうやらそうっぽいので、これも読んでみよう。
よく知らないけど手塚治虫の「ブッダ」は仏教思想とシンクロしてるらしいな。伝聞なので間違ってたらゴメン(意味不明/ファンロードでなんか凄いの読んだ記憶あるが内容とか何一つ思い出せんので偽記憶かも
「ブッダ」レベルでシンクロしている漫画が、哲学的なマンガと言って差し支えないものなのではないかと考え直した。
手塚治虫の解釈が入っているかもしれないが、仏典と仏教史からマンガを起こしているからな。
ブッタとシッタカブッタ
ちょっとググって見た。内容紹介には「宗教でも心理学でもない」ってあるんだけど、心理学と仏教のミクスチャーとして読んでみよう。
オーダーとずれるけど面白いよ /有罪無害玩具http://tirasimanga.web.fc2.com/TUM/043/043.html 下校時刻の哲学的ゾンビ https://omocoro.jp/kiji/64616/
これも要チェックで読んでみる。
なんかこっちの方が鬼気迫るものがあるな。
俺にそれを読み解く能力があるかが疑問だが、チェックしてみよう。
中学生の娘が担任の教師が嫌でしょうがないと愚痴を言っている。
私はどうしても問題を解決する方に思考が行きがちなので、吐き出せれば済むような話は妻に任せている。
すると今度は「私が困っているのにお母さんはちっとも味方になってくれない」と怒り始めた。
敵、味方って話ならば両親ともお前の味方だし、先生が敵だと言うならお父さんはモンペにでも何でもなって問題を解決するぞ。
と言うと、そういう話ではないという。
そんな事は百も承知だ。
自分が不快になる環境の中にいる時、我慢するとか、見かたを少し変えることでマシになるとか、そこから逃げ出すとか、問題を解決するために戦うとか色々方法があると思う。
妻の提案は見かたを少し変えてみれば?というものだったがそれでは自分の味方ではないらしい。
我慢するのも嫌だと言うならお父さんの出番だ。
問題を解決するために戦う術を伝授するとか、色々捨てて逃げ出すための準備を始めるぞって事になるから、素直にお母さんの話を聞いてみたらどうだという事だ。
最終的には、妻にも協力してもらって私が一番の悪者ってことにして、先生に対する恨みみたいなものが薄れたようなので、気が晴れたのならまぁよかったのかなと思う。
事の発端は、クラスの男子が真面目に授業を受けてないのを注意しない先生がムカつくってことらしい。
自分の力では自分の望んだ形で解決できない問題を、理想の形で解決してくれない人に対して怒っている。
その連鎖が最終的に私の所まで来たのだか、結局、私に対して一番怒っている事になってしまっている。
感情の問題だから理不尽に怒られるのはしょうがないと思うが、私に対して怒ったところで何一つ環境が変わっていないのはいいのかなあと思ってしまう。
敵、味方という二元的な話になってしまうのもまだ子供だから仕方ないけど、敵よりも自分的に頼りない味方の方が悪だといった発想は改めたほうが今後の人生が楽になるような気がする。
大人になっていくにしたがって落ち着いて来るのかなーと漠然と考えていたのだが、いまさっき届いた妻からの愚痴ラインが「仕事をしない後輩を注意しない上司がムカつく」というものだし、昨日、結局私が一番の悪者になる前に娘の気持ちを落ち着かせられなかった妻に対してモヤモヤとした感情を持っていたりするので、なかなか難しいもんだなと思った。
エロ系のラノベ表紙がキモいのは、エロいからとかそういうんじゃなく
単純に絵が気持ち悪い
・妙に胸や尻が丸い
・テカテカした肌の質感
・目に見えない独特な目
・ねじれた腰
・縛られた肉体
などなど
フェチを極め独自に進化した絵柄は、その筋の人には需要があるんだろうが
そういうのが好きではない層にとってはほぼキモいという感想しか出ない
この不安感は、例えば動物の交尾を目撃したときの漠然とした不安に似ている
ゴリラの発達したケツを見る感じだろうか
アレと交わってはいけないとする本能が拒絶感を出すのではないだろうか
その場合、肌の露出が少なくてもキモいんだからもうどうしようもない
今、洗濯物を干しながら思い出して、ただその感想を吐き出すだけである。
30代より上の人なら、この名前を知っているだろうか。
お笑いコンビのダウンタウンがやっていた、ごっつええ感じという番組のキャラクターだ。
一応説明すると、特にコントがあったわけではなく、「地球が平和なのはエキセントリック少年ボウイがいるから」という漠然とした設定と濃いキャラクターがいただけだ。
ある日、彼らは一枚のアルバムを出した。
当時それが好きだった私は、購入した。探せば家のどこかにあるかもしれない。
物悲しいメロディと共に、「最近だんだんわかってきた。僕が死んでも誰も泣かない」と、これまた物悲しい歌詞から始まる(知らないかたは調べてみてください)
当時は笑って聴いていたが、人生の折り返し地点を過ぎ、四十路に入り、なんだかとてもさみしく聴こえるようになってしまった。
自分が死んだら誰か泣くだろうか。その時配偶者が生きていれば、泣くだろうか。
トラウマだらけの犬ドッグは、どこかにシールを貼ること(マーキングのことだろうか?)で、自分をたもっているのか。
鳥バードは、何を食べてもうまいと思うほどひもじい生活を送っていたのか。
エテモンキーは、留守番電話に対してなにかとんでもなくつらいことがあるんだろうか。
そして、おそらく歌詞の「僕」であろうエキセントリック少年ボウイは、毎晩金縛りにあい、紙切れになるほどのいたずらファックス(30m)がくる。
地球が平和なのは彼らがいるからなのに、みんな散々なありさまだ。しかも全員差し歯である。
歌詞は、まるで日々と未来への見えない不安をこめたように「ああ 明日になんかならなきゃいいのに。どうせ今夜も金縛り」というように締めくくられる。
そんな感じで色々考えていたら、なんだか悲しい朝になってしまった。
子が寝たあと妻から渡された手術同意書。堕胎に同意書するサインだ。
妊娠が判明したのは先週。妻から一報を聞いたとき、また生活が大きく変わるんだなって漠然と不安もありつつも喜びの気持ちで捉えたと思う。
年齢は30、年収は500万。今の会社にいる前提だと普通に頑張ってれば900万くらいになればいい方か。
妻はパートで100万ほどなので、世帯年収は600万ほど。子供は2人。どっちもまだ保育園だ。
子育てでは本当にお金に苦労している。妻が1人目を妊娠した時、妻は会社を辞めさせられた。当時、まだ年収400ぐらいだった私一人では家族分は賄えない。
妻は無職となり、共働き前提になる保育園には入れない。絶望的だった。産後すぐにバイトを探して、入ったばかりのバイト先に証明書を書いてもらってギリギリ受かった家から一番遠い保育園に通っている。
2人目のときも苦しかった。パートの妻の収入はなくなり、当然、1人目の時と同様に育児休業でお金がもらえたりするわけでもない。
そういった金銭的な気苦労が耐えなかったことが、子育てに対する拒否感にも繋がってるんだろう。
また、実質的な子育ても妻一人でやっている。保育園へも自転車の前カゴと後ろに載せながら送と迎を一人でこなす。
雨が降っただけで絶望的な気持ちになるそうだ。帰ってきてからのお風呂、洗濯、晩ごはん、寝かしつけ、ほぼワンオペのことが多い毎日だ。
当然私も早く帰った日はお風呂に入れたりするのだが、時間的に難しいのが実情。早く金銭的な気苦労から開放してあげたくて忙しい部署への配属を希望し、残業が多くなったことが災いした。結果的には妻の日々の負担増に直結した。トレードオフなことは分かっていた。ちょっとでも家事を楽にと思って、宅配のコープもルンバも乾燥機付き洗濯機も用意していたが意味なかった。なんも意味なかった。だめだった。
休みの日は3食作って、子供を二人プールに連れて行ったり、公園に連れて行ったり、子育てと家事も当たり前にやっていたけどだめだった。そんなんじゃ足りないとか言われるのかな。わからん。おれはゆるい性格だけど、妻はかなりきちっとした性格だから、なんとかなるさ~と思える人ではない。おまけに実際に産むのは彼女だし、実質今の2人を育ててるのも彼女だ。ごめんな、ごめんな、説得できなくてごめんな・・・
子育てには1500万かかるんだっけ?たった1500万ぽっちが無くてこんな悔しい思いをするんだな。
どこから後悔すればいいのかな。避妊かな。セックスしたことかな。結婚したことかな。結婚する相手かな。就活もっと頑張るべきだったかな。大学の時もっと勉強するべきだったかな。予備校で遊んでる場合じゃなかったかな・・・わからん。トラバでめっちゃ馬鹿にされるんだろうな。。
初めてロト宝くじをこんなに大金出して買っちゃったよ。今まで宝くじを買う人を見て「納税ご苦労様!」なんて揶揄してたのにさ。
今から15年も前のこと、漠然とアメリカに憧れていた学生増田はそれはそれは英語を勉強した
片っ端から英語参考書を買い漁り英会話学校に通い知識を深めていった
その甲斐あってメキメキと力をつけていった
そして月日は流れつい先週、ある本屋でのこと
すっかり足を運ばなくなった英語コーナーにふと寄って気まぐれに単語本を見てみた
すると15年前も感じていたある問題がまだ残っていることに気づいた
それは本を開いた時に英単語とその意味を一度に確認できないということ
分かります?
左開きの本の右ページに日本語が並んでいて(基本的に、一般的に、単純に)ページをめくると次のページにその答えが書いてあるんです(Basically、Generally、Simply)
この構成だと、問題→答えの過程でページをペラペラめくるという無駄な作業が入ってくるんです
編集者の意図はおそらく「日本語を見て英単語を思い浮かべる。分からなかったら(もしくは分かった場合は答え合わせの要領で)ページをめくり確認する」ってことなんだろう
そもそもボキャビルにおいては文脈の中で覚えるか、もし単語単独で覚えたいなら英単語とその意味をさっさと紐づけするというのが常識になっていて
うろ覚えの単語をどうにかこうにか脳の隙間から引っ張り出してくるというクイズ形式は全くの無駄なのだがまあそれは置いておく
クイズ形式ならそれはそれでわざわざ不必要にページをめくらせる作りにする必要はない
右ページに「マジ?」ページをめくると「For real?」みたいな
自分は、数年前に嫁の年齢と持病から子供を諦めた者で、その時は子供がいない人生となったこと自体にはあまり苦しみは感じなくて、むしろ嫁と二人の生活を楽しめるようになったのだけど、そのうち、子供のいない老後は安楽死を迫られるんじゃないかという不安を抱えるようになってしまった。
今の日本は間違いなく老人優遇の政策を取っているけど、おそらく俺たち就職氷河期世代(団塊ジュニア世代)が老人になる頃に、いよいよ持たなくなって現役世代重視に反転するんだろうと予想している。
「人数の多い団塊ジュニア世代の老人を国はもう支えきれないので、老人福祉は削減して、老後は自分の子供か資産に面倒を見てもらうように、そして、どちらも持たない者には安楽死というオプションを与える。これで日本は復活する」
そういうことになるんだろう。
日本という共同体の持続可能性を考えるなら、資産形成や家族形成に失敗したまま老人となった団塊ジュニア世代を切り捨てるのは正しいと思う。
自分が切り捨てられる側でなければ。
実のところ、生涯子なしが確定する前の俺は、自分自身も含めて次世代の負債になるぐらいなら働けなくなったあたりで安楽死していいんじゃないか、と考えていた。
俺たち団塊ジュニア世代は、親世代の団塊世代の雇用を守るために就職氷河期に落とされ、団塊世代の老後のために今も毎月高い社会保険料を取られている、そういう被害を次の世代に繰り返すべきじゃない、という多くの同世代と同じ覚悟をしていた。
ところが、人間の脳の我が身の現状を肯定しようとする力は凄くて、もはや子供を育てる義務が発生することは無く、週末にちょっと良い外食をして、嫁の体調が良い時に年2回ぐらい休暇を取って海外旅行をして、それでも年に数百万は余裕で残り、それを全て二人だけの資産にできる嫁との生活が楽しくてたまらなくなった。
子供云々よりも、仕事が急に裁量が効いて楽しく働ける状況になったことと、ここ数年順調に昇給が続いていることの方が大きいかもしれない。
小学生の時以来かもというぐらい毎日の生活を楽しむことができるようになった。
これから嫁の病状が悪化したり、俺の体にガタが来て多少不自由になったとして、それを負担することになる下の世代には本当に申し訳ないけど、手厚い年金や介護を受け続けて、辛いことの多かった俺たち夫婦がやっと報われたこの実りの季節をできるだけ長く味わいたいという執着を二度と捨てられそうに無い。
そして、頭に書いた通り、子供のいない老後への漠然とした不安に取り憑かれてしまった。
そもそも、老後を待たずとも、嫁が動けないほど悪くなって、俺が介護のために仕事を辞めることになったら、今の生活はあっという間に吹っ飛ぶというどうしようも無さがある。
もちろん個人でできる対策として、子供がいない分資産を貯め込む努力はしているのだが、それだけではどうしても不安を鎮めることができず、統合失調症でも発症したんじゃないかと心配になるぐらい、このまま黙っていたら殺される(安楽死に追いやられる)という焦りや怒りの発作に悩まされ続けた。
結局どうしたかというと、老人福祉の維持・充実を訴える政治活動を始めた。
具体的には、地元の老健団体の賛助会員(年会費一万円)になって、その政治部門で週末に事務局のボランティアをしている。
その老健団体は、内規で不偏不党を掲げて政治活動には関わらないということになっているので、賛助会員の一部(実際は全員)が勝手にやっている「勉強会」という形の団体。
そういう曖昧な団体でも、わりと昔から活動しているからか、役所や地元議員、たまに上京して中央官庁に行くと役人や議員先生が向こうから頭下げて来るので、「いや、ああいう人種は有権者にはとりあえず頭下げる人たちなんだよ」と理性に囁かれながらも、所属欲求とか承認欲求のような感情が簡単に満たされている。
「こちらの○○さんが、若いのに手伝ってくれてるんですよ。長くお世話になりますので、どうぞよろしくお願いいたします」
などと陳情に出向いた先で若手のホープのような紹介をされるとなにやら面映い。
60代後半から70代が主力の団体だから、そりゃあ、比較すれば確かに若いんだろうが、組織に歓迎されるというのは良い気分だね。
60代後半から70代というのはつまり俺の親世代、団塊世代で、「こいつらの雇用を守るために俺たちは就職氷河期を味わった、こいつらの老後のために給料から毎月高い社会保険料を取られている」とずっと憎んでいたのだけど、
実際に話を聞いてみると、こういう活動に熱心な人々は、当然ながら経済的にかなり期待外れな老後を過ごしている。
大企業で40年勤め上げたなら話は別なんだろうけど、自営業が長くて大した年金などもらっていないような例が多く、総じて俺と同じ不安と怒りを抱えている。
抽象的な理由で一つの世代を憎み続けるのにも疲れていたし、俺は彼らを許すことにした。
以前は街中や行楽地にいる子連れを鬱陶しい連中としか感じなかったのが、
「ああ、この子が俺と嫁の(文字通り)尻拭いをしてくれるかもしれないんだな、そうでなくとも俺と嫁の尻拭いをする外国人介護士を雇う社会保険料を収めてくれるんだな。親切にしてあげないとな。お母さん、ご苦労様です」
と肯定的に見れるようになった。
他人と不安を分かち合い赦しと和解を与えて、ともに現状を改善するために微力とわかっていても行動する、
そういう前向きな姿勢でいることは俺の精神に良い影響を与えているように思う。
老後問題が自分一人(と嫁)の解決不可能な問題としか思えなかった時に比べて脳への負担が減って、頭と肩が軽くなった気がする。
そういうわけで、俺と同世代で老後に不安を抱えているなら、こういう政治活動がセラピーとして効くかもしれないので試してみれば、程度の軽さでお勧めする。
こういう活動を、なんだフクシかサヨクのオルグか、と毛嫌いする人が同世代には多いというのはわかっている。
だが、実際のところ老人福祉の拡充を訴える団体の投票先で一番多いのは自民党なので、サヨク嫌いの人に向いた団体も地元で簡単に見つかると思う。
俺がいる団体がどの政党支持なのかは伏せるけど、与党系だろうが、野党系だろうが、老人福祉をイシューに投票したり陳情しに来たりする有権者の数が増えて、政治家の圧力になること自体が重要だから、みんな仲間だと思っている。
ひとつの人口統計予想として、数十年後俺たちが80歳になる頃には日本の人口構造は団塊ジュニア世代を唯一の頂点とする完全な逆ピラミッド型になる、という物がある。
この予想が当たれば、俺たち世代は有権者の数が最も多く、つまり民主的には最強の世代になる。
さらに下の世代も同じく高齢になるほど人口が多いのだから、政治家が当選するには今以上に老人優遇にせざるを得なくなる。
俺は自分の現状を実りの季節だと言ったけれど、数十年後には同世代全てが実りを得られることになる。
だから、別に政治活動を始めなくていいけど、俺は同世代に老人福祉をイシューにして投票することを考えて欲しいと思っている。
そして、何をしてでもいいからどうかあと数十年生き延びて欲しい。
どうも、元アイマスPです。
グッズの類が大量に残っていますが、まぁいずれ処分するでしょう。
今回このブログを書こうと思ったのは、私のとある胸糞悪い経験を吐き出しておきたかったのと、これを見たPさん、あるいはアイドルマスターに限らず、いわゆる課金系アプリゲームをプレイしてる全ての人に表題の内容を問いかけたいからです。
課金ゲームにおける「愛」は結局課金でしか測れないのか?という事
アイマス風の言い方をすれば
という事です。
事の発端は2年前、私がサークルの先輩からアイドルマスターを勧められた事に始まります。
私はどちらかというとオタク系コンテンツはそれなりに嗜んでいたのでアイマスもすぐにはまり、のめり込んでいきました。
アニマスから入り、劇場版で気になった後輩の子達を見てミリオンライブを始め、シンデレラガールズ、SideMと次々にどハマりしていきました。
改めて説明するまでもないと思いますが、アイマスにはゲームとライブがあります。ゲーム内のガシャを回し、イベントを走って担当のSRカードをゲットする。ライブで声優さんのパフォーマンスを見て感動して「アイマス最高」と唱える(笑)まぁそんな感じで各々楽しんでると思います。
コンテンツを応援するにはいろんな方法があります。ゲームに課金する、ライブに参加する、グッズを買う、二次創作をしてみる。
楽しみ方は本来人それぞれであり、それぞれがそれぞれの形で趣味を謳歌しています。
学生のアルバイトでは月々稼げる金額はどんなに頑張ってもたかが知れています。
どんなに頑張っても、社会人が月々稼げる金額になど到底及ばない事は想像に難くないでしょう。
アイマスを含めいわゆるソーシャルゲームには「天井」が設けられていることが多いです。
ガシャなどで「この金額までつぎ込めば必ず目当てのカードが手に入りますよ。」というボーダーラインだ。
ゲームにもよるがアイマスは大体ソシャゲの方は5万くらい、音ゲーアプリの方だと10万程度だろうか。
それ以上を稼ぎ出せたりお小遣いをもらっていたりと状況は様々だがこの金額を毎月叩き出せる人は全国でもそんなにいないだろう。
さらにイベントでランキング上位に到達するためにも上記レベルの課金はある程度必須と言っていい。
私は各コンテンツ(当時3つ)毎に「担当(他のコンテンツで言うところの「推し」)が複数人いた。
一人がイベントないしガシャで来たら5〜10万ぶっ飛ぶのである。
しかもそれが複数人いると言うことは数ヶ月に一回レベルでその出費、ましてやイベントが重なろうものなら倍プッシュである。
どんなにバイトを増やして掛け持ちしても追いつけるものではない。
そもそもバイトを増やしたら肝心の学業遊び就活諸々に支障が出る。
ライブなら事前に日程が設定されているのでそれに向けて貯金ができる。
ライブを通じて金銭面でも、気持ち的にも担当やコンテンツを応援できる。
そう思っていた。
だが、アイマスを布教してくれた先輩(仮にN氏としよう)は違った。
彼は社会人である。しかもどうやらそこそこ良い仕事をしていると見られる。
毎月のように一定数の金額を彼の担当のガシャやイベントに費やし、コンスタントに入賞していたところを見ると間違いない。
彼はいわゆる「ライブ勢」が大嫌いで、「声優のライブを見て何が面白いんだ」
「こいつらは声優オタとしては一流だがアイマスPとしては三流」
などと事あるごとにこき下ろしていた。
まぁ、いわゆる「在宅」というやつである。
彼はサークルのOBでオタク仲間の中の中心的な存在だったため、同期後輩もなかなか彼に意見する事は難しかった。
それを知ってか知らずか、彼はその集まりの中で二言目には「プロデューサーの流儀」を語りたがり、「コンテンツに課金できない奴は三流のにわか」という定説を偉そうに唱えていた。
私はミリオンライブが初めて触れたアイマスだったため、イベントの走り方など分からず、中途半端な課金額で爆死するということを繰り返していた。
といっても前述した通り、学生にとっての大金を定期的にぶち込めるなんて暴挙ができるわけがないので突然イベントが告知されて担当が上位報酬に来てさぁ走れと言われたって走れるわけがない。
突然の出費もある、月々のいろんな支払いがある。それを社会人と比べれば微々たるお金の中で工面してるのだ。趣味であるゲームに対する優先順位なんて、お察しである。
それでもなんとか工面したお金をつぎ込んだところで結果は散々たるものだった。それを知ったN先輩は事あるごとに
「お前の担当愛はその程度なのか?」
「中途半端な事しかできなくて担当に申し訳ないと思わないのか?」
「おい爆死野郎w」
とバカにしてきた。
自分は担当が本当に好きだったからそれなりに調べてるし、イベントも出来る限り追ってるし、二次創作を出してみたりもした。何よりライブは担当が出演すると分かれば必ずCDを積んだり、e+に殴りこんだり、最悪友達を頼ってでも必ず参加した。極力現地で。
そんな漠然とした疑問が胸の内を占めていた。
だが、所詮趣味だし、好きでやっている事だからと気に留めていなかった。
大学を卒業した私はサークルの追い出しコンパ(追いコン)に参加した。
1年生から4年生まで数十人という大規模な追いコンで、サークルで顔を合わせるけど名前は知らない後輩も数多くいた。
N先輩も参加していた。
追いコン事態は順調に進み、最後に4年生が一人ずつ挨拶をするときに事件は起きた。
自分の番になった時にN先輩が
「よっ!三流クソにわかP!」
「爆死野郎!」
と大声で叫んでいたのだ。
みんなに聞こえる声で
流石に私も堪忍袋の緒が切れた。
いくらなんでも後輩が何十人もいる前でそんなこと言わなくても良いじゃないか
その時は笑って流したが、後日、新歓のミーティングに顔を出していたN先輩に詰め寄り、あの時の発言の意味を説明し、訂正して欲しい。本気で恥ずかしかったんだからみんなの前で謝罪してほしいと訴えた。
すると、彼の隣にいた別の先輩(A先輩とする)が顔を真っ赤にして怒り、怒鳴り散らし始めたのだ。
彼の主張を要約すると以下の通りである。
・先輩に向かってその態度はなんだ。
・大勢の前で生意気な態度を取ったお前もNの事を貶めている。お前にNを断罪する資格などない。お互い様だ。
・そもそもアイマスにおいて何を持って担当とするかなんて人それぞれで明確な基準などない。お前の主義主張を押し付けるな。
私はとても惨めな気持ちになった。
私はただ、あの時の発言を取り消して欲しかっただけで、せめてみんなの前で謝って欲しかっただけなのに…
するとA先輩の怒りっぷりを見たN先輩はへらへらと笑いながらA先輩をなだめ、以下のような主張を始めた。
・酒の勢いで言っただけだ、気にするな。
・お前が○○(私の担当)をいかに愛してるのかはみんながよく知っている。
・なのにも関わらずイベントの走り方が下手くそだから私はそれをいじってるだけ
・自分は昔ライブ専門でゲームに全く金を落とさない同期に「お前はだから三流なんだ」と言われたことが本当に悔しかった。お前にそうなって欲しくないからああやって言ってあげてたんだ。
彼の口から、最後まで「後輩数十人の前で私の名誉を貶めた事に関する謝罪の言葉」はありませんでした。
これを期に私はアイマスから遠のきました。百年の恋も冷める瞬間とはこの事なのでしょう。
アイマスPは課金額で他人にマウントを取り合うような人間しかいないんだなぁ
こんなデータがクラッシュしたら吹っ飛ぶ画像にうん万円も賭けなきゃ担当名乗る資格がないのが、Pの常識なんだなと察してしまいました。
ここまでの話を聞いて
「増田が考えすぎ気にしすぎ。」と思う人が大半なのではないかと思います。
ですが、私がこの件について許せないのはそこだけではないのです。
そう、中の人である種田梨沙さんが昨年活動を休止されて、ミリシタでの実装が大幅に遅れた、あの田中琴葉です。
私は、声優さんの不在によって琴葉の存在がだんだん希薄になっていく事をずっと悩んでいました。
4th Liveでも現地で感じた「琴葉が置いていかれてるのではないかという不安」にずっと悩まされていました。(最後のThank youでそれが解消され、安心から大泣きしてしまいましたが笑)
ちょうど就職活動中だった事もあり、イベントになかなか課金ができず、どうすれば琴葉を応援できるのか、どうしたらミリシタから入ったPさんに琴葉がここにいると示すことができるのか、ずっと悩んで、苦しんで、精神をかなり病みましたがそれでも2月に琴葉がミリシタに実装されてやっとこれからなんだと思いました。
自分も就職が決まり、やっとこれから琴葉にたんまりお金を使ってあげられる、本気でプロデュースできると思っていました。
その思いを、悩み抜いた思いの全てを、N先輩はみんなの前で汚い足で踏みにじったのです。「課金額が少ない」「ゲームに投資してない」たったそれだけの理由で。
もう一度言いますが、わたしはライブを中心にお金を落としています。
でも、それ以外に一切お金をかけていないということではありません。そんなこと有り得ません。
グッズも買ってるしCDだって全て新品で揃えたし肝心のゲームにだって課金してます。
学生時代はイベント時に1,2万が限度でしたがそれでも担当が来たら必ず走って回すようにしてます。
それでも足りないのでしょうか。
担当が取れなかったらその時点でP失格なのでしょうか。
私はあの日大勢の前で3流にわかと罵られないといけなかったのでしょうか。
5thは一応参加しました、最高でした。
あんな辱めに公開処刑まで受けては大学の後輩や同期に顔向けできないからです。
いまだにガシャやイベントが来るたびにN先輩の言葉が、あの日の恥ずかしさ惨めさが胸をよぎって、まっすぐアイマスを愛することができないからです。
もうすでに周囲には引退を伝えました。
院試もなんとか乗り越え、研究も一息つき、爆睡してたら走馬灯のような夢を見た。
今頭がぼーっとしているが、眠くない。顔をあげるとPCが転がっている。
そんな状況で適当に頭の中を出力してみる。
実家では姉が癇癪持ち、母は他人に無関心なくせに過干渉。父親はネガティブな性格で、認知症気味で、鬱で自殺。首吊り死体も見た。
大学に行くと言ったら両親が猛反対、勉強できない姉が大学行くことに対して嫉妬(勉強してこなかったお前が悪い)、
受験3ヶ月前に父親が自殺、同時に自分のメンタルが崩壊し、毎日のように頭痛が止まらなくなり、生きてることへの現実味が何もなくなり、
実家を抜け出したいと思いながら不登校になり、家に引きこもる。
頭がいっぱいになりながら試験を受け、奇跡的(?)に国立理系大学に受かる。
一人暮らしを始めるが、高校までの嫌な記憶でいろんな記憶で頭が一杯になり、同じく死んだような顔で過ごす。
時間はあるが鬱屈でしかない、サークルに通ったが、まあ、変な言動をして、
幼児的万能感丸出しメンヘラ男に執着され、更にメンタルを悪くする。
大学の勉強はやればできるが、やったらできただけだとしか思えなくて、あんな家庭に生まれなければという18年間への後悔、
これからも死んだように引きずりながら生きていくしか無いと思った。
どうせ死ぬのになぜこんなことをしているんだと絶望感を引きずりながら死んだように布団にくるまる。
人間関係を一切断ち切り、映画や小説やマンガ、歴史、心の病気の本、とにかくなんでも読み漁った。
エネルギッシュなもの、鬱になるもの、哲学的思考を揺さぶられるもの、
自然科学や、それが工学に応用されていること、哲学的な思考は誰でもすること、世の中そんなにきれいにはできていないこと、大体の人は自分のことで精一杯で、他人に興味がないこと。
幼児的万能感は誰でも持っているもので、年齡と言うよりは、いろんな物事の経験量によるもの。
絶対に他人自体を観測できないことは、改めて考えると、普遍的で非自明なものと思う。(いや自明だろ)
自分がこんな環境で育ったことなんて他人は知る由もないし、自分もまた他人の家庭環境なんて知りえない。
結局観測できることなんて限られていて、どれが地雷かなんてわからない。
血がつながっていたとしても自分以外は他人でしかなく、それがよくわからないものである。
そんな自分以外の他人がいる中で生きてきたし、今もこれからも生きていくしか無い。
結局自分は何も知らない、ただ視界の狭い、家の人間となんとなく入った運動部のような人間しか見ず、
視野が粗野で、卑屈で、思い込みが激しい、ただ一人の、長い歴史のなかの一般人であって、結局はその事実しか存在しない。
ということが、ようやくわかった。
いまは漫画や小説が好きな新しい友人ができ、学業も以前より面白く感じてきて、研究も(考えるのは)楽しくて、
ようやく正常に戻った、いや人生の中で一番頭のゴミが少ないような気がする。
こう書いてみると人の過去なんて文章にしかならないし、そんなもんだなーと思える。
ボーッとした頭でも今読み返すと、こいつ将来に対する漠然とした不安にめちゃくちゃ苛まれているなーと思う。(今は昔よりまし)
ここで書いていることは、後悔というよりは反省にはなっている(といいな)。
なんだかなーこれからどーしよっかなー、やっとモラトリアムの始まりか??
やっぱ眠いしねるわ。悔いはない、と思う。
バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさんの人生には学ぶことが多い。
テンパった人間は「俺ヒップホップで食っていくんだ」と言い出すこと。
そしてニートになること。
様々な知見がある。
その中でも最も注目すべきことは「人は自分が手にしているチケットの価値に気が付かない」という事だ。
のじゃおじは当初、自分の手に職をつけようとしてクリエイターを目指し、そしてVtuberになっておきながら、妾の目指す所はIT系なのじゃーとそのチケットを投げ捨てようとしていた。
IT業界に入った所でどうせブラックに逆戻りするだけなのだから、ワンチャンスにかけてVtuberを続けるべきであるというのは、岡目八目ならば一目瞭然である。
第一線で戦ってきた経験値はどの業界の面接でも強みになるプラチナチケットとなり、ましてやコンテンツ製造者側に回ろうとするのならば、中の人としての経験は絶対に役に立つ。
現場を知らない裏方よりも、現場で活躍したことがある裏方のほうが絶対に強い。
けもみみ王国を閉鎖することによって手に入るチャンスよりも、けもみみ王国を続けることで手に入るチャンスの方が圧倒的に大きい。
少なくとも風が吹いている間は。
その事に気づいてなかったのは本人だけだったと言ってもいいだろう。
しかし、これは誰にでも当てはまる。
誰もが自分の今置かれている立場を冷静に見ることが出来ていない。
他人の言葉に耳を傾けようとしても、そのうちどこまでが建前なのか誰にもわからない。
そうでありながら、他人の持つ手札の強さを比べることだけはそれなりに出来る。
その上で、自分の持つ手札と相手の手札を比べることは全くもって出来ない。
強いチケットを持っているはずの人間が、他人の何気ない「でも完璧とは言えないよ」という言葉を聞いてそれを破り捨ててしまう。
弱いカードしか持っていないはずの人間もまた、他人からの「皆そんなもんだと思うよ」という言葉を信じて自分より遥かに強い相手に挑もうとする。
誰もが自分の姿を正しく見れていない。
ありがとうのじゃおじ。
我々はまた大事なことを教わった。
さて、私が今持っている手札は、如何ほどの価値があるやら。
ただ漠然とだが思うのは、一見気に食わずとも慌てて捨ててしまうのは惜しいものである可能性について今一度考えた方がいいのだろうという事だ。
逃げたり諦めることは誰でも一瞬あれば出来るから走り続けよう、コレはのじょおじのテーマソングであるが。
自分の手札を捨てることもまた一瞬あれば出来ることなのだから、どうしようもなく気に食わないのでなければ一先ずは握り続ける方向で考えていくべきなのやも知れぬ。
この場があるのを感謝して、書きなぐらせてもらう。
最近、便秘で入退院繰り返してたけど、便秘気味なのは前々からだから深刻になってなかった。
むしろ食欲もちゃんとあって、うんちもきちんと出たからほっとしていた矢先だった。
最近、土日も仕事が多くて、振替休日も私が暑さでダレきってて、一緒にぼーっと寝てるだけだったから、
明日からは久々にゆっくりできるから、ブラッシングしたりシーツ洗ったりして
ちゃんとスキンシップとりながらゆったりいちゃいちゃ(表現キモくてごめん)しようと思ってた。
だから、今日の朝にシャワー浴びてるときに構え声(誤字にあらず)で鳴いてても
「あー、もう明日はゆっくり付き合うから」って邪険に扱ってて、出かけるときも
「行ってくるね」くらいしか言わなかった。遅刻しかけてバタバタしてたからちゃんと振り返りもしなかった。
いつもはもう少し丁寧に「行ってきます、留守番よろしく」くらいは言ってたのに。
で、今日も遅くなってしまって、帰ってきたらいつもの通りに「帰るの遅っ」って鳴きながら出てくるはずなのに
出てこなくて、嫌な予感で部屋に入ったら、冒頭の通りだった。
かかりつけの病院が夜中も対応してくれて、取り乱して電話したけど、「とにかくすぐに連れてきなさい」って言ってくれて
キャリーに入れようとしたら硬くなってるから入れられなくて、隠れ家用においてた段ボールで運んでいった。
便秘も良くなってたし、毛づやも悪くないかったから、突然の心不全じゃないかって話だった。
慰めで言ってくれたかもしれないけど、どの時間に私が帰っててもどうしててもどうしようもなかったんじゃないかって。
その時に推定3~4歳って言われたから、今は13~14歳。しかも猫エイズキャリアだったから
発症または老化での介護問題を今後いろいろ考えとかないとなあ、とは漠然と考えていた。
でも、こんないきなりのお別れは全くゼロだった。
とにかく、獣医さんで処置してもらってドライアイスもらって、家帰って
よく見たら箱はキャットフードまとめ買いした時の箱だった。もう嫌だ。
この気候もあるから明日には火葬しないといけない。ペット葬儀会社の見当をつけた。
で、誰かに吐き出したいんだけど、友人とカニ夜中に電話するのは迷惑だし、メール送るのもなんか違うし
ここに吐き出させてもらう。
猫、ごめん。一匹で逝かせてごめん。ズボラな飼い主でごめん。
そういえば体調崩すのも給料日直後とかボーナス直後とか変な空気読むやつだった。
私が親知らず腫らして寝込んだときは、腫れたほほにそっと肉球を添えてくれた。
合成肉が嫌いで、ウェットフードの時は見事にそれだけ残してた。
ブーツから脱ぎたての足の臭い大好きで、冬場は帰宅の都度私の足にしがみついてうっとりしてた。
カメラ嫌いで写真撮ると大体怖い顔だった。寝顔撮りまくりできるのが今っての何これ。嫌だ。
愛しさと申し訳なさとでもうぐちゃぐちゃだ。
コメントくださったみなさま、経験談やお悔やみや励ましの言葉ありがとうございました。
別エントリでその後とお礼を書きました。
増田さんがどんなふうに思われているのか、そこで答えが出そう。
小学生の時、ちゃんとお勉強しなさい。そうしたら将来楽できるから。
そう言われて勉強を頑張る。優秀な成績をとって、テストでは満点をとって、実績のある進学校に入って優秀な大学に入学する。
そのあたりで気づくんだよね、あれ?おれなにがしたかったんだろ、なにしてんだろ?って。
そう言われ続けてただ勉強し続けた結果、いつしかほんとにやりたい事とか、夢中になれるものなんかを見つけられないままその他大勢の中に埋もれてしまう。
自分の選択肢とか可能性なんかを見つけられないまま、むしろ狭めてしまう。
思春期って、中学、高校生の時を言うんだろうけど、その時は未来って漠然としてて今を生きてる自分とは何だか程遠い関係のない話のような気がしていた。
やりたいことが見つからない。ここの学部に進学しとけば、そのあと潰しがきくよ。選択肢が幅広いよ。
大学進学。そこがゴール。
けどさ、大学生も半ばを過ぎたあたりからみんな気づくんだよね。
あれ?って。こんなはずじゃなかったって。
遠いところにあると思ってたことが、まだ考える時間はあると余裕ぶっこいてたことが目前に迫ると、嫌でも現実を見なきゃいけなくなる。
そうして安定を第一にしてその後の自分の時間を社会に溶かしていく。
やりたいことをみつけて好きなことして生きていく。素晴らしいことだ。
文章がとてもかなしい。
将来についてのヴィジョンは、義務教育の頃からよく聞かれるお題ですね。
漠然とでも、結婚して子供を作って育てるとか、一人でもなんとかやって行けるような仕事に就くとか
誰しも学生時代は良くても、いつまでも親と暮らせるわけでもないので、漠然とでも自分が将来どうなるのか、
なりたいのか。という問題です。
後入りのトップとやり方が合わず、長きに渡って志を共にしたチームも反旗を翻した。
小さい頃から、漠然とながら、大きな、前向きな変化を社会にもたらしたいと意識し、幾度の挫折を経ながらも、厳しすぎるほどに自らを律して行動してきた私であった。しかし、今回に限っては思うことがある。
私に社会は変えられない。
悲観的になっているわけではないと言っても強がりに聞こえるだろうが、必ずしもそうではない。
今までのやり方のままでは、世界を変えることは、僅かでも前向きなインパクトを与えることは、私にはできない。今私はそう強く思う。
今までの挫折に対する反応と大きく異なるのは、最近になってアスペルガー症候群の診断を受けたことに由来するのだろう。
物心ついた頃から、言い知れぬ生きづらさを感じてきた。幸いにも運と環境には恵まれ、親の許可のもとに義務教育を放棄し、留学の名の下に海外に逃避し、社会人になってからもフリーランスに近い形態で働いてきた。
ただ、私みたいな弱い人間でも自己実現を追求しやすい社会を実現するためには、独りの力では限界がある。下克上で急速に社会に変革をもたらす海外のスタートアップに魅了されたのは、そんな思いからだった。
とはいえアスペルガーにとって、チームで働くことは容易でない。高い理想と強い確信があるからこそ耐え忍ぶことが出来るが、1日が終わる頃には疲労困憊で、にもかかわらず感覚過敏で夜は眠れない。
追い討ちをかけるように、我の強さが災いして起こる衝突は日常茶飯事で、今回の件も、その極端な例の一つだった。
今までであれば、一定の反省を終えた後に、運が悪かっただけと気を取り直し、再度挑戦を試みたものだったが、今回は違う。
自らの遺伝的特徴を明確に認識した今、戦略を再考する必要に迫られている。
ここまで長々と文字を連ねてなんだが、昨日の今日では今後の方向性すら見えていない(アドバイスがあれば是非伺いたい)。
今まで心配ばかりかけてきた実の家族を安心させられるキャリアをまずは優先するか、新たに認識した自身の特徴とうまく付き合いながら再度挑戦に乗り出すか。そんなことすら決まっていない。
ただ、不思議と後ろ向きな気持ちはほとんどと言ってよいほどにない。幸いにも多少の貯金と多少のお金を稼ぐ知恵と気力も残されている。
フランスも日本も歴史と文化があるから人の行動様式を規定するコンテクストが複雑になる。
……のか知らないが、フランス人も日本人と同じで他人に対して、わりと空気を読みながら生きている。日本人よりめっちゃコミュニケーション取ってるけど。
あとフランス人は思ったよりもまじめに仕事をする。これも意外に日本人に似てる。もちろん、まじめでも仕事できないやつはいて、何かと待たされることも多かった。
しかし、これは日本と違う点だが、待たされる側がそんなに簡単には怒ってなかった(ように見えた)。
もう日本だったらいつ誰か他のお客さんがキレてもおかしくないんじゃないか…とヒヤヒヤするほど待たされても、誰もキレない。皆わりと呑気な顔をしている。これも意外だった。
不思議だったのであとで考えてみたのだが、今のところサービスは労働で成り立っていることを皆んな知っているのだろう説。
もう一つ日本と大きく違う点は、フランス人は一度作ったものを大事にするということだ。建物然り、制度然り。
同じことは土地にも言えて、小さな観光地を巡っても、そのポテンシャルを見ても、日本も文化遺産的には同等。
ただ日本にはその遺産が表面上残ってない。これが大きな違いで、観光地的には問題だなと思った。
でも今なくなってるなら復元すりゃいいんじゃね?と思ったし、フランスもそのくらいのわざとらしさ満載で昔の村とか建物とか残ってた。
おもてなしとかそういうんじゃなくて、単純にその持ってる遺産を掘り起こして勝負した方が、誇らしいのになーとか漠然と思った。