はてなキーワード: 公権力とは
anond:20220702054142の追記。基本引用元は元記事ブコメ(https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20220702054142)。
frothmouth 公権力でないから規制でない、ってのも今の時代の実態にそぐわない気がするなあ。キャンセルカルチャー批判とか考えるとね/真面目に書いた増田に「精液で全身ドロドロ〜」みたいなブコメ付けられて気の毒
ここで問題にしているのは一般人の抗議運動やボイコットのことで、その手のものは「規制」と考えることは不適切だということである。公権力でないから規制ではないとは言っていない(私人間効力の論点はもう半世紀以上前からある)。せっかくだから書いておこう。
2022年現在、公権力以外の「規制」を論じる意味があるとすれば、デジタルプラットフォーマーの問題だろう。我々の言論はあまりにも出版・放送・通信のインフラに依存している。たとえばツイッターやフェイスブック、「マンガ・アニメ」の類を配信しているプラットフォーム、pixivなんかの同人投稿サイト。こうしたプラットフォームに言論は依存しているので、もはや作者の書く自由を擁護するだけでは何の意味もない。その手のプラットフォーマーが恣意的な管理をすれば言論は生き残れない。一方で、こうしたプラットフォーマーもまた出版の自由を有するから、「持ち込まれた言論は絶対に出版しなければならない」義務を政府が課すことは許されない。そして実例として、SNS各社はプラットフォーム内でのヘイトスピーチを禁止しているし、pixivも同様である。みんなプラットフォーマーというとGAFAしかイメージしないが、もっと小規模なレベルのプラットフォーマーに目を向けるのが大事だ。
言論の流通過程全体を保護するためには―わかりやすく言えば2chの削ジェンヌみたいな滅茶苦茶な「管理」をされないようにしないとけない―プラットフォーマーが私人とはいっても、その行動を公権力によって規制する必要が出てくる。そしてプラットフォーマーのもつ出版の自由との慎重な調整が必要となる。その繊細な調整が表現の自由論の課題にますますなっていくだろう。
なぜ繊細慎重な調整と必要となるか。DPへの介入は、プライバシーや名誉毀損にあたる言論を裁判所が差止めるのと同じ構図だし、言論の分野ではないが、旅館業法が、ホテル・旅館(これも私人だ)に宿泊者を原則として拒否できないとする義務を課すのと同じ構図がある。似たような調整はこれまでも行われてきたわけである。ただ、後者の営業の自由は、もともと社会権を保障したり公平な自由を確保するために制限することが幅広く認められると観念されているのと違って、前者は、差止めの要件がかなり厳しく設定されている(『宴のあと』事件などを見れば明らか)。それは表現の自由がそれだけ「重い」権利だという観念があることによる。プライバシーや名誉毀損と営業に対する介入を比較すれば分かるように、表現の自由(就中送り手の自由)を重視すればするほど、プラットフォーマーのもつ「表現の自由」へ介入するのは困難となる。ブコメした多くの人が「表現の自由」はとにかく大事なんだという観念を持っているようだが、果たして一般論として表現の自由を称揚すればするほど、プラットフォーマーの地位が向上していき、利用者の立場は低下していく関係にある。DPに限らず、出版社も独自のポリシーを持っていて、刑法175条の要求とは別に、原稿に対していろいろな要求をして、修正しないなら出版を拒否する。表現の自由を称揚し、表現の自由の地位を向上させればさせるほど、出版の拒否に対して裁判所が介入するのは困難となっていく。皮肉な話である。「表現の自由」を称揚すればするほど、公権力以外の「規制」はつよくなりうる。私人間同士の対立場面で「表現の自由」を登場させないことには、それなりの理由がある。
なお、私は一般人の抗議運動を「規制」と言っているような人に調整作業をやらせたいと直感的に思えないところがある。その人こそが削ジェンヌになるのではないか。
minominofx66 まずは宇崎ちゃんにしろたわわにしろ、萌え絵やアニメが規制されるべき「エロ」なのか、健全な表現の範囲内なのか、この際だから徹底的に議論して白黒はっきりさせるべきだと思う。
第一に、さしあたって規制されるのは「わいせつ」(刑法175条)である。「エロ」ではない。そして「エロ」とか「健全」かそうでないかという問題は、表現の自由を擁護する上でどうでもいいことである。重要なのは「不健全」でも公権力によって規制されないということではないか。「不健全」なら規制しても良いという観念が前提にあるように見えるのは驚くほかない。アニメ・マンガの類の少なくない作品が不健全とか不道徳とか退廃的とか言わざるを得ないのは確かだろう(少なくともハード・コア・ポルノ的なものなら、だいたいどれかには当てはまるだろう)が、だからといって公権力が刑罰をもって発売頒布を禁止することは許されない。それが表現の自由論ではないの。
第二に、「規制」がどんな規制かも考えなければならない。仮に刑法175条が廃止されたとする。そうすると性器修正処理などは全廃されるだろうが、成人向けの書籍・ビデオ等は依然として年齢制限が課せられる(公権力が法律・条例をもって年齢制限を課すこともあれば、出版業界の内部協定として行うこともある)。販売頒布は禁止されなくても、流通過程が制限されることがある。それは言論の内容に着目したものではなく、付随的害悪(たとえば見たくない人の目に偶然触れるのを防ぐため)の阻止するための規制(内容中立規制というやつだ)である。一般論としてそのような規制は認められなければならないだろう※。付随的害悪を阻止するための規制もいっさい認められず、街路に成人向け書籍の広告を出したり、街頭モニターでビデオを上演したりすることも制限なく認められなければならないというのなら、もはや見解の相違としか言えないが。
第三に、宇崎ちゃんの欠缺ポスターやたわわのポスターに対する抗議や批判は、いかなる意味でも規制ではない(国連からという声もあるが、それは「日本の」公権力ではないし、日本国に対して強制力を持ったなにものでもない)。批判や抗議は、表現の自由がもともと予定するものであろう。「不健全な表現は規制せよ」と主張することすら(私はそうは思わないが)、表現の自由である。それに反論するのも自由だが、そういう主張自体が「規制」と言うのは馬鹿げている。
※
とはいってもこれがかなり厄介で、そのような規制によって出版社に過剰な経済的負担を課し、実質的に内容規制をしていこうという方法がないではない。しかし、付随的害悪の阻止のために合理的な規制を行うことは、一般論としては認めなければならないだろう。あとは個別事例による。
(1)
daydollarbotch 用語はそれっぽいが内容が所々おかしい。嫌がらせがあるなら不法行為たり得るし、間接適用説の下で表現の自由は考慮され得る。判決の引用部分では特にわいせつ表現が表現の自由の保護範囲外とは読み取れない(2階へ
①「わいせつ」に該当してもただちに保護範囲外にならないと最高裁が認定しているという趣旨か。だったら以下は何なのだろうか。なお、これはわたしやあなたが考えているところのあるべき「わいせつ」概念ではなく、最高裁の判例法理では「わいせつ」がどういう扱いを受けているかという問題である。
ところが猥褻文書は性欲を興奮、刺戟し、人間をしてその動物的存在の面を明瞭に意識させるから、羞恥の感情をいだかしめる。そしてそれは人間の性に関する良心を麻痺させ、理性による制限を度外視し、奔放、無制限に振舞い、性道徳、性秩序を無視することを誘発する危険を包蔵している。もちろん法はすべての道徳や善良の風俗を維持する任務を負わされているものではない。かような任務は教育や宗教の分野に属し、法は単に社会秩序の維持に関し重要な意義をもつ道徳すなわち「最少限度の道徳」だけを自己の中に取り入れ、それが実現を企図するのである。刑法各本条が犯罪として掲げているところのものは要するにかような最少限度の道徳に違反した行為だと認められる種類のものである。性道徳に関しても法はその最少限度を維持することを任務とする。そして刑法一七五条が猥褻文書の頒布販売を犯罪として禁止しているのも、かような趣旨に出ているのである。
②間接適用説のもとで「誰の」表現の自由を考慮するかが問題である。抗議者の言動を裁判所が差止めれば、それこそが表現の自由の制限となるから、裁判所が差止の権限を行使するにあたっては、表現の自由の趣旨を取り込んで適用しなければならない、というのが間接適用説だろう(ドイツのリュート判決はこれとそっくりな構図だった)。表現の自由の私人間効力は、抗議者に対して、一般論として相手の表現を一切抑制しないように注意する義務を課すものではない。もしそうだとすれば、あらゆる抗議の類が不法行為になるはずである。
③嫌がらせがあるなら不法行為なのは違いない。それは個別事例による。
関連して。
type-100 175条にしても猥褻物の作成・所持を禁じているわけではない。猥褻性を持つものも表現言論の自由の保護を受け、他の権利との綱引きで規制されている。
確かに、刑法175条はわいせつな文書・図画等の作成・所持を禁じていない。その限りであなたのいうとおり、「保護を受け」ると考えてみよう。しかし、販売・頒布は禁止される。警察が刑法175条の取締りの方針を変更して、性器が露出したり、性行為を描写するあらゆる作品を取り締まったとする。そこで作成・所持だけが保護されたとして、何の意味があるのか。「保護されない」という言い回しが気に入らないなら、「保護のレベルが著しく低い」という風に言い換えた上で読んでいただきたい。加えて、最高裁は作成・所持の禁止まですれば違憲となる、とも言っていない(アメリカなら、Stanley v. Georgia, 394 U.S. 557 (1969) 判決がそう言っているが)。
(2)
CocoA "一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである"<-えっ、廃止に賛成している表現の自由の戦士たちを知らない・・・?
「戦士」なら刑法175条を廃止する署名運動なり政治運動なりをやるべきであろう。あるいは「戦士」とはただのネット弁慶か。廃止が提案されたら賛成するが、そうでなければ特に何かしないのか。
(3)
hom_functor これだけ長文書いても表現を規制する合理的な理由は絶対に説明しないんだよな。「抗議をやめる~ように請求する法的資格を有する」なんて見かけない主張を創作したり反論しやすいブコメをチェリーピッキングするだけ
「規制」なのかという問題か否かを読み取っていただけてないらしい。上記で書いたように、抗議運動なりボイコットなりは「規制」ではない。政治道徳的な観点からそれに理由があれば正当だし、理由がなければ不当だというだけのことである。むろん嫌がらせの類は、不法行為である。抗議運動なりボイコットに理由があるかという部分はともかく、「規制」というおかしな問題設定をしていることが馬鹿げているということだけはくみ取っていただきたいのだが。
(4)
sirobu 表現の不自由展に対する街宣カーも自由を制限する不当な圧力だと思ってるんだけど、増田はそう思わないってことかな?
あなたが街宣カーで街宣される時点で表現の抑圧だと考えていることはよく分かった。そういうレベルから見解が異なるのなら、議論がかみ合うことはないだろう。以下は参考まで。街宣カーで道路を走りながら何か言うだけなら、それは自由である(馬鹿なことを言っているなとは思うが)。問題は街宣カーそれ自体ではなく、殺害予告だったり大量電話のような嫌がらせだろう。また、名古屋市長の支出拒否しかり、大阪府知事の会場施設利用不許可しかり、公権力が規制に乗り出していることを考えれば、表現の不自由展では「不当な圧力」どころか、ズバリ「規制」が問題だった。公権力が嫌がらせを煽っていることも見逃せない(特に名古屋市長の愛知県知事リコール運動)。
(5)
thesecret3 憲法は法律ではないので専門家や判決がどうでも各自が独自の解釈で主張してもいいと思う。自由を保障すると言ったら基本は保障されなければならないのであって政府が邪魔しなければいいってもんではないと私は思う。
なんか進次郎構文っぽいトートロジーが・・・。
下記のエントリー(anond:20220701074807)で色々と書いてある点について。目下話題になっている「表現の自由」について。自分用の整理として。
目下話題の「表現の自由」は、いかなる意味で表現の自由なのだろうか。それは憲法21条1項に見られるような法的なそれだろうか。それとも、憲法21条1項のようなものとは異なった何かなのだろうか。たとえば、JAなんすんが制作した『ラブライブ! サンシャイン!!』のキャラクターを利用したポスターについて、絵の内容がが性的である※1という批判があった(なお、これや宇崎ちゃん欠缺ポスター事件の余波で、赤木氏らツイッター凍結騒動があったりした。覚えているだろうか?)。
ここで、抗議をJAなんすんが考慮して、ポスターを撤回したとする。すると、「誰の」自由が「誰によって」侵害されているのだろうか。侵害者をざっくりと抗議する者として捉え(本来、ツイッターで批判的な言葉を言っている者、電話をかけて意見を伝える者、付和雷同していたずら電話をする者、大量の手紙を送りつける等のいやがらせをする者等を十把一絡げに全部抗議者として捉えるのは適切ではあるまいが)、被侵害者をさしあたってJAなんすんとして、JAなんすんが抗議者に対して抗議をやめる(たとえば、ツイッターで「ポスターを撤回すべし」等の意見をつぶやくのをやめさせる)ように請求する法的資格を有する、というのが表現の自由主張の趣旨か。
はっきりいえば、そのような主張は法的には認められない。私人間効力の論点を見直すべきであるとしか言い様がない。ここで、抗議をやめるように要求する資格があると裁判所が肯定すれば、抗議者の表現に裁判所(=国家機関!)が介入することになり、それこそが表現の自由の侵害である。この構図において、憲法21条1項が保障する表現の自由の恩恵に浴するのは抗議者の側となるだろう。目下話題の「表現の自由」は、憲法21条1項とは異なる問題であると解するのが相当である・・・のだろう。
元々のエントリーでは次のような言明がある。
言いたかったのは、フェミニストはあくまで「女性の実質的な表現・言論の自由を高めるための環境づくり」を目指しているのであって、「表現規制派」というレッテル貼りは間違いだということ。フェミニストやリベラル派が目指すのは、あらゆる階級や属性の人が等しく表現の自由を行使できる社会だ。
これに対するブコメはこう言っている。
preciar おまえ等がぶっ叩いてきた作品のほとんどが女性の手になる物である時点で、ただの妄想というか開き直りでしかない/そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ?恥に加えて知恵も無い
後段の「そもそも平等のために表現を規制しろと言う主張が「規制派」でなくてなんだ」という部分に注目したい。再びポスターを題材とする。「規制」という言葉を使うのは公権力ではないから不適切のように思うけれども、例のポスターに対する抗議は、ポスターを掲示することを抑制しようとする意図を有し、ある一つの表現を抑圧する行動である、という部分を問題として切り出すことにしよう。ここで想起するべきなのは、表現すべてがまったく自由(というより、放縦のまま)とされることなどあり得ないということである。たとえば名誉毀損的な言動は認められない。名誉毀損的言動をしている者を叱りつければ、それは一つの表現の抑圧には違いない。しかし、名誉毀損をされないというのも重要な利益であり、自己表現の利益と考量される対象となる(そうならないという人はいないだろう)。プライバシーも同様である。ノンフィクション『逆転』事件を想起すれば良い。前科を実名で暴露されない利益を重視する見地から、『逆転』における表現が抑制されている(この事件では、慰謝料の請求を裁判所が認めているから、公権力による「規制」ですらある!)。プライバシーの保護のために表現を抑制するべきであるという主張は「規制派」であろうか。
名誉毀損やプライバシーは具体的な個人の利益が問題となっているが、女性蔑視の問題はそうではないと思うかもしれない。しかし、番組準則のように、社会に薄く広く広がる利益保護(たとえば、放送番組の政治的公平性)を保護するために、表現を抑制する(番組編集準則であれば、放送局の自由)ということは、そうおかしな話ではない(なお、憲法学では、番組準則は、それへの違反が総務大臣による放送免許の取消原因になり得る等の効果をもつ限りで違憲であるとしている。)。たとえば、大阪府知事・大阪市長・橋下徹のトーク番組に対して、政治的に公平ではないという批判は、無論番組作りを抑制する可能性がある。実際、激しい批判を浴びて、大阪毎日放送は社内調査を行って検証したのである。これも「平等のために表現を規制しろと言う主張」だから「規制派」となるのだろうか?それはそれで一貫した立場ではある。それこそ「知恵も無い」と思うが。
なお、念のためにいえば、プライバシーも名誉権も日本国憲法は明文で保障していない。そのような利益であっても、憲法21条が保障する表現の自由にとっての対抗利益となることができる。憲法の明文で保障されていない権利は表現の自由の対抗利益になり得ないという考え方は、畢竟独自の見解に過ぎない。
選挙において「表現の自由」を掲げる政治家がいる。彼らの問題意識は極めて偏頗ではないか。日本の表現の自由をめぐる問題状況は深刻なものがある。ところが、こと選挙で「表現の自由」を旗印にする者の言動を見ていると、選挙運動の規制、公務員の政治的意見表明やストの広範な禁止、放送資源の分配問題、政府情報の保全・公開等々、様々な形で存在しているはずの問題状況が捨象されて、取り上げられているのは「マンガ・アニメ」の自由ということになっている。また、「アニメ・マンガ」だけを対象にしても、取り組む分野が偏っているのではないか。たとえば、これ(https://twitter.com/KenAkamatsu/status/1542366137979400193)には『国が燃える』事件が入っていないが、右翼の抗議は免罪されているのか。あるいは、最近の『「神様」のいる家で育ちました』も入っていないが、宗教団体からの抗議は免罪されているのか。上記は、批判としてはマージナルかもしれない(忘れていただけかもしれない)が、刑法175条の廃止等(ポルノの合法化;「有害図書」販売規制の廃止ないし合理化)を公約に入れていないのはどうしたことか。
「表現の自由」を掲げる政治家の言動を観察していると、一つ気づくことがある。彼らは、表現の自由を抑制している制定法を改廃するのではなく、規制の対象外となるように関係機関に働きかけを行って「免除」(制定法の外部で活動しているのだから、お目こぼしに近い)するという活動に主眼を置いているようである。念のためにいえば、そういった活動を政治家が行うこと自体は奇妙なことではない。問題は、「表現の自由」といった一般的・普遍的権利を掲げながら、規制の廃止を唱えるよりも、特定の表現に限って規制を免除するように(制定法の改廃ではなく)法執行機関に働きかけをしていることである※4。取締当局に働きかけをして有利な方針を引き出すという方向性は、自由にとって脅威であることに変わりはない。結局、働きかけをする人物の意向によって「自由」の内実が左右されることになるからである。「免除」の仕組みを動かす人物が特定の出版社や特定の作品群を代表している場合、その他の出版社・表現には「免除」を拒否するという形で脅威となる可能性が存在し続ける。政治家の言動をナイーブに受け止めてはいけない。
なお、私は実は「アニメ・マンガ」の中の特定の作品群のみを対象とした偏頗な政治運動自体がけしからんというつもりはない※5。しかし、「表現の自由」という看板は下ろしてもらいたい。
「表現の自由」を掲げる政治家ないしツイッターアカウントを見ていると、「エロ(・グロ・ナンセンス)」の自由を重視しているような印象がある。こういった表現一般について、公権力の介入を排除する防御権があるのは当然だ、という前提があるような気がする。しかし、「わいせつ(obscenity)」にあたる言論は憲法上の権利として保護されないはずである。憲法上の権利として保護されないということは、内容規制をしても合憲であるということになる。日本の最高裁の考え方もそうであろう:
なお性一般に関する社会通念が時と所とによつて同一でなく、同一の社会においても変遷があることである。現代社会においては例えば以前には展覧が許されなかつたような絵画や彫刻のごときものも陳列され、また出版が認められなかつたような小説も公刊されて一般に異とされないのである。また現在男女の交際や男女共学について広く自由が認められるようになり、その結果両性に関する伝統的観念の修正が要求されるにいたつた。つまり往昔存在していたタブーが漸次姿を消しつつあることは事実である。しかし性に関するかような社会通念の変化が存在しまた現在かような変化が行われつつあるにかかわらず、超ゆべからざる限界としていずれの社会においても認められまた一般的に守られている規範が存在することも否定できない。それは前に述べた性行為の非公然性の原則である。この点に関する限り、以前に猥褻とされていたものが今日ではもはや一般に猥褻と認められなくなつたといえるほど著るしい社会通念の変化は認められないのである。かりに一歩譲つて相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。
「エロ」の自由を擁護していくとなると、「保護されない言論」の判例法理の桎梏をいかに除去していくかを考えるべきであろう。スウェーデンではポルノも出版の自由の対象とされていることに注意する必要がある。スウェーデンの憲法典の一部を構成する出版の自由に関する法律は、出版の自由を制限できる場合を限定列挙する。児童ポルノは出版の自由を制限できる場合に挙げられている※6が、ポルノ一般は挙げられていない。他方で日本の状況を考えてみよう。もはや何の修正もなく『チャタレイ夫人の恋人』は出版されているが、刑法175条自体は生きている。最高裁は判例を変更していない。捜査機関が取締りの方針を変更すれば、刑法175条でもって再び刑事罰が科されるであろう。他の成人向けのアダルト・ビデオにしても、マンガにしてもアニメにしても同様である。一般に「エロ」の表現の自由を目指していきたいのであれば、少なくとも刑法175条を廃止しなければならないはずである。しかし、この最大の桎梏の存在を認識していない者も少なくないように思う。もしかすると、このような規制状況はもはや動かしがたいので、所与としなければならないと考え、より低い脅威度のものを優先しているのかもしれない。あるいは、彼らが取り組んでいる「マンガ・アニメ」は実は「わいせつ」にあたらない物件のみで、ハード・コア・ポルノ的な「マンガ・アニメ」は眼中にないのかもしれない。しかし、それでは『チャタレイ夫人の恋人』や『悪徳の栄え』、あるいは『蜜室』に取り組んだ人々と比べてあまりにチャチな取り組みだと思う。
丸山眞男を引き合いに出すまでもなく、日本人は既成事実に弱いと指摘される。いったん規制されると大変だから、規制される前に対処する政治家が必要であるという言い分を聞くが、既成事実に屈服して「一端規制されると大変」な状況を強化しているのは誰なのだろうか。
※1 ここで「性的」として批判されているのは、単に裸体だとか性器が描写されているという意味ではなく、ほぼ女性蔑視的という意味に等しいことに注意するべきである。
※2 書いているうちに思ったが、リュート判決の構図に似ている。
※3 スウェーデンなどの欧州諸国ではポルノが合法化されている。スウェーデン等で購入したヌード写真集を日本に輸入して税関検閲に引っかかる、というのが税関検閲諸事件の流れだ。
※4 なお、児童ポルノ禁止から創作物を除去せよとの主張は、一般的な規制の問題として評価できよう。
※5 むしろ、出版社の利益を守るためと考えれば、個別の出版について規制をお目こぼししてもらう活動も大事だろう。だが、あくまで出版社の権益であり、表現の自由という共通財の問題ではない。
※6 日本で出版されている成人向けマンガ・イラストが児童ポルノにあたるかと言った事件があったのだが、スウェーデン最高裁はマンガの表現形態に十分配慮した判断を行っている(NJA 2012 s. 400. 翻訳もある。外国の立法255号[2013年]223頁)。このような判断を日本の最高裁がするかというと、全然しないだろう。
1.マッチングして会えた=脈アリと考えるのは早計。
2.「付き合って3ヶ月目で初めての…」とは限らない。
自分では「段取りを踏んで付き合いを重ねてきた」と思っていたのかもしれないが、相手は選考終了のつもりだったんだろうね。
3.第三者が介入してくるのは「話が通じない」と思われていたから。
自分の話を全く聞かないブラック企業を退職する時、ちゃんとした退職手続きしないとか嫌がらせがあると心配だったから弁護士事務所に退職代行頼んだけど、スムーズに辞められたよね。
「自分が正しい。相手は自分の言うことを聞くはずだ」と思っている人から逃げるには公権力や法的知識を持った専門家を頼った方がいい。
https://twitter.com/nae_auth/status/1516394011325571072
このツイートが話題となっている。スレッドの上のほうで「ゾーニング」がどうこうと言っているので、『月曜日のたわわ』の問題についての話ということでいいはずだ。
このツイートで特に問題になっているのは、「自由な娯楽を嗜むには一定以上の知性が必要で、そうでない人には自制が難しく作品に影響され自分勝手で感情的な行動をとりやすくなってしまう」という部分だ。
多い批判が「選民思想だ」みたいな話である。まあ選民的でないとは言い難いのだが、youtubeとかYahooニュースのコメントとか見ればわかると思うけど、世の中話が通じない人っていうのはかなりいる。娯楽作品を「正しく」楽しめる人っていうのは、楽観的に見て、世間の半分、いや三分の一……くらいは……いてほしいが、多分「マイノリティ(!)」である。
この主張は、要するに娯楽作品の犯罪描写に影響されて犯罪を起こす、という話に基づいている。これについてはいくつかの研究があったと記憶しているが、肯定的だったり否定的だったりする結論が出ていたはずだ。
これらの研究のどちらが正しいかという話をしたいわけではないので、まあそこはなんとも言い難い。ここで問題なのは、科学的な議論ではなく、表現の自由のような社会問題を論じるときに、このような(たぶん)科学的な研究に基づいたフリをして、賛成・反対に立つ人間が主張することである。
そういう人たちが、論文を読み比べた結果としてどちらの研究がより正しいと考えられるのでそちら側に立つ、なんて手順を踏んでいるわけがない。結論に合致する研究を持ち出すだけだ。大麻合法化とかの話もこういう議論が行われているはずで、これの良しあしがどうとかいう以前に、議論が成立するはずがない。
で、いわゆる「表現の自由戦士」(この言葉に「ネトウヨ」とかみたいに侮蔑的なニュアンスが含まれているのかもしれませんが、単に他の表現を知らないので使っている、とポリコレ的な言い訳をしておきます)の側にとってマズいのは、学者の間で、「人間は娯楽作品の表現に影響されて犯罪を起こす傾向がある」という考えがコンセンサスを得てしまうことだろう。
彼ら戦士たちは、上記のようなことはない、という立場の研究にかなり依拠して自らの主張を保持しえているのだから、もしそういうことになったら大変だ。大体学問の世界は割とリベラルが力を持っているわけで、結構危機的なんじゃないだろうか。
わざわざこんな文章を書くくらいだから、私も娯楽作品の内容に規制がかけられたくはない側の人間である。単にポリティカルにコレクトな内容の娯楽なんか読まされてもクソつまらないからというだけなので、「表現の自由戦士」のみなさんには怒られそうですが。
そういうわけで、学問の世界が(日本のクソバカな)リベラルにとって都合のいい方向に行ったときに、表現が規制されるということはこのままでは避けられないし、実際(単にクレームとそれへの対応によってではあるが)様々な「自主規制」が幅を利かせ始めている状況である。
一方で「創作に影響されて犯罪を起こすことはあり得ない」というのは、ある種創作を矮小化しているのではないか。
そこで、リベラルの理屈をひっくり返して使ってしまえばいいのだ。ここでは、「娯楽作品の犯罪描写に影響されて犯罪を起こす人がいる」という話はある程度事実だと認めてしまおう。
でもって、「自制が難しく作品に影響され自分勝手で感情的な行動をとりやすくなってしまう」「自由な娯楽を嗜む」のに必要な「一定以上の知性」がない人もいるという側面もあるにはあるだろう。(ただし、私はこういうのは「知性」というよりは、「常識」とか「(人文・社会・自然)科学的な素養」の問題なんじゃないかと思う)
宮崎勤事件の報道をリアルタイムでは知らないが、要するに宮崎勤がオタクで、ロリコンポルノに影響されて事件を起こした、という理屈がまかり通っていたはずだ。Wikipediaを読む限りはそれは否定されているようだが、有名ではなくとも、そういう事件はあったにはあっただろう。
日本で語られる「犯罪の動機」が大体警察の作文であるにしても、根っこにそういうことが潜在的にあること自体を否定するのは困難だろう。
しかし、宮崎勤事件もそうだが、センセーショナルに報道される事件というのは、無差別殺人みたいに、わかりやすく怖くて視聴率が取れる事件である。たいていの犯罪は、非常に狭い人間関係での問題か、経済的な問題によるものであって、そういう事件はレアケースなのだ。
まして「自由な娯楽を嗜む」のに必要な「一定以上の知性」がない人が、それが原因で事件を起こすというのは、世の中の犯罪のなかでも非常にレアケースで、リスクは自動車とかのほうがはるかに高いだろう。
そんなことをいちいち予防して回るのは、過保護としか言いようがない。
しかし一方で、そういうので「不安だ」とかみんな言うわけである。ちょっと違う話だが、(ポルノとかじゃなく、ガチの)性犯罪者にGPS発信機をつけて位置情報を公開すべきだ、と言う話について、「不安を解消するためには、この程度の人権の制限は必要だ」という意見が、有名人から発信されていた。個人的には、人権をそんな風にとらえる人間が同じ社会にいるのは結構「不安」なのだが……。
リベラルな人らが大好きな日本国憲法を読めば、権利の制限は「公共の福祉」に基づくべきだ、とみんな理解できるはずだ。「安心」なんてものは「公共の福祉」なんかではありえないだろう。「不安」なんてことのためにいろんなことを規制するのは、公権力がやるべきことではない。
大体、世間の人々が不安になるのは、マスメディアの報道に「影響されている」からだろう。日本はこんな社会なのに、恐ろしいことに犯罪は減少傾向だったはずだ。みんなもっと科学的思考をしてほしい。特に学問しか取り柄のないリベラルな学者のみなさんは、このような世間の風潮を批判すべきであって、それに便乗して、多くの善良な人々を、人権などクソほども守られない日本の監獄にブチこめるようにすることなんか望むのでは、「リベラル」という言葉は無意味どころか逆の意味になるじゃないか。なってるんですけどね。それも「グローバル」に。
「表現規制」に反対する側が言うべきなのは、以下のようなことだろう。
「娯楽作品には人を影響する力があるし、それによって犯罪を起こす人もいるかもしれない。でもそんなの犯罪の中ではレアケースですよ。あなたたちテレビの報道に『影響されて』言ってるんじゃないの?そんなことのために我々『一定以上の知性』がある人々から自由を取り上げるのは、『マイノリティ』の迫害だ!」
「萌え絵を燃やすより具体的な犯罪対策を」とか言ったらそりゃ叩かれるのでは。
『具体的な犯罪対策』と二次元作品への批判ってどっちも出来る事であって問題なく両立するのに
(しかも月曜日のたわわを批判していたのは主に一般の女性であって別に議員でも何でもないから『具体的な犯罪対策』とやらを考える必要すらない……)
「消費税減税よりも賃上げを」や「給付型奨学金よりも授業料の値下げを」「外国人への生活保護よりも日本人の困窮世帯を」
みたいなのもそうだけど、
別にそれらは両立できるじゃん。両方やればいいじゃん。
別に二者択一でも何でもない問題をトロッコ問題みたいにして勝手に二者択一にして考えたがる人に市議をやって欲しくないでしょ。
それは政治家として怠慢だよ。
赤松 健 ⋈ @UQ HOLDER! 最終話完成さんがリツイート
山田太郎 ⋈(参議院議員・全国比例)@yamadataro43
私からは、公権力を用いて民間に表現内容の変更を迫るのは「表現の自由」に抵触する旨を説明。
niwakano18124 地方議員有志の集まりにすぎない団体を「公権力」と言っちゃうのはなんだかなあ・・・ 社会 行政
pinkyblue 議員の公権力と言うならそれは立法や条例制定であって、これは法案・条例案でも何でもないあくまで抗議声明の域を出ないと思うんだが、フェミ議連の声ってそんなに強制的な影響力あるの?
esbee 自称オタク兼フェミニストとしては、抗議もまた表現のひとつだからね?と。抗議自体を表現規制と言ったら言論の自由に反するわけで、問題は反論せず取り下げた松戸警察だし、採用した責任持って妥協点探れよという
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210910031736
softstone 議員連盟が警察の決定を変更する権力があるとするなら、このオタク議員集団の権力で再度公開するよう圧力をかければ良いのでは。それが出来ないなら、公権力による圧力で削除されたのではない証左になる。
esbee 議員連盟=公的権力と考える側にズレがあるよなー。憲法前文にも『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動』とあって、議員の行動は市民の行動とイコールになると思うのだが…… フェミニズム表現規制興味深い
RRD まず根本から絶望的に間違ってるのは議員=権力、という部分。国語辞典の通り、権力関係とは法的優越性に基づく支配と服従の関係。例の議連にはそれがない。市外の野党議員が警察を支配してるとか爆笑もんの話。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20210912075351
Sometako 地方議員による実力組織への抗議をアプリオリに「弾圧」「圧力」とする法文上の優越性ってなんだろ?/追)入管の非人道性を国会議員が批判したら弾圧になるんだろか?/追)あっ!!まんだらけの件は警察による弾圧だろか? 性差別 考え方 フェミニズム
saiyu99sp 毎度面倒な目に遭いたくないから警察も引っ込めたんだよね。そうする力を権力というのかは知らん。おぎの議員は警察に面倒かけるな!という立ち位置なんじゃないの?
RRD 権力とは端的に言えば法的な強制力のこと。こんな当たり前の話すらカルト化したオタクには通じずに、権力権力と大騒ぎして権力の手先になってる。コメディだとしても極めて悲惨。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/matsudosimasuda/status/1439747781795606529
usi4444 地方議員がどういう力を使って警察を従わせたと萌えオタは考えてるの?この手のマスコットはゆるくないと万人受けせず、外部からの指摘でトゲがあることに気付き警察が自身の判断で削除したと考えるのが妥当。 警察増田政治社会
善悪には、生まれた国家や家庭環境、教育により人それぞれ違いがあって当然である。
そして国には法があり、その縦分けの善悪とは別に、個人の持つ善悪の境界線がある。
今の中国や韓国等は教育により、日本に対しての善悪は我々日本人には理解できないくらい善悪の境界線の差がある。
かつて軍艦島の世界遺産認定のニュースで韓国民の軍艦島をアウシュビッツと例えたのには全日本国民は驚いた事であろう。
日本人も嘘はつくだろうが、ここまでの嘘を真顔で言ってくる外国人が居るわけだ。
最近は多くの外国人が日本に入って来ているが、感じている方も多いと思いだろう。
個人個人においても同じ国に生まれ、教育を受け住んでいて同一の法律を守って生きていても、更に細やかに部分での善悪の差別がある。
一方はこれをしたら自身の心の神仏に申し訳ないと思う者と、そのくらい何でもないと思う者の差がある。
モラルハザードとも呼ばれるものだが、人によっては関係無いと感じる事でも、すごく罪悪感や悪と決め付ける事柄があるだろうし、その時々のケースによっても差がある。
まず最初に己達が犯罪を始めておき個人情報を不正に入手しているにも関わらず、そのターゲットの特性にイチャモンを付けてくるやり方だ。
ターゲットの特性、人格に合わせて勝手に想定し犯罪予備軍と決め付けるのだ。
それは万引きの常習者、頭が可笑しい、酒に溺れやすい、ギャンブル依存症、女性と見れば誰彼無く等、その程度の事は監視にも価しないし、監視している当人も同じ穴の狢と言えよう。
探偵の浮気調査程度なら分かる辺もあるし、お金のある人はそう言う事をしたがるそうだ。
そして大きな仮想犯罪予備軍としてのレッテルに加え、日常のクセ等を善悪で捉え仮想の犯罪者として、こじつけを行う。
ここがこの者達の汚いやり口で、被害者を悪と決めつける処から始める犯罪だ。
その犯罪とは、不法侵入、住居侵入、器物損壊、泥棒、窃盗、のぞき、通信傍受、盗聴、盗撮、つきまとい、尾行、待ち伏せ、悪戯電話、悪戯FAX、
個人情報漏洩、個人公文書不正入手、薬物混入、薬物投与、プライバシー侵害、肖像権の侵害、ハッキング遠隔操作通信妨害、通行妨害、車の幅寄せ、
電磁波による暴力暴行、輸送物開封、クラクションやスピーカーによる音声の迷惑行、超音波音声送信、これらの個人情報を利用し圧迫感を与えるあらゆる行為、
これら全ての犯罪を以て自殺を強要していく行為、これは殺人罪である。
まだまだあるが大体この位の事はしている。
これを初めから周到に練られた計画によって組織的に行なって来た理由である。
己の方がここまでの極悪犯罪をしつつ、被害者の行動を一々悪と決めつけて
間断なく上記の犯罪を繰り返し24時間365日何年にもわたり、犯罪者の如く扱って行く。
盗人猛々しいという言葉があるが、ストーカー犯罪者猛々しいも程がある!
これは武士道の国日本の昔からの犯罪の価値観とも大きく異なる気がする。
この法律以外の善悪の差別は、人の受け取り方一つであり、育った環境や教育により差があり、
自分の善悪正邪を人に押し付けられるものでもないが、どんな品行方正な方でも、無理やり犯罪者もしくは病気、統合失調症に仕立てていくであろう。
ましてや100%の人間等いるはずも無いので、あらゆる隙間を突いてこの犯罪予備軍としての決めつけ行為をして来る。
それをも拒否し無視を続けると、家族や親族、友人等、ターゲットの重要で大切な人達に類を及ぼすぞ、と言った脅しをかけてくる。
「云う事を聞かぬと、お前の大切な人の命がないぞ」みたいな事だ。
こんなものもういったい何ですかと言いたい。
自分が犯罪を犯し、人を勝手に犯罪者に決めつけ、それを受け入れなければ、人質の命は無いぞ!
殺人罪が発覚し、逃げ果せなくなった犯人は人質を取り立こもり、という籠城事件があるが、その部類の犯罪心理ではないか?
さて、法律以外の善悪、秩序、モラルに関していちいち干渉し指摘し悪と決め付けて来るのだが、
ここに前提というものが必要であると考える、日本国のように自由主義の国に生まれ育った場合、一定の価値観ではなく多くの価値観がある。
ヨーロッパ等の自由主義の国々には日本とはまた違う多くの価値観が存在する。
民主主義の多数決の国とは言え多数の価値観が善ではなく、少数の価値観が悪では無い。正邪もおのずと同じである。
それ故から我々自由主義の国においては、前提として色々の人様々な人がいて当たり前、と言う考えも必要であるし、居て当然なのだ。
昔人生いろいろと言った総理大臣がいたが、だから面白いのではないだろうか?
被害者の方は一方的な仮想犯罪者にされ、こじつけられる筋合いは無いのである。
日本人のように小さい島国で育った人々は、まず対面を気にするし、大陸の国々とは違い、外へ外へと言うよりは内へ内へと考えがちで自虐的な方も多いはずだ。
この追い込み形の自殺強要、殺人組織監視システムで本当に自殺させられた方が何人いるのか知らないが、そうなる理由は良く分かる。
また鬱病や統合失調症、引きこもり等も、こういう犯罪が無くても多いだが、何でも無い人まで、そこに至らしめる犯行と言わなければならない。
この犯行に耐え、自己バランスを保っている者が、それぞれ自分なりの活動を行っている事が分かりる。
絶対改めざる集スト犯の首謀者は資金力、法の不備、公権力を使い完全犯罪の如くやっているが、裏を返せば絶対バレてはマズイ犯罪なのだ。
どんな事をしても隠さねばならないと言う事があるだろうし、既に何人もの方が被害者として知っている人も知らないまま殺された方もいるわけであるし、それを知っている者だ。
後戻りは出来ない、一人殺すも二人殺すも百人殺すも自殺させるも同じであるし決して悔い改める事の無い、出来ない者になっているのであろう。
この記事と前の記事を書いている時の加害の肌で感じるモノは、ズハリその通り、もうそれ以上ではないと言いたげな感覚を身に受ける。
毎々増田応援で駆けつけてくれる被害者がいる事を知っての、他エントリでぬくぬくと犯行を繰り返していた安心感が揺らいできたか?
とうとうそこまで気づいたか!バレたかという意味合いが伝わる加害である。
https://togetter.com/li/1791822
「お気持ち」をシカトして「法に違反してなければ何してもいいんだよ」とやられたら法で殴るしか選択肢がなくなる。
それでまんだらけ側も大ダメージをおったわけだ。最初から近隣に配慮していればこんなダメージはおっていないだろうね。
法に触れてなければ何をしてもいい、という考えを大声でいいたてているというだけで、まるでタガのはずれた連中なのだなあ、としか思えぬ。
法に触れていれるというだけで一斉に黙ってしまう、というのもいかにも権威主義で、お上にはいっさいさからわないまま「表現の自由」などと抜かすのも笑えるな。
「表現の自由」を守るためには必然的に公権力と対峙する場面があるわけだが(そもそも公権力と対峙するために表現の自由はあるといえる)
実際に「法に触れなければ何してもいい」で大ダメージをおったよね。法治国家、というのは法以外の規範を無視してもよい、という意味ではないことくらい理解しようなw
風営法の200m以内がどうこう、というのはゾーニングど真ん中案件だということは理解しているかな? あとね、例えば中国で表現の自由を実践しようとしたら、必然的に法に抵触する。表現の自由は、とにかく法に従います、というところでは守れないんだな。
上でやりとりあったようにこれは風営法であって表現の自由案件じゃないんだけど。仮に表現の自由案件だったとして、現行法を超えた自由を得たいなら、まずお上に取り合って法を変えましょうというのが正規の手続き。やりたいことがあれば法だって無視しても良いという考えが表現の自由じゃないよ。性表現をそのまま支持する=表現の自由戦士が押し通そうとしてる、性表現が許されなかった=表現の自由戦士は無力 って背景も条件も考えずにどちらの結果でもスキあらば場外を叩こうとするからおかしな発言になるんだぞ
だからそのゾーニングが今回の場合は法律で明確に定義されててそれに抵触するってことが報道ではっきりしたんでしょ。曖昧だったり定義されてなかったり判断が割れたり法律に基づかない批判だったり現時点で適法だけどこれから違法化させたいとかそういう表現の是非を問う争点は無いわけで。そしてここは日本で、本件は日本の法律と照らし合わされる。勝手に全世界対応の表現の自由を進めたくて仕方がない人扱いされても知らんがな。
リベラルが「MtF(所謂トランス女性の事)問題」や「キラキラネーム問題」に際して自分から化けの皮を剥ぐという事態はもはやネットの風物詩である