はてなキーワード: 中学生とは
どう見ても「性嫌悪こじらせた女性のイメージする想像上の男性ジャンプ読者」なんだよな。今はどうだか知らんがToLOVEる連載してた頃に「リアルでToLOVEるについて語り合える」というのは(特に中高生では)極めて特殊な環境で、圧倒的に排斥されるマイノリティの側じゃん— ニド (@2ewsHQJgnvkGNPr) August 20, 2020
どう考えてもフェミニストが想像した典型的なイマジナリー男性にしか見えないし、実在したら実在したで、ToLOVEるを読んでないだけで発狂するような狂人に必要なのは教育とかではなく病院に行って適切な治療を受けることでしょ— ニユリム@C98(土)南ユ32a (@niyulym) August 19, 2020
あれ多分書いてる女性にとってはToLOVEるを大学生くらいの男性がみんな読んでるのが当然だと思ってたんだろうな。
ToLOVEるを最も熱心に読んでいる男子は小学生高学年~中学生くらいだろうが、その年代の男子にとってはToLOVEるを読んでいるというのは誇らしいことではなく、たとえ読んでいたとしても友人にひろく公言できるようなことではない。一方で大学生にもなれば成人向けコンテンツが溢れているためToLOVEるをそんなに必死に読むことはない。雑なんだな。
おそらくオタク友達の女性に「女性なのにBLを読まないの?ありえない!」と言われて不快に感じた個人的体験を基にしてエピソードを作ってそう。となると筆者はノマ厨、夢女子とかかな。女オタクだがジャンプを主食として育ち、BLには馴染めないタイプ。男性社会との接点がジャンプしかないため、男性といえばみんなToLOVEる愛読者だと思っている。
以前盛り上がった「かつてのネットでは女性は迫害されていた」という話題のときに、「その証拠に、2ch少年漫画板のジャンプ関連スレでは女性は迫害されていた」という事例がいくつも女性オタク側から出されていたが、いやいや、男性といっても「ジャンプを読んでいる」、「2chをやっている」、「少年漫画板に書き込む」という時点でめちゃくちゃ偏って選抜された属性だよ。あなたが当時男性社会とつながるのが2chのそんな特定の板のスレしかなかったのもしれないが、それを社会全体と思うのは認知のゆがみですよ。
緊張したり怒ったりすると涙が出る。
別に泣きたいわけじゃないのなあ。
なんで?とか言われても分からん。
中学生の頃は職員室の入り口で担任を呼ぶだけで緊張して泣いちゃった。
就活中、最終面接後に総務と面談した時も気が抜けて泣いちゃった。
なぜなのかなんて私が知りたいよ。
こいつ本当には悩んでないんだろうな、ってことがよくわかる文章だな。
まず改行を学んだほうがいい。他人に読ませようという気がないにもほどがある。
句読点ごとに改行してみてページが長ったらしく感じるなら、それは書きすぎだということがよくわかるよ。
返事が来ない=相手にとっては迷惑なのに、構わず送り続けるとか迷惑すぎる。
しかも治す気がないし。
ここにも反応がたくさんきてうれし〜くらいのことしか思ってなさそう。
たくさん文章かけてすごい!って自分のこと思ってるなら訂正しておこう。お前の長文、なんの魅力もないよ。それどころか汚い。中学生レベルだよ。(こう言うと文章のうまい中学生に失礼なくらいだ)
機動警察パトレイバーの初期OVAシリーズを始めてみたのは中学2年の頃だった
ちょうど劇場版パトレイバー2が公開されている時期だった(当時はそんなこと知らずにたまたまこの時期にハマった)
レンタル店で劇場版1作目を見て面白くて、OVAシリーズやTVアニメシリーズを借りて見るようになりドハマリした
その頃、初期OVAシリーズの廉価版のビデオが売られてて、中学生の僕の小遣いでも買えるくらいの価格だったので購入し
それこそテープが擦り切れるほど何度も見ていた。
それから10年くらいは、定期的に見返していたけど、ここ10年くらいは見てなくて、今年久々に見返してみたんだが
昔好きだったアニメを今見返してみたら、そうでもなかったりすることも多々ある中、パトレイバー初期OVAシリーズは、全く色あせてなかった
今僕は41歳なのだが、中学2年の14歳の頃のあの頃のままの面白さでびっくりした
まあ思い出補正もあるんだろうが、やっぱりパトレイバーは面白いなと思ったんだけど、
それよりも、初期OVAシリーズは、元々全6話だったはずが、人気が出てもう1話制作され、その後、劇場版やテレビシリーズが作られていったわけだけど
当時は、パトレイバー以外にも様々なOVA作品が発売されていた、中学生当時の財力では全部は見れなかったが
中学当時としてはちょっと大人でマニアックな感じの作品も多く魅力的に映る作品も多かったと思う
もちろん今ならネット配信ということになるだろうが、全3話とか全6話とか短い話数でクリエイターが作りたいものを作るみたいな。
夜に寂しくなったり、絶望的な気分になることはある。でも、朝からこんな絶望的な気分の時は、あぁ、自分、やばいなって気づく。
でも、何を目指したらいいのかわからないし、何を楽しみに生きたらわからない状態で、生きる目的なんてないんだわ。
でも、だからといって、死ぬ勇気もないのに、「死にたい」「自殺」ってネット検索してしまう。
そういえば、私が中学生の時、友達がマンションから飛び降り自殺をした。
その時、なんで?なんで?なんで?って思ったけど、もうあらから20数年経った今、友達と思えないくらい、彼女は勇気のある人だったんだなって思う。
宇崎ちゃんを撲殺した絵を描いたのがオタクであった事が一部で議論になっている。
「描いたのはオタクだから差別じゃない」「フェミのせいにするな」「ポリコレの行き着く先だ」「アメリカの不謹慎なジョークだ」などなど。
しかし、本人のツィートを見れば宇崎ちゃんに対する明らかな憎しみが存在し、単純なジョークではないことはわかると思う。
次に世界のオタクの置かれた状況を見れば、別に不思議でもなんでもない。
世界の、アニメ好き、オタクというのは日本が抜け出したオタク差別の何倍も過酷な状況に現在進行形でさらされていることを前提にして欲しい。
断じて違う。30代後半、40代前半のオタクならば見たことがないと言えないはずだ。
同胞のオタクを生贄として差し出すことだ。「こんなオタク許せない。こんな作品があるから」と一時でも差別する側に回って、安全を買うのだ。
そういう地獄から日本はなんとか抜け出せた(抜け出せていない変な人もいるがそういう人はかわいそうな老害扱いされている)。
しかしながら世界は、そういう差別をあえて容認してきたし、リベラル派も堂々と差別している。
世界のオタクが、突如狂ったように萌えキャラをバッシングしたり、本当は好きなの萌えキャラをポリコレ棒でぶん殴らなければいけないのは、現在の世界のオタクは日本がかつて体験した以上のオタク差別を受けていることを前提にしないと理解できない。
日本のオタクは解放されたが、世界ではオタクはいまだに被差別階級なのだ。
思春期に、「アニメ好きだと学校でカミングアウトできない中学生高校生」がたくさんいる。それが世界だ。だから、オタクが鬱屈して宇崎ちゃんを撲殺して「萌えキャラ許せない」と奇行を起こしてもむげに責める気にはなれない。
相手はクラスのカースト上位の男子。って言っても、顔もブサイクだしサッカーやってるのと話しが上手いので、なんとなく上位の輪にいたっぽい。席が隣になるまで存在すら認識してなかった。
初めて話した時、気軽に話しかけてくれて嬉しかった。内容は、いかにも私の気を惹きそうな、今で言う恋愛工学?っぽい内容なんだけど。でもチョロい私はすぐひっかかった。彼は少し意地悪で、マシンガントーク気味の私をよくからかった。でもなんだかんだで優しいって言うか、すごく気を遣える男子だった。そんなとこが大好きだった。
案の定、彼は学年で1.2を争うレベルでモテた。よく女子から告白されていた。でもまだ恋愛のれの字も興味ない年頃だった彼は、自分に好意を持ってくる女子を嫌っていた。だから私は彼に好意を気づかれないように、でもノリ良く絡んでいた。小学生の頃は、自分の中で1番中良かったの男子は彼だし、彼にとっても一番とは言わなくても、上位数名に入るくらい仲良かった女子だったと思う。
転機は中学生の頃。思春期のこの時期、彼は少し悪ガキになって、私はからの仲間から軽い虐めを受けた。彼からも一回からかわれた。私はショックだったけど、それでも彼の事が好きだった。
結局、中学時代殆ど彼と話してない。一回、好きな作家が一緒!って話しかけられた。あと、辞書でわからない単語を一緒に調べた。嬉しかったな。
高校生になり、私は女子校、彼は県で一番イケてる高校に入った。彼はその学校で、可愛くて明るそうな子と付き合ったみたい。後から知ったんだけど。多分。私といえば、一回後輩と付き合ったけど、すぐ別れた。
接点はめっきりなくなった。でも彼はTwitterをやり始めたので、なんとなく追っていた。フォローはとてもじゃないけどできなかった。今思えばネトスト気味だし気持ち悪い。
Twitterに鍵をかけたのが去年初め。あー!私の楽しみがー!(きもい)
それでも曲げない私は、彼の友人のTwitterをあさってた。
でもこんな事もうやめたい。
どうあがいたってからと付き合うことはできない。
新しい一歩を踏み出したい。
もう彼の事は忘れよう。まじ彼の名前を検索にかけるのやめよう。ほんと。きもいから。でもこれが最後、と言い聞かせながら彼の友人のTwitterをあさってましたらね。
彼が友人とゲーム実況をやってる事を知り、久しぶりに彼の声を聞いちゃったら泣けてきた、そんなメンヘラクズ女の話でした。忘れてぇよ。
少女小説が好きだ。
戦前の吉屋信子氏に代表される「少女小説」から始まり、時代の流れのなかでいちどは途絶えそうになるものの、70年代後半にやはり「少女小説」を愛していた氷室冴子さんをはじめとするコバルト文庫の作家さん方によって再び脚光を浴び、2020年まで連綿と息づいてきた少女小説が、好きだ。
昔からずっと変わらず月が愛でられてきたように、百年前から変わらず「少女小説」を愛しているひとたちがいる。そんな長い歴史の浪漫の一端に、きっと私もいるのだろう。
青春時代、「少女小説」というひとつの空間のなかで、ひそやかに繰り広げられてきた世界に没頭し、陶酔し、生涯大切にしようと胸の前でそっと本を抱えながらその思い出を心の奥底にある宝箱のなかにしまったのだ。
私が初めて少女小説を読んだのは、中学生の頃だった。学校の図書室で、静かに置かれていた『シュガーアップル・フェアリーテイル』シリーズを偶然手にして、優しく柔らかに、そして美しく描かれる銀砂糖師と妖精たちの世界に魅了されたのだ。そこから、『ヴィクトリアン・ローズ・テーラー』シリーズや、『おこぼれ姫と円卓の騎士』シリーズ、『英国マザーグース物語』シリーズ、『彩雲国物語』シリーズなどなど、様々な少女小説に手を出した。あるときには、とある少女小説作家の方に、人生で初めてのファンレターを送ったら、返事が届いた。今もその手紙は、机の引き出しの奥できらきらと輝き続けている。そうした読書体験を含め、少女小説を心から愛している。
とはいえ、たぶん。現在の若年層は、そもそも「少女小説」という言葉を知らないひとも増えているのだと思う。実際、私(※大学生)の周りでも、「少女小説」という言葉を知らなかったというひとは多い。コンテンツに溢れた世の中で、他作品よりも目立つことの難易度は、どんどんと高くなっているのかもしれない。だが同時に、「キャラ文芸」あるいは「ライト文芸」といわれるような作品群や、Web小説のなかに、少女小説の文脈はいまも引き継がれているのだとも思う。
ある言葉の持つ意味が時代と共に少しずつ変化することがあるように、時代に合わせて本もまた少しずつ変化していくのだろう。だから、そうした時代の変化を悲観する必要はないのかもしれない。けれどやっぱり寂しい気持ちもあり、もっと沢山のひとに「少女小説」という存在を知ってほしいと思ってしまう自分もいる。
「小説家になろう」発のWeb小説や、「ライトノベル」という言葉の定着によって、昔なら「少女小説」と呼ばれたかもしれない作品群も、「Web小説」や「女性向けライトノベル」という枠に入ることも増えつつある。その結果、「少女小説」という言葉が再び「知る人ぞ知る」ものになりつつあるのだろう。名前が変わっても、物語が描き出すもの自体は何も変わらないのだから、繰り返しにはなるがきっと悲観することではない。それでもやっぱり、どこか寂しい。その思いから、筆を執った次第である。
「少女小説」という言葉に執着する必要はないのかもしれない。前述したように、物語が伝えたい想い自体は、変わらず在り続けているのだから。
それでも、百年前から愛されてきた、そして私が愛した「少女小説」を、再び世に広く知ってもらえる未来が来ることを祈っている。
人生が向いてない
私は今、床に倒れ込み大泣きしながらこの文字を書いている。きちんと意識している回数だけでもここ4日は毎日泣いているし、それ以前の日だって、毎日のように泣きながら暮らしている。
生きたくない。死にたい。死にたいと考えている。でも死ぬのは怖い。首を吊るどころか手首に傷をつけるのさえ怖い。痛いのはすごく嫌。でも生きるのはとてもつらい。
現在、無職である。社会人2年目にして無職。去年は一年間きちんと働いていたが非常に激務であり、契約が切れると同時に退職した。あと1年続けませんか?と何度も声をかけていただいた。しかし、この激務をもう1年間耐え続ける体力も精神力もなかった。適性もないと思っていた。漠然と、何か別のことをしたくて、それなら早いほうがいいと思って、辞めた。
そして現在無職である。一応就職活動をしているが今までとは全く異なる業種を受けており、ことごとく落ちている。その仕事がしたいわけではない。働き方が希望の条件に合いそうだから、それだけである。しかし実際働いたらキツイだろうし、実際勉強もしてるが難しい上に興味もないのでチンプンカンプンでやる気がまるで起きない。このやる気のなさが面接官に感じ取られているのだろう。就職エージェントに勧められるところを一通り受け、していない勉強をしていると嘘をついている。実際のところ全くできないのに。とてもゴミクズである。知っている。知っているのだ。そりゃ正直働きなくない。でも働かないとお金もなければ世間体も保てないから仕方なく働こうとしている。こんな気持ちじゃそりゃ落ちる。わかってる。もう死んでしまいたいのだ。
本当に働きたい人は何をどうしても、がむしゃらに頑張るんだと思う。でも私にはその気力がない。3月末に退職して現在8月、やりたいことがあるわけでもない。虚無。虚無の毎日である。
頑張れない。一向に頑張れない。
これは仕事の有無のせいなのかと言われたらわからない。仕事をしていたときは仕事場で一人で泣いていた。辛くて辛くて、死にたいと思っていた。仕事をしていても、やめても、死にたいという気持ちは一向に拭えない。
小学3年生の時には既に死にたいなと思っていた。10歳の誕生日「とうとう10年も生きてしまった」と焦り、20歳の誕生日には「子供のうちに死ねなかった」と人生を嘆いた。将来の夢は昔から無い。親に「公務員になったら安定するから公務員になったら?」と言われ、そのことを小学校の卒業文集に書いたらこっぴどく怒られ、いまだにそのことを言われることがある。言われたとおりにしようとしただけなのに。
漫画家やイラストレーターになりたいという夢もあったが、そのような技術も才能もアイデアも、なにより根気も無かったのでとっくに諦めてしまった。今は趣味で絵を描く程度だ。そんな死をずっと思い続ける、無気力な人間だ。
生きる適正がない。言われたこともできないし、自分なりにもこなせない。どうしていいかわからない。相手の気持ちがわからない。指示待ち人間で、言われるまで何も動けない。
ここまで救いようがないなら死ねばいいが、でも怖いので死にたくもない。食べる量だけ多くてどんどん太っている。動くのも中学生の部活いらいまともに運動をしていない。運動のしかたもわからなければ、運動をする気力もない。めんどくさいという気持ち。変わりたいという気持ちが弱い。きっとそうなんだと思う。それこそ中学生のころは本当に毎日泣きながら暮らし、日々死にたいとブログに綴っていた。そのブログはとっくに消してしまったが、10年も経って今、同じことをしている。
身近な人に「相談してね」と言われてもなんと言っていいかわからない。その人の前でただただ泣き崩れてしまう。論理的に考える頭がないので、乱文でもこうして文字に起こすことで自分なりに考えをまとめようとしているところだ。
実際、何を「相談」していいのかがわからない。私は何を悩んでいて、どうしたいのかがわからない。言えることは「私は死にたいが死ぬのが怖いので、なんとか生きていきたい」だと思うが、そもそも「なんで死にたいの?」なんて聞かれたらわからない。生きるのが向いてないから。じゃあなんで生きるのが向いてないと思う?みんなみたいにうまく立ち回れないから………… みたいな掘り下げをしていると本当に鬱々としてくる。いやだ。あぁ、ここで私の得意技である現実逃避。自分と向き合うことが怖い。理屈ではわかってる、わかってるけどそれは相当なストレスで、楽したいから避けている。
結局、自分と向き合うことができない人は自分の人生なんか生きられないんですよね。でもその自分との向き合い方もわからない。今自分で自分を正論でめった刺しにしているのが辛い。また泣いている。
身近な人にほど相談は難しい。自分の素性を知られたくない。駄目な人って思われたくない。きっとバレているのに。それでも言いたくない。不特定多数に見られるインターネットのほうがよっぽど気が楽である。
転職エージェントに言われることは「自信がないから自信を持って」ということだ。面接官にも言われた。身内にもそれは言われるし、自分でも思う。自分には自信がないと。自分の課題はそこなんだと思う。
でも、そこまで誇れることも何もないのだ。本当に空っぽの人間なのだ。さも自信がある人間のように、ウソで塗り固めることすらできない。そんな国語力はない。
理想ばかり高くて、そこに追いつけない自分とのギャップで病む。本当は私は素晴らしい人なのになぜ……という気持ちがきっとどこかであるからそうなってしまう。
ここからは人のせいにもしてしまうが、人から認められることなんてないし、そもそも親は私のことを小さい頃からずっと「バカ」と言い続けてきたし、ブスな上に努力もせず、ボーッとしてる上に人付き合いが苦手でいじめに合い……周りから奪われる自信と、それをはねのける自分の精神力の無さが原因だと自分では思っている。
みんなうまく生きているのに自分だけこんなんじゃ自信なんてなくなる。自分が信じられないのに他人を信じるなんてできなくて相談も何もできない。信じたいとは思っている。でももしこの人に嫌われていたら?などと考えてしまう。無限ループ、無限ループ、無限ループ。
そもそも何を相談したらいい?人生の根底にある自信の無さ?気力を得る方法?身近な人に相談したらその人の気力を奪うだろう。そして嫌われるだろう。孤立するだろう。近寄ってくるのはきっと弱みに付け込むカルト宗教の人たちだろう。もう嫌だ。
ここまで読んでくださった人、もしくは最初の一行目を読んだだけでブラウザバックした人はみんな思っただろう。精神科に行け、メンタルクリニックに行けと。
そう言われたとて、何を相談したらいいかわからない。昔から病院どころか保健室さえ苦手だった。症状をうまく説明できない。プレゼン能力の無さ。病院の待合室では症状を伝える練習を脳内でぐるぐるするタイプだ。
考えるより行動したいが重い腰が上がらない。もはや家から出るのも怖くなってきた。あぁ、負の連鎖。
さすがに床は体が痛くなってきたのでベッドに移動した。あぁ、このまま眠って、息を引き取りたい。穏やかに死にたい。苦しみたくない。もう、生きるのをやめたい。
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■追記(8/19)
このエントリーに反応をしてくださった方々、ブックマークしてくださった方々、ありがとうございます。
こんな文章、タイトルだけで未読スルーするでしょと思っていたので、まさか反応をいただけるとは…と思い少し驚きました。優しいお言葉をたくさん頂いて、気持ちが救われております。
私は相変わらずの生活です。ここ最近は本当に寝付きが悪くて、寝ている時も心がザワザワと不安になって夜中何度も目が覚めたりしますね……この症状は去年もあったんですが最近ひどくなってきまして… 人生への焦りかな……今も心がザワザワしている
とりあえず前回投稿してから今日までは床に這いつくばって泣いたりしてないので、少しマシになってるといいなと思いつつ生きております。生きてる!!!
生きてるならいいかな なんだかんだ、コロナにならないようにマスクするし手洗いうがいもしているしね。健康第一。
コメントにもありましたが人間いずれみんな死ぬんだから、私も今慌てて死ななくてもいいのかな…。
いまだに希死念慮は拭えず、お世辞にも前向きとは言えない気持ちで日々を過ごしていますが、それでも自分のペースで生きていけたらいいなと思います。今日この時点ではまだ大きな病気も無いですし…。最近、両足の薬指に血豆ができたくらいで。
またいつか、誰にも吐き出せない暗い気持ちの波が押し寄せてきたらここに長文を書きに来るかもしれません。もしくは、次はハッピーな報告でもできたらいいな。
少しフェイク交えて書くけど、地元がちょっとしたコロナのクラスターになったらしい。
私の地元には(ざっくり説明すると)町内ごとに手作りのお神輿を作成し、その出来を踊って騒いで競い合うという伝統的なお祭りがある。
祭り自体は中止になったものの、そのお神輿を作る町内の蔵の中でクラスターが発生した。老若男女関わらずコロナに罹り、中には役所関係の人もいたりと対応に追われているそうだ。
人が集まったり飲み食いしたりすれば感染が拡がるのに。アホすぎる。
ちなみに私は対象の町内の外に住んでいたので、祭りに対して特別な思い入れはない。しかし思い返してみると通っていた小学校の友人はみんなお囃子や太鼓が叩けて当たり前という空気だった。もちろん私は、笛も太鼓も触る機会すらなかった。
当時は学校の先生方含め、祭りは地域の伝統だと持ち上げて誇らしげだったが、そこに入れてもらえない町内に住んでいた私は少数派で、なんとも言葉にできない居心地の悪さがあった。
そして(もちろん全員がそういうわけではないが)悪い大人に唆されて友人が非行に走ったり、未成年飲酒が見過ごされていたりと、あの祭り独特の雰囲気が嫌だった。中学生くらいまでは足を運んでいたが、その後は全く行ってない。
最近はFacebookで昔の友人がタグ付けられた写真をさらーっと流し見する程度だったので忘れかけてたけど、コロナがきっかけで祭りについて色々と思い出したので書いてみた。
つまりよお「子供とえっちなことする」漫画を書いても道徳的にセーフなようにキャラの年齢だけ引き上げたってことでしょ?
いやはや、これで自称フェミニスト(正直アレがフェミニストと呼べるものなのかは私も疑問だ)に対して反論しきれていると思うとは理解し難い。
だってさ、単にキャラクターの上辺の年齢だけ上げてることは誰の目からも明らかな訳じゃん。
年齢に相応しいレベルに成長してるのはおっぱいの大きさだけで、体つきや顔つきも子供のソレなんだろ?
まあねえ堂々と「ごめんなさいそれでも僕たちは架空の子供でオナニーしないと実際の子供に手を出しそうなんです……」って頭を地面に擦り付けるなら許すよ。
だって、それは人間としてとても理性的な感情のコントロール方法だと思うから。
でもそこで変な誤魔化しをはじめて、言い分を全部照らし合わせると矛盾が出てくるってのはどうかと思うなあ。
人の心は科学として抽象的にかつ実証的に取り扱うのは困難だが、皆誰かに認められたいという気持ちでいるから。
科学として取り扱えないというのと、どこかにこちらがわがまましても全面的に尽くしてくれる女がいる!みたいな中学生メンタルの男が引っ掻き回す。
https://anond.hatelabo.jp/20200815111332
先生、今日は以前申し上げましたあの人の話をお聞きいただけたらと思い伺ったのですが、ご迷惑ではございませんでしょうか。
このコロナの時勢の中、顔を合わせてお話しするというのも気が引け、小説のように書き上げてお送りしようと何度か試したのですが、普段書かない身からするとどうも難しくて。
拙い文章お読みいただくのもかえって失礼かと思いまして、身勝手とは存じておりますがお会いしてお聞きいただくほかないと思い参りました。
先生にはいつもご親切にしていただき、ご恩を頂いてばかりでお返しできず大変申し訳ございません。
もう半年近くも前でしょうか、前に少しお話ししましたがその頃私には親しくなったばかりの女性の友人がおりまして、
私は彼女と恋人になれたらと思い、週に1回ほど連絡を取って食事をしたり街歩きをしたりとデートのようなことをしておりました。
その日は彼女が夕方まで仕事だったものですから、私が店を予約しておいて仕事帰りに合流して夕飯を一緒に食べました。
店を出たあとカフェにでも入ろうということになり、彼女が近くにスターバックスがあると言うのでそこに向かいました。
コーヒーとケーキをつまみながら話すうち恋愛の話になりました。彼女が私に恋愛経験を尋ねたのですが、恥ずかしながら私はこの年で経験がないものですから
正直に言うのはためらわれて、中学生の頃にでもいたことにしようかとも思いましたが、
変に見栄を張ってそれが嘘だと知れたときのことを考えますと、相手の失望させるでしょうし、
何よりその時の自分の姿を想像するとなんと哀れかと思い、正直に話しました。
彼女は見たところ特に驚くでも蔑むでもない様子でしたが私に何と言葉を掛けたらよいのか迷ったのでしょうか、
少し間が空いたのち、悪いことではないと思うと短く言ったと覚えています。
今思い返せば彼女の言葉を待つ私の表情は必死のものであったような気がし、それが彼女の同情的な言葉を引き出したようで恥ずかしくなります。
今度は私が彼女に恋愛経験を尋ねました。彼女はこれまでに2,3人ほど恋人がいたとのことで、
どのような人だったかを控えめに尋ねてみると嫌な顔をするでもなく淡々と話してくれました。
彼女の話を聞くと、元恋人らは中々癖があり、いえ、もっと直接に言いますと幼稚、傲慢、共感性の欠如という言葉が似あう方々で、
彼女はそれらに振り回され消耗し、結局付き合いきれず別れてしまったとのことでした。
私はふんふんと相槌を打ちつつ話を聞き、彼女の巡り合わせの悪さに同情しましたが、同時に元恋人たちと比べればよっぽど自分がまともだと感じ、
ある種のチャンスを感じたことを白状しなくてはなりません。
今にして思えば彼女の話す元恋人らが一片の人間的魅力もないことに彼女のバイアス、
つまり都合の悪いことを隠していることを感じとるべきでしたが、捉えたチャンスに舞い上がりそのまま信じてしまいました。
一通り彼女の話を聞いたのち、私は彼女に同情していることを示すために元恋人らの振舞いを取り上げ、この行動はこういう理由でよくないというように説明し、
自分は何が問題か分かっており、自分はそういうことをしない人間だとアピールしました。彼女は自分を肯定するそれらの言葉を微笑みながら聞いていたように覚えています。
私の元恋人への非難に促されてか彼女はそういえばと言って、最後に付き合った人間はアルコール依存症でセックスができず、
そのせいかやたらと細かいことで難癖をつけてきて鬱陶しかったと加えました。それを聞いて私はそういう行動はお互いにとって不幸にしかならないと、
彼女に共感して怒る言葉を発しながら、その裏側では自分が童貞であることのコンプレックスを刺激され羞恥心を感じ、
心臓がどくどくと鳴り顔が熱くなりました。私が黙ったせいかそこで話が不意に途切れました。
何か話さなくてはと頭を巡らすうち平静さを失っていたせいか気づけば自分が童貞であることを話していました。
言ってすぐにこんなことを言うべきではなかったと後悔しましたが、
彼女は落ち着いた様子で再びそれは悪いことではないと言い、加えていくらか私を擁護するようなことを言ったので私は安堵しながらそれを聞いていました。
すると不意に性風俗に行ったこともないのかと私に聞きました。私は行ったことがありませんのですぐにそれを強く否定しました。
彼女は男が性風俗に行くのはありふれたことだと考えているのか少し驚いているようで曖昧にそうなんだというような言葉を発して細かく頷いておりました。
今にして思えば敢えて言う必要のないことなのですが、私はここで性風俗に行かない理由を説明する必要がある気がし、それを頭の中で探しました。
私が性風俗に行かない理由は明確にある訳ではわけではなく、反社会勢力が絡んでいる、性病の危険性がある、望まぬ従事者がいるといった、
どこかで触れた断片的な知識が組み合わさって行くべきでないという認識になっているに過ぎません。
これらを順序付けて説明しようとも思いましたが、先生もご理解いただけると思いますが、
実のところ性風俗に行くべきでない理由というのは丁寧に述べようと思うと中々に難しく、1つ理由を述べてもそれに色々と反論ができるものです。
また理屈っぽく長々と話すのは気持ち悪い印象を与える気がし、敢えて藪をつつくこともないと考え、細々と理屈をつけるのはやめにして、
すると一瞬彼女が強張った顔をしたかと思うと冷笑するようにはっと息を吐いて、何で自慢げなのと言いました。
その反応が全く予想外でしかも彼女の表情が静かながらも明らかな怒りを秘めていたので私は狼狽え、なんとか弁解しようと自慢げなつもりはないと絞り出しました。
彼女は依然として目を見開いて怒っている様子でしたが、申し訳ない、そういうつもりはなかったと平謝りしたところ、
ひとまず納得したようで、ならいいけどと言いその場は収まりました。
私は実際自慢げだったのかもしれませんがその意図はなかったため私の腹にもくすぶるものはありましたが、こんなことで喧嘩をするのも馬鹿らしいのでそれで終わりにしました。
その後もしばらくは定期的に会って食事をしていたのですが、徐々に細かいことで突っかかってくる頻度が増えました。
私が何となく言ったことに彼女は問いただすような口調でそれはどういうことかと尋ね、
困惑しながら意図を説明すると何かと理由をつけて私を糾弾したり被害者のように振舞うのです。
それまでの彼女の様子とは大きく変わってきたため私のことが嫌いになったのだろうかと思い、私の方も言いがかりにうんざりしていたので、
もう会いたくないのならそう言ってくれればいいのにと思いつつも、他方で非常に熱心に私を糾弾するので私が変革することを望んでいるのかもしれないと考え混乱しました。
結局私は彼女の熱心さに報いるような気分で言いがかりに謝ったり反論したりしていたのですが、あるとき彼女は少し前に恋人ができたから関係を終わらせたいと言いました。
私はこれを聞いて寧ろ安心するような謎が解けるような気がしました。新しい恋人ができたために私が煩わしくなったが自分の都合で切り捨てるのが嫌で、
私に執拗に言いがかりをつけ捨て鉢な反応を引き出し、私が一方的に悪いと言える状況で関係を終わらせようとした。
そう考えると全てが繋がるようで妙に納得し、私が言いがかりに逐一対応していたのが滑稽に思えて笑えてきました。
ええ、それで終わりで、それっきり会っていません。
カゲプロもといカゲロウプロジェクトは8月15日に起こる出来事を描いたメディアミックス作品で、
ニコニコ動画の楽曲から派生し、小説、漫画、アニメ、劇場版等で別々の展開をする面白さが売りだった。
ご存知かとは思うが、おそ松、鬼滅、今ならツイステとかに先駆けて、キッズが多くて民度が最悪、というイメージの代名詞だった。
私は当時成人していた社会人だったがこのジャンルにいたく執心した。
元々じん(自然の敵P)の作る音楽を気に入っていて、小説を出すというので興味本位で読んだ。ハマった。
正直お世辞にも上手とは言い難い小説だったが、楽曲、動画も含めてアマチュアの手による一大作品というのは熱があった。
拙い所も含めてカッコいい!エモい!支援したい!夢がある!割と珍しい感情ではないと思う。それが大人だろうと。インディーズバンドのようなイメージ。
そういう風に素直にハマって、中に入ってみたはいいものの、確かに実際自分より年下の人間しかファンが居なかった。
沢山友人を作ったが、よくて高校生、殆ど中学生、小学生も多くて、成人していてお酒が飲めるような人は片手で数えるほどしか居なかった。
とは言え話が通じないなんて事は全くなかった。自分は大して創作などもしなかったけど、ツイッターで繋がった小学生は敬語で話してくれた。
男の子も居た。CPとか担当みたいな概念も薄くてどんな趣味でも年齢でも人種でも仲良しだった。
コミュニティの中での喧嘩や、男の子も居る事で色恋沙汰が始まる事もあったけど、むしろ今まで自分が経験してきたどのジャンルよりも平和だった。
確かに痛い、と表現されるような事もあったかもしれない。でも人に迷惑をかけるような子は誰も見た事がなかった。
カゲプロにハマった事で、コスプレや同人誌に初めて触れた子も沢山居た。どの子も知らないなりに、人に聞いたり調べたりしていた。
同人誌即売会(オンリー)では、親御さんと一緒に本を買いに来る人やスペースの後にお母さんが座っているサークルなどもあった。
本来即売会にはサークル側に年齢制限があったりするが、低年齢層のこのジャンルではイベント側からきちんと許可があった。
別に子供が趣味を楽しんじゃいけない訳でもないし、許可されているなら取りざたされる事でもない。
でも他のジャンルの所謂大人たちからはとっても笑われた。まあ、珍しい事ではあるかもしれないけれども。
私はただの買専だったが、プラバンで作ったストラップだったりとか、手作り感のあるものも多くてそれはそれでよかった。
皆このジャンルが好きで、色んな工夫をして楽しみたいと思ってるのがすごく感じられた。
そんな風に内部に居ると、カゲプロ厨、なんて言葉を投げつけられる事もむしろなかった。
あれはカゲプロのことを特に好きではない人間が使う言葉だから、好きな人間とだけ過ごしていたら聞かない言葉なのだ。
そういう中で、ニコニコ超会議が開催された。ニコニコ動画が主催する一大イベント。
カゲプロも当時大きなブースを作り、そのブース内で新曲を先行して聴く事ができた。私ももちろん朝から並んだ。
学生で中々会えない地方の友人達もこの日ばかりはみんな揃っていて、新曲を聞いたり、グッズを買ったり。とても楽しんだ。
超会議はとっても広いイベントで、ほかにも回り切れないほど催し物があったんだけど、自分たちはずっとカゲプロのスペースに居た。
もちろん皆視聴ブースでは静かに並んでいたし、話す時も出来るだけ邪魔にならないように端っこに居た。
なんと超会議のカゲプロブースで暴動が起きたらしい。視聴ブースが壊された、とか。
カゲプロ厨ではない大人の皆さんは、「カゲプロ厨こわw」「やっぱガキは・・・」みたいな事を言っていたが、
当のカゲプロ厨である面々は皆揃ってクエスチョンマークを飛ばしていた。
なにしろずっとそこに居たのだ。そんな警備員が始末するような事態が起きたらさすがに気づくだろう。
当日そこに居た人間が誰一人としてそんなものは見ていなかった。でも、起きた事になった。
待望のアニメが始まった。
私はカゲプロに利用しているツイッターアカウントのほかに身内友人のアカウントを持っていたんだけど、理解のある友人から「ログインしない方がいい」と言われた。
カゲプロのアニメが始まる前から、そちらのアカウントはバカにするような文面で埋まっていた。
「バカにしたいから今期はカゲプロ見る」等と堂々と言っている人も居た。何故全く内容を知らないのにバカにする前提なのか、腹が立つより悲しかった。
実際のアニメを見て、クオリティがどうだと言われたらそれは受け止める。でもガキが好きな作品だからゴミ、という構図しかそこには無かった。
自分に向けられた作品でない事がわかるなら、ほっといてくれればいいのに。
私はカゲプロが好きだということを殆どの人に明かさなかった。明かせばバカにされ、場合によっては引かれた。
カゲプロに興味があるけど、周囲がものすごく叩くから手が出せないと言われた事もあった。
いっそカゲプロの情報を何にも持たないおじさんとかの方が優しかった。前提条件が無ければ好まずとも「こんなんあるんだ」程度の気持ちで聞いてくれた。
「カゲプロ厨の素行が悪いからだ」と言うには私はその悪い素行を殆ど目撃したことが無かった。
若いからはしゃいで痛々しい事はあったかもしれない。でも流血沙汰とか、木の枝折ったとか、ブースを壊したとか、見ていない。
私の見ていない所であったと言えばそれまでだけど、でももうそんなのは「犯罪者は皆パンを食べている」理論で、カゲプロが悪いから何かをした訳ではないと思う。
ただ、私はカゲプロの事が今でも好きだし、人生で一番楽しい時間だったことに違いはない。
8月15日なのでそんなことを思い出した。
そういう増田たちの理想像とやら統合したら男は「家柄も性格もよくておっぱいデカくて処女で一途で床上手な女子中学生~女子校生くらい」みたいなので
女は「イケメンで一途で格好よくて家が金持ちで本人も年収1000万くらい稼げて拳法だの剣術だの軍事技術に精通した男子中学生~社会人三年目の20代真ん中くらい」とかだろ
ぶっちゃけグラビアアイドルとかでもない限り、そんなレベルと付き合いたいとなると、幾ら優秀だろうが普通レベルだろうが、これはもう与信限度いっぱいまで金借りて貢ぐか、犯罪かテロリストになって国家権力にケンカ売るレベルの非合法手段じゃねえと無理だと思うぞ
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。