はてなキーワード: 一喜一憂とは
【悲報】沖縄コロナ、go to キャンペーン(7/22~)と一致 [327876567]
https://leia.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1596958000/41
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41 名前:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウウーT Sa55-2X+j)[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 16:31:35.03 ID:6/0kXXj6a
高山義浩 | 沖縄県立中部病院感染症内科/日本医師会総合政策研究機構
https://news.yahoo.co.jp/byline/takayamayoshihiro/20200731-00190953/
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そもそも、なぜ、これほどに急速に、沖縄の夜の街で新型コロナが流行し始めたのでしょう?
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すでにメガクラスターへと発展している米兵へとリンクしている可能性もあります。
しかし、東京での流行により働くことが困難になった女性たちが、沖縄へと流れてきていた事情もあるようです。
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リゾートバイトと言えば、聞こえは良いのですが…、生き抜くためにギリギリの女性たちが、
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感染症の流行は、いつも社会の弱い部分をさらけ出します。外出自粛、ソーシャルディスタンス、三密回避…
これらが呼びかけられた結果、コロナは夜の街へと逃げ込んだのです。
社会保障による支えがなく、生き抜くために「密」であることが避けられぬ場所へ…。
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これから2週間にわたって松山地区が休業するとともに、住民全体が不要不急の外出を自粛することが徹底できれば、
とくに、夜の街に限らず宴会を控えること。そして、お盆は少人数とし、里帰りは延期してもらうことも必要です。
さらに、高齢者施設や病院において、アウトブレイクが生じることがないよう、私たちは力を合わせなければなりません。
まだまだ苦しい戦いが続きますが、しかし、いずれは終わります。
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ただ、松山で働いている女性たちは、これからどこへ流れていくのでしょうか?
社会の現実を直視したサポート体制を重ねなければ、いつまでも問題は先送りされ、終わりを迎えることはありません。
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59 自分:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウウーT Sa55-2X+j)[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 16:35:15.81 ID:6/0kXXj6a [2/3]
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https://www.facebook.com/photo.php?fbid=3111651008888385
高山義浩
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それらはさておき、沖縄の「ホテル足りない問題」が一部で過熱報道されるなか、個人的には「そこじゃない」感が大いにあります。
というのも、急速に患者数が増加したのは、那覇の夜の街を中心としたアウトブレイクに、私たちが気づけてなかったことに問題があったからです。
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7月4日以降、米軍においてメガクラスター(現在までに286人)が発生したため、気を取られすぎたのです。
7月12日に北谷の夜の街で臨時検査(130人)、19日に金武の夜の街で臨時検査(198人)を行いました。
結果、陽性者はゼロであり、夜の街での感染拡大は起きていないと気を抜きました。
ところが、この時点で那覇の夜の街では、流行が始まっていたのです。しかし、さらに読みを外しました。
7月25日、26日には、ハンセンと普天間の基地従業員(983人)に対する臨時検査を行いました。結果、陽性者は1人に過ぎませんでした。
その一方で、検査機関が混雑してしまって、報告が遅延するようになってしまいました。
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ようやく、那覇の夜の街にターゲットして臨時検査(2080人)を実施したのが、8月1日、2日でした。
つまり、米軍にこだわりすぎて、専門家の読みが後手後手に回ってしまった感があります。
いま、急速に陽性者が出ているのは、一定の流行が起きてから、検査を始めてしまったからです。
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これまで沖縄県では、クラスター発生を疑った場合には、その周辺に対する徹底したPCR検査を実施しています。
このやり方が正しかったのかどうか、今後の分析を待ちたいと思いますが、いずれにせよ、流行に遅れて徹底して検査をすれば、急速に陽性者数が増えます。
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ただ、こうした早期介入により発見される患者は、もっぱら軽症者もしくは無症候者です。
病院への入院を要する患者ではないため、隔離施設としてのホテルが不足します。実際、本日時点での沖縄県における重症者は3人に過ぎません。
ほとんどが軽症者なんです。重症者への治療が滞ったような、ニューヨークや北イタリアの医療崩壊とは、まったく別の問題です。
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予告しますが、これから数日、さらに沖縄県の新規陽性者数は増加します。なぜなら、私たちは徹底したクラスター対策を続けているからです。
100人を超えるでしょう。それぐらい大きな流行が起きています。
ですから、ある1日の陽性者数の増減に一喜一憂したり、最高記録を更新3日目みたいなことには、ほとんど意味がありません。
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63 自分返信:番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (アウアウウーT Sa55-2X+j)[sage] 投稿日:2020/08/09(日) 16:35:52.92 ID:6/0kXXj6a [3/3]
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そして、ホテルにいようが、自宅にいようが、周囲との接触を断つ心がけをしていれば、感染を広げることはありません。
もちろん例外はあります。ただ、診断されていない(または偽陰性の)軽症者や無症候者が、感染を広げるリスクの方がよほど大きいです。
そして、実のところ、診断されていない感染者の方が多いはずです。
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まあ、個人的には、クラスターが明らかになった集団に対して、必ずしも検査をやり続けることはないと思っています。
高齢者や基礎疾患を有する方にのみ検査を実施して、それ以外の方には、「みなさん感染者とみなします。
14日間じっとしていてください」として外出自粛を求める方が効率的かつ確実です。
なぜかというと、受診してこない(または偽陰性の)人たちも含めて封じ込められるからですね。
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重症化リスクの高い集団(主として高齢者)に注目して、確実に医療へつなぐ施策をとっていくことが必要なんです。
沖縄県では、50人、60人と全体の陽性者数ばかりが報道されていますが、
その陰で高齢者の感染事例がジワリジワリと増えてることに気づいていますか?
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というわけで、沖縄県の皆さん、高齢者や基礎疾患を有する方への面会をできるだけ控えてください。
また、流行している都市部から地方への不要不急の移動も控えてください。
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症状がある方は、外出を控えてください。学校や仕事は休みましょう。
高齢者や基礎疾患を有する方、ケアに関わる方は放置することなく、かかりつけ医に相談して受診方法の指導を受けてください。
かかりつけ医のいない方は、コールセンターに電話をかけて相談してください。
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療養のためのホテル室数は飛躍的に増えました。さいわい、GOTOの過熱も遠のいたので、確保しやすくなっています。
そんな事は誰も言わないけど。
そんな風に思ってもらえたんだ!と言う事が分かる感想文は嬉しいです。
前者が面白いのは当たり前ではないでしょうか?
匿名の読者から「すごく胸に響くいい感想をもらえた」と思ったら、
自分の作品で表現の練習をしているのですからその分面白いです。
感想を貰った時、作品に感動したからその気持ちを伝えたくて文章にしてくれたのか、
はたまた、仲良くなりたい下心で書かれたものなのかくらいすぐに分かります。
下心があればバレますよ。
深い感動は自分の現在の境遇と作品がリンクする時に生まれる事も多いので
「こんな境遇なのであなたの作品が今の私にとても響きました。」
という感想は嬉しいなと思う事が多いです。
ウザい自分語りは「私もこんな作品を作っていて〜URLはこれです。」のような、
感想もらったし私も読んで感想送らないと悪いかなと感じさせる物です。
そんなもの読みたくないので。
「私もこんな作品を作りたいと思っていて〜」の様な
沢山の反応をもらう作家は、この様な感想の皮を被った自分語りメールを受け取った覚えがあるのではないでしょうか。
自分1人の力で感想が貰える作品へブラッシュアップしてください。
「感想を選り好みするなんて〜」という気持ちを持たれるかもしれませんが
あなたが作品を読む時に面白くないものや絵が下手なものは読まないのと同じです。
面白くない、下心で書かれた感想はこちらもたいして読みません。
そして、あなたが感想を送ろうとしている作家は他の読み専からも感想を送られているので、
面白い物を作る作家は、作る事に忙しく返信の優先順位は下がっています。
当たり前です。
作る事に忙しい作家が、感想に返信を期待してしまう弱者のお気持ちにまで寄り添わないとガッカリですか?
そんな事より次の面白い作品を作って欲しいとは思わないんですか?
人気のある作家の気持ちはオブラートに包まないならばこんな感じです。
これが残念ながら真実です。
では、なぜこの真実を言う人がいないのか?
それは、数が多いと嬉しいからです。
たくさんあつまって1000件とかになれば嬉しいです。
だから、1件でも減って欲しくないんです。
作家はいいねの数や感想の数を気にして一喜一憂しているものです。
返事がもらえなくても、たいして読まれていなくても
あなたの「1件」はちゃんと推し作家のエネルギーになっていますよ。
それ以上に作家に嬉しくなって欲しいなら、感想文よりもその作家が好きそうな作品を作る方がいいですよ。
見つけてもらえるかは運ですが。
わからん。
チー牛がそもそも今現在もモテたいと思ってるかどうかがわからん。
チー牛はチー牛になってしまった時点で「モテない人生を送ってきた」わけだが、リア充にはわからない「チー牛なりにモテに頼らないささやかな幸せ」を享受してきた。それはモテに一喜一憂してリストにあるような「着たいわけでもない服を着て、食べたいものも食べず、使いたくもない薬剤に金を金をかける」ような生活よりもよっぽど幸福な生活なんじゃないのか?
モテるためのリストを挙げてもらうことは大変ありがたいが、チー牛だってそんなことは重々承知の上でそれを放棄して「モテに頼らない幸せ」を掴んだのではないか。
もういっそ多夫多妻制を開放してはどうだ。
子作りは、モテる、モテたい、子供を作りたい男女にまかせてはどうだ。そこに幸せを感じる連中だけに任せてはどうだ。
一夫一妻制。結婚してなんぼ。
その価値観の一端は明らかに社会制度の維持のために将来の資産として子供を生産する必要があるという社会的意義から来ているものじゃないのか。
モテたいチー牛はがんばれ。
あるソシャゲをさっきやめた。アホらし、付き合ってらんね、つって。
キャラクターのステータス上げる装備品をダンジョン周回しながら少しでもいいやつを探す、ってのがゲームの核になってる。
拾えるうちの最上のがドロップするのが1時間回しっぱなしで1個落ちるかどうか、なんだけど、それで終わりじゃなくて、落ちたやつを金使って強化すると、設定された複数の強化値のうち一つがランダムで上がる(これは基本修正できない)。こんなことをひたすら繰り返す。
さっき良いのが落ちたんで強化したら、全然どうでもいいパラメータが上がっちゃって、そういえば前回もこんなんだったな。ふっつりなんか切れた。…うーん、もういいや、と。
で、思った。
俺は月1,000〜2,000円程度の課金しかしてないけど、5,000〜10,000くらい入れると、こういう装備品も即買えるし、パラメータを振り直せるアイテムももらえる。
そんな具合で潤沢になると、意に沿わない結果の一つ一つに対して、過剰に一喜一憂することもないんだろう。
金突っ込んで爆死、ってパターンもそりゃ起きるだろうが、確率的に、「まあ可もなく不可もねえな」ってとこに大抵は収まるはずだ。
そうなると、なんだかソシャゲにおける課金ってのは、無課金〜微課金勢が漠然とイメージしてるような「本命狙って大一番」ってハイテンションなバクチのノリじゃねえのかもな?
入れ込んでるゲームでつまんない思いしたくないっていう、消極的な動機の方が意外と強いんじゃないだろうか、淡々と心の平穏を買ってるんじゃねえかっていう、そんなことを思った。俺には知るよしもないけども。
君の青春時代を思い出してほしい。部活動やサークル活動に明け暮れ、あるいはそうでなくとも仲の良い友人たちと過ごした日々を。同年代の仲間たちが集まって、同じ目標に向かって努力し、でも皆個性的でバラバラだった。得意分野も違えば、目標を目指す理由も違って、かける熱意も時間も、家庭環境や物事の価値観だって違う。ただ同じ場所にいる、同じ目標を持つ、同年代なだけの子供たちが集まった歪な空間。青春譚はそんな中で紡がれる。皆バラバラだからいつも仲良くというわけにもいかず、時には激しく争ったりして、仲間が去ることもあったろう。対立の末に互いを尊重するようになることもあったろう。決して順風満帆ではないその起伏に溢れる日々は、フィクションの中にとどまらない、現実の物語として青春時代を支配する。
青春譚の世界は狭い。子供たちは自分たちの目に見えて手の届く範囲の世界を生きる。仲間たちを見て、この先いつか出会う他の集団を思い、自分たちのこれから歩む道を見据える中で、その下に埋もれた大勢に思いを馳せることはない。自分たちと同じくらい努力して、けれど自分たちと今後出会う事のない別の子供たちに対して、仲間意識や同情が芽生えることもない。だからいつも青春譚の主人公は「自分」になる。青春の熱気が、自分こそが物語の主人公かのような錯覚に溺れさせる。だから青春時代に、例えば「僕はこんなに頑張っているのに!」とほかの仲間たちも同じくらい、あるいはそれ以上頑張っていることを知っていたとしても、つい思ってしまうのだ。クラスメートGでも部員その16でもない、自分こそが主人公なのだから、その主人公というまやかしのアイデンティティにすがってしまう。子供たちにとっての青春譚は、自分を自分たらしめるアイデンティティを探し求め、特別になろうとする物語とも言えるだろう。
しかしずっと青春を謳歌しているわけにもいかない。歳を重ねるごとに見なければならない世界は広がりをみせ、将来という現実が重くのしかかり、広い世界の中で自分がいかにありきたりで普通な存在なのかを自覚せねばならない時が来る。受験や就職、勉強やスポーツの成績、資格試験、引っ越し、失恋、身内の不幸、怪我、もっとささいな下らない会話かもしれない、そのきっかけは様々だろう。子供たちは転機を迎える。そうして子供たちは青春を過ごした集団から引退する。「成長」して「大人」になって、青春譚は終わりを告げるのだ。
けれどそんな期間限定の青春譚をずっと紡ぎ続ける者も中にはいる。青春を捨てることなく集団から去って「大人」のひしめく社会へ赴く彼らは、その「子供」的な部分をあるときは称賛され、ある時は幼稚だと批判され、けれどそのどちらであれ特別な存在であることには変わりない。大半の子供たちが普通の大人になる中で、普通ではない者だけが特別な存在として「子供」であり続けることができる。選ばれし者だけが終わらない青春譚を謳歌する。
ライザのアトリエは青春譚である。しかしライザのアトリエは青春譚として異質な部分がある。
青春譚の多くは主人公を物語の中心に据えつつも、仲間たちにまつわるエピソードを描く。例えば青春を題材にした傑作部活もの「響け!ユーフォニアム」はアニメ化も成功しており知る人も多いと思うが、この作品は主人公久美子を通して物語が進むものの、個々のエピソードの中心には様々なサブキャラクターが据えられていて、彼女たちの問題にぶつかりながら、彼女たちの力で先に進むつくりになっていることが分かるだろう。「響け」ではある種記号的な主体性のないひとたらし主人公を設定することで、疑似的に吹奏楽部全体を主人公として描き、仲間たちの物語を繰り広げる。青春譚は仲間たち「みんなの物語」だからこそ、多くの作品は幅広いキャラクターの幅広い問題を描くことになる。
けれどライザのアトリエにはサブキャラクターイベントがほとんど存在しない。したがって仲間たちの物語はほとんど描かれず、物語の節々からその成果だけが見え隠れするにとどまる。そんな主人公だけにフォーカスした青春譚は、いつのまにか、まるで主人公ひとりの英雄譚かのような様相を呈してくる。そう、青春譚が「みんなの物語」なのはあくまで大人目線の客観的なものにすぎず、そのさなかに居る子供たちにとってはそれが「自分が主人公の英雄譚」かのように錯覚してしまうのだ。ライザのアトリエは青春譚だが、ただの青春譚ではない。青春の熱に浮かれた主人公ライザの視点から見た、錯覚の英雄譚なのである。
ライザのアトリエはライザの英雄譚だ。自身こそが主人公である錯覚に溺れるライザは、仲間たちにも同じように物語があることに気づけない。例えばタオはどうだろうか。勉強を頑張っている場面が何度かあったかと思えば、いつのまにか遺跡で古代文字をそらんじて見せた。他にも、例えばライザとの確執を乗り越えたボオスはあっという間にライザをも超える決断力と行動力を見せるようになった。彼らの成長はそれだけでひとつの物語になりうるほど大きいものに違いなく、彼らは全員が物語の主人公たりうるのだ。けれどライザはそのことに気づけない。気づけたとしても気にしない。青春の熱気で仲間たちへの関心さえも浮ついてしまったライザは、自身の英雄譚に溺れていく。
ライザのアトリエはファンタジーRPGであり、プレイヤーは主人公ライザを操作してゲームを進めていく。走り回り、素材を採取し、アイテムを調合し、依頼をこなし、戦闘をし、そしてテキストボックスをおくって物語を進めていく。そんなゲームとして当たり前な行動に対して、ライザのアトリエもまたゲームとして当たり前の快感をプレイヤーに与える。素材採取の爽快感、調合の楽しさと達成感、報奨金を得てうれしく思い、戦闘では調合の成果に一喜一憂する。RPGにおいてプレイヤーはゲームシステムから特別感や万能感といった快感を享受することになる。
そしてライザのアトリエでこの快感を享受するとき、プレイヤーは気付かぬまま物語に没入してしまうのである。ライザの英雄譚を進める中で、ライザ本人は自分の特別さや万能さといった錯覚を抱えて自分を物語の主人公だと信じており、一方プレイヤーはゲームシステムから特別感や万能感といった快感を与えられながら「ライザが主人公のゲームの物語」を進めることになる。ライザの描く錯覚の物語とプレイヤーの受け取るゲーム的快感はゆるやかに、けれど確実にシンクロしていく。プレイヤーは気付かぬうちにライザの錯覚の英雄譚の支持者となってしまう。プレイヤーもまたライザと同じように青春に溺れてゆき、サブキャラクターにも物語があることを重要視できなくなってしまう。タオの古代言語の研究も、ボオスの精神的成長も、レントもクラウディアもアンペルもリラのことも、しっかり評価しているつもりでもどこか軽視してしまう。青春譚がみんなの物語であることをつい忘れてしまう。だってライザのアトリエはライザの英雄譚なのだから。
ライザのアトリエは、誰もが英雄ではないからこそ面白い青春譚を、英雄譚を語るためのフォーマットであるRPGを用いて語った時いったい何を表現できるのかという問いに対して、ひとつの面白い答えを示せているだろう。
やがて夏が終わり物語はエンディングを迎える。けれどそこに訪れたのは英雄の凱旋というハッピーエンドではなく、別れだった。自分の将来という現実、親の都合という現実、これからの生活という現実、ライザがそれまで見て見ぬふりをしてきた様々な現実が、仲間たちとの別れとともに押し寄せる。英雄譚を共にした大切な仲間たちが「大人」としてライザの前に立つ。青春譚を経て特別になれなかった子供たちが「大人」としてライザに別れを告げる。ここでライザははじめて、仲間たちにも同じように物語があったことを理解する。ライザが青春の熱に浮かれて目の前のことだけに躍起になって満足している間に、仲間たちはもっと広い世界を見つめていたのだ。このひと夏の出来事は、決して英雄譚なんかではなく、仲間たちみんなの物語だったという現実がライザを襲う。自分が見て体験してきたひと夏が一気にひっくり返されて、言葉を失うほどのショックを受ける。
けれどライザも特別な存在でないのなら、現実とは向き合わねばならない。ライザは「大人」になることを決める。皆を引き留めない。隠れ家は解散。遠く離れてもまたいつか会おう。そんなありきたりな結末を選ぶ。ライザは特別にはなれなかった。子供のままではいられなかった。「なんでもない」ライザは青春の夢に生まれ、そしてなんでもないまま「成長」という名の死を迎えた。青春を生きたライザというキャラクターは、青春の終わりとともに消える。ライザは「大人」になっていく。
ライザが「大人」になることを選んだように、プレイヤーもまた青春の夢から覚めなければならない。ずっとこつこつ積み上げてきた錯覚の英雄譚は、エンディングの場にきて一気に崩される。プレイヤーの支持した英雄譚なんて最初からなかったのだ。エンディングはプレイヤーに、ゲームシステムからもたらされる特別感や万能感を物語の解釈にまで持ち込んでいないかと咎めてくる。ライザ視点でしか見てないのに物語全体を理解した気になっていないかと冷酷に突き放される。ずっとおだててきたくせにエンディングにきて突然「なんでもない」の世界に突き落としてくる。プレイヤーも「大人」にならなければならない。
平和な後日談もなく物語のピークから急に始まる決してハッピーではないエンディング。いつか訪れることを知っていた仲間たちとの別れ。その別れを祝福したい気持ち。けれど自分だけ取り残された焦燥感もある。どうにかハッピーエンドには行けないのかと歯がゆく思う気持ち。自分の特別さを否定された時の居心地の悪さ。
そんな複雑に絡み合ってモヤモヤした、けれど無性に懐かしいあの青春の喪失感を、「ああ、明日からこの部室に来ることは無いんだ」と思うあの青春の残響を追体験したいなら、これほど適したゲームは他にないだろう。
ひと夏の濃密な時間を過ごして、結局特別にはなれず「なんでもない」まま青春時代を終えた少女、ライザリン・シュタウト。そんな少女に、3年の年月を経て、2度目の夏が訪れるという。
少なくともあなたでないことは確かだ。なんて嫌味を言いたくなる。
昨日増田を二記事書いた。両方とも子供と暮らす中で感じたことを書いた。
ひとつは「虐待を疑う」「子供がかわいそう」などと散々な言われようだったので嫌になってすぐ消した。
もうひとつは何故か「すてきなお母さん」「こんな親になりたい」等々、ほめたたえてくださるコメントが多くついた。
両方とも少しずつフェイクを入れてはいるが、同じ人間が同じ家庭内でのことを書いているにも関わらず、こんなにも評価が両極端になるのか、とかなり驚いた。
そこに書かれているだけの情報で(あるいはまったく書かれていない情報を読み取って)評価を下す。
それは別にここの人間特有の行動ではなくて、リアルの世界でもそうなんだろう。そう考えると人からの評価に一喜一憂するのなんて本当に馬鹿らしく感じる。
私がよい母親、悪い母親かどうかなんてきっと誰にも分らない。子供には死際に「よい人生だった」と思える人生を送ってほしい。それができれば、私もこの子にとって悪い母親ではなかったのかなと思えるだろうがそんなの何十年後かもわからないし、たぶん私のほうが早く死ぬ。そもそも私が最低の母親で、それでも子供自身の力で自分の人生を良くした可能も大いにあるわけで。
つまり判断する方法なんてない。私自身、自分の母親はいい親だったかと聞かれれば、回答に困る。もちろん感謝はしているが。
増田が腐女子などに代表される女オタクに発見されて1ヶ月程度だろうか。
私はどちらかと言えば手斧を投げ合うインターネッツの住人なんだと思うんだけれど、昨今のこういったムーブはそのうち去ると思うので、今のうちに便乗をさせてほしい。
既に辟易している増田氏諸君も多いかと存じますが、増田という海の懐は深いと思うし、そもそもこんな記事はすぐ流れて藻屑になるだろう、どうかお許しください。
何より、自分の思考は恐らく異端と判じられることなのだろうなと常々考えていた。
かれこれ20年程前から、ずっと好きであり続けているキャラクターがいる。
私がインターネットの世界に身を投じる少し前にプレイした、ややマイナーなゲームの登場人物だ。
その当時のオタクは、同人誌即売会などの直接的なものを除けば、雑誌への投稿が交流の中心だった(10年前の個人サイト、5年前のpixiv、現在のTwitter等の役割に近い)。
親指の先ほど小さなイラストでも、そのキャラが描かれたイラストが1枚でもあれば、雑誌を購入する理由になっていた(今になってなぜ雑誌のスクラップを作っておかなかったかと後悔している)。
学生の頃、それも義務教育の枠内である時分にのめり込んだので、それまでの短い人生の中でも形成されていた嗜好を、そのキャラの存在が塗り替えた。
それまでは分かりやすいくらいの熱血漢で優しさもあるような性格のキャラクターが好きだったのだが、
以後は他作品であってもそのキャラに似た、少し長めの黒髪で深い青の瞳、淡々として気難しい性格のキャラクターが好みになる。
さて、私が好きになったキャラは、前述の通りゲームの登場人物だ。
そのゲームはマルチエンディングを採用しており、プレイヤーのとった行動によってはそのキャラは死を迎えることがあるが、幸福を得るエンディングもあった。
どのエンディングも余韻や想像の余地を残すものであり、創造意欲を掻き立てられるものだった。
20年前当時の私は(そして多分今でも)、このキャラに恋をしていた。いわゆる夢女子である。
まったくそういう性格付けはされていないのだが、彼は私にとっての王子様だった。私にだけは優しくしてくれるなどという愚かな妄想をし、どうしたら彼の心を解すことができるかを悩み、
眠りから覚めたばかりで夢と現実の境界が曖昧なときは『こんなに苦しいならば直接会いに行こう』とさえ本気で思い、そして現実にこの人がいないことに気づいて、我ながら馬鹿すぎると落ち込むのだった。
ゲームで描かれた物語のハッピーエンドをベースとして、このキャラを中心とした夢小説をいくつも書いた。
その頃の私は夢女子であったけれど、元々は男女の組み合わせで話を書くのが好きだった。別のゲームとかマンガとかではそういうお話をよく書いていたし、
このキャラが出ている原作ゲームでも他の男女の組み合わせの話を書くこともあった。
でも、このキャラと他の女性キャラクターの組み合わせだけはどうしても苦手で、殊更苦手な組み合わせは目にすることすら苦痛に思うこともあった。
私の思い描く世界で幸せになってほしい、というエゴを押し付けた話を量産していたのだ。
(しかし、二次創作とはおおよそそのようなものだろうとは思っている)
そして、当時の私は悪い意味で若く、一途ではなく、新しい刺激があればすぐさまそちらに寄っていった。
つまり、他の新しい作品に入れ込んで、このキャラを主体に二次創作をすることがだんだんとなくなっていったのだ。
新しい世界の扉を次々と開いて、その中で繰り広げられる物語に浸る。
そしてときどき、思い出してはそのキャラのいる世界に戻って、やはりいつになってもこの人は素敵だと幾度となく確認してから、また別の世界へと渡っていく。
どんな世界を覗いても、心を惹かれるのは例のキャラにどことなく似ている人物ばかりで、こんなにも己の内を侵食されているのだと我がことながら呆れもした。
百様玲瓏の世界の扉の中には、私のうちの別の嗜好を開く鍵がいくつもあった。
たとえば、それまでは毛嫌いしていた同性同士の組み合わせの話が読めるようになったり、書くようにもなった。
たとえば、性転換や両性具有などといった趣向も持ち合わせるようになった。
たとえば、四肢の欠損や痛がる描写、死ぬまでは生きてもがく様にある種の美しさを見出すようになった。
時には、二次創作ではなく全く別の世界に誘われることもあった。
さまざまに思うところがあり、私はそのキャラと原作ゲームの二次創作を再び始めることにした。
その前に、まだネットの片隅に残っている、そのキャラが出てくる二次小説を片っ端から読み漁った。
存在そのものがあり得ないと思っていた同性キャラとの組み合わせの話に感動した。
文字列を見るだけで苦々しく思っていた女性キャラとの組み合わせの話は、むしろ好みになっていた。
そして、以前ならば絶対に思わないことを思うようになっていた。
『バッドエンドの世界線の話を描いてみたい』と。
私は、20年以上も自分の心の真ん中に立つこのキャラクターの幸せをずっと祈っている。
どうかできればハッピーエンドの世界線でずっと幸せで暮らしていくことを願ってやまない。
だけど、その一方で、この人の苦痛に苛まれて歪む顔、今わの際の表情だってきっと美しく魅力的だろうから、描いてみたいと思ってしまった。
それだけではない、かつては苦手としていた女性キャラとの組み合わせの話も書いてみたい、ありふれているけれど満ちみちた暮らしを手にすることができるのだろう。
同性との組み合わせも書きたくて仕方ない、ガラス細工のように繊細で、そして耽美な雰囲気も実に似合うのだ。
もちろん、十数年前と同じように、夢小説も書いていきたいと思う。
どんな形でも構わない、そこに自分の行動の介在ができれば、きっとこの上なく嬉しい気持ちになれると思うが、所詮は妄想だから叶うはずがない。
否、結局はこの人の存在こそが空想のもので、私がその在り様に一喜一憂しているだけなのだ。
そうは分かっていても、このキャラクターがいかに他の人物・状況・世界に触れて、何を感じ、どんな表情を見せるのか、そのすべてを見てみたいし、この手でそれらを書いてみたいと思う。
元々がマルチエンディングのゲームである、その分岐をすべて観測できる立場に私はある、
ならばいっそ、自分が妄想したものでも他の方の手によって描かれたものでも、幸福でも不幸になっても、このキャラのすべての可能性を見れるものならば見てみたい。
自分が好きなキャラクターがただ不幸になるところを見てみたいなど、あまり思ってはいけないし、ましてや見えるところで言ってもいけないことだろう。
これから、このキャラが何かしらの形で苦痛を受けて流血する話を初めて書く。
どういう話にするかは何となく頭に浮かんでいる。これからプロットを立てていく。
その前の儀式として、増田の場を借りて書き捨てさせていただいた。
ありがとうございました。
自分はかつて作家になることを志して夢破れた(そこそこ夢が叶いそうなところまでは行った)自分が、一昨日あたりに出版業界の増田たちが書いた文章を読んで思ったことを書く。
以下長々と書いたが、一言でまとめると、「あー、やめといてよかった」
https://anond.hatelabo.jp/20200716012131
まずライターをやってる増田の文章。これを読んで思ったのは、作家というのは自分が思っていた何百倍もくだらない仕事だったのだなということ。
作家を目指していた頃、自分でも「甘いよなあ」とは思いながら夢見ていたのは、筆一本で身を立てる職人的生活だ。しかし、今時はオンラインサロンやYouTubeをやらざるを得ないくらいに、儲からない仕事になっているらしい。
もちろん、当時から出版不況だとは言われていたし、作家になれば世情に媚びた文章を書いたり、執筆以外の仕事もやらざるを得ないことは分かっていた。しかし、オンライサロンだのYouTubeだの、ここまでくると、もはや作家というより「売文ネット芸人」だろう。
これからますます、作家は顔も私生活も晒して、芸人じみた生き方をしていかざるを得なくなるのだろう(専業でやる場合だが)。そこまでして数百数千の読者を抱えても、生活は並の会社員にも及ばない。ようやく文章を世に出せたと思ったら、Twitterだのブコメだので頭の足らない連中にゴミみたいな感想を書き散らされる。想像するだに身の毛がよだつ。
作家たるもの、自分の書いたもので少しでも世を変えたい、そしてあわよくば、歴史にわずかでも爪痕を残したい、という夢想をするものだと思う。程度は人それぞれだろうが、少しは作品を後世に残したいという思いは持つだろう。だが、今では作家の書く文章など、無数の娯楽の中の一つに過ぎず、ただただ消費されるだけのものだ。それも、一部の物好きが消費するだけで、ろくに金も産まない。断言するが、かつての大作家たちのように何十年何百年と読まれるものなど、現代の作家から生まれることはない。残ってせいぜい五年か十年か。
無数の駄文がネット上に書き捨てられ、毎日のように駄本が出版される現代。作家の書いたものが世を変えたり、歴史に残ったりすることはあり得ない。現代に書かれたもので、後世振り返られるものと言えば、おそらくドナルド・トランプのツイートくらいだろう。「作家の書くものには言葉の力がある」などと言われる。だとするなら、「言葉の力」で世界を一喜一憂させ、株価を動かし、世界情勢すら変えかねない、トランプこそ現代最高の作家だろう。業としての作家には、何の影響力もない。歴史にも残らない。何ならアルファツイッタラーの方が遥かに影響力がある。これが現実だ。
つまり、自分が夢見ていた作家像は、徳川埋蔵金と同じくらいの馬鹿げたものだったのだ。仮にこんな馬鹿げた夢を持ったまま業界に入っていたらと思うと背筋が寒くなる。絶望して生きていけなかっただろうな。
https://anond.hatelabo.jp/20200716203604
さて、次にこの編集者氏の文章だが、「いい本を多くの人に読んでもらう、それが編集者の仕事だ」という矜持が僅かでもあれば、意地でも言わないようなことを言っている時点で終わっている。
もしも、作家になれていたとして、こんな人に偉そうなことを言われるのだと思ったら…こんな業界に身を置かなかった自分を賢明だと思う。
https://anond.hatelabo.jp/20200717110714
もしも自分が作家になって、それなりに自由にものを言える立場だったになれていたとしたら(無理に決まっているが)、こういう低い立場に置かれた人たちのことなど知りもせず、「搾取はいかん!」的なことを書いていただろう。自分も搾取構造の一部になっていることなど気づきもせず。
自分を顧みもせず、綺麗事を言う作家どもが如何に醜悪かは、皆さんよく知っていることと思う。Twitterを見れば、「よくもまあ、そんな偉そうなこと言えるよなあ」という腐れ作家どもが山ほど見れる。そんな人間にならなくてよかったと、心から思う。
いやあ、本当に、作家になることなど諦めてよかった。作家目指してあれこれ努力していた頃、「馬鹿言ってないで就職しろ」と言ってくれた両親に感謝したい。下手にチャンスが近づいていたため、当時は親を恨みもしたが、今では感謝の念しかない。
現在は、小さな会社のしがない社員だが、それなりに楽しくやっている。幸いコロナの影響も少なく、将来の不安は小さい。ステイホーム中は嫁と楽しく過ごすことができた。作家業なんてしていたら、この安心感は得られなかったろう。金もなければ、結婚もできていなかっただろうな。
「こんな文章書いて未練たらたらだな」と思われるかもしれない。確かに、未練が全くないとは言わない。一度は目指した夢だったのだから。だが、「やめといてよかった」もまた本音なのだ。
夢を追って叶えていたら、もちろん得るものも大きかっただろうが、失うものはそれよりも大きかっただろう。そこそこ安定した生活、家族のいる安心感、これらがないまま今の年齢になっていたら…。死んでただろうな、間違いなく。
腐すような書き方をしたが、作家諸氏には本当に頑張ってほしい。大変な時代と思うが、工夫して乗り切っていただきたい。乗り越えた先には、明るい時代が待っているだろう。知らんけど。
作品のファン同士で「ここがよかった」「あの表現が良い」などの交流は好きだ。それを求めてTwitterに身を置いている。
原作があっての作品だ。作者が生み出すものが好きでファンになっている。気持ちはわかるし私も大好きだ。だけど全てを肯定し、周囲にもそれが当たり前だよねと伝播していることが怖い。
行きすぎた未来予想図に違和感を感じる。同じことをまとめブログのタイトルにでもされたら嬉々として噛みつくようなことをファンだからと許されている気がしてならない。こちらは毎度公式からの供給に一喜一憂しているわけだが、声の通る人たちによる妄想の同調化に嫌気がさしている。原作のファンでいることを時々諦めそうになる。そんなことで嫌いになどなりたくはない。
二次創作に身を置いているし、カップリングも好きだ。けれど「○○×○○は公式」と大声で言っていたり、推しが登場しなくなったから原作は読んでいないなどと平気で言っている人たちと同じフィールドに立っていることが嫌になる。いろいろなファンがいるのだからもう少し節度をもって欲しい。
モフモフ社長、6月にコロナ感染者数のニュースのブコメで名前をよく見た感覚があった。
その際に「俺の2週間前の予言がほぼ的中してる件」というようなことをコメントしていたので、東京感染者が最多の224人になったいま、振り返ってみる。
まだ収束してないから油断せず家にいよう! ゴールデンウィーク@ホーム向けに、家の中での娯楽を提供しているエンタメ企業や宅配サービスに、初月無料とか半額セールとかにする原資を税金投入してもいいレベル。
よかった。収束まであと少しだ。ステイホームを支えたゲーム産業を表彰すべき。しかし、香川県の子供はステイホームで何をしていたのか気になる。県ぐるみの児童虐待だ。
6月10日あたりには、解禁日以後の行動の結果が出るので、たぶん30人くらいには増えてるのでは。まあ、そもそもの感染者計測の仕方が厳密じゃないから、細かい数字に一喜一憂しても仕方ないんだが。
自粛離れ。熱しやすく冷めやすい国民性だからな。今後2週間で60人を超えそうだが、100人超えはないし、医療インフラも大丈夫だろう。/自粛しながらの生活が新しい日常になるのだと、全国民が思い知ることになる。
2週間後(6/16)のピークが60人で、それ以上は増えないと勝手に予想。/でも、これでわかったのはワクチンの開発と普及が完了するまではwithコロナが新たな日常になり、「自粛明け」なんてものは存在しないということ。
弊社は、原則テレワークのまま継続です。ワクチンが開発されて広く普及するまでは、コロナと生きていくしか無いんだから、それ以外の選択肢は考えてない。出来るところは、今からでもそうした方がいい。
もう2ヶ月くらい、週の半分は一歩も外に出ず、週末にも地元の街を出ずに過ごしてるけど、在宅でやりたいことは山ほどあるし、特にストレスはない。引きこもり耐性があるとこういう事態に強いな!
「一度60人くらいまではまた増えるけど、それ以上は増えない」という2週間前の俺の予言、当たりつつある。
だいたい東京50人の感染者数で、俺の2週間前の予言がほぼ的中してる件。たぶん60人くらいまで増えて、また減って行き、10 〜50人を行き来する形で安定すると予想。 https://twitter.com/shields_pikes/status/1267698580665462784?s=21
東京アラートとは何だったのか? 謎のタイミングでの活動解禁と越境移動の許可で、この2週間後には日本全国で感染者が増え始め、地元民による都民の排斥運動と瀕死の観光業とのせめぎ合いが起こりそう。
俺の予想(60人くらいまで伸びるが、それ以上にはならずに、10〜50人の間で安定する)が当たり過ぎてて怖い。
1ヶ月くらい前に「60人くらいまで増加するが、それ以上は増えず、その後はずっと10〜50人の範囲で安定」と予言したが、その通りになったな。単にグラフから推計しただけだけど。
まあ100人は超えないから安心しといて。都知事選を意識した百合子のせいで自粛強化のアピールが出来ずに、一時的にオーバーする可能性はあるが。自粛しつつテレワークしつつの生活を日常にしたら医療崩壊は無いよ。
油断して50人。気をつけても10〜20人。まあ、増えたとしても平均60人前後で頭打ちになって、100人とかにはならないから安心しなよ。
60人になるという2週間前の俺の予測、完璧じゃね? https://twitter.com/shields_pikes/status/1272427091191971841?s=21
俺の予想では明日は一気に40台まで減ると思うが、もしこれで60超えて来たら想定外かつ異次元のヤバさかもしれない。/ちなみに医療現場の状況、統計手法の偏りの癖、都知事の都合などの係数も想定した予想値(勘)。
あ、こりゃヤバい。今までは完全に俺の想定通りだったけど、今日で初めて想定を遥かに超えて来た。このままだと100人超えるかも。
https://anond.hatelabo.jp/20200629213448
おけパ中島がバズリ
https://twitter.com/sanada_jp/status/1269465337675698176
https://anond.hatelabo.jp/20200706042509(感想屋そのものには誘導したくない)
要約すると、
『とても文章力のある感想書きが界隈を席巻してしまった』という内容の愚痴増田が話題になる
↓
神字書きと字書きを題材にした創作漫画の登場人物『おけけパワー中島』に注目が集まる
↓
有償でポジティブな感想を書きますと言いだした『感想屋さん』を名乗る人物が、サービス内容の不備や文章の稚拙さおよび返金対応への不誠実さなど千々に炎上
ここ一週間ほどの間で、以上のような文脈が発生した。
この結果、感想屋という文言に幾つかの意味合いが発生してしまい混乱を招いたり、炎上したものと似た屋号のサービスへの悪影響が心配されたり、純粋な長文感想書きが誤解から心を痛めたりしている。このあたりは個々に注意されたし。また、有償の『感想屋さん』の問題点については羅列していったらきりがないので、特別に記述はしない。
前置きが長い。
私はオタクである。特に創作はしていない。時折、特に萌えを感じた時に短文を書く程度の人間である。昔長文を書こうとしたが冒頭三千字を書いたあたりで挫折し放置している。その上特に交流もしていないし、感想も書かない。一言で言えば、ROM専である。
それなのに、私には妙な自信があった。それは言葉にするならば、「俺だって本気出せば書ける」。小説はそれなりに読むオタクだから、ちょっとした文章ならば書ける。商業のような文章は無理でも、なろう程度なら。書評は無理でも、紹介文くらいなら。また嫌なことに、学生時分は図書委員会だの新聞委員会だので短文を書いて「本を読む人だから文章がうまい」と言ってもらって有頂天になったりしていた(今自分で思い出して、あれはお世辞だったのだろうと恥じ入っている)。
そんな私が、ここ一週間の流れを追って、何を思ったか。
まず増田を読んで、二次創作するオタクは大変だなあ、と他人事のように思った。
二次を書き、二次を読み、交流し、その動向に一喜一憂する。どうも大変そうだ。ROM専はその点気楽でいい。だが、まあ、感想というのは良くも悪くも人に影響を与えるものなのだな。時には感想を書くのも、善行かもしれない。そのように思った。
次におけパ中島に触れた。
最初は創作物として面白く読み、リツイートした。その後おけパ中島が話題になっていることを知り、もう一度、我が身我が事として考えてみた。私にとっての神とは誰だろう、おけパは誰に当たるだろう。実際に当てはめてみると、ツイッターでつぶやかれている感想は、なるほどもっともと思えるものも多々あった。私の悪いところは、ツイッターにすぐ感化されるところだ。オタクの嘆きに共感し、すぐに自分で考えついたように錯覚する。私は、まるで自分が主人公になったかのように(馬鹿げたことだ)酔いしれ、おけパ中島への薄っぺらい恨み節をツイートしてみたりした。
感想屋が出してきたものは、かなりひどいものだった。界隈のオタクの気持ちを踏みにじるものだったし、何より悪文だった。それは野次馬である私にさえわかるものだった。下手くそで、金を取るような文章ではなかったし、そも人に見せられるような文章ですらなかった。
その程度の文章に、私はひどく動揺した。
何が私に衝撃を与えたかって、それは、その悪文が、私の書くものに途方もなく似通っていたことだ。
いや、あそこまでの悪文ではない。ない、と信じたい。下ネタを好まないゆえにあそこまでの下劣さではない、はずだ。
だが、似ている。文章の構成が、筆の運びが、何より配慮の欠けた思考回路が。私もかつてこういう文を書いて、自信満々に教師に提出したことがなかったか。こういう感想を、臆面もなくファンレターとして出しやしなかっただろうか。その稚拙な文章が他人を傷つけていたかもしれないことを、否定できない。
それは、他人よりも本が好きだという自負だ。小説を読むのが好きなことと、文章を書くのが得意なことを、取り違えて混同した、おぞましい勘違いだ。その上、私が読むのは『他人に比べて』多い程度であって、誇れる程ではない。何一つ、誇れることなどなかったはずだ。眼高手低とはこういう事を言う。
私は自分の文章に向き合ったことがあっただろうか。何度も推敲し、多面的に読み直し、練り上げた文章を書き上げたことなど、一度でもあっただろうか? そう問うてみれば、一度もなかった。この文章だって、ほとんど読み返さず、激情のままに綴っているだけだ。プロットも、描写力も、考えて作ったことなど、一度もない。
私自身が、物事を考えたことはあっただろうか。物語を読んで、薄っぺらい表面的な理解をしてすべてを分かった気になったことは。まるで自分で考えたかのような顔をして、他人の考察を口にしたことは。私は、私自身の無能と向き合った事が、これまでに一回でもあったのか?
これは恐ろしい事だ。誰かにとって恐ろしいのではない。タイムラインのオタクにとって恐ろしいのではなく、創造上の誰かにとって恐ろしいのではなく、私にとって恐ろしい。誰かではない。私の恐怖だ。私の足元が崩れ、私の心が崩れている。他人事ではない。それが、こんなにも恐ろしい。
私は今、パソコンでエディタを開いて、この文を書いている。隣にはもうひとつウインドウが開いていて、そこはまだ新規ファイルのままで、まっさらだ。そこに、小説を書いてみようと、思っている。
私は感想屋にすらなれない。
『なれなかった』と、過去形にしたい。今、切実にそう思う。せめて自分に誇れる自分でありたい。
そして、今度こそ。
自分で読み返してひどいな、これ。
いや、竿じゃなくてタマの方か。(異性愛者の)男性みんなもげてしまえ。
だけどな、おまえら、人の年齢と身長が分かった瞬間に、あからさまにがっかりするのはやめていただきたい。
年齢のことは聞かれれば正直に答える。若く見積もるつもりも、秘密でぇす♪というつもりも全くない。
人は生まれた時から平等ではない。が、どんな人間にも等しく与えられるものがある。
それをなぜ隠したり偽ったりする必要があるのだろうか?という考えが私にはある。
なので、年齢を聞かれれば正直に答えるし、何だったら、自分から「〇〇年生まれです(△歳です)」という事だってある。
最初に書いた通り、私は40歳である。男性諸君から見たら決して若くない。
君たちのちんこは反応しないと思う。
それでいいと思う。
君たち男の人は、若い女性が好きな生き物だ。
若い女性というだけで、100万倍相手が可愛く見えてしまうものだ。
理性とかじゃなく、本能で反応してしまうと思うから、その辺りはしょうがないと思っている。
が、私の年齢が40歳と分かった瞬間に、興味が無くなったことを態度であからさまに出すのはやめていただきたい。
興味を無くすのは勝手だが、せめて大人の男性として、中学生レベルの興味のなさっぷりを態度で表すのはやめていただきたい。
私も齢40歳。ある程度いい大人なので、相手の態度から「あ、この人、今の瞬間で私に興味なくなったわ」というのは、経験値的にわかる。
繰り返しになるが、男性は若い子が好きなので、私が40歳だと知った瞬間からちんこが元気なくなるのは分かる。
テンションだだ下がりなのも分かるつもりだ。
だが、高校生~20代の若い男性ならともかく、ある程度年齢を重ねてた大人が、あからさまに態度を反転させるのはいかがなものか?
ちんこの影響か、テンションは急転直下で落下していく。こうなると、もう、こちらがいかに面白い話しをしようと、何しようと、どうしようもできない。
あからさまな態度をとられると、若干へこむ。
しかも、私は年齢を詐称したり隠したりしていないのに、私の見た目でだけで「あ、この人まだ30代」と勝手に判断し、事実が分かったところで”一方的に”がっかりされるのは腑に落ちない。
あと、年齢は記号だ!!どうしようもできない!
君たちがちんこどうにもできないように、私も年齢をどうにかすることはできない!
あと、私は身長が一般的な女性よりは高いのだけど、座っていると普通にしか見えないらしい。
椅子から立ち上がった時、あからさまに驚くのは傷つくからやめてくださいお願いします!
「負けたー」という謎の言葉を残すのも控えてくれ!
こちとら、180cm近くあるから、でかいだの、巨人だの、彼氏できないだの、女じゃないだの、もう40年もこの体で生きていれば、Weblioの「大きい」の類語全部言われたことあるから!
あらためてしみじみ言うのはやめてください。
1cm低いか高いかで一喜一憂しないでください。女性は(というか私は)あたなの身長あまり気にしてません。
けど、男性が気にしてしまう場面には、何回も、何百回も遭遇してますから。
私と並んで、あまりへこまないでください。
余談ですが、私が今まで独り身な理由は、自分が一番理由分かっていますから、あんまり聞かないでください・・・。
が、38歳くらいから何も言われなくなることが多くなった。これはとても快適だ!
はやく日本酒とお魚が美味しいあのお店に行きたいなぁ。
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ブコメをいただいたので回答してみる。
ネット上で時々お見かけしますが、リアルで一度もお会いしたことが無い!
大変残念です・・・。
ウチの先輩で180センチの女と結婚したい、って人がおりますので如何でしょうか?先方55歳です。はい、あなたのお気持ちは?
相手がよければ私は全然OKです!が、リアルで180cmの女性を見ると、結構でかいです。自分で言うのも何ですけど。
先輩も実際に見たら引いちゃうかも。大女を愛でるのは、スマホやテレビの中だけにしておいた方が良いかもしれませんよ。
配慮が足りませんでした。申し訳ありません。追記させていただきました。
あと、ちんこもげろと言いたかったのは、ちんこが怖いというよりは「ちんこのテンションが下がったからといって、あなたの脳みそまでテンション下げないでいただけないだろうか」という意味です。
ちんこがしょんぼりするのは仕方ないが、大人なので、対応まで一緒にテンション下げないでいただけたらと思った次第です。
さすがにリアルで、ちんこ・もげろを言ったり書いたりはしません。ここが匿名だから書いています。
そして実際にちぎれ落ちてほしいなんて思っていませんのでご安心ください。大事な臓器ですから。
どうでもいいことですが、ちんこもげろってポロっと取れるイメージでしたが、その方が痛みがなさそう。
あと、年齢若く見える自慢?というコメントがありましたが、全く思いません。
コメントでやトラバでもあったように、若く見える=幼い・幼稚だと私は思ってしまうので、「実年齢より若い!」と言われてもあまり嬉しくないのです。
年相応に見られれば十分です。
去年くらいから評判だったから全米株式インデックス買いたいなーと思ってた
コロナショックでビックリするぐらい下がったから落ち着いたら買おうと思ったら
あれよあれよ言う間に上がりはじめた
今かいまか今なのかとどきどきしながらまーまーな金額をつぎこんでみた
悩みながら
どきどきしながら
酒の力もかりながら
買った
それが先週ぐらいの話
今まだあがりつづけてるので含み益はでてるのだがどうしたもんかなーと面倒な気分
今のとこハッピーだけどなんか上がりすぎてるぽいから弾けそうだし
長く持とうかとも思ってたけど一喜一憂するのも面倒くさいからさっさと売っちまいたいなーとも思うし
ちゃんと自分なりの計画とかシナリオみたいなの考えて買わないとだめだな
持て余す