はてなキーワード: クリアとは
いやこりゃアレだよおめーら、感受性豊かで優しくて壊しやすそうな文才ある子が来たね、ってなもんだよw
超敏腕釣り師だったら降参だが、女の子なんじゃね? ってくらい多感だね。
なんでかっつーと高3男子はこんな長文は書けない(偏見)し、自責が強くない(偏見)し、もっと攻撃的で短絡だ(偏見)し、認めてくれなくても内情吐露だけさせて、なんて言わねー(偏見)もんだからな。
ラノベめいた出だしでも抑制は効いているし、トラウマになった何かを避けて話を進める構成力はあるし、6年間を要領よくまとめてある。
解決法もしっかり見つけてあって、大学受験だけクリアすれば今までのは帳消しにできると思ってるのは少し不安だが、まぁ少し肩の力を抜いて頑張ってくれって感じかな。
前にも書いたがここのクソ共は言葉だけで綺麗な事を書いても現実には何一つ助ける力なんかないし、やる気もなくてマウントしたい頭の悪い変態と豚と犬野郎だけだ。
だからまず、話を聞いてくれたからと言って、ここで癒されたり受験の助けを貰えたり人生の指標を示して貰える、なんて甘い期待は持たない事だ。
大半の奴はオマエが呪詛を吐き続けながら失敗して短いメッセージとともに自殺するか事件を起こすのを内心では望んでいるし、応援したからと言ってコネを使って大学にネジ込んでくれたり代わりに試験を受けてくれたりもしない。
だからその上で言うんだが、まず具体的に学校名や担任、事件が特定されるような事は受験が終わるまで絶対webに書くな。
心の中で整理しきれてないからなのか、そこまで考えているのかは分からないが昨今はSNSですら企業の就職担当がチェックする時代らしいからな。
優れた経歴は人生を有利にはしてくれるが、事務次官にまでなっても子育てに失敗して強制リセット掛けてキャリア後楽隠居ルートから垢BANされちまうようなのだっているんだからよく分かるだろ?w
後はまぁ…、ナンだ?
受験が楽しいなら何よりだよな。ここも楽しいだろうが役には立たないし、間違ってもブログ開設してアクセス集めて云々とかオフ会でなんちゃらとかゲーム実況でどうのなんて考えるような馬鹿じゃねぇだろうとは思うんだが、それを勧める人間は情報商材(知らなかったら検索して見ような?w)屋みたいなもんだと思った方がいい。
思い出せない部分とかクソ教師の詳細ってのは個人的には聞いてみたいが、それに捉われるのがオマエにとっていい事なのかどうなのかは正直言って分からねぇ。
書き留めておけば(絶対合格するまでアップすんなよ?)気持ちの整理には役立つかもしれないが、勉強の足しにはならないよな?
ダメとか言われるとやってみたくなるのか知れねーが、それを公開しても精々は豚共がオマエを学校と一緒に血祭に上げるくらいで、今までの努力を台無しにする上に言い訳にすらならないしな。
ジッサイ、誰かの骨の一本や二本ヘシ折っただとか教師にケツ掘られたとかっつっても大した話じゃねーんだよ。仮に詳細書いてアップして大炎上して何もかも失敗してブラック企業だの非合法派遣だので生活するようになったとしても簡単に死にはしねーし、そういう場所ってのは似たような話がごろごろしててそれなりに楽なもんなんだぜ?w
一番いいのは、もしかすると思い出せないまま大人になっていく事かもしれない。
近所の公園を通る度に砂場で泥団子を投げつけて泣かせた近所の子だとか、ブランコからジャンプ失敗して柵に叩きつけられた記憶とか思い出してたら大変だろ?
マウントする奴ってのはタイテーがそういう記憶に捉われてテメーのやった事を責任転嫁してる半病人なんだが、まぁそれもジジィになってくりゃ笑い話だ。
どう書きゃいいのかよく分からんが、たぶんオマエはきっと頑張ってる。
大学生になってヒマでどうしようもなくなったら、また来いよな。
具体的には今は3DSのバーチャルコンソールで『スーパーマリオブラザーズ』と『ファイナルファンタジー(初代)』をやっている。
スーパーマリオブラザーズとかいう駅のなぞなぞおじさんをモチーフにしたゲーム……冗談です。 これめっちゃむずいですね、クリアした人いるんですか? マリオ2とかいうもっとむずいやつが出てるって事は、世の中の人ゲーム、上手いな。頑張りたい
ファイナルファンタジーはまだ初代しか知らないのでチョコボやモーグリもまだ架空の存在です。はやく現実の存在にしたい
でも終わったら次は『ドラゴンクエスト(初代)』をやろうと思っている。
スト2はアーケードを何クレかやっただけだけどこれ単位取れてますか。取れてなさそうだな。
そういえばドルアーガの塔も話しかしらない、これも義務教育対象ですね。
グラディウスもありますね、曲しか知らない……STG苦手なので、コマンドを強化もコンティニューも使う予定で、ワクワクする
パラッパラッパーも多分履修済です。 ここでの履修は、緩く見てください。
そういえば最近のゲームだとマインクラフトも義務教育対象だな。
4月にマツモトキヨシとココカラファインが提携を進めると発表し
4月にマツキヨとココカラが提携を発表したときは、単なる提携話で、
くっと勢力の強いマツキヨがイニシアチブを取るんだろうなくらいにしか思われない。
ただ、ここに来てココカラがスギ薬局と提携するなどと発表したことで、
実はこの提携話、裏では各社の非常にドロドロとした思惑が隠れているのではないかと思い始めた。
以下は妄想だ。
経営統合すれば、当然、経営における各社の主導権争いとなるし、
マツキヨとココカラが提携するという、マツキヨvsココカラという話で見たとき、
つまり単純に考えれば、この2社であれば、ココカラはマツキヨに統合される。
この提携話が出たのは4/26のことだ。
この時点では非常に単純な話だ。
しかし6/1になって、ココカラはスギ薬局と提携を進めるとも発表する。
店舗数こそココカラ>スギ薬局だが、売上高はスギ薬局>ココカラである。
スギ薬局の思惑はこうだろう。
・ココカラを吸収すれば、マツキヨもさることながら、他のHDにも圧倒的に勝てる。
・ココカラとの業務提携は、売上高が大きいスギ薬局が主導権を取れるはずだ。
おそらくこんな思惑でココカラと業務提携の話を水面下で進めていたに違いない。
しかし、4/26にココカラはマツキヨとの提携を進めると発表する。
ココカラとマツキヨが提携するとどうなるか。その売上高はスギ薬局を遥かに超える。
当然、スギ薬局が進めようとしていた提携話で、スギ薬局が主導権を取ることはなくなるだろう。
しかし、ココカラとマツキヨの提携では、マツキヨのほうが売上高が高い。
つまりこの両者の提携話で主導権を取るのは、ココカラではなく、マツキヨだろう。
そうなればココカラは、スギ薬局との提携で主導権を取るどころの話ではなくなる。
6/1に発表されたココカラのプレスリリースを読むと、ココカラとマツキヨの提携話が表に出た
それもそのはず、スギ薬局としては、マツキヨより先にココカラと提携してしまわないと、
主導権を取れず、業界トップシェアに行くことはもはやできなくなる。
おそらく、マツキヨはココカラとスギ薬局が提携を進めようとしていることを知らず、
スギ薬局は、ココカラとマツキヨが提携を進めようとしていることを知らなかった。
両方から提携話が来ていたココカラは、これらの打診をうまく利用することにしたのではないか。
ココカラはマツキヨに対し、スギ薬局と提携を進めることを利用し、提携後の主導権を取りに行き、
スギ薬局に対しては、マツキヨと提携を進めることを利用し、同じく主導権を取りに行ったのだ。
上記を物語るのは、この提携話が「3社提携ではない」ことである。
この話は、あくまでもココカラが両者との提携を進めると言っているに過ぎず、3者が協力するという話は
一言も書かれていない。
マツキヨは、おそらくココカラと提携して、マツキヨブランドを日本一にすべく動いていただろう。
しかしココカラは、裏で進んでいたスギ薬局との提携を利用し、マツキヨを脅しにかかったのではないか。
「先にスギ薬局と提携してしまえば、うちの方がでかくなりますよね」と。
ココカラのプレスリリースでは、スギ薬局が提携を持ちかけてきたとある。
個々からが持ちかけたのではなく、スギ薬局側が言ってきたのだから、という体なら話もしやすいだろう。
これでマツキヨ・ココカラ連合の主導権は、現時点で最も売上高が大きいマツキヨではなく、
・・・として締めくくりたいが、まだこの話は終わらない。
しかし、スギ薬局とココカラは、前述の通り売上高がスギ薬局>ココカラであり、
スギ薬局の方が強いのだ。
スギ薬局もまた、ココカラとマツキヨの提携話を利用し、覇権を取りに来ているのだ。
ココカラとマツキヨの提携話が出た後の、スギ薬局の思惑としてはこうだろう。
・ココカラとマツキヨが提携する前に、何としてでもココカラとの提携を成立させる
・ココカラとの提携は、売上高が大きいスギ薬局の方が有利に進めるはず
ココカラとしては、前述の話からしても、マツキヨに吸収されまいと、スギ薬局の提案に乗るしかないのだ。
スギ薬局はそこをうまく利用した。そして今回の発表だ。
実はこの勝負、最も頭が切れているのはスギ薬局なのかもしれない。
だが一番大きなところが主導権を取る、という単純な話で終わらなさそうなのが、この話の面白いところだ。
社内へのリサーチというか、承認を得るのは大事なプロセスだと思う
で、だ、
その社内承認にかかる手間暇についてのもやもやが募り募ったので
ここに投げてみたくなった
2.まあまあ重要:製造とかリリースにおいて問題がない(3σとか、仕様書満足するとか)
3.そこまで重要?:社内の心情的に、これまでの慣習的にこれでおけなの?
だいたい、いらいらするのはそこまで重要?なのかと考えてしまう3.の案件だ
NGではない、が
NGに突っ込みそうな傾向、つまりあまりよくない傾向は見えている。
しかし、承認プロセスの重みづけとして1.2.はクリアしている。
で3.レベルに対して、どうなんかとくどくど言われる
正直、2.まで達成していればあとはプライドの問題かなと個人的に思っているので
そんなに目くじら立てて問い詰められるほどのものでないと 思っている
そこで、NG判定下すくらいなら、開発的にNGだったんだと言い切れと思っている
海外的に考えるとやりすぎなのかが非常に気になる
個人的にそこを変えたい、がしかし、このような開発状況ではlそんなのは高望みにも程がる
だれか助言をくれないだろうか
1.
VeraCrypt(truecryptの後継)で、ハードディスクを暗号化します。
パスワードは、国歌の2行目や、憲法前文の3行目、特定のソースコードの100行目などの文字列を利用しましょう。
これら文字列+1234等の特定の文字とするともっと安全です。
パスワードを記憶せずに忘れて、そのパスワードの書かれている場所だけを覚えるのが一番安全な方法です。
2.
手動Mountして利用してください。
いちいち、手動でMountするのが面倒ならNASを作ってSambaから利用してください。
3.
もし、あなたが一人住まいの場合、あなたが死ねば電気料金不払いで自動的に電気が消えます。
電気が消えると、ログイン前に戻るため、パスワードがわからなければ、アンロック不可能です。
もし、家族と暮らしているか、膨大な預金残高を持っている場合は、もう少し工夫する必要があります。
それでも、cronを利用して、ちょっとしたプログラムを作ればいいだけです。
.bash_historyやlogなどの日付を見て、古すぎれば、rebootコマンドを発行するだけです。簡単ですね。
cronを利用すれば、もっと任意の短い時間でロックできるので、便利ですね。
データを削除するわけではないので、仮に間違って動作したとしても、再Mountするだけです。
VeraCryptを利用するため、現時点でいかなるバックドアも存在しないため、たとえ国家権力であったとしても、解読できないでしょう。
もし、心配ならもっとよいお好きなソフトウェアを利用してください。
基本的な考え方は同じです。
現役の校正者です。出版社の校閲部所属ではありませんので、多くの出版社とお付き合いさせていただいてます。
幻冬舎の見城徹社長のインタビュー(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/05/post-12205_1.php)と、そのブコメを拝読していて、いろいろと解説できることもあるかもしれないな、と思いましたので、一般的な校正フローがどういうものか、ということについて、増田で書いてみようかなと思います。
この段階で、完成原稿扱い(を目指す)というのが一般的です。なお、上記の説明では「完成」の判定を誰が責任を持つのか、デザイナーとDTPオペレーターの職分の厳密さ、あたりがすっぽ抜けているんですが、そこの解説は省略させてください。パターンがいろいろありますし、枝葉の話かと思いますので。
とても高い正確性が求められる書籍(例えば辞書)の場合や、再校での修正量が想定以上に多かった場合は、さらに「修正指示が反映されているか」「もう一回読み直し」とサイクルを予定している/追加していく場合もありますが、だいたい多くの書籍では「初校・再校」の合計2回まででまとめていると思います。
『日本国紀』はあのあり方、ページ数などからみて、三校、四校まで実施しているかもしれません。遠くから眺める限り、いろいろと大物な予感がしますので、ちょっと再校まででは済まない印象がします。単なる勘ですけど。そういう意味では、インタビュー内の「通常の3倍以上」というのは、六校、七校まで実施した、という意味かもしれないな、と思っていたりします8-)
校正作業を行うにあたっては、「リスクを認識した場合、そのリスクをクリアするためのチェックフローを追加する」というスタイルがよく採用されます。実務に沿って言い換えると、まずは「編集者からの依頼としてチェック項目のリストが渡され、それを元に読み進める。そして、実際に校正作業を進めてみて新たに発見されたリスクについては、適宜、リスクに応じたチェックを追加する」という形です。言葉にすると当たり前なように聞こえるかと思います8-)
これを剽窃チェックにあてはめると、「この原稿にはWikipediaコピペが含まれていそうだ」と判断した場合に、「Wikipediaコピペを検知するための確認作業を追加する」ということになります。
Twitterで、小池みきさんが「社内校正のときに「ウィキのコピペをしてないかチェックする」って作業があった」とお話されていました(https://twitter.com/monokirk/status/1133240351123099648)が、これは、続きの「ネットに詳しくないおじいちゃんの郷土史家とかはけっこうやってしまうので」というのが重要なポイントで、リスクが高い状態がすでに認識されていたからこそ、コピペチェックが定型フローに含まれていた、ということだと思います。
なので、「『日本国紀』はWikipediaコピペのチェックもしていないのか?」という問いに関しては、「百田尚樹先生の文章について、なんらかの剽窃リスクが高く見積もられていなかったならば、編集者から提示された最初の校正依頼の項目に『コピペチェック』が含まれていなかったとしても、特別におかしいとまでは言えないと思う」という回答です。
そもそもとして、剽窃は絶対にしてはいけない・出版倫理にもとる、というのが大前提なので、「著述家として実績を積み重ねた方であれば、剽窃や不適切な引用はしていないはず」という認識を基本とするのはわりとベーシックです。例えば飲食店において「お客様は全員きっと食い逃げするに違いない」という強いリスク感を持つのがさほどノーマルではない、みたいなことで、「剽窃があるかもしれない」とは考えますが、「剽窃があるはずだ」と強く疑ってチェックを重ねるのはコストが嵩みすぎる、という判断をします。「存在する可能性が高いものを探すコストをかける」のと、「存在しない可能性が高い(と考えられる)ものを探すコストをかける」のは現実的には違うのです。校正作業にも締め切りや予算がありますから。
ですから、多くの校正作業においては、「この原稿、コピペが入ってるのでは? 剽窃かも?」というリスクをどこかではっきり認識したら、その時点からコピペチェックを追加します。「おそらくあるはずだ」に頭を切り替えるからです。「私の場合は」という但し書きはつきますが、おそらく多くの校正者がそうしているでしょう。
では、「最初は偶発的に発見するしかないの?」という問いに関しては、「はい。ある程度は偶然に頼ります」というアンサーです。ですが、ベーシックにファクトチェックを実施していれば、どのみち辞書・インターネット・専門書等を駆使して大半の単語や記述を見比べながら読むこととなり、「剽窃・不適切な引用が多数存在した場合、そのうちのどれかひとつを発見する」という可能性はそこまで低くないと思います。特にWikipediaからのコピペの発見は多少は期待できます。実際、私自身も何度もそのような経緯でコピペ事例を発見したことがあります。検索さまさまです8-)
一方で、参考文献のリストがそもそも共有されていなかったり、それが不完全だったりすれば、「どこから引っ張ってきたのか」の見当をつけることさえできないので、かなり発見が難しくなります。
校正作業(チェックリストの項目)は追加すれば追加するほど期間と金銭コストがかかるし、無限に時間をかければ当然ペイしなくなってしまいます。なので、特に校正フローの最初においては、クリティカルな点や、質への貢献が高い項目を重点的に校正する、というのが多くの場合の実情です。
作品固有の事情として、『日本国紀』がどういう売り方で、どれくらいの期間、どれくらいの利益を企画していたか、ということは外側からではわからないので、「通史で全部のファクトを細かくチェックしていけば、校正だけで5年はかかります」というコメントから、「じゃあ5年かけろよ」とだけ言って終わらせてしまうのは、理想的ではあるものの、現実的に可能かどうかはわかりません。
2019/05/31追記:「通史で」というところもポイントなんですよね。そもそも『日本国紀』を通史相当とみなすのか否かから検討されなくてはならない。一般文芸書と学術書では求められるレベル感が違いますもの。
金銭や時間が膨大にかかる理想をすべての書籍に一律に求めることはできない実情は既にあるので、「『日本国紀』という作品については、どれくらい理想を突き詰められたのか、突き詰めるべきだったか」という評価・判断と合わせての評価のほうが、現場にとっては建設的であろうと考えます。これは単に「校正現場にとっては」という話であって、思想云々、歴史云々の話は学術・芸術的な観点を含むため、また別枠だと思います。今回の増田でそのあたりを取り扱うつもりはありません。校正作業の話だけをします。
最初にお断りしたとおり、私は『日本国紀』をまだ手にとっていないので、どれぐらいの校正コストが支払われるべき作品だったのかについて、特に言えることがないです。もしもこの増田に反応が多ければ、その時は目を通してみようと思っています。その場合は見積もりのために数日ください;)
現に剽窃や事実誤認や誤記と見られる(らしい)記述が存在したそうですから、「『日本国紀』において校正フロー全体は正しく機能していなかった」は正しいと言えるとして、ではその原因は何か?については妥当な推測ができません。例えば期間や予算がなかった、あるいは校正者の実力自体の不足で、(作品としての理想、読者の皆様からの期待の両面から)求められる成果にそもそも達していなかった可能性はもちろんあります。また、あるいは部分的に達せられていたとしても、編集の方、著者の方にご確認いただく過程で、指摘が却下されている可能性もゼロではありません。
「校正者」という個人、さらにその校正力にだけ、校正フローの機能不全の責が向かうとすれば、必ずしもそうとは限らないですよ、ということぐらいは言わせてください。
……という感想はさておき、インタビュー内の「版を重ねて修正するのはどの本でも当たり前のようにある」は事実です。また、特段の事情がない場合、サイレントで修正するのもよくあります。
ただ、ごく短い期間で版が何度も更新され、さらに刷りを重ねているとなれば、最新の版以外を「古いもの≒正確でないもの」と認識した上で取り扱ってもらえるのが望ましいでしょうし、その必要性の度合は文芸小説等よりは高いと思います。広辞苑や記者ハンドブックなどを使用する際に「第◯版を使った」というのが重要視されるように、『日本国紀』第◯版読んだよ、みたいな感じで。
増田でこんなに長くていいのかって思いながら書きました。すいません。
「偏差値が高いクズ人間」をたくさん見てきたワイが来ましたよ。
偏差値がなに?
くそつまんない基準で考えんな。だから65程度なんだよ、おまえは。
②EQ高い
この2条件を最低クリアしてる「人間力」の高い人間が成功しているわけですよ。
メンサに入っているヤツ何人か知ってるけど、ぶっちゃけ、「は?」って感じの人間ですよ。
手取り30万くらいなんだけど、まだ給料が少ないころから住んでる4.5万のアパートに住んでる。もう少しお金出せばもっといいところ住めるよなあと思いつつ、このアパートが27㎡以上駅徒歩8分コンロ2口バストイレ別洗面台独立(欠点は洗濯機が外であること、築30年以上、下が居酒屋)という好条件のせいでなかなか決心がつかない。
先日、久しぶりにオタク街コンに行ってきた。
が、しかしあまりにも疲弊してショックを受けたので、それについて思うことを、(別に誰も参考にしないと思うけど)書いておく。
ちなみに地方住み彼氏なしアラサー婚活初心者、結婚はしたいけど恋愛は一切したくない限界腐女子です。
さてさて、早速ですが本題。田舎のオタク街コンにはいくつかの欠点があります。
当たり前なんですが、年齢で参加者を募っているものや出身地で募って居るものに比べて、企画ものは圧倒的に参加者が少ない。
そしてその一部は何度も参加している常連というパターンが多い。
常連がなぜ良くないかというと、数を打っているのに収穫が獲られていない人間というのは、基本的にちょっと難があるパターンが多いからです(実際私があった人もちょっと合わなそうだった)。
参加人数が少ない=圧倒的に出会える数が少ないため、コスパが悪い。
②『1人参加が条件』は慎重に選べ
「1人でも参加しやすい、良いじゃん。友達誘うのも恥ずかしいし……」
いや、気持ちは分かる。
ですが、今回体感してみて、この「1人参加」が地獄の一端を担っていたように思う。
趣味の街コン=趣味が偏っている人間、(今回の場合はオタク)が来るのだけど、それを無作為に男2女2で座らせていくわけです。
そうすると、同じテーブルにゲームオタク男とアニメオタク男とドルオタ女と腐女子が座る、みたいな地獄が発生する。
か、会話が噛みあわないことこの上ない……!
しかも今回、自分が行った街コンは女子の参加人数が少なく(ドタキャンもあった)、男2に対して女1で話をしていたのだけれど、男性陣の趣味が全然違うのを1人で捌く必要があり、めちゃくちゃ疲弊した。
年齢の10離れた原作厨とぬるアニオタを1人で面接しているときが一番キツかったです。
会話が続かないのは結構しんどいし疲弊する。可能なら友達と一緒に行けるものをおすすめする。
③情報開示がこんなに少ないとは聞いてない
今回、オタク街コンへ行って感じた最大の問題は、情報が極端に少ないという点でした。
単純に友達を探したい、彼氏彼女が欲しいというのならばギリギリいけるかもしれない。ただ、婚活には圧倒的に向かない。
・名前
・年齢
・出身
・最寄駅
・職業
・好きなジャンル
しか書くところがない。
これで何を知れというのか???
職場の業種・職種(みんな職業:会社員て書いてあったんでさっぱりわからなかった)や年収や身長や家族構成や学歴…わがままは言わないので、せめてこの中の2つくらいは明かしてほしい。高卒か大卒かは教えてくれない?だめ?だめか……。
婚活において、最低限ここをクリアしてほしい、みたいな条件がある人は少なからずいると思うのだけど、オタク街コン=オタクの話に限定されるため、スペックを全く確認できない雰囲気だったので、終わった後の虚無感がすごかった。
ていうかですね、他の条件をすべてすっ飛ばしてオタクである事だけを条件にする街コンを騙るのであれば、
・円盤積むのか積まんのか
・好きなものは共有したい派かお互いに自分の好きなことをしていたい派なのか
そういうことの方が知りたかったですよね!!!?!?(絶対無理なのは分かってる)
せめて街コンのあとに別の合コンにつなげられたらと思うのに、お互いの基本スペックがわからないため、街コンに参加した人間の周り(職場や学生時代の友達の像)が全く見えてこないんです。
企画系街コンは元々年収や学歴で絞ってない限り開示情報が少ないので注意されたし。
と、いうわけで、オタク街コン、ものすごく疲弊したので、婚活しんどいな……みたいな気持ちが強いです。
まとめ
・友達がいるのであれば2人以上で参加の方が話題がとっ散らからない
・企画系街コンは企画内容に重点を置くためスペックが分からず不発
ということです。
あと、個人的に今回得た知見なのですが、街コンって男性の参加料金が圧倒的に高いじゃないですか。今回行った街コンも結構(男性9,500円とか)費用がかさむので、高収入以外は来ないのかな?って思っていたんですよね。
ですが、男性曰く「結婚相談所に行くと入会で50万取られるので、それに比べると街コン1回1万なら街コンに50回行く」らしいです。
マジかよ……
赤いメガバンクの面接の中で、学費について詳しく聞かれました。
奨学金はいくら借りているのかと聞かれ、かなり細かい額まで言わされました。
他の企業では奨学金について聞かれたことはありません。なのですごく驚きました。
実際に落ちた明確な理由は分かりませんが、今まではわりと順調に面接をクリアしていたこともあり、奨学金を借りていることが不利に働いたのではないかという考えが頭をよぎるのは仕方ないと思います。
僕は家の事情で奨学金を借りていますが、それは大学で学ぶためであって遊びに使うためではありません。
奨学金を借りているかどうかで不利になるのなら、そもそも募集の段階で明記すべきではないですか?
それとも奨学金の有無は選考には関係なく、向こうとしてはただの世間話のつもりなのかもしれませんが、僕は初対面の面接官に学費のプライベートな話なんてしたくないです。
もう落ちたものは仕方ないですが、選考に関係があるのなら募集の段階でそう言うべきだし、関係ないのなら余計な憶測をしないためにもこういうことは聞かないでほしかったと思います。
先日「ルルアのアトリエ〜アーランドの錬金術士4」というゲームをクリアした。システム的に人は選ぶけれどとても面白いゲームなのでおススメ。
ところでこのゲームの登場キャラクターの中で一番魅力的なキャラクターと言えば、そう、エーファ・アルムスターだ。一番可愛いのはメルル姫だし、一番性的なのはトトリ先生だし、レフレは通いつめて懐かれるか怯えられるかしたい衝動に駆られるが、でもやはり、魅力的なのは圧倒的にエーファなのだ。その理由を順を追って説明しようと思う。
まず発売前に公開されたビジュアルに注目したい。ピンクを基調にしたエプロンドレスを着たショートカットのお人形のような女の子がゴツイ大砲を持っている姿に目を奪われることだろう。可愛い女の子がゴツくて威圧感のある武器を持っている姿に心惹かれるのはオタクの本能と言われている。これを見て、すぐにエーファという名前を覚えた。ちなみに戦闘ではこの大砲の砲身で敵をブン殴る。最高。
そしてルルアのアトリエが発売される。既にちょっとエーファに心を奪われていたながらもとりあえずプレイを始めた。エーファは主人公ルルアの幼馴染として物語開始とほぼ同時に登場する、ルルアのことなら全肯定するとても良い子だ。時々投げやりだったりするけれど基本的に全肯定しようとする姿がとても可愛い。エーファは、主人公ルルアの住む町アーキュリスに佇むアルムスター孤児院の子の一人である。そして序盤のとあるイベントの中でエーファがルルアのことを(恋愛感情として)好きだと明かされる。つまり百合キャラだ。これは予測できていたし、私は百合が特別好きというわけでもなく、他にも魅力的なキャラクターが登場する中で少しずつエーファへの興味は薄れていった。彼女は幼馴染百合キャラというありがちなポジションなのだと思い込んでいた。
やがてエーファのキャラクターイベントが進む。彼女のイベントの内容を要約すると「実はエーファは貴族の娘だったが家督争いに巻き込まれて幼い頃からアルムスター孤児院に預けられており、その実の親から落ち着いたので戻ってきてほしいと伝えられ、半ば怒りを露わにしながら断る」というものだ。ルルアはエーファに頼まれて同行し、その中でエーファの過去や悩みを知ることとなる。またこのエピソードの中で、ルルアがもともとアルムスター孤児院の子であり、エーファとは同年齢の家族であった事も明かされる。正直言ってありがちなエピソードだと思う。この時点で、私はエーファに対しておおよそ興味を失っており、このエピソードも適当に読み飛ばした記憶がある。本来ならこの時点で私は気付くべきだったのだ。
エーファのキャラクターイベントが終わると、サブキャラクターの冒険者イエルチェとの会話イベント、そしてアルムスター孤児院の父ベノンのエピソードへと繋がる。ベノンが昔は有名な冒険者だったかもしれない、という情報を得たルルアが持ち前の好奇心で探り始めるという内容だ。このルルアの行動をエーファがたしなめるシーンがある。なぜたしなめたか。未だ孤児院で過ごしており孤児院の子の最年長として、奔放なルルアに、子供達の手本となる行動をして欲しかったのか。違う。ルルアに注意した後「誰にだって知られたくない過去があるものだ」と、彼女は一人呟く。斜め後ろからの表情を映さないカットがひときわ目に残る。
ここでハッとした。エーファはありがちな幼馴染百合キャラだと思っていた。けれど彼女とルルアの関係はそれだけではない。エーファにとってルルアは家族であり、幼馴染であり、最愛の人だ。親愛、友愛、恋愛の全ての想いをルルアに対して抱いている。この二人は作中のあらゆるキャラクターよりも深い絆で結ばれているはずなのだ。にもかかわらず、エーファは自分の過去を、悩みを、ルルアには話したことがなかった。具体的な事が起こるまで、自分の内に抱えたまま、誰にも言わず生きてきたのである。エーファは「誰にでも知られたくない過去があるものだ」と言った。エーファは自分の過去を、家族にも、幼馴染にも、最愛の人にも言わなかった。このとき、エーファは自分と他人の間に明確な線を引いているのだと、そう感じた。そう思って会話イベントを見れば、両親(正確にはその使者だが)と会う時につらくてルルアを頼ったあの一回を除いて、エーファは作中全てのキャラクターと明確に距離を置いている事が見えてくる。踏み越えるべきでない一線を絶対に超えない。無茶は言わないし、媚びる態度もとらないし(ルルアに便乗することはあるけれど)、文句も言わず全てに肯定的。物語後半になって、エーファというキャラクターがとても異質なものに見えてきたのを覚えている。
そんなエーファの性質も、よく考えれば自然な事だ。だって、エーファは実の両親に捨てられたのだから。実の両親ですらエーファにとっては信頼に足りないただの他人なのだから。だからエーファは本源的な部分で他人を信頼できない。理性的に他人を信頼できても、最後の一線をどうしても超えられない。他人を信頼して裏切られた時の気持ちを、エーファは知っている。彼女そうやって生きてきたし、これからもそう生きていくのだろうか、そう考えると心がギュッとなった。
ところで、本作はマルチエンディング方式を採用している。バッドエンドとノーマルエンドとトゥルーエンド、それからネタエンド、あとはパーティキャラ毎にキャラクターエンドが用意されている。また本作のやりこみステージはクリア後の世界である。通常、こういったゲームのクリア後世界はかなりメタ的都合に配慮されていて、例えばパーティキャラの一人が旅立つと決心しても、「まだ色々やらなきゃいけない事があるからそれが片付くまではここにいるぜ」的な辻褄合わせの会話が挿入されたりする。本作にはそれがない。エンディングでパーティメンバーは各々の道へ歩き出すが、それを無視してクリア後世界ではみんなパーティに残っている。エンディングの未来がifなのか、クリア後世界がifなのか、正直どっちでもいいけれど、この仕様から各エンディングのif感が強調される。
本作のキャラクターエンドはとても面白い。例えばオーレルエンドは本作ストーリーと地続きにあり得るifストーリーなのだが、ニコエンドやフィクスエンドはなかなかに突拍子がない。確かにストーリー中でそういう可能性は示されるけれど、さすがにオーレルを差し置いて彼らが選ばれる未来があるとはとても思えない。でもそれでいい。それでいいんだ。ニコもフィクスも、ルルアに対して普通でない感情を抱いていることは読み取れる。なら針の先ほどの可能性だったとしてもそれを掴み取る未来。いいじゃないか。最高じゃないか。少しメタ的な言い方をするなら、キャラクターエンドはキャラクターが物語に対してわがままを言えるほぼ唯一の場である。だから多少突拍子なくてもいい。彼らが望んで止まなかった未来を気兼ねなく広げようじゃないか。
だからこそ、エーファが何を望んだのか期待した。もしかしたらちょっと顔の赤くなるような、甘い世界を見せてくれるのかもしれないと期待した。彼女が抱えた問題を越えた先に何が待っているのか知りたかった。だからこそ、驚いた。エーファは何も望まなかった。キャラクターエンドという自分が主役のステージに上がってまでして、彼女は全てのifを否定して現状維持を選んだ。彼女はついに、ルルアとの間に引いた他人としての一線を越える事が出来なかった。彼女は何に代えても手に入れたいと思っていたものを、自身の人生の中で培ってきたつまらない価値観がために、ついぞ手に入れることはできなかった。この事実が、あまりにも残酷で、美しいと感じた。
アトリエの世界はファンタジーの世界だ。登場するキャラクターは基本的に皆前向きで、未来を悩み模索する。そんな中でエーファのエピソードは明らかに異質だ。彼女は、とうに決別したつもりの過去をただもう一度切り捨てただけで、本質的に何も変わっていない。彼女はパーティメンバーの中で唯一、物語を通して変われていない。過去を切り捨てることはできても、決別して新たに踏み出すことはできていない。物語が終わって、その先の未来になっても、彼女は自分の中にある傷跡にずっと引きずられている。エーファだけが、ルルアのアトリエの世界の中で、ひときわ人間的な存在として描かれている。つまらない事で大切なものを諦め、それで仕方ないと自分に無理やり納得させ、これで良かったのだとモヤモヤしたまま生きていく。そんな気持ちで、彼女はモノローグを恨めしく、淡々と語ったのだ。
本人の希望もあって親戚に電話でお見舞いをお願いして、叔父から週明けに行くと連絡があった。何と親戚で連絡を取り合い、総勢6人で来るらしい。
いきなり6人も押し掛けて来て大丈夫かなと不安だったのだが、さらに元気そうに見えた父が週末に行ったらなんだかぐったりしていて慌ててしまった。意味不明な妄想話も全開だ。
叔父に電話して、週明けの見舞いは無理、あと6人で来るのはやめて欲しいと伝えた。
叔父はすっかり不機嫌になって「こっちだって忙しいんだからさ」と言っていた。
疲労も重なってキレそうだったが、それでも見舞いには来て欲しいので、ひたすら平身低頭で謝った。
わかるよ、父の入院なんて、親戚とは言っても所詮は他人事だよ。叔父には叔父の生活がある。
だけど体調の浮き沈みが激しいし、じゃあいつなら絶対に大丈夫かなんて医者だってわからないのに俺にわかるわけないだろう。
もしかしたら「患者様」になってたのかもしれない。でも長い人生、父に小さな借りを作ったことだってあるだろう。その貸しを今返してもらうのは駄目なのか?
親戚同士、まとめて見舞いに来て、これで義務クリアなんてことはしなでくれ。
せめて見舞いに来たがってるフリだけでもしてくれ。
買ってしばらく積んでたスパロボTを最近プレイ再開しまして、今中盤ぐらいまで来ました
そんで昨日アップデートがあったんですけど、スパロボには改造段階っていうのがあって
資金を費やしてロボットの性能を強化できるんですけど、それが普通は10回までしかできないんですよ
同じゲームを2回クリアすると、3周目からは特典で15回までできるようになるんですけど
昨日のアプデで、それが20回までできるようになりました
ちなみにまだ1周目の私もです
いやいやさすがにこれはおかしくないですか
大量に資金が必要とはいえ初見の人間に解放しちゃダメな要素でしょこれは
ちなみにこれと同時に有料DLCが発売されて、それによってたっぷり5機は最大改造できるぐらいの資金が貰えました
いやいやいや
https://www.weltecnet.co.jp/concool/products/concoolf/
この薬を数滴コップに垂らしてうがいする。それだけで口からヌメヌメが全部クリアになる。
しかも夕方になってもまだヌメヌメ感が出てこない。今までのリステリンやモンダミンってなんだったのという凄さ。
動物の苦しみを無くしたいのは分かった。
しかし、肉の安価な代用品か、もしくは肉以上の食の娯楽が現れない限り、肉食派の説得は難しいと思う。
リアルファーを使わない運動が結構受け入れられていたように感じたのは、上の2点をクリアしていたからだと思っている。
安価で見た目もそこそこ良いフェイクファーがあるから、わざわざ動物を殺してまでリアルファーを使い続けるべきなのか、ファーを使いたい人はフェイクファーを使おう、という主張ができた。
それにファッションはファーを使わなくても魅力的な服はたくさんある。他に魅力的な選択肢があるため、わざわざファーを使う意味は薄い。
さらに、ファーを使わないことによる健康の害はない。気持ちの面とか毛皮など防寒が必要な地域はともかく。
肉が大好きな人は沢山いるし、まだ代用品も一般的ではない。豆腐では美味しさに勝つのは厳しい。
肉を食べないことによる健康維持の難しさもある。一般人には肉を食べずに健康維持は難しいだろう。
肉を食べる楽しみを手放せる人はそう多くはない。
やあやあどうもお前らこんばんは。
FGO最近全然やってないけどTLに冬木クリア条件のイベントがあるって流れてきたからシナリオ読んで来てその勢いで書籍版も買ってきたマンだよ。
*この先、FGOイベント及び書籍『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』のネタバレ満載ですご注意ください。
さて。
俺はこの『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という小説が許せない。
ゲームのシナリオの方はどうでもいい……って言ったら失礼か。とにかく。小説独自要素?小説の落とし?が許せん。
この小説は。消費者にとって、そして二次創作者にとっては福音かもしれないけど、一次創作者にとっては、間違いなく、呪いだ。
タチの悪い呪いだ。
物語る者の矜持を打ち砕いて、迷わせてしまうような、そんな呪いが込められている本だ。
この『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』は、「脚本家が倒れたミステリ映画の続きを登場人物達が考える」という、メタミステリものだ。
個人的には『愚者のエンドロール』あたりを連想するところだけど、まあそれは置いといて。
作中では5つの「あり得たかもしれない未来」(ルート)が提示された。
ゲーム版では、プレイヤー達の「投票」によって、一番得票の多かったジャンヌ・ダルク・オルタルート(エリスルート)が選ばれ、"撮影"されたのだが、小説版では提示された5ルートの全てが一旦は"撮影"されたことになっている。
大まかなストーリーの説明はこれくらいにして、俺の気に障った箇所についての説明をしていこう。
『鳴鳳荘』の冒頭には、ラストにも繋がる、とあるシーンがある。
おじさんが幼女の大事な本を壊してしまい、図書館の司書(作中作の「映画」では脚本を務める)に修復を依頼する、そんなシーンだ。
ゲームではこのシーンは「映画」にうまく組み込まれるだけだったが(伏線回収は見事であった)、書籍版では、なんと、このシーンに対応するシーンがエピローグとなっている。
紆余曲折の末、壊してしまった「ペパーミントグリーン色の本」(ゲーム版の方で亡くなってしまったキャラのことを暗示してるらしいですね)を復元したおじさんが、幼女に本を返却する。
「これはわたしの読んでいたご本とは違うような気がするわ。出てくる子たちや舞台は同じなのに、なんだか違う話を読んでいるよう……」
そう。
「不幸な事故」によりバラバラに壊れてしまった物語を、おじさんたちがなんとか修復し、意味の通じるようにページを繋ぎ合わせたが、もともとの物語とは全く違うものになってしまったのである。
更に幼女は続ける。
「このままページを捲れば、本当の結末とは違うものが待っているんでしょう? それは……とても怖いわ」
これに対して、おじさんはこう答え、
最後に、こう読者に語りかけて、『惑う鳴鳳荘の考察 鳴鳳荘殺人事件』という「物語」は幕を閉じる。
(登場人物の感情や物語上のマクガフィンを受け)「何より結果をもって、その選択を肯定しようなんて……おこがましいとは思わんかね?
ちなみにこのおじさん自身は、世界史上実在した人物をテーマにすることが多いFateには珍しく、創作をバックボーンにもつキャラクターである。余談ではあるが。
創作者の、「物語る者」の役目は、責務は、自分の頭の中にぼんやりとある、つかみ所のない"話の種"みたいなものを、しっかり捕まえ、「物語」という形にして消費者に届けることである。
もちろん、その過程で、いくつもの"語られなかった"可能性は摘み取られる。
あり得たかもしれない未来のひとつを捨て、もうひとつの未来を掴み取るための主人公の決断。
見えかけていた可能性のひとつを捨て、別の可能性を選び取るためのヒロインの葛藤。
世界にとってか、主人公にとってか、主人公の愛する者にとってか、はたまた悪役にとってか。
誰にとってかは不定にしろ、とにかく、より良い「結果」を目指す登場人物たちの苦悩、死闘、葛藤、そして決断。
だから――
よりにもよって、そんな一次創作の登場人物達に、「良かったところまで巻き戻して、そこから想像しなおせばいい」だなんて言わせるなんて、許せない。
「『本当の結末』なんてない」と主張するのは、「全ての結末は等しく同じ価値がある」のと同じことで。
それは、「本当の結末」のルートに辿り着くために主人公たち登場人物が払った犠牲を、抱えた葛藤を、定めた決断を、無価値であると貶めることにはならないだろうか。
物語る者は、物語を創り出すと同時に、物語の中の人物の"感情"も創り出す。
全部が嘘でも、主人公が、ヒロインが、登場人物が抱えた"感情"だけは本物で、そんな"感情"に人は共感するから、人類は有史以来物語を求め続けてきた。
そう、俺は思っている。
この『鳴鳳荘』は、ひょっとすればそんな「登場人物の感情」は交換可能であり、等しく価値がある(≒等しく無価値である)。そう主張していることになりはしないだろうか。
だとしたら、俺は、この作品のことを許せない。一生根に持ってやる。
翻って、二次創作をする人たち(同人誌に漫画を書いたり、pixivに小説を書いたりする人を想定している)からすれば、この「呪い」は間違いなく「福音」であろう。
というか、彼らが日頃からやっていることだろう。
あり得たかもしれない未来、語られなかった可能性を追い求め、掬い取り、自分の力で結晶にする。
「こうだったらいいな」「あれがああだったらどうなってたのかな」
"if"を追い求めるのは、ロマンがあるし、楽しい。それはわかる。
でも、その楽しさは、「原作が絶対」という前提あってこそのものではなかったのか。
公式で語られたことは全て「正しい」。その前提の上で、ちょっとだけ世界を歪めてみて、結末がどう変わるのか。
それを楽しむための、ただの思考実験ではなかったのか。
"全ての結末は等しく同じ価値がある"だなんて、俺にはとても思えない。
現実的なことを言えば、Fateがもともとマルチエンディングな"ノベルゲーム"という媒体から派生したものであることと、俺が抱えているもやもやは繋がっているのだろう。
ゲームはセーブ&ロードシステムが使えるから何回だってやり直しができるし、消費者(プレイヤー)はいくつも用意された結末を全て体験することができる。