はてなキーワード: でっち上げとは
Sierをしている。本当にその名前で正しいのかは自信がない。そもそもインターネットにいる人達が口にするこの職業の示す範囲が人によって違う気がする。とりあえず自分は自分をSierだと思っている。
この仕事をしていると自分が今ここにいる意味や、自分の身につけたスキルや、自分が社会に役に立つ人間なのかを嫌でも考えてしまう。
自分以外の人間がやった方が絶対この仕事ははうまく回る気がしてならない時があって、スキルと呼べるものなんて何も身についていないような気がしたり、何より自分が今ついている立場そのものが社会にとって不要な肌感覚すらある。
そうなると、仕事を通してプライドの拠り所なんて1つもなくなる。
むしろ、仕事をすることで日々積み重なる自分の存在意義についての自信喪失を考えると、仕事をするほどに別の場所にプライドの拠り所がなければ自分がいまここに居ていいのかという不安が無制限に大きくなっていく。
どうすればいいんだ。
承認欲求をお手軽に稼いでも、お手軽に稼げる承認欲求ではそもそも差し引きの土台にすら立てないような物が失われていっているんじゃなかろうか。
自分は今ここにいることで社会の一員をちゃんとやれていると思えるほどの何かを手に入れるには、ここから逃げ出すしか無いんだろうか。
だが、自分が今ここにいるのはそもそも、自分の能力ではスキルを積み上げる仕事には付いていけないと確信するにたる証拠が人生の中で揃ってしまったからだったのではないか。
そんな自分が今更になってここから逃げた所で、そこに何があるのか。
スキルのいらない仕事をするスキルのない人間だと割り切って、上っ面のノウハウと手慣れだけで自分の居場所をでっち上げることにもっと意識を集中すべきではないのか。
そこまで分かっていて、それでもまだ「この仕事でスキルを身に着けることなく生きていっていいのか」という警告が頭のなかで鳴り止まない。
アマゾン・グーグル・フェイスブック・アップルが巨大になりすぎて健全な競争を阻害しているので分割すべきだ、という記事が一部で話題になっていそうなので訳してみました。
かなり長文です。
原文は http://www.esquire.com/news-politics/a15895746/bust-big-tech-silicon-valley/
図表中の文章などは訳していません。
あまり目新しいことを言っているようには感じませんでしたが、(長いおかげで)論点がまとまっているのは良いところかもしれません。
誤訳等の指摘あればお願いします。
あと、増田を使うのははじめてなのでその他変なところがあればごめんなさい。
(文字数制限に引っかかったみたいなので途中で切ります。続きは https://anond.hatelabo.jp/20180214160914とhttps://anond.hatelabo.jp/20180214161344)
4つの会社が人類史上かつてないほど我々の日常生活を支配してしまっている。アマゾン、アップル、フェイスブック、グーグルのことだ。私たちがみんな素敵なスマートフォンやクリック一発のサービスに夢中になっている一方で、この4つのモンスターは縛られることなく経済を独占し、ギルドの時代以降ありえなかったほどのスケールで富を溜め込んでいる。この状況に対して論理的にどんな結論がありうるだろう?巨大テクノロジー企業を分割するべきだ。
スコット・ギャロウェイ 2018.02.08
私は巨大テクノロジー企業にはとてもお世話になってきた。1992年に私が共同設立したコンサルタントファームであるプロフェットがしてきたのは、グーグルが変えてしまった後の新たな環境で顧客の会社が生き抜くための手助けだ。1997年に共同設立した高所得者向けeコマース企業であるレッドエンベロープも、アマゾンがeコマースに対するマーケットの関心に火をつけていなかったとしたら、成功をおさめることはなかっただろう。もっと近い例でいうと、2010年に設立したL2は、モバイルとソーシャルの波の中から、つまり企業が新しいプラットフォームの中での自分たちのパフォーマンスをベンチマークする方法を必要としている時代に生まれたものだ。
もちろん巨大テクノロジー企業は、別のレベルでも私に利益をもたらしてくれた。投資ポートフォリオの中のアマゾンとアップルの株の価格上昇は、リーマンショックでメチャクチャになった後の私の家計に経済的安定を取戻してくれた。最後に、アマゾンは私が教えているNYUのスターン・スクール・オブ・ビジネスのブランド戦略・デジタルマーケティングコースの生徒たちの今や最大のリクルーターでもある。こうした会社は素晴らしいパートナー、クライアント、投資先、そしてリクルーターでもある。20年にわたるこうした会社に関する経験と研究のすえに私がたどり着いたのは、奇妙な結論だ。今や巨大テクノロジー企業を分割するときだ、ということだ。
過去10年で、アマゾン・アップル・フェイスブック・グーグル――私は「四大企業」と呼んでいるが――は、歴史上他のどの商業体も成し得なかったほどの経済的価値と影響力を集積してしまった。この4つの企業を合わせると、2.8兆ドル(フランスのGDPに等しい)の時価総額、なんとS&P500トップ50の24%におよび、2001年のナスダックで取引された全株価に等しい金額にもなってしまう。
この金額はどれほど莫大なのだろうか?アマゾンを例にとってみると、5910億ドルの時価総額はウォルマート・コストコ・T.J.マックス・ターゲット・ロス・ベストバイ・アルタ・コールズ・ノードストリーム・メイシーズ・ベッドバスアンドビヨンド・サックス/ロードアンドテイラー・ディラーズ・JCペニー・そしてシアーズを足したよりもまだ高い
フェイスブックとグーグル(今はアルファベットになっている)は合わせて1.3兆ドルだ。世界の5大広告会社(WPP、オムニコム、パブリシス、IPG、電通)に、5大メディア企業(ディズニー、タイムワーナー、21センチュリーフォックス、CBS、バイアコム)、更に5大コミュニケーション企業(AT&T、ベライゾン、コムキャスト、チャーター、ディッシュ)を加えてもグーグルとフェイスブックを合わせた90%の価値しか無い。
アップルはどうか?時価総額9000億ドルのアップルは、世界でもっとも企業価値の高い企業だ。さらに驚くべきことに、アップルは32%の利益率を誇るが、これはエレクトロニクス企業というよりエルメス(35%)やフェラーリ(29%)といったラグジュアリーブランドに近い。2016年にアップルは460億ドルの利益を出したが、これはJPモルガン・ジョンソンアンドジョンソン・ウェルズファーゴを含む全アメリカ企業より大きい数字だ。もっと言うと、アップルの利益はコカコーラやフェイスブックの総収入より大きい。この四半期にはアマゾンが創業以来生み出した利益の2倍に達する数字を叩き出すだろう。
四大企業の富と影響力には驚かされる。どうしてこんな状況が生まれたのだろう。
“The Four(四大企業)”で私が描いたとおり、グーグル・アマゾン・フェイスブック・アップルのような、独占と大衆への影響力を持つ企業を作るための唯一の方法は、人間のコアな器官に訴えかけることでプラットフォームを本能的に受容させてしまうことだ。
私たちの脳は極めて複雑な問を投げかける程度には洗練されているが、そういった問に答えられるほど優れてはいない。ホモサピエンスがほら穴から出てきて以降、そのギャップを埋めるために我々が頼ってきたのは祈りだった。視線を天に向け、問を投げかけ、より知性のある存在からの反応を待つ。「子供は大丈夫でしょうか?」「私たちを攻撃する可能性があるのは誰でしょう?」
西欧諸国が豊かになるにつれ、体系的な宗教が我々の生活において占める役割は小さくなっていった。しかし問と答えの間の空白は残され、そこにチャンスが生まれた。伝統的な宗教から離れる人が増えてくると、我々は下らないことから深遠な問題まですぐになんでも答えてくれる全能の預言者としてグーグルを見るようになった。グーグルは現代の神なのだ。グーグルは脳にアピールし、バックグラウンドや教育レベルに関わらず誰にでも知識を提供する。スマートフォンを持っているかインターネットに接続出来るだけで、祈りは全て聞き届けられる。「子供は大丈夫でしょうか?」「クループ症候群の症状と治療法は…」「私たちを攻撃する可能性があるのは誰でしょうか?」「核兵器開発のプログラムを今でも行っている国…」。
自分がグーグルに告白したことのある恐怖、希望、欲望を全部振り返って、自分自身に尋ねてみよう。自分がグーグル以上に秘密を託した相手が他にいるだろうか。グーグル以上に私について知っている人間が他にいるだろうか?
フェイスブックは心にアピールする。愛されているという感覚は幸福への鍵だ。ルーマニアの孤児院で身体・精神の成長が阻害されている子供を研究したところ、発達の遅れは当初原因として想定されたような栄養失調のためではなく、他人の愛情の不足によるものだとわかった。しかし私たちの種の特徴は、愛されることを必要とするのと同じくらい、他人を愛することも必要とすることだ。発達心理学者のスーザン・ピンカーは百才を超える人の人数がイタリア本島の6倍・北アメリカの10倍にも上るイタリアのサルディニア島を研究した。ピンカーは、遺伝・ライフスタイル的な要因の中でも、人と人との間の近しい関係や対面での交流を重んじるサルディニアの習慣が長寿の鍵であることを発見した。遺伝よりもライフスタイル、特に社会的繋がりの強さが長寿の決定的な要因であるとする他の研究もある
フェイスブックが21億の月間アクティブユーザーに提供しているのは、他人を愛したいという欲望に火をつけるためのツールだ。高校の同級生をもう一度見つけるのは素晴らしい。引っ越してしまった友達と連絡を取り続けられることを知るのも良いことだ。赤ちゃんの写真に「いいね」をつけたり、友達の心からの投稿に短いコメントをつけて、私たちの大事な友情や家族の絆を固くするのには数分あれば良いのだ。
眼にとっての風景、耳にとっての音にあたるのが、本能にとっての「まだ足りない」という感覚、飢餓感だ。胃袋が素晴らしい食事の後でもさらに砂糖や炭水化物を求めるように、私たちの心は更なるモノを欲望する。本来この本能は自己保存のために機能していたものだ。つまり、食べる量が足りないことが飢餓と確実な死を意味するのに対して、食べ過ぎはそもそも珍しく、腹が膨れたり二日酔いになるだけだ。しかし今あなたが自分のクローゼットや戸棚を空けてみると、たぶん必要の10から100倍ものモノを持っていることがわかるだろう。私たちは理屈ではこれが馬鹿馬鹿しいことをわかっているが、社会や高次脳機能は我々のどこまでも欲望するという本能に追いついていないのだ。
アマゾンは消費する我々の巨大な消化管だ。アマゾンは栄養を蓄え、それをプライム・メンバーになっているアメリカの64%の家庭の心臓や血管に供給する。アマゾンが採用したのはビジネスの歴史の中で最高の戦略だ――「少なく与えて多く受け取る」――そしてその戦略を歴史上のどんな会社より効果的・効率的に実行している。
生存本能についで二番目に強力な本能は繁殖だ。性をもつ動物である私たちは、自分がいかに洗練されて賢く、クリエーティブであるかアピールしたいと思う。私たちは力を示したい。性も贅沢も理屈では説明できないが、アップルは、広告をヴォーグに載せ、スーパーモデルをプロダクトのローンチに呼び、店舗を自分たちのブランドのガラス張りの神殿にすることが、人の魅力的になりたいという欲望にアピールし、そして自分たちの利益率を向上させることに極めて早くから気づいていた。
デルのコンピューターは性能は良いかもしれないが、マックブックエアと違って、イノベーション階級のメンバー証にはなってくれない。同様に、アイフォンは単なる電話やスマートフォンではないのだ。顧客がiPhoneXに1000ドル払うのは、顔認証の大ファンだからではない。彼らは自分たちがいい生活を送り、芸術を理解し、自由に使える収入があるというメッセージを送っているのだ。それは他人へのサインだ。もし君が僕とつがいになってくれたら、君の子供はアンドロイドを持っているやつとつがいになるより生存確率が高まるよ、ということなのだ。実際、iPhoneユーザーはアンドロイドユーザーより平均40%収入が高い。iOSプラットフォームの上にいる人間とつがいになるのは、良い生活への近道なのだ。脳、心、消化管、生殖器。この4つの器官にアピールすることで、4大企業は自分たちのサービスや製品、OSを私たちの精神深くまで潜り込ませてしまった。彼らのおかげで、我々はより賢く、目利きのできる消費者になることができた。そして消費者にとって良いことは社会にとっても良い、はず、だろうか?
答えはイエスでもありノーでもある。四大企業は我々の生活にあまりにも大きな影響を持っているので、もし彼らのうちどれか一つでも無くなってしまったら、ほとんどの人は心底動揺するだろう。iPhoneを持てなくなり、検索にYahooかBingを使わざるをえず、フェイスブックに投稿した何年分もの思い出を失ってしまったときのことを想像してみるといい。アマゾンアプリからワンクリックで明日までになんでも注文することが出来なくってしまったらどうしよう。
一方で、自分たちの生活の相当な部分を一握りのシリコンバレーのエグゼクティブに預けてしまったせいで、我々はすでにこうした会社の負の部分についても語りはじめている。四大企業の独占が進むにつれ、懸念や、ときには怒りのささやきさえも聞こえはじめている。長年の欺瞞のあとで、我々はついに政府か、あるいは誰かがブレーキを踏むべきだという提案について考え始めたのだ。
こうした議論のすべてが説得力を持っているわけではないが、巨大テクノロジー企業を分割するべき真の理由であると私が信じる議論に行く前に、もう一度確認してみる価値はある。
巨大テクノロジー企業は、最初のギャングスターであるマイクロソフトの罪から学習した。このかつての巨人は当時自分たちの力を過信して、監督官庁や社会の中での自分たちのイメージをやわらげるためにPRキャンペーンやロビイストといった手段に頼る必要はないと考えているように見えた。対照的に、四大企業は若さと理想主義のイメージを売り込み、また世界を救うことの出来るテクノロジーの可能性を布教して回っている。
その気持ちは真剣なものだが、ほとんどが抜け目のない動機から来ているものでもある。単純な利益以上の何かにアピールすることで、四大企業は従業員の間で高まっている、いわゆる「理想追求型」企業への欲求を満足させることができている。四大企業の「ガレージ発明家」神話は、マンハッタン計画・アポロ計画の昔に遡るアメリカのサイエンスとエンジニアリングに対する敬意を上手く利用している。何よりも、これらの会社の漠然とした、それでいて理想主義的な宣言――”Think different”, “Don’t be evil”――が、最高の幻想を与えてくれる。政治的な進歩主義者は一般的に善意だが立場の弱い人々と見られがちで、ますます強力になりつづける企業にとって最高の隠れ蓑となってくれるイメージだ。
フェイスブックのシェリル・サンドバーグが女性たちに「一歩踏み出そう(“lean in”)」といったのは本心からだが、彼女は女性へのエンパワーメントに関する自分のメッセージが持つアイロニーについても触れざるをえなかった。彼女の会社はもともとハーバードの学部生の魅力をランク付けするためのサイトから生まれ、ましてや比較的多数の女性従業員を擁する産業――メディア・コミュニケーション産業――の数万の雇用を今も破壊しているのだから。
こうしたPRの努力は効果的だが、一方で彼ら企業にとって大転落を準備するものでもある。完璧な紳士に見えた人間が実はオピオイド中毒で、自分の母親に対しても酷い態度を取っていたことを知るのは大きな失望だ。紳士があなたと付き合ってくれるのが単なる金(クリック数)目当てだということを知るのはなお酷い。
初期にいくつかのインターネット企業を創業した人間としての私の経験では、四大企業ではたらく人々が他の成功している企業で働く人々と比べて特に邪悪だということはない。彼らは少しだけ教育程度が高く、少しだけ賢く、極めて幸運だが、彼らの親の世代と同様に、ほとんどの人はなんとか生計をたてようとしているだけだ。多くの人は人助けだって喜んでするだろう。ただ社会を良くすることとテスラの車の二択を迫られれば、ほとんどはテスラを選ぶだろう、というだけだ。そしてパロアルドのテスラ販売店の業績は好調、極めて好調なのだ。だからといって彼らが悪人だということになるだろうか?もちろんそんなことはない。ある資本主義社会における一営利企業の従業員にすぎない、というただそれだけだ。
我々の政府はGDPのおよそ21%にあたる年間予算で活動している。つまりこれが公園を開き、軍隊の装備を整えるためのお金だ。では巨大テクノロジー企業は公平な負担を支払っているのだろうか。ほとんどの人はノーというだろう。2007年から2015年の間にアマゾンは利益のうち13%しか税を払っていない。アップルは17%、グーグルは16%、そしてフェイスブックは4%しか払っていない。これに対して、S&P500平均では27%の税金を払っている。
そう、つまり四大企業は税金逃れをしているということだ、つまりあなたたちと同様に。ただやり方が上手いだけだ。例えばアップルは利益をアイルランドのような地域に移すという会計上のトリックを使っており、結果として世界で最も利益を挙げている企業が最低の税負担しかしないという事態が生じているというわけだ。2017年9月時点で、アップルは海外に2500億ドルを保有しているが、これはほとんど課税されない、そもそも最初から海外に持ち出されるべきではなかった財産だ。別の言い方をすれば、ディズニーとネットフリックスを買えるだけの資産をアメリカの一企業が海外に持っているということだ。
アップルだけではない。GEも巨額の税金逃れに手を染めている。しかし我々がそのことに腹を立てることがないのは、そもそも我々がGEを愛していないからだ。この責任は我々に、そして我々の民主的に選ばれた政府にある。我々は税法をシンプルにする必要がある――複雑なルールはそれを利用することのできる能力に恵まれた人々に有利に働きがちだ――し、それを実施できる人間を選挙で選ぶべきだ。
四大企業による雇用の破壊もすさまじく、恐ろしくなるほどだ。フェイスブックとグーグルの収入は2017年に290億ドル増えそうだが、この新しいビジネスを行うために彼らは20000人の新しい、高収入の雇用を生み出すだろう。
だがコインの裏側はそれほど輝かしいものではない。広告業はデジタルであれアナログであれ低成長の(ますます成長が鈍っている)ビジネスであり、このセクターがほとんどゼロサムであることを意味している。グーグルはマーケットを成長させることで新しい収入を得ているわけではない。他の会社のドルを奪っているだけだ。もし我々が五大メディアサービス(WPP、オムニコム、パブリシス、IPG、電通)をグーグルやフェイスブックの代わりに使えば、290億ドルの収入を得るためには219000人の旧来型の広告プロフェッショナルが必要になっていただろう。つまり、年間199000人のクリエイティヴ・ディレクター、コピーライター、代理店幹部が「家族との時間を増やす」ことを選択していることを意味する――ヤンキー・スタジアムほぼ4つ分が解雇通知を握りしめた黒スーツの人間で一杯になってしまっているということだ。
これまでのビジネスのサクセスストーリー例では、今注目の的になっている企業たちよりも多くの従業員を雇用している。P&Gは2017年の株価の急上昇を受けて時価総額2330億ドルとなったが、95000人の人間を雇用している。言い換えれば従業員一人あたり240万ドルだ。インテルはニューエコノミー企業でその資本があればより効率化を図れそうなところ、時価総額2090億ドルで102000人を雇用、一人あたり210万ドルだ。これに対してフェイスブックは14年前に創業された企業だが、5420億ドルの時価総額を誇り、一方で従業員は23000人しかいない。これは一人あたり2340万ドルということで、P&Gとインテルの10倍だ。
たしかに、これまでも雇用の破壊はあった。しかしこれほど上手くやる企業が出てきたことはない。ウーバーは新しい(低い)680億ドルという基準を設定したが、これがカバーする従業員は12000人しかいない。従業員一人あたりでいえば570万ドルだ。実際の道路と実際のドライバーを必要とするはずのライドシェア企業が、墓の中のヘンリー・フォードを激怒させかねないようなフーディーニばりのトリックを駆使して中間階級のサヤ抜きをしようとはなかなか想像できまい。
しかしウーバーは新しい区別を設けて、二種類の労働力を作り出すことでこれを成し遂げてしまった。「ドライバー・パートナー」、わかりやすく言えば請負業者ということだ。彼らを従業員名簿から締め出すことは、ウーバーの投資家と12000人のホワイトカラー従業員が680億ドルを「パートナー」たちと公平に分配しなくてよいということを意味する。これに加えて、ウーバーは200万人のドライバー労働者に健康保険も雇用保険も有給休暇も与えなくてよいのだ。
巨大テクノロジー企業の雇用破壊は、こうした企業に対して公平な税負担をさせるべきだという主張の強い論拠になる。政府はそれを職業訓練や社会福祉にあてることでその被害を抑えることができるからだ。しかし、雇用の破壊を政府による介入の促進剤とだけ考えないようには気をつけるべきだ。職の置き換えと生産性の向上――農民から工場労働者へ、工場労働者からサービス労働者へ、サービス労働者から技術労働者へ――はアメリカのイノベーション・ストーリーの一部だ。我々の 成功フリークたちに戦わせつづけることも大事なのだ。
核心に近づいてきた。外国の敵に自分の会社を、自国の民主的な選挙プロセスを傷つけるための武器として使わせることは問題、とても深刻な問題だ。2016年の選挙中、フェイスブック上のロシアのトロールページは金を払っておよそ3万件の政治広告を打った。でっち上げのコンテンツを見たユーザーは1億2600万人におよんだ。事態はこれでは止まらなかった。GRU――ロシアの軍事・諜報機関――は最近では混乱の種を蒔くためにより超党派的な方法を採用している。選挙の後も、GRUはフェイスブック、グーグル、ツィッターを利用して人種差別由来の暴力を扇動した。こういったことを防止するために、プラットフォーム事業者たちはほとんどあるいはまったく投資を行わなかった。GRUはフェイスブックの広告をルーブルで支払った。文字通りにも、象徴的にも赤旗だったというわけだ。
あなたがビーチかプールつきのカントリークラブを経営している場合、短期的にはライフガードをおかないことが利益につながる。主にアルゴリズムに依存しているフェイスブックがそうであるように、そういったビジネスモデルにはリスクがあるが、かなりの金額を節約できるからだ。巨大テクノロジー企業が社会的な利益のために、必要なリソースを自発的に投資するだろうと期待するのは、エクソンが地球温暖化の問題に対してリーダーシップを発揮することを期待するようなものだ。そんなことは起きるはずがないのだ。
しかし、単なる規制ではなくトラストの分割が必要だというアイデアを私が思いついたのは11月に、上院情報委員会のチェアマンであるリチャード・バーがフェイスブック・グーグル・ツイッターの相談役に泣きついたときだった。「国民国家に我々の未来を台無しにさせないでくれ。君たちが防衛の最前線なのだ」。まさにこの瞬間、選挙で選ばれた我々の代表が自国の防衛を、今買おうとしていた靴についてしつこく宣伝したり、友達の誕生日を思い出させることをビジネスモデルにしている会社に委ねようとした瞬間こそ、歴史における転換点だったのだ。
はっきり言っておこう。我々の防衛の最前線はこれまでずっと陸軍・海軍・空軍・海兵隊だったし、これからもそうあるべきだ。「ザック」軍団なんかじゃない。(https://anond.hatelabo.jp/20180214160914に続く)
昨今のマスコミ批判において、頻繁に取沙汰される問題の一つに「報道しない自由」がある。
この語は「報道の自由」に引っかけた単語であるが、要するに「メディアは自分たちの主義・主張にとって都合の悪いことは報道しない」というものである。最近の例では、加計学園の獣医学部新設をめぐる一連の報道の中で、マスメディアは前川前文部科学省事務次官の国会発言ばかり取り上げ、加戸前愛媛県知事の発言はごく短い時間しか取り上げないか、あるいは存在すらしなかったかのように無視したことが問題視された。「放送法順守を求める視聴者の会」がテレビ報道の在り方について新聞に意見広告を出した他、主に右派系のネットメディアでも頻繁に取り上げられていた。同様の批判は安保法制や共謀罪に関する報道でも行われた他、日常の事象においても「犯罪報道において犯人が報道関係者だったら追及が甘い」など、「報道しない自由」の事例は枚挙に暇がない。
この問題に対しては「マスメディアは自分たちの都合の悪いことを隠蔽せずに報道しろ」という旨の批判がなされることがあるが、私はそれは不可能だと思う。何故なら、媒体を問わず、偏向しないメディアなど存在しないからである。
ある事象において報道がなされる際、メディアが割ける報道資源には限りがある。テレビであれば一つの番組の中で数十秒~数十分。特番を組んだとしてもせいぜい2時間程度だろう。新聞であれば紙面の数%~全面、マックスでも広告欄を除いた全ページである。イラク戦争開戦の際に、新聞がほぼ紙面の全てをイラク戦争に割いていたのは、非常に印象的であった。
一方で、報道の元となる一次ソースは、膨大な量となる。行政機関が発行する資料では、少ない物でもA4で1枚、多い物なら数百枚にものぼる。これらの内容を、テレビや新聞で一字一句逃さず報道するのは不可能であろう。ネットであれば可能かもしれないが、そんなに大量の情報に全て目を通す人はそう多くはない。これが事件報道になれば、事件の経緯、加害者の背景、被害者の背景、関係者の証言、その他諸々…「事件に関わる全ての情報」を挙げていけば、際限が無くなってしまう。
そもそも全ての人が一次ソースを参照するのであれば、報道など不要である。一次ソースをかいつまんで分かりやすく説明したり、内容を解説して理解しやすくすることが、報道に求められることであろう。それがいわゆる「編集」と呼ばれる作業である。
そして、編集の過程において、どう頑張っても排除される情報というのは生じるものである。その事象にあまり関係のない情報、専門的過ぎたり限定的過ぎたりするために掲載しない方が理解しやすくなる情報などは、むしろ省いた方が視聴しやすくなる。また、編者の意見に会わない情報は、意識的か無意識的かに関わらず、省かれてしまうこともあるだろう。すなわち、一次ソースをそのまま掲載しない限り、テレビだろうが新聞だろうがネットだろうが偏向は必ず生じるものなのである。掲示板の書き込みを編集した「まとめサイト」などはその典型例で、記事の主旨とは異なる書込みは省かれるし、管理人の主義主張に反する書き込みも、もしかしたら排除されているかもしれない。いくらメディアが「公平公正」を標榜していたとしても、それを100%成し遂げることは、到底不可能なのである。
だから私は「報道しない自由」自体は全てのメディアが持っているものだと思うし、それ自体を批判することは的外れであると考えている。その批判は容易にブーメランになり得るからである。テレビにおいては放送法第4条を根拠に公平性を求められるケースもあるが、放送法自体問題が山積みの法律であるため、早急な改正が必要と言える(テレビ局の人間が「倫理規範だからセーフ!」とか言ってる時点で機能してない)。
では、マスメディアの持つ本当の問題点とは何か。当たり前すぎて今更語るまでもないことかもしれないが、今一度整理したみたい。
ネットとの比較という意味で、最も顕著なのはこの点だろう。テレビ、新聞などの既存メディアは、発信者と受信者が固定されており、受信者が発信者に対して同じ立場で発言することができない。テレビは総務省の許可が無ければそもそも放送できないし、新聞なら発行すること自体は誰でも可能かもしれないが、一般人が大手メディアと同じ量の情報を発信するのは、現実的ではない。
一方でネット上は、基本的に誰でも平等に発言することができる。もちろん、発言の影響力は立場によって異なるが、例えばツイッター上で批判されたら同じくツイッター上で反論することも可能だし、ブログの意見に対して別のブログを自分で立ち上げて反論することも可能である。グーグルなどのポータルサイトやSNSの運営会社が強い影響力を持つことは否めないが、利用者はそれらのサービスが気に入らなければ、容易に他のサービスに切り替えられる。また、例えば国が法律によってネット上の情報発信を規制したとしても、法の及ばない海外のサーバーを利用することだってできる。ネット上には絶対的な情報発信の強者は存在しないのだ。
これは利用者にとって、単一方向メディアにはない大きな利点である。今までは情報発信はマスメディアが独占していたが、現在では個人が自由に発信者になれるのである。その一方で憶測や捏造に基づいた情報を発信すれば、簡単に批判を受けてしまうというリスクも負っている。これまで独占的な情報発信者としてその恩恵を最大限に受けて来た既存メディアにとっては、到底受け入れがたいことだろう。だが残念ながら、どんなに望んでも時代が遡ることはない。
いわゆる「記者クラブ」に関しての問題点である。マスメディアの記者のほとんどは業界団体で作る「記者クラブ」という組織に属している。記者クラブには、行政組織や大企業の記者会見に優先して参加でき、クラブに属さないフリーランスの記者などはそもそも会見に参加すらできないことが多い。すなわち、日本ではマスメディアによって、ジャーナリストに対する言論弾圧が行われているのである。
また、記者クラブの中で、異なる報道機関の記者同士が取材した内容を互いに確認し合っているという問題も指摘されている。取材メモの内容を他の記者と「答え合わせ」し、内容に漏れや間違いがないかを確認しているという。これは関係者が著書などにおいて発言した内容であるため、事実か否かを確認する術を私は落ち合わせていないが、もし事実であるとすれば、報道機関としていかがなものかと思う。扱うのが情報だという点を除けば、他業種における「談合」と何ら変わりない。
記者クラブの存在を別にするとしても、報道内容が画一的であるという点は批判されるべきだろう。特にテレビ報道においてその傾向は顕著で、芸能人のスキャンダル、政治問題、相撲界の不祥事、どの事象においても、全てのチャンネルにおいて、まるでコピー&ペーストのように同じ論調でしか報じていない。ワイドショーだけならまだしも、ニュースにおいても同様である。そして、同業他社であるマスコミ各社の不祥事については、どの報道機関も一斉に口を閉ざすのである。これではマスコミ同士の相互チェックは全く機能せず、業界全体が腐敗してしまう。
さらに、冒頭に挙げた前川氏にまつわる報道では、読売新聞が「前川氏が未成年が働いている出会い系バーに出入りしていた」ことを報じ、他のマスメディアから一斉に批判がなされた。全く意味不明である。読売新聞は報道の自由に基づいて報じただけであるし、元文科省の役人が、任期中に児童買春を行っていた疑いがあるのだとすれば、報道すべき大問題であろう。マスメディア各社の中で前川氏に関する報道姿勢について合意がなされており、それを読売が「抜け駆け」したことに対して怒っているのであろうことは、想像に難くない。前川氏自身は(苦しい言い訳をしながらも)出会い系バーに出入りしたいたこと自体は認めており、読売の報道内容は事実であった。事実を報道したことに対して批判をするのであれば、日本のマスメディア各社は報道機関として終わっているとしか言いようがない。
もはや誰がありがたがっているかよくわからない年中行事の一つとして、自由国民社という一出版社が数人の選考委員会を集めて勝手に決めている「新語・流行語大賞」というものがある。最近では野球業界以外では全く流行っていない言葉や、日本に対するヘイトスピーチに当たる言葉を流行語として選び、物議を醸している同賞だが、先日発表された2017年の流行語のトップテンの中に「フェイクニュース」という言葉が選ばれた。その定義は、新語・流行語大賞のホームページを引用すれば、「ネット上でいかにもニュース然として流布される嘘やでっち上げ。」だそうだ。
このように、マスメディアがネット批判を行う際の常套手段として、「ネット上には嘘や質の低い情報が多く含まれている」という主張がある。「それに対して新聞やテレビは、社内で十分に内容を確認・検証しているから、正しい情報である」と言いたい訳であるが、ちゃんちゃらおかしいとしか言いようがない。
ネット上の情報に嘘が多いというのは事実であるし、そんなことは普段ネットを利用している人であれば十分承知の上である。一部の情報弱者が、良く調べもせずにその情報を鵜呑みにしたり、タイトルだけ見て記事の内容を読まずに早合点したりして、騙されている訳である。ネットを使っていれば関連する情報をその場ですぐに参照することは容易だし、先述した通り間違った内容であれば他者が指摘することも容易である。
対して新聞やテレビは、偏向や捏造があっても、個人が指摘して正すことはできない。サンゴ・グリコ・アジトや、椿事件、慰安婦問題などは、捏造が明るみに出たため、謝罪、訂正した例であるが、間違いを指摘されても訂正・謝罪していない例もいくらでも存在する。そもそも先に挙げた「フェイクニュース」という単語自体、元々トランプ大統領が言い出した言葉で、「テレビなどの既存メディアの捏造」を指す言葉であるが、マスメディアはこれを「ネット発の捏造・誤報」という意味に「捏造」しようとしているのである。
近年、「若者のテレビ・新聞離れ」を憂う声がメディアから上がっているが、若者に原因があるのではなく、自分たちに原因があることを理解しているのだろうか。メディアにとっての商品は「情報」である。その商品の品質が低ければ、顧客が離れるのは当たり前だ。提供する料理がマズい店は、客足が遠のくのと同じである。これまでは情報そのものが大手メディアにより独占されていたが、現在はネットの出現によってその独占状態も瓦解してしまった。既存メディアがいくら「ネット情報は玉石混淆だ!」と叫んでも、石しか扱っていない既存メディアは一笑に付されて終わりである。
徒然と書き殴ってしまったが、ひとまずここまでにしたい。他にも、視聴者が直接の顧客ではないこととか、テレビ局が国民の資源である電波を独占していることとか、新聞社が企業買収から守られていることとか、メディア自体が権力化していることとか、いろいろと問題はあるが、ともかく「既存メディアがネットよりも優れている」というのはまやかしでしかない。「ネットの情報ばかりでは偏る」という意見もあるが、それはテレビや新聞でも同じことである。メディアの媒体問わず、一つの報道だけを鵜呑みにせずに、様々な情報を加味して判断すべきなのだ。要は個人のメディアリテラシーの問題でしかないのである。
また、単一のメディアの情報だけを信じてしまう人の特徴として、「自分で判断することを放棄している」という点が挙げられる。そういう人ほど誤報・捏造報道があった時に、「騙された!」と叫ぶのである。もちろん、捏造したり、ちゃんと確認をせずに報道したりするメディアは悪であり、糾弾されなければならない。しかし本来は、何が事実で何が嘘かは、情報の受け手個人個人が、自分の責任において判断しなければならない。それができない人間が「情報弱者」と呼ばれるのである。
メディアはその媒体を問わずに「報道しない自由」を有している。だからこそ受け手は偏向・誤報・捏造に踊らされないように、一人一人がメディアリテラシーを身に着けることが重要なのではないだろうか。
これまでネット上で何度も論争になってるけど、論争になってること自体が意味不明。
これって仕事でも本当によくあることだからさもありなんって感じなんだけど、あれこれ理由付けて現金使い続けるようとするのって、非効率な業務が温存される象徴的なメンタリティ。
だって、お金数えるの無駄だし不衛生だし時間も無駄だし自分だけじゃなくコンビニの店員や他の客の時間も無駄にするし小銭持ち歩くの無駄だしポイントも付かないし、とにかく不便で非効率の塊。
そこに一切疑問を持たず、目の前の明らかな非効率を変えようとしない人が、仕事の中でだけは効率を考えて行動できるとは思えない。
中には小銭数えるのが楽しくて仕方が無いっていう奇特な性癖の持ち主もいるだろうけど、それが大半なんてことはあり得ないだろうし、大半の現金払い派は特に考えもなくただ今までそうしてたからなんとなく続けてるだけだと思う。
ちゃんと検討した結果、あえて現金払いを続けることを選択した、という人間は少数派だろう。
一番の問題は、非効率を続けることではない。 自分を正当化して、あれこれ屁理屈を付けて非効率ではないことにしてしまうメンタリティ。
現金払いとか無駄だし電子マネー使った方がよくない? って言うと、なんかよく分かんないけどめっちゃ怒ってくる人がいる。
無能扱いされた気になって腹が立って、条件反射的に反発して自己正当化する。
自分のやり方を正当化するために変な屁理屈でっち上げてムキになるのは社会の迷惑だからやめてね。
これだけ言われてもまだ現金払いし続けるだろうし、ルールで禁止されてないから勝手だろって言う奴もいるだろう。
それで言うと、電車の吊革で懸垂することも禁止はされていないし、時速20キロで景色みながらドライブしたい人もいるだろうし、そんなこと言ったらキリなくね?。
何かの趣味で、全部1円玉で支払いたい人もいると思うけど、それって完全に迷惑でしょ?ルール的にはOKでも。
俺からすれば、全部1円玉で支払おうとする行為とジャンル的には同じなんだよね。単に迷惑な度合いが違うだけで。
あと、朝の混雑時に税金払ってるやつとか。
ああ、もちろんルール的には許されてるよ。
で、それに対してこいつらクソ頭悪いわ、迷惑だし止めろや、って俺が言うこともルール的に許されてるからこれからも言い続けます。
先日も会社で皆で考えたある新しいアイデアの特許を取ろうという話が出てきて、
上の人に「頼むね」とか言われて、それが嫌で嫌でもう逃げ出したい。
何で自分がそういうことをしなきゃならないんだ。
皆でアイデアを出すのもいつのまにか取りまとめ役をさせられていて、
内心、嫌だ面倒だ何で自分が、と思ったけど断れない。
無趣味。やりたいこともない。夢もない。
就職活動とかしんどかった。
やりがいとか生きがいとか、自分に持ち合わせてないものを探しまわって無理やりでっち上げて、
まあまあ覚えはいいので仕事はそれなりにできるようになったけど
日々降りかかる仕事をこなすことだけで精一杯で、
たまに旅行に行くけどそれは現在から逃げ出したいからだってよく分かっている。
でも現状を変えることは何もしない。
昔からこんなことばっかりだった。
どうも周りからはしっかりしてると見えるらしく、
もう、足がすくんでいた。
結局サークルに別の揉め事が発生してその責任を取る形でやめたけど、心底ほっとし た。
「僕はやりたくありません」と言い切り、
担任に「出て行け!」と怒鳴られて泣きそうになりながら教室を出たこともよく覚え ている。
小さい頃から本当にそう。何かをするのが怖い。
どうしてかはなんとなくわかる。
ちょっと悪さをすると怒られた。
火をつけた線香をお尻にピッとあてるお仕置き。
されている場面を一回だけ鮮明に覚えているけど、かなりされたと思う。
それ以外にも大人になっていろいろ気がつくことがある。
自分は中学生ぐらいまで、戸棚や冷蔵庫にあるお菓子を食べるときに
必ず母ちゃんに「これ食べるよ」と言ってた。
この行為を大きくなってずっと不思議に思ってたんだけど、30の時に気がついた。
たぶん覚えてもいない頃に、勝手に食べてこっぴどく怒られたから。
それから食べる前に必ず母ちゃんに許可をもらうようになったんだ。
これも変な話だけど、幼心に大きくなったら自分は家を出ると決めてて、
小学校の2年生の時に父親に頼んで日本の地図帳と電話番号のメモ帳を買ってもらっ た。
家を出て全国を旅して生きようと思ってたから。
地図を見ながら電車で旅をし、行く先々で知り合った人たちの連絡先も書き留めない と。
今思うとけなげで微笑ましいけど、将来スマホができるとはわからなかったね。
結局18歳で家を出て、それから今までずっと一人で暮らしている。
一般に親が厳しい環境で育った子供は自発性が乏しくなると言われてて、
自分を振り返ってもまあその通りだと思う。
今でも実家に寄るのは少し気がひける。
帰るとは返したけどやっぱり気が乗らない。
どんな理由や要因があるにせよ、
親や他人のせいだというのは自分のせいじゃない風にできるから楽だけど、
それでも親や他人が自分の人生に責任を持ってくれるわけじゃない。
どんな方向だとしても、それは自分が選んだ結果だ。
そう思っている。
でもさっき、ふっと気がついた。
物心がつくぐらい、なにが良いのか悪いのかも分からないような子供が
天もひっくり返るような恐ろしい災厄なのかもしれない。
自分が興味のままにちょっと手を出した食べた走った言った、で災厄が降ってくる。
けれどなぜ災厄が降ってくるのか、その大人の道理が子どもには理解できないとした ら、
子どもなりの災厄を避けるベストな方法は「何もしない」ことかもしれない。
「何もしない」という生き方を、今も守っているのかもしれない。
その生き方で曲がりなりにもここまで生きてきた。
いいとか悪いとかとは別に、よく今までここまでやってきた。
と日曜日の昼下がりに布団の中で思った。
「もし重大事故になってたらどうするんだ!だから過剰防衛だ!」
みたいなのがまだ見受けられるが、重大事故になってねーのにいうなよ。なってない以上正当防衛だ。
と同時に、これは事前に痴漢をされていた。さらにそれがカメラに録画されていたのと、痴漢されたという目撃者がいたから言えること。
だが、たまたまイライラしてて、通りすがりのおっさんに回し蹴り食らわせた女がいたとする。
そいつが「痴漢されたからこいつボコった」という嘘をつく可能性もある。
痴漢冤罪でも、たまに虫の居所の悪い女にかかわって、痴漢でっち上げられたという話は耳にする。
そもそも、よくこんな微妙な世界で今までやってこれたよな。まあ、痴漢が止まらんから「推定有罪」という中世技法導入することにしたからかもしれんが。
創始者=神のタイプの宗教で、創始者が亡くなった後に、その宗教を信じ始める心情が理解出来ない。
創始者が数々の奇跡を起こしたと聖典に書いてあっても、それが真実だと担保するのは、布教者であり、神本人ではない。
例えば、どこかの詐欺師が、適当な聖典をでっち上げて、布教を始めたとしても、「本当に創始者=神だった宗教」の布教者と見分ける方法は、無い。
たとえ創始者=神の宗教があったとしても、宗教が生まれてから、長い年月が経過すれば、現在の教えが、創始者の教えと同一である保証は全くない。
「創始者が書いた聖典に従って生きれば大丈夫だ」という意見もあるだろう。しかし、その聖典が本物である証拠は、あるのだろうか?信者になる前に、考古学を究め、その聖典が本物だと確信してから、信者となるのだろうか?創始者が書いたことが確定しても、所詮は筆記記録でしかなく、大昔の御伽噺と区別する方法は、結局存在しない。
一方、創始者(=神)である宗教ならば、神本人が奇跡を起こせばいいし、教義の解釈に迷っても、神本人に聞けばいい。
歴史ある宗教でも、現代の指導者が奇跡を起こしているから、信じるに値するという意見もあるだろう。それは、否定しない。否定しないが、信じていいのは、その奇跡を直接目撃しかつ、それがトリックではないと確信に至った人だけであり、それ以外の人は、その宗教の広報を無根拠に盲信しているだけだ。
別に宗教を否定したいわけではない。人生の一つの道しるべとするのは、個人の自由だ。ただ、「歴史ある宗教は全て問題ないけど、新興宗教は全て胡散臭い」というのは、不公平なのは、間違いない。歴史の新旧だけで、宗教を語るのは、盲目的歴史信者だろう。
まず、苦手な子に距離置いてたり避けてたら勝手にいじめ扱いするパターン。勘弁して。
私達は別にいじめようと思って避けたりしてる訳じゃないのに大人からいじめ呼ばわりされる。これ本当ムカつくんですよ。
大人はすぐ言いますよね、「嫌な点があれば直接言えばいい」「直して欲しい事があればちゃんと本人に伝えましょう」って。
でも貴方がたは普段、苦手だなあって思ってる人に欠点を直接指摘しますか?してませんよね。だって実際それをやると波風が立ちますから。なるべくあまり関わらないようにしたりそれとなく離れたりしてますよね、そしてそれをこう呼ぶはずです「大人の対応」って。なんなら人の嫌いな点を率直に伝えちゃう人の事を幼いとか子供っぽいって言うじゃないですか。それって私達に言ってることと真逆ですよね。おかしくないですか?
私達も同じなんです。直接伝えて改善してもらってまで仲良くなりたくもないですし、わざわざ揉める事も面倒なんです。だって苦手ですから。それをいじめって言われても困るんです。苦手な子と無理に関わって無意味に揉めたり疲れたくないから貴方がたと同じく「大人の対応」で済ませているだけです。それの何がいけないんでしょう?
そして、学校であまりにも皆から避けられてるなんて状態の子は周りの大人が思うより当人に責任がある場合が多いんです。私が意図して避けてる、もしくは避けてたなって心当たりのある子だけでも、自己中心的、乱暴、虚言癖…後はデリカシーがない子、モラルがない(+それが格好いいと思っている)子、不潔な子など。関わりたくないと思われる原因が何かしらあるんですよ。そういう欠点を全然見直さないで大勢に避けられた→いじめ!と飛躍されても意味がわかりませんし、周りの大人も勝手にこちらがまるで悪意を持って省いたみたいに決めつけられましても…って話です。
そして個人的にはこちらの方が嫌悪感が強いのですが、自分から勝手に孤立したくせに後からまるで被害者みたいに振る舞う子のために集団いじめをでっち上げられるパターン。自分の責任でそういう環境を作ったくせにあたかもいじめられていたかのように振る舞う子、本当に居るんですよ。
例えば体育祭や文化祭など皆が盛り上がっている時や協力し合っている場面で「真剣に取り組むとかダサい」「真面目にやってる奴格好悪い」とか言っちゃう協調性のない子って居ますよね。楽しい空気を壊して水を差している自覚がないんでしょう、当然クラスメイトからは「何あの子」って言われるのがオチなんですが、そうやって反感を買ったのは自分なのにいざ嫌われている事を少しでも察すると人一倍被害者ぶるんですよね。自分だけ除け者にされてるーって。普段はクラスメイトの事を馴れ合いだとか揶揄してるんですから要は好きで勝手に孤立したはずなんですが、何故かいきなり被害者面を始めてクラス全体を悪者に仕立てるんですよね。本当このタイプの子は苦手を通り越して無理です。一番嫌い。頭おかしいですよね。でも、こんな子でも一度いじめられたと泣いて騒げばこちらが加害者にされてしまう…それぐらい近頃のいじめの基準ラインは低くて、もう「周りがいくらいじめていないと言っても、被害に遭った子が嫌な気持ちになったらそれはいじめなんだ!」みたいな事を言う大人も普通に居るんです。気持ち悪いったらないです。
最後にこれはどちらにも言えることなんですけど、確かに最近はいじめ自殺問題なんかもあって世間的にピリピリしているというのもわかるんですが、それとは別に何かこう、当人が傷ついた!いじめられた!と主張すればそれはいじめとみなすみたいな風潮ができている気がするんですよね。例えが悪いですけど男性が一切触っていなくても女性が不快な思いをしたから痴漢だと主張すれば痴漢になるみたいな、言った者勝ちな空気があるというか。
悪意をもって集団でいじめるという行為は許しがたく卑劣ですが、当人に嫌われる原因があるため周りが避ける、距離を置くと言った至って普通の「対処」までいじめ認定されるいわれはないはずですよね。
男が犯人で性犯罪の場合高確率でネットや週刊誌で犯人擁護が起こって被害者が炎上させられる
この痴漢で犯人が逃げて死んだ奴も女が逃げたとかソースもないありもしない話をでっち上げられて、被害者や女全体ににしねだの何だの酷い罵倒の嵐だった
犯人が言い逃れ出来ない物証を持ってたから逃げて死んだって話だった
何度繰り返すのか
被害者の無実が証明されても全く拡散されないしこれも冤罪で被害者が逃げたと思い込んだままにされるんやろ本当に怖い
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20171017-00000061-jnn-soci
発達障害とかアスペとかガイジという言葉をよく聞くようになった。
名前がついたら、その名前でいじめられるようになるだけだと思った。
僕は生まれつき発達障害で、他の子供と同じように振る舞うことができなかった。
だから、小学校から高校まで、そして社会人になっても、組織の中ではいじめられ続けた。
まわりの空気が読めず遊びについていけなかったり。小学校ではお決まりの教科書や上履きを捨てられるとか上級生にタコ殴りにされるとか。
高校では、修学旅行の班ぎめで女子に「○○君に乱暴されたので同じ班になりたくありません」とかでっち上げを言われたり。
ここまでは、単なるドス黒い嫌な思い出として記憶の片隅に残っている程度で、それを言った奴らの顔も名前も思い出せない。
奇跡的に恋人ができたりとそれなりに充実した生活をおくることができて、
社会人になってからは、とある企業の障害枠でWEB関連の仕事をしていたけれど、
ケアレスミスがどうしてもなくならなかったり、
「適当に派手な感じで」みたいなニュアンスの指示ではどうしていいのかわからなかったりで、
まったく仕事のデキないやつだった。
何やら難しそうな案件を押し付けられて丸1日かけて作ったものにボツを食らい、「自分で何が悪いのか気づくまで帰さない」なんて小学生の給食の「食べるまで片付けさせない」みたいなことをされた。「お前が仕事すると修正作業で仕事が増えるから触るな」みたいなことを堂々と言われ、社内では誰も目を合わせてくれないようになった。
すごく社員同士の仲が良く、女子社員はみんなお弁当を持ち寄っているし、男性社員はみんな連れ合ってご飯に行くけれど、自分だけは誰も声をかけてもらえない状態になったので、いかに自分が異物なのかは理解していた。
実際問題、どこまで真剣にやってもケアレスミスが20%以下に抑えられないので、触れば触るほど迷惑をかけてしまう。そこは本当に申し訳なかった。ただ、障害者枠で入社したんだから上司のフォローは欲しかったが、その上司が社内にいることがなく、まったく助けてくれなかった。
なので、「普通の人が普通に努力したらできることができない」という目に見えない「障害」の存在を理解してもらえず、怠けている、ふざけている、真面目にやっていないと怒られる。
一番びびったのは、「ケアレスミスが多く、タスクを抱え込むと忘れてしまうことがあるのでフォローお願いしたいです」と先輩に頼んだところ、「気合の問題だろ。直せ」と言われたこと。
ぶっちゃけ二度と仕事というものをしたくない。怖い。ひたすらに怖い。
どこに行ったら居場所が在るんだろうか。