はてなキーワード: お布施とは
はてこがとうとう手当たり次第私が尊敬するクリエイターの名前をあげて名誉毀損をドウドウとしだしたので腹が立つ。
手当たり次第で営業妨害されたクリエイターさんたち(もう何人たまった?)で、
はてこ被害者の会でもつくって、思いっきりふんだくってやればいいのに。
相変わらず空気よめないっていうか、一番大事なクリエイターマインドがもてない人間だから非クリエータ職にとばされたんだよ。
人間を人間として尊重するのと同様に、表現を表現として尊重すること。
基本中の基本。
まだ発注されてもいないし出来ても居ない表現を、作者が○○だからってうけいれない表明。
それを差別による営業妨害、ヘイトといわずしてなんというんだろう。
自分が表現の住み分け、かき分けをできないから他人もできないはずだと思う浅はかさ。
一つひとつの完成した表現物をみて、表現としての目的(TPO)に合致しているかを判断する。
技量が足りてない(臭み抜きができてない)ならそこで発注やめますになるかもしれない、そういうとこで仕事してる人たちがプロでしょ。
いって良いことの判断も出来ない人間が絵を書く職業がつづけたかったとか馬鹿げてる。
スナップ写真でも取ってればいいよ。半径5mのブログでも容量超えて炎上させる人間なんだから。
魂のこもってない絵、炎上したいだけの文なんかマジいらねえ。
言い訳もいらねえ。マジいらねえ。はてこほんとウェブから消えてほしい。
他人のヘイトを理由に自分がヘイトをまきちらしていいとおもってるの
マジ、あの先生この声優に好意もってるこっちがものすごく傷つくんですけど。
自分は次あの人の本出てたらもう予算きつくても買うわ。はてこのかわりにお布施するわ。気の毒すぎる。
ほんと他人の好意をうっかり無にするのは20文字のツイートで足りて楽だろうなあ!
親ごさんにならったそっくりの無神経行動をウェブで再生産してほんとご満足なんでしょうね!
こっちくんな。
あと、こうやっていちいち軌道修正とかしてやる義理とかホントにないので、もうはてこふくむはてなごと切り捨てますあとよろしく
新興宗教の問題は、開祖(もしくはそれに近い人物)が「存命」であるということ。
つまり、神ではなく神≒人を信仰しているのに近いことが問題である。もちろん、新興宗教といっても基本的に神仏を信仰しているわけだが、開祖(もしくは近い人物)が存命のため、信者に与える修行が世俗的になりがちだ。
開祖1000年以上を経た宗教には「信者を増やせ」「お布施を集めろ」「新聞いかが?」「本買って」「壺はどう?」「ジハードせよ」といった世俗に近い「使命」を強要するところはあまりない。それをやれば新興宗教と変わらないからだ。
新興宗教と定着宗教の違いは、そういう意味では「布教活動が既にある程度完了しているか」「布教活動が世俗と結びついてないか」「開祖(に近い人物)がまだ世間に存命か?」というのが一つの基準になる。
イエスにしても、ブッダにしても、マホメットにしてもやはり人間が神に近いところまで昇華するには1000年はかかる。池○大作や大○隆法あたりがそこに至るにはまだ900年ほど足りない。
文化資本不足だと思うんだけど、ガキのころにマネーの勉強を受けてない。たしかに。
経済学は寝てた。
10年ぶりくらいにマトモに通帳を見返してみたら貯金が8桁目前くらいはあった。
資産運用して増やすことに関心が無いわけではないが、増やしてどうするんだ?
というビジョンもなしに始めるモチベーションはない。減ったらこわいし。
平均すると1年あたり60万円くらい貯金が増えてるんだけど、
これってつまりは年収がマイナス60万円しても生きていけるってことだよね・・。
世の中の人と見比べるとこれでも低収入・低消費に属するみたいだし、
なんか金銭感覚がズレてるみたいだ。
みんな浪費しすぎじゃないの? おれがしてないだけなのか・・
みんな何にそんなカネ使ってるの?
女(三次元)かな。
趣味が無いわけではない。
・自作PC → でも次のモデルとか、値下がってからでいいか・・壊れたわけじゃないし。と思っちゃう。
・ゲーム → やりたいソフトが2,3個以上あればハードは何でも買う感じだが放置気味。でもOculus買っちゃった。
・旅行 → でも時間と気力が不足している。海外旅行も行ってみたい。
・カメラ → ゲームが増えたので放置気味。でも、あまり使いもしないのにレンズ買うの無駄だよなって思っちゃう。あと時間と体力と気力不足。
・アニメ → 基本的に1回みればいいので円盤は不要。というかモノが場所を取るのが嫌い。円盤以外のお布施手段が欲しい。
・募金 → 趣味に入れるのもアレだが、たまにする。して忘れる。
食事も基本的に吉野家とかすた丼とかその辺だ。メシには関心が低めだと思うけど、うまいものはうまいことはわかる。
スシパックも割引の時間になるまで買いに行く気力が出ないし、安く買えるとわかっているのに高く買うのはもったいない。
ビールは本物を飲むようにしてる。たまに偽者飲むとやっぱりダメだよなーと思う。まあ偽者に慣れてた時期もあるし、慣れればわからなくもできるんだけど。
あと、費用とは別で栄養価としての自炊をしなきゃなーと思う。あんまりできてないけど。やっぱり自分で調理したモノのほうがうまい。
服はたくさんあっても無駄だし場所を取るのが嫌なので、必要最低限で歳相応で無難でみすぼらしくなければそれでいい。
出不精だからこそ都内に住んだほうがいい。短い移動時間で遊びに行けるから。でも家賃高いの嫌なので駅徒歩長くて古いやつ。歩いたほうが健康だし。
クラウドファンディングにちょっとした投資家気取りで上から目線で何回かお金出した。
コレが性に合ってるかもしれない。時間と労力を使わずにカネを出すだけで物見遊山だから。
貯金削ってウェブサイト運営してるわかり手さんなんかも興味ある。
会社辞めても死なない蓄えは必要。精神衛生的に。辞める気もないけど。
やってみたいことはあるけども冒険するには心もとない貯金だよなと感じる。
書いてて思ったけどやっぱり自分に必要なのは時間の使い方と計画性かも。
windows。そのライセンス認証の向こう側には日の巨人MSの用意した秘密の花園があるという。
MSへのお布施を納めればそのスイートな世界でビジネスは円滑に進むという。
私は計算機が好きだ。
MSDN?で俺が公開したりギッハブに上げた大規模というよりマルチマシンなアプリは誰が使ってくれるんだ?
確かに正直だ。でも正直すぎるんだ。
俺が知りたいのはそこじゃない。ほらもっと簡単に〜って初心者相手すぎるのも困るんだよ。
ある一点においては感謝している。
Linuxの動くマシンをまともな互換性で安価に提供される市場を構築、維持してくれている点だ。
まあ、それもChromeBookなんかが天下を取れば用がなくなるのかもしれないが
とにかく敷居が高い。入ってもよくわからない。なんだろう情報量がMSのガチ情報しかない。
知りたいことを知るためには、そのガチの世界を、スマートなMS社員が書いた、これぐらい知ってるよね?
って感じの文章か、プロプラ独特の弊社の責任範囲はここまでですがなにか?の足切り情報ばかりだ。
で、さらにMSの独特な世界観を表す用語を理解しなくちゃいけない。
バグ票バンバン切られるイシューのようなOSSの用語で語ってくれるフレンズもいない。
辛い。
衣食住、交通費、通信費、レッスン代等々、全部会社持ちで小遣い5万円ってことでしょ?
で「憧れの芸能界」でお仕事して、テレビでしか見れなかった憧れのあの人とすれ違うかもしんないし。
高校生だったら、つまらん学校生活おくるより、そっちの方が楽しそうってなるわ。
ま、なんちゅうか、若者の「あこがれ」や「やりがい」でもって人を搾取する「奴隷的労働」っぽいのは確かなんだけど。
でも、あれだよね。
絶対、幸福の科学は映画だの布教用のビデオだのに酷使しまくって、で、それは「真理への奉仕」みたいなこといって、適切な報酬なんざ支払わないよね。
あと「水着の仕事が嫌だ!」ってごねてたらしくって、気持ちはわからんでもないけど、あの手のオーディション受けるってことは、そもそも自分からそういう商品になりにいくってことだからなあ。。。
http://anond.hatelabo.jp/20170206162002
少々意見取り入れた
************************
光るHeadに 飾り載せ 出張った腹を見せつける
|F | G|F | G|
Sizeが合わないCostume それを褒め合うFoolish people
|F | G|F | G|
|B |
(ブリッジ)
|C |B |Em |G |
|C |B |Em |G |
|C |B |Em |G |
|C |B |Em |Em |
チケット高額転売に反対しますがしたいんなら、はやくそういう事に走らせないシステムを浸透させないのはなぜなの???
この間、生まれて初めて葬式に行ってきたのだけど色々初めての新鮮な経験をしたので、思ったところをなんのとりとめもなくつらつらと書き連ねてみたいと思う。
初めての葬式は母方の祖父の葬式だった。まあ葬式といってもそんな盛大なものではなくて、近い者たちだけで行う火葬式だった。祖父は半年前ほどに末期ガンで寿命宣告を受けていて、その死自体には何の驚きもなく、正直「やっとか……」という感じだった。というのも、祖父は数年前からいわゆるボケが始まっていて、祖母やたまに家を訪ねた母ともケンカばかりしていた。そして更にガンを患って入退院を繰り返し、同居して介護していた祖母は疲弊しきっていた。素直に死を嘆き悲しむ事ができるような祖父は、はるか記憶の彼方に埋もれていた。そんな状況だったから、なんだかとても薄情に聞こえるかもしれないが、自分にとってはその死の報せで特に悲しむということもなく、「これでやっとみんな楽になるんだな」という感想が一番だった。
そんなわけで、大した感慨とある種の現実味もないまま葬儀当日を迎えた。車で数十分の距離にある市営の小奇麗な火葬場は小高い丘の上にあった。火葬場に着くと早々に祖父の棺が運ばれてきた。自分達は炉の前で「最期のお別れ」をすることとなった。母が用意した白い薔薇と今朝書いたばかりの祖父への手紙を棺に入れた。狭い棺のなかで花に囲まれる祖父はまるでただ眠っているだけで、今にも起き出しそうに見えた。いよいよ炉の扉が開かれ祖父の棺がほの暗いその中へと消えていった。炉の扉が閉ざされて火が入ると付き添っていた僧侶が木魚を叩きながら経を唱え始めた。その瞬間、いきなり涙が溢れそうになり必死でこらえた。自分でも何故こうなったかわからなかった。ただその場の雰囲気に飲まれたのか、何か自分の奥底に眠っていた感情とやらが溢れたのかもしれない。その後、亡骸を焼ききるには一時間ほどかかるらしく、待合室で数少ない親戚との久々のささやかな会話をしながらその終わりを待っていた。
その間に先程の経を唱えた僧侶が来て祖父の戒名の説明をしていた。ちなみにこの僧侶へは、式全体のパック料金には含まれないお布施を直接渡すことになっていた。そのお布施の額も決まっていて、値段によって僧侶の人数だのが明確に決められていた。旧来の檀家制度に比べてみればある意味良心的なのかもしれないが、「ビジネスだなぁ……」としみじみ感じてしまった。しかし僧侶というのは大したもので、丁寧に戒名の由来を説明する姿や祖母や母の質問や相談に真摯に答える姿は、金銭の授受によって成立し提供されている一種の「サービス」であることを一切感じさせず、その清い心の底から自分達に同情と共感を向けてくれているように思えた。自分はここで初めて本当の意味での宗教の存在意義を見出したのかもしれない。ミッション系の大学に通っているので、講義で宗教の必要性や重要さ(キリスト教に関わらず)は訥々と説かれていたはずなのだが、懐疑的なところもあった。しかし、渡された戒名を眺めながら言った「これでじいちゃんもきっと向こうで喜んでるね」という祖母のありきたりのようにも思える台詞は、その疑念を実感を伴って払拭するような体験としては十分だった。
そして放送で祖父の名前が呼ばれ時が来たことを知らせた。その時自分は緊張していた。それはある叔父の言葉がきっかけだった。「じゃあお前たち、骨を拾うのも初めてってことだな」。それは自分達姉弟が葬儀に出席するのが初めてという話題に端を発し知らせられた衝撃の事実(自分にとっては)だった。その時は、骨は焼かれた後は影も形もないほど粉々になり、そのまま骨壷へ収められていくものだと勝手に勘違いしていていたので、まさか形が残っている骨を自らの手で拾わなくてはいけないとは夢にも思っていなかった。「あんまり形が残ってたらやだなあ……」などと考えながらいよいよ先程の炉の前に着いた。炉が開き、台車がゆっくりとこちらに向かってくる。その台車の上には軽石のような、なにか鉱石のようにも見える白い物体が載っていた。半ば逸らしていた目を向けよく見てみると、たしかに人の骨格をうっすらと思い起こさせる形をしていた。初めて人骨を目にしたが思ったより衝撃はなかった。二人一組になっていよいよ骨を拾い骨壷に入れる。自分の番になり、姉と一緒に恐る恐る遺骨を長い鉄製の箸でつかみ骨壷に入れた。一斉に骨を離した瞬間、骨壷のなかから乾いた音がした。もちろん骨はいくつもあるので、残りは火葬場の職員が手慣れた手つきで骨壷に収めていく。その時に「こちらは大腿骨です」とか骨の部位をいちいち説明してくるのだが、「そんなん言われても『へえ、これが大腿骨なんだ! 』以外どう思えっちゅうねん」と心のなかでツッコミを入れていたところ、母が「こんなに丈夫そうで、骨格は立派だったんだね」などと言い出し祖母もそれに同調し、「まさかこんな形で故人を偲ぶイベントが葬式にあるとは……」と少し興味深く感じてしまった。その後も骨は骨壷に収められ着々と骨壷の中身はかさを増していくのだが、途中で「どう考えても骨が骨壷に収まりきらないぞ……」とその場に居た皆が感づき始めた頃、不意に、「このままでは収まりきらないのでお骨を少し砕きますね」という声がかかった。その刹那、その職員は箸でバリバリと骨を砕き始めた。それはもう容赦なくだった。粉になった遺骨をさらさらと骨壷に収めていくぐらいだろうと考えていた自分にとっては、かなり印象的な光景になった。一緒に骨を入れた姉と終わった後に「あんなにバリバリ砕くとはねえ~」と少し笑いあった。式を終えた帰りの車内で骨壷を抱えながら「お父さんもこんな中に収まっちゃった」という祖母の気が抜けたような言葉には、何とも言えない寂寥の念を感じさせた。
なんだかんだ書いてきたけど、結局人が身近な人の死をどう認識して受け入れていくのか、そのプロセスのために何が必要なのか、とかそういったことが伝統的な儀式の中には組み込まれてるんだな、という当たり前のことを認識させられた。戒名とかそのために何万も金払うのとか無駄だろwとか思ってなくもなかったけど、単なる損得勘定では考えられないこともあるということも分かった。そして終わってみるといろんなことを学んだ気がした。どうでもいいけど遺骨はさらさらの粉になって出てくるって勘違い、小さい子供が魚は切り身で海を泳いでると思う勘違いと似てるなって思った。ほんとにどうでもいいな。おわり。
なんか絵がWIXOSSみたいだから釣られてみたけど向こうとは打って変わって中身空っぽのアニメだね。ソーシャルゲームで無難に戦闘と日常両方やらせるために作られた陳腐な設定とストーリーをそのままなぞりましたのスカスカアニメじゃん。
戦闘もよく分からん武器で雑魚ボコってるだけで意味合いやリアリティが全くなし。銃あるならナイフとかいらないでしょ。ゲームでやってる分にはJRPGで麻痺してて納得させられてたんだろうけどアニメにされたら違和感しかねえわ。
キャラ可愛いくて絵がそれなりに動いてれば文句ないような奴向けのアニメだな。何か新しい物を作ろうって挑戦心もないし普通の物を凄い面白く作ろうって気持ちも感じねえわ。ゲームがそれなりに売れたからそのお布施でアニメ作ってそれでお布施の追加融資を狙いつつ新規も獲得しちゃいましょうってだけの宣伝アニメだわ。そもそもスクストってそういうアニメやれるほど儲かってるのかね。プログラミング部分は話題になった事あるけどゲームの話全然聞かないんだけど。
ネットでちょろっと調べた程度だけど、問題は主に医療拒否とお布施みたいだな。
ただ医療拒否といっても重篤な場合に病院で手術を受けることを否定するとかではないみたいだな。西洋医学の薬に懐疑的な程度。
お布施も借金して貢げとかいうレベルではないみたい。基本が月500円で、玉串料として任意に支払う金が別にある(ただし額は他人には分からない)。年1回の大きなお祭りでは5000円ぐらい支払うことがあるとのこと(任意)。
教えは新興宗教によくある伝統宗教(仏教、キリスト教、イスラム教、神道)の寄せ集めという感じみたいだな。
まあトラブルもそんなになさそうだし、いいんじゃないか?それで救われてるなら別に問題あるまい。結婚とか子どもとかで問題が生じそうだが、その都度解決していけばいいだろ。
もしやめさせるとしたら増田自身が真光に入って勉強するしかないだろうなぁ。信仰は宗教の外部から攻撃してもやめるものではないからね。
最近になって母に打ち明けて母は俺や父に話した。
母は宗教が好きではなく、それというのも少し前に有名宗教の知り合いと
ちょっとしたトラブルになってそれから宗教そのものを批判することがあった。
そんな母を見て、耐えられなくなったようで
父はそこまで悪評の少ない宗教だよと言っていたから俺も安心していたんだけど
最近検索したら、2chの危険宗教ランクのコピペの上位にあって吹いた
何年も黙ってたのに母に打ち明けたからか、今度は次女に打ち明けて
神社に行こうだのなんだのと誘うようになった。
次女は俺にそれを相談して、見せてもらったLINE内容があまりにもガチ過ぎてひいた。
手をかざしたら病気が治る系のことを言ってて、
母の持病も治るとか言ってんの
もう完全に詐欺やんけってわかるんだけど
それを信じ切っているのね。
お兄ちゃんはめちゃくちゃブルーになったよ。
ただ信者には完全にマインドコントロールをかけるらしい
そんなにちょろい非科学に騙されるとは思っていなかった。
・承認欲求やお金のために安い嘘なのに本当だと言い張るところが好き
・実益がないのにプライド優先でくだらない権力闘争に明け暮れるところが好き
・普段偉そうぶってる権威が盛大な事故や汚職発覚するのとかめちゃくちゃ大好き
・歴史上の偉大な人物を調べて「でもこれだけ偉大な人が沢山いても人類って未だに間違い続けてるから無意味だったね!」って思うの好き
・宗教とか最高に楽しい、何の解決にもなってないところとかお布施とか政治とかでビジネスライクにされてるところとか大好き
・人間の黒い感情が好き、どうしようもなくドロドロしてるところとか見るのが好き
・俺の心をえぐってくる作品が好き、鬱作品でもとびっきりの努力しても自分の罪のせいでパーになる展開とか好き
・ヒトが楽しそうにするのを遠巻きに見るのが好き、自分を当事者にされたら面倒で不機嫌になる
・ヒトが不幸になるのが好き、偽善者面して理想論を振りかざすやつが失敗するところが好き、特に権威の強いやつがそうなると好き
全然無宗教なんだけど、ここのところ「仏教入門」みたいなのをいくつか読んでいる。
昔話とか「昔の人も生きるの大変だったのね〜」的なノリでとても興味深いし、
たぶんお釈迦様って「あの人いっつも良いこと言うよね!」的な人だったのかなあーとか想像するのも楽しい。
(ちなみに、お釈迦様自体は静かに悟りを開いて手の届く範囲で教えを説いた人で、死後に弟子たちが教えを編纂することで、れっきとした「宗教」になった。らしい)
『日本では、幕末・明治維新以後から近年にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。』
らしい(Wikipediaより)。
で、そういうのって、得てしてものすごくうさんくさい(完全に主観だけど)。
いや、古い仏教もうさんくさいこと言ってる部分はあるし、キリスト教やイスラム教みたいな世界宗教もかなり怪しいところはある。
けど世界宗教の怪しいところって、時間を経るごとに権力者が良いように解釈した結果ついてきた怪しさだったり、
時代の流れ的にしょうがないよね的な不合理性だったりすることが大半なので(な気がするので)、
教えの本質だけみてみると、「はえー良いこと言う」くらいの気持ちでは理解・納得できる気がするんだ。
じゃあ、新興宗教の「うさんくささ」の正体ってなんだろうか。
暇なのでいくつかその理由を考えてみる。
もちろん信教の自由はあると思ってるので、別にその新興宗教を信じてる人をどうこう言うつもりはないけど
自分自身の中で何が「怪しさ」だと思ってるのか言語化してみたい。
Wikipediaなんかでそれぞれの新興宗教のページをみると、難しくて全然頭に入ってこない。
固有名詞が多いのと、概念的な話が多いのと、仏教系だと漢字が多いからかなあ。
だから、共感するとか云々の前に、そもそも理解できない。わからないものは「怪しい」と思う。という論理かな?
ただ、聖書とかも自分で読むとかなり意味不明というか回りくどい言い方多いし、「で?」みたいな逸話が多いし
経典なんかもすげーわかりにくいから、「誰でもわかる!xxx教のおしえ」みたいなのがあるといいのかしら。
デートとかしてて会話が途切れた時、「あ、あの建物変わってる!面白いね!」とか言った後調べて
なんとか教本部 とかだとなんとも言えない気分になりませんか。
考えられるのは、
・目立たせることで文字通り目を引いて、その宗教に興味を持ってもらいたいから
・でかかったり変わってたりすると、その宗教が流行ってる・勢いがあると思わせられそうだから
・お金持ちはアートが好きだから(宗教団体がやってる美術館とかあるし)
...あたりでしょうか。
なんか他に理由思いつく人、ご存知の人いらしたら教えてください。
仏教でもお坊さんが政治に介入してきた時代は途端にうさんくさくなったし。
ちなみにお釈迦様のもともとの教えでは、
お坊さんは働きもせず、他人からの施しで生計を立てているくらいなんだから、政治に介入とかしちゃダメ!って考え方だから
その意味で、お坊さんの政治介入はもともとの仏教的には「間違ってる」。はず。
新興宗教にしたって、そういう過去の経緯を経て(お坊さんは働かずにお布施で生活する等)税制とかいろいろ優遇されてる存在なのに、
さらに政治にまで介入してくると、なんか図々しいなと思ってしまうのかな?
あとその宗教が「この人に投票せよ」みたいな統制ができちゃうから、トンデモな政治家が当選する可能性もある。
あーでもこれは、候補者が演説したり後援会がいたりすることとどう違うんだろう?
xxx教の人だから無批判に応援しよう、ってなってるから違和感があるのかも。
その宗教に加入せよ も然り、私はxxx教です!も然り、それに興味のない相手に空気読まずにバシバシアピールしてくる感じが苦手なのかも。
ただ、宗教と布教活動は大昔からセットだったし、何を信じるのも自由だから別にいいはずなんだけどなあ...。
あれかな、アプローチしてくるのはいいとして、「やたら」ってとこがダメなのかも。
胡散臭いというか、興味のない相手に対して「しつこい」「鬱陶しい」って感じかな。
これは世界宗教にも一部言えることだけど、
「こういう考え方をすると、心に拠り所ができて、何もないときより精神的に安定するよ」はわかるけど
「これを信じないと不幸が起きるだろう」
「これを信じて実践する者のみが幸福になる」とかになると胡散臭さはぐっとアップするよね。
「霊波が」「オーラが」とか、「波動」「飛行」とか言い出すとまじでやばい。
ちなみにお釈迦様の肩ばかり持つわけじゃないけど、お釈迦様の教え的には
「絶対的な超越者などいない」「常に合理的であれ」って感じだから、かなり地に足がついててほーと思った。
政治介入についてもそうだけど、信仰すること=無欲であること、だと思うからなのか
宗教活動をするのに必要な以上の献金を迫るというのに違和感がある。
というかそもそも、「施し」ってそれに価値を見出した人が自発的にするもののはずなので、
月謝とかノルマとかみたいにお金を出せってのはおかしな話だよね。
ただ、今これを書きながら「信仰すること=無欲であること」という前提に偏りがあるのでは?とも思った。
で、信徒個人であれば、その宗教を信仰しつつバリバリお金稼ぐぞ!ってマインドの人がいても全然普通だけど、
「宗教」それ自体が分不相応なお金や権力を求めて身につけちゃうっていうのが危険だし間違ってるのかな
なお、檀家制度とか云々で分不相応にお金を持ってるお寺がある現状についても、同様の違和感を抱いてます。
*****
だいたいこんな感じかなあ。
自分の中でのモヤモヤはだいぶ整理できた気がするんですが、あまり頭が良い方ではないので
というか、そもそも別に議論することでもないし、着地「勝手にすれば」って話なんですが
もしなんかあったら教えてもらえると嬉しいです。
映像の描画がリアルだったり、シーンの描写がリアルだったりってことじゃないんだよ。
さもあり得なさそうな内容を、お膳立てだとか伏線とかであり得てしまうかもしれないように描いてしまうことが本当のリアリティでしょ。
そうやって自分の中にある常識が壊れてしまうかもしれない瞬間が面白いんじゃないか。
そういう部分をないがしろにして、描画ばっかりエグかったり、無駄にヌードにさせられる女優がいたりでがっかりだよ。
俳優の演技が迫真に迫ってるとか、そういうことじゃないんだよね。
いかにそのおかしな世界の中に溶け込んでいるかが重要なんだって。
そう考えるとやっぱり竹中直人すごいわ。
先々月に風邪をこじらせて肺炎で入院した際に、医者からはもう長くないと言われていた。
11月に入り危篤状態になりそのまま息を引き取った。齢90歳。大往生だった。
亡くなった後の手続きはめまぐるしかった。といっても喪主私の叔父が忙しかったのだが。
たとえば、
入院した病院で死亡診断書を貰い、死亡診断書を役所に提出して火葬許可証を貰ったり、
家系図を引っ張り出し祖母に近しい親類から順に参列する親戚の焼香順を決めたり、
叔父がはじめての喪主として慣れてない葬式の手続きを頑張って進めていたのを見て、自分も勉強になった。
普通に葬式が終わっていたなら、葬儀は高価で忙しかったって話で終わっていたと思う。
こっちの方が正しいだの、ああしろだの。弟親子は喪主なんて一度も経験したことはない、
何度か近所の葬式を手伝った程度なのに喪主すらやったことのあるような口ぶりで喪主である叔父に指図する。
そのくせ、喪主が一緒に親戚へのあいさつ周りなど、喪主の仕事をさせようとすると
叔父の弟は、日常でもたびたび自分が正しいと思っていて間違った他人を仕切ろうと、あれこれ指図するが、
葬式の時までそれをやられるとは、思わなかった。
正直、私も葬式の運営の手伝いより、喪主の弟の仕切りたがりを右から左に流すことに疲れた。
私が喪主だったら叔父のように笑顔で流すことができず、葬式の邪魔をするなと喧嘩になっていたと思う。
あんなわずらわしい親戚を呼ばず、自分の身内だけでひっそりと火葬だけする直葬にして、後で親類にはがきで知らせようと思った。
なお、葬儀は一般的な斎場で行ったので場所代と飲食費で100万。お坊さんへのお布施で20万程度でした。
小さめの葬儀とはいえ普通の葬儀って高いんだと実感しましたとさ。
2008年、僕はその世界に恋をした。
そう、あれは今から8年も前のことで、僕はまだ大学生だった。軽い気持ちで入ったオタサーに所属しており、新作アニメで目についたものを、取り敢えず視聴するのを習慣にしていた。それらの内容について、サークルメンバーとうだうだ語るのが日課だった。とはいえ、ぬるま湯めいたモラトリアム生活にそろそろだれ始めたまさにその時、破格のアニメ、既存の枠組みをぶちこわすような、エポックで世界観をもったアニメシリーズが放映され始めて、僕は瞬く間に虜になった。アニメ一期の遥か前からOVAや企画などの展開があって、物語の背後にとてつもない情報量を含んだ異世界が広がっているのを知って、沼にはまり込むようにその世界へ沈んでいった。DVDを買い、マンガを買い、小説を買い、ゲームを買い、記事の載っている雑誌を買い、ドラマCDを買い、同人誌を買い、SSを読み、ラジオを聞き、イベントに足を運んだ。絶叫上映会で吠えた。自分がこんなに深く、何かに夢中になれると初めて知った。
就職活動をして、社会人になり、いつの間にか新作アニメを追う習慣が失われていっても、そのアニメに対する想いは失われなかった。劇場版やライブイベントに、欠かさず足を運んだ。声優イベントや歌手のライブやアニメ会社のイベントもだ。補給が何度か途切れそうになっても信じて待ち続けていた。だからイベントで、テレビアニメの第3期制作が発表された時には狂喜乱舞して、夜、サイゼで仲間と祝杯をあげた。
1期、2期、劇場版、OVAと違って、今回からは新キャラたちの物語になるのだけれど、大した問題ではなかった。もう一度あの世界がテレビで観れる、と考えるだけで多幸感に満たされた。 第3期の第1話はまず先行上映会で観た。少し引っ掛かる部分はあるにはあったけれど、その場の興奮や、長い時間を経てようやく新作を観れた感激が、不安を押し流した。先行上映会の帰りに、アニメショップで即座にBDを予約した。第1巻にはイベント参加チケットも付属していて、早めに予約しないと参加券が無くなるという危惧もあった。 その後、第1話をとうとうTV画面で観ることになり、少し引っ掛かっていた、違和感めいたところが更に目立つようにはなっていたけれど、それでもまだ、この世界をもう一度TVで観れたという喜びが上回った。録画を何度も視聴し、次回を待つのは幸福な時間だった。
その1週間後、第2話が放映され、地獄に叩き落とされるまでは。
第2話の大半を占め、物語全体でも重要な転機となる戦闘シーンが、正視に耐えない代物だったのだ。いまや流行りのアニメを多少追うくらいの超ライトオタクに過ぎない自分が、耐えられないほどの惨状だった。1期、2期、劇場版、OVAと、8年続いてきた映像の魔法が、一夜にして解けたようだった。海面は水色の板になり、艦船は書き割りになり、航空機は張り子になり、キャラクターは棒人形になった。画面を覆っていたのは、僕を釘付けにした踊るようなキャラの動きではなく、素人でも稚拙と分かるCGの人形遊び、ハリボテの継ぎはぎだった。これがいわゆる「作画崩壊」ならまだ救いはあった。円盤での修正に望みを繋げばいいのだから。でも、そこには欠片の希望も残されていなかった。CGでボロを出さないようにするためだろう、一定の距離を置き続けた、単調で臨場感皆無のカメラワーク、物語や世界観や戦いのリアリティを根こそぎ崩壊させるコンテがそこにあったからだ。万一円盤に修正が入ったとして、コンテから切り直されることはないだろう。
そこからの1週間は、うってかわって、処刑を待つような気分で過ごした。まともな第2話が放映される夢を2回見て、2回とも、目覚めた後、激しい悲しみに襲われた。そうして迎えた3話は、ストーリーに集中することさえできなかった。前話のことは何かの間違いだったのでは、と、祈るような気持ちで画面を見つめ、もう一度裏切られた。戦闘シーンに移るたび魂が削られ、どうかもう日常だけ映していてくれ、と思った瞬間に、突然、反射的にテレビを消した。そしてもう一度電源をつけることも、続きを見ることもできなかった。電源を落として真っ黒になったテレビ画面の前で、リモコンを握り締めたまましばらく金縛りにあったように動けなかった。激しい動揺が自分の中で荒れ狂っていた。
たかがCGが壊滅していたくらいで、自分が、もうこの世界の実在を信じていないのだ、と、気づいてしまって、もはや、続きを見ることはできなかった。
驚いたのは、自分の中にこんな逆鱗があったと気付いたことだ。自分のようなライトオタクとしては、キャラの絆や誇りさえ美しければ良いとまで思っていたし、このアニメについて他人に紹介するときも、世界設定や関係性の話ばかりしていて、戦闘シーンがカッコいいから観て、と言ったことはなかった。そんな自分の不見識を心より恥じたい。あまりにも当然のように実現されていて意識にのぼっていなかったが、この世界や、キャラの喜怒哀楽といったものは、戦闘シーンを含む特殊な動きのリアリティによって説得力をもたされていたのだ。それに以前は、一般論として「作画に比べてCGはダメ」と言われているのを見ても、老害の迷信に過ぎないと考えていた。あの戦車アニメのCGは凄いし、あの劇場アニメのCGは格好いいじゃないか、などと思っていた。今なら分かる。CGは、舐めて使う連中、省エネを考えて安易に利用する者たちの手にかかれば、作品を抹殺する、世界を絶命させる力さえあるのだ。
円盤をキャンセルすると決めた理由は、最初は怒りだった。この世界をこんな風にした連中に、一文たりとも落としてやりたくない。あり得たはずの3期を奪った奴らに、免罪を与えてはならない、と。アニメが壊れていても、まだ小説やマンガは次々出る予定がある、そう考えて、自分を慰めようとした。これまで集めた小説やマンガを読んで、心を鎮めようとした。 しかし、駄目だった。かつて僕の心を満たした幸福も興奮も甦ることはなく、ページをめくるたびに、奪われたものの大きさが実感され、胸を絞られるような痛みが襲った。もうこの世界は壊れてしまったのだ。いま僕の本棚に収まっている無数の物語は、かつて確かに存在した、けれど既に潰えてしまった世界の残骸でしかなく、僕の心は、死者の生前の姿を眺めて安息を得られるような、鈍感な構造をしていなかった。やはり耐え切れなくなって本を閉じた時、怒りよりもずっと深い悲しみが僕を包んで、ああ、きっと僕はもう、この物語の円盤どころか漫画も小説も何もかも楽しむことはできないのだろうと悟った。
僕より度量の広いファンは、「この程度で円盤を買わないというのなら、お前はファン失格だ」と言うかも知れない。だが僕にとっては、円盤を買ってこの作品を認めてしまったら、その時こそ僕は、ファンとして死ぬのだ。
今シリーズも、爆発的にではないだろうが、そこそこ売れるはずだ。昔からの視聴者でも僕より大らかな人間は、作品に満足し、あるいは満足しなくてもお布施として、ソフトを買うだろう。当初目標とされた売上からは大きく落ちつつも、まだ戦える、と、制作側は思い込む。既に戦争は最悪の形で終わってしまったことにも気づかずに。 そして4期なのか劇場版なのかOVAなのかが既定路線的に作られ、しかし売り上げはジリ貧となり、遠からず作品を閉じることになるだろう。そうなったら、なぜコンテンツが死んだのか犯人探しが始まり、新しいキャラや新声優やシナリオが濡れ衣を着せられ、いわれなき誹謗中傷を受けるかもしれない。その時のために、だから、僕は、宣言しておく。
CGだ。あのCGを作った連中が、翼を折り、魔法を潰し、少女たちと世界の息の根を止めた下手人なのだ。
今考えれば、電話などで済ませられたのかも知れないが、円盤のキャンセルなどしたことのない僕は、予約したアニメショップまでもう一度赴いた。ここまで辿り着いたのに踏ん切りがつかず、広くて階層もあるアニメショップをうろついて、このシリーズの小説新刊が目立つように並べられているのが目に入ってしまって、出し抜けに嘔吐しそうになった。声優の結婚が発覚して吐いた、みたいな、よくある都市伝説が、自分の身に起きかけると思わなかった。すっぱいものが、何の前触れもなしに体の奥、心臓のあたりから、とがった感じでせりあがってくるのだ。それを無理やり押しとどめなくてはいけなかった。ほとんど破れかぶれでレジに向かった。キャンセルをしたいという僕の説明が下手で、BD予約に来たと勘違いしたらしい店員が、一旦は、新たな予約申し込み書とイベント参加券を渡そうとしてくれた。ああ、急いで予約したのに、まだ余っているんだな、とぼんやり思った。あまりにも、精神の均衡が狂っていた僕の説明が要領を得ず、店員さんにキャンセルの旨を伝え、イベント参加券を返却して、前金を返してもらうだけの行為に、20分もかかってしまった。
すべてが終わって、地下鉄に揺られている間、これまでの8年間で堪えていたたくさんの悲しみが、走馬灯のように蘇って、一挙に僕に襲い掛かってきた。イベントでアニメの発表がされなかったとき。トラブルでコミカライズの終了が決まったとき。小説を書いてくれた作家が亡くなったとき。世界が壊され、死んでいくのを看取ったとき。週末の夕刻、都営新宿線の座席で、ぶざまに泣きじゃくっていた三十歳近いキモいオタクを目撃した人がいれば、それは僕である。
さようなら、僕の愛した世界。8年間、たくさんの楽しい時間をくれて本当にありがとう。そして、あなたが死んでいったときに、何もしてあげられなくて、本当にごめんなさい。
ブッダは運動・野菜・睡眠を勧めてはいない。食事に関しては、お布施されたものは何でも食べろと言っており、肉食も禁止していない。
後、瞑想(厳密に言うと瞑想と仏教の禅定は違うが、面倒なのでここでは同じものとしておく)しろとは言っているが、それだけを熱心にやっていても悟れるとは言っていない。それどころか仏教では修行の結果、自分が優れた人物だと「勘違い」した状態を「増上慢」と呼び、きっぱりとそれを否定している。
仏教の説話を見ていると、須梨槃特や慧能のように瞑想に執着せずとも悟れた僧侶の例がいくつか出て来る(もちろん摩訶迦葉のように修行に熱心だった人も仏教では否定されるわけではない)。
よってb:id:xevraさんははブッダ的でもなければ仏教的でもない。こんな冗談みたいな記事にマジレスするのが馬鹿馬鹿しいと我ながら思うが、一応指摘しておく。
また仏教とは関係なく、b:id:xevraさんの瞑想への執着は却って本人のメンタリティに悪影響を与えているのではないかと推察される。瞑想は手段であって目的ではない。一度、適切な指導者の下で瞑想なり禅定なりを行うことを勧めたい。