はてなキーワード: 本質とは
「美しい」という概念は、日常的な意味と芸術哲学における意味で異なる側面があります。主な違いを以下に示します。
### 1. **日常的な「美しい」**
- **感覚的な快楽**: 日常的に「美しい」という言葉を使う際、人々は主に視覚的、聴覚的な快楽に基づいていることが多いです。たとえば、美しい風景、花、音楽などが挙げられます。これは、個人の感覚や好みに依存しやすく、比較的主観的です。
- **直感的な反応**: 美しさは、しばしば瞬間的な直感や感情的な反応として経験されます。特に美的評価を深く考えたり分析したりすることなく、「美しい」と感じることが多いです。
- **普遍的基準の不在**: 日常的な美の概念には、普遍的な基準がなく、何が美しいかは人それぞれです。
- **哲学的探究**: 芸術哲学で「美しい」とされるものは、単に感覚的な快楽にとどまらず、より深い哲学的探究の対象となります。美しさの本質、普遍性、そしてその社会的・文化的な意義について考察されます。
- **形式と内容の関係**: 哲学的には、美はしばしば作品の形式と内容、つまりその構造や秩序、調和に基づいて論じられます。例えば、ある芸術作品の美しさは、その要素がどのように組み合わさり、全体としてどのような意味や感情を生み出すかに依存します。
- **普遍的価値の探求**: 芸術哲学では、美が単なる主観的な感覚にとどまらず、ある程度の普遍性や客観性を持ち得るかどうかが重要な議論の対象です。例えば、イマヌエル・カントは、美を感覚的な快楽のみに基づかない普遍的な判断であると考えました。
- **美の批評と評価**: 芸術哲学においては、美は批評的に評価されるべきものでもあります。これは、美的経験が単なる個人的な感覚ではなく、理性的な評価や批評を通じて共有され、理解されるべきであるという考え方に基づいています。
### 3. **重要な違い**
- **深さと反省**: 日常的な美しさは、即座に感じられる感覚的な反応に基づくのに対し、芸術哲学的な美しさは、深い反省や分析を通じて理解されることが多いです。後者は、感覚を超えた理性的な理解や社会的、文化的背景の中での美の位置づけを重視します。
- **対象の範囲**: 日常的な美は一般に自然や人々が美しいと感じるものに限定されますが、芸術哲学では、美の対象は必ずしも「心地よい」ものに限定されず、異様なものや不快なものにも美的価値が見出されることがあります。
これらの違いを通じて、芸術哲学の「美しい」という概念は、単なる感覚的快楽を超えて、深い哲学的探求と普遍的な価値観の探求を含むものとなっています。
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
僕は真夜中の吉野家に立っていた。
外では小雨が降っていて、店内の蛍光灯が窓ガラスに映り込み、まるで平行世界の入り口のように見えた。店内は異様なほど混雑していて、僕はしばらくの間、ドアの近くで立ち尽くすしかなかった。
目を凝らすと、カウンターの上に「150円引き」と書かれた垂れ幕が見えた。そう、これが原因だったんだ。僕は小さくため息をついた。
150円。たった150円で、人々はこんなにも動くのか。普段は吉野家になど見向きもしない人たちが、今宵、この狭い空間に集まっている。まるで、月に一度の満月に吸い寄せられる獣たちのように。
ふと、僕の耳に会話が聞こえてきた。
「よーし、パパ特盛り頼んじゃうぞー」
家族連れだった。4人で吉野家か。彼らの顔には何か特別な日の喜びが浮かんでいる。でも、それは本当に喜びなのか、それとも社会が押し付けた幸せの形なのか。僕にはわからない。
吉野家は、もっと別の顔を持っているはずだ。殺伐とした、でも何か温かいものがある。向かいに座った見知らぬ人と、いつ言葉を交わしてもおかしくない。そんな独特の空気感。それが吉野家の本質じゃないだろうか。
やっとの思いで座れた僕の隣で、誰かが「大盛りつゆだくで」と注文した。その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが弾けた。
つゆだく。それは今や、過去の遺物だ。かつて一世を風靡した言葉。でも、今はもう。時代は移り変わる。人々の好みも、流行も、すべてが変わっていく。
今、通の間で流行っているのは「ねぎだく」らしい。ねぎが多めで、その分肉が少ない。そこに大盛りの玉子。これが最強の組み合わせだとか。
でも、そんな注文をすれば、次からは店員にマークされる。諸刃の剣だ。
僕は黙って牛丼を口に運んだ。隣では相変わらず賑やかな声が続いている。僕はふと、自分が本当に何を求めてここに来たのか、考え始めていた。
それは牛丼だったのか、それとも失われた何かだったのか。
答えは、きっとこの牛丼の中にある。そう信じて、僕は箸を進めた。
@nakano0316
あーいい人だけで国つくりたいなー
午前7:46 · 2020年9月4日·Twitter for Android
https://mobile.twitter.com/nakano0316/status/1301652742000189440
@ShinyaMatsuura
今回のパンデミックに教訓は多いが、一に「政治家には学力が必要」ということではなかろうか。かつての共通一次試験を復活させて、18歳と同時に受験させ、立候補予定者を800点ぐらいで脚きりすべきと思う。
午前10:32 · 2021年1月15日·Twitter Web App
https://mobile.twitter.com/ShinyaMatsuura/status/1349892259186003968
略
だがおよそ7割の有権者はそのことを認識していなかった。正論を言えば、こんな状況下で普通選挙をやっている事の方が間違っている。
かつて制限選挙が当たり前だった時代の普通選挙導入論に対する批判は、「判断力のない人々(愚民=貧乏人と女性)に選挙権を与えたら、ろくでもない政治家を選ぶので危険だ」というものだった。貧しい人や女性には判断力がないという考え方は間違っているが、しかし判断力がない人間に参政権を与えるのは不適切、という論理はもっともである。
@kambara7
日本社会の右傾化、ファッショ化が著しいので、まともな候補者は全部当落線上だそうだ。俺に最低30票くれないと間に合わない。
午前10:26 · 2022年7月4日·Twitter for iPhone
https://mobile.twitter.com/kambara7/status/1543768294926487552
いいことも悪いこともけっきょく己の劣等感へと思考がリンクしてしまう。
自分の運や実力を信じてどこまでもポジティブでいられるならそれはそれで病的といえる。普通の人はそうならないように適度に自らを不安に浸す。上手くいってるのはたまたまでは?自分は本当は不運で無能なのでは?と。つまり逆説的だが不安に浸ることには精神安定作用がある。
その安心作用に依存すると最初からブレーキを踏むのが癖になる。自分はダメだダメだ。でもそのことに気づかずに調子に乗るほど危険な状態ではない。最悪よりはマシな現状だ。…そのように自分をディスカウントして「自分を見失ってるわけではない自分」の最低のラインを死守することで、本当の最悪というものから自分を遠ざけておける気がする。
そういう思考の癖がついている。
しかしそういう思考パターンのメカニズム自体は別に重要ではない。なぜならクセはクセであって本質ではないから。
あらゆるモノに質量があり慣性が働くように行動や思考にも習慣性というものがある。ドカ食いをどうしてもやめられない人も、それはそういうパターンにはまり込んでしまったのであり生まれつきドカ食いを宿命づけられているのではない。
では思考の癖を剥がすにはどうすれば?というと言わずと知れた話で、訓練により別のくせをつけていくことしかない。
セルフディスカウントでないリアリスティックな物の捉え方考え方を。
しかしこれ言うは易いことであって、心を守るための悪い癖を脱ぐのは死の不安を生身で抱きしめることであり生存本能への挑戦です。
過食嘔吐とか自傷とかも反省したらすぐなおるとかありえないように。
だからこそ近道はない。本能をなだめるために、例えばスモールステップを設定し小さな成功体験を積むとかのテクニックを思いつく限り駆使しつつ、結局は自分の覚悟次第ということになるでしょう。根性論「だけ」では何も解決しないが、根性論抜きでもやはり何も解決しない。「自己改革は死ぬ気でやらないと無理」身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ…というのはそういう意味でしょう。
とりあえずの「精神安定のコツは?」みたいな話にいきなりの叱咤激励というのもあれだけどどうせどっかで行き詰まってイヤでも勝負かけるしかなくなるのは予感してるのではないでしょうか?
なんか嫌な事って線で存在するけど、楽しいことって点でばかり存在するような気がする。
好きなもん食ってああ美味しかった、とか。
そういう瞬間の背後でも、嫌な思いは常に薄っすらとでも流れ続けてる気がする。
会社行くの嫌だなあ。毎日の家事面倒臭えなあ。健康に気使わんといけねえよなあ、でもかったるいよな。こんな毎日がいつまで続くんだ、それが終わった時に楽しみは残されてるんだろうか。とか。
そういう嫌な気分が支配的になった時、そこに太刀打ちできる連続的な喜びがあるのだとすれば、それは多分何らかの追求の中に存在するんだと思う。
理想の音楽を追い求めたり、研究に勤しんで世界の神秘を解き明かそうとしたり、野球が強くなろうとしたり、金持ち目指して金儲けのための挑戦を続けたり。
でもそういう継続的な営みっていくら関心があってもやっぱりかったるいし、そこに人生賭けていいのか?って迷いがあったりもする。趣味であれ生業であれ。
それよりは嫌な気分なんて極力忘れようと努めて、日々の点の楽しみを少しでも見逃さずに拾い集めようという生き方をしてる人もいるのかもしれない。ライフワークを明確に意識して実践してる人間ばかりでもないだろうし。
それか、追求の代わりに人との関係性の中で線の喜びを見出す人もいるんじゃないかって思う。
一人で、というか自分のために生きるのに飽きた。なんて結婚の素晴らしさのプレゼンにありがちな言葉だけど。
孤独だとかそんなのは実のところ個の生き方の限界と言った時の本質でなくて、何かをする、という点の瞬間ではなく、誰かと繋がっている、という連続性にあるんじゃないかって思う。
あながちまちがいではない
日本人祖先の「3系統説」、従来の定説に修正迫る ゲノム解析で進化人類学は「人類、日本人の本質」を探究
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20240724_e01/
北系も縄文人との遺伝的親和性が高く、沖縄県・宮古島の古代日本人や韓国三国時代(4~5世紀)ごろの古代韓国人に近かったという
メイクしないのはルッキズムに加担したくないから。オレはな。男性全体は知らん。
オレはアイツに信用を与えることができなかった。
外面とかいう表層じゃなく人間としての本質、心で繋がっていると示せなかった。
チー牛、という言葉は子育ての場面では本質ではないだろうなあ。この息子、今後ちゃんとパートナー見つけて幸せな人生送れるのか?ということだろう。
チー牛になる原因としては自己肯定感の欠如(原因は親御褒めない、余計なことで怒る)もあるかもしれんから、親の方に問題がある可能性も含めて検討する必要があるだろう。
善人と悪人の区別は、確かに単純な「キャラ」や表面的な印象ではなく、実際の行動によって決まります。善良な人でも状況によっては悪行に走る可能性があり、逆に一般的に悪人とされる人でも善行を行うことがあります。
ロッテルダム経営大学院のMuel Kaptein博士の研究によると、善良な人が悪行に走る要因として以下のようなものが挙げられています[3]:
2. 深刻さをちゃかす表現:不適切な表現により行為の重大さを軽視する
3. 認知的不協和:自己の信念と行動の矛盾を解消しようとする心理
これらの要因は、善人とされる人々が悪行に走る心理的メカニズムを説明しています。つまり、「善人」は固定的な性格や役割ではなく、状況や心理的要因によって変化し得るものだと言えます。
一方で、悪人を単に自制心がなく愚かであるとするのは単純化しすぎかもしれません。悪行には様々な動機や背景があり、時には複雑な要因が絡み合っています。
重要なのは、人々を「善人」や「悪人」といった固定的なカテゴリーに分類するのではなく、個々の行動とその背景を具体的に評価することです。C.S.ルイスの言葉を借りれば、「高潔さとは、誰も見ていないときも正しいことをすることだ」という考え方が、真の善行の本質を表しているかもしれません[3]。
結論として、人の善悪は単なる「キャラ」ではなく、実際の行動とその背景にある動機や状況によって判断されるべきです。また、善人も悪人も固定的なものではなく、状況や心理的要因によって変化し得ることを認識することが重要です。
Citations:
[1] https://www.ablesci.com/assist/detail?id=XkMAnr
[2] https://chinese.alibaba.com/g/handicapped-cart.html
[3] https://www.lifehacker.jp/article/170516_psychology_good_bad/
[4] https://www.hkbea.com/html/tc/bea-private-banking-awards.html
[5] https://blog.csdn.net/qq_40626497/article/details/103750839
https://web.archive.org/web/20110922122812/http://eigotoranoana.blog57.fc2.com/blog-entry-15.html
国連P-11応募フォーム添削 一通 40,000円(添付書類は含みません)
国連向け履歴書添削 一通 40,000円 (英文1000ワード程度)~80,000円
国連向けカバーレター添削 一通 38,000円 (英文600ワード程度)~58,000円
模擬面接質問作成 一通 28,000円~(英文500ワードまで)
Skypeを使用した国連就職・進学相談 30分20,000円~
・英文履歴書および英文カバーレターは英文で書かれたものの添削となります
https://web.archive.org/web/20120325233113/https://www.mofa-irc.go.jp/info/attention3.html
最近、紹介料をとって国連、IMF、世銀等の現役職員を紹介するというサイトが見られますので、御注意願います。
国際機関では通常、金銭をとって、個別に就職の斡旋や職員の紹介をすることはありませんし、職員が有料の職業紹介や仲介を手伝うこともありません。
国際機関職員が多額の現金を振り込む話を持ちかけ,手続き費用として証書作成料の支払い及び個人情報を提出させることはありません。
不審な職員紹介等に関する情報がありましたら、国際機関人事センターまでメール( jinji-center@mofa-irc.go.jp )にてご連絡ください。
言いたいことはわかるが、やっぱちょっとネトウヨとか書いちゃうあたりに、本質的にこの人が右翼側嫌いなのかなって気はしちゃう。
が、まぁそういうのは置いといて
右翼は憲法を破壊改革しようと思ってるんじゃなく、日本そのものの国体を護るために変更したいということだと思う。
右翼の本質は慣性だと思っていて「動物は変更したがらない」ってことと結び付いていると思ってます。
なので、強引に変更させられた場合、元に戻そうと必死になる。それが、憲法を変更しようとする動力になってるんじゃないかなと。
あともうひとつは、よく言えば現実主義で、環境に合わせた変化は受け入れる。資本主義が定着したのもこのあたり。
ただ、現実主義で、そこにそぐわない一定数の弱者が切り捨てられるのは仕方ないって考えているところはあるでしょう。
そういうところは、自然主義って表現した部分とある程度合うところかな。
左翼の方が賢いってピキる人がうんぬん書いていたけど、もちろん、どちらにも賢い人はいて、そういうところに差はないでしょう。
けれど、それとは別に、全人類が揃って、頭脳的にも精神的にも1ランク賢くなれば、いわゆる左翼的社会を考える人が増えるのかもしれない。とは思っています。
左翼は理想主義であり、人間はすべてよりよい方向にアップデートしていくべきであり、よりよい方向とは、弱者が淘汰されることは無く、誰もが平穏に生きていける世を実現すべしという考えである。
共産主義って、主義自体は理想詰め込んだようなもので、トップの統制のもと利益はみんなで共有して、みーんな揃っておんなじ。そういう社会が一番平和でみんな幸せ。
そういう考えだと思う。
でも、こういう理想は、今の人類には自身の未熟さのせいで、現実ではまだまだ完全に機能は出来ずいびつになってしまう事を右翼の人は感じている。理想はわかるけど無理じゃね?ってなる感じ。なので左翼はお花畑って見えるわけですね。
逆に左翼からは、これが理想的で一番いいに決まってるじゃないか。なんで馬鹿はすぐに無理だとか諦めてうだうだ言いやがるんだ!ってなるわけで、このあたりが左翼が過激化する理由だと思っている。(学生運動やら日本赤軍やら)
いまの日本の形って、ある意味理想的な共産主義に近いんだけどなぁ……
資本主義ではあるけれど、国民皆保険や生活保護等でできるだけ最低限のことは受け取れるよう調整してあって(もちろん完全に機能しきっているとは言わない)
こういうのは他の国にはあんま無いんよなぁ
これらの疑問はどちらも「右翼=保守」「左翼=革新」という誤った認識のせいで生まれてるよ。
確かに右翼は保守的であることが多いんだけど、それは右翼の本質ではないんだ。
右翼の特徴として、排外主義、権威主義、保守志向があるけど、これらは全て「動物的本能に従ってる」で説明できるよ。
このように動物的な本能を重視するのが右翼の本質であって、保守はそこから導かれる系に過ぎないんだ。
こう書くと「左翼の方が優れてるって言いたいのか?」とピキっちゃうかもしれないけど、そうじゃないよ。
「思考偏重」ってのは必ずしも「頭が良い」って意味ではないからね。
思考をこねくり回した結果、山岳ベース事件やクメール・ルージュみたいなバカげたこともするわけだ。
(爆弾とか文明の利器で危ないことをするのも基本左翼だよね。右翼は単純な暴力事件が多い)
あくまで「本能」「思考」のどちらを重視するかの違いであって、どちらが上という話ではないよ。
■なぜ左翼が憲法を「保守」し、右翼が憲法を「革新」しようとするのか?
ここまで来ると、この疑問もそう難しくはないね。
人類が思考の果てに作り上げた平和憲法が左翼にとって大事なのは当たり前だね。
しかし右翼にとっては闘争本能を否定する不自然極まりない代物なんだね。
マジックザギャザリングで言うと右翼は赤緑で、左翼は白青黒と言ったら(一部の人には)伝わりやすいかもしれないね。
■なぜ低学歴は(弱者の味方であるはずの)左翼を嫌い、ネトウヨになるのか?
左翼に共感するには学問的な教養が必要だけど、右翼は本能に訴えかけるから惹かれやすいんだね。
左翼は弱者を救いたいなら、もっと目線を合わせることが必要かもしれないね。
現状の経済を指して「資本主義」と呼んだのであって、誰かが意図的に資本主義経済を作り上げたわけじゃない。
右翼は自然状態が好きなのだから、自然発生した資本主義が好きなのも当然だね。
■蛇足
彼は天才的頭脳で思考をこねくり回した結果、「産業社会を破壊する」という普通の右翼がドン引きするほどの超極右になった人物だよ(諸説あるけど)。
あくまでこの理論は傾向の話であって、全ての人に当てはまるわけではないことに注意してね。
でも多くの場合は「本能/思考」の対立で説明できるはずだよ(少なくとも「保守/革新」の軸で考えるよりはずっと当てはまりがいいはずだよ)。
■お便りコーナー
そうだよ。ただ「理性」という言葉は良い意味を持ち過ぎてるから避けたよ。
クメール・ルージュの蛮行を「理性」と呼ぶわけにもいかないからね。
思ってないししてもないよ。
例えば統計的には男女には色んな生まれつきの差があるよ(ラディフェミは否定するかもしれないけど)。
でも全員キッチリ男性的・女性的に二分できるわけではない。傾向的な差があるに過ぎない。それと同じことだよ。
はい。ただ左翼はセクト主義を批判しているのだから、やはり「左翼は本能的なものを批判している」ってことになるよね。
左翼の中で肯定的に使われる言葉ならともかく、批判されているものを持ち出しても、むしろこの理論を強化することにしかならないよ。
ここ1年で初めてはてなブックマーク日毎の総合人気エントリ入りしたドメインからのホットエントリ、ブクマ数順トップ30
ブクマ数 | タイトル | ドメイン |
---|---|---|
1599 | 誰も教えてくれない「分かりやすく美しい図の作り方」超具体的な20のテクニック | tomoyukiarasuna.com |
1398 | 新人のためのインターネット&ネットワーク超入門2024 | www.janog.gr.jp |
872 | スライドデザイン | design-sli.de |
779 | 自分の居場所をつくるには ──鼎談|星野源×ARuFa×ダ・ヴィンチ・恐山〈前編〉 | YELLOW MAGAZINE+ | 星野源 オフィシャルサイト | www.hoshinogen.com |
700 | 〈特別公開〉警察腐敗 内部告発者はなぜ逮捕されたのか(青木理) | websekai.iwanami.co.jp |
677 | ウクライナの夏休み | 何丘ブログ | nanioka.com |
588 | 輸入レモンは危なくない。古い情報に惑わされないで[食の安全と健康:第16回 文・松永和紀] | oishi-kenko.com |
582 | 自己肯定感低くてもなんとか頑張れたいくつかの方法 - 腹は減る | blux.hatenablog.com |
553 | 観光客に襲いかかる暴漢を通りすがりの全裸中年男性2人組が撃退「我々は善き隣人」 米・サンフランシスコ | BQN -B級ニュース情報局- | zerojirou.com |
537 | 同志少女よ、敵を撃て・同志少女よ、敵を撃て 第1話前半 | hayacomic.jp |
512 | 神宮外苑再開発について|伊藤忠商事株式会社 | www.itochu.co.jp |
506 | ShellScriptで自動化を楽にしたい時に知っておいても良いこと | sreake.com | 株式会社スリーシェイク | sreake.com |
475 | 【独自】全国35カ所の国立公園に高級リゾートホテル誘致、岸田総理が表明へ|テレ東BIZ(テレビ東京ビジネスオンデマンド) | txbiz.tv-tokyo.co.jp |
465 | 生成 AI 活用事例集 | inthecloud.withgoogle.com |
434 | 内閣府が労働関係諸法規の脱法を容認するアイデアを表彰したことに強く抗議する談話 | 日本労働弁護団 | roudou-bengodan.org |
405 | データベースの値をちょっとだけ書き換えたら検索に数十分かかる様になって障害になった裏話 - STORES Product Blog | product.st.inc |
400 | 株式会社パルワールドエンタテインメント | pwe.jp |
396 | In pictures: Trump injured in shooting at Pennsylvania rally | CNN Politics | www.cnn.com |
395 | 私がLo-fi Hip Hopという一種のカルチャーに抱く嫌悪感の正体 - DOING THINGS RIGHT | mfavoritey.hatenablog.com |
359 | セキュアなAWS環境の設計についての解説【2024年版】 - サーバーワークスエンジニアブログ | blog.serverworks.co.jp |
355 | マクドナルド公式アプリのモバイルオーダー経由でクレジットカードが不正利用された話 | www.k-taimiler.com |
348 | ヴァンス副大統領候補を侮るべきではない : 「平和構築」を専門にする国際政治学者 | shinodahideaki.blog.jp |
344 | 『アサシンクリードシャドウズ』が炎上する理由 | japan-forward.com |
343 | インベスターZの喫茶店経営は本当に可能なの?開業コンサルの視点から | kaigyou.pro |
336 | 無邪気なエンジニアリングができなくなってきた | blog.did0.es |
320 | 自民党への献金総額、46年間で1億円超248社/最多はMUFGの73億円/経団連首脳「そのとおりやってくれるかどうかをきちっと見る」 | Tansa | tansajp.org |
317 | 『先生の白い嘘』初日舞台挨拶にてプロデューサー&監督謝罪 奈緒らキャスト全員が思いのたけを語る | cinemacafe.net | www.cinemacafe.net |
313 | 日本人祖先の「3系統説」、従来の定説に修正迫る ゲノム解析で進化人類学は「人類、日本人の本質」を探究 | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」 | scienceportal.jst.go.jp |
313 | 西日本の民が東京の餃子に感じる「違和感」とは? | 稲田俊輔「西の味、東の味。」 | yomitai.jp |
310 | 『ガールズバンドクライ』のCG表現はなぜ親しみやすいか - 悠々自適 | yuu-1101.hatenablog.com |
「上澄み」とはもともと、液体中の不純物が下層に沈んだあとの、上層に近い綺麗な部分のことを言う。そこから比喩的に「全体における良い部分」のことを指すようになった。
ところが、そうした用法は近年広まった誤用である、という主張がある。「上澄み」はネガティブな意味で使われるべきだ、というのである。
上澄みをさらう(すくう)、といった慣用表現があり、それは「表面的な理解」といった意味と認識していた。
用例:そんな上澄みをさらった程度で○○を理解できたと思うなよ
しかし最近よく聞く誤用なのか拡張なのか…逆の意味で使われているのをよく見る。
用例:葬送のフリーレンのクヴァールって、序盤に戦ったキャラなのに実はめちゃくちゃ強かったんだな。こいつ魔王軍の中でも上澄み中の上澄みだね。
「クヴァール 上澄み」で検索するとめちゃくちゃ出てくるこの用法。
強さの評価で上澄み、と言われると表層に位置する浅い存在、すなわち弱い存在のように感じたのだが、明らかに上澄み=みんな気づかなかった強いヤツ、みたいな意味で使われている。
おそらく字面のイメージで澄=よいこと、上=位置的に上、つまり上位であることという意味でポジティブに使われている。
液体の上澄みは、底に沈澱したものがあり、それを本質と捉えて「上澄み=表層的な浅い理解」と喩えた慣用表現だったはずが、完全に逆転してしまっている。
とりあえず葬送のフリーレンのクヴァールについて語る人以外では見たことがないのだが、クヴァールについて語る人はみんなポジティブな文脈で上澄み上澄み言ってるので気になっている。
この用法はすでに定着しているのでしょうか?— た介 (@BigotVinus) November 19, 2023
しかし、たとえば酒造や製油などにおいて「上澄みをすくう」のは、多くは底に沈む不純物を除くためであって、不純物を得るほうが目的だということは少ないだろう。その語源を考えれば、「上澄み」をポジティブな意味で捉えるほうが自然だと思うのだが。
実際にどういう使われ方をしてきたのか気になったので、比喩的な意味で「上澄み」を使っている古い用例を探してみた。
古人の名作 皆な下習いが有る 紫式部の源氏物語も 家筋だけに一体能文のうえ 日記も作り 歌の詞書もし 其外文や雑文に筆を練り 学は元より日本記の局と呼るる程までなり 其の上澄が彼の大作となッたのだ
調べたかぎりでは最も古い用例。上澄みが「良い部分」を指している用法だが、文章全体では上澄みを生むための「下習い」の重要性を説く。
アア世間は泥なるかな泥なるかな、吾独り澄めりと云う者も、矢張り泥の中の上澄を吸うの人なるのみ
上澄み自体は「良い部分」を指すが、文意としては「綺麗な上澄みも所詮は泥の一部にすぎない」といったところ。
明治39年 虚心窟主人『酔醒禅』
同じく泥と上澄みに喩えた用法。
然るに学期を分ち、試験を行い、小刀細工に類する形式的堀割を通して、之を流し込もうとすれば、肝腎な熱流の熱が失せ、有益なる含有物は途中に沈殿してしまって、児童の頭に這入るものは、ただ水のような上澄ばかりとなる。
翻訳書。上澄みよりも沈殿物のほうが有益だというので、明確に上澄みを「悪い部分」としている用法である。
常時百余名という寄宿制も、実は変らぬところは六七十人の堕落書生で、濁った水の上澄を酌むように、余の三四十人は、毎日新陳代謝、だまされて入社し、裸になって退社する者等を総称して見た話して、頭数は百でも二百でも其中に書籍を読む者は、只の一人もないので、只稼いで喰って寝て居るのと、只喰うや喰わずに寝起して居るのと、人の物を盗って喰って居るのと、夫等が下方の沈殿物で、入社即退社が上水の澄んだ所なのだ。
沈殿物が酷すぎるが、上澄みが優れているという書き方でもない。どちらかというと「上層は流動的・下層は停滞的」というイメージか。
快楽の上澄をのみ飽まで飲んで、渣滓の苦きには吸い至らず、花婿の其当夜に死んだ彼は永久に花婿である、彼を人生の最も幸福な者というも、強ち不当でない。
「美味しいところだけ味わって死んだ」という話で、やや皮肉めいた書きぶりだが、上澄みを「良い部分」とした用法ではある。
極端な理想主義と極端な現実主義の上澄みを取る、という話で、ちょっと独特の用法な感じがする。「良い部分」ではあるか。
苗字もなく、生きて居るのさえうんざりした者達の集って居る、暗い罪悪にまみれて居る世界では、そのような事は何でもない。三面記事にさえ、載せきれない「彼らのいがみ合い」の一つとして、世の中の上澄みは、相変らず、手綺麗に上品に、僅かの動揺さえも感じずに、総てが、しっくり落付いて居たのである。
上層は綺麗で上品で落ち着いているが、それは下層の濁りが上層まで伝わらないからだ、という用法。
単なる表層・深層の言い換えだが、「上層は流動的・下層は停滞的」のイメージが入っているかも。
とりあえずこのあたりで。
以上から考えるに、「上澄み」の用法はさらに4つに分類できる。
1. 上澄みは全体のなかの「良い部分」である。
1-a. 上澄みは「悪い全体」のなかの「良い部分」である。
2. 上澄みは全体のなかの「悪い部分」である。
3. 上澄みは全体のなかの「流動的な部分」である。
「上澄み」という語のイメージは「良い部分と悪い部分が上下に分離している」といったものであり、単純には1の用法なのだが、1-aの用法だと「実は悪い部分が底に隠れている」「実は沈んだ部分のほうが本質である」という逆張り的な文意になることが多いため、次第に「上澄み」自体に「うわべだけで本質的でない」ような印象がついていった、ということだろう。それが極まったのが2の用法。3の用法だけは独自な感じ。
最初の話に戻ると、
というのは2の用法であるが、これが「本来の用法」「正しい用法」であるとは言い難いと思われる。少なくとも、さらに古くから「上澄み=良い部分」とした用法は存在してきたわけで、今となってはどちらの用法も定着していると考えるべきだろう。