なんか嫌な事って線で存在するけど、楽しいことって点でばかり存在するような気がする。
好きなもん食ってああ美味しかった、とか。
そういう瞬間の背後でも、嫌な思いは常に薄っすらとでも流れ続けてる気がする。
会社行くの嫌だなあ。毎日の家事面倒臭えなあ。健康に気使わんといけねえよなあ、でもかったるいよな。こんな毎日がいつまで続くんだ、それが終わった時に楽しみは残されてるんだろうか。とか。
そういう嫌な気分が支配的になった時、そこに太刀打ちできる連続的な喜びがあるのだとすれば、それは多分何らかの追求の中に存在するんだと思う。
理想の音楽を追い求めたり、研究に勤しんで世界の神秘を解き明かそうとしたり、野球が強くなろうとしたり、金持ち目指して金儲けのための挑戦を続けたり。
でもそういう継続的な営みっていくら関心があってもやっぱりかったるいし、そこに人生賭けていいのか?って迷いがあったりもする。趣味であれ生業であれ。
それよりは嫌な気分なんて極力忘れようと努めて、日々の点の楽しみを少しでも見逃さずに拾い集めようという生き方をしてる人もいるのかもしれない。ライフワークを明確に意識して実践してる人間ばかりでもないだろうし。
それか、追求の代わりに人との関係性の中で線の喜びを見出す人もいるんじゃないかって思う。
一人で、というか自分のために生きるのに飽きた。なんて結婚の素晴らしさのプレゼンにありがちな言葉だけど。
孤独だとかそんなのは実のところ個の生き方の限界と言った時の本質でなくて、何かをする、という点の瞬間ではなく、誰かと繋がっている、という連続性にあるんじゃないかって思う。