はてなキーワード: 日本式とは
VLOG(ヴィーログ/ブイログ)とはVideoLOGの略称で、BLOGがテキストの日常ログであるのならば、VLOGは映像の日常ログという表現が解りやすい
日本でよくあるような室内で商品レビューをしたり、ゲーム実況したり、馬鹿騒ぎしたりする日本式Youtube動画フォーマットとは違い、北米を中心として発展した動画フォーマットで彼らをVLOGgerと呼ぶ
基本的にアウトドアであり、普通の日常生活で行った商店街や飲食店、ウォーキング、自転車・自動車移動、旅行などを一人称視点で時にはトークを交えながら日常を紹介するという動画フォーマットだ
商品レビューも日本のものとは一部違う部分があり、最大の違いが日常を映すというフォーマットなため商品レビューした商品が後日のVLOGにも登場し、使い続けている様子を観ることができるという違いがある(つまりレビュワーが長期間使っている商品こそ良い商品だと判定できる)
日常は映像・音声問わず不快な雑多なノイズが多いため、それらを機材や収録技術などで可能な限り廃して品質劣化を少なくしようとするというのもVLOG文化の特徴の1つ
映像作品としての性質も持ち合わせ、ドローンからの美しい空撮や、アクションカムによる激しい動き、洒落たトランジション、挑戦的な色味表現など、日本によくある室内型では編集効率上で廃されてしまう部分にもこだわっているVLOGも数多い
個人的に面白く感じるのが、特別な日にフォーカスしたものばかりてはなく、ホームビデオかと思うような本当に極々普通の日常を切り取っているVLOGgerが少なくないこと
チキンレースのように過激な表現に向かうのではなく、切り取られるのは日常の大切さや、家族愛、友情、そして故郷の様子などであり、本当に普通の生活を送る人がVLOGというジャンルでYoutubeへ動画投稿をしている
VLOGの影響は室内型で人気を博したYoutuberにも及び、突然人気YoutuberがVLOGという単語を用いて動画投稿をするなどの現象が起きている
ただ、既にVLOGへ興味をフォーカスしている人々は知っているだろうが、VLOGを積極的に投稿するのは30代以降が多く、その視聴者層も同様に30代以降が主流で、若者の流入が非常に少ないという面を持っている
これは撮影機材やパソコンなどにこだわり始めると資本的な余裕が必要になること、映像制作動作編集に一定以上の知見が必要なことに由来すると思われる
むしろ10代20代の若者の最近の興味はVLOGgerではなくVTuberの方で、刺激を求める彼らが何の変哲もない日常を切り取ったVLOGは少々つまらないのではないかと感じる
日本で主流の室内型Youtuberがどうにも合わなくてYoutubeをあまり観ないという人は、一度VLOGで検索し視聴してみては如何だろうか
今の生まれながらにクリスタルと同調する力を持った子供たちは信じてくれるだろうか。
始まりはそう、古き伝承よりも色あせた古き時代のスパゲッティは紅蓮しかなかった。
紡ぎ出す生命――そう、この俺だけで、帝国の新鮮な食材を使ったパエリアを口にすることもなく、獣どもに与える餌も、グランマルシェの迷宮も、鮮血《クリムゾンレッド》のバーミセラスと第一種ミート預言書の一節よりほかに無かった。
今更語るまでもないが、「大いなる時空の縦糸」などという呼称は帝国的ではなく、世界が闇に堕ちそうだというのにミートアカシックレコードを「生き血を糧に生きるラグー」と詠ばれるのを聞いたことがなかった。
うちのHNMLSのパテールなど、未だに血のように赤く破滅を招かないスパゲッティはモルボルだと思ってる。
ここからは俺の想像にすぎないが、赤く預言書にない偉大なるヌードルが地上人<ラムズ>権を得たのはイタリアンFFブームの気配が近づいてきた……誰もが勝利を確信したそのときのような気がする。
イタリア語のアンパンマンの顔みたいなやつがティラミススキル:完全魅了耐性とか……パンナコッタの眷属流行った頃。
初めて喰らい尽くしたカルボナーラにその瞬間だけは言葉を忘れた。
そのミルクと黒胡椒であえた炭焼き風パスタは、今に思えば日本式の全く異なる法則の下に存在する生命体ではあるが、偉大なるヌードルが発酵生成物と云うことが衝撃拡散(ショックアブソーバー)だった。
スパゲッティ――塩を振って炙っただけではない。
小指の力だけで大岩をも砕くサラ=ミとオニオン・ナイトとカプシークムが必ず乗った聖餅生地の帝都アメリウス式で、魔炎の触媒をかけて喰らう『存在』だった。
創造神すらも敵わないメィルシ・ゲリスートゥスなどなかった。
今の子供たちは信じてくれるだろうか?
母親だけでなく、隣のお姉さんも同級生のあの子もドギツイ赤と薄い赤しか無かった。
もちろん、「ショーツ」などという呼称は一般的ではなく、ましてフリル付きを「勝負下着」と呼ばれるのを聞いたことがなかった。
うちの父など、未だに赤くないパンティーはゲテモノだと思ってる。
おそらく赤くないパンティーが市民権を得たのはメーカーが来たときのような気がする。
流行った頃。
初めて目にしたショーツに衝撃を受けた。
そのショーツは、今に思えば日本式の別物ではあるが、パンツがズボンということが衝撃たった。
パンティーだけではない。
ブラジャー全てブラ。
ワイヤーとパッドが必ず入った布生地のアメリカ式で、パッドを入れてつけるものだった。
楽天などなかった。
今の子供たちは信じてくれるだろうか?
家庭だけでなく、給食もファミレスもナポリタンとミートソースしか無かった。
もちろん、「パスタ」などという呼称は一般的ではなく、ましてミートソースを「ラグー」と呼ばれるのを聞いたことがなかった。
うちの父など、未だに赤くないスパゲッティはゲテモノだと思ってる。
おそらく赤くないスパゲッティが市民権を得たのはイタリアンブームが来たときのような気がする。
流行った頃。
初めて食べたカルボナーラに衝撃を受けた。
そのカルボナーラは、今に思えば日本式の別物ではあるが、スパゲッティが乳製品ということが衝撃たった。
スパゲッティだけではない。
サラミとタマネギとピーマンが必ず乗ったパン生地のアメリカ式で、タバスコをかけて食べるものだった。
マルゲリータなどなかった。
ネット掲示板で実名などを掲載されてしまったら、被害者となり、掲示板に書き込んだ方はまさしく、『犯人』であり『加害者』である。
何故ならば、匿名性の特徴を活かして、加害者にならずに済み、全ての物事を泣き寝入りすることで、我ながら『勝者』としてあがめられる。
インフルエンサーになれるということも実際にあることは、本当の事実でありこのフィールドで起きていることだ。
匿名性を活かしたネット犯罪があとがたたない状況にあり、表現の自由を越える暴言・恐喝・誹謗中傷をする日本人も少なくない。
裏表があることで、グローバルから見た評価が大きく左右されることが殆どだけども、このままでは、日本式が『お古』になることは当然のことだ。
今はグローバルの世界になっているのがよくわかるけども、その波に乗らずに独断で先輩後輩のピラミッド方式で階級を決め、人としてしっかり見ていない日本人は、世界で日本式の経営をしても失敗する。
失敗したくなければ、世界の考え方ややり方を積極的に取り入れて、日本人の良いところを思う存分伸ばしていただき、世界各国のお手本になるように成長しなければ、アジア諸国やヨーロッパやアメリカ諸国に敗戦をきたすことがあるだろう。
サカオタ増田です。
普段サッカー関連のブクマではあまり見かけない一部idの、今回の解任劇について怒り嘆くタイプのサカオタを嘲って小馬鹿にするようなブコメに反論をしたくなった。
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.footballista.jp/interview/44512
増田はサカオタなので、Jリーグ欧州各国リーグやACL、CL、CWCなどのクラブチーム選手権、W杯、EURO、コパアメリカなどの国別対抗戦や、欧州の親善試合やら予選なんかも隙あらば見るくらい、雑多にアホのように、現地で、または画面越しにサッカーを見ている。特にW杯やEUROなんかの国別対抗戦は短期開催&時差で寝不足フラフラだが見る。
そんな増田が、W杯のような国別対抗戦を楽しいと感じるその最大の魅力は、「抗えない俺たちのサッカー性」への哀愁である。
スーパースターのスーパープレーや、ダークホースの快進撃や、うちの子(応援しているクラブチームから選出された代表選手)の活躍をハラハラドキドキと待ちわびたり、という楽しみは当然である。
が、1か月寝不足でフラフラ、仕事にも支障が出かねない鑑賞行動を取るのは、出場各国のそれぞれの「俺たちのサッカー」からの逃れられなさに、しみじみと浸るのが本当に楽しいからだ。
サッカーにあまり興味がない方の中にはひょっとしたら驚く人もいるかもしれないが、今年のロシアワールドカップには、イタリアとオランダは出場できない。どちらもサッカー強豪国である。
イタリアはW杯優勝歴4回でドイツと並んで優勝回数歴代2位、オランダは優勝こそしたことはないが決勝や準決勝の常連の強豪国である、が、彼らは欧州予選で負けた。
世代交代に失敗したということもある、イタリアについては自国リーグが汚職やらなんやらでスッカスカのぼろぼろになったこともある。欧州予選がとてもしんどいという大前提もある。
イタリア、オランダ、どちらの国も、激しく「俺たちのサッカー」な国である。
イタリアサッカーは緻密な戦略に基づいた堅い堅い守備が特徴、オランダサッカーといえば華麗なパス回しとサイドアタッカーによる全方位性・攻めダルマサッカーである。これはもう、増田が子供のころの何十年も昔からずっとそうである。イタリア代表も、攻撃的にならなきゃだめなんじゃなかろうかと変化しようとした時期もあったが、結局上手くいかずW杯予選に敗退した。オランダ代表が守備を見直そうとした感じは伝わってこなかったがw(その辺もオランダらしくて大変カワイイが)、偉大なるロッベン、ファンペルシの後の世代交代もイマイチで予選に沈んだ。
増田が観察している限りでは、彼らは、変わりたくても変われない、捨てられない俺たちのサッカー性を抱きしめて当惑し悲しんでいるように見えた。
サッカー強豪国かつサッカーが文化になってる国(日本における野球例えや相撲慣用句と同様、サッカーが文化になっている国はサッカー例えが日常的に使用されたりする)では、むしろ「俺たちのサッカー」は、勝てない理由になるようなものでもあるのだ。
W杯本戦には出場できるが、イングランド(まるでラグビーのようなラン&放り込みサッカー。あれはあれで良いものだ)や、スペイン(世界中で流行したティキ・タカもこの数年は斜陽)も、「俺たちのサッカー」を抱えて、長い不遇の時を過ごした経験がある。
この10年ぐらいでサッカー見だした人はスペイン強くて当然と思ってっかもしれねーが、それ以前のスペインはむしろ「無敵艦隊wwwww」と笑われる、見てておもしれーけど勝てないと言われるサッカーをずっとやっていた。イングランドも、現代ではそのサッカーはもうアレでナニだと自国民からすら思われているが、ずーっと牧歌的な筋肉量がものを言うサッカーをやっている。スペインは変わる気なさそうだがイングランドは変わろうとしては失敗している。
ヨーロッパ勢だけではなく南米勢もだ。ブラジルが母国開催のW杯でやらかしたのは記憶に新しいと思う。ブラジルは強い個性でクリエイティブなプレーを見せるのが俺たち!という「俺たち観」があるが、それでは勝てないねとなりリオ五輪ではなりふり構わず「俺たち観」を引っ込めて優勝を勝ち取った。南米のもう一つの雄アルゼンチンは、歴史背景もあってイタリアに似た性格悪い系の守備が堅いサッカーである。そういえばアルゼンチンはコンスタントにW杯や南米大会で結果出してるからか、あまり「俺たち性」に対して疑義を抱いている様子がないように見えるし、「アルゼンチンのサッカーは底意地が悪い」みたいな言われ方に誇りを持っている様子すら感じられたりするときがある。実際すごい良いですよアルゼンチンのサッカーね。ほんと好き。
W杯で優勝したことある国の数は8カ国しかない。ブラジル(5)、イタリア(4)、ドイツ(西含め4)、アルゼンチン(2)、ウルグアイ(2)、イングランド、フランス、スペイン(各1)である。
ウルグアイの意外っぷりが際立つが、増田はJリーグで、フォルランが若干気の毒な状況下であっても見せてくれた素晴らしいプレーの数々を生で数度見ているので、ウルグアイやっぱすげーなと妙な納得感もある。
つい増田の好きなサッカー話に脱線してしまう、フォルランは置いておいて、たった8カ国しか優勝していないのがW杯であり、並んだ8カ国の顔ぶれの納得感がすごい。
どの国も「俺たちのサッカー」を愛し、その愛の深さ以上に俺たち性に由来する辛酸を舐めてた長い歴史もともに持っている。これが文化であって、このレベルに来てはじめて「俺たちのサッカー」なのだろうと思う。
翻って、日本は。
「俺たちのサッカー」探そうぜ!とひとつなぎの財宝を探すようなキラキラしたオールマイティのお宝だと思っていないだろうか、みなさん。
ショートパス中心、バイタル小さめに保ちながら俊敏性と組織力で相手をかき回す華麗なサッカーが、日本における「俺たちのサッカー」なのだろうか。
本当に?
思い出してほしいのだが、日本がW杯に初出場して以来、あまり多くはない勝った試合のほとんどすべてが、相手の攻撃や崩しにしつこく食らいついて、ボールをハラハラ爆弾のように皆で回しながらキープして、耐えて耐えてワンチャンでゴール、というパターンのほうが勝ち試合のパターンとしては多いのではないか。俊敏性と組織力に加えて持久力でコンタクトの弱さを補う、ど根性サッカーだろう。
自分が応援してるチームの試合って見ている時はアドレナリンが出てるし、勝とうもんならもういろんなこと忘れてしまうが、実は国際試合における日本代表の「勝ちパターン」は、ど根性サッカーである。個の選手のキープ力がない分パス回しでなんとかしのいでるのを、「俺たちのパスサッカー」と勘違いして見ている人も、実は少なくないのではと思っているのだ、増田は。
観戦してると興奮だけはあるんだよど根性サッカーって、手に汗握るシーンも増えるし。その興奮を充実に置き換えて「パスサッカー=充実」みたいに勘違いしてやしないだろうか。何のためのパスなのか、というところまでちゃんと「パスサッカー」なのだろうか。
増田は、今の日本のサッカーでスペイン代表やFCバルセロナのようなティキタカが出来ているとは全く思わない。しあと10年ぐらいでも出来ないんじゃないかと思っている。代表で見られるパス回しはどちらかと言うとハラハラ爆弾型であって能動的なパス回しからの崩しなんてさせてもらえないことのほうがほとんどだし、Jリーグを見ていても「プレッシャーがかかった中で正確なプレーができる」という日本サッカーの大きな課題はあまり克服されていないよなぁ…としみじみ感じる。これは欧州でやってる日本人選手でもなぜか代表戦になるとプレーの精度が落ちるので、こういうのが日本の「俺たちのサッカー」なら、増田にとっては納得感はすごくあるのだ。
コンタクトプレーじゃ勝てないからビクビクとパス回ししてワンチャン狙いだ!という、チマチマしたサッカーが「俺たちの日本サッカー!」と自虐的に誇るのであれば、増田も大いに賛同できる。
だが、多分だけど「俺たちのサッカーを!」と簡単に言う人たちの頭の中の俺たちのサッカーはもっと格好いい、W杯獲った時のスペインみたいなの想像してるのではないだろうか。
あと今の日本式の「俺たちのサッカー」ではW杯を獲れる日は金輪際来ないと思う。もっと先に獲るべき国がある。攻めダルマ・オランダとか。永遠の当て馬・ベルギーとか。チリやメキシコなんかも日本よりずっとW杯に近い。どころかそのうち中国あたりに抜かされても全然おかしくないと思う。
日本らしいサッカーを、オールジャパンで、という言葉は、JリーグからCL、国別対抗戦まで舐めるように消費するサカオタにとっては、虚しさと「他の強豪国ばかにすんでねーわ」という怒りである。
繰り返すが、「俺たちのサッカー」は、それを手にしたら無敵になれるようなものではなく、むしろ「逃れられない俺たち性という弱点」の裏返しでしかない。
たくさんのサッカー強豪国が、「逃れられない俺たち性」の上に、対戦相手に最大のリスペクトを払いながら相手を打ち破れる「穴」を探してつけ込める戦術を叩きこんで、それでも勝てないかもしれないのが、ワールドカップという大会なのだ。強豪国オランダは一度も優勝したことがないんだぞ。EUROで20年以上前に一回優勝したことがあるっきりだ。それでも増田はサカオタとして、オランダ代表の捨てられない俺たち性を目撃しては哀愁と感動を覚えるのだ。それがサッカーだと増田は思う。「俺たちのサッカー」がまるで希望のカードのようにありがたがることが、かなりくだらないことだと思う
あーあと、元のフットボリスタの記事は「短期決戦のW杯のチームの作り方はクラブのチームの作り方とは違う」という話がさわりの一つだと思うのだが、そのあたりについて言及しているブコメがなかったのも、君らもうちょっとこう、小柳ルミ子のように年間2000試合とは言わんけどもう少しちゃんとサッカー見てからわしらサカオタのこと馬鹿にしてほしいわと思いましたよ。
なぜ怒り嘆いているかということ自体、具体的なひとつひとつについては、下記のnoteがよくまとまっていると思ったので言及はしない。
https://note.mu/hatonosu/n/nac5433ccc430
ただ、この記事のブコメ、http://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.mu/hatonosu/n/nac5433ccc430 の中で一つ、文句を言っておきたいブコメがある。
ハリルホジッチ監督の手腕をどの程度評価するかは、その人のサッカーの好みの問題と何を目的にしているかによってかなり幅広に分布すると思うが、100点満点の高評価だという人はいないと思う。あくの強い監督であることは有名だったし、サカオタ界隈では就任時からこれは揉めるぞーと冗談が交わされていた。ただこの時期にそんな理由で解任されるほど低評価だとは思えないということと、その理由が子供じみてばかばかしくて、未来がないから怒っているということのほうが大きい。元のnoteの記事から読み取れるかと思うのだが…、単に上げ足を取りたいのだろうか。
付け加えると、ハリルホジッチ監督をことさら低評価に喧伝していたのは、主にスポーツ新聞や老舗系サッカー雑誌のネット記事中心、要するに「旧メディア」側だということは言っておきたいのと、彼ら旧メディアのバッシングはトルシエの時のほうがむしろ激烈だったなーとか、オシムが代表監督だった時もオシム特有のけむに巻く言葉の尻を捕まえてイライラさせられる記事を垂れ流してたなーとも言っておく。もっといえば、JFAのちょうちん持ちのような記事が出来る理由は、PV乞食な側面もあるだろうが、W杯本戦や再来年の東京五輪の取材融通やメディアパスの確保量を考えた忖度はあると思う。
長々しい文章をつづっているうちに2時間が経過し、なでしこの予選も、忖度モードでオーストラリアとともに本戦進出が決まりそうである。いやーめでたい。
男子代表は俺たちのサッカーを貫くのだろうから、その俺たち性から醸される悲哀を私も楽しむことにする。もちろん応援もするが。
こういうタイプが上流工程に上がってきたら、一瞬でIT業界の貴族階級たるホワイト職場でも一瞬でブラックになるから困る
「就業規則ではこうなってるんですけど!!!!!!」とか「一つのミスが大きな事故につながる!!!!!」だの
「俺がチームをまわしてる!!!!!!」だのと、こういう面倒なタイプが入って来て、それまでサボりながら持ちつ持たれつでやってたチームが1年で瓦解したという経験がある。
つーかよー、現場の技術者やってただの技術力を未だに誇りにしてるような意識高い系を最上流の職域に雇うなっつーかフロントに出すなよ、オナニーそのものの要件定義や設計して取引先がドン引きしたりとか激怒したりとか、ベンダーの悪口電話口で平気でかまして大問題になっても、顔真っ赤にして技術がわかってないからそんなことが言えるんだ!!!みたいに喧嘩しだすんだぜ、なんで雇うんだよ、こんな奴。
俺がPMやってた時代ならこんなエンジニアいたら、虐めて潰すか、速攻交代してもらってたぞ、マジで。
挙句の果てにPMOもやる!とか言いながら無駄な承認フローや定例会を3つも4つも増やすし報告チャート6重とかにしだして効率ガタ落ちだったし。
若いエンジニアは気を付けような、こういうタイプがいる案件に当たったら速攻逃げろよ、胃袋ハチの巣みたいになるぞマトモに付き合ってたら。
自覚がない増田は、今すぐIT業界から出ていくか、一生下流やっててくれ、頼むから、意識高いこと言いたいなら脳外科いって、改造手術でも受けて先天性のアスペ直してから出直してこいボケが
その人が入社する前はその部署は特に仕事の遅れは無かったが、前任者の管理職が定年退職し、前職の経歴を買われて入社してきたAさんが責任者になったとたん仕事の量も質もガタガタ落ちていった。
そのAさんは前任者がやっていたからという理由だけで仕事をしていて、不要になった仕事はやめようとか、より効率の良い仕事なんて発想がまるでないのだ。
Aさんが慣れないエクセルをポチポチやってるものを便利なシステムに変えちゃおうという事だ。予算は数千万。
多分前任者がもっと便利なシステムを、と数千万の見積もりを持って提案していても却下されただろう。だって既存のシステムで間に合っているんだもん。
Aさんの容量の悪さに私までイライラする事があったけど、Aさんは間違っていないのかもと思った。
いつぞや働きすぎる日本式ボイコットなんて皮肉があるなんてネット記事見たけど、働き過ぎてなんとか仕事を回すことで改善や成長の機会を奪うってことか。と思った。
入社後ある程度年数が経過しないと適用されないために、私自身は、まだ、対象外だ。
しかし、傍目に見ている限り、裁量労働者に「裁量」なんてない。
ときに、管理職がありえないくらい長い時間を会議や資料作りに費やすよう、指示し、拘束している。
本人の同意がないと、裁量労働者にはされないというが、集団の同調圧力の中、拒否は許されない。
拒否した場合には、会社にいる限り厄介者扱い、会社を辞めるしかない。
最近、働き方改革でようやく、まともな時間?(20-21時)に帰るようになったが…
今後どうなるかはわからない。
正直、適用要件を緩和すると、労働が原因の自殺者、過労死が一気に増えるだろう。
日本式のやり方で、裁量労働を持ち込むのは、さんざん人を殺しながら、見て見ぬ振りをしてきた過去を反省する気がないと見える。
https://anond.hatelabo.jp/20180217012945
個人攻撃で人を撃ってるんじゃない。自分が問題点に感じたところを撃っているのだから、流れ弾上等。
結果として大学のポストで過剰な印象付けを与えている例として三浦瑠麗批判になっているわけでもあるが(メディア・読者・視聴者の過度な期待が悪いという説もあり)。
業績については「研究者としての実績」に絞ってとりあげた。ただ文系若手研究者増田とは、「研究」の捉え方自体が随分違うようだな。
理系で研究者を名乗るには必ず「まだ誰もやっていない新しいこと」を研究する必要がある。もちろん理系でもレビューや著書を書く人もいるが、それを皆がありがたく読むのはその人が最前線で研究をしていることが前提だ。海外には教育専門の人もいるらしいがそれはまた別の評価軸になる。
理系からの視線として、博論を除けば日本語レビューや啓蒙書しか書いていない三浦瑠麗は「最先端の研究者」とは見られない。DC2は博論として完成を見ているのだろうが、学振PDの研究が論文にならなければその研究費はどうなったのかという話になる(まだ気の早い話かもしれないし、研究には失敗がつきものなのでちゃんと取り組んだ上で成果なしであればそれは責められない)。いずれにせよテレビの研究者枠にはもっと実績積んでバリバリ研究している(あるいは過去にした)人を呼んだらどうかという話にはなる。
最先端の研究をしたならそれは世界に向けて発表すべきだ。発表しないのは論外。研究者の仕事は個人修養ではない。理系では一部の例外分野を除き発表のための言語が統一されていてそれは英語になる。中東研究ではフランス語も標準になっているというならそれもいいだろう。もちろん国文学や日本史、日本の法学では日本語が標準だろうから日本語論文だけで構わないし、海外の研究者が日本語で論文を書くべきだ。
国際政治学で日本語でもレベルが高い研究はあるという反論の何が駄目かというとそれが国際的な研究分野であろうと考えられるのに世界から読まれない点。読まれないのであれば例えばアメリカの学者に全く同じアイディアで研究されてそれを新規の研究として英語発表されても責められない。日本の学者がそれに文句を言ってそれが認められる力があればいいんだがどうもそうは見えない。日本語論文はその「レベルの高さ」に関わらず学問の潮流からすれば全くの無駄になるだろう。辛辣になるがそんな研究には国から研究費を交付すべきではない。
文系増田は日本の研究者の日本語論文が読まれないことの解決策として日本語論文の良さを英語論文内の引用でアピールするという案を提案しているが、理系から見たら不効率極まりない。一つの研究分野に標準言語がいっぱいあったら世界中の学者が言語習得に苦労するだろう。英語圏に勢い負けてることが確定した分野では英語で論文を書け。自分で書けないなら金払ってでも誰かに訳してもらえ。雑誌も国内研究者の交流用じゃなくて世界のトップジャーナルになりたければさっさと丸ごと英語に移行しろ。欧米の学者には必要ない手間に研究費が使われるのは悔しいだろうが、国際的な学問の流れの中で研究した一切合切が無駄になるのと比べればよほどいい。世界から孤立して「日本式国際政治学」や「国際政治学者(日本国内向け)」を名乗るのなら構わんが、それを正直に言わないなら国民を騙していると言われても仕方がない。
それは明治時代に建てられた養蚕農家の家で、普通の農家の様にだだっ広い土間があるだけでなく、蚕を飼う為の二階部分があるのが特徴だ。
親戚の家が元養蚕農家なので、あの特徴的な外観の二階建の家は見慣れているが、これほどまでに古めかしい間取りの家を見たのは初めてだった。なんたって、玄関入ってすぐ右手が厩になっている。一つ屋根の下に家畜の住処があるなんて。
それ以上に目を引かれたのは、玄関から一番奥にある台所だった。
家の奥の壁に面している流し台の手前には竈があり、その前には囲炉裏があって、更にその前には大きな火鉢があった。つまり今で言うところのダイニングルーム・リビングとキッチンが隣接しているというか、むしろほぼ一体化している。洗い物をする際は囲炉裏に背を向ける事になるが、煮炊きをしている間は囲炉裏ばたに居る人達と対面で話が出来る。そういう造りだった。
もし、囲炉裏ばたでご飯を食べている最中に喉が渇いたとしたら、三和土に降りて数歩で水道だ(古民家なのに何故か流しにはごく普通の水道が引かれている)。あるいは台所で作業している誰かに「お水ちょうだい」といえば、はいよっとすぐにお水をくれるだろう。
私は、日本式の台所といえばもっと孤独な場所、隔絶された、上は熱気がこもっていても足元は寒々しい様な場所と思い込んでいたから、あの古民家の台所の、玄関から囲炉裏にかけての大きな空間にきちんと溶け込み存在している感じを、とても意外に思ったのだ。
それで、これまでに私が見た事のある古い家の台所の様子を思い出してみた。父の実家、母の生家、祖母の生家、祖母の友人の家、夫の祖父の家。
どこも家の一番奥に台所はあって、そこは茶の間に近いものの廊下や戸で隔てられていて暗い。玄関からは覗く事が出来ない隠された場所だった。
それらで一番印象的だったのは祖母の友人の家の台所だった。
私はまだ5歳位の頃に、祖母に連れられてそのお宅へお邪魔した。祖母の友人が私たちを通したのは客間でも茶の間でもなく台所だった。
当時祖母の友人宅は増築をしたばかりで、ついでに台所もリフォームしたらしい。新しいシンクにガスコンロにピカピカのナイロンの床。暗い奥まった所から戸を開けたら別世界のような暖かい光の溢れるキッチンに入るのである。
広い台所の中央には作業用のテーブルはあっても食卓は無かった。その代わり、部屋の片隅にはなんと炬燵があった。私達はその炬燵に入ってお茶とお菓子をいただきながらおしゃべりをしたのだった。
祖母と祖母の友人がおしゃべりを楽しんでいる間、お嫁さんが忙しそうに夕飯の支度をしていた。立ち仕事をするお嫁さんの足元にはファンヒーター。お嫁さんは一段落つくと炬燵に入って来た。
要はその台所は、古い家制度下において最上級の厚待遇で設えた女の園的な場所になっていたということ。家の他の部分とは隔絶された異世界なのには違いない。そこを使っていた主婦はそこを自分の支配する城の様に思えたかもしれないが、自由は無い。
一方、明治時代に建てられた例の古民家のやけに開かれた台所で仕事をしていた人は一体どの様な思いで日々を暮らしていたのだろうか?非常に興味深いことだ。
お年寄りの話によれば、養蚕農家の嫁というのは朝から晩まで蚕の世話にと酷くこき使われ、妊娠中でもろくに休みを与えられず、出産後はほんの数日で子供を取り上げられ働かされたものだという。
ああいった開放的な台所で立ち働く人を、家族はそんなにも虐げる事が出来たものなのだろうか?それとも案外嫁は台所に立たずにどっか隅の方にでも追いやられていたのだろうか?
或いは古民家の建てられた時代の女性は案外昭和~現在よりまともに扱われていたのだろうか?
そんな事を考えた。
無理やり直したという発想が既に自分目線で、実際は日本人が聞こえた通りにカタカナ化しただけ。
和製英語として独り歩きして特別な意味で使う文化ができてしまっただけ。
もちろん本来の意味のままがいいわけだけど、英語ができないからそうならざるを得ないの。
>こんな頭の悪そうな日本語を大人が平然と使っているのも、英語力が低い劣等感の表れなんだろうなあ。
>そんなになんでもかんでもカタカナに変換したいなら
日本語がそもそも英語に限らず外国語をそのままカタカナにして受け入れる文化なだけであって
劣等感はあってもそこまで関係ないし、カタカナにわざわざ変換「したい」わけでもない。
実際には、日本語に同じ意味の言葉や固有名詞が無い時にそのまま取り入れてるだけ。
>特定の分野において、そのコミュニティー間での利用ならこれは効果的だけど
>一般のメディア、書籍、Web上の不特定多数を相手とする場面においては明らかに不適切だと思う。
いや「帰国子女を相手にする場面においては」の間違いでしょ。(日本人同士では不適切とか思ってない)
まず日本では英語が話せる帰国子女の方が例外という認識を持とう。
>いっそのこと、全て英語で話したい。
それができるなら初めからやってるし、英単語も本来の意味で話す方がいいのは全員感じてるって。
でもそれができないからこうなってるわけで。
あと、全員が格好つけるために好き勝手カタカナにして使ってると誤解してるように見えるんだけど
「コンセント」といえば日本人なら100%の人が outlet を想像するように、
日本人同士であればカタカナ語の意味合いはよく理解できている。
結局カタカナ語も英語の方言で、日本語の一部だという考え方をするしかないでしょってこと。
君は自分目線で自分が楽じゃないから色々ぶつくさ文句言ってるんだろうけど、
日本人。アメリカで15年ほど生活していたが、今は日本で生活している。
これには理由があって、発音を日本式に無理やり直してカタカナ化したんだよね。さらに意味合いも微妙だし、使う品詞もめちゃくちゃだから、理解しにくい。
そもそも母音の数も日本語と英語で全く違うし、その影響も大きいのかもしれない。
ただし、文法面の差異の影響を受けない名詞だけは、完全に日本語として通用するもの限定で自分も普通に使っている。(この文面内でも出てくるだろう)
言っている本人もどういった意味で使ってるのか、聞き返す気にもなれない。もう誰が得している文化なのかさっぱりわからない。そもそもダサいよね。
特定の分野において、そのコミュニティー間での利用ならこれは効果的だけど、一般のメディア、書籍、Web上の不特定多数を相手とする場面においては明らかに不適切だと思う。
帰国子女的な集まりがあって、そこで友人とこの話をすると、みんな同じような意見。英語力が高い人ほど、カタカナ語に抵抗があるらしい。
こんな頭の悪そうな日本語を大人が平然と使っているのも、英語力が低い劣等感の表れなんだろうなあ。
そんなになんでもかんでもカタカナに変換したいなら、いっそのこと、全て英語で話したい。
[追記]
もうさあ、何言っているのかわからないというか、無益じゃん、カタカナ語って。
西洋由来のものをカタカナ語にするのならわかる。インターネットとか、スマートフォンとか、パソコンとか。
でも、グロース戦略とか、エビデンスとか、なんとかビリティー系とかなんなん??
ひどい奴は動詞までもカタカナに直して使ってて本当呆れる。何がスポイルするだ。
日本語ってこんなことにまでカタカナ語使わなきゃいけないぐらい語彙の少ない言語なんだっけ?
何?かっこいいとか思ってる?ちょっと賢く見えるとでも思ってるのか?
これで英語力の低い人間が使ってたらもう、ダサすぎ。使ってる本人もたいしてわかってないだろ。
さらに発音がまるで違うから無理やり日本式にカタカナに直すと、英語力が高い人ほど何言ってるかわからなくなるという顛末。
優れた話し手はいかにすれば聞き手が理解しやすく話せるかをよくわかってる。
会話の中でケーパビリティーが〜っていうのと、能力がっていうのではどちらが伝わり易いか明らかだろ。
言う側も能力って言った方が早いじゃん。
いやいや、ケーパビリティーは能力って意味じゃなくて、可能性って意味で話しているだよだと?バカかおまえは。聞き手は能力として解釈する可能性もあるだろ。
もう本末転倒。
ヘイトスピーチっていうより、日本語で「差別」って言葉を使った方がより、倫理的に間違っているんだなーって伝わるでしょ。
なんで逆効果になるにもかかわらず、無理やりカタカナで表現しようとするのか?それでいて広めようと連呼するな。政治家も頭使ってなんぼの仕事のはずなのにバカばかりだな。
カタカナ語を使う人は聞き手のことを全然考慮してないよね。その「俺なんかかっこいいこと言ってますアピール」は人前でオナニーしてるようなもんだ。まじやめろ。
こんなこともわからないんじゃ、カタカナ語を使ってるやつの話なんて聞かなくてもいい。
どうせたいしたことを言っていない。
[追記]
全てにおいてカタカナ語はやめろとは言ってない。そちらで完全に浸透している言葉もあるし、誤解なく伝わり易い言葉を選んでほしいだけだ。
ただ昨今、会話していても、様々なメディアで記事を読んでいてもやみくもに使われていると言わざるをえない。
ニュアンスって言う奴が出てくるのは予想していた。
あの時も俺は同じこと言ったと思うけど
単に3Dでアニメ表現をするノウハウが蓄積されてないだけだから
ニモみたいなやつでなくて日本式の3DCGアニメが今後主流になるし2Dアニメは最終的に少数派になるよって言ったよね
当時でもゲームは完全に3Dに移行してたし3Dのアニメ表現はゲームでの模索の方が圧倒的に早かった
それから結果として、ベルセルクやキングダムみたいなお前が指さして笑ってた糞3Dも確かに世に出たけど
けものフレンズみたいに低予算でも面白くヒットに繋がる作品にできるってことがやっと証明されたし
…そうそう、もっとハイクオリティな3Dモデルを見たかったら次みたいな作品があるぞ
日本の制作スタジオ ポリゴンピクチュアズが送る3DSFアクション映画だ
元はニビンの連載していたコミック「BLAME!」だがPVを見る限り映画オリジナル用の再編成されたシナリオっぽい
しかし専門用語が多い作品なのでこの映画を見る前には必ず漫画を読んでおくべし!
10巻という短すぎず長すぎずなので土日にサクッと読んでしまってくれい
なお、新装版が出ているが描きおろしは表紙しかなく、追加ページはなく、修正もオリジナルの持ち味が失われていると感じるものなので、
オリジナルのほうでいいというか、表紙の禍々しさが持ち味を出しているので元の方がむしろいい
ざっくばらんに説明すると1話完結式っぽいのから長編が入ったりストーリーが次第に解き明かされていく形式のSF漫画
特徴的なのがその世界設定であり、現実のように地球上で起こっていることではなく、
暴走したネットスフィアにより太陽系を埋め尽くすかのように増設された超構造体という建物の中が舞台という変わった内容だ
その世界に空はなかった…アーマードコアかい!(しかも旧作の方かよォィ
階層ごとに世界が分断されているが主人公のキリイだけが重力氏放射線射出装置で突破することができる
…とにかく、2週間限定公開ってことに悲しみを覚えている
できれば数回観に行きたかったというか
悲しい…でも意外と早くてよかった