はてなキーワード: 夏休みとは
小説家志望の駿は、沖縄の離島で親戚のおばさんの営む宿に間借りして住み三年になる。彼は、毎日独りで海を見つめている男子高校生が気になって仕方がない。男子高校生の実央(みお)は孤児で、いまはよその家に世話になっているというが、その家には帰りたくなくて海を眺めて時間を潰しているらしい。
駿は実央に一目で惹かれてしまったのだが、実央は駿が自分を憐れみの目でみないところに惹かれていた。
だが、実央は本島の施設に移り、そのままほぼ音信が途絶えてしまった。ところが三年後、大人になった実央は駿のもとに帰ってきたのだった。
以前、続編の『春風のエトランゼ』を前提がよくわからないままなんのこっちゃと思いつつ読んだけど、こういう話だったのか。なるほどねー。
『春風の―』を読んだ時にも思ったが実央が攻めで駿が受けなのが意外だ。でも、商業BLでは年下攻めというのは案外多いらしい。攻めが未成年の場合はとくに。
絵が隅々まで綺麗でいいけど、絵に誤魔化されている感があるというか、素敵なシーンばかり見せられている感があるというか。ゲイの苦悩葛藤がなんか取って着けたように見えて仕方がない……。実央の「ノンケだけど駿のこと好きになっちゃったから大丈夫!」っていう能天気さが、ファンタスティック過ぎて私は着いていけないのかもしれない。
それに、北海道出身という設定の駿が家の為にゴリゴリに古風な祝言上げるところだったとか、元婚約者の桜子さんの大正浪漫と昭和レトロの中間的なお嬢様ぶりなところとかなー。北海道ってそんな旧態依然としたお土地柄なの? そうとは聞いたこと全くないのだが。結婚式は会費制くらいのことしか知らんけれども(そのさばさばした印象がつよいのか)。
個人的にはあまりハマれないなこれ。絵は綺麗でかわいいけど。(だがむしろ作者は百合の方が描きたいのでは? というくらいに脇役がめたくそ百合百合していた。メインのBLが霞むくらいに。そこもハマれない原因のひとつかもしれない)
今ならシーモアで丸々0円で読めるよ!
短編集。男子中学生たちを主人公にした、耽美でレトロな物語。ちなみに、『紺碧』と『紺一点』は単行本『紺極まる』に続いている。
長野まゆみ先生の持ちネタが詰まっている。水琴窟とかバードベルとか義兄に恋しちゃう義弟とか。同じネタを使って毎度似ているようで違う話を作り出すのすごい。ストーリーの内容がどうとかいうよりも、物語のバリエーションと文章構成の素晴しさに感動してしまった。
瓜はめば子等思ほゆ栗はめば況して偲はゆ
と、山上憶良の長歌の出だし部分が引用されているのを見て、『左近の桜』の『瓜喰めば』の章を思い出したので、再読してみた。↓
主人公の桜蔵(さくら)は、男と男の忍び逢う宿〈左近〉の長男で高校2年生。彼はゴシックな体質を持っている。というのは、彼はこの世ならざる者を拾い、交わることで相手を成仏させてしまうようなのだ。そんな彼のことを、父の柾(まさき)や〈左近〉の常連客の浜尾は〈女〉と呼んでからかう。桜蔵は年上の女ともだちがいて男には一切興味がないので、〈女〉呼ばわりは不本意だと憤るのだった。
これは桜蔵がこの世ならざる者達に引かれ、此岸と彼岸の境目を彷徨う、妖しくで耽美な短編連作集。
夏休み、父の柾に連れられて弟の千菊(ちあき)と共に池畔の別荘地にやって来た桜蔵。父との夏休みを満喫する千菊。一方、桜蔵は柾に雇われ高額のバイト代目当てに雑用をこなす。
柾と千菊が出かけている間、バンガローの掃除に勤しむ桜蔵。彼の前に不器用に西瓜を売り歩く男が現れて……。
瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆ
章のタイトルにこの歌を冠した通りに、柾が息子を可愛がる話なのだが、ただし柾がかまう相手は実子の千菊ばかりだ。柾の実子ではない桜蔵は柾から息子を息子とも思わぬような扱いをされているが、桜蔵も柾とは血縁関係のないことをわきまえ雑用アルバイトに徹している。……という、そのわきまえっぷりが地の文に長々~と書かれているんだけど、これだけわきまえてますから! とばかりに書かれると、負け惜しみに読めるw 桜蔵が実際に弟にやきもちを焼いて当たったり父に文句を言うような場面は、シリーズ中に一度も出てこないのだが。
桜蔵にとっては柾は単なる父親というよりは父性あるいは大人の男という概念が具現化したような存在であって、血の繋りがない事なんて大した問題ではないらしい。だが、血の繋りがないだけに、父性への憧れがなんかこう、恋心めいているように見える。
この章でもまた、桜蔵はこの世ならざる者に魂を抜かれて危うく死にかけたが、彼は窮地を柾によって救われたのか、桜蔵の欲求がそんな幻覚を見せただけのかは曖昧だ。
「(死人に)喰われたくなかったら、蛙のふりでもしてろ」
と桜蔵に言う柾。これは、
人来たら蛙となれよ冷やし瓜
という、小林一茶の俳句からの引用。これを私は、さすが風流なことを言いますなぁ、くらいにしかずっと思っていなかったのだが、今回再読して思った。瓜にそんな事を言い聞かせるのって何故? →自分が食いたいからに決まってるじゃん。
誰かが来たら蛙のふりでもしてろ。あとで私が食ってやるからさ(^_-)
激しく萌え散らかした。(だが、送られた当の桜蔵がそういう意味で受け取りときめいたかキモがったか、あるいは意味わからんと首を傾げたかは謎のまま、物語は終わってしまった)
後に、何章だったかで柾は選ぶ権利は〈男〉ではなく〈女〉にある(柾ほどの男でも〈女〉から選ばれなかったこともある)と言う場面が確かあった。選ぶ権利は〈女〉である桜蔵にあるからといって、俳句なぞ送ってアッピールしたろというのが柾の魂胆なのか、単に桜蔵をからかっただけなのかは不明だが、個人的には前者に賭けたい。
次はついでに読んだ第4章『骨箱』。
第3章にて謎の男の手により背中一面に蝶を転写されてしまった桜蔵だが、いまだに蝶を消すことが出来ないでいる。学期末となり秋の修学旅行の費用を支払わなくてはならないので、桜蔵は背中の診察もかねて柾の診療所を訪れる。旅費を出すことを二つ返事で了承した柾が桜蔵に手渡したのは、現金ではなく〈骨箱〉という銘の徳利と手書きの地図。柾は桜蔵に、〈骨箱〉を質屋〈八疋〉に売って金を工面しろと命じる。桜蔵は地図を頼りに〈八疋〉を探すが、たどり着いたのは「望月」と表札のある民家で……。
この章に登場するチャラ男の幽霊は桜生(さくらお)じゃないか。桜生かもしれないと思ってはいたが、かもしれないじゃなくて明らかに桜生だった。なんでそんな事も読み取れなかったの過去の私……。
桜生とは、桜蔵の戸籍上の伯父であり、過去に柾と付き合っていた人でもある。『左近の桜』の続編『咲くや、この花 左近の桜』で初めて名前が登場する(その時は高校生時代の容姿で桜蔵の目の前に現れる)。柾がちょっとひねくれた男を好んで愛人にしがちだということが他の章で書かれていたが、桜生もまたちょっと、いやかなり癖のある人物だ。後に、桜生に男を寝とられた〈女〉(生物学的には男性)が、桜生への報復として柾を寝とり返すというエピソードがあったりするくらい。
桜生のもとへ桜蔵は柾から預かった「桜生の形見の品」を持って訪ねて行くことになったので、桜蔵は柾の差金で桜生と出会わされたと読んでもいいのだろうか。
なんの為に桜生に会わなければならないのか? 単に修学旅行費を稼ぐためばかりじゃなくて、桜蔵の背中に転写された蝶を消してもらうためだろう。
桜蔵が桜生のもとを訪ねたとき、望月家の界隈では水神祭が催されていた。また、望月家の庭には水神の井戸がある。『左近の桜』シリーズに登場する〈男〉と〈女〉が水神に関する何かだというのは『その花の名を知らず 左近の桜』で書かれていたので、水神祭の日に桜生が現れるのは偶々ではなさそう。
ということに気づかず読み流していた私の読解力やばすぎ。もっと落ち着いて丁寧に本を読もう、と反省。これまでの人生で読んで来たその他の本も大いに誤読してたり理解してなかったりしそうだから、あとで再読してみようと思った。
桜蔵は桜生と出会い言葉を交わしてそれ以上のこともするが、桜生のほんとうの相手である柾は桜生を見ることも出来ないらしいというのが、切なくていい。
浮気者の若旦那とその新妻の両方を狐が美女・美少年に化けてだます話。
泉鏡花の文章って私にとっては古文の範疇なのだが、古文というほどに現代語とかけ離れてはいないせいで現代語訳がないので、調べながら読むのが難しい。だからとても苦手。それで、『長野まゆみの偏愛耽美作品集』のページをめくる手は『狐』のとこで数週間止まっていたのだが、せっかく買ったものを積んでおくのもなんだから、頑張って読んださ。七ページしかなくてよかった。『海神別荘』みたいにくっそ長かったら辛かったから短くてよかった。
ちなみに、『海神別荘』を辛い辛いおめきながら読んだのは、『シャングリラの鳥』(座裏屋蘭丸)のなかで語られるおとぎ話の元ネタがそれだったから。あーなるほどと思った。
『狐』に話を戻すけど、耽美だからすごいというよりはオチが面白い話だった。
その他に『僕らの地球の歩き方』(ソライモネ)も読んだけど、これはあとで気が向いたら感想を書こう。Kindleでプライム0円で読めるよ!
私は楽しみにしていたおおよそ2ヶ月に1度ぐらい訪れるチャンポンチャンスを逃してしまったわ。
いや逃してしまったというと何もしなかった私が悪いのよって言いたいところだけど、
ランチタイムのぎりぎり14時半までに飛び込み前転しながら入店しつつ着席しつつそして日替わりを注文しつつと思ったら、
悲しくなるわね。
でも逆に考えると
人気なのよね日替わりのチャンポン。
また到来する2ヶ月に1度の
私は雪辱を晴らすかのように
定番の定食から揚げ定食を位置について!よーいどん!って言う勢いで頼んだの。
仕方ないわね。
せっかく頑張ってお仕事して今日はチャンポンチャンスだから絶対優勝するね!って誓ったのに!
誓ったのにチャンポンが売り切れだなんて。
私は必死必須で必勝かと思った日替わりチャンポンを勝ち取れなかったの。
私はきっとチャンポンチャレンジで日替わりちゃんぽんを無事に食べたあかつきには
ここでまたヒーローインタビューでチャンポン美味しかったわ!って
みんなに聞いてもらおうと思ったのに、
なのによ、なのによ、
チャンポンは酷いわね。
品切れだなんて。
いや日替わりチャンポンには罪はないわ。
私がヒーローインタビューで登る予定だったお立ち台を悲しげに倉庫に片付ける姿想像してみてよ!
すごく可愛そうじゃない?
しくしく。
あんなに楽しみにしていたチャンポンチャンスを掴むことができなかった前髪をつかめなかった私が、
前髪作ってなかった子が前髪作ってきて登校して来てめちゃくちゃ可愛いじゃない!って感じの前髪なのよ!
そんなヒーローインタビューに備えて準備していたお立ち台を片付け終わったら、
チャンポンなんか
私本気出したら作れっからね!
チャンポン麺にチャンポン野菜具材セットにチャンポン肉セットにチャンポンスープを用意したら
でも強がってる訳じゃないの。
だって!
だってよ、
日替わりのシェフが作って食べさせてくれるチャンポンの方が美味しいに決まってるじゃない!
だってチャンポン持ってきてくれた給仕さんが感じのいい人だったら、
それだけで楽しくチャンポン頂けるじゃない!
私分かったわ。
よその人の目線も気にならず、
かと言って
あのときの大将のご機嫌加減でまた味の味わい方も違ってくるってことなのよ。
って私は言いたいわ。
そんなところで睨みを利かせているんじゃなくて
そんなに見られていたら
美味しく食べられないじゃない!
いや完全無人ではなく、
お客さんの前に一切店員さんが出てこなくていいオートメーションラーメンってところが
全うなラーメンがそれこそ真の味わいのラーメンになるんじゃない。
だから私が本気出して作ったとて
美味しいに決まってるそのチャンポンも自分で食べるのはなんだか素っ気ないねって話しで、
味集中システムがあったらいいんだけど、
そこまでは設備整えられないとしても
シェフが作ってくれたチャンポンは美味しいに決まってるんだから!
決まってるんだから!じゃなくって実際美味しいんだから!絶対に。
そしたら私はチャンポンチャンスを手にして優勝ができたのに!
はぁ。
今夜はきっと夢にチャンポンが出てくるの待ったなしね!
みんなも
このチャンポンチャンスを逃した悔しさをバネにして頑張るわって
チャンポン麺とかけましてバネと解く
そのこころは!
チャンポン麺もバネもどちらも伸ばしすぎたらダメでしょう!って
急に訪れた謎の整いと言い切ったところで
うふふ。
カフェオレにしたわ。
これこれ!
出掛ける前朝雨が降る前で良かったと思ったら、
とたんに雨が降ってきて傘取ってきたわよ。
少し肌寒い感じなので、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
子供のときにキッズステーションで最終回だけを観たんだけど、どうしてもタイトルが思い出せない。
・弟と、人の言葉をしゃべるタヌキ
・死ななくていい代わりに今住んでる町の友達すべての記憶を消す
・昨日まで友達だった同級生たちが一様に「どなたですか?」となり、やがて寂しそうに主人公は町を去る
若干時期はズレるが概ね同時期に読んでいた「うしおととら」に同じ展開があったときに
このアニメのラストを思い出して激しく憂うつな気持ちになった。
ただ、タイトルだけが思い出せない。あのときキッズステーションでは
魔法少女特集みたいなのをやっていて、古い古いアニメを繰り返しやっており
今は個人情報の問題があって難しいと思うが、私が子供の頃は、担任の先生から必ず年賀状が来ていた。
よく考えたら、年賀状代はおそらく私費なんだろうし、40人分近く印刷するのだって、それなりに手間がかかる。
そんなふうに、プライベートな費用と手間まで費して、教員というのは本当に大変な職業だと思う。
その点ではむしろ、教員が生徒に向けて年賀状を出す習慣というのは、無くなった方が平和なのかもしれない。
さて、年賀状は来たら基本的に返信するものである。私も担任の先生に返信していた。
そして、担任から外れた次の年からは、感謝なのか慣習からなのか、年賀状は自分から出すようになった。
すると、いつ辞めるかが問題になる。私の場合は大学生になってようやく辞めた。
逆に言うと、大学生になるまで、担任だった先生への年賀状を延々と出し続けていたのだ。
初めてもらった年賀状は幼稚園の先生からだった。なので、一番長い先生だと10年以上やりとりを続けていたことになる。
そんなに長くやりとりが続いて、微笑ましいことだって?
なぜなら、担任の先生が年賀状を送るのは、おそらく「学級通信」の延長みたいなもので、
担任としてのコミュニケーションを円滑にするためであろう。そうであるならば、担任と生徒の関係が終わったあとは、
こんなに長く年賀状をやりとりするなんて望んでいなかったんじゃないかと思うのだ。
年賀状でしか接点の無い単なる一生徒から、10年以上も年賀状を送り続けられて、果たして嬉しかったのだろうか。
「○○高校に行きました」と報告されても、多数居る教え子の一例でしかないのだ。
そんな多数の中の一情報に「嬉しい」と感じられるものなんだろうか。私が教員なら無理だと思う。
それに、この件で何が一番たちが悪いかというと、私自身の対応の仕方だ。
大学生になるまで担任だった人に年賀状を出し続けるというのは、そもそも私の本意ではなかったのだ。
他人と年賀状をやり取りできる嬉しさで、10年以上も会っていない人に年賀状を出し続けたわけではなかった。
具体的には、「担任だった先生に年賀状を出さないなんて礼儀を失している」と親に怒られるんじゃないかと思っていた。
担任の先生を想ってではなく、親に怒られるのが怖いという一心で、出したくもない年賀状を出していたのだ。
先生も年賀状を作るのは手間だったろうが、当時子供だった私には、年賀状作りなんて冬休みが憂鬱になるほど面倒な作業だった。
30代を終えようとしている私が子供の頃は、PCなんて普及していなかった。
そのため、自分で干支のイラストをクーピーで書き、「高校では○○部に入り、云々」みたいな近況を知らせる文面を考え、
ペン書きなので、書き損じにならないよう(つまり、無駄になったと親に怒られないよう)、必死に気を使って書き付ける。
そんな、夏休みの工作みたいなことを大学生になるまで毎年繰り返していた。
高校3年生の受験シーズンでも、受験時のナーバスな時期だからこそ、親に怒られるなんて絶対に嫌だと思って、
干支の絵をお絵描きしていた。そしてそれを、例えば幼稚園のときの先生に送っていたのだ。
こうして、改めて今になってよく考えると、本当に頭のおかしいことをしてたんじゃないかと思う。
高校生になっただろう相手(男性)が、小学生みたいな干支のイラストで毎年年賀状を送りつけてくる。
きっと、なんでこんな稚拙な絵を延々と送り続けてくるのか、新年早々の疑問になっていただろう。
などと客観的に考え出すと、我ながら恥ずかしいことをしてきたと、枕に顔を押し付けて叫びたくなるほど後悔する。
受験勉強をセーブしてまで、やりたくも無いお絵描きを10枚近く、きっと存在しなかった親の怒りを恐怖するために書き続けていた。
そう、この恥ずかしい行動の原動力は「親への恐怖」だったのだ。ここがいまだに、自分のことながら意味がわからない。
どうして、そこまで親に恐怖していたのだろう。別にそこまで仲が悪いわけでも無かったのに。
12月になると、特に希望もしていないのに、親から毎年無地の年賀状を10枚渡されて、
それを無駄にすると怒られると思ったから?それにしたって、「もう高校生だから」と断ればよかったのだ。
本当に、私は頭のおかしなことをしてたと思う。「親への恐怖」という妄想で、かつて担任だった人々に迷惑をかけた。
まあそれでも、大学生のときには、担任だった先生への年賀状を辞めることができた。
大学生になったので、塾のバイトを始めて給料が手に入り、年賀状くらい自分で買えるようになる。
当然、親から年賀状をもらう必要も無い。「年賀状は自分で買うから」と、ようやく断ることができたのだ。
そして、自費で年賀状を買う段になって気づいた。気づいたことは2つある。
まずは、それなりの額を出せば、イラストが付いた年賀状が買えるのだということだ。
それまで、イラストと挨拶が書かれた年賀状は、大人が業者に頼んで大量注文しないと手に入らないものだと思っていた。
それが、大学生協に並んでいたのだ。これは、本当に救われた!という気分になった。
そんなの、コンビニやスーパーにも並んでるから大学生にならなくとも気づくだろ、と思われるかもしれない。
しかし、私は大学生になるまで、ろくにコンビニに入ったことが無かったのだ。
その理由は、私の家ではお小遣い制度が無かった(金銭は必要なときに必要なだけもらえる)というのが大きい。
学級帰りにコンビニに立ち寄ってパンでも買って帰ってくる、みたいなことをするお小遣いが手元に無かったのだ。
スーパーにしたって、中学生以降は親と行動するのが恥ずかしくなるわけで、ろくに立ち入ることが無かった。
まあ、そもそも田舎に住んでいたので、自宅から歩く距離にはコンビニもスーパーも無かったわけだが。
話が横道に逸れたが、とにかく、金を出せば年賀状に稚拙なイラストを載せなくてもよいと知ったわけだ。
そして、もう一つ気づいたことは、そもそも論になるが、担任への年賀状に意味はあるのかということだ。
それは大学生になって、担任というシステムから解放されたのが大きい。
(いや正確には、学年全体での担当教授は居た気がする。しかし、有名無実というか空気みたいな存在だった。)
大学では、自分の知識は多くの教員がバラバラと与えてくるものであり、担任という唯一の存在に依存する必要が無い。
(まあ、ここについても、研究室に配属されるようになると、考えはまた変わってくるわけだが。)
そう考えると、それまでの「担任」という人々に、こんな10年も経ってまで感謝を示し続ける必要があるのか疑問になってきたのだ。
そういうわけで結局、大学一年生のときに年賀状は完全に取り止めた。
ちなみに、当時は実家暮らしだったため、自分が年賀状を出していないというのは、親にも当然バレるはずだった。
正月以降に、毎年来るはずの担任の先生たちから年賀状が全く来ない、という形でバレるはずであり、戦々恐々としながら新しい年を迎えた。
しかし、親には怒られなかった。
今考えれば、親に怒られるなんて全て私の妄想だったので、当然の結果だったわけだが、当時は心の底からホッとした。
まあ、そこからようやく「親への恐怖」が自分の妄想であることに気づくようになり、
前述のとおり、これまで稚拙な年賀状を出してきたことをトラウマに感じるようになってしまうわけだが。
結局、自分の妄想で他人を振り回してしまったわけで、その点は今でも申し訳なく思っている。
そして何より、自分自身も稚拙なイラストを書いたり本当に苦痛だった。
そんなお互いに苦痛な習慣を、自身の勘違いで長年続けてしまったのは本当に黒歴史だ。
リアルな相手にはとても言えないけど、黒歴史な思い出は文章にしてちゃんと客観視しないと、
いつまでも「思い出しアー」になって苦しむことになる(実際、毎年年末に思い出して苦しんでいる)ので、一通り書き出した。
あとはこうして、匿名掲示板に記して供養としたい。
ちなみに、年賀状はトラウマになったので、大学生以来誰にも出していません…
となれば、お話し的にはキレイな展開なんだと思うが、高校のときの友人との年賀状は、数枚ながらもまだ続いている。
大学生の頃は、年賀状なんか一生出すもんか!とも思っていたのだが、卒業すると就職で散り散りとなり、お互いの近況を知りたくなった。
現在であれば、それはLINEか何かで実現できるのだろうが、15年以上前の話なので、そこはやはり年賀状でのやり取りとなった。
携帯メールはあったんだけど、何かこう、正月だとかのきっかけがないと、お互いやりとりしないよね。
って、やっぱり私も古い人間なのかも。
まあとにかく、子供の頃は色々やってしまったけれど、年賀状を誰かに出す習慣はまだ潰えていない。
今はさすがに年賀状はコンビニで買ってきたものを使っているけれど、その印刷された文面の端っこに、
◆はじめに。
まず注意書きから。
この記事には気が狂うような文体や、現行のネットコンプライアンスに相応しくない描写が含まれています。
閲覧して数秒で受け流せる、忘れれると思えるという自信の無い方はここから先の閲覧をお控えください。
なお、この記事のイメージBGMはバハムートラグーンOPテーマ、ヨヨのテーマ、
ライブ・ア・ライブOP曲、SF編移動曲、中世編関連曲となっております。
「男タク向けのラブコメって、どうして男女間に容姿格差なんてあるのだろう。
俺はデブでもボサボサでも構わないと思ってるがそれなのに美人のヒロインと付き合えるとかどうだよ。」
というツイートに対する反応
めっっっっちゃわかる!ヒロインたちは基本的になぜかうっすら主人公を好きな設定(主人公の魅力がマジでわかはん)ついでに主人公は常に受け身なのに物語を引っ張っていくのはその美少女たちに任せっきりな感じ https://t.co/p3cy0fElJl
女オタク向けのそれでも99.9%女は容姿端麗だもんな、、男はイケメンだけどモラも多い、、
私が一昨年秋から男性向け男女間恋愛モノについて似たようなこと思っていました。
ようやく数日前閃いたことは、それが1つのポリティカル・コレクトネスみたいなことが無意識で少年漫画やラノベの特定男女間恋愛案件にて形成されてしまってる事だよ。
男性側がコンプレックスやルサンチマンになるのがいやだからわざと解像度低くして書いてるのか?って思ったよ。
作者の意思なのか?
それだけでなく12年前にアニメ化されたある青年漫画原作ラブコメ(名前非公開)も主人公の男の異様なオーラの無さに違和感を感じた…
昨年秋クールにあるキー局で放送されてた(作品の名前はあえて伏せる、分割2クールの1クール目でもある)も…
それに19年10月にどっかの野党派タカ派ヴェンゴシさんにポスターのこと標的にされた漫画でも…
その様な思ったことが1月後半、1人のネット民の発言により確信を得ることになった…。
の答えについて。
事実上私にとって新規で禁断の蜜となるコンテンツとなる資格の一つです。
「じゃあ男主人公の特技はどうしたらいいんだ?」
そりゃあ、
対戦車用ライフルや暗○拳の扱い(それは危ないッすよ…!スペクタクル路線になりますよぉ)
(欠番)
弱者男性配慮名目としたアリもしない勝手な無意識ポリコレで男主人公を低解像度または目つき悪いとかにしなきゃいけないような新規ラブコメの風潮に敵意を覚えていますよ、マジで。
それを言いたかったんです。
だけど結果は「貴方ののぞみを詰め込んだ禁断の蜜たる作品は出せてもスパン短くても一年に1作ぐらいでしょう」が現実となります。
業界様も数年先まで予約多数あるので。。
◆3章(ここでは2章は欠番) 青虐・奈央虐へのメス
ー青虐編ー
そんなことしたらかっこいいっていうのか?
作品出る事に青髪のキャラ出る度におちょくるとかしなければアニメオタクの称号得られないって言うのか?
青虐についてだが、
10年前に見た某アニメなんて青虐の元凶戦犯アニメだろ、どこが名作だ?
一方で同期に放送されたギルティクラウンやブラックロックシューターは不当な袋叩き受けたのに…
主人公の髪ボサで眼鏡の男が地球の女の子捨ててメガネの異星人の女に付いた、けどメガネの女は故郷の異星に連れ戻され、続編の予感すらなし。
「島崎信長」への強いトラウマを植え付ける原因になりましたよ。
その年の下手なバトル・ホラーアニメより胸くそ悪いものでしたよ
デップー侍世界のサノスさんはデビルーク星じゃなくてあのメガネの女の母星を粉砕して欲しかったのに。。
終始青展開なのにニャル子や氷菓など男女間恋愛強豪台頭と不当な批判のダブルパンチ…
なにがいけなかったんだよ?
コピペブログで青キャラおちょくる記事作られそれを見なくても界隈を淀ませてくれましたよ。
それだけじゃない、ネット上でその年の男女間恋愛アニメにて主人公と結ばれなかったヒロインを
滑り台の画像と合成して「クビを宣告された女たち」だとか悪趣味すぎるじゃねえか!!!
あと「おさ虐」ってのもあったようだな。
ー奈央虐編ー
業界様は今年2年ぶりに奈央虐の準備をしてるんだよな。。
下手なバトルアニメの鬱回・胸糞イベントよりもショックで昼ごはん食べたのは1時半より後になるほどの放心状態だった。
無論強いトラウマに…
ああ・・・
一昨年に「ぼくたちは勉強ができない」原作ラストを複数の編に分けて作りいろいろあったけどぼく勉の作者の取ったことがどれだけ正しかったのかが身に染みるよ。
◆5章(4章はここでは欠番) クリスマス・スクイズへの疑問。
思ったけどさあ、
なぜ毎年クリスマスシーズンのSchoolDays一挙放送に何の疑問も抱かない?
その時期だと男女間恋愛へのルサンチマンやコンプレックスが爆発するので歪んだ結末を迎えるものの方が気が安定するからなのかな?
たまには2日かけてでもいいから腐夢か百合一挙放送すればいいのに、ABEMAさんは。
無論バレンタインやホワイトデー、ジューンブライド、夏休み、狐の嫁入りでも言えることです。
◆6章 茶みらい氏の悲劇。そして批判しづらい世の中になっていく昨今
「出会った女子高生は幼なじみのガキ大将だった」シリーズを展開してたけれど
結婚とクライマックス迎えた最中に、一部のネット愉快犯の荒らしにより
私が今まで知ってきた男女間恋愛コンテンツで最も悲劇の作品ですよ…
朝5時に目が覚め、することもないのでスマホをいじっていると、以前言及したブルマー情報局というサイトで、フランス映画「Peppermint Soda」でブルマーが見られると書いてあった。しばらくはブルマーについて調べるのはよそうと思っていたのだが、目覚めた直後には自制心があまり働いていないせいだろうか。ついつい時間を費やしてしまった。たばこを吸ったことはないのだが、禁煙をしていてつらいのは目ざめの一服を我慢することじゃないか、とあてずっぽうで考えた。
原題は「Diabolo menthe」で、1977年に公開された青春映画だ。監督はDiane Kurysで、女優でもある。ウィキペディアによれば半自伝的な作品が多い。以下、英語版のウィキペディアから抜粋する。
舞台は1963年、13歳のアンヌと15歳のフレデリックは両親が離婚したユダヤ系の姉妹である。二人は母とパリに住み、夏休みは海辺で父と過ごすが気まずく感じている。二人の通う学校は規律が厳しい。
妹のアンヌは思春期の入り口にいるがあまり社交的ではなく、成績もよくない。周囲で何が起きているかを母や姉から盗み聞きして知ろうとする。成績は良くなく標準以下で、不公平な教師に対処しないといけない。あるときは姉の一年前に書いた小論文を剽窃したのが見つかっている。また、初めての生理や男の子と話すことや、問題を起こした後で母と問題に対処しなければならない。
対照的に姉のフレデリックはより外向的で政治的意識も高い。特にアルジェリア問題と反核運動に関心を持っている。自分よりずっと年上の人に片思いをして、初めて本格的な恋の痛みを感じ始めている。また、初めて逃げだした友人や、価値観の違いによる友情の喪失も経験する。
例えばyoutubeの予告編に出てくる。大体0:38頃である。
https://www.youtube.com/watch?v=lGpU3y8RAFM&ab_channel=DulacDistribution
他にももう少し鮮明な画像があるページもあったが、「映画を無料でダウンロード!」と書いてある危険そうなサイトだったり、映画での性的なシーンをつなぎ合わせた違法アップロードだったりするので、リンクは張らない。どうしても気になる方は英語やフランス語のタイトルで検索してほしい。
で、肝心のブルマーを見てみると、ブルマーというよりは極端な短パンに見える。前列右から2番目の子を除いて、他の国のようなショーツ型ブルマーではないようだ。さらに、生徒によって短パンやシャツの色が違っている。フランスではブルマーが制服として採用されたのではないらしい。
しかし、逆にそこが興味深い。この仮定が正しければ、制服ほどの強制はなかったにもかかわらず、1960年代のフランスではブルマーに近い短パンを生徒が自主的に着ていた可能性があるからだ。もちろん何の証拠もないし、強制ではないにせよブルマをはく雰囲気があっただけでも強要されたように感じた人もいるだろう。ただ、当時のファッションの傾向としてブルマ的短パンが許容される風土があったのやもしれない。奇しくも60年代はミニスカートが初めて流行した時代である。当時の青ブルマーはおしゃれの先端だったのだろうか。
この映画、ちょっとだけ年端もいかない少女の下着姿や乳房が映っている(該当シーンがアップらされていたのも、リンクを貼らなかった理由の一つだ)。昔の芸術系の映画にはたまにあるが、やっぱりショックだ。ショックなのはそのためらいのなさと、どうしても一瞬は美しいと感じてしまう自分の感覚だ。
ここでは表現の自由と検閲の是非については議論しない。専門外なので解像度の低い議論はしたくない。
ただ断っておくと、今は少女の裸体を(少なくとも実在する児童の写真・映像なら)禁じるのは当然だと思う。悪の定義が「なにも知らぬ無知なる者を……自分の利益だけのために利用する」ことならば、まさにその定義に該当するからだ。性についてまだ知らない相手を同意なく性的に扱うのは間違っている。
一方で、グーグルで「少女 ヌード」と画像検索すると一件も引っかからない。正しい処置だと思う。けど、大企業によるあからさまな検閲は正しくてもなんだか怖い。
映画の配信とかも怖いと感じるのがそれで、どのような理由であれ、いつ同意なく内容を差し替えられてしまうか、それが怖い。
ところで、表現の自由に調べてみると興味深い事実に行きあたることがある。
たとえば英語版wikipediaの「Pornography_in_Europe」を読んでいると、「Like Denmark and the Netherlands, Sweden does not regulate pornography and the country has no age laws for the possession or viewing of pornography.」つまり、スウェーデンでは18歳未満であってもエロ本を見ることは違法ではないのだ。「Some shops follow a voluntary limit and do not sell to minors.」ともあり、実際には売らない店もあるらしいのだが、売るなと法で定めているわけではない。
またフィンランドでは「It is legal to sell pornography in any store, but magazines may not be sold to buyers less than 15 years of age, and hardcore is restricted to buyers aged at least 18.」つまりソフトコアなら15禁、ハードコアなら18禁とわかれているらしい。
ただし、どちらの国でも18歳以下のモデルは禁じられている。
以上、全くの余談だ。
一応、初めてテニスの見せパンをはいた選手について書こうとは思っている。ただし、いつになるかはわからない。数ヶ月後くらいかな。
こっそり追記。
ドイツに一歩及ばず。
あれは私がまだ大学生の頃。夏休みも序盤の7月、今まで一度も殆ど話をしたこともないような同期の女子から電話がかかってきて、図書館で夏休みの課題を一緒に仕上げようと誘いを受けた。
彼女は絶世の美女ではないが、地下アイドルにはなれるくらいの人だった。
私は狼狽えたが、とりあえずその申し出を受けることにした。
幸いなことにその課題は簡単なもので、昼間のうちに私も彼女も問題なく片付いてしまった。
夏の日が傾いてきてので何となく一杯やろうということになって、日高屋に行った。
唐揚げとかキムチとか餃子を肴に生ビールや日本酒を飲みながら日が沈むのを眺めていたら、彼女は段々と私に身をもたせかけて来た。そしてそのうち私の太ももに指で何か字を書き始めた。「スキ」と書いているようだ。
二人とも酔いが回って来たので割り勘で料金を払って店を出た。すると彼女は店を出た所で立ち止まり、「手をつないで!」「手をつないでくれないならここから動かない!」と言い出した。
仕方なく手をつないで駅に向かってゆくと、今度は「ねえ、次はどこに行くの?ホテル?でもそんな勇気ないんでしょウフフフ」と言い出した。
この状態で仮にホテルに行ったら、後日「酒を飲まされてレイプされた」と訴えられるに違いない、と感じた私は、彼女を駅のホームまで送り出して別れた。
大学3年の夏休みに右も左も分からずアフィサイトかメルマガかなんか見て登録した新卒就活エージェントX
会員登録したら2,3営業日中に電話で連絡差し上げますと自動返信メールが届いてソワソワしながら待ってたのに一向に電話鳴らず、こんなものかと放置
しばらくたって翌年4月、「Xですがみなさんに就活の進捗伺ってまして、いかがですか。よかったら企業を紹介する」と突然営業電話をよこしてきた
Xに登録したことなんてすっかり忘れてて、どこなのかその時はピンと来てなかったし、既に別の企業から内定が出ていたが、ノリで面接を受けることに
面接が始まると事前に書かされたプロファイルシートをなんとなーく添削してもらって恩の押し売りをされた後、見てる業界を伝えると企業を紹介されたが、どれも待遇も仕事内容も新卒カードを使うのはもったいなさそうな企業
エージェントにどの今内定がでてる企業と比べても微妙だと伝えたが「説明会だけでも行ってみればいいんじゃないですか^^」と。
俺が行きたくないって言ってるのに完全にお前の都合じゃねーかと思ったが、断り切れずに2社説明会を受けることに
これって登録時にはエージェントの癖に生意気にフィルターかけて、フィルターを通過したエリート達のお眼鏡にかなわなかった余りものゴミ企業をゴミ学歴どもなら受けてくれるだろうと今更連絡してきてあてがおうとしてきたってことだよね
そう考えたらムカついてその後は連絡来ても無視した。向こうだって舐めたことやってるんだし
そうはいっても自分より時給が何倍も高い大人が自分の為に動いてるのは事実なので心苦しい。なぜこんなゴミ企業を押し付けられた上にこんなどうでもいいストレスまで感じなきゃいけないのか
という訳で日東駒専以下⑨の低学歴はエージェントなんか使ってもゴミ企業紹介されるだけだしよっぽど困ってなきゃ使わなくていいよ
なめられてます
受験、超進学校、医学部ナンバーワン…こうしたキーワードから条件反射的に、親や学校の圧力があったなどと思われがちだが、おそらくそうではない。「自由な校風」であることはマスコミからも言及されているし(地元紙・地元局ぐらいならまず一定数出身者はいる)、ゲンダイ曰く父は私大職員だという。これでは親からの圧力があったとは考えにくい。東大東大言えば親として自分の仕事先をどう思ってんだ?という話になる。昔、愛知県知事が高校入試の仕組みを決めたにもかかわらず自らの子息を私立にやって批判されたこともあり知られている。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/newsx/300082
偏差値・学校名を叫ぶ、卒業文集にも勉強について書くといった話からの推測ではあるが、結局これは、彼が自らのアイデンティティを勉強以外に見いだせなかった結果ではないか。多くの中学入学組は、上には上がいる、理Ⅲに行くような人はタマが違うことを、入学前の模試の順位・点数や学生生活を通じて理解していき、アイデンティティのより所を乗り換えていく。部活、文化祭、外部から講師を招いた講演会の企画・運営、趣味やゲームを通じたゆるい繋がり、クラスでの奇行や変人アピール。自由さの下に豊富な乗り換え先を持ち、アイデンティティや友人を得ていく。一方高校から入学した彼は、カリキュラムの都合上高1は別クラス。コロナもあって授業外での繋がりを得る機会は難しかったのかもしれない。そして高2になると、そろそろ勉強に本腰を入れようと「乗り換え先」から戻ってくる、潮が引いていく流れが徐々に強まっていく。新年度から…、夏休み明けから…、文化祭が終わってから…、大会が終わってから…と。特に中学から勉強をそれなりにやってきた人たちほど早いだろう。そうした中で結局彼は勉強以外のアイデンティティの乗り換え先を見つけずじまいだったのかもしれない。
あくまで推測でしかない。高校入学であってもなじめている人はいる。友人と中学時代の思い出の話になってそうと気づかれるような人もいる。被害にあわれた方々が心身ともに快復されるのを祈ります。