はてなキーワード: 一期一会とは
もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事の書類ばかりとなった昨今。
でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。
書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。
生まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖の詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。
頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初の感想だった。普通に文章だったからだ。
調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで
「韻」という言葉もその時初めて知った。
井上靖の詩集を手に取ったのは、国語の教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。
というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初の詩集だった。
小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。
季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなものが短歌や俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。
特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平の短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉のニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。
幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。
自分の世界の表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。
例えば、雪という詩がある。
雪
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
みつけた詩だ。雪が降って来ると、
私はいつもこの詩のことを思い出す。
中学生の私は、なるほどと思った。
詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉のなかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。
鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。
当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。
いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。
ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。
山頭火は面白い。普通の俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。
定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌のエントリーポイントとなって、
しかし俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。
いつしか手にしていたのは、興津要の解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。
剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代の言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。
その後は巴毎晩組み敷かれ
木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代の川柳で妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい。
一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。
俵万智のサラダ記念日がベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。
例えば、こんな一首。
あさま山荘事件を起こした連合赤軍の幹部、坂口弘が収監中の東京拘置所から毎週のように短歌を朝日歌壇に投稿していた頃だ。
朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌の表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。
風花って知っていますか
渡辺松男と太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇をリアルにみていた人にしかわからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱が発酵すると詠んだりする太田美和。
実生活で恋をしていた私は太田美和の言葉に自分を重ね合わせた。
でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。
大学を卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。
生活が一変した。
書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。
世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。
山頭火も武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接と資格だ!という日々。
就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。
たまに思い出しては、現代短歌の最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。
若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。
それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。
そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。
思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分が死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。
中年になっていいかげん自分の限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。
―― 雪が降って来た。
―― 鉛筆の字が濃くなった。
この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖の感覚がとてもよくわかるようになった。
これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。
詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。
どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。
鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯な子供の姿を思い浮かべる、という
文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワインと食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。
ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種やビンテージ、気候土壌などさまざまな情報がある。
しかしワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのときの話題、体調などに大きく左右される。
水だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。
マリアージュという言葉があるように、ワインは一種の調味料として機能するため、食べ合わせは重要だ。
ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見のワインでしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。
逆に偽の情報を表現豊かに補完してしまえば、コンビニで販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。
ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的な規律として表現することはできない。
詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。
井上靖が「小学校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき、井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。
その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。
どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときのメンタル、いわば偶然の力だと思う。
渡辺松男と太田美和が並んで歌壇に掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。
失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会。
そのときに自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。
ところで、先日、Yahooの芸能ニュースをみていたら、TBSのプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人が俳句の先生から5点と酷評されたと報じていた。
消しゴムが 白き水面に ボウフラを
というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味を説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。
ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人の俳句が酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組の演出・脚本としてはそれがオチなのだろう。
演出もさることながら、これは、他の出演者の俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。
虹の下 クレヨンの箱 踊り出す
天王山 黒ずむ袖に 薄暑光
薫風や 隣の君と 教科書を
こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。
バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージで作品のクオリティが補完されてしまうのだ。
しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校の児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。
消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月の番組で文房具だからまだ気持ちはフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。
ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。
それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。
いいかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。
一方で白い水面(ノートの隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。
ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。
と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ。
ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。
また、どんくさいもの、弱者がボウフラというノート上のより小さい存在に視線をフォーカスする、という手法は小林一茶の方法とも通じるところがある。
番組の評者は、この芸人の俳句を酷評したうえ、次のような添削をしたという。
夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。
しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組だからね。
ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界は一種のルッキズムだ。夏休みとかいって勝手におめかしさせようとするんじゃねーよ。
そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつの動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語や川柳で身につけたものだろうから、ゆりやんの一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。
長らく読み専腐女子だった私。
人気カプだから、漫画にも小説にも、プロ作家含めて上手い人だけでもめちゃめちゃたくさんいた。
ふつうの仕事についてる人も初心者から上級者までいろんな作品を作っていて。
大好きな作品がたくさんできた。
創作できる人はすごいなー。と思っていた。
いやになるほど苦労した、でも楽しかった。
10冊しか売れなかった、でもプロの本に混じって買う人がいてくれたのがすごいと思った。
いい体験だった。
でも、他の人の推しカプに以前のように夢中になれなくなってしまった。
大好きだった作品もなんだか色褪せて見えて。
自分で創るけど、下手だし遅い。
他の人のを読んで夢中になれてたあの頃に戻してくれ…
夢中だったあの頃の思いが戻ったら、
カプオンリーとか、webイベントとか、お題を決めたアンソロ作るとかを、やってみたい。
熱意を持って創作をしていれば他の描き手・書き手さんも意外と優しい。やろうと思えば今でもできるのだろう。
でもアンソロやイベントを主催するのは、大変なことだ。他の人のこういう作品が読みたいと強く思うからこそできる。
そこまでの気持ちはない。
一作一作が思いを込めてつくられた一期一会の宝物なのだと思う。
なんか違うって思いたくない。
どうしたらまた夢中で読めるのだろう。
いつの頃からか、10年前の過去、そして10年後の未来の自分をやじろべえのように
ふとした瞬間にじっと思うようになった
全く比較の対象にはならかなったからだろう、変化して当然だし、
仕事もしていて結婚もして大きく人生が動いているだろうという漠然と用意された未来をみていた
まだまだ伸びしろがある時期だし、将来に対する解像度も低かった
しかし、年を重ねると、次第にビフォーアフターの想像があまり冴えないものになっていく
40を過ぎたあたりで自分がかつて躓いて苦労していたことを軽々と乗り越えてくる後輩たちに追い抜かれる
過去10年を振り返り経験してきたことの薄っぺらさと、これからの10年で経験しそうなことのリアルがより高い解像度で見えてくるアンバランスに直面する
そして近年、父も母も他界した
ふたりとも癌だった
空き家になった家を整理していると、癌家系という言葉がずっしりと来た
親を亡くして数年して気が付くのは、自分の年齢が毎年毎年、親の年齢に近づいていく感覚だ
もっとも親の死んだ年齢はまだまだ先だが、
10年前、10年後を考えるときに、頭をよぎるようになってきたのは、
しかしひょっとすると自分は10年先はもう生きていないかもしれない、ということだ
世間的には老いをみつめるような年じゃないし、まだ働き盛りと思うが
前に進むバネが弱っている
お金にしがみついて惰性で進む10年がみえてくる、いやもう10年ないかもしれない
そうすると日々が何か一期一会な感じもしてくるし
「こん」
オンライン島にて2020年からずっと見た目女の子で遊びに行っている(昨日も行った)
初めて行った時にびっくりしたのがその礼儀正しさである。オン島は大体未成年が多いのだが、島に到着すれば色んな場所から吹き出し「こん」が
そろそろ帰るといえば「ばいばい」と吹き出しが島のどこからか飛んでくる。
「普通のパチンコくれ!」とお願いしたら金のパチンコをくれる人がいて「そこまで求めてないんだよなぁ…」と困惑したこともある
その辺りから男の子アバターから女の子アバターに変えた。すると、これが面白くて女の子になった途端「えっちする?」とか聞いてくる奴はいる
プレゼントしてくれる人はいる、女の子だと思って悩み相談してくる人もいた。
このお陰でまだ参加していないイベントのアイテム(豆とか)海外限定アイテム(スパークリングサイダーとか)配信限定アイテム(セブンのATMとか)更に開けらないプレゼント袋、フライパン
会話がめんどうな時はひたすら虫取りしてた
虫取りの効率いいやり方を教えてくれる人もいた
他人が虫取りをしてる時に走ったり歩いたりしてはいけないこと、逃がしたらすぐ謝ることも学習した(すぐ謝ると割と許してくれる)
12月限定のツリー飾りを置きまくって自分仕様に変えちゃった人、バグに付き合ってくれと言って私を嵌めた人、穴で私の周りを囲って出れなくした人(特殊な穴)、雨を降らせた人(本来は晴れか曇りしかない)、ロビーの電気を消したりつけたりを繰り返す人、オン島のコインで交換する品物を全てかっぺいの写真にしてまるで遺影が並んでいるみたいにする人、ロビーに太陽を出現させるひと…まあ色んな人がいた
あまりに暴言が酷いのでブログでソパカを晒したら「discordで喧嘩しようぜ」と言ってきた中学生(自分で言ってた)「働きたくない」とか書かれたTシャツを着た人にソパカをアニメの画像にする人も○○ノ○○村みたいな名前の人も小学生だけど
ドリフのファンで「ツーツラツー」と歌っていた人も都合が悪くなると「子供が泣いちゃって世話していたから」と誤魔化す人もみんな今となっては思い出のひとつ(だけどドラクエ村のソパカが
とこやみのりゅうグレナードって書いてあった人は許さん)売名してくる奴も未だにオン島にいるらしい。一回喧嘩したねぇ、チャンネル登録者500だとか威張ってたねぇ、同じくロビーにいた人が爆笑してたね。
すれ違い広場を確認したら出会ったMiiは1000人を超えていた。HIKAKINのMiiに、キヨのMii、真っ黒Miiなど本当に小中学生の作るようなMiiだらけだった。
そんなオン島も4月で終わる
しかし、最後までアイルランド語を訳せる人は現れなかった(TwitterIDを検索する奴とWiFiでマウント取って帰らせる奴はいた)
「じゃあそろそろかえるね」
「まあ、あわよくば見たいなことは考えたよ。
こんな駅からちょっと離れた、有名でもない中華料理屋に来ている俺と同年代ぐらいの綺麗な女性。
これがだめ
同性だとこれがない
ただの親切で終わることが出来る
性欲がある人間ってこれが必ず入ってくるんだよね、ここさえなければ何の問題もないのに。
同じおっさん、困ってる子供、おばあさんやおじいさんには思わないだろそれ。
身なりとかも振り返らないだろ。そこはどうでもいいんだよ。
増田が女の人に声かけちゃいけない核があるとしたらここなんだよ
わかってるようで、わかってないよね?
女が誰かに「めっちゃ多いですよねw持ち帰りできますよ~w」って声かける時
どちらかというとその会話も関係も一期一会が前提で、むしろ「この場だけで終わりたい」んですよ。
あっさりさっぱり、なんか親切な人いてよかったな、で終わりたいんだよね双方。
今日は病院へ行きました。お注射です。お注射をしてしばらくは精神があまり安定しないようです。被害妄想を持ったりしてしまいます。
精神というのは、変動を検出すると不快感を持つような気がします。鬱の時も一定の心持ちであればそれなりに安定しますが、いきなり躁になったりすると錯乱するのかもしれません。
そういえば、私はインターネット上に残した自分の黒歴史の削除を試みました。
統合失調症+自分の名前で検索すると、誰かが勝手に私のYoutube動画(躁状態のときのもの)の音声をテキスト化したものが置いてありましたが、どうやらそのサイトは自然言語のアノテーションのサイトらしく、編集は誰でも行えるようでした。そしてその情報に「著作権侵害です」とラベルをつけて削除してきました。
そうそう、あと黒歴史ブログも残っていました。精神を錯乱して浮世離れしていた時のブログですが、「フロントカメラが不細工でバックカメラがイケメンなのは、介入する観察者が異なるからだ!」みたいな意味不明なことを書き、セルフィーまで載せていたのです。
このブログはまだ削除できていません。というのも、Googleアカウントのパスワードを紛失したからです。
Twitterにもいくつか精神錯乱時のアカウントが残っているのですが、それらも2段階認証を設定しており、ログインできなくなっているのです。
まあ、黒歴史というのはこのようにして、精神をおかしくしている時に生成してしまうものだとわかります。
ところで、インターネットを徘徊していたら、こんな文章を見ました。
つまり「人生の意味を問うても無駄。その代わり人生があなたに問うている」というものです。
もしそれが本当ならば、精神を錯乱して残した黒歴史を正常になってから振り返り、「この黒歴史、君自身はどう感じるのか?」と問うていることになります。
まったく、人生って本当に性格が悪いですね。私が嫌な思いをしていることがわからないのでしょうか。それともその嫌な経験こそが、哲学的深淵なのでしょうか。
私はその性格上、刺激を欲しがっているのです。SNSをやるのは、誰かから刺激をもらえないかというちょっとした期待に基づいています。
でも「いいねの応酬」はしっぺ返し戦略的、機械的なものになります。私が誰かにいいねすれば、その分のいいねが返ってくるというわけです。
そんなくだらない刺激のために黒歴史を残すなんていうのは、一体どういうことなんでしょうか。
SNSの繋がりなんて、所詮は浅い繋がりです。オンラインだと、相手がリアルに存在するものだと忘れてしまう人もいるようなのです。
やはり一期一会というのは、実際にオフラインで対面で会話したことのある相手の存在に対する「出会い」に感謝するような言葉であり、私をおもちゃにしようとしているネットトロールとの出会いというのは、そこまで感謝できるようなことではないと思うのです。
インターネットで発言すれば、好感を持たれたり、恨まれたり、見下されたりします。しかもその発言が、本来の私の精神状態ではないことだってあります。
「私」というものを、他人に誤解されることの恐怖が、SNSにはあります。もはや他人の目を気にして怯える場所です。
だから私は、発言する時は匿名性を重視するのです。箴言にも、愚か者が言葉数を増やしてしまうことに対する戒めがあるので、実名で語るシーンでは黙っておいた方が賢く見えるのです。
「話すは離す」という言葉もあります。結局、ネットであれカウンセリングであれ、悩みをぶちまけられる場所があれば、精神のデトックスになります。
そうやってぶちまけた内容というのは、恥ずかしい内容なので、やはり実名と紐づいてしまうと「目」の恐怖を感じます。
まあ、浅い繋がりの人たちに「見下すな」と言うのが、そもそも無理なのかもしれません。字下げ増田を「高学歴の愚者」などといって嘲笑う人たちがいますが、彼らは人の心を尊重することを軽視し、おもちゃにしています。
確かに、愚者は他人から見下されるような行動をしてしまいます。しかし、それが人間の弱さであり、弱さをお互いに認め合えるようになれば、「お前は愚かだ」などとインテリぶらずに優しい関係になれるのではないでしょうか。
昨晩はわざと良き睡眠時間を確保しまくりまくりまくりすてぃーのために
お風呂入ってからちょっとテレビ見てほんと1時間も無いぐらいで帰ってからすぐに試しに寝てみたら
快調快調!
寝て起きたときの、
まあ人にもよるかも知れないけど、
やっぱりとしてやっぱりなことはやっぱりそう思ったのよ!
何がやっぱりかと思うとやっぱり夜寝る前にご飯食べたりお酒飲んだりするのはよくなきかな!ってこと。
つーか
よく寝られてるかの度合いの判定とは違うのかも知れないけれど夢見んのよね。
それもそれでインスピレーション夢発見あるから面白い夢見れたらラッキー程度のラッキーを感じつつ、
睡眠はたぶんせっかくサプリとか飲んでもそれを夜回復させる時間に費やすためのある程度の睡眠の質と時間が必要なのかもしれないわ。
それはそれでいい具合なのかも。
点数評価するよりも
何となくの睡眠の時間と質をグラフで見るほうが私はいいかもしれないのよね。
なんでかというと、
良く寝たー!って思っても睡眠点数が60点!とかあるときはなんで?って思うし、
差があるので、
それでモヤモヤするよりかは
単純に睡眠の質と時間をグラフにした方が納得感がある納豆食う朝定食でもあるのよ。
私がだから思うに
つまりあんまり焼き魚の朝定食は気合い入って朝から干し魚の開きの焼きの定食はないので
地元のインディーズ飲食店どこがやってるかよく分からないけど謎に美味しい時のそう言うパーキングエリアのご飯にあえたら嬉しいじゃない。
パーキングエリアとかサービスエリアとかで予想付かない定食あったら飛びついちゃうもん。
たぶん私的にはサービスエリアやパーキングエリアで食べる牛丼は違うって思うのよね。
だから地元のなにか企業とかが運営している地元のお母さんがご飯をよそっている感じの
サービスエリアやパーキングエリアの定食って思いがけない出会いがあって
本当に一期一会を一碗を大切にしたいって言わんこっちゃないのよね。
そのぐらい旅の充実度は変わってくるから、
それとほぼ同時な思いで私も睡眠も質を良くしていきたいキャンペーンに辿り着いたってわけのここ2日間の出来事だったの。
頭もスッキリして
良いアイデア浮かびそうよ!
増田も筆が進みそうってなもんよ!
打ち込むのはキーボードだけどね!
あんまりよくメカニズムは解明して知らないよく分からないんだけど、
朝起きたときのだるーって感じがないのよね。
それだけでも凄くない?って
驚き屋も驚きの白さ!ってあの洗濯洗剤で驚く感じのスッキリした感じが、
やっぱり強調して言いたいポイントでもあり要点でもあり重要な点でもあるのよ。
なるほどねー、
睡眠はナイヤガラにないがしろにしてはいけないわってことを滝に免じて思うのよ。
なるー!ってここで言わなかったのは
秋以降はなるー!って言うのはなるべく使わないように!って言うのが
なるほどの原点なの。
ちょっと良いと思って実感するこの睡眠体験を継続して続けてみたいと思うことをここに記し記し記しまくりまくりすてぃーなことを思う山脈に向かってヤッホー!って叫んでおきたいのよね。
案外さー
それを吸収して身体に還元する効果を現すためにはそれそこで睡眠なんじゃないの?とも思ったりしたわ。
でもさ、
なんとしても遊びたいと思いつつ寝たいとも思いつつジレンマに駆られる事態でもあるわ。
天秤に掛けたときちょうどいいところで釣りあるような重さを量る天秤があったらいいな!
うふふ。
食べたい!って思ったもん勝ちじゃない?
チリチキンに茹で玉子がバッチリ決まって美味しいに決まってるじゃない!
ボリュームがあって食べ応えあるのも
お湯沸かしてふーふーして飲んで身体を温めて活動オンにしないと!
快調せっかく寝たのにって思うし元気いっぱいのスターティングレッツスタート!ってなもんよ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
登山家に何故山に登るんですか?って問うと
そこに山があるからです!って答え。
なぜ日替わり定食を食べるのですか?って問われたら
馬に乗ってる人が、
私にもその釣り竿でぶら下げられた日替わり定食が目の前にあるの。
そんな感じ。
今日はたまに想像を圧倒的に超えてくる絶品の日替わり定食に出逢えたお話をするわね。
その日はちょうど雨の日だったわ。
毎月の月替わり今月の献立表を見て、
美味しそうだなって目星を付けた日付の日替わり定食を目指して飛び込み前転して入店するんだけど、
いつも食べ慣れたものでは無いという意味で何も期待せずに目新しいメニューと言うこともありその日の「タンシチュー定食」にチャレンジしてみたの。
特に何も期待せずにお腹だけ満たされたらいいかなと思っていて、
今思ったら、
そんな私が間違っていたことを正直謝りたい。
ここの定食屋さんはたまに私たちの想像をゆうに超えてくる日替わり定食を提供するときがあって、
出会った「ブリ大根定食」が大きなブリの2切れに充分それだけでも食べ応えがあるのに
いままで知ったつもりでブリ大根のことを全て理解したつもりだと思っていたけれど、
その「ブリ大根定食」は私の知っているものとは違うはるか予想を上回るブリ大根だったの!
コストをもねじ伏せて提供するそのボリュームに私は心に誓ったの!
またの名を
日替わり定食冒険家と書いていった回もあったかも知れないけれど
総じて日替わり定食を追求する人には変わりがないわ。
同じ店に通っていたけれど、
もちろん平均的に美味しい日替わり定食なのには変わりはないのだけれど
圧倒的な日替わり定食な時があるの!
それが今回!
美味しいと言うことももちろんあるけれど
ニッコリと笑顔にあふれてそれを抑えることができないの。
私は終始ニコニコしながらその「タンシチュー定食」をいただいて
きっと東洋の人が初めてタンシチュー定食を見たときになんと表現して良いか分からず表現する言葉がなかったときに
やむなく酒池肉林と言ったこの史実に基づいていて生まれた言葉だと言うことに諸説はないのよ!
そのぐらい!
思わずニッコリとってさっきも書いたけど
ニッコリしたことは何度でも書いて良いぐらいとてもそれは美味しかったわ。
あっと言う間に瞬きもする瞬間も無く平らげてしまったわ。
ごちそうさま!
このタンシチューめちゃくちゃ美味しいわ!って告げてお店を後にしたの。
本当に反芻することはできないけれど、
もうこの「タンシチュー定食」の思い出だけあれば充分!って言っちゃいそうなぐらい
でもまだまだいろいろな日替わり定食に出逢いたいけれど、
この日出逢った「タンシチュー定食」は私の心に深くその美味しさを刻むことになったの。
もう二度とこの「タンシチュー定食」には出逢うことが出来ないかも知れない。
私は本当に今まで日替わり定食探検家をやってきてよかったな!って思う瞬間でもあったわ。
私の想像を圧倒的に圧倒的に圧倒的に!超えてくる日替わり定食があるから侮れないのよ。
しかも本格的な味とボリュームで攻めてくるこの日替わり定食の「タンシチュー定食」は650円と言う
もう社長安~い!って言っちゃいそうなほどの夢グループの保科有里さんをもはるかに圧倒的にしのぐようなコスパのよさ。
これが650円なのよ!
社長安~い!
高くて美味しいものはたくさんあるかもしれないけれど、
日替わり定食という縛り飯のこの圧倒的な美味しさ!
今日改めて美味しいものを食べたら本当の笑顔になっちゃうってことに気付かされてくれたわ。
よくお店の壁に有名人のサインが飾ってある飲食店ってあるじゃない、
その日の日替わり定食のメニューを書いた色紙を壁一面にお客さんが書いて貼ってあったら
それこそ本当にその店は美味しい店なのよ!
私も思わず今日の思い出として色紙に「タンシチュー定食」って書いたもの。
タンシチュー定食記念日にしてもいいぐらいなそれなんて俵万智さん?って言っちゃいそうはほどのベタな記念日にしたいぐらい。
シンプルに今日の日替わり定食のタンシチュー定食がめちゃくちゃ美味しくてハッピーなのよ山脈に向かったヤッホー!って叫んじゃう。
うふふ。
久しぶりの朝おにぎりなんだけど、
お腹が具合がイマイチだったので調子悪いというわけではないけれど
食欲が不足しているのよ。
きっと多分そうよ!
鮭なベイビー!つーってね!
なのでレモンフレーバーポッカレモン果汁インでもしようかなと思ったけれど、
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ファイナルファンタジーXIVというゲームがある。
いわゆるオンラインゲームだ。インターネットを通じて、世界中のプレイヤー達と一緒に冒険を楽しむことができる。
ファンの多い「ファイナルファンタジー」のシリーズ作、ということもあって、プレイヤー数は現在、2700万人もいるらしい。
昨年、私は一児の母となった。
初めての妊娠、出産、育児と、怒涛の日々を駆け抜ける中、このff14がいつも自分の側にいてくれた。
母親なのにゲームなんてして、と、眉をひそめる人も少なくないだろう。
けれど、自分がいま穏やかに楽しく娘と過ごせているのは、ff14の恩恵がとても大きい。
14で出会ったフレンド達、サービス運営チーム、そして吉Pへの感謝を綴りたく、
とある一人の「光のお母さん」の話を、ここに残させてほしい。
私はコロナ禍の最中、職場の同僚に誘われて始めた。プレイ歴としては3年ほどになる。
3年の間にいろいろな出会いがあり、いまは20人ほどいるギルド(ゲーム内コミュニティのこと)を拠点に遊んでいる。
自分が妊娠していることを初めて報告した相手は、夫でも親でも友達でもなく、このギルドメンバーのひとりだ。
その方は4児のママで、大変そうながらも(実際絶対大変……!)育児もゲームもとても楽しんでおり、
「素敵なお母さんだなあ」と、ずっと思っていた。
自分にとって、妊娠したことはあまりに予想外で、当時、妊娠出産の知識はほぼゼロ。
お恥ずかしい話なのだが、いつ病院に行ったらいいのかすらもわからなかった。
陽性をくっきり示す検査薬を前にして、途方に暮れた時にふと浮かんだのが、そのフレンドの顔(アバターだけど)だった。
「妊娠しているかもしれないんだけど、どうしたらいい……?」と恐る恐るメッセージを送ると、
いつ頃病院に行くのがベストかとか、体調は大丈夫かとか、右も左もわからずオロオロしている自分に、とても優しく寄り添ってくれた。
ff14は10年以上サービス運営されているのもあり、ママパパユーザーが結構多い。
その後しばらくして、自分が妊娠していることをフレンド達に打ち明けると(体調が悪いと不在がちになっていたので、大きな病気なのではと心配されていた)
「実は自分もパパ(ママ)だよ〜」という人が続々と現れ、あっという間に、周囲は強力な先輩だらけになった。
妊娠初期は、万が一のことがある。
だから、不安で不安で仕方ないにも関わらず、なかなか身内には話しづらい。
そんな中「オンラインのみでのつながり」という絶妙な距離感の友人達は、こうしたセンシティブな内容も話しやすく(聞いてくれてありがとう)
かつ、どこよりも頼れるコミュニティだった。
毎月の妊婦健診、つわりのしんどさ、急遽決まった帝王切開……続々と押し寄せる不安の種を一緒に受け止めてもらい、
人生初めての経験を、落ち着いて乗り越えることができた。本当にありがとう。
(本筋とズレるので多くを語るつもりはないが、自分のこどもってほんとーーーーーーーにかわいい!!!)
新生児期は、3時間に一度の授乳や、多いときは1日10回以上のオムツ替えなど、文字通り「まったく休めない生活」が続く。
配偶者が3ヶ月育休を取得してくれたので、交代交代で睡眠を取ることはできたが、それでも、1日4時間程度寝られればいい方。
何もかもが初めてで手探りで、やっていることが正解なのか間違っているのかわからないし、娘が泣いている理由もちっともわからない。
産育休中の親は、こうして家を中心に過ごすことが多いため、社会とのつながりを失いやすく、孤独になりがちだ。
その結果、産後うつといった重篤な問題を抱えてしまうことも多い。
だから、「自分の時間も大切です。たまには周りを頼って休んだり、気分転換をしましょう」と、
役所でも産院でも、リフレッシュすることや、社会的なつながりを持つことを助言される。
が、しかし、身も心もへとへとな新生児親にとって、そういった外出は非常にハードルが高い。
布団に入ったまま人と会うわけにもいかないし。
でも、ぼさぼさの髪の毛、どすっぴん、くたくたのパジャマでも、オンラインゲームなら誰にもバレない。
我が子が寝ている間にログインし、景色のいいところをぼーっと眺めたり、
フレンドとチャットでなんでもない会話をする時間は、とても心が癒やされた。
「あ、娘っち泣いた!行ってくる!」
「がんばって〜〜!」
この一息ついた時間の後は、自分に無敵バフがついて、「夜泣きでもゲロでも何でも来い!」という気持ちになれたものだ。
(実際はぜーんぜん寝てくれなくて、また涙目になってしまうのだけれど)
1歳になったいまも、日中は娘につきっきりのことが多く、なかなか友達とリアルで会うことは難しい。
娘が寝た後ログインして、「今日も育児おつかれ〜〜」と、互いを労いながら飲む酒は、とてもうまい。(※私はすでに卒乳している)
我が子は、本人の特性か、新生児期から行ったネントレの効果なのか、生後3ヵ月から夜通し寝るようになった。
私も未だに信じられないのだが、1歳になった現在も、夜の19時から朝の6時半までぶっ通しで寝る。
この娘の安定した睡眠のおかげで、親側の生活も人間らしいものに戻っていき、私も新生児期よりは、自分の時間を持てるようになった。
あれ、思った以上にゲームできる……?と、気づいた瞬間、どうしてもやりたいことが浮かんでしまった。
「やっぱ、煉獄零式踏破したいなあ……」
ff14は様々なコンテンツが用意されているが、その中でも人気が高いのは「高難易度レイド(=零式)」だ。
これは平たく言うと「攻略するのがめっちゃ難しいボス」で、8人で協力して倒すことが求められる。
この8人は身内の仲間を集めてもいいし、野良(まったく知らない人と一期一会でパーティを組む)で挑むこともできる。
「零式」が始まる時期は、もうお祭り騒ぎだ。ものすごい数のプレイヤーがクリア目指して一気にひた走る。すごく楽しい
この「零式」、ベテランプレイヤーであれば1〜2週間程度でクリアできるが、私はプレイスキルが高くないので、2〜3ヵ月程度かかってしまう。
でも、毎日コツコツと練習し、試行錯誤しながら攻略していくので、クリアしたときの喜びはひとしおだ。
2022年8月、「パンデモニウム零式煉獄篇」という高難易度レイドが提供された。
当時は妊娠8ヶ月あたりで「どこまでやれるかわからないけど、やってみるか〜」という気持ちで参戦し、
7割くらいまで攻略(4層前半時間切れ)したところで臨月に入り、さすがにお腹が重くなりすぎて、途中断念した。
「零式」を遊ぶときは、短くて30分、長いと2時間程度拘束される。
こどもの夜泣き等で途中離脱をすると、一緒にプレイする残り7人に非常に迷惑をかけてしまうので、
産後ff14に復帰しても、この「零式」だけには手を付けなかった。
ただ、あとちょっとでクリアだったのになあ…という心残りは大きく、
続々と届く「クリアしたよ〜〜!」という友達の報告を嬉しく思いつつも、ちょっとだけ歯がゆい気持ちにもなっていたのだ。
娘の睡眠が安定し始めて2ヵ月ほど経った頃、お世話にも慣れてきたので、夫と交代でワンオペをし、
それぞれの一人時間を時々設ける取り組みを始めた。
麻雀を終えて帰ってくる夫の笑顔と、その後の育児への頑張りを見ると、やっぱり人間にとって好きなことって大事だよな〜〜と実感させられた。
この取り組みが思いのほかうまく回ったので「もしかして零式やれるのでは…」という気持ちは、さらに大きく膨らんでしまった。
そして再び、あの育児もゲームも楽しむ4児ママフレンドの顔(アバターだけど)が浮かんだのだ。
(絶対大変なんだけど)毎日を楽しむ彼女の存在に、妊娠中の自分がどれだけ勇気づけられたかを。
そこでベビーモニターを傍らに置き、もし夜泣きがあったときは夫に見てもらうという了承を取り、
フレンドたちに「やっぱりクリアしたいから、一緒に来てほしい」と頼み、再び零式に足を踏み入れることにした。
バトルコンテンツは本当に本当にご無沙汰だったので、最初は全く指がおぼつかなかった。
ゲーム特有の反射での判断も、随分と鈍っていて、リハビリに随分と時間がかかったが、
フレンドたちが根気強く(本当に根気強かった、本当にありがとう)付き合ってくれて、無事クリアすることができた。
クリアした瞬間は、本当に本当に嬉しくて、いい年してポロポロ泣いてしまった。
ゲーム攻略のいいところは、努力した結果がその通りに実るところだ。
試行錯誤を繰り返し、なぜクリアできないかを振り返り、見つけた課題をひとつひとつこなしていく。
どんなに頑張ってもうまくいかないこともあるし、すんなりと乗り越えてしまうこともある。
それは、非常に面白いことでもあるのだが、「自分はうまくやれている」を実感することはほぼ皆無だ。
常に「私はいい親になれているだろうか?我が子によい環境を提供できているだろうか?」という、答えのない問いと向き合わされ続ける。
そうした日々の中で、私は「自分はやればできる」という気持ちを、完全に失いかけていた。
大げさなのかもしれない。
でも、育児という正解のない道を、自信を持って歩んでいくことは、本当に本当に難しい。
誰もが悩みながら、自分のこどもと向き合っていると思う。
突然話は変わるが、ミシェル・オバマが2022年に上梓した「心に光を」という本の中で、ミシェルが、
「途方もなく大きな壁を感じ、不安になってしまったときは、小さな達成感を得て、自分自身を取り戻すことが大事」と語っていた。
ミシェル自身、コロナやトランプ大統領の登場によって、絶望のさなかにいたという。その時、ミシェルを救ったのは「編み物」だったらしい。
私にとっての「編み物」は、「零式」だったのだと思う。
いや、お前何いってんだよ、って感じだと思う。(私もそう思うよ)
でもいま、育休を終えて復職をし、育児と仕事の両立には悩むことしかないが
「でも私、零式が頑張れたのだから、たぶんきっと大丈夫」と、謎の自信を携えて、日々を過ごしている。
顔も名前も知らないけど世界でいちばん心強い仲間、どんなボロボロな自分でも迎えてくれる場所、自分に自信を取り戻させてくれるコンテンツ。
ff14は、産前産後の自分のメンタルを守ってくれた偉大な存在だ。
これからも一プレイヤーとして、この世界を楽しんでいきたいと思う。
※追記1 煉獄のあと、「やっぱいけるのでは」という気持ちが更に高まり、性懲りもなく天獄も参戦し、パッチ内に踏破。そしていまは絶アレキ固定をやっている。娘は相変わらずよく寝てくれている。感謝。
※追記2 娘のネントレは魔法の時間割というの本をそのまま踏襲した。ちなみに自分は不快性射乳反射(D-MER)に悩まされ、生後2ヶ月で完ミ移行している。(断乳前後は精神的にだいぶやられた)娘はよく寝てるからか、機嫌もいいし、保育園からの呼び出しも少ない(有給余った)。ネントレは賛否両論あるけど自分はおすすめするよ。