はてなキーワード: ミクロとは
前半では美術を知的にとらえようとした。後半は生物学がテーマ。
平安文学のマイブームが続き、続いて神林長平とヴォネガットを読み始める。
英国の貴族や執事、メイドがテーマ。なぜか田中啓文も読みだす。疲れたので脱力系を。
シオドア・スタージョン「一角獣・多角獣」
奇妙な味シリーズがしばらく続く。たまに古いSFが読みたくなる。
ブラウン神父シリーズは途中で飽きる。「聊斎志異」を読みだす。
冊数が少ないのは、中島敦全集がぶ厚いからだ。ページ数では一冊で実質三冊ほど読んでいる勘定だ。
ひたすら中国の古典を読む。物語としては読みやすいが、脚注について調べていると意外と時間がとられる。
アーネスト・サトウを除いて中国文学が続く。明治維新が一日単位で記録されていると見落としていた事実が多いとわかるし、刻一刻と情勢が変わっていったのも感じられる。。
やっと森薫を読み始める。ハルタコミックス(旧fellows!)ばっかり。
コロナで回数は少なめ。
「パディントン」
「イェスタディ」
「JUNK HEAD」★★
生物学、脳科学、歴史、SF、海外文学が多い傾向は昨年から変わっていない。
この増田がいくつなのか知らないが、相当恥ずかしいことを書いてるので、謝罪するか追記するべきだと思う。(増田の名誉のために)まるで世間を知らない甘ちゃんの学生みたいだ、ママとパパに甘えっぱなしの。1社会人としての意見というにはあまりに見識が狭く、幼く、疎く、幼稚だ。
まるでガキ。ひたすら受け身で甘ったれで、自分のことしか考えておらず、利己的でわがままで責任感がなく、社会の全容が見えていない。
ここで言われる「男」というのが増田のことではないのは明らかだろう。しかし事実である。これが女性の人生に常に降りかかってきたことは事実。
占拠された国で日本軍がレイプをして圧政をし差別をし続けてきたことも、外国人技能実習制度の非人道的な悪行の数々も、
過去のどこかの「男」が実際に行ってきた罪の弾劾であり、少数の「男」が今も行い続け、「日本人」がしてきたことなのだ。何をどう言おうとも。
大きな流れというマクロの話に対して、俺の実感とかいうミクロの話をする元増田は小学生のように馬鹿馬鹿しいことを言っているのだが、
それは「男(俺と俺の知る限りの範囲)」はそんなに「女」を虐げてない。女によって良い思いをしていない。俺はそんな実感を社会で感じたことがないよ。知らない。
というだけの話でここまで言っているのだ。
単に知らなく無学で学んだことがないだけなのに、浅学のくせに下駄を履いて仕事を任されてきた「自信」があるんだろう、俺は世相を分かっているという根拠なき自信が。そのような盲目の徒に、事実をお伝えしてるだけ、かなり好意的に言えば1つの違う見方を提供してるだけの番組に過ぎない。
しかし彼はおそらく、「男」「日本」と完全に同化している。彼は人生で一度も、社会学と議論の仕方を学んだことがない、小学生のままで社会に出てしまった残念な男なのであった。
君がいくら「日本人はそんな「やり方」じゃ説得されないし、もっと「上手く分かってもらえる」言い方をした方がいい、日本人にわかってほしいならもっとやり方を考えた方がいい」などと南京大虐殺の被害者遺族に訴えても、彼らは単に事実を述べてるに過ぎないのである。
ほんそれ。「ここでは稼げないから出て都会に出ろ、帰ってくるな」って教育してるんだぜ。
そんな教育が最も激しかったのは、高度経済成長期に親をやっていた世代。で、その団塊世代のちょっと上が今過疎地の最もボリュームのある世代になってる。そりゃ衰退するだろjk。
歴史的経緯はあるから、仕方が無いんだけども。なんとかせんとまずい。
その世代は戦前・戦中派を親に持つ。その世代までは、実家は兄弟のうち誰かに集中的に相続させる。
一方、そうでは無い兄弟には外に出す代わりに、教育を施すという習慣が残っていた。
当時は、実家を継ぐ長兄は高卒だが、次男以下は大卒という様なことも普通にあった。家は継がせてやれんが、その分大学にはいれてやる、と言う思想。
そうして教育を受けた兄弟達が、都市部に労働力として送り出された。文化的には丁稚奉公の時代からの流れではある。
それは、江戸時代から続く、地方で生み出される富を都市に集中させて国全体の発達を促す、という流れだ。このとき、地方から都市に出てきた者たちは、平均寿命から見ても決してよい生活ができていたとは言えない。そもそも、小作以下は、貧しい世代が喰わせる事ができず、外に出していたと言うところもある。
その頃は、地元の実家を継いだ者が一族の要になって、外で安い賃金で働く兄弟の後ろ盾になっていたわけだが、戦後からそれが変わってくる。
戦後、高度経済成長期。国全体は生産性を上げ、どんどん工業的に豊になっていくが、物価上昇も激しく、従来は土地という確実に富を生み出す資産の価値が急速に衰えていく。
そこで、低学歴の農山漁村民は収入が増えず衰退していった。一方、都市にいった兄弟はしっかり収入を得て故郷に錦の旗を飾りに来るという構造になったわけだ。
さらに、地方それらの世代は思春期は日活時代全盛期、加山雄三が出てきて、おら東京さいいぐだ、で吉幾三(よし、いくぞう)がヒットした世代。
そりゃ、そういった世代はその子供世代に「都会に出ろ」と言うよな、と言う感じはする。
そして、そうして送り出された世代のさらにその子供が子育てをしているのが今。子供は親世代がやっていることならおかしいかどうかを考える事ができるが、同じ事が二代続くともうそれが当たり前になってしまう。
それが続いた結果、誰も地元に戻ることがなく、衰退しているのが現状。
自営業の若旦那とかもそれなりにいるんだけど、彼らは都会に出ろと言われたけど、それには必ず、都会で修行して、いつかは帰ってきて家業をつぐんだぞ、と言われていて、それが当たり前だと思っていた、と言うから、裏返しだよなあ。
どうすりゃいいんだろうなあ。決定打は無い。
とりあえず「ここは駄目だから都会に行け」というのも「お前は必ずここに帰ってくるのだ」というのも同等程度に呪いだと思う。
まずはそこはやめようと言う話は、総論としては同意ができるとは思うんだけど、典型的なミクロとマクロが相反している問題なので難しい。
今やってるのは、関係人口作りという安易な方面。せっせと公園を整備して、遊びに来てくれたよその人と話をして大事にする。
けど、関係人口なんてのは国が人口衰退の中でなんとか体裁を整えるためにぶち上げた幻想で、こんな緩いもので過疎地が救えるのかよと思っている。
今は、放置集落をまるごと借り上げができないか、地権者をまわって話をしてる。買取はしない。あくまでも借り上げ。そして、趣旨を話して、ほとんどタダ同然で貸してもらう。
そうして、集落まるごと基本的には何をやっても良い会員制の遊び場を作ろうとしてる。イメージとしてはかつてのダッシュ村と、プレイパークを足したような存在にしたい。
同時に、土地を借り上げた地権者の方々には、今どのように使われているかをちゃんと手紙で知らせることで、我が郷里を忘れないでいてもらおうとしてる。
これはもうやってるけど、暖かい手紙をもらったりして家宝にしてる。
放置集落が長かったので、そこにあった放置果樹園で飯が食える事を学んじゃったんだよな。それで群れが居着いている。
ほんと、なんで猿ってぶっころがしちゃいけないの????(過激派
どう考えても相手方の家の言う方が正しいし、ポリコレ的にもそっちが正しいな
増田側の言うことは卑屈と独善の押し付けだよ、その発想を自発的に持っている分には構わないが他人に刷り込もうとするのは倫理的にNG
自分としては正しいこと言ってるつもりだろうし社会的経済的に恵まれた家庭になれる可能性がないのが仮に事実だとしても、他人の幸せや人生について口出しする権利は誰にもないんだよ
これは貧困国の貧困家庭がどんどんくっついて貧困の再生産をしているのを論じる観点でも同じ
その状況を嘆くことはできても干渉できる立場にある人はいないんだよ、国家とかの人間を超えたレベルの権力であれば別だけど
そういう道義を無視して良かれと個人的な干渉をしたとして、トータルとして社会が良くなる保証は何もないし、それはそれで別の歪みを生むだけ
むしろそうした自由の抑圧が許容されうる歪みの方が社会的には深刻で、エスカレーションする危険性が高いと思うけどな
そして人間はトータルとしての社会のために生きているわけじゃなく、自分のまわりのミクロな社会のために生きているんだよ
その点は貧者も富者も愚者も智者も変わりないし、そうすることが幸福に繋がることはあらゆる本で語られている
慈善家のビル・ゲイツですらその点において異論を挟むことはないだろう
まあより重い障害を持った家系側の方がそういう複雑な観念を理性的に飲み込むのは難しいであろうことは察する部分がなくもないが
血は混ざって薄まっていくことで大局的には健常寄りになりやすくなるものだから悲観しすぎずに備えていけると捉えて
自己決定を阻害しようとしたことについて素直に無礼を詫びるのを勧める
知らんけど
追記: 1日経ってスマートフォンで読み直してみたら非常に読みにくい文章(1文1文が長く、文脈を掴みにくい)になっていたため、可能ならPCで読んでもらえるとありがたいです。また、節もつけて多少読みやすくしました。文章自体は改めていません。簡単に趣旨を要約すると「騒音問題での近隣トラブルは戦争になることもあり、それは自分が直面する可能性もある(※騒音問題のトラブルが必ず戦争になるというわけではない)」です。
長野市の遊園地の問題で近隣トラブルになっていて、どうやらじいさんがクレーマーだとして叩かれているらしい。
自分は長野市の住民でもなんでもないが、昔の激怒していた自分を思い出して体中が震えだしてしまったのでここに吐露して発散していく。長野市の件については、その裏にある事情は知らないので、自分はそれが良いとも悪いとも見当もつかないが、外野が好き勝手に述べてじいさんを罵倒したり「クソ自治体」みたいな発言をしているのがとにかく気に食わないのでここで色々と述べていこうと思う。また、自分はじいさんの擁護者ではない。
まず子どもが集う施設というのは、NIMBY(我が家の裏には御免)というカテゴリに属する施設である。これは誰がなんと言おうが、子どもが集う施設というのはもうそういうものである。NIMBYとは、社会全体には利益を与えるが、その近隣住民には損害を与える施設のことだ。こういうものはたくさんある。基本的には「社会全体のためにお前が我慢しろ」という施設になっている。また、補償がないことも多い。子どもが集う施設に関する補償は特になにもない。「子どもの声」を「損害」扱いという部分で怒りを抑えられなくなる人もいるだろうが、いったんそういう考え方の人がいると思って飲み込んでほしい。「騒ぐ子どもの声量は大きい」と「大きい音に耐えられない人もいる」という2点については、誰しもそれぞれ同意できるはずであり、「世の中には、騒ぐ子どもの声量に耐えられない人もいて、そういう人は損害だと感じていそうだ」というふうに、客観的な視点で読み進めてほしい。実際そういう人は存在している。
話がややそれてしまったが、なぜ騒音問題に子どもがつくと大きなトラブルになるかというと、「子どものためにお前が我慢するべきだ」という強制が働くからだ。こういう考え方を「子どものことを考えろ主義」といい、詭弁の一種である。
子どもを抜きで考えた場合、騒音問題は「騒音に悩まされて可哀想に」という話から始まる。ここでは明らかに「騒音を我慢するべきだ!」というようなことは言えないだろう。しかしそこに子どもが入った途端、「子どものためだからね。めでたしめでたし」という概念で上書きされる。しかし、騒音問題自体はなくならない。「騒音問題の話はどこに消えた?」である。
子どもは当然守られるべき存在だが、「子どものことを考えろ主義」をその親が使ってくると非常に厄介である。簡単に例えよう。
あなたが限定品が欲しくて、あるお店でその限定品のために並んでいたとする。あなたは限定品を無事手に入れることができたが、その後ろに並んでいた親が急に「それはうちの子どもが手にするべきものだ」「お前が大人のくせに限定品を得ようとしたために、子どもはひどい目に遭う。子どもが可哀想だ。全部お前のせいだ」と強硬に主張してくる状態のようなものである。(あくまで例えであって、騒音問題と同等の主張であると言いたいわけではない)
別の例で例えると、ベビーカーで子どもを載せて電車に乗る行為は問題ないが、ベビーカーを振り回して席取りをしようとしている親だったり、「ベビーカーを持っているのでそこに座らせてもらっていいですか?」というように尋ね、断ると「子どもがいるんですけど……非常識ですね……」と言ってくるような、子どもを使って権利を主張してくる大人たちがいるということだ。彼ら彼女らは「我々は少子化に対抗する戦士であり、それに抵抗する存在は邪悪である」という信念を持っている。
こういう行動を起こす人々は「子持ちの人」というカテゴリで括られるべき存在ではない。彼らは容易に「子持ち全体に対する挑戦をされた」というように論理をすげ替えようとする。そして「子どもがいるのに酷い」「こうやって少子化が広がっていくんだ」という論理を使っていく。ミサンドリストがフェミニストと名乗るようなものである。普段は人を攻撃するが、都合が悪いと子供を盾にして自らを守り被害者になろうとするという、文字通り子どもを盾にするのである。彼らにとっては、子どもとは、自分に利益をもたらす便利なツール・グッズ・免罪符でしかない。
誤って解釈してほしくないが、子どもは大切なものである。「子どもを排除せよ」と言っているわけではない。容易に論理を捻じ曲げられるので注意しなければならない。小さい子どもに罪などは一切ない。子どもではなく、その親と戦っているのだ。
そして、実は「子どもの出す騒音」それ自体は、それほど大きな問題ではない。子どもの騒音は確かに問題であって長期間続けば耐えられなくなりノイローゼになりかねないという状態になり、たいへんきついものだ。ただし、事をより大きくするのはそれに対する適切な対応が全くなされないことにある。『「子どもが出している騒音」にクレームを出すクレーマー vs (可哀想な子ども+それを守る善良な大人たち)』という構図そのものが、騒音を出している側のロジックによる考え方であり、これがこの構造のまま大衆化されると、非常にテキトーな扱いになる。「子どもの騒音に端を発する問題」という形で、その周辺の問題も含めて、すべての問題の焦点が「子ども」になっていく。しかし、子どもが悪いわけではない。子どもが悪いわけではないというのは、何度でも言っておく。その親が悪いのだ。ここは間違えてほしくない。本当に簡単にすり替えてくるからだ。
実際の問題は、子どもの出す騒音について「なんら対策をしない」「対策をしようともしない」「それを指摘する側に問題があり『異常』だと周りに噂を流す」だったり、わざと嫌がらせをするだったりである。長野市で言えば多くの車の長時間のアイドリングや、盆栽の踏み荒らしなども発生していたらしい。こうなってくると、もはや子どもの騒音というのは問題ではなく、大人 vs 大人の、れっきとした権力闘争の構図であると思う。(※注意: 長野市の問題については自分は意見を持たず、どちらの側にも立たない。じーさん側に問題がないとは言っていないし、子どもが可哀想であるのはそのとおりだと思う)
子どもを盾にする人側のロジックでは、「キチガイがまた『大したことでもないこと』でクレームを入れてきた」という観念を抱えているため、対話は不可能である。そもそも最初は当然対話をしようとしている。(また、クレーマー側でも意味不明なクレームを入れている場合も多くあるはずであり、自分は常にクレーマーを擁護したいわけでもない)
「子どもを育ててるだけなのに、クレームを入れてきて迷惑だ」vs「ふつうに暮らしているだけなのに、騒音を解決しようともせず、当然のように我慢を強いてきて迷惑だ」という状態になってしまうと大変面倒なことになる。どちらも正義だと思っている。これは戦争である。
これについて、刑事でも民事でも事件化はできず、自治体も警察も非常に難しい対応を迫られる。「対応」とはいうが、実質何もできないのである。ただ「犯罪がないかどうか」「合法かどうか」しか見れないのだ。よって、合法下での自力救済しかない。法はあなたを守ってくれはしない。誰もあなたを守ってくれはしない。あなた自身の力か、金の力しかない。日本では、騒音問題は「それは運が悪かったですね。我慢してください。それが法ですから」ということになっている。社会とはそういうものだ。
「そんなところを選んだお前が悪い」「引っ越せ」という、思慮に欠けた意見も散見される。当然そういう場合もあるだろう。ただし、こういうのは事前にわかるものではないし、引っ越すには尋常ではないお金がかかる。持ち家であれば尚更で、下手すると数千万円単位で金が変わってくる。つまり、人生の中でもかなりの上位に上がってくる最強最悪のトラブルである。嫌いなやつのためだけに数千万円は普通は払えない。数千万円は言い過ぎかもしれないが、ただ引っ越すだけでも、引っ越しというものは50万円だったり100万円かかるものだ。月に2万ずつ貯めていたとしよう。4年の努力を捧げることになる。嫌いなやつのために。普通は我慢ならないだろう。
そして、トラブルが悪化すると、人生で最も嫌いな存在が自分のすぐ近くに住んでいるという状態になる。「考えないようにする」ということができなくなる。騒音で存在をすぐに思い出し、精神が持っていかれる。「殺す」か「殺さない」か、そういう考え方が頭にのぼってくる。これはジョークや笑い事ではない。精神が奥深くまでやられる。絶えず戦闘モードになる。戦時下という気持ちだ。あとはもうやるかやられるかだ。どちらも異常になる。人はいとも簡単に狂う。自分だけではない。相手が『「自分が死んでくれればいい」と思っている』と思うようになる。
「死ね!!!!」と絶えず言い合っているのに離れられない関係というのは、歪んだ親子か、近隣住民以外には人生においてそれほどない。会社なら簡単ではなくても辞められる。家は簡単には辞められないのだ。
もし少子化対策のためというならば、社会全体でなんとかしなければいけない。「ミクロな個人単位の我慢で解決すべき」という結論は誤っている。それは子育てする側からみてもそうであると思う。ここでは、「子育て側の方が悪」のように見えてしまう論理展開をしているが、子育てしている親は窮屈な思いを抱えているはずであり、れっきとした社会問題であると捉えるべきだと思う。しかし、現実的には、社会はそう簡単に変われるものではないため、個々で見れば自衛するしかない。
「近隣トラブルが戦争」というのが理解できない人や、「結局子育てする側が我慢しろってこと?」という理解になってしまう人は、せめて平和に家で暮らすことができているという幸運を噛みしめるべきであり、自分の子どもの周りでそういった話を聞かないという場合は、人知れずして我慢している人がいるのかもしれないことを知っておくべきだと思う。「静寂」「平和」は贅沢品である。いい人は、同じ目にあっても「まあ子どもだからしょうがないですよ」「いやいや!子どもは騒ぐのが仕事ですよ」と言えるのだろう。それはたいへん立派なことだと思う。ただしそれは余裕があっての論理や、他人事であるからそう言えるだけであることを忘れてはいけないし、強制できるものではない。全員が聖人君子になれるわけではない。
これはアンモラルがどうのとかそういう話ではない。あなたもそうなればわかるかもしれない。
ただ、そうなってから気付いても遅いのだ。「そんなところを選んだお前が悪い」のだから。
そして残念ながら、今の社会に解決できるほどの余力はない。ただ「そんなところを選んだお前が悪い」のだ。
でももしそうなったとしたら、自分もあなたと同じように苦しんだことを覚えておいてほしい。身の周りの誰もがあなたを理解してくれなかったとしても、世界にはそういうことをわかってくれる人はたくさんいることを覚えておいてほしい。それだけで心の荒みはやや緩和されるだろう。
ただこの話は、伝えたい人には伝わらない話でもあると思う。この話を見て「自分や自分の子どもが他人にそんな思いをさせてるかもしれない……大丈夫かな」とすぐに心を痛めた人に心を痛めてほしいわけではない。そういう人たちには、ただ「子育てを頑張ってください」とだけ伝えたい。この話は「はあ?身勝手。黙ってろ。うるせえな」と、気にもとめない「子盾の親」たちに伝えたい話である。伝わらないだろうけど。
つまり、運が悪ければ、そういう人と戦争することになる、ということだ。そしてそういう人たちもまた、「我々」と戦争することになる。
男はなかなか鬱病診断されない、その点女は楽、でバズった人
生活保護が恥ずかしくない?何いってんの?人間の最下層クズだろ何で平気な顔して陽のもと歩いてんの?— ミクロス (@micross_) June 2, 2012
生活保護法滅べば良い国になるだろ— ミクロス (@micross_) September 18, 2011
生活保護受給者が真っ当に働いてる人間様と同じ生活が出来ると思ってる事が勘違いも甚だしいわ。憲法第9条よりも25条を撤廃すべきだわ— ミクロス (@micross_) December 15, 2013
初めから生活保護はなくなればいいと思ってるし、貰ってるやつはカスだと思ってるし、生存権もなくなれば良いと思ってますよ?— ミクロス (@micross_) May 25, 2012
そしてこちらが、三鷹ストーカー殺人事件と朝霞少女監禁事件についてのコメント
「女子高生刺殺事件の被害者、ネットに全裸おまんこくぱぁ自画撮りを上げる変態だった」って見出しがないのはおかしい— ミクロス (@micross_) October 10, 2013
確実に言える事だけど、JCと2年間生活していたって言う事実だけで一生オナネタには困らないし、これから生きていてもこれ以上の幸せは無いから自殺して人生に幕を閉じても、素晴らしい人生を送れたと納得いく死に方が出来るよな。— ミクロス (@micross_) March 29, 2016
女生徒監禁(家出)のニュースで犯罪心理学者が「犯人は社会に不満がある若者なんですね、自分を認めてもらえないその感情が、自分より弱いものを支配下に置くようになり監禁する」みたいなことドヤ顔で語ってて、なるほど無能だと思った。— ミクロス (@micross_) March 29, 2016
あとJS、JK、JC、女子高生あたりで検索すれば「JSとセックスしたい」「JSの愛液が〜」「JSの乳首見れた!」とかのツイートを無数にしててヤバ過ぎるんだが、特にヤバいのがこれ
避難勧告出るじゃん?小学校に避難するじゃん?具合の悪くなるJSが出てくるじゃん?俺看護師じゃん?診察するじゃん?勝利!!!!— ミクロス (@micross_) August 10, 2014
これが本当に看護師?
男はなかなか鬱病診断されない、その点女は楽、でバズった人
生活保護が恥ずかしくない?何いってんの?人間の最下層クズだろ何で平気な顔して陽のもと歩いてんの?— ミクロス (@micross_) June 2, 2012
生活保護法滅べば良い国になるだろ— ミクロス (@micross_) September 18, 2011
生活保護受給者が真っ当に働いてる人間様と同じ生活が出来ると思ってる事が勘違いも甚だしいわ。憲法第9条よりも25条を撤廃すべきだわ— ミクロス (@micross_) December 15, 2013
初めから生活保護はなくなればいいと思ってるし、貰ってるやつはカスだと思ってるし、生存権もなくなれば良いと思ってますよ?— ミクロス (@micross_) May 25, 2012
そしてこちらが、三鷹ストーカー殺人事件と朝霞少女監禁事件についてのコメント
「女子高生刺殺事件の被害者、ネットに全裸おまんこくぱぁ自画撮りを上げる変態だった」って見出しがないのはおかしい— ミクロス (@micross_) October 10, 2013
確実に言える事だけど、JCと2年間生活していたって言う事実だけで一生オナネタには困らないし、これから生きていてもこれ以上の幸せは無いから自殺して人生に幕を閉じても、素晴らしい人生を送れたと納得いく死に方が出来るよな。— ミクロス (@micross_) March 29, 2016
女生徒監禁(家出)のニュースで犯罪心理学者が「犯人は社会に不満がある若者なんですね、自分を認めてもらえないその感情が、自分より弱いものを支配下に置くようになり監禁する」みたいなことドヤ顔で語ってて、なるほど無能だと思った。— ミクロス (@micross_) March 29, 2016
あとJS、JK、JC、女子高生あたりで検索すれば「JSとセックスしたい」「JSの愛液が〜」「JSの乳首見れた!」とかのツイートを無数にしててヤバ過ぎるんだが、特にヤバいのがこれ
避難勧告出るじゃん?小学校に避難するじゃん?具合の悪くなるJSが出てくるじゃん?俺看護師じゃん?診察するじゃん?勝利!!!!— ミクロス (@micross_) August 10, 2014
これが本当に看護師?
博愛なんて言うけれど、いっぺんに地球全体なんて本当は愛せない、本当の意味で愛せるのは、家の前に咲いている花ひとつひとつ、隣にいる人ひとりひとり。ミクロな視点を持つことでしか愛は成り立ちえないということ。だから愛なんてある意味しょーもないのだ。同様に人の幸せなんてものもしょーもない。わたしはすずめの戸締りからそういうメッセージを受け取った。
なぜそうたに教員採用試験の設定があったか。そうたは神的存在ではなくあくまで人間で、人間の幸せとはそういう日常の機微だからだ。「死と隣り合わせである」ということなんて忘れてしまいそうな機微があってこそ、幸せがあって、だからこそ人間である。そうたは一方で人生は儚く、人間なんてしょーもないと分かっていたが、一方でそんなことは忘れてしまいそうな日常に生きているし、神様ではなくて人間でありたかった。
地震とは「人生は儚く、生と死は隣り合わせである」ということを忘れた人間に、死を思い出させるためのもの。わたしたちは本来もっと大きな存在に生かされているに過ぎないのに、人はすぐ自分の運命は自分が握っていると思い込む。多くの人はそうだけど、「生きるか死ぬかなんて運」という思想を持つすずめだからこそ、「大きな存在」と対話し扉を閉めることができた。
でもなぜそこにいた人々を想像して、声を聴くことで扉を閉めることができるのか?わたしは「大きな存在」もまた人を愛するからだと思う。「大きな存在」が人なんていうちっぽけな存在の話を聞いてくれるのは、「大きな存在」が愛というミクロな視点を持っているからだ。そうたが「今もう少しだけ時間をください」みたいなことを言いながら扉を閉めてたけど、そんなちっぽけな時間に「大きな存在」が目を向けてくれたのはそれに愛というミクロな視点があるからだと思う。そしてきっとしょーもないなとも思っているのだと思う。
そういうしょーもない愛や幸せ、「死と隣り合わせである」なんてことも忘れてしまうくらいのしょーもない日常を、僻んだりせず愛しいと思う愛もまたしょーもないけど、そういう愛の連鎖と交差が人の人生を満たしているものだと、きっとこの映画は伝えていた。「人生は儚く生と死は隣り合わせである」という思想を持つ二人が最後お互いに「(それでも)あなたと生きたい」と言えたのは、誰かから愛されているということと、誰かを愛するということは、しょーもなくともそれだけで人が生きる理由になるということだと思う。
そしてだいじんこと神もまた、愛というしょーもないミクロな視点を持っていたから、最後は「すずめのために」自ら石になった。「ありがとう」と一言言ってもらえたというしょーもない理由で。
愛も幸せも人生もしょーもないと分かっていながら、それでも幸せでありたいと願うことと、人を愛することで人生を満たして生きていく。人間にはそれしかできないけど、でもそれもまたきっと素晴らしいとそういうことを映画全体で言っているように思えた。
某バトロワFPSを数千時間PADでやって、そこからPC移行して初キーマウでvalorantに挑んだらめちゃくちゃ負けた。と言うかPADのエイムの質とマウスのエイムの質が遥かに違う事を初めて理解した。(超上位帯になればPADでもエイムに差が出るだろうが、せいぜい現ダイヤ,上位6,7%程度の世界なら、PAD使ってアシストに指合わせるだけで撃ち合いは大体勝てる)
まずマウスで小さな的に照準を合わせる事。果てしなく難しい。時に180度後ろの相手に撃たれ、そのまま振り返って撃ち返す事もある。またvalorantはほぼ頭一発なのでHSラインの維持が求められる。そして蘇生もほぼない。回復も微々たるもの。よってエイムがこのゲームでは最重要になる。
PADとはいえ一応数千時間やってたので、エイムが伸びにくいのは体感としてわかっている。だからこそ、少しでもエイムが良くなったら嬉しいものだ。ストッピングやフリック、マイクロフリック、切り返し撃ちとか、技術的な要素はたくさんある。登る山が最初から高いからこそ、少しずつ登っていく過程で、都度小さな達成感を味わえる。PADのエイムは、人並みになるまでは結構すぐなれるものだが、PADの中で上級者になろうとすると途端に難しくなる。
あとvalorantはエイムゴリ押しが一番強いゲームではあるものの、そこまでエイムの差がない相手同士の戦いだと、マクロが大切になる。立ち回りにミクロとマクロが両方求められる。某バトロワはマクロなんて1000時間もやってれば猿でも獲得出来たが、valoはどうにも難しい。多分自分は今800時間くらいやってるが、全然マクロの立ち回りが分からない。
valorantは何というか押し引きの駆け引きが難しい。何処まで詰めるか、詰めないか。ミッドを取りに行くにいしても本隊の動きを待つ必要があるし、本隊が動いても言った先のサイトに4人もスタックしていたらローテートを視野に入れる必要がある。相手の癖を読むこともわりと大事で、そんで攻め方や守り方はワンパじゃダメで色々と工夫する必要があるし、ラーク/ベイト/フェイク/リテイク/挟み/ラッシュ、とバトロワにはない概念が色々とある。
某バトロワ以外にも色々と浅く触れてきて、その中で最も難しく感じたFPSはR6Sだったが、valorantは二番目に難しいかなと思う。
権力勾配というのは、理論と社会運動が精緻化して正しくなればなるほど、間違いしか生まなくなる。
黒人のほうが弱者だと思ってた連中は、白人弱者労働者を見捨ててるし
そもそも、権力がない白人とか男性とかに「あなたは潜在的に権力者ですから、弱者にやさしくする義務がある」というのが、その手の権力論だった。それはマクロとしては正しかったが。
でも、潜在的に権力者とされた人間は、ミクロ=個々の現実において、権力とか持ってない。
マクロで考えるってことは、取りこぼしを許容するということであって、それを福祉だとか寛容だとか個人の幸福を考えるリベラリズムと組み合わせるのは最悪だった。完全に発想から矛盾している。
MMTの人か。よく読まずに、社会主義・共産主義系の人と思ってしまった。MMTはさっぱりわからないのでこれを機会に少し学んでみようと思う。
ちなみに、資本主義という思想自体が部分最適と言っているのではなく、「現に世の中が資本主義である以上、資本主義に適応すること」が部分最適であって、この仕組みをぶち壊してもっといい仕組みを作るための動きが全体最適だ、という話をしていた。君がさっきまで相手をしていた自己責任論増田「個人」の利益を考えるなら、資本主義に適応した方がいいというのはたぶんほぼ確実だと思う。(なので、本来自己責任論増田は君の相手なんてせずに労働に励んだり起業したりするといいんだが)
基本的に、ミクロレベルでは仕組みに抗うのは不利になるからな。それを超えて、信頼できないプレイヤー同士の信頼を醸成して世の中の仕組みを変えるのは「全体最適に基づく」合理的な行動だと思う。
追記:言いたいことがふわっとしてしまったかもだけど、ASDとカミングアウトしたりプロフに書いてる人はここで書いてるような「擬態」をやって来てる可能性が極めて高いので、概して普通にコミュニケーションは取れるし、妙な垣根は設けて欲しくないかなとは思う。
最近は、一般書はもちろんのこと色々なWebページで発達障害について書かれるようになってきたので、これを見てる人のほとんどが発達障害については聞いたことがあるだろうし、なんなら身近にそういう人もいると思う。ただ、当事者としては発達障害、特にASD(旧称アスペルガー)については発達障害専門でもない医師などによる誤解が蔓延してて、ひどくめんどくさい。てわけで、当事者目線から見たASDへの誤解について書いとこうと思う。一応、正式な診断はないけどWAIS-IV知能検査は受けてて、ADHDよりはASDの方が傾向強めという感じで言われたくらいだとは書いておく。
幼い頃って意味ではかなり正しいんだけど、結構多くのASDが思春期辺りで「あれ?俺ってなんか浮いてる?」てことに気づいて「擬態」という形で定型発達の模倣をするようになる。成人して社会に溶け込めてる発達当事者は擬態をかなりの精度でやってのけるから、字面のまま受け取るタイプのASDは存外少ない。むしろ、擬態がうまいタイプは相手の言葉をかなり疑り深く分析してることも多い。発達当事者の多くは擬態をやってることに自覚的で「擬態」の他にも「ASD修正パッチ」、「模倣」とか色々な言葉で表現するのだけど、近年の発達障害研究でようやくこの模倣行動が知られるようになったみたい。参考: https://www.city.himeji.lg.jp/bousai/cmsfiles/contents/0000020/20708/zidou3.pdf ここで「カモフラージュ」て書かれてるやつのことね。カモフラージュ行動が記されるようになったのは発達研究でもかなり新しいらしく、まだまだ当事者にとっては当然のことでも知られてないことが多いと感じる。
性質が悪いのは「ASDへの配慮として」字面通りに受け取ってあげましょうとか、率直に言ってあげましょうみたいなマニュアルが一部で出来上がってることで、思春期から訓練してむしろ「字面通りに受け取らないように」してるタイプにしてみればそういうマニュアルで行動されるのはたまったものじゃない。TwitterでプロフにASDと書いてる人に「字面通りに」伝えたり、相手の言葉を受け取ったりして当事者の神経を逆撫でするなんてのも見たことがある。
前述の擬態を過剰にやるタイプだとむしろ、(たぶん)定型だと普通やらんだろってくらい相手の意図を深読みしたりもする。人間って案外その時点での感情を意識してないことが多いのだけど、このタイプの人は滅茶苦茶深い精度で理屈で考えて他者の感情を読み取るから、すっごい気遣いさんになることも多いし、頭いいタイプのASDだとこの予測精度は定型より高いことも多い。
知る限りでは、これは全く事実に反しているのだけど何故かそう思ってる人は多い。もちろん、共感能力が低いASDも少なくないけど、むしろ極めて高いタイプもいて、弱者に対して普通以上に思いやれる人も多い。それゆえに普通そこまでやる?くらいの自己犠牲型になることもあったり。この辺は今だ未解明ではあるけど、ASDであるかどうかと共感能力については直交概念じゃないかなあ。
もちろん、「傾向としては」そういうのが見られる人も多いんだけど、それはASDの症状というより成長過程で社会不適応に気づけなかった結果として現れる感じ。
じゃあ、ASDの本質とは何よって言われるとこれはまだ研究途上で色々難しいんだけど、「物事をパターンで把握したがる」傾向じゃないかなあってのが個人的な仮説。ゆえに、
みたいなのが表面上現れる感じ。ただ、これも擬態してる人は元来の傾向を理性で巧妙にセーブしてたりするから、そもそも発達当事者と気づかれないことも多い。周囲から見た時に、「なんかこの人、毎日同じような行動をしてるなあ」とか、多人数での飲み会なんかだと無口になってたり消極的になってたりして「ちょっと人付き合いが苦手なのかな」程度に見えることも多いってのが実感。
他の問題として、知的障害と発達障害がしばしば混同されるというのがある。知能が一定水準を切るといずれにせよ「空気が読めない」ので外から見ると発達障害と区別がつかないのだろうけど、とある発達当事者の精神科医のツイートを見る限り、このケースは結構多いらしい。実際、巷で「発達」「アスペ」と呼ばれてるタイプの人(こういう蔑称は好きじゃないけど)は知的能力が低いというか境界知能じゃないか?レベルのケースが散見されてて、それが発達障害、特にASDへの偏見を増す結果になってるなあと思う。
さらには、精神疾患と発達障害の混同、パーソナリティ障害と発達障害の混同なんてケースもある。これは発達障害のせいでイジメや親からの虐待を食らってその結果精神疾患を患ったみたいなケースもあるので、あながち無関係とも言えないのだけど、二次的な障害と元来の傾向による苦労が混同されるのもややこしいことだなあと。