2022-11-19

すずめの戸締り感想

博愛なんて言うけれど、いっぺんに地球全体なんて本当は愛せない、本当の意味で愛せるのは、家の前に咲いている花ひとつひとつ、隣にいる人ひとりひとり。ミクロ視点を持つことでしか愛は成り立ちえないということ。だから愛なんてある意味しょーもないのだ。同様に人の幸せなんてものもしょーもない。わたしはすずめの戸締りからそういうメッセージを受け取った。

なぜそうたに教員採用試験の設定があったか。そうたは神的存在ではなくあくま人間で、人間幸せとはそういう日常機微からだ。「死と隣り合わせである」ということなんて忘れてしまいそうな機微があってこそ、幸せがあって、だからこそ人間である。そうたは一方で人生は儚く、人間なんてしょーもないと分かっていたが、一方でそんなことは忘れてしまいそうな日常に生きているし、神様ではなくて人間でありたかった。

地震とは「人生は儚く、生と死は隣り合わせである」ということを忘れた人間に、死を思い出させるためのものわたしたちは本来もっと大きな存在に生かされているに過ぎないのに、人はすぐ自分運命自分が握っていると思い込む。多くの人はそうだけど、「生きるか死ぬかなんて運」という思想を持つすずめだからこそ、「大きな存在」と対話し扉を閉めることができた。

でもなぜそこにいた人々を想像して、声を聴くことで扉を閉めることができるのか?わたしは「大きな存在」もまた人を愛するからだと思う。「大きな存在」が人なんていうちっぽけな存在の話を聞いてくれるのは、「大きな存在」が愛というミクロ視点を持っているからだ。そうたが「今もう少しだけ時間をください」みたいなことを言いながら扉を閉めてたけど、そんなちっぽけな時間に「大きな存在」が目を向けてくれたのはそれに愛というミクロ視点があるからだと思う。そしてきっとしょーもないなとも思っているのだと思う。

そういうしょーもない愛や幸せ、「死と隣り合わせである」なんてことも忘れてしまうくらいのしょーもない日常を、僻んだりせず愛しいと思う愛もまたしょーもないけど、そういう愛の連鎖と交差が人の人生を満たしているものだと、きっとこの映画は伝えていた。「人生は儚く生と死は隣り合わせである」という思想を持つ二人が最後お互いに「(それでも)あなたと生きたい」と言えたのは、誰かから愛されているということと、誰かを愛するということは、しょーもなくともそれだけで人が生きる理由になるということだと思う。

そしてだいじんこと神もまた、愛というしょーもないミクロ視点を持っていたから、最後は「すずめのために」自ら石になった。「ありがとう」一言言ってもらえたというしょーもない理由で。

愛も幸せ人生もしょーもないと分かっていながら、それでも幸せでありたいと願うことと、人を愛することで人生を満たして生きていく。人間にはそれしかできないけど、でもそれもまたきっと素晴らしいとそういうことを映画全体で言っているように思えた。

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