はてなキーワード: クラスメイトとは
なろう小説とその読者が馬鹿にされるのはさ、「魔王」っていうでっかい敵がいるのに、
敵意が一番向いてるのはクラスメイトとか味方なんだよね。なろう小説じゃ主人公のパワーとご都合主義でどっちも倒せるけど、現実じゃ目の前の倒すべき敵や、解決すべき目的が見えてない奴は
これもまったく分からんな。
そもそも「魔王」がいない作品や、主人公が「魔王」側の作品も多いし。
クラスメイトや味方に敵意が向く…というのは
「盾の勇者」や「ありふれ」のこと言ってんのかと思うけど
大体女ヒーローがスーパーパワーで無双して、「男は何してんの?ドヤ」みたいな感じで終わらせてるけど
勝った理由が技術とかその人個人の力じゃなくて「女だから」で説明できてしまうのがメタ構造見せつけられてるような気がして萎える。
所詮フィクションで無双して女の強さを表現されてもな……って思ってしまう。だって現実は男の方が筋肉もあるし、持久力も付きやすいわけでしょ。
フィクションの中で女性を代表されてもさ、現実で男の方が強くて活躍してるなら「女は何してんの?ドヤ」ってなる訳でしょ。
今までのヒーローは単純な力とかじゃない、精神的な成長や強さとかの次元の話をしているのに、今のヒーローは結局「力こそ正義」の価値観になってる。
なろう小説の最強主人公を見ている時の感情と似ている。お前は志々雄かと。
悪役だったらわかるけど、あんなのに憧れるのって中二病のガキか頭が小学生で止まってる女くらいでしょ?
現実の女性だって単純な力や権力じゃない、自分の精神的な弱さとか、本当の強さとは?女らしさとは?とかで悩んでいるのに、女ヒーローは志々雄レベル。
まぁ幼稚な全能感に憧れるのも分るけど、レベルが低すぎるんだよね。ロードオブザリングの一シーンで「戦士(man)に倒せる者はいない」と豪語するナズグルを
女戦士が兜を脱いで「私は女(woman)よ」って言って倒すシーンがあるんだけど、そういうのに痺れるんじゃないの?
人それぞれだとは思うけどさ、いつまでも男と戦ってないで、ちゃんと敵と戦えよって思うんだよね。
なろう小説とその読者が馬鹿にされるのはさ、「魔王」っていうでっかい敵がいるのに、
敵意が一番向いてるのはクラスメイトとか味方なんだよね。なろう小説じゃ主人公のパワーとご都合主義でどっちも倒せるけど、現実じゃ目の前の倒すべき敵や、解決すべき目的が見えてない奴は
「幼稚な奴」とレッテルを貼られて社会的に認められないわけだよ。
結局言いたいのはさ、「敵と戦えよ」って事。敵と戦う、目的を見誤るな、自分の力を過信して尊大になるな。そういう部分で葛藤してきたヒーローを見た自分にとって、
男といつまでも闘ってる女ヒーローは糞ダサく見えるわけですよ。
今そういうヒーロー物を見ている子供は、そういう女ヒーロー見て「かっこいい」って思うのか疑問。ある程度成長したら、「女って幼稚だな」って思っちゃうんじゃないのかな。
元増田より先にトラバするのを許してほしい。ウィザードリィの文字を見たら黙っちゃいられねぇ!
こんな凄い人がウィズやっててしかも廃プレイ者ってだけで何か嬉しくなってくるねぇ。。。
青沼さんとクラスメイトだったってことは20歳時に1983年だしウィズ直撃世代だよね。
芸大生だし下手したらこの方が末弥淳に代わってファミコン版ウィズの絵を描いてた世界線もあったかもしれないと思うと胸が熱くなる
デザ科ではないけど現役の芸大生です。
絵だけ書いているのは分が悪いと思うためです。
「高校」という日本のエンターテインメント界で「異世界」と並んで多用される空間に行かないだなんてもったいないです(最近のFEも学園モノでしたよね)。
行った先でクラスメイトが自分の知らない世界を教えてくれれば儲けものだし、毎日沢山の色々な人と会える場なので、人付き合いの経験値が稼ぎやすいです。
進学先が決まらないなら、偏差値の高いところへ行くことを勧めます。
他の大学生が哲学とかやっている間に、課題をこなさなければいけないため知識が不足、偏りがちです。(47都道府県全部言えない人もちらほらいるレベル。)
知識量は引き出しです。ファインアート系じゃなくてデザインなら人と共有できる知識や感覚を持っておくことは重要だと思います。
受験の段階でも他の受験生よりもモノを知っている方が強いと思っています。
数学のグラフを知って、流行りのデザインを知って、世界中の国の文化を知って、過去の合格者の傾向を分析して、色彩学を学んで、世界中の話題のポスターの構図を勉強してと頭を使いましょう。
他の人が絵を書き続けるところで勝負するんだから、がむしゃらに絵を書くよりも自分だけの強みを磨いて賢く戦う方を勧めます。
予備校に行って画力を伸ばして、デザインを目指す人たちの世界を知ることも大事だけれども、そこばっかりで狭い世界に閉じこもって絵を書き続けても良いことはあんまりないと思います。
僕は図書館とかによく行ってました。作家の文章からイメージされることとか蓄えて問題に対する武器にしてました。
そもそもデザ科の入試サイズなら家でも十分かけます。(色彩構成モチーフなら割と日用品ばかりだし)
予備校で3時間描いて家につくのが10時だとしても、家に帰ってから3時間くらい書いて2時前に寝るみたいな感じで1日6時間できるでしょう。
3年間予備校に通うにしても一日7時間しか描かないのは想定が甘い気がします。
後、スプツニ子さんが教員として入ったりとデザイン科も変わろうとしてます。
デザ科の入試に面接はないですが、ゆくゆくは自分の描いたものがどういう理由でこういう形になったのか喋れないとマズイかもしれません。
そういう意味でも高校で美術とかアートとかデザインに全く興味のない人との接点を増やして、どう考えてこう描いたのか話す機会を持っておくと良いかもしれません。
個人的には、デザイナーだからデザイン科というのは少し違う気がします。
日本画みたいな繊細な世界や、油のような抽象の世界の描き方を学ぶのもありだと思うし、立体がやりたいなら彫刻へ行ってもいいと思うし、ゲーム内の建物が好きで建築へ行ったって良いと思います。どこへいったら分からなくなったら先端でもいいんじゃないでしょうか。
藝大も最近はスクエニの人が来て授業したり、任天堂の人が来てセミナーやってポートフォリオを見たりとゲーム系の業界とのつながりを強くしています。
入った後はどうとでもなると思います。
ふと、死にたいと思う時がある。
私は高校生だ。
高校に入る時は、残酷なまでに楽しみだったことを、全て入学してから打ち砕かれたと思う。
楽しみだった部活動。放課後の寄り道。クラスで楽しく生活すること、そんな他の人から見たら普通な事が出来なかった。
部活では、いじめとしか思えないあだ名を付けられた。他の人はみんな、休みも充実している。さすが高校生、といったところだ。
友達が出来なかった。私の通っていた中学の人が少なく、仲が元々良かったような人がいなかったのもあるだろう。他のクラスメイトは、遊んでいるのに。
クラスには全く馴染めなかった。40人もクラスには在籍しているというのに、誰一人として、私に話しかけてくれるような人は、存在しなかった。
そのため、私は学校を休むことを計画し始めた。学校なんて、行く場所ではないのだろうかと。
そこには、中学のときの友達は、みんな笑顔で映っていた。「怖いから、Twitterとかをやりたくない」と言っていたあの子も、「勉強頑張ろうね」と言って、違うクラスへ行ったあの子も。みんなが、幸せそうだった。
部活動で一緒の子のインスタグラムのアカウントを知っている。その人の誕生日の日には、「みんなプレゼントありがとう」というような文字と、沢山のプレゼントが映っていた。
その日から、私はその人に話しかけられても無視するようになった。
私は、学校で友達から、プレゼントをもらったことがない。なのに、そのインスタグラムに上げていた写真は、私の目の前で撮っていたからよく分かる。
それは私にとって、いじめだよ。
親へ。
友達が居なくてごめんなさい。
遊びに行くような友達が居なくてごめんなさい。
勉強も出来なくてごめんなさい。
お手伝いも何もできなくてごめんなさい。
言うこと聞かなくてごめんなさい。
犬以下の人でごめんなさい。
ずっと、人間になれって言っていたよね。人間になるってどういうことなんだろう。
自分のやりたくないことをやらされたくない。それは私の個性を消すようなことだと思うから。
もうすぐ、私は死のうと思って過ごしている。
誰も、この世界には引き止める人もいないだろう。
小学生のころ、授業中に突然クラスメイトの女子が泣き始めた。見ると、周りの床が濡れている。先生が聞くと、「お茶をこぼしちゃった」とのこと。
おかしい。なぜ授業中にお茶がこぼれるのか。確かに色はお茶っぽいけど、これは明らかに「漏らして」いる。
先生も、「お茶をこぼしちゃった」と言われたからには、お茶として扱うしかない。これを「漏らした」としてしまうと、その子のプライドにかかわってしまう。というわけで、「ほら!周りの子は雑巾で拭いてあげなさい!」と、さも普通の液体であるかのように指示を出す。だとしても、本人に拭かせろよ、と思っていたけれど。
自分はその「周りの子」でした。拭いている最中は内心「こんなん絶対おしっこでしょ」と思い嫌がっていたものの、後々考えればめちゃくちゃ貴重な経験だった。
私のクラスに、クラスにいじめられてるわけじゃないけど敬遠されてる子(Aさんとする)がいる。偶々隣の席になって、同じスマホゲームをやっていた私は、Aさんとよく話すようになった。初めはなんで浮いているのかわからなかった。話していてとても楽しかったし、陰口を言われて辛い、みたいな話に酷いねと一緒に怒ったりもした。休日、何度も一緒に遊びに出掛けた。楽しかった。
避けられている理由は、仲良くなって少ししてわかった。私の飼い猫が亡くなってしまって心が死んでいるとき、ゲームの話を笑顔で持ち掛けられたのだ。こういうことがあったからそういう気分じゃない、とやんわり言ったけれど、彼女は終始ゲームのイベントのシナリオの話をし続けた。始めに軋轢が生じたのはここだったと思う。
次に、Aさんの愚痴にも違和感を感じ始めた。悪口を言われて辛い、というくせに、自分が原因で班分けで揉めているのは人間の汚い面でとても面白い、増田ちゃん以外のクラスメイトはクズだから仲良くしたくない。と言われ続けるのにも流石に疲れた。大声で話すからその愚痴が全部クラスメイトに聞こえているのである。クズだ揉めてるのが面白いと言ってる人間と仲良くしたい奴はいない。どっちが先かは知らないが、自業自得だなあと思ってしまってからはダメだった。
全部の行動が気に入らない。今まではちょっと空気読めないけど仕方ないよね、で許せていたことが許せなくなる。距離を置いても着いてくるのがどうしようもなくウザい。それだけは辞めようと思っていたのに、簡単に悪口を言ってしまうようになる。そうすると似たような話をたくさん聞くようになる。修学旅行で一緒に風呂に入ったとき、下着をエロいと言われた、男子風呂覗きたいと言っていた、意味のわからないゲームの話を押し付けてくる、にやにやしてるのが気持ち悪い、聞いているうちに私たち悪くないなと思えてしまうのだ。あんなに気持ち悪いAさんが悪いなって。
そんなのが積み重なっていたのもあって、今日思い切り揉めてしまった。またAと仲良くしたいから、と言ったのは嘘だ。Aのせいで揉めているのに、へらへら笑っているのが気に食わなかったのだ。こうこうこういうところが嫌い、こういうところが気持ち悪い、今まで仲良くしてたけどずっとしんどかった、Aが嫌われてるのは全部自業自得だから他人のせいにするな。言いたいことを全部言われたAは、今までヘラヘラしていたのが嘘なような真っ青な顔で、黙って教室を出て行った。
私最低だな、と思う。でも一緒にいて楽しくない。気を使ってないといけない。しんどいときも楽しい話をしてやらないといけない。そういうしんどさを全部我慢して、笑顔で取り繕って無理やり関係を続けてあげることが正解なんだろうか。そういう優しさを持ってないとダメなんだろうか。私にはない。死にたい。
手のかかる子ほどかわいいとはよく言うが
それはそれとしてクラスメイトや大人に暴言を吐いたり授業妨害するような子はムカつくし面倒臭いので
学校の先生にとって忘れ物もしないし指示をよく聞いてくれる真面目な子は本当に有りがたがられて重宝される
私もかつてはそういう子どもだったのでとにかくどの先生からも好かれて三者面談でも褒められまくっていた
が、「周りが友達とのおしゃべりに夢中になっているのに一人じっと先生を注視して指示をよく聞いている」
「先生にアホみたいな質問をせず誰にも頼らず自分で解決する(人に質問することができない)」
「必要になりそうな物はすべて事前に準備して自分で持ってきて忘れ物もしない(道具が足りない・忘れた時に周りの人に助けを求めることができないので)」
というのは結局のところ夢中になれるような友情を育むことができないし協調性もないし報告連絡相談ができない人間ということであり
先生たちが褒めるほど自分は立派な人間ではないというのは子どもの頃から気づいていたのだが
20代後半になった今、案の定わりと深刻にまずいことになっている
化粧のやり方が分からなくてずっとすっぴんだし大人の服装もよく分からない
言葉遣いもそう
職場には一人同世代がいるけどあとはみんな自分の親くらいのおっちゃんとおばちゃんばかりで
実際「なんだか娘みたい」とかわいがってもらっていたのだが
「手伝ってください」「これは一人ではできません」「量が多すぎて時間が足りません」「やり方が分かりません」「どうしたらいいですか」……
手間のかかる作業を簡単な仕事だと勘違いされて誤解を正せないままいつまでかかっているんだろうと不思議がられたことなんかが積み重なって
「娘の友達を見るような目で私を見てくれるおばちゃんたち」が「無能の部下に苛立つ上司」にパチッと切り替わってしまった
ずっと大人になれないし大人として見てもらえないと思っていたがあっさりと大人になってしまった
その中にはやんちゃな子もいれば大人びた生真面目そうな子もいる
やんちゃな子には高校くらいで部活で先輩に絞られて礼儀を知る陽キャになって大成するんだぞ
大人びた子には私みたいにならずにほんとに真面目で有能な大人になるんだぞ
と念を送っている
たしかに、クラスメートってのがいわゆる「そのへんの女性」って意味なのなら、一般にクラスの女子に宇崎ちゃんは貸さないんだろうけど
現実問題としてオタクが会話できるような女子という条件がどうしても加わるわけだし、そういうの相手ならむしろ貸すほうが正解な場合もある気がする。
別に宇崎ちゃん限った話ではないけど、誰かになにかを勧めるかどうかってのは女子だからとかそういう大きな属性ではなくて、相手の趣味嗜好とかも勘案して考えるものだと思うんだけどなあと。
まあもちろんここであがってるのがクラスメイトというある程度親交のある相手だからであって、街頭で無差別にとかだと話は違うんだろうけど。
それとも交友関係ある人間のの特殊な趣味嗜好なんて考慮するほうがおかしい、というのが「世間様」の考えなのだろうか。まあそうかもしれんとは思う。
最初は、クラスの全員から無視される、掃除の時間にぞうきんを取られて取り返そうとすると投げ合って返してくれないなど。そこからさらにエスカレートして、私の椅子や机、文具などに触ると〇〇菌が移ると言って避けられるようになった。いわずもがな、私の身体がクラスメイトに触るととても嫌な顔をされた。身体的なものはなかった。ただただ精神的にきつい仕打ちが繰り返された。
それが半年〜1年くらい続いたと思う。先生は特に助けてくれなかったけど、翌年度のクラス替えで主犯格は全員別のクラスになったから気づいてはいたんどと思う。
今、30代半ば、それなりの大学を出て、何度か転職をしたけど、それなりの会社で働いている。
いまだに同僚や上司といった私的な付き合いのない人間が信頼しきれない。信頼というと大袈裟だけど、対人関係に常にうっすらとした不安感があるというか。
周りの様子を見ていると、ふつうは信頼するとかしないとか、そんなこと考えるまでもなく、人付き合いをしているみたいに見える。
不安感がずっと強くて、近頃生きているのがいよいよ辛くなってきていて、なんでだろうって考えたときに、とても古い出来事なのにいじめのことが思い起こされて、ここに吐き出している。
その後何年か、何十年か経って、まだ何か影響ってありますか?
「アイカツ!」シリーズの「話数が多い」というハードルを越えて視聴してもらうためにはどう勧めれば良いか、という話が少し盛り上がっていた。
その中でよく出てきた話に、見てハマった人間にとってはその話数というのはむしろ少なく感じるほどである、というものがあった。
それについては私も大いに頷くものであるが、なぜ皆がこれだけ話数の多い物語をそろって「短い」と言うのであろうか。(単純に面白いからあっという間だよって意味かもしれないが)
それを少し考えてみたので書き連ねてみる。なお、シリーズ全部について書くと本当に長くなるので第1作の「アイカツ!」に絞って書く。
「アイカツ!」は2012年10月から2016年3月までの約3年半の期間に放映されたアニメである。総話数は178話。劇場版は長編の「劇場版アイカツ!」と、ステージを中心に構成した中編「アイカツ!ミュージックアワード みんなで賞をもらっちゃいまSHOW!」、最終回後に制作された短編「アイカツ!~ねらわれた魔法のアイカツ!カ―ド~」の計3つがある。他にもドラマCDが制作されている。
そして、「アイカツ!」は放映時期と作中の時間がリンクしている。つまり、季節が現実と同じように流れ、クリスマスやバレンタイン、卒業式・入学式や年末年始などの季節のイベントのエピソードが時期に合わせて放映されている。
劇場版も公開日と合わせてあり、たとえば2014年12月13日公開の「劇場版アイカツ!」は同年12月11日放映の第112話の後のお話となっている。
プリキュア等の年間を通して放映されるアニメを見ている人にとってはさほど驚くことではないかもしれないが、1〜2クールが基本の深夜アニメを中心に見ている人にとっては新鮮かもしれない。
さらに、いわゆる「サザエさん時空」ではなく、1年経つと実際にキャラクターが歳を取り、進級したり卒業したりする。
最初の主人公の星宮いちごは第1話時点では中学1年生だったのが、第178話時点では高校2年生になっている。(ある話数の間にだけきっちり1年間のブランクが存在するが詳細は省く)
つまりは、視聴者は画面を通して「アイカツ!」の世界での出来事をリアルタイムに感じとり、キャラクターの成長を見守っていくのである。
週に1回の放映内容だけでその1週間の出来事を知る、と単純化して考えてみると、それはあまりにも時間が足りないと言わざるを得ないであろう。
漫画「スラムダンク」は週刊連載で6年連載して作中で4ヶ月の出来事を描いたのであるから、単純計算でその18倍の短さと言えてしまう。(1/3年の出来事を6年間で伝える=1/18年の出来事を1年かけて伝える)
そして、年間を通して季節に合わせて放映されていると、視聴者にとって「アイカツ!」は生活の一部となっていく。生活が終わることなんて人は想像したくないものであるから、それが終わった時の寂しさは計り知れない。
後追いで視聴している者にとっては、話数と共に季節が移り変わっていくのを感じながら見ていると、キャラクターの人生を辿っているような感覚になる。そうすると、途中でそれが途切れてしまうとなると、それがどれだけ寂しいものであるか。
最終回後に制作された劇場版の短編は、そんな人たちに向けてキャラクターから届けられた久しぶりの近況報告・贈り物であると考えてみると、それがどれだけ嬉しいものであるか。
先述したように「アイカツ!」ではドラマCDがいくつか制作されているが、劇中のラジオ番組という形をとっており、まるで実際にラジオを聴いているかのように感じることができる。ファンにとって「アイカツ!」のキャラクターはどこか現実と地続きのところに存在しているような感覚がある。
「アイカツ!」のキャラクターの誕生日を祝う時、毎年そのキャラクターの年齢を数えるファンは少なくない。今年、星宮いちごは20歳になった。
いちごちゃんお誕生日おめでとう!
はたちだね〜。出会った頃に言ってた夢が叶っちゃうね。私は来月!一緒にお祝いしよう〜🍓— 諸星すみれ (@smileysuu) 2019年3月15日
アニメが終わってもキャラクターたちは消えることなく、生きてアイカツをし続けている。キャラクターの生きる姿を描くのにはいくら話数があっても足りない。
「アイカツ!」にはたくさんのアイドルが登場する。作中でCGで描かれたステージを披露したアイドルを数えてみると、総勢28人。披露されていないアイドルも多数おり、その中に人気のキャラクターもいる。
長期放映のアニメで俗に言われるものに「当番回」というものがある。
特定のキャラクターにスポットライトを当てたお話のことを指すが、「アイカツ!」にももちろん当番回と呼べる回が多くある。
しかし、28人を超えるキャラクターの全員に満遍なくスポットライトを当てるにはあまりにも話数が足りない。当然キャラクターによって登場の頻度の差は出るので、「あのキャラをもっと見たかった」という声は常にある。
それだけキャラクターが魅力的であったことの証左ではあるのだが、178話という話数をもってしても描き切れていないわけである。
ただ、そういった「スポットライトを当てる」ことについては、第146話「もういちど三人で」で星宮いちごが語った言葉がちょうどぴったりだったので引用する。
「私ね、世の中のアイドルとか、みんなを照らすスポットライトって、ずーっと動いてる気がするんだよね。ぐるぐるって。ずーっとぐるぐるぐるぐるね。だから、その時その時で、照らされる人数は少ない。でも、照らされなかった人がいなくなってるわけじゃない。だから、次のチャンスは誰にでも来るんだよ。その場所に立っている限りね」
スポットライトの当たってないところでもアイドルたちのアイカツは続いている。
物語の舞台であるスターライト学園はアイドル学校で、つまり通う生徒たちは全員アイドルである。メインで登場するアイドル以外も皆アイドル活動をしているわけである。実は、クラスメイトにも全員しっかり設定が付いている。何気ないシーンで映り込んでいるアイドルや、一瞬映った雑誌に載っているアイドルにも名前がちゃんとついていたりする。スポットライトが当たっていない彼女たちも、「アイカツ!」の世界で生き、活躍している1人であることが想像できて、それが「アイカツ!」という作品の世界に深みを与えている。
さらに、アイドル以外にも、家族や先生、デザイナー、ファン、仕事の関係者等のサブキャラクターもアイドルに負けず劣らず魅力的である。
特にブランドのデザイナーは重要な存在で、アイドルが、自分の好きなブランドのトップデザイナーが作る「プレミアムレアドレス」を手に入れるまでの物語は「アイカツ!」のひとつの見所でもある。
デザイナーのブランドに対する考え方だったり、アイドルとの向き合い方・関係性だったりにもその人の生き方のようなものを感じることができ、それは、いろんなアイドルのいろんなアイカツの形を見るのにも似ている。アイドルでないキャラクターにもその背景や物語があるのを感じさせる。
また、当初はただのモブでしかなかったアナウンサーが、節目節目でのイベントでいつも司会者として登場するうちにいつの間にか名前が付くまでになっていた、ということもある。
何が言いたいかというと、「アイカツ!」を見ていると、登場する全てのキャラクターが魅力的で愛おしく思えるようになり、もっといろんな話が見たいと思うようになるということである。
歴代シリーズのキャラクターが大集合する新シリーズ「アイカツオンパレード!」の放映に際し、シリーズのダイジェスト動画が公開されている。
歴代シリーズプレイバック!『アイカツ!(2012年10月~) ver.』
歴代シリーズプレイバック!『アイカツ!(2014年10月~) ver.』
だいたい5〜6分の動画でシリーズがおさらいできるようになっている。
やろうと思えばアニメの内容をあらすじでさらっと伝えることはできる。主人公が「輝きのエチュード」や「SHINING LINE*」や「START DASH SENSATION」等の楽曲に至るまでの物語を理解してもらうために最低限のエピソードをピックアップすることもできる。
「アイカツ!」は基本的に1話完結のストーリーになっており、途中から見てもわかるような配慮もされている。単話で見ても面白い回はたくさんあるので、つまみ食いでもきっと楽しんで見ることができるであろう。
この回が良い、この回が好き、といった話に花を咲かせることもよくある。
それでもやっぱりファンとしては全話見てほしい。全話が全部大事な話だ、と本気で思っている。
星宮いちごが歩んだ道のりを軸に、物語上の重要なエピソードだけをピックアップすることになったとしよう。
そうすると、例えばいちごたちがただオフタイムを過ごすだけという第24話「エンジョイ♪オフタイム」は、含めなかったとしても物語の説明は可能である。でも、ファンとしてはこの話は絶対に外したくない。
また、いちごがメインでない他のキャラの「当番回」、例えば藤堂ユリカがメインの第89話「あこがれは永遠に」も含めなくてよいだろうか。確かに、なくてもいちごの物語を語ることはできるであろう。だがこの回で描かれた藤堂ユリカのアイドルとしてのあり方やデザイナーとの関係、ファンとの向き合い方、そういったものが全くいちごと関係ないなんてことはなく、作品を通して描かれているテーマの根幹に通じているものがたくさんある。
例えば「SHINING LINE*」の歌詞を紐解くときに、ただ美月といちごとあかりにだけ注目して考えるのでは、やはりもったいない。いろんなアイドル、いや、アイドルでないキャラクターたちにもそれぞれの「SHINING LINE*」があるし、「最初の風」もある。
「アイカツ!」の楽曲は、キャラソンというわけではなく、「アイカツ!」の世界で歌われるポップスであり、普遍性を持った歌詞になっている。もちろん、これは誰々が歌っているという「持ち歌」の考え方はあるが、ある楽曲を別のアイドルが歌うことでまた別の新しい意味が生まれる、ということが「アイカツ!」にはよくある。
などといろいろ考えていると、どの話も外すことができなくなってくる。いろんな人のいろんな出会いが物語を紡いでいる。全ての話が全部つながっている。
「アイカツ!」を代表する曲のひとつに「カレンダーガール」がある。
この曲には「何てコトない毎日がかけがえないの」「何てコトない毎日がトクベツになる」という歌詞がある。
詳しい説明は第22話「アイドルオーラとカレンダーガール」に任せるが、彼女たちの今日をかたちづくっているのは日々のアイカツであり、そして今日のアイカツがその先の未来をつくっていく。
私たちが「START DASH SENSATION」で涙するのは、そうした彼女たちのアイカツをずっと見てきたからである。
読まなくても大丈夫。垂れ流したいだけ。
ここ最近、ずっとくすぶっている規制がどうとかジェンダーがどうとかっていう問題の話。
先に表明しておくと僕はオタクだった。
そして引きこもりだった時期もある。
別にイジメとかがあったわけじゃないけど、クラスメイトと会うのが苦痛だったのだ。
特に、自分の容姿が情けなくなるほど自信がなかったので、女子の視線が怖かった。
そんな(子供ながらに)人生何にもいいことないぜ!状態だったわけだけど、アニメだけは楽しんで見ることができた。
雑食だったから、ドラえもんとかサザエさんみたいな国民向けアニメから、深夜枠だとハルヒとかローゼンメイデンとかだったかな??
当時は本当に生きる糧だった記憶がある。
とにかく、周囲に迷惑をかけないように、人目を気にして、人目を避けて、いわゆる隠キャとして過ごしてきたわけだけど
幸いにも中学に上がり、共通の趣味を持つ友達も持てて、なんとか一般社会に溶け込んでいる。
そんな人生も、もう30年近い。
ずっと、周囲に気を使って生きてきた日陰者だ。それが自己評価。
そこから時代は進み、アニメや2次元という娯楽は、それなりに市民権を得てきたようだ。
僕が子供の頃は、コミケなんてニュースで取り上げられなかったし、一般の人の前ではアニメを鑑賞しているとは口が裂けても言えなかった。
今は違う。
アニメは国外の方含め、いろんな層の人が見てくれているし、今やアニメが国のセキュリティ強化月間や献血のポスターにも採用される時代になった。
誇らしいと思う。
あの時の、どうしようもない孤独感が報われたような気がした。
陽の光を浴びてもいい場所に来ても良いのだと、そんな許しをもらった気分だった。
でも、いい面ばかりでもなかった。
どうやら、僕の生きがいであった二次元やアニメは、女性の権利を侵害してしまっているのだそうだ。
ツイッターで見かけることがある。
「某アイドルゲームで、巨乳が売りの女の子がいて、コンプレックスだったけど、アイドルになって克服できた設定のキャラクターがいるそうな。地獄かと。」
。。。悲しい。逃げついた先の希望が地獄と呼ばれることが、悲しい。
「規制反対派は、女性を性的消費する権利を剥奪されることを嫌っているから反対しているのだ」
。。。3次元の女性から逃げ続け来た人間なのに?そんな権利があるなんて、1ミリも思ったことない。
悲しい。悲しい。なんなんだこの分かり合えなさは。
声を上げているみなさんを否定することは決してあり得ない。
その行動は賞賛されることはあれど批判されることはあってはならない。
今を生きる全員が着たい服を着る、履きたい靴を履く。大いに結構だし、そうあってしかるべきだ。
そんな当たり前の、当たり前の、ことを主張する人がいて、それを受け止めるだけなのに
なぜそれがこんなに難しいのか。
僕は、あなたのしたいことを否定しない。なので、僕な好きなコンテンツも否定しないでいただきたい。
ましてや、女性の権利を脅かすことを是とすることはあり得ない。
アニメや2次元は、3次元の人間の権利を帯びやすことになるなんて、そんなこと決してない。
僕みたいにな、被害者意識が先に来ちゃっている隠キャにとってみれば、逃げた先の2次元も否定され、
その上、よっぽど性を諸費している風俗とかキャバクラとか、そっちに矛先が向けられれない意識が先に来てしまう。
(ちなみに僕はどちらも行ったことない。苦手なので。)
その上、社会に出たら、女性を性的諸費したい、性犯罪者予備軍みたい扱いを受けるのが悲しい。
・規制派(?)やフェミの皆さま(という形でカテゴリーするのが相応しいのかわかりませんが、勉強不足ですみません。)
僕なんかよりも、よほど耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、やっと声をあげることが出来ているのかと思います。
しかし、上記のような形で指摘を受けることがやはり悲しいのです。
そして、女性の性的諸費を推奨もしないし、しているつもりもないのです。
僕は支持します。
無知は罪かもしれませんが、僕は変わりたいと思う。
・オタクのみんな
僕みたいな人がどれだけいるかわからないけど、きっと今まで被害者意識の隠キャで、それでも身をわきまえて、犯罪を犯さず、迷惑かけないように過ごして来たと思う。
そんな中で、突然、地獄だとか、全否定で入られるときっと思うところもあるのだと思う。
けど、過剰に反応することもないんだ。
きっと僕らは共存できる。
・異性を不当に性的諸費している人
まじ、ここまで色々こじれているのはお前らのせいだぞ。
例えば、女の子が可愛い格好をしていても、それは高確率で自分が着たい服なだけだぞ。間違っても男のためじゃあない。じろじろ見るなよ。
逆も然り。
痴漢とはする奴は本当に、○ねばいいのに。
はてな匿名ダイアリーにおいてパート2というのはアリなのでしょうか…? 文化が分かりません。もし痛々しいようでございましたら申し訳ございません。
以前投稿した記事(https://anond.hatelabo.jp/20190926105149)にて私見を交え自分の持つ症状について解説いたしました。が、「タイトルとイメージが違う」とのご指摘がありそういえば元々は自分の人生について書いてみようとしたのだということを思い出しました。前振りだけでいい具合にまとまったのでそれで良しとしてしまっていました。
というわけで本題の発達障害者である私の自分語りをさせていただきます。自閉症と多動症を持って生まれた私がいかように生活してきたのか、振り返って書き連ねていきます。詳しい症状につきましては省略いたしますので、不明点がございましたら上述の記事を参考にしながらお読みください。
出生の頃から追って話しましょう。さすがに私の記憶は流石に薄れていますが、当時から私が育てるコツのいる子であることは母には察しがついていたようです。
目を合わせて話さない。集団行動ができない。特定のモノに極めてこだわる。このような特徴が見られたようです。もちろんこれらは赤ん坊であるならば持っていても変ではない特徴も含まれますが、私の場合は幼稚園年長くらいまで続いていたらしく「他の子とは明らかに違っていた」と言います。
集団行動の苦手さを表す具体例としては、前回の記事にも書きました幼稚園から脱走していたことが主だったモノとしてあげられます。とにかく放っておくといなくなる。あまりにいなくなるものだから、見失わないように私だけ違う色の帽子を被せられていたり園長先生が抱っこして確保していたり特別な措置が取られていました。「差別的ではないか」と保護者会で話題になったとか。まぁ当の両親は正しい判断であると先生にいたく感謝をしていたようですが。
まぁ幼い子であれば”ひょうきん”だとか”手のかかる子”という表現だけで済むのです。迷惑はかけましたが面倒な問題にはなりませんでした。
ここであげておきたいことが”目を合わせて話さない”という点とそれに対する母の対策です。
子供は成長しながらコミュニケーション能力を身に着け、その一環で「目を合わせて話す」ということの重要さを学ぶものです。大人の真似をし、後々意義を理解するというのが発達の基本ですからコミュニケーション能力もそうやって身に着けるのでしょう。
ただ私はとにかく誰かが話しかけてもそちらの方を見ないし、私が誰かに話しかけるときもこちらを見ない。私には会話中に相手の顔を見るという発想がなかったらしいのです。おそらくですが、やる意味は分からなかったのでしょう。「そういうものだからそうする」とか「みんなそうしてるから」といった発想は私には薄いのです。ゆえに真似をせず、発達が遅れる。この性分が字のごとく発達への障害になっています。
今思えばこちらを見ずに話しかけるサマというのは、やや気味の悪いように見えたことは想像に難くありません。
この悪癖を放っておいたらいけない、と母が実践したことが「とにかく自分から顔を見て話す」ということ。
子は親を見て育つ、それで覚えないならもっと見せていくしかないという発想のようです。とにかくちょっとした会話でもしゃがみ込んで目線を合わせる。呼びかけられたら自分から私と目が合う位置に移動する。意図が分かりやすいよう、たまに口でも「目を合わせて話してね」と言う。母の行動は徹底していました。
そうしているうちに、私は目を合わせて話すようになったんだとか。
つまるところ、覚えが悪い子もちゃんと教え込めば理解できるようになるのです。特に口で言うことは大事です。「こっち見てくれないと誰に言っているのか分からないから」など理由もつけましょう。意義が理解できればやるようになります。言い過ぎると逆効果という例もありますから、難しいところではありますが…。
また今更なのですが、ハッキリ言って私は親に恵まれています。「うつ病ブログ見てたら”恋人が助けてくれて~”とか書いてあった」とか「食費節約の記事見てたら”米は実家から送ってもらって~”とか書いてあった」などに近い事案かもしれません。ご了承ください。うつ病患者にとっての恋人とか、米を送ってくれる実家みたいな存在に自分がなるんだという気持ちで知識をつけることにこの記事が役立ってくれるなら幸いです。
問題が徐々に起き始めるのはこの頃からです。先生から露骨に出来ない子という扱いを受け、いじめを受けたりいたします。もう”ひょうきん”で済む年齢は終わってしまったのです。
実際私は色々なことができませんでした。運動は大の苦手で、漢字テストは毎回落第し、常識はずれな行動も多く、そして正直に色々言い過ぎます。私としては何がなんだか分からないまま先生に怒られ続ける日々でした。本当に何がいけなかったのか分からないので、具体的な問題の例を挙げられません。ただ先生から見たらよほど出来の悪い子だったのでしょう。そんな私がクラスメイトに標的にされるのは自然なことでした。
いじめのトドメになったのは噛み癖があったことです。どうも私は触覚に安らぎを覚えるようで、自分のモノは噛みたくなるし顔にこすりつけたがります。鉛筆他色んな所有物をよくかじっていました。正直言って、これに関してはいじめられる側の原因と言えます。
私に触れることはアウト、私の触ったモノはアウト、しっかり拭けばセーフになる。他の生徒からはそのような扱いを受けていました。
さてまぁ壮絶な過去に見えますが、我ながらこの時期はずいぶん気丈に過ごしています。
まず絶対親にこのことを言いませんでした。というのも、大事な人が傷つくのは嫌だったのです。偉いとか優しいとかではなく、それが破ってはいけないこだわりの一つだったのです。
学校でいかように過ごしていたかと言えば、とにかくクラスメイトに話しかけました。嫌な顔をされたりするのは当然ですし、拒絶された記憶もいくつかあります。
なぜそんなことをしたかと言えば、話していい人と悪い人を判断するためです。クラスメイトが全員いじめに参加していましたが、それが全員の本心というわけでもないのです。心底私が嫌いな人、みんながやっているからいじめに参加している人、実はほぼ嫌悪感を持っていない人など色々います。なんというか、これが分かっていないと学校生活で困るのです。分からないことや授業中など、学校生活では会話は必ず必要になります。ですからこの人は話しかけていい、この人は絶対ダメという判別をする必要があったわけです。給食の配膳なども私が配るものを受け取る人受け取らない人がいるので、それも覚えていた方がスムーズでした。
それで大丈夫だったのかなんて思う人がいるかもしれませんが”私に触ることはアウト”なので殴る蹴るは絶対にされないわけで、だから私もこのような行動をとっていました。ちなみに話しかけていい人にも必ず距離を置いて話していました。これらのおかげで嫌悪感をぶつけられることも減りましたし、触らなきゃ話せる相手もできたので大成功だったと言えるでしょう。
今思うと自分でもやや呆れる行動ですが、このような割り切った行動ができるのは発達障害者の強みだと理解しています。
ちなみにダメージが無かったかと言えばまったくそんなことはなく、ストレスが振り切れて”触ったらアウト”をということを使って逆襲したりもしました。本気で泣かれたことがよりショックで私も泣きました。発達障害者も人なのです。無関心でいられるのはよかろうとも嫌悪は精神的に来ます。
はてさてそんなのが一年ほど続いて、私の噛み癖も抑えられた上にクラス替えでいじめがウヤムヤになった頃の話です(子供のいじめなんてそんなものです)。
いじめが無くなったとはいえ、私が色んな事が出来ない状況は変わりありません。未だ先生の心証は良くなかったようで、三者面談では母が怒りかけるほど小言を言われたそうです。
これではいけないと判断した母は育児について調べ初め、発達障害について知るやいなや私を児童精神科に連れていき、正式に診断を受けることになりました。診断結果を話した結果、先生の対応は一変。連絡帳を通してたくさんの配慮をしてくれるようになったそうです。
診断を受けるということは自分が症状を理解することはもちろん、相手に配慮を求めることにも役立つのです。
私の母などもそうですが、先生の態度について色々思うことがある人もいるかと思います。ただ実際にいじめを目の当たりにしてできることはあまりにも少ないですし、しつけのなっていない子が存在するのも事実です。ですからやはり自分で自覚して問題を起こさないためにも、ただ出来ない子と思われないためにも診断は大事なことなのです。診断には強い説得力があります。少なくとも小学校教師になれるほどの英才の方であれば、医師の判断の重大さは分かるはずです。
さて通院や教師の配慮を通して自分が他の子とは違うことを十分に理解し、列から抜け出さないとか家に勝手に帰らないだとか当たり前のことは覚えながら成長していました。大人の方はみなそうですが、私の問題を挙げても存在否定はいたしませんでした。今自分のことが大好きなのはこのおかげであると考えております。
中学生になった頃には自閉症的な特徴がプラスな要素になることも多くなっていました。他人に無関心という点などは特に強かったですね。
なにせ中学校はけっこう面倒な社会です。どこのグループにいて、誰と誰が喧嘩して、あいつはどこに受験して、あの先輩はあんなことしてて…などなど。面倒です。そして誰もが面倒と思っているのに、多くの人はこの面倒な風評を気にしてしまいます。ただ自閉症患者としてはこれは本当にどうでもいいことなんですよね。立ち位置とか気にするの面倒なのです。知らんわ。
そういうわけで私は特定のグループにいることはなく、基本的に面白い人なら誰だろうと話しかけていました。それのおかげか誰とでも平等に話すなどと評価されることが多かったです。よく気軽に話せるなどと言われました。あとは趣味に偏見がなかったのも大きいでしょうか。バント、小説、アニメにスポーツ、変わったところではジャニーズなどの話を聞いていました。自分が知っているわけではないものも多くありましたが、楽しく話せる分には何でも歓迎でした。しがらみがない人間というのは中学校においてはとても貴重な人材だったのでしょう。ゆえに”他人に無関心”はお気に入りなのです。健常者に自閉症マウンティング取れますね。
また他人からしてみれば強烈に個性的に見えるようでけっこう人気がありました。良くも悪くも目立つ人だったのでしょう。
さてかなり上手いこと発達障害を個性にできたと書けば見栄えは良いようですが、決して楽なだけではありません。
とにもかくにも自己分析を続ける日でした。「お前は客観視ができない」と両親からひたすら言われ、客観視とはなにかから始まり自分がどういう特徴があるのかズラズラ考え続けていたものです。あるモノにどういう特徴があるか知る時の基本は、他のモノと比較することです。障害の本もいくつか読みましたが、自分は平気でやるが他人がやろうとしないことを色々見て知ることが一番客観視につながったのだと今では思います。まぁおそらくそんなことは小学生の頃にやっておくのが一般的なのでしょうが…。
意義が分からない限りやらないのが私でございます。自分を理解しないと人に迷惑をかけることになると知って、ようやくこういったことを始めたのです。
まず自分が失礼なことをたくさん言う人であると理解いたしました。ウケ狙いとかではなく、何とも思わず指摘するのだからタチが悪い。特に女性の容姿については言うべきではないと学びましたね。
それに自分は集中すると周りが見えなくなるし、やると決まったことは徹底的にやるし、陰口は言いたがらないし、ツッコミで強く手を出しやすい方だし、婉曲な言い方が理解できない。こういうことをとにかくたくさん知りました。この記事を書くこと自体も客観視の一環ですね。
しっかり向き合ってみれば結構分かるものです。ただまぁ前回の記事の通り「~~という特徴であるらしい」とか上手く自覚の出来ない特徴も多くありますが。ただ、これを知るだけでも行動は変わるものです。怒られたり驚愕されることはずいぶん減りました。
月並みではありますが、大事なのはとにかく障害に向き合うことです。なんでも知っておけば「あっこれやったらダメかも」と分かるモノです。「これはしちゃダメ!あれはしちゃダメ!これはしろ!」といったようにルールを決めるのではなく、特徴を知ってその都度対応しましょう。ルール決めが必要な時があったとしても、第一優先はそこではありません。
ここまで書いて気付きましたが、中学校でのエピソードに欠けていますね。強いて挙げるなら友人がバカにされてハチャメチャに怒ったことでしょうか。
やけに他人を見下す阿呆がいまして、彼奴が私の友人を散々に罵倒したと聞いて教室に殴りこんだことがあります。結局ロクな解決にもなりませんでしたが、他人に無関心というのは「他人がどうでもいい」のではなく「自分が好いている人以外がどうでもいい」のだと知ったキッカケです。友人は他人に入らないらしく、むしろ思い入れが強いのかもしれません。
前回の記事で発達障害者がストーカーになったなどと反応がありましたが、なるほどと少し納得いたしました。
高校時代についても書こうと考えましたが、エピソード不足でありますし少し疲れたのでここで筆をおきます。
さて前回にて「アスペで友人がいるなど詐欺だ」などという反応がございましたが、実のところ私も不思議に思っていた時期がございます。おそらくはとにかく正直で、フラットで、好きな人にはそれなりの接し方をしていたからではないかと結論付けています。20年生きてきて分かりましたが、正直は美徳と言うわりにそういった人は案外少ないものです。外面を固めるのが上手い友人が私の前では豹変したようにドサドサとキツイ言葉を吐くサマは中々愉快でございます。私が楽しいから友人といるのと同じく、彼らも私といて楽しいからいてくれるのでしょう。友人への敬意と多少のユーモアがあれば、あとは個性として楽しまれるのではないでしょうか。
記事の中では母についてはいくつか触れましたが、父の出番はありませんでしたね。というのも父は私のことを本当に放っておいたのです。好きなことをしていればそれでいい、とそれだけは言っていましたが強く干渉することはありませんでした。実際に父も自分の好きなことをたくさんしていました。食事が大好きで今ではメタボなほどですが、誰の忠告も無視してまだ食べ歩きを続けています。子は親を見て育ちます。私が自分に正直に、好きなように生きているのは父が影響しているのでしょう。結局両親ともども私のために色々してくれたのです。
ご参考になれば幸いです。
何かあるたびに、どうせ知能が低いんだろう?という、無言の蔑みを、
中学のクラスメイトが言っていたが、俺の顔は、失敗した腹話術みたいとのこと。
しかし、自分で言うのも悔しいが、彫りが変に深くて、赤塚不二夫の漫画に出てくるキャラに思えることもないでもない。
見慣れた自分の顔だから、好きではあるが、もうちょっとのっぺりとしていたらと、何度思ったことか。
親は恨んだことはない。
一応、某難関国立大学卒。IQも高い。年収だって一千万円超えで、貯金も一人で生きていく分は余裕である。
しかし、人生って見た目が99.999999%なんだなと認めざる得ない。
悲しくてやるせないが。
少なくとも、増田でうろうろしている奴らよりは、金もあるし、頭もいい。
はー
インターネット、貧乏人は子供産むなっていう主張溢れすぎてしんどい。
賢くないので彼らを納得できるようないい感じの言葉で反論できそうにないから増田に長々と書くよ。
誰になんと言われようが子供欲しいし産むけど、貧乏の私が妊娠してしまうと、貧乏人はセックスしか娯楽がないのかと彼らから嘲笑されたり、生まれてきた何の罪もない子供は彼らから哀れみの目で見られるのか……なんて想像してしまうと腹が立つ。目の前で言われたら助走をつけて殴ってやるが、インターネット上の発言でなおかつ私や私の子供に直接投げかけられた言葉ではないのでどうすることもできない。
勿論、彼らの中には、貧困DQN家庭や貧困毒親家庭など貧困以外の問題もある家庭を指して「貧乏人は子供を産むな」と言っている人もいるのだろう。
でもやっぱり「貧乏人は子供を産むな!」と言われちゃうと、DQNでもないし毒親にならないように学びと注意を怠らないように努力したいと思っていても、金が無いだけで大罪だ!と責められているように感じてしまうので辛い。
今は共働きだが、私は殆どが零細企業かつ拘束時間の長い業界に勤めているので、育休なんてとれないから妊娠したら辞めるしかない。
出産後の再就職も朝から働いて定時が20時なのが当たり前の業界だからフルタイムでの勤務は家事育児との両立が難しく感じるので子供が一人で留守番できる年になるまではパートで働くことになるだろうし、そもそも保育園の競争率も高い様子なので預け先が見つかるのかもわからない。
他業界で就職するにも、非大卒の30歳の子持ち未経験が雇ってもらえる会社なんてあるのか……?
なので、子供ができると私の収入はゼロになるので、しばらくは夫の収入のみで生活することになるが、大学中退して中小企業に勤めている手取り20万程度の夫のお給料でどこまで人間らしい生活ができるのだろうか。わからない。
私の実家は貧乏で、諦めないといけないこともたくさんあったし、親は自分の都合で暴力を振るうし、日常的にブス等の暴言も吐かれていた。いつもいつもクラスメイトと自分の環境を比べては陰鬱な気持ちになり、性格も情緒もおかしくなって散々な青春時代を過ごした。
もちろん、今でも親のことはあまり好きではないが、恨んでも無駄だし、幼少期のアルバムを見るに全く愛されてなかったわけではないので、適切な距離を置いて関わっている。親も歳をとって若干丸くなったしね。
ともあれ、それでも私は、貧乏人は子供を産むななんて思ったことはない。
お金があったらなあ
暴力の無い家だったらなあ
もしもを考えるとキリがないよ。
賢くないからわからないけど、今お金がなくても宝くじが当たるかもだし、お金がなくても子供を幸せにしてあげる道を探す努力はできるはず!
でも、子供だけにかかわらず、人の幸・不幸を他人が勝手に推測して決めつけるなんてすごく失礼じゃない!?
お金には恵まれてなくても、生まれてくる子供がちょっとでも幸せに恵まれるように私は努力したいし、そうすることしか出来ないなと思う!
頑張るから、貧乏人は子供を産むなっていう人たちも気が向いたら応援してくれると嬉しいなあ
無名のアラサーの稚拙な文に、あまりにも多くの反応を頂き恐縮です。
連休中にヤケ酒した勢いで書いてしまったので、もっと色々ときちんと真面目にしっかりと書いておけば……なんて後悔もしますが、励ましやアドバイス等をたくさん与えて頂けたので書いてみて良かったなと思いました。
職場の環境がイマイチで、働き続けることにマイナスの感情しかなく辞めることばかり考えていましたが、何が何でも育児休業給付金をもらえるように、職場を頼りにせずに自力で知識や書類を完璧にすることを頑張りたいと思います!
ご心配頂いていたので後出ししますと、3Kの仕事内容で低賃金低待遇の事業所が少なくない業種ですが、一応国家資格は所持しているので選ばなければ働き口には高齢にならない限りは大丈夫かな…?と思っています。(看護師ではないです)
夫は、高収入ではないものの、いつも元気で明るくて素直でとにかく最高だし、義家族も全員尊敬できる素晴らしい人たちなので最高です。
貧乏でネガティブで根暗で卑屈だった私が、少し前向きに人生を歩めるようになったのは夫とその家族のおかげかなと思います。
あとは宝くじ等のギャンブルは、1年に3000円使う程度なのでお許しいただければと……
否定的な意見もやはりありましたが「ネットの意見に惑わされるな!」とのことなので真摯に受け止めつつも、あまり気に病まないようにします。はてなやSNS以外の趣味を見つけないとですね(ネット中毒者なので…)
追記が長くなってしまいましたが、親のエゴ以外の理由で生まれた子供なんてそんなに(ほとんど?全く?)いないと思うので、そのことを忘れずに、未来のまだ見ぬ我々夫婦の子供に愛情を注ぎたいと思いますので!よろしくお願いします!
が!まずは無事に授かれるかが問題!!
少し前の話になるがアメーバピグが終了することを知りまだやっていたのかと懐かしい気持ちになった。
俺が小学生の頃(確か小5らへん)、どいつもこいつもアメーバピグをやっていた。
それくらい流行っていた。
最初、出会い系サイトと勘違いしていた俺は流行に乗り遅れる寸前だった。
そんな時、救ってくれたのがクラスメイトのM君。
M君からアメーバピグの安全性や魅力を教わり早速、父親のパソコンで始めることにした。
アカウントを作りついにアメーバピグの世界へ。ワクワクドキドキが止まらなかった。
ハマりにハマって食事や風呂を後回しにして没頭した結果、母によく怒られたのを覚えている。
カジノエリアでブラックジャックやスロットをしたこと、魚を釣ったこと、部屋をカスタマイズしたこと、他のピグ達とお話したことなどなど全てが新鮮で楽しかった。
そんな日々がいつまでも続けばいいのにと思っていたが人生そう甘くはない。
ある出来事いや、事件のせいで僕のアメーバピグライフは崩壊した。
一応説明しておくとピグエッチとはその名の通りピグ(キャラ)同士でエッチなことをして楽しむことである。
父親が持っていた青年漫画のエロシーンでよく床オナをしていた性欲旺盛な俺にとってピグエッチは革命的であった。
リアルでは女の子とまともに話したこともないのにこっちだと饒舌になっていた。
気に入ったピグにエッチしませんか?と交渉する。OKなら自分の部屋に連れ込みピグエッチの始まり始まり。
両者、服を脱ぎちゃんと下着姿で始めるところは今思い返してみると滑稽で笑える。
語彙力のない僕は定番フレーズ「チュッ」、「くちゅくちゅ」、「パンパン」、「なめて〜」を使いまわしながら相手の女の子ピグをイかせる。相手も応えるかのように「大きすぎ」、「気持ちいい」、「あ〜いっちゃう」なんて返してくれる。
父のデスクトップパソコンは机の上に置いてあったため俺はアザラシのポーズをしながら床オナをした。
脳内でピグエッチの相手を大好きなグラドル•原○恵に変換することによってこのピグエッチ床オナはとてつもない快感をもたらした。
キーボードで「くちゅくちゅ」と相手に送り、返信がくるまでの間、目をとじ先述の妄想をし腰をフリフリさせる。
俺は犬か。
何はともあれ最高だった。しかしピグエッチは唐突に終わりを迎える。
運営がこのままではまずいと思ったのか年齢制限を設定したのだ。当然、弾かれた。
多分、アカウントを作り直せば回避できた気がする。でも当時、そこまで頭が回らなかった。
一気に冷め、俺はアメーバピグをやめた。学校でも話題に出る頻度は低くなりそして流行は過ぎ去った。
時は過ぎ現在。ネットではプレイボーイだった俺もリアルでは彼女いない歴=年齢。風俗すら行ったことがない。
年々、仲間は減っていく一方。流石に焦ってきた。