「愚行権」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 愚行権とは

2017-07-15

https://anond.hatelabo.jp/20170715024409

お、ご丁寧な回答ありがとうございますポジションを読ませて頂きまいが、かなりリベラルな印象。私自身は、大麻知識図書館にある本を斜め読みした程度です、歴史も大雑把にですが知ってます。ただ、アメリカ滞在していたことがあるので直に大麻文化に触れたことがあります

現在大麻取締法妥当かと言われると私もそうは思いません。ただ、元増田でも述べてるように私の大麻解禁反対の根幹は、個人的好き嫌いです。なので、日本ではアウトローの人がメインユーザー大麻をどんな法律で取り締まられようと知ったことではないというのが本音です。

ただ、武田先生の著書でも述べられているようにTHC禁止法として抜本的な法改正をすること自体には目をつぶります。まあ、そうするとしたら適当に薬理効果があるもの製造・所持・販売的な扱いになるんでしたっけ。

愚行権の考えから健康的に悪影響だとしても規制根拠にはならないということですが、健康への悪影響というのはすでに否定されてるのでそもそも愚行権がしっくりこない印象です。コーヒー飲むのが愚行権とは言えないように。

仮に、愚行権と捉えるにしても他人迷惑をかけないという前提が必要ですよね。アルコールタバコ迷惑被ってる件についてはお話ししている通りで、私にはにおいだけでも大迷惑です。ただ、社会最大公約数的に迷惑かを考えるとアルコールはセーフでタバコはアウトな印象。大麻はどちらの嫌な部分も持ってるので完全アウトです。なので、仮に日本タバコ文化がなかったとしたら、それが愚行権の名の元に解禁されることも許しちゃいかんと思う次第です。

飲み会と同じようなノリでないのはその通りかもしれません。ただ、飲み会につぐ新たな大麻文化のノリが加わるだけの話で歓迎するようなものではありません。正直、うざいだけです。未成年の時はタバコでさえ格好のいきがりツールになって、吸ってるヤンキー圧力をかけてくることがありました。もし、解禁されたらと考えると未成年の人たちはかわいそうだなと思います

どうも大麻開放の根拠は、大麻犯罪として取り締まる根拠がないということみたいですね。ただ、これは問題本質過小評価しすぎかと思います

たとえば、外来種規制はその種そのもの危険からではないことも多いです(今話題ヒアリ別にして)。ペットとして飼っていれば何も問題ない動物もいるでしょう。ただ、だからといって日本にむやみに持ち込んでいいわけではありません。外来種在来種生態系駆逐してしまうという影響を考慮して規制されるわけです。社会に悪影響であれば規制されるというのは、当然です。大麻に関わらず社会の影響力を考慮して規制されているもの普通に存在しています

そして、私は個人的にも社会最大公約数的にも普通に迷惑だろうと考えているわけです。特にタバコなんかはそのにおいやマナーの点において忌み嫌われてるものなのに、昨今の大麻歓迎の風潮が全くもって理解できないと思う次第です。

別にそこまで反対じゃない部分も文章力のなさで、かなり批判に偏ってますがこんな感じです。

https://anond.hatelabo.jp/20170712180305

どうも大麻解放論者です。まず、アリかナシかの白黒思考では理解できない問題です。どの程度の刑罰罰金課税規制ゾーニング妥当か?という話です。

しかに、大麻を吸いたい人の権利だけでなく、大麻を嫌う人、吸いたくない人、関わりたくない人の権利考慮されるべきではあります大麻パーティーへの強制参加などもってのほかです。

ただ現在日本大麻取締法には何の根拠合理性もありません。健康への悪影響をどれだけ並べ立てても、犯罪として扱う根拠にはなりません。これは愚行権の考え方からです。

日本大麻取締法が成立した経緯はご存知でしょうか?長くなるので端折りますが、もし興味があれば検索を。医療大麻についても。

私のポジション説明

私は下戸飲み会嫌い、嫌煙家。酒・タバコギャンブル風俗ゲームなどは一切やっておりませんので無くなってもどうとも思いませんが、犯罪として取り締まることが妥当だとは思いません。

それらを楽しむ権利は成人(かつ責任が取れる範囲)であれば誰にでもあると思ってます。ただ、アルコールタバコパチンコに関してはどんどん課税しろ、と思っています

私は同性愛者ではありませんが同性婚に賛成してます自殺願望は今のところありませんが、安楽死に賛成しています人工妊娠中絶合法化に賛成。死刑制度に反対。

風俗についてはキャバクラにすら行きませんが、売春合法化に賛成していますポルノ修正(ぼかし・モザイク)は不要。こういう考え方の延長に大麻解放論があると思ってます

私は大麻使用・所持・栽培・売買をしておりません。もしも日本合法化されることがあれば、試してみたいとは思ってます

下戸なので代替品があればいいな、という思いはありますアルコール特にビール大麻では文化が違うので飲み会のノリがそのまま受け継がれるとは思えません。カフェ居酒屋ぐらい別です。

ハラスメントへの不安

アルハラ問題現実にあるし、日本アルコールにまつわる問題に対して悪い意味で寛容過ぎだと思います。それはそれで社会的対処必要ですが、大麻とは別の問題です。

アルハラ理由現在大麻取締法正当化できません。もし将来、大麻にまつわるハラスメントが起これば、それはそれで対処必要なのは間違いはないでしょう。

質的大麻が合うか合わないか。それは実際に試してみてそれぞれが判断するしかないと思います。合う人もいれば合わない人もいる。

日本ではアルコール文化大手を振っていますが、飲めない人も存在している。合わない人、飲めない人がいるからといって、制限をする、あるいは犯罪として取り締まってよい理由にはなりません。

2017-07-06

https://anond.hatelabo.jp/20170706011344

大麻野生種栽培に手間がかからいからといって、栽培品種商品価値がなくなるわけではない。日本ならタケノコ(孟宗竹)がいい例。

そして野生種品種改良を繰り返された現行の栽培品種とでは、特性が大きく違っている。販売店(消費者ニーズ)では有効成分を多く含む品種改良された大麻が主流。野生種大麻有効成分の割合が低いため、わざわざお金を出して買う人はいない。これは生産性生産量の問題ではない。付加価値が低いからだ。現在先進的な大麻栽培では、屋内で大規模に人工照明を用いて行われているため、莫大な初期投資運用コスト必要。それも価格転嫁されるので無料にはならない。

しか大麻ビジネス投資家起業家の参入が相次ぎ、競争が激化し栽培量が増えた結果、価格は今のところ下落傾向にあるらしい。コモディティ化されつつあると表現されていた。コモディティ化するってことと、ビジネスにならない、税収にならない、市場崩壊するってことはイコールではない。コモディティ化した商品なんていくらでもある。そしてコモディティ化した商品をわざわざ違法組織が扱うメリットはない。

犯罪化することのデメリットの方がかなり大きいだろう。一方メリットはこれといってない。

別の視点からもう一つ。大麻合法化問題は、対違法組織、対ギャング治安健康だけの問題ではない。大麻を吸うことは個人幸福追求、愚行権人権に関わってくる問題なのである

なので大麻合法化へ向かってる国・州は、治安が悪い、麻薬がはびこってる地域とは限らない。リベラルな国や州ほど合法化積極的なのである。だから左翼の間でトピックにあがりやすい。違法組織麻薬犯罪が多そうな中南米東南アジア中東はそれほど大麻解放路線をとってない。先進国でこそ大麻解放が進められている。

ポルノ、酒タバコギャンブル同性愛安楽死と同列に語られる個人権利大麻健康に悪かろうと、個人選択問題であって、国家が介入し犯罪者として取り締まる理由にはならない。

健康に悪いことは犯罪気持ちがよくなることは犯罪?取り締まる法的な根拠そもそも存在しない。違法組織が絡みだしたのは違法になってから。人の作ったシステム悲劇を生んでいる。

2017-06-07

http://anond.hatelabo.jp/20170525162758

何かつられてる気もするんだけどレスしてみる。

少子化を止める」つもりの行動としてフルタイム労働(自営のぞく)をする出産適齢期の女性の数を減らす、ことは目的合致した行動なんじゃないのかな。

フルタイムで働いている女性で、そのまま出産育児なんて出来るケースはどう贔屓目に見ても少数派だ。

からフルタイム労働する女性を増やすことは間違いなく少子化を加速させる。

まり十分条件にはならないけど、必要条件としては間違いなくある。

ただ問題は、それだけでは全然足りないという話で、

などなど一杯クリアして初めて改善につながると思われるのが実際。

しかしながらそういう全体像をみないまま

「『女性仕事をさせなければ少子化改善する』と言っている人がいっぱい居る」

と思ってしまうのでは、フェミニストがどうとか関係なく言説の把握に課題が多すぎでしょう。

まぁ、釣りなんでしょうから、そんな現実に照らした診断をしても何の価値が出るわけでもない話ですね。

2017-05-18

補足解説 ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。

ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。

http://anond.hatelabo.jp/20170516141639

↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。

ついでに、最近話題ポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。

文章はいい加減だし、今日日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである

  

  

"自由"の抑圧こそが必要

たとえば、労働問題について考えてみよう。

過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?

私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。

  

過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。

人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しか労働問題においては、そういう権利適用するべきではない。

  

長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合ブラック労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである

女性労働するときハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。

  

「上から改革」が必要

明治時代日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化過程では必ず「上から改革」がある。

旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊排除することで、国民はようやく新時代適応できる。

  

たとえば女性差別がひどい国では、政府女子教育権利提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。

権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層田舎にまで女子教育を普及させるには、政府国民権利を与えるだけでは不十分であって、その権利行使することを国民義務付けなければならない。

  

重要なのは政府国民全員に強制することである

「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。

そして女子児童は、当人まだ子であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。

ここにおいて「多様な価値観尊重せよ」などという主張は有害だ。政府旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。

  

当然ながら現代日本で、後進国近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。

たとえば就活会社説明会服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令必要だ。

から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的手段なのだ

  

ポリティカル・コレクトネス必要

私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである

前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベート時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)

  

私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。

もし本物の極左ファシストであれば、プライベート時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である

  

近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。

そのときリベラル側の主張は、「女性蔑視表現政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレ配慮せよ」というものであった。

私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視であるからだ。

  

もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。

女性主体性尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ

しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性ハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別肯定するという現象からである

被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。

(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)

  

ミソジニー必要

私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。

そしてこれはあまり知られていないことだが、お上纏足強制していたわけではない。とりわけ清朝漢民族のこのバカらしい習俗忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。

女真族満州族)の建てた清朝纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命反革命行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。

Wikipedia纏足

孫引きになってしまうが、以下のような話もある。

当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑言葉を口にする。母親なかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間非難あびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである

ユン=チアン(張戒)/土屋京子訳『ワイルド・スワン』上 1993 講談社刊 p.19-20

http://www.y-history.net/appendix/wh1303-082.html

この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。

そして子供とき纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。

  

さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。

纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」

http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html

西洋女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。

これはまさしく、現代日本女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしま自家撞着するのと同じ心理だ。

ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性主体性尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。

無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足コルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別過酷ものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。

から我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしま女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである

なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。

この理論適用すれば、女がオシャレをする自由是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。

  

終わりに

twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。

リベラリズム本質的価値-自由平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。

スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より

https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995

前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。

しかし私は、どちらかと言えば多分「ラディカルな左派」寄りの立場から、まじめに女性差別撤廃せよと主張したつもりである

ジジェク言葉どおり、リベラルはここからの援護を受けなければ、その遺産を存続させることさえできないであろう。

2016-12-27

自由恋愛愚行権

自由恋愛LGBTフェミニズム少子化はそれぞれ結構な関連性を持っていると思うが、

それら4つすべてのカウンターサイドに位置する最も分かりやす概念PC的に褒められない封建的家族主義なのであまり大っぴらに語られない、というのが現状だと思う。

日本経験的に少子化を避ける為の方策として制度コストを払う対象として選ばれたのがイエ制度なら、それを廃するためにはそれ以上の知恵が必要なのだろう。

しかし、いったん蓋が開いてしまった後の社会で、まるっきり元に戻すことなどできるわけもない。

なら、せめて過去のあやまちを社会が総括するぐらいのことはしないと、新たな道の模索もできるはずがないのではないか。(LGBTに関しては過度のタブー視近代以降のもののようなので現状が変とも思わないが)

幼少期から更年期直前まで一貫してカモを育てるようなメディア商業活動規制を含め、ジェンダー教育見直しを切に願う。

2016-11-21

ノンポリからよくわかんねーけど、リベラルに反対するのも愚行権行使になるんだろうか

リベラル大麻解放を説くのは、人権問題から

ブコメに答えます。「なんでリベラルって大麻が好きなの?」短く言うと幸福追求の権利愚行権行使問題から

他人迷惑をかけない限り、個人自由人権制限されるべきではないと考えます表現規制問題でもよく出てくる考え方ですね。

他者への加害行為があった場合、その加害行為自体を罰すればいいのであって、大麻の利用自体犯罪として取り締まるのは雑すぎます

ポケモンGOや、老人の自動車運転犯罪として取り締まれば、問題解決するのでしょうか?

なんらかの規制ルール必要である、というのと犯罪としてそれ自体社会から追放しよう、というのとでは距離があります

大麻のものがもたらす害と、日本大麻取締法量刑は現状、釣り合っていないのです。

人によって作られた法律が人を不幸にしているのなら、それは人災です。ただちに見直す必要があるでしょう。

愚行権 - Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E8%A1%8C%E6%A8%A9

2016-09-28

http://anond.hatelabo.jp/20160928005843

コスパ悪い人を殺したい」じゃなくて「オレの足を引っ張るな!」じゃないかな。

「オレの世界に足手まといは要らない≒オレのリソース無駄遣いするな」って言う、ケチの発想。

愚行権に行くんじゃなくて、自己責任論に行く人って、

「オレの払った税金無駄に使いやがって」みたいな発想の延長に有る気がしてる。

生存権努力義務を課すと、どういう社会になるか深く考えてないとか、そのレベルの話でもなく)

から、その手の人が弱ったときサポートを受けるのは、今まで払ってきた税金等を考えればアタリマエで、

その手の人は「自分の払ったカネで、(その人から見て)自業自得な連中に、カネを渡すのは無駄遣いだ」と思ってる。

まれながらの障害者安楽死させたほうが世の中のためとか、

ボケちゃった老人を生かしておくのは双方のためにならないとか、

そういうのコスパって言うよりは、「オレのカネを無駄に使いやがって」って発想からきてると思うんだよね。

(正確に言えば、そういう「オレのリソース無駄に使うな」というケチさが、コスパ発想に繋がる)

これって、無い袖は振れないか選択すべきとか、底辺層を養ったほうが治安維持有効とか、そういうのとは違うと思うんだよね。

賢い人も愚かな人も、弱い人も強い人も、担税力のある人もない人も、全員で集まって集団として生きていこうっていう発想からの逸脱だと思う。

まあ、個人主義の行き着く先と言うか。

寄付文化の無い国で育った発想と言うか。

国家国家であるために、国民に対して社会権生存権)を責任として明記しているけど、それはオレの知ったこっちゃないっていうそう言うケチの発想。

払える人が払うべきって、担税力の話とかすると真っ赤になったりするから、そういう税金の話で相手立ち位置測ると判りやすいんじゃないかな。

2015-10-07

http://anond.hatelabo.jp/20151007163152

保健体育の内容なんて教師の意欲に左右されるし

性教育忌避の風潮が強い地域もあるし

全ての学校でそんなしっかりした性教育が行われている訳じゃないだろうに

一部の学校では行われているからOKってのも雑だな

そして未成年相手に「愚行権行使自由」ってか

子供保護されるべきもの、という発想すら無いんだな

2015-08-02

ある学問が行き詰まるとき

どうしたらそのことに気がつけるのだろう。

自然科学の枠組みは柔軟なので、ある仮説や理論が行き詰まることはあっても、新しいより柔軟な仮説や理論で置き換わるだけだ。

また、古い理論現実生活では十分に精度の高い近似解として扱われたりもする。ニュートン理論とかね。(それでもルイセンコみたいのが出てきたりはするが、ひとまず措く)

その一方、過去の例をみてもまるまる一つの人文科学領域が実はゴミだったってのはいくつもある。ある人文科学が行き詰まるとき、そこにはどのような兆候が顕れるのだろうか。あるいはどのようにして行き詰まるのだろうか。

その分野の専門家にまちがってなっちゃった人は、出した本の売れ行きもあるし大学ポストをなくされても困るし、行き詰まっていても気づかないふりをしてやり過ごすんだろうし、死ねというわけにもいかないから、まあしょうがない。

けど、若者がそういうすでに行き詰まった学問大学講義だけならともかく、そういうのを専門とするゼミに入っちゃったり、ましてやまちがってこれからそういう専門家なっちゃったりしたら、社会の損失じゃない。まあ、大学生だって大人なんだから、食い扶持(不動産収入とか親の遺産とか)も用意できてないのにそういう非生産的学問に身を投じて青春をすりつぶすのだって愚行権の一部だっていう見方もできるのはわかるんだけどさ。

2015-03-25

http://anond.hatelabo.jp/20150325023346

愚行権定義だとか、公共の福祉抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態人間社会契約することで社会が成立するだとか

そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ

出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所

Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった

そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた

結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった

人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした

もちろん、アニメというのは個性能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものから仕方ないし当たり前だ

人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する

からこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ描写必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ

さて、細かい経緯を描き並べる

適当に拾い読みしてくれれば良い

碇シンジが首を絞めた理由としては、ここを参考に所が大きい

碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシジレンマになっている状態だ

自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である

精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり対象愛、つまり他者他者として認め愛そうとはできない部分だ

(つまり自分を愛していて、安定しているか他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)

旧劇における結末は、どのようなものだったか

描写としては「碇シンジ他者存在必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう

すべてを一つにしてしま混沌を母的な存在とするなら、自己他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である

父的側面の足りない碇シンジ自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する

(なお、旧劇の該当シーンで地球細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想自分は持っている)

人と他者が分離すれば、そこには常に自己愛の危機がある

ATフィールド訳語絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである

人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない

しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?

碇シンジは旧劇終盤でアスカの首を絞めた

それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している

からアスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した

ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する

さて、旧劇における首絞めの理由共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った

(例として、新劇・破における碇シンジ自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)

そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程結論は間違いだったのかと思った

シンジデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった

そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した

結論から言えば、人は完璧世界(他者が居らず、自己愛けが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ

坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである

生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない

そこまで考え、旧劇における結論他者存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った

碇シンジ他者を認めつつあり、自分葛藤自分なりに処理していくことができるようになるだおる

しかし、その過程にてエラーがあった

碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった

復活したのはアスカだけである自分は思っている

あの世界では、もう生きようと思っても生きられない

さらに言えば、その過程碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界人間の救いを奪ってしまった

そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ

そういう結論から碇シンジ内面が何の関係もない他者人生世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だからエヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない

いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い

現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界他者が壊れないのと別に

セカイ系においてはそうした葛藤世界他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしま

ある意味で、作品世界全部が主人公と一体化しており

それはその作品世界主人公が神になり、幼児的な万能感を得ているような感触を受ける

からこそ、最初エントリでは「だからエヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」と書いた

2014-09-24

愚行権」じゃなくて、「多様性を認めて欲しい」じゃないの?

いまの愚行権の話題ってさ

Beeメイツになろう!」と題名で釣った上で

國府田マリ子のすばらしさを語って「國府田マリ子を称えるBeeメイツになろう!」ってシメ

Beeメイツはそうじゃねえだろ」って総ツッコミ食らってるように見えるんだよね。

分かり難いか。

「オマエの愚行権の使い方はどう考えても間違っている」

まずね、id:netcraftさんは謝った方が良い。

愚行権」という単語定義される概念は、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論(1859年)」にあって、

それなりに一般的学術用語として、その歴史的な経緯を踏まえて定義けがなされている。

から、いかにキャッチーであろうとも、自分表現したいことを「愚行権」とラベリングした時点で、

「オマエの言う愚行権は、ミル定義とは違うし無知乙」と言われるのがオチで、学術的にも混乱を招くので良くない。

原則の第一は、個々人は、その行動が自分自身以外のだれの利害とも関わらないかぎり、自分の行動について社会にたいし責任がないということです。他の人たちが自分利益のためには必要と考えてなす、忠告、指図、説得、忌避は、社会が彼の行為にたいする嫌悪非難を正当に表現できる唯一の手段なのです。第二には、他人の利害を侵害するような行為については、個人に責任があり、もし社会がその防衛のためには社会的処罰や法的処罰必要だという見解をもつなら、そのどちらかの処罰に服すだろうということです。

http://page.freett.com/rionag/mill_js/lib.html 第五章応用 より

利害関係がなければ社会に対して責任は無いが、

他人が、忠告、指図、説得、忌避をするのは、嫌悪非難を正当に表現できる唯一の手段としてる。

ミル結構過激で、飲酒が原因での暴行前科があれば、飲酒に対しての予防的な制限適法とまで書いてる)

からnetcraftさんが主張したいコトのために「愚行権」という単語を使うのは、全くもって間違っている。

多様性の許容じゃないの?

netcraftさんが主張したいことって、ダイバーシティマネジメント概念に近いことなんじゃないの?

Twitterバカ発見器と言われるように、私達はソーシャルメディアを通じて毎日全国や全世界馬鹿発見しては、イナゴのように食い散らかして消費する。

彼らの愚行権行使尊重しようとする態度が見られない。

愚行権行使が認められるネット社会をつくろうぜ!

http://www.open.sh/entry/20140923/1411463422

このエントリで言わんとしていることは、「愚かなことを表現しても、他人から忠告、指図、説得、忌避嫌悪非難表現をされないこと」じゃないの?

このままでは混乱を招くので、ここでは仮に「愚表権」とするな。

  1. 愚行権は、認められるべきだ
  2. 愚表権もまた、認められるべきだ

この場合、1番目まではアグリー人間であっても、2番目はノーセンキューだったりするだろう。

愚行権は、認められるべきだ

そりゃそうだろう。今だって認められてる。

他人に害を及ぼさない限り、例え「他人から見て」愚かでも、現在だって自由に行える。

(その人が子供だったり、錯乱していたり、興奮したり上の空で、よく思案する能力が十分使えないというのでなければ)危険の警告を受ければ十分で、危険に身を曝すことを無理矢理防ぐ必要はないと思います

ミルは少なくともそう言っているし、現状でも限りなくそれに近いことになっている。

ただ、ミル自己責任で、自分犠牲になっても良しとせよと言っているけど、実際には警察消防等のリソース(つまり税金)が投入されてる。

飲酒検問中州に取り残されたBBQ民の救助、山岳救助等々。

から、「自分自身以外のだれの利害とも関わらない」については、ある程度予想できることについては予防的に禁止されてる。

この線引きに文句を言いたいわけじゃなかろう。

愚表権もまた、認められるべきだ

netcraftさんが主張したいことってこっちじゃないの?

たぶん一番近い表現は、the right to diversityだけど、より広い概念だと思うんだよ。

肌の色、国籍宗教性別趣味差別されるべきでない、許容すべきだって言うのは、その通りで、ダイバーシティーなんて単語が使われてる。

例えば、「私はキリスト教徒です」というだけで、会社での昇進が遅れたり排除されるのは、正義ではない、と今の社会はされている。

「オマエはアイヌであることを止めないんだから自己責任の基、ネットイナゴ政治家からヘイトも受容すべきだ」とはならないだろう?

(それがアグリー社会もあり得るが、現代日本ではそれは政治的には正しくない態度とされている)

この、「趣味」の部分に、極端な性癖であるとか、「刑事罰に至らないような行為」を入れて欲しいって事じゃないのかい

放置権、みたいなもの確立されて欲しい

俺が愚行権の話を読んで真っ先に思い出したのは、NHKの「ドキュメント72時間トランクルーム もうひとつ秘密の部屋」なんだよね。

取材されていた人達は、それが他人には理解されないと痛々しいほどに理解していた。ただ、そっとしておいて欲しいと願いながら。

趣味嗜好で、バレたら後ろ指をさされながら生きていかなきゃいけないって、やっぱり間違ってると思うんだよね。

今までは、勝ち取ってこないと権利は得られなかった。

レインボーフラッグ振って、主張して主張してやっと、「居て良い」レベル

アナと雪の女王だって、どうみてもカミングアウト後の家族との和解物語だろ。

でも、ミル愚行権ではそこまでは保障していない。

他人から、誰に迷惑をかけるわけでもない趣味に対して、忠告、指図、説得、忌避嫌悪非難表現をされる。

そうされない権利確立されて欲しい。

まとめ

ある程度以上定義けがなされた単語を使うときは、注意しよう。

刑事罰に至らないような行為」を許容して欲しいという主張は判る。が、それを愚行権とは呼ばない。

ネット上での愚かな行為を、ムスリムを見つけては過激なメンション飛ばさないのと同じで、尊重しようっていう主張は判る。

netcraftさんの主張とは違うが、放置権みたいな「叩くのではなく、そっ閉じ」される権利は、確立されて欲しいと思う。

---

なお、自由論についての引用部分は、

 John Stuart Mill : On Liberty (4th ed.1869 [Originally published in 1859])の日本語訳である

 自由について、ジョン・スチュアート・ミル:著、永江良一:訳 http://page.freett.com/rionag/mill_js/lib.html より行った

2014-09-23

東洋の対人感覚西洋の対人感覚の違いを

説明するのに

東洋は「己の欲せざる所は、人に施す勿れ」(論語)というような消極的関与が理想なのに対し、

西洋は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(聖書)ような積極的関与が理想ということになっている

というのは、随分前からよく聞いたが、

西洋にもゴッフマンのいうような「儀礼的無関心」とかJ.S.ミルの「愚行権」という考察もあるし、

東洋にも、というかまさに論語自体にも「義を見てせざるは勇なきなり」というのもあるから

そんな単純な話じゃないと思う。

いま学食で、いいオジサマたちが気持ちよさそうにものすごく主語の大きい話をしてて、それで、その話とは直接関係ないけど、上のようなことを考えた。

※まあ、内容的には似たような感じ。世の中を二分論で説明できれば苦労しないし、あなた研究分野だってそんな単純なはずはないのだが、と思う。

2014-08-03

http://anond.hatelabo.jp/20140803154547

残念ながら現代においては自由は愚行権範囲内でしか認められることはない。

中世へ行くためのタイムマシーンの開発を急ぐべし。

2013-06-17

http://anond.hatelabo.jp/20130614233627

なんかこのことを誰も指摘しないのが気になったから書く。

そしてこの前提、そして言うまでもなく「他者危害原則」が現代スタンダードからである

他者危害原則は、普通愚行権(「他人に迷惑かけなければ何やってもいい」)という話だが、裏を返せば「他人に迷惑かけることはしてはならない」ということでもある。そして、出産とは根源的な他者危害行為である

というか、他者の存在のもの害悪なのだ

この話のキモはここだよね。

もっと言えば「迷惑」とは何か?って問題。

不衛生にしてるせいで強烈な体臭を放つ人がそのまま電車に乗ったら迷惑だろうが、一方で人間ならある程度の体臭があるのは仕方がないだろう。

じゃあどこから迷惑で、どこまでが迷惑じゃないのか?

迷惑とそうじゃないことの境目ってなんなのか?

あるいは境目なんてそもそも無いのか?

迷惑ってなんなのか?

そして子作りすることはそれに当てはまるのか?

2013-06-16

子宮頸ガンワクチンは、「女性幸せ」を求める人とそうでない人で、評価分かれる。

厚生労働省の「子宮頸ガンワクチン接種勧奨中止」で、はてな村が大混乱に陥っている。

はてな村は、したり顔の接種推進論者が多く、反対論者を「陰謀論に毒された、カワイソウな人」とトンデモ扱いしていた。

そのため、本来なら行うべき科学的な安全性の論証を、思考停止して怠っていた側面は否めない。

自分も、このワクチンについて

ビルゲイツ陰謀だ」「不妊ワクチンだ」という陰謀論には辟易しているが、

でも

「なんで、あそこまで痛がるワクチンの接種を半強制するのか、

 ワクチン接種がイヤな女子の『接種をしない愚行権』は、保証してあげればいいのに」とは思っていた。

その意味では、「接種しない自由」を保証した今回の決定は、基本的に歓迎。

と、基本的な自分スタンスを表明した上で、本題。

ワクチンを接種すべきか否か、「科学的」な見地では

「接種した場合の死亡リスク(副反応リスク)と、接種しない場合の死亡リスクを天秤にかけ、

 接種しない場合リスクが大⇒接種勧奨(又は接種義務化)、

 接種した場合リスクが大⇒接種見合わせ」が正しい、とされてきた。

喩え話で言えば、

「接種することで、女性100万人のうち1,000人が副反応で死亡したとしても、

 接種しないことで、1,000人以上が死亡するなら、接種した方が望ましい」という天秤になる。

しかし、こういう単純なロジックは、「接種時と発病時のタイミングのズレ」という、

子宮頸ガンワクチン特有の問題を、一切無視した議論ではないか

実際、子宮頸ガンを実際に発病するのは、接種する年代(10代)でも、いや20代でもなく、

大体は40代とか50代、それ以降である

仮に、「接種することで、10代で100万人中1,000人が死亡する」、

「接種しないことで、50代に100万人中1,000人が死亡する」という場合

(話を単純化させている)、それは「天秤にかけるとイコール」と判断していいのか?

医学関係者は兎も角、当の女子たち(と親)の感覚

「なんで、リスクを先取りしなきゃいけないの!!」と感じるだろう。

まあ、「100万人中、どっちも1000人」だと、

医学関係者も「やめておこう」という判断になるだろう。

では「接種することで、10代で100万人中1,000人が死亡する」、

「接種しないことで、50代で100万人中500人が死亡する」という場合は、どうなのか?

この場合、「死亡率が半減する」という「接種の便益」がある。

その見返りに「女性の華のエイジ、10代20代30代を棒に振る」ということになる。

この場合の判断は、微妙である

「死亡率が半減しているんだから、便益がある、接種すべきだ」という意見もあるだろうが、

女子の間では「そんな先の死亡云々なんかより、目の前の青春が奪われるのがイヤだ」と拒否する女子の方が多いのでは?

では、「接種することで、将来の死亡率が100分の1になる」場合は?

こうなると、天秤的には「便益が強いから、接種させよう」となるだろうが、

「10代20代30代を謳歌したい、40代以降のオバサン人生は『余生』だから

 そんなのいっさい気にしない」という

「10~30代の女の幸せ人生価値の重きを置いている」女子に言わせれば、

「50代で死んでも別に構わない、それより目の前の幸せが逃げるのがイヤ」となる。

まり、「10代20代30代に、女の幸せを追求する女子」にとっては、

接種便益倍率を相当に高倍率にさせないと、接種を魅力に感じなくなる。

一方、「自分はそんなに女の幸せを追求しない」という「割り切り女子」の場合は、

接種便益倍率が低倍率であっても、接種に魅力を感じる。

ということで、「接種主体が、どういう価値観を抱いているか?」で、

「接種便益が変わってしまう」、実はここが子宮頸ガンワクチン接種の「難しさ」ではないか

「たくさん恋をしたい、早く結婚したい、40代以降は無視」というスイーツ女子にとっては、

接種便益100倍でも「接種ヤダ」となるし、

別に恋に関心ない、20代30代も淡白に生きて、そのまま40代50代も淡白に生きる」という

草食女子にとっては、接種便益10倍でも、「接種したい」となる。

これは、裏返して言えば、

「女の幸せは恋をすること、結婚すること」というジェンダー価値観を重視する人は

「接種メリット乏しい」となるし、

「女の幸せ恋愛結婚、という押し付けはオカシイ」というアンチジェンダー価値観女性解放論者)から見たら

「接種メリットが強い」となる。

ジェンダー価値観論者から見たら、

女の子が最も人生が輝いている20代30代を、副反応で奪うのはオカシイ」となるし、

女性解放論者から見たら

40代50代の『閉経したオバサン』にだって価値はある。その世代の死亡率を下げてくれるワクチンはすばらしい」となる。

2013-06-14

「生まれない方が良い」の現代性、正当性

子供を作るのは鬼畜所業。それか馬鹿http://anond.hatelabo.jp/20130613154103

はじめに言っておくと全面的に同意する。

ずっと自分も考えてきたことだった。

そのうえで、この「生まれない方がマシ」というこの主張は時代性というか、現代体現しているように感じる。

なお、他の「生まれない方がマシ」言説として、学術レベルではこんなのがある。

http://www.amazon.co.jp/Better-Never-Have-Been-Existence/dp/0199549265

この人は比較最近知ったのだが、2ちゃんねるでもスレが建てられるなど、徐々に認知度は上がってきているらしい。

あとシオランは有名だよね。

話を戻すと、はっきり言って,少しも異常な議論だとは思えない。

快を善とし苦を悪とする功利主義的前提を徹底すれば不可避的に行き着く結論だからである

そしてこの前提、そして言うまでもなく「他者危害原則」が現代スタンダードからである

他者危害原則は、普通愚行権(「他人に迷惑かけなければ何やってもいい」)という話だが、裏を返せば「他人に迷惑かけることはしてはならない」ということでもある。そして、出産とは根源的な他者危害行為である

というか、他者の存在のもの害悪なのだ

「生まれない方が良い」の現代

すでにその一部を書いたところだが、根本的には「ネオリベ」。これに尽きる。

「なんだまたはてサか」と思わずに聞いていただきたい。

話は簡単である

現代とは、社会の改良(福祉的な方向での)に対する希望がまったく失われた時代である

というか“社会存在しない”ので、そもそも改良することも、異議申立てをすることもできない。

こうして一切が「自己責任」となるなか、昨今の科学的知見は、遺伝子・幼少期の環境といった本人にどうしようもないレベルで「人生運ゲー」というミもフタもない事実を、私たちに突きつけてくれる。つまり自己責任」とは自由意志がどうのといった話ではないのである

資本主義はもう近代自由主義とも無関係になってしまった。

しかし、唯一これだけは私の責任ではないと主張できることがある。

しかもそれは事前に防げたことである

もちろん、生まれたことである

まずはこれがひとつ

(なお、これに対し、「現に生きていることをもって出生の事後承諾とみなす」という主張が考えられる。裏を返せば「生まれたくなかったんなら、死ねば?」というわけであるしかし、自らの意志によって生まれたのでない者が、自らの意志によって死なねばならないとは甚だ不条理である。というか、この場合、死に方については論議できない。つまりその人が「大量殺人を犯して死刑になる」という死に方を選んでも文句は言えない。実際、この種の通り魔たちは<生まれない>という行為?に及んだのだと私は考えている。私のいう<生まれない>とは、あらゆる自発性・主体性能動性の拒否であり、したがってその者は「生かされる」か「殺される」しかない)。

自我に倦む

現代自意識肥大していく時代である

これはさまざまな要因が絡んでいるが、ぱっと思いついたものを挙げるとこうなる。

①個人化

生活上の選択肢の爆発的増加

生活の具体性の消滅

最後のものだけ説明すると、人類は生まれてこの方、空間時間を縮めることに専念してきたといえる。

少しでも速い移動手段を求めた。空間を均質化し、通信技術を発達させ、どこにいても同じように振る舞えるようになった。

あらゆる場所は「ここ」になり、あらゆる時は「いま」になった。

「いま、ここ」とやたら耳にするように、実のところ時と場所とが極限までに抽象化されてしまった。

こうして「私」が場所と時にかかわらず重要になったのだ。

ところがこの「私」とは主観的には唯一存在だが、客観的には「いま」「ここ」と同じくらい抽象的なものである

まり「私」にも何ら内実は伴わない。

自我の内実を埋めてくれる具体的な生活空間経験は、多くの現代人には得がたいものになった。

やがて人々は「私」にウンザリし始めた。

思えば、多くの娯楽作品が「私の抹消」を描いてきたのは、偶然だっただろうか?

このテーマ近年になって伊藤計劃ハーモニー』が完成させたのだが……私自身の話をすると、自分のなかの「モヤモヤした気持ち」を「生むという鬼畜外道所業発見」にまで至らせてくれたのは、ほかならぬこ小説であった。

英語でも日本語でも、生誕は受動態で語られる。

では、人間はい能動態になるのだ? 

あるとき「なった」と勝手に見なされるだけだ。現代人は何よりもまず、自由を強制されている。

自由の強制から逃れ、自由から自由になるために、「生まれないこと」を要求する人は今後も増えるだろう。

2012-07-02

http://anond.hatelabo.jp/20120702183933

子宮頸がんワクチンでショック死したという話は聞かないけど

子宮頸がん普通に死に至る病治療費もかさむので

つべきだと思う。

って言われてオシマイなんじゃね?

社会全体の感染リスクの低減というのは接種を正当化するのに理屈として弱いという話をするなら、

そもそも「痛いのがイヤだからしない」というのが接種拒否の理屈として弱い。

同じ理屈で全ての医療行為が拒否できることになっちゃうじゃん。

百歩譲って愚行権というより自己決定権という路線で認めてもらおうにもあまりに弱すぎる。

麻酔打たれて接種させられそう。

愚行権としての「子宮頸がんワクチン拒否権」を認めよ

子宮頸がんワクチン接種で、一部の女子

「激痛を理由として、失神等のトラブルを起こした」と報じられている。

この事象自体は、

ワクチンが不良だったから、失神等のトラブルが発生した」のではなく、

「激痛そのものトラブルを惹起した」ようであり、

自分統一教会のように「このワクチン日本民族絶滅陰謀だ」という

トンデモ論には真っ向から反対する立場ではあるが、とはい

「激痛を伴うワクチン接種を、義務化するのは、女子が可哀相じゃないか?」と

同情してしまう。

素人考えでは、

「経口ワクチンを開発できないのか?」とか

「せめて筋肉注射じゃなく、痛みの少ない接種法を工夫できないのか?」とか

心配してしまうのだが、

「現状の、激痛な筋肉注射方法しか、接種方法がない」

のであれば、

愚行権としての、子宮頸がんワクチン拒否権を、認めてあげるべき」じゃないか

「少子」を書いた酒井順子が、

子供を作りたくない理由の隠れた主因は、陣痛が痛すぎるからじゃないか?」

と看破していたが、同様に

子宮頸がんワクチンの接種は痛すぎるから、受けたくない」という

子供じみた接種拒否権」も、認めてあげるべきじゃないのか?

社会予防接種を個人に強制する理由としては、

「接種主の感染リスクを低減する」こと以外に、それ以上に

社会全体の蔓延リスクを低減する」ことが挙げられる。

しかし、子宮頸がんについては、

「激痛を伴う接種」の説明理由として、「社会全体の子宮頸がん蔓延リスクを低減したいから」

というのは、「激痛接種を正当化するには、いささか理由が弱い」のでは?

接種を嫌がる女子生徒に対し、

社会全体の子宮頸がん蔓延リスクを低減したいから、激痛に耐えろ」と説得しようとしても、

自分避妊具を付けるから大丈夫だ」

とか

自分は一生男と交わらないから、大丈夫だ」と反論されたら、どう逆反論するのか?

子宮頸がん予防を

自分感染リスクの予防のため」という説得が主因なのであれば、

「痛いのがイヤだから接種しない、万一のリスク自分が負う」

という「愚行権自己決定権」も認めてあげるべきだと思う。

女子中生は自己決定を下すには早すぎる、女子中生の意思を無視して

 強制接種して、激痛に耐えるべきだ」という考えは、いささかパターナリズムじゃないか

というか、今の女子中生はネットも駆使しているから、

子宮頸がんワクチン接種って、死ぬほど痛いんだって~」という情報が駆け巡っているのでは?

そういう情報が出回れば出回るほど、接種時の恐怖感が増大して、失神事故が多発して・・・悪循環である

実際接種現場では、「ネットで痛い、と聞いているから、接種受けたくない」の類の

接種拒否が多発しているのでは?

早急に「痛くない接種法」の開発が必要なんじゃないか、と思う。

(接種率の向上に繋がるため)

2012-04-18

http://anond.hatelabo.jp/20120418124713

人には愚行権必要だ。

レバ刺しを黙って見過ごすと次は登山武道スポーツ刺身、生卵、餅、どんどん規制されて何も出来なくなるぞ。

他人が死にたがってるように見えても、許して欲しいものだ…。

2011-06-26

wwwww文体ってそんなに読みにくいか

・お尻に「wwwww」がつくだけ

・つく場所はいつも語尾

・変な活用形もない

・注意して追わないと文の意味が変わる、なんてこともない

・なによりアルファベットひらがな漢字とはパッと見でも形が違うので

 wがいくつあったって割と簡単に目と脳でフィルタ出来る。




一方、

何の罪も無いのに引き合いに出して申し訳ないが

tikani_nemuru_Mの人が書くにゃーにゃー文の方がよっぽど読みにくいでしょ。


・お尻に「ですにゃ。」がつくだけ、ではない。

・「すまにゃーけど」などのように文の途中でも入れられるとこにはほぼ全てに無理して挿入

・「にゃんが。」「にゃ。」「にゃー。」「にゃーけど、」「にゃーのだよ。」など無駄に活用多数

・大雑把に言っても、

 ただの飾りの「にゃー」の場合と、「無い」を「にゃー」にしている場合とがあるので

 注意して読まないと文意が正反対になったりする。

・なにより、「wwwwww」と違い「にゃ」は短いひらがななので、日本語の文から目・脳フィルタで除くことが難しい。



あと個人的に一番イラつくのは

この無意味にそろえたにゃーにゃーの中で

から、愚行を批判するのは勝手にやってくれ、といってるだろ? 

もちろん忠告も説き伏せも説得も懇願も好きにすればいいだろが。

誰かが愚行批判をやめるべきだとか言ったかい?(3)

かいうふうに、

まるっきりにゃーにゃーを忘れてる段落がポツポツ現れること。

馬鹿で何がワリイ」と言うほかにゃーんだが。

権力に対して「バカでいる権利」を主張できにゃーんだったら、愚行権なんて実際に何の意味もにゃーだろうが。

mojimojiロジックでは、最終的に「真理」に従わなければならなくなるだろ。愚行権形骸化させてるのはチミのほうさ。

と言う風に途中からにゃーにゃーをやめちゃう段落も。


いや、自分でも面倒だったり忘れたり、

力入れて言いたい部分で邪魔になってやめたりしてるぐらいなら、

もう完全にやめればいいじゃないかにゃーにゃーは。


ほんとに何のためにやってるんだ?

キャラ付けとしても半端で意味不明だし、シンプルながら凄く文の邪魔だし、

から読み取る限り、書いてる本人にもあれがそれなりに負担であり続けてる。何年やっても慣れないぐらいには。

彼の読者に、あのにゃーにゃーから良い効果を得てる人は居るんだろうか。

(それなりに彼のダイアリーに親しい人であれば「あれが味」ぐらいのお世辞は言うだろうがそれは作法だ)

もはや文のセンスの悪さを強調するみたいな効果しか奏してない。


こりん星みたいな、

もはや引っ込みがつかなくなってるだけの変な設定・キャラ立てであれば

「せーの」でやめちゃうというのはどうなんだろうか。

彼のダイアリーの読者もそこは意地悪な突っ込みはしないで気づかない風に触れずに流すってことで。

2010-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20100906152427

いや、だから、従わなくても良いんだよ?

愚行権を行使するのは自由さ。

勝手にやれば良い。

ひろゆきみたいに、裁判命令無視するのだってあり。

結果として、単位がなくなったり、実刑が履歴に残ったり、反則金慰謝料払う羽目になったりするけれど、好きにする事はできる。

あなたにルールがあるように、世間にもルールがあるというだけ。

http://anond.hatelabo.jp/20100906135332

カンニングしてもいい」かどうかではなく「カンニングしてはいけない理由はない」だよ。

だから、愚行権は行使して良いんじゃないの?

誰にもそれを止める事はできないよ。

ただ単に、見つかったときに「ばーか」って笑ったり、「クズ」と罵ったりするだけ。

で、実際「カンニング問題の彼」は今そうなっているわけだけれど。

その状態に疑問があるから問いを立てたんじゃないの?

そうでないなら、好きなだけ愚行権を行使すればいいんじゃないかな。

やってもいない事業をでっち上げ詐欺しても良いし、腐った商品を薬品使って新鮮なように見せて売っても良いし、人を殺しても良いと思うよ。

あなたが愚行を行う事自体は誰にも止められないから。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん