はてなキーワード: 愚行権とは
お、ご丁寧な回答ありがとうございます。ポジションを読ませて頂きまいが、かなりリベラルな印象。私自身は、大麻の知識は図書館にある本を斜め読みした程度です、歴史も大雑把にですが知ってます。ただ、アメリカに滞在していたことがあるので直に大麻文化に触れたことがあります。
現在の大麻取締法が妥当かと言われると私もそうは思いません。ただ、元増田でも述べてるように私の大麻解禁反対の根幹は、個人的な好き嫌いです。なので、日本ではアウトローの人がメインユーザーの大麻をどんな法律で取り締まられようと知ったことではないというのが本音です。
ただ、武田先生の著書でも述べられているようにTHC禁止法として抜本的な法改正をすること自体には目をつぶります。まあ、そうするとしたら適当に薬理効果があるものの製造・所持・販売的な扱いになるんでしたっけ。
愚行権の考えから健康的に悪影響だとしても規制の根拠にはならないということですが、健康への悪影響というのはすでに否定されてるのでそもそも愚行権がしっくりこない印象です。コーヒー飲むのが愚行権とは言えないように。
仮に、愚行権と捉えるにしても他人に迷惑をかけないという前提が必要ですよね。アルコールやタバコで迷惑被ってる件についてはお話ししている通りで、私にはにおいだけでも大迷惑です。ただ、社会の最大公約数的に迷惑かを考えるとアルコールはセーフでタバコはアウトな印象。大麻はどちらの嫌な部分も持ってるので完全アウトです。なので、仮に日本でタバコ文化がなかったとしたら、それが愚行権の名の元に解禁されることも許しちゃいかんと思う次第です。
飲み会と同じようなノリでないのはその通りかもしれません。ただ、飲み会につぐ新たな大麻文化のノリが加わるだけの話で歓迎するようなものではありません。正直、うざいだけです。未成年の時はタバコでさえ格好のいきがりツールになって、吸ってるヤンキーが圧力をかけてくることがありました。もし、解禁されたらと考えると未成年の人たちはかわいそうだなと思います。
どうも大麻開放の根拠は、大麻は犯罪として取り締まる根拠がないということみたいですね。ただ、これは問題の本質を過小評価しすぎかと思います。
たとえば、外来種の規制はその種そのものが危険だからではないことも多いです(今話題のヒアリは別にして)。ペットとして飼っていれば何も問題ない動物もいるでしょう。ただ、だからといって日本にむやみに持ち込んでいいわけではありません。外来種が在来種の生態系を駆逐してしまうという影響を考慮して規制されるわけです。社会に悪影響であれば規制されるというのは、当然です。大麻に関わらず社会の影響力を考慮して規制されているものは普通に存在しています。
そして、私は個人的にも社会の最大公約数的にも普通に迷惑だろうと考えているわけです。特に、タバコなんかはそのにおいやマナーの点において忌み嫌われてるものなのに、昨今の大麻歓迎の風潮が全くもって理解できないと思う次第です。
どうも大麻解放論者です。まず、アリかナシかの白黒思考では理解できない問題です。どの程度の刑罰、罰金、課税、規制、ゾーニングが妥当か?という話です。
たしかに、大麻を吸いたい人の権利だけでなく、大麻を嫌う人、吸いたくない人、関わりたくない人の権利も考慮されるべきではあります。大麻パーティーへの強制参加などもってのほかです。
ただ現在の日本の大麻取締法には何の根拠も合理性もありません。健康への悪影響をどれだけ並べ立てても、犯罪として扱う根拠にはなりません。これは愚行権の考え方からです。
日本で大麻取締法が成立した経緯はご存知でしょうか?長くなるので端折りますが、もし興味があれば検索を。医療用大麻についても。
私は下戸で飲み会嫌い、嫌煙家。酒・タバコ・ギャンブル・風俗・ゲームなどは一切やっておりませんので無くなってもどうとも思いませんが、犯罪として取り締まることが妥当だとは思いません。
それらを楽しむ権利は成人(かつ責任が取れる範囲)であれば誰にでもあると思ってます。ただ、アルコール、タバコ、パチンコに関してはどんどん課税しろ、と思っています。
私は同性愛者ではありませんが同性婚に賛成してます。自殺願望は今のところありませんが、安楽死に賛成しています。人工妊娠中絶合法化に賛成。死刑制度に反対。
風俗についてはキャバクラにすら行きませんが、売春の合法化に賛成しています。ポルノの修正(ぼかし・モザイク)は不要。こういう考え方の延長に大麻解放論があると思ってます。
私は大麻の使用・所持・栽培・売買をしておりません。もしも日本で合法化されることがあれば、試してみたいとは思ってます。
下戸なので代替品があればいいな、という思いはあります。アルコール、特にビールと大麻では文化が違うので飲み会のノリがそのまま受け継がれるとは思えません。カフェと居酒屋ぐらい別です。
アルハラの問題は現実にあるし、日本はアルコールにまつわる問題に対して悪い意味で寛容過ぎだと思います。それはそれで社会的に対処が必要ですが、大麻とは別の問題です。
アルハラを理由に現在の大麻取締法は正当化できません。もし将来、大麻にまつわるハラスメントが起これば、それはそれで対処が必要なのは間違いはないでしょう。
体質的に大麻が合うか合わないか。それは実際に試してみてそれぞれが判断するしかないと思います。合う人もいれば合わない人もいる。
日本ではアルコール文化が大手を振っていますが、飲めない人も存在している。合わない人、飲めない人がいるからといって、制限をする、あるいは犯罪として取り締まってよい理由にはなりません。
大麻の野生種は栽培に手間がかからないからといって、栽培品種の商品価値がなくなるわけではない。日本ならタケノコ(孟宗竹)がいい例。
そして野生種と品種改良を繰り返された現行の栽培品種とでは、特性が大きく違っている。販売店(消費者ニーズ)では有効成分を多く含む品種改良された大麻が主流。野生種の大麻は有効成分の割合が低いため、わざわざお金を出して買う人はいない。これは生産性や生産量の問題ではない。付加価値が低いからだ。現在の先進的な大麻栽培では、屋内で大規模に人工照明を用いて行われているため、莫大な初期投資と運用コストが必要。それも価格に転嫁されるので無料にはならない。
しかし大麻ビジネスに投資家や起業家の参入が相次ぎ、競争が激化し栽培量が増えた結果、価格は今のところ下落傾向にあるらしい。コモディティ化されつつあると表現されていた。コモディティ化するってことと、ビジネスにならない、税収にならない、市場が崩壊するってことはイコールではない。コモディティ化した商品なんていくらでもある。そしてコモディティ化した商品をわざわざ違法組織が扱うメリットはない。
別の視点からもう一つ。大麻合法化の問題は、対違法組織、対ギャング、治安、健康だけの問題ではない。大麻を吸うことは個人の幸福追求、愚行権、人権に関わってくる問題なのである。
なので大麻が合法化へ向かってる国・州は、治安が悪い、麻薬がはびこってる地域とは限らない。リベラルな国や州ほど合法化に積極的なのである。だから左翼の間でトピックにあがりやすい。違法組織や麻薬犯罪が多そうな中南米、東南アジア、中東はそれほど大麻解放路線をとってない。先進国でこそ大麻解放が進められている。
ポルノ、酒タバコ、ギャンブル、同性愛、安楽死と同列に語られる個人の権利。大麻が健康に悪かろうと、個人の選択の問題であって、国家が介入し犯罪者として取り締まる理由にはならない。
健康に悪いことは犯罪?気持ちがよくなることは犯罪?取り締まる法的な根拠がそもそも存在しない。違法組織が絡みだしたのは違法になってから。人の作ったシステムが悲劇を生んでいる。
何かつられてる気もするんだけどレスしてみる。
「少子化を止める」つもりの行動としてフルタイム労働(自営のぞく)をする出産適齢期の女性の数を減らす、ことは目的に合致した行動なんじゃないのかな。
フルタイムで働いている女性で、そのまま出産・育児なんて出来るケースはどう贔屓目に見ても少数派だ。
だからフルタイム労働する女性を増やすことは間違いなく少子化を加速させる。
つまり十分条件にはならないけど、必要条件としては間違いなくある。
などなど一杯クリアして初めて改善につながると思われるのが実際。
「『女性に仕事をさせなければ少子化が改善する』と言っている人がいっぱい居る」
ともあれ、ハイヒールは滅ぼさねばならない。
↑ これの筆者である。私がこのエントリを書くにあたって意識したのは、共産主義、ファシズム、ラディカル・フェミニズムだ。そこにミソジニーの味を加えてみた。
ついでに、最近話題のポリコレも組みこんだ。その点ではリベラル思想も汲んでいる。
文章はいい加減だし、今日の日本において実現可能性はゼロだと思うが、この主張自体はマジメに唱えているつもりである。
たとえば、労働問題について考えてみよう。
「過労死するほど働く自由」と「過労死するほど働かない自由」の両方を労働者に与えれば、それで十分だろうか?
私はそうは思わない。読者諸君も、一部のリバタリアンを除けば、「過労死するほど働く自由」を認めないはずだ。
「過労死するほど働く自由」なんていうものは、たとえそれを望む労働者がいるのだとしても、決して認めてはならない。政府が長時間労働を厳しく規制し、それを抑圧することが必要だ。
人が趣味や遊びをやりすぎて死ぬというのは愚行権の範囲で、一応は自由だと言えるかもしれない。しかし労働問題においては、そういう権利を適用するべきではない。
長時間労働は、それをやる自由とやらない自由の両方を認めてしまった場合、ブラックな労働環境の中で強制的にやらされて苦しむ人が続出するのが明らかである。
女性が労働するときのハイヒール・化粧についても、これと同様のことが言える。
明治時代の日本でも、あるいはどこかの後進国でもいいが、近代化の過程では必ず「上からの改革」がある。
「旧弊に従う自由も、旧弊に従わない自由も、どっちも認めましょう」という生半可な方法では、おそらく近代化を達成できない。国民はややもすると旧弊に従おうとするからだ。だから政府が強権的に指導し、旧弊を排除することで、国民はようやく新時代に適応できる。
たとえば女性差別がひどい国では、政府が女子教育の権利を提唱しても、おそらく多くの国民はそれに従おうとしない。
権利を与えるだけでは、都市部のごく一部の家庭が娘を学校に通わせるにとどまるだろう。貧困層や田舎にまで女子教育を普及させるには、政府が国民に権利を与えるだけでは不十分であって、その権利を行使することを国民に義務付けなければならない。
「おらが村では女子教育なんてやらない」とか、「うちの家庭は伝統的な女性にふさわしい育て方をしたい」とか、そういう保守的な反発をするのは男性だけではない。母親や祖母も「女はかくあるべし」と考えている。「女子を学校に行かせる余裕なんてない。家の手伝いをさせたい」と思っている毒親もいるだろう。
そして女子児童は、当人がまだ子供であるため、自分がどういう価値観に従うべきかを判断できずにいる。
ここにおいて「多様な価値観を尊重せよ」などという主張は有害だ。政府は旧弊にまみれた価値観をきっぱりと否定しなくてはならない。
当然ながら現代の日本で、後進国が近代化するときのような強権的なやり方は適さない。とはいえ、政府や会社のお偉いさんが主導しなければ何も改善しないというケースが多いのも事実だろう。
たとえば就活の会社説明会で服装自由と言われたら、参加者は皆がスーツを着てきたという笑い話がある。こういう未開社会のごとき状況を改善するためには、「必ず私服を着ろ。スーツを着るな」という強権的な命令が必要だ。
上から改革をおこなって、下々の者は全員一斉に従う。――今日でもこれが最も現実的な手段なのだ。
私はなにも女性からハイヒール・化粧の権利を奪おうというのではない。会社や官庁ではそれを禁止しろと言っているだけである。
前回に書いたとおり、ハイヒールも化粧も、やりたい人だけがプライベートな時間に楽しめばよい。(短髪はすぐに伸ばせないけれども、それならカツラをつけて好きなヘアスタイルにすればよい)
私がこのように主張するのは、リベラル思想の影響を受けたからだ。
もし本物の極左ファシストであれば、プライベートな時間にもどんどん介入し、ハイヒール・化粧を完全に禁止するであろう。しかし、私はそこまで厳しい統制には反対である。
近年、女性蔑視の"萌え絵"等が問題になっているのをよく見る。
そのときのリベラル側の主張は、「女性蔑視の表現は政治的に正しくない。プライベートでその表現を楽しむ自由を制限するつもりはないけれども、公共の場所ではちゃんとポリコレに配慮せよ」というものであった。
私はこれに賛成だ。そしてそうである以上、ハイヒール・化粧もまた、公共空間から追放せねばならないと思う。それらのものは非常に女性蔑視的であるからだ。
もっとも、ハイヒール・化粧は女性たちが好んで選択しているという場合が多いだろう。
「女性の主体性を尊重しましょう」――これがリベラルにとっての錦の御旗なのだ。
しかし、私は世のリベラルほど無邪気になってその御旗を掲げることはできない。前回に書いたことの繰り返しになるが、女性がハイヒールや化粧を好んで選択することは、被差別者がなぜか自分の受けている差別を肯定するという現象だからである。
被差別者が望むならば差別を受ける自由はあるのか? 被差別者であればその差別を正当化してよいか? これはきわめて難しい話である。ただ一つ言えるのは、ここにポリコレ的な問題意識を持たないリベラルは、よっぽど鈍感か、よっぽど不誠実ということだ。
(この意味では、リベラルを気取っているフェミニストなんかより、ラディカル・フェミニズムの方が先鋭的になって突っ走っている分だけ、かえって正しい認識を持っている。)
私は歴史に詳しくないため、このさきは与太話しか書けないが、昔の中国には纏足という習俗があった。
そしてこれはあまり知られていないことだが、お上が纏足を強制していたわけではない。とりわけ清朝は漢民族のこのバカらしい習俗を忌避し、それを禁止する傾向にあった。にも関わらず人々は好んで纏足を選択し、競うようにその美しさを賞賛していたという。
女真族(満州族)の建てた清朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、義和団の乱以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは第二次世界大戦後のこととなる。最終的に絶えた理由として、文化大革命で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。
当時、女性が嫁に行くと、嫁ぎ先では何よりもまず最初に、花嫁の足を調べた。大きな足、つまり纏足をしていない普通の足は、婚家の面目をつぶすものだ。姑は、花嫁衣装の裾をめくって、足を見る。足が十二、三センチ以上あったら、姑は裾を投げつけるようにして侮蔑をあらわし、大股で部屋から出て行ってしまう。婚礼に招かれた客は、その場にとり残された花嫁に意地の悪い視線を投げかけ、足を無遠慮に眺めて、聞こえよがしに侮蔑の言葉を口にする。母親のなかには、幼い娘の苦痛を見るにしのびなくて纏足を解いてしまう者もいる。だが、成長した娘は、嫁入り先で屈辱を味わい世間の非難をあびると、母親が心を鬼にしてくれなかったことを責めるのである。
この引用で注目するべきは、姑や母親たちが纏足を推進していたということだ。
そして子供のときは纏足を痛がっていた娘自身も、親に纏足してもらえてよかったと考えていることだ。
さらに言うと、纏足は、男性中心の社会から女性たちが悪弊を強制されていたという観点だけで語ることはできない。それは女性自身が願望するところの"オシャレ"でもあった。
「纏足は、女性の誇りだった」「女性は肉体で動くから、痛みに耐えれば、高貴でよりよい人間になる」「母から娘への 女性になるための教え」「痛みを通して、身体を使って、女性は成功する」「足をより小さく、洗練して優美にすることで、女性は大きな誇りを感じた」
http://coconutpalm.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/--10---0239.html
西洋で女性を苦しめたコルセットにしても、きっと纏足と同様、女性自身が望んでやりたがるオシャレという側面があったはずだ。
これはまさしく、現代日本の女性が「ハイヒール・化粧はめんどくさい。強制されるのは嫌だ」と考えていながら、一方ではそれをやりたい願望を持っていて、結局それが手放せなくなってしまい自家撞着するのと同じ心理だ。
ハイヒール・化粧をやるかどうかに関して、「女性の主体性を尊重しましょう」とか「強制にならないかぎり両方自由です」ということを言っているリベラルは、あまりに鈍感かあまりに不誠実か、そのどちらかのために、この観点を見落としている。
無論、健康面やそれにかかる手間を考えれば、纏足やコルセットよりもハイヒール・化粧は随分とマシである。ただ、それは差別が過酷なものから軽いものになったというだけだ。進歩はしているけれども、まだ差別を克服できていない。
だから我々はさらなる進歩のため、おしゃれをしたいという女性の願望を抑圧しなければならない。ハイヒール・化粧を好んで選んでしまう女性性(女性らしさ)は、政治的に正しくないのである。逆にそれを憎悪するミソジニーこそが政治的に正しいのだ。女がオシャレをやめることで初めて男女平等を達成できると私が主張するのは、この洞察に基づくものである。
なお、議論はここにおいて、私が冒頭に書いた長時間労働の問題につなげることができる。「過労死するほど働く自由」を是認しようとする資本家・知識人は、プロレタリアの敵である。我々はこれを打倒しなくてはならない。
この理論を適用すれば、女がオシャレをする自由を是認しているリベラルと一部のフェミニストこそ、女性差別の温存を図っている連中だと言えるだろう。
twitterをなにげなく読んでいたら、たまたま的確な言葉を見つけた。
リベラリズムの本質的価値-自由、平等など-は、どこにあるのか? 逆説めくが、リベラリズム自体はその本質的価値を原理主義の激しい攻撃から救えるほど強くはない。 リベラリズムがその重要な遺産を生き延びさせるためには、ラディカルな左派の同志愛による助けが必要となるだろう。
「スラヴォイ・ジジェクbot @SlavojZizek1949」より
https://twitter.com/SlavojZizek1949/status/864981669509332995
前回のエントリは、穏健なリベラリストから散々顰蹙を浴びた。それは投稿前に分かっていたことだ。
自由恋愛とLGBTとフェミニズムと少子化はそれぞれ結構な関連性を持っていると思うが、
それら4つすべてのカウンターサイドに位置する最も分かりやすい概念がPC的に褒められない封建的家族主義なのであまり大っぴらに語られない、というのが現状だと思う。
日本で経験的に少子化を避ける為の方策として制度的コストを払う対象として選ばれたのがイエ制度なら、それを廃するためにはそれ以上の知恵が必要なのだろう。
しかし、いったん蓋が開いてしまった後の社会で、まるっきり元に戻すことなどできるわけもない。
なら、せめて過去のあやまちを社会が総括するぐらいのことはしないと、新たな道の模索もできるはずがないのではないか。(LGBTに関しては過度のタブー視が近代以降のもののようなので現状が変とも思わないが)
ブコメに答えます。「なんでリベラルって大麻が好きなの?」短く言うと幸福追求の権利、愚行権行使の問題だから。
他人に迷惑をかけない限り、個人の自由や人権は制限されるべきではないと考えます。表現規制問題でもよく出てくる考え方ですね。
他者への加害行為があった場合、その加害行為自体を罰すればいいのであって、大麻の利用自体を犯罪として取り締まるのは雑すぎます。
ポケモンGOや、老人の自動車運転を犯罪として取り締まれば、問題は解決するのでしょうか?
なんらかの規制やルールが必要である、というのと犯罪としてそれ自体を社会から追放しよう、というのとでは距離があります。
大麻そのものがもたらす害と、日本の大麻取締法の量刑は現状、釣り合っていないのです。
「コスパ悪い人を殺したい」じゃなくて「オレの足を引っ張るな!」じゃないかな。
「オレの世界に足手まといは要らない≒オレのリソースを無駄遣いするな」って言う、ケチの発想。
「オレの払った税金を無駄に使いやがって」みたいな発想の延長に有る気がしてる。
(生存権に努力義務を課すと、どういう社会になるか深く考えてないとか、そのレベルの話でもなく)
だから、その手の人が弱ったときにサポートを受けるのは、今まで払ってきた税金等を考えればアタリマエで、
その手の人は「自分の払ったカネで、(その人から見て)自業自得な連中に、カネを渡すのは無駄遣いだ」と思ってる。
ボケちゃった老人を生かしておくのは双方のためにならないとか、
そういうのコスパって言うよりは、「オレのカネを無駄に使いやがって」って発想からきてると思うんだよね。
(正確に言えば、そういう「オレのリソースを無駄に使うな」というケチさが、コスパ発想に繋がる)
これって、無い袖は振れないから選択すべきとか、底辺層を養ったほうが治安維持に有効とか、そういうのとは違うと思うんだよね。
賢い人も愚かな人も、弱い人も強い人も、担税力のある人もない人も、全員で集まって集団として生きていこうっていう発想からの逸脱だと思う。
まあ、個人主義の行き着く先と言うか。
国家が国家であるために、国民に対して社会権(生存権)を責任として明記しているけど、それはオレの知ったこっちゃないっていうそう言うケチの発想。
払える人が払うべきって、担税力の話とかすると真っ赤になったりするから、そういう税金の話で相手の立ち位置測ると判りやすいんじゃないかな。
どうしたらそのことに気がつけるのだろう。
自然科学の枠組みは柔軟なので、ある仮説や理論が行き詰まることはあっても、新しいより柔軟な仮説や理論で置き換わるだけだ。
また、古い理論が現実生活では十分に精度の高い近似解として扱われたりもする。ニュートンの理論とかね。(それでもルイセンコみたいのが出てきたりはするが、ひとまず措く)
その一方、過去の例をみてもまるまる一つの人文科学の領域が実はゴミだったってのはいくつもある。ある人文科学が行き詰まるとき、そこにはどのような兆候が顕れるのだろうか。あるいはどのようにして行き詰まるのだろうか。
その分野の専門家にまちがってなっちゃった人は、出した本の売れ行きもあるし大学のポストをなくされても困るし、行き詰まっていても気づかないふりをしてやり過ごすんだろうし、死ねというわけにもいかないから、まあしょうがない。
けど、若者がそういうすでに行き詰まった学問を大学の講義だけならともかく、そういうのを専門とするゼミに入っちゃったり、ましてやまちがってこれからそういう専門家になっちゃったりしたら、社会の損失じゃない。まあ、大学生だって大人なんだから、食い扶持(不動産収入とか親の遺産とか)も用意できてないのにそういう非生産的な学問に身を投じて青春をすりつぶすのだって愚行権の一部だっていう見方もできるのはわかるんだけどさ。
愚行権の定義だとか、公共の福祉に抵触しない程度に個人の欲望は優先されるとか、自然状態の人間が社会と契約することで社会が成立するだとか
そういう理由でそれに意見することはできるけど、俺が描いていたのは、そういう文脈じゃないんだよ
出発点は「碇シンジがどうしてアスカの首を絞めたのか」「碇シンジの結末はあれで良かったのか?」と言う所
「Air/まごころを、君に(以下、旧劇)」での2回の首絞めはどのような経緯だったのかと言うのが不思議だった
そして、どこか自分自身でもその行動に共感する所があったから、色々と調べて、他のエントリでも記述していた
結論から言えば、「碇シンジの首絞め行動には共感する部分があるが、それは余りにも典型化され過ぎていて、それが故に劇的で。劇的であるがゆえに、(アニメだからというのがわかっていつつも)その描写に”気持ち悪さ”を覚える人もいると言う気持ちが分かる」と言う感触だった
人間と言う存在を1列にした時に、その端っこの部分にいるような感触がした
もちろん、アニメというのは個性も能力も可愛さも格好よさも病理も苦悩も、極端化するものだから仕方ないし当たり前だ
人は典型化されるから、分かりやすく特徴が表現される劇的な描写っだからこそ共感する
だからこそ、本来であれば碇シンジの個人の人生で賄われるべき事柄に、アニメ的描写の必要性で以って全人類を巻き込んだ所に気持ち悪さが感じるという意見にも共感すべき所があるという感触だ
さて、細かい経緯を描き並べる
適当に拾い読みしてくれれば良い
碇シンジは父親に捨てられたという体験がもとになり、いわゆるヤマアラシのジレンマになっている状態だ
「自分には価値がないから捨てられる」「捨てられるのは嫌だ、だから最初から関わらない」「人と関わりたいが、捨てられるならこちらから捨てる」という心情である
精神分析で言うなら、自体愛・自己愛の所で止まり、対象愛、つまり他者を他者として認め愛そうとはできない部分だ
(つまり、自分を愛していて、安定しているから他者を愛することで自分も満ちるようにできる、共生的な状態にないと言う事)
描写としては「碇シンジが他者の存在を必要とし、全人類との一体化を否定してアスカと2人きりになった」という所だろう
すべてを一つにしてしまう混沌を母的な存在とするなら、自己と他者を切り分けて境界線を引くのは父的な存在である
父的側面の足りない碇シンジが自分とい他者を切り分けられたのは、極端な自己愛から脱却しつつあることを意味する
(なお、旧劇の該当シーンで地球が細胞分裂のようになるのは、人が”切り分ける”事を通して分離個体化する事のメタファーとして効果的だったという感想を自分は持っている)
ATフィールドの訳語が絶対恐怖領域である事を待たずとも、当たり前のことである
人は他人を受け入れたりもするが、受け入れなかったりもすると言う話に過ぎない
しかし、碇シンジはそうした絶対恐怖領域に耐えられるのだろうか?
それは、「もしアスカが起きたらまた自分は拒絶される、だから拒絶=殺害したい。でも世界にはアスカしかいない、拒絶したら、もう2度と他者と触れ合えない。でも、でも、でも」と葛藤している所を表している
だから、アスカが「大丈夫、怯えなくてもいいよ」と頬を撫でると力が緩み、涙を流した
ここでアスカが言った「気持ち悪い」の意味に関しては、本筋とは関係ない上にまだ把握できていないので割愛する
さて、旧劇における首絞めの理由に共感できる部分があると思った自分は、その過程(人類補完)と結末(アスカへの首絞め)が碇シンジにとって救いとなっているのか、新劇場版(以下、新劇)が作られたと言う事は、同じ結論にはならないのではないかと思った
(例として、新劇・破における碇シンジが自分個人の理由から綾波を救出し、周りの意見を聞かなかった結果、Qにて自分の言葉が届かなくなってしまったなど、旧劇とはまた違う結末になりそうという所だったり)
そして、もし結論が違うのであれば、旧劇の過程や結論は間違いだったのかと思った
シンジのデストルドーはどのように救われれば良いのか、分からなくなった
そこで、エヴァに関しての考察は停止して、救いとは何かについて別の視点から記述した
結論から言えば、人は完璧な世界(他者が居らず、自己愛だけが満たされ、幼児的万能感の世界で神になる、自分が傷付かない世界)を目指そうとすれば死ぬしか無くなり、生きることは苦しんで研鑽したり、自己に閉じこもり堕落する事を繰り返し葛藤しながら何とかやっていくことに過ぎないということだ
坂口安吾が「生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と言いつつも「だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう」と言った事と同じである
生きると言うことは決して楽なことではなく、むしろ葛藤を抱え、時に逃避したり自責感に自殺を選びたくなっても、ともかく自分なりの現実を作り生き続ける事に他ならない
そこまで考え、旧劇における結論は他者の存在がまだまだ希薄だが救いがあると思った
碇シンジは他者を認めつつあり、自分の葛藤を自分なりに処理していくことができるようになるだおる
碇シンジは、生きるか死ぬかの所で他の他者すべてを巻き込んでしまった
あの世界では、もう生きようと思っても生きられない
さらに言えば、その過程で碇シンジと同じように葛藤を抱えて生きようとした全世界の人間の救いを奪ってしまった
そうした自分勝手な行動によって他者の救いを奪ってしまった事、そしてやっと他者を認めつつあるのに、アスカ以外の人間を復活できなかった事から生じる生きられなさ
そういう結論から、碇シンジの内面が何の関係もない他者の人生や世界の命運と”繋がってしまう”というエヴァンゲリオンに「だから、エヴァンゲリオンを見た時の気持ち悪さはそこにあるんだと思う」という感触があることに否定が出来ない
いわゆるセカイ系の気持ち悪さと言い換えても良い
現実世界において、どれだけ葛藤を抱えても世界や他者が壊れないのと別に
セカイ系においてはそうした葛藤と世界・他者が結ぶつきやすく、すぐに取り返しのない事に合ってしまう
いまの愚行権の話題ってさ
國府田マリ子のすばらしさを語って「國府田マリ子を称えるBeeメイツになろう!」ってシメて
「Beeメイツはそうじゃねえだろ」って総ツッコミ食らってるように見えるんだよね。
分かり難いか。
まずね、id:netcraftさんは謝った方が良い。
「愚行権」という単語で定義される概念は、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論(1859年)」にあって、
それなりに一般的な学術用語として、その歴史的な経緯を踏まえて定義付けがなされている。
だから、いかにキャッチーであろうとも、自分の表現したいことを「愚行権」とラベリングした時点で、
「オマエの言う愚行権は、ミルの定義とは違うし無知乙」と言われるのがオチで、学術的にも混乱を招くので良くない。
原則の第一は、個々人は、その行動が自分自身以外のだれの利害とも関わらないかぎり、自分の行動について社会にたいし責任がないということです。他の人たちが自分の利益のためには必要と考えてなす、忠告、指図、説得、忌避は、社会が彼の行為にたいする嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段なのです。第二には、他人の利害を侵害するような行為については、個人に責任があり、もし社会がその防衛のためには社会的処罰や法的処罰が必要だという見解をもつなら、そのどちらかの処罰に服すだろうということです。
他人が、忠告、指図、説得、忌避をするのは、嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段としてる。
(ミルは結構過激で、飲酒が原因での暴行前科があれば、飲酒に対しての予防的な制限は適法とまで書いてる)
だから、netcraftさんが主張したいコトのために「愚行権」という単語を使うのは、全くもって間違っている。
netcraftさんが主張したいことって、ダイバーシティ・マネジメントの概念に近いことなんじゃないの?
Twitterがバカ発見器と言われるように、私達はソーシャルメディアを通じて毎日全国や全世界の馬鹿を発見しては、イナゴのように食い散らかして消費する。
このエントリで言わんとしていることは、「愚かなことを表現しても、他人から、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされないこと」じゃないの?
このままでは混乱を招くので、ここでは仮に「愚表権」とするな。
この場合、1番目まではアグリーな人間であっても、2番目はノーセンキューだったりするだろう。
そりゃそうだろう。今だって認められてる。
他人に害を及ぼさない限り、例え「他人から見て」愚かでも、現在だって自由に行える。
(その人が子供だったり、錯乱していたり、興奮したり上の空で、よく思案する能力が十分使えないというのでなければ)危険の警告を受ければ十分で、危険に身を曝すことを無理矢理防ぐ必要はないと思います。
ミルは少なくともそう言っているし、現状でも限りなくそれに近いことになっている。
ただ、ミルは自己責任で、自分が犠牲になっても良しとせよと言っているけど、実際には警察や消防等のリソース(つまり税金)が投入されてる。
だから、「自分自身以外のだれの利害とも関わらない」については、ある程度予想できることについては予防的に禁止されてる。
この線引きに文句を言いたいわけじゃなかろう。
netcraftさんが主張したいことってこっちじゃないの?
たぶん一番近い表現は、the right to diversityだけど、より広い概念だと思うんだよ。
肌の色、国籍、宗教、性別、趣味で差別されるべきでない、許容すべきだって言うのは、その通りで、ダイバーシティーなんて単語が使われてる。
例えば、「私はキリスト教徒です」というだけで、会社での昇進が遅れたり排除されるのは、正義ではない、と今の社会はされている。
「オマエはアイヌであることを止めないんだから、自己責任の基、ネットイナゴや政治家からのヘイトも受容すべきだ」とはならないだろう?
(それがアグリーな社会もあり得るが、現代日本ではそれは政治的には正しくない態度とされている)
この、「趣味」の部分に、極端な性癖であるとか、「刑事罰に至らないような行為」を入れて欲しいって事じゃないのかい?
俺が愚行権の話を読んで真っ先に思い出したのは、NHKの「ドキュメント72時間、トランクルーム もうひとつの秘密の部屋」なんだよね。
取材されていた人達は、それが他人には理解されないと痛々しいほどに理解していた。ただ、そっとしておいて欲しいと願いながら。
趣味嗜好で、バレたら後ろ指をさされながら生きていかなきゃいけないって、やっぱり間違ってると思うんだよね。
今までは、勝ち取ってこないと権利は得られなかった。
レインボーフラッグ振って、主張して主張してやっと、「居て良い」レベル。
アナと雪の女王だって、どうみてもカミングアウト後の家族との和解の物語だろ。
他人から、誰に迷惑をかけるわけでもない趣味に対して、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされる。
ある程度以上定義付けがなされた単語を使うときは、注意しよう。
「刑事罰に至らないような行為」を許容して欲しいという主張は判る。が、それを愚行権とは呼ばない。
ネット上での愚かな行為を、ムスリムを見つけては過激なメンション飛ばさないのと同じで、尊重しようっていう主張は判る。
netcraftさんの主張とは違うが、放置権みたいな「叩くのではなく、そっ閉じ」される権利は、確立されて欲しいと思う。
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John Stuart Mill : On Liberty (4th ed.1869 [Originally published in 1859])の日本語訳である
自由について、ジョン・スチュアート・ミル:著、永江良一:訳 http://page.freett.com/rionag/mill_js/lib.html より行った
説明するのに
東洋は「己の欲せざる所は、人に施す勿れ」(論語)というような消極的関与が理想なのに対し、
西洋は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(聖書)ような積極的関与が理想ということになっている
というのは、随分前からよく聞いたが、
西洋にもゴッフマンのいうような「儀礼的無関心」とかJ.S.ミルの「愚行権」という考察もあるし、
東洋にも、というかまさに論語自体にも「義を見てせざるは勇なきなり」というのもあるから、
そんな単純な話じゃないと思う。
いま学食で、いいオジサマたちが気持ちよさそうにものすごく主語の大きい話をしてて、それで、その話とは直接関係ないけど、上のようなことを考えた。
※まあ、内容的には似たような感じ。世の中を二分論で説明できれば苦労しないし、あなたの研究分野だってそんな単純なはずはないのだが、と思う。
なんかこのことを誰も指摘しないのが気になったから書く。
そしてこの前提、そして言うまでもなく「他者危害原則」が現代のスタンダードだからである。
他者危害原則は、普通は愚行権(「他人に迷惑かけなければ何やってもいい」)という話だが、裏を返せば「他人に迷惑かけることはしてはならない」ということでもある。そして、出産とは根源的な他者危害行為である。
この話のキモはここだよね。
不衛生にしてるせいで強烈な体臭を放つ人がそのまま電車に乗ったら迷惑だろうが、一方で人間ならある程度の体臭があるのは仕方がないだろう。
迷惑とそうじゃないことの境目ってなんなのか?
あるいは境目なんてそもそも無いのか?
迷惑ってなんなのか?
そして子作りすることはそれに当てはまるのか?
厚生労働省の「子宮頸ガンワクチン接種勧奨中止」で、はてな村が大混乱に陥っている。
はてな村は、したり顔の接種推進論者が多く、反対論者を「陰謀論に毒された、カワイソウな人」とトンデモ扱いしていた。
そのため、本来なら行うべき科学的な安全性の論証を、思考停止して怠っていた側面は否めない。
「ビルゲイツの陰謀だ」「不妊ワクチンだ」という陰謀論には辟易しているが、
でも
「なんで、あそこまで痛がるワクチンの接種を半強制するのか、
ワクチン接種がイヤな女子の『接種をしない愚行権』は、保証してあげればいいのに」とは思っていた。
その意味では、「接種しない自由」を保証した今回の決定は、基本的に歓迎。
「接種した場合の死亡リスク(副反応リスク)と、接種しない場合の死亡リスクを天秤にかけ、
接種した場合のリスクが大⇒接種見合わせ」が正しい、とされてきた。
喩え話で言えば、
「接種することで、女性100万人のうち1,000人が副反応で死亡したとしても、
接種しないことで、1,000人以上が死亡するなら、接種した方が望ましい」という天秤になる。
しかし、こういう単純なロジックは、「接種時と発病時のタイミングのズレ」という、
子宮頸ガンワクチン特有の問題を、一切無視した議論ではないか?
実際、子宮頸ガンを実際に発病するのは、接種する年代(10代)でも、いや20代でもなく、
仮に、「接種することで、10代で100万人中1,000人が死亡する」、
「接種しないことで、50代に100万人中1,000人が死亡する」という場合
(話を単純化させている)、それは「天秤にかけるとイコール」と判断していいのか?
「なんで、リスクを先取りしなきゃいけないの!!」と感じるだろう。
まあ、「100万人中、どっちも1000人」だと、
では「接種することで、10代で100万人中1,000人が死亡する」、
「接種しないことで、50代で100万人中500人が死亡する」という場合は、どうなのか?
この場合、「死亡率が半減する」という「接種の便益」がある。
その見返りに「女性の華のエイジ、10代20代30代を棒に振る」ということになる。
「死亡率が半減しているんだから、便益がある、接種すべきだ」という意見もあるだろうが、
女子の間では「そんな先の死亡云々なんかより、目の前の青春が奪われるのがイヤだ」と拒否する女子の方が多いのでは?
では、「接種することで、将来の死亡率が100分の1になる」場合は?
こうなると、天秤的には「便益が強いから、接種させよう」となるだろうが、
「10代20代30代を謳歌したい、40代以降のオバサン人生は『余生』だから、
そんなのいっさい気にしない」という
「10~30代の女の幸せに人生価値の重きを置いている」女子に言わせれば、
「50代で死んでも別に構わない、それより目の前の幸せが逃げるのがイヤ」となる。
つまり、「10代20代30代に、女の幸せを追求する女子」にとっては、
接種便益倍率を相当に高倍率にさせないと、接種を魅力に感じなくなる。
一方、「自分はそんなに女の幸せを追求しない」という「割り切り女子」の場合は、
接種便益倍率が低倍率であっても、接種に魅力を感じる。
ということで、「接種主体が、どういう価値観を抱いているか?」で、
「接種便益が変わってしまう」、実はここが子宮頸ガンワクチン接種の「難しさ」ではないか?
「たくさん恋をしたい、早く結婚したい、40代以降は無視」というスイーツ女子にとっては、
接種便益100倍でも「接種ヤダ」となるし、
「別に恋に関心ない、20代30代も淡白に生きて、そのまま40代50代も淡白に生きる」という
草食女子にとっては、接種便益10倍でも、「接種したい」となる。
これは、裏返して言えば、
「女の幸せは恋をすること、結婚すること」というジェンダー価値観を重視する人は
「接種メリット乏しい」となるし、
「女の幸せは恋愛結婚、という押し付けはオカシイ」というアンチジェンダー価値観(女性解放論者)から見たら
「接種メリットが強い」となる。
子供を作るのは鬼畜の所業。それか馬鹿。http://anond.hatelabo.jp/20130613154103
はじめに言っておくと全面的に同意する。
ずっと自分も考えてきたことだった。
そのうえで、この「生まれない方がマシ」というこの主張は時代性というか、現代を体現しているように感じる。
なお、他の「生まれない方がマシ」言説として、学術レベルではこんなのがある。
http://www.amazon.co.jp/Better-Never-Have-Been-Existence/dp/0199549265
この人は比較的最近知ったのだが、2ちゃんねるでもスレが建てられるなど、徐々に認知度は上がってきているらしい。
あとシオランは有名だよね。
話を戻すと、はっきり言って,少しも異常な議論だとは思えない。
快を善とし苦を悪とする功利主義的前提を徹底すれば不可避的に行き着く結論だからである。
そしてこの前提、そして言うまでもなく「他者危害原則」が現代のスタンダードだからである。
他者危害原則は、普通は愚行権(「他人に迷惑かけなければ何やってもいい」)という話だが、裏を返せば「他人に迷惑かけることはしてはならない」ということでもある。そして、出産とは根源的な他者危害行為である。
すでにその一部を書いたところだが、根本的には「ネオリベ」。これに尽きる。
話は簡単である。
現代とは、社会の改良(福祉的な方向での)に対する希望がまったく失われた時代である。
というか“社会は存在しない”ので、そもそも改良することも、異議申立てをすることもできない。
こうして一切が「自己責任」となるなか、昨今の科学的知見は、遺伝子・幼少期の環境といった本人にどうしようもないレベルで「人生は運ゲー」というミもフタもない事実を、私たちに突きつけてくれる。つまり「自己責任」とは自由意志がどうのといった話ではないのである。
しかし、唯一これだけは私の責任ではないと主張できることがある。
もちろん、生まれたことである。
まずはこれがひとつ。
(なお、これに対し、「現に生きていることをもって出生の事後承諾とみなす」という主張が考えられる。裏を返せば「生まれたくなかったんなら、死ねば?」というわけである。しかし、自らの意志によって生まれたのでない者が、自らの意志によって死なねばならないとは甚だ不条理である。というか、この場合、死に方については論議できない。つまりその人が「大量殺人を犯して死刑になる」という死に方を選んでも文句は言えない。実際、この種の通り魔たちは<生まれない>という行為?に及んだのだと私は考えている。私のいう<生まれない>とは、あらゆる自発性・主体性・能動性の拒否であり、したがってその者は「生かされる」か「殺される」しかない)。
これはさまざまな要因が絡んでいるが、ぱっと思いついたものを挙げるとこうなる。
①個人化
③生活の具体性の消滅
最後のものだけ説明すると、人類は生まれてこの方、空間・時間を縮めることに専念してきたといえる。
少しでも速い移動手段を求めた。空間を均質化し、通信技術を発達させ、どこにいても同じように振る舞えるようになった。
あらゆる場所は「ここ」になり、あらゆる時は「いま」になった。
「いま、ここ」とやたら耳にするように、実のところ時と場所とが極限までに抽象化されてしまった。
ところがこの「私」とは主観的には唯一存在だが、客観的には「いま」「ここ」と同じくらい抽象的なものである。
つまり「私」にも何ら内実は伴わない。
自我の内実を埋めてくれる具体的な生活空間や経験は、多くの現代人には得がたいものになった。
やがて人々は「私」にウンザリし始めた。
思えば、多くの娯楽作品が「私の抹消」を描いてきたのは、偶然だっただろうか?
このテーマは近年になって伊藤計劃『ハーモニー』が完成させたのだが……私自身の話をすると、自分のなかの「モヤモヤした気持ち」を「生むという鬼畜外道の所業の発見」にまで至らせてくれたのは、ほかならぬこの小説であった。
打つべきだと思う。
って言われてオシマイなんじゃね?
社会全体の感染リスクの低減というのは接種を正当化するのに理屈として弱いという話をするなら、
そもそも「痛いのがイヤだからしない」というのが接種拒否の理屈として弱い。
同じ理屈で全ての医療行為が拒否できることになっちゃうじゃん。
百歩譲って愚行権というより自己決定権という路線で認めてもらおうにもあまりに弱すぎる。
麻酔打たれて接種させられそう。
「激痛を理由として、失神等のトラブルを起こした」と報じられている。
この事象自体は、
「ワクチンが不良だったから、失神等のトラブルが発生した」のではなく、
自分は統一教会のように「このワクチンは日本民族絶滅の陰謀だ」という
「激痛を伴うワクチン接種を、義務化するのは、女子が可哀相じゃないか?」と
同情してしまう。
素人考えでは、
「経口ワクチンを開発できないのか?」とか
「せめて筋肉注射じゃなく、痛みの少ない接種法を工夫できないのか?」とか
のであれば、
「愚行権としての、子宮頸がんワクチン拒否権を、認めてあげるべき」じゃないか?
「少子」を書いた酒井順子が、
「子供を作りたくない理由の隠れた主因は、陣痛が痛すぎるからじゃないか?」
と看破していたが、同様に
「子宮頸がんワクチンの接種は痛すぎるから、受けたくない」という
「激痛を伴う接種」の説明理由として、「社会全体の子宮頸がん蔓延リスクを低減したいから」
というのは、「激痛接種を正当化するには、いささか理由が弱い」のでは?
接種を嫌がる女子生徒に対し、
「社会全体の子宮頸がん蔓延リスクを低減したいから、激痛に耐えろ」と説得しようとしても、
とか
「自分は一生男と交わらないから、大丈夫だ」と反論されたら、どう逆反論するのか?
子宮頸がん予防を
「自分の感染リスクの予防のため」という説得が主因なのであれば、
「女子中生は自己決定を下すには早すぎる、女子中生の意思を無視して
強制接種して、激痛に耐えるべきだ」という考えは、いささかパターナリズムじゃないか?
「子宮頸がんワクチン接種って、死ぬほど痛いんだって~」という情報が駆け巡っているのでは?
そういう情報が出回れば出回るほど、接種時の恐怖感が増大して、失神事故が多発して・・・の悪循環である。
実際接種現場では、「ネットで痛い、と聞いているから、接種受けたくない」の類の
接種拒否が多発しているのでは?
早急に「痛くない接種法」の開発が必要なんじゃないか、と思う。
(接種率の向上に繋がるため)
・お尻に「wwwww」がつくだけ
・つく場所はいつも語尾
・変な活用形もない
・注意して追わないと文の意味が変わる、なんてこともない
・なによりアルファベットはひらがなや漢字とはパッと見でも形が違うので
wがいくつあったって割と簡単に目と脳でフィルタ出来る。
一方、
何の罪も無いのに引き合いに出して申し訳ないが
tikani_nemuru_Mの人が書くにゃーにゃー文の方がよっぽど読みにくいでしょ。
・お尻に「ですにゃ。」がつくだけ、ではない。
・「すまにゃーけど」などのように文の途中でも入れられるとこにはほぼ全てに無理して挿入
・「にゃんが。」「にゃ。」「にゃー。」「にゃーけど、」「にゃーのだよ。」など無駄に活用多数
・大雑把に言っても、
ただの飾りの「にゃー」の場合と、「無い」を「にゃー」にしている場合とがあるので
注意して読まないと文意が正反対になったりする。
・なにより、「wwwwww」と違い「にゃ」は短いひらがななので、日本語の文から目・脳フィルタで除くことが難しい。
あと個人的に一番イラつくのは
この無意味にそろえたにゃーにゃーの中で
だから、愚行を批判するのは勝手にやってくれ、といってるだろ?
もちろん忠告も説き伏せも説得も懇願も好きにすればいいだろが。
誰かが愚行批判をやめるべきだとか言ったかい?(3)
とかいうふうに、
「馬鹿で何がワリイ」と言うほかにゃーんだが。
権力に対して「バカでいる権利」を主張できにゃーんだったら、愚行権なんて実際に何の意味もにゃーだろうが。
mojimojiのロジックでは、最終的に「真理」に従わなければならなくなるだろ。愚行権を形骸化させてるのはチミのほうさ。
いや、自分でも面倒だったり忘れたり、
力入れて言いたい部分で邪魔になってやめたりしてるぐらいなら、
もう完全にやめればいいじゃないかにゃーにゃーは。
ほんとに何のためにやってるんだ?
キャラ付けとしても半端で意味不明だし、シンプルながら凄く文の邪魔だし、
文から読み取る限り、書いてる本人にもあれがそれなりに負担であり続けてる。何年やっても慣れないぐらいには。
彼の読者に、あのにゃーにゃーから良い効果を得てる人は居るんだろうか。
(それなりに彼のダイアリーに親しい人であれば「あれが味」ぐらいのお世辞は言うだろうがそれは作法だ)
もはや文のセンスの悪さを強調するみたいな効果しか奏してない。
こりん星みたいな、
もはや引っ込みがつかなくなってるだけの変な設定・キャラ立てであれば
「せーの」でやめちゃうというのはどうなんだろうか。
いや、だから、従わなくても良いんだよ?
愚行権を行使するのは自由さ。
勝手にやれば良い。
結果として、単位がなくなったり、実刑が履歴に残ったり、反則金や慰謝料払う羽目になったりするけれど、好きにする事はできる。